脇役本

増補Web版

くらがり二十年 徳川夢声


徳川夢声『くらがり二十年』著者の近影(アオイ書房、1934年3月)


 2019(令和元)年12月13日、映画『カツベン!』(2019「カツベン!」製作委員会)が公開される。周防正行監督、5年ぶりの新作である。
 サイレント映画全盛のころ、ある町の映画館が『カツベン!』の舞台となる。活動弁士を夢みる染谷俊太郎(成田凌)を主人公に、同僚の活動弁士(高良健吾、永瀬正敏、森田甘路)、初恋の新人女優(黒島結菜)、映画館主夫妻(竹中直人、渡辺えり)、楽士(徳井優、田口浩正、正名僕蔵)、映写技師(成河)、ライバル館の館主と娘(小日向文世、井上真央)、泥棒(音尾琢真)、映画好きの刑事(竹野内豊)らがストーリーを盛り上げる。


『カツベン!』(2019「カツベン!」製作委員会、2019年)

 この映画愛に満ち溢れた青春ドタバタ活劇を、試写で拝見した。本作には筆者自身、思いいれが深い。理由はふたつ。ひとつは、現役の活動弁士で旧知の片岡一郎、坂本頼光のご両氏が、活動弁士指導として関わっていること。
 もうひとつは、敬愛してやまない徳川夢声(とくがわ・むせい/1894~1971)らしき弁士が登場すること。舞台となる「靑木館」は、夢声がいた「赤坂葵館」に由来する。その靑木館の弁士で、俊太郎に影響を与える山岡秋聲(永瀬)は、夢声をモデルに創作された。
 夢声が亡くなって、今年で48年になる。“話術の神様”と呼ばれ、劇場、寄席、映画、ラジオ、テレビ、レコード、新聞、雑誌、書籍など各方面で活躍。職業“雑”を自称した、マルチタレントの先駆けである。大正の初めから昭和40年代まで、その多彩なキャリアの始まりが活動弁士の仕事だった。映画がサイレントからトーキーになってからは、俳優として多くの作品に出演する。映画俳優・徳川夢声を評価する人は、いまも少なくない。
 活動弁士が登場する劇映画は、とくにめずらしくない。ただ、主役に据えた劇映画としては、『カツベン!』のほかには、『伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語』(松竹京都、1957年)しか思い浮かばない。『活弁物語』で夢声は、主人公の千葉淳太郎(伴淳三郎)が師とあおぐ名弁士、谷口緑風に扮した。バイプレーヤーとして、ちょくちょく映画に出ていた夢声にとって、ひさしぶりの準主役であった。


『伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語』プレスシート(松竹京都、1957年)

 『カツベン!』についての雑感は、ご縁があって『キネマ旬報』2019年12月下旬号(キネマ旬報社)に書かせていただいた。そこでも触れたけれど、感激したシーンがある。俊太郎が子どものころから憧れる山岡が、靑木館で『椿姫』を説明するところである(ちなみに劇中の『椿姫』は、アラ・ナジモヴァとルドルフ・ヴァレンチノを草刈民代と城田優で再現した新撮)。脚本と監督補をつとめた片島章三のシナリオから引用する。

44 同・場内(夜)
 袖で控える俊太郎の元に山岡が来る。
山岡「明かりを消せ」
俊太郎「前説は無しでええんですか?」
山岡「前説だ? 馬鹿な。消せ!」
 明かりが消え山岡が弁士台につくと、すぐに『椿姫』の上映が始まる。
× × ×
 最小限の言葉をボソボソと語る山岡の説明に、唖然とする俊太郎。
客A「おい弁士! 聞こえへんぞ!」
山岡「黙って聞け! 画を見てればわかる」
客B「飲み過ぎで口が回らんのと違うか」
客C「喋らんでもええんや。弁士っちゅうのは楽な商売やな」
 飛んで来るヤジに動じる事なく淡々と語る山岡。
(片島章三「カツベン!」『シナリオ』2020年1月号、日本シナリオ作家協会)



山岡秋聲(永瀬正敏)。『カツベン!』(2019「カツベン!」製作委員会、2019年)

 山岡の説明に、お客さんは怒り出し、俊太郎は唖然と山岡を見つめている。のちに映画監督となる二川文太郎(池松壮亮)だけが、山岡に拍手を惜しまない。
 夢声も弁士時代に、『椿姫』(1921年)を語っている。このシーンの永瀬正敏の語りがすばらしかった。ずっと『椿姫』を説明してくれたらいいのに、とさえ思った。山岡の役づくりについて、永瀬はこう語っている。

 僕が演じた山岡については、最初に監督から「活動写真の過渡期をいちばん敏感に感じ取っている弁士です」とヒントをいただいて。モデルとなった徳川夢声さんが、そういう先見の明を持っていた方らしいので、いち早く未来を察知しながら、自分たちの限界をわかった上で生活しているというか。いろんな思いで押しつぶされそうになっている。それはいつも胸に持っていましたね。
(巻頭特集「古き良き 新しき良き 二ッポンの映画『カツベン!』/対談・高良健吾×永瀬正敏」『キネマ旬報』2019年12月下旬号、キネマ旬報社)

 たしかに夢声は、先見の明を持っていた。赤坂葵館の主任弁士だったとき、それまで映画説明の常識だった「前説」をやめている。そのエピソードが、シーン44のモデルとなった。前説とは、本篇の上映前に登壇した弁士が、お客さんに作品の見どころを解説する口上である。
 夢声が前説をやめた理由は、ガニマタにコンプレックスをもち、あかるみに自分の姿をさらすのが嫌だったからだ。映画説明の視点から、前説はいらないと判断した部分もある。夢声はこうふりかえる。

 ――まてよ。
 と私は考へた。前週の『シビリゼーション』は、第一巻が全部字幕で、前説の代り、――イキナリ客席を暗くして、カーテンにメインタイトルが映ると共に、スクリンを出して行つた 、――そしてその演出方法が、馬鹿に氣が利いて好評だつた。
 ――よし。今週もその傳をやつて見ろ!
 と云ふ譯で、イキナリ暗くして、パッと映しを用ひて見た。大變調子がよろしい。
 次の週は、何うしようかと躊躇した。連續物だけに困つた。前週の畧筋を前説しなければ、客は承知すまい、と思はれた。
 ――何ァに、説明中に、前週の畧筋ぐらゐ客にのみ込ませる事は出來よう。
 と、この週も思ひ切つて前説無しでやつて見た。客は別に不滿らしくなかつた。私としてはオツカナビツカリであつたんだけれど。もしも客が湧くやうであつたら、翌日から前説をつ けやうと思つてた位ゐだ。もつもと子供客なぞのうちには
「チエツ。ベンシ怠けてやがら。」
 と言ふものもあつた。
(「前説廢止の事」『くらがり二十年』アオイ書房、1934年3月)

 前説を廃止したかわりに、B5判二つ折りのプログラム『週刊アフヒ』(週刊『アフヒ』社)を創刊した。そこに作品解説や映画にまつわるコラムを載せ、前説のかわりにした。前説廃止と『週刊アフヒ』の創刊を、若き日の夢声は自負した。いまから100年以上も前のことである。


『週刊アフヒ』第1号(週刊『アフヒ』社、1917年8月20日)


新宿武蔵野館時代の徳川夢声(1926年)

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 徳川夢声(本名、福原駿雄)は、1913(大正2)年8月10日、見習い弁士となる。東京・新橋にあった「第二福宝館」がそのデビューで、師匠の清水霊山にあやかり「福原霊川」を名乗った。それから映画館を転々として、洋画専門の赤坂葵館に移ったとき、館名にちなんで「徳川夢声」になる。
 夢声は、東京を代表する花形弁士のひとりとなる。その人気ぶりは、いささか伝説じみているけれど、誇張ではない。『週刊アフヒ』のバックナンバーを読むだけで、映画説明に対する高い評価が伝わってくる。
 しかし時代は、サイレントからトーキーへ。1933(昭和8)年3月31日、新宿武蔵野館の主任弁士を最後に、やむなく活動弁士を廃業した(ようするにクビ)。弁士生活20年のエピソード、失敗談、出会い、研鑽、泣き笑いの日々は、さまざまな夢声の著作で読める。
 弁士廃業の翌年には、先に引用した『くらがり二十年』(アオイ書房、1934年3月)が刊行され、版を重ねた。東京・中野で酒屋を営む志茂太郎が、雑誌『新青年』(博文館)の同名連載に惚れこみ、単行本化するためにアオイ書房を立ち上げた。『くらがり二十年』は、同書房の刊行第1作となる。版元の名前は葵館でなく、志茂の生家の庭に咲くトロロアオイにちなむ。


徳川夢声『くらがり二十年』(アオイ書房、1934年3月)


『くらがり二十年』見返し(岸井明宛て献呈署名)


『くらがり二十年』別添資料各種

 『カツベン!』のパンフレットに、山岡秋聲は《大酒飲みの酔っ払い活動弁士》と紹介されている。山岡の酒ぐせの悪さに、俊太郎はじめ、登場人物はふりまわされる。これも、夢声の実像をモデルにしている。
 葵館を去った夢声は一時期、現在の神田神保町にあった「東洋キネマ」で弁士をしていた。そのころ、ドイツ映画『ドクトル・マブゼ』(1922年)が封切られた。夢声は泥酔したまま弁士台に立ち、トラブルを起こす。その話も『くらがり二十年』に書かれている。

「よう、伯爵夫人、はくしやくの――ふじんよ、ふじチャんよ。ねッ。さうデショ。コレコレ、伯爵の奥方や――奥方スナハチ細君や、伯爵の細君スナハチ、ハクサイよ、やいハクサイッ、はくさい返事は、ナナ何んと。」
 てな事を云つたやうな氣がする。
「馬鹿ッ!」誰れかが客席で怒鳴つた。
「今、馬鹿と怒鳴つた男よりは、ボクの方が馬鹿でないのでアル。」
「何をッ。」
(「ドクトル・マブゼ事件」前掲書)

 館内が騒然とするなか、スクリーンに字幕が出た。
《汝等、愚ナル者共、俺ハ神ノ如キモノデアル、汝等如何ニ反抗セントシテモ、終ニハ余ガ命令ニ服従セン》
 酔っぱらった夢声は、こう訳した。
《汝等、大馬鹿野郎どもよ、俺はエラいぞよ。神様みたいであるゾヨ。汝等如何にヂタバタすればとて、終にはペシャンコになるであらう。静かしてろ》

 サア、大變な事になつちやつた。
「何をッ」「こん畜生ッ!」「ベン士生意氣だぞ。」「取消せーーッ!」「撲つちまへッ!」と熊蜂の?をひつぱたいて、擴聲器にかけたやうな騒ぎとなつた。
「殺しちまふぞ。」
「面白い、殺せるなら殺して見給へ。苟もボクは日本臣民である。僕の生命は帝國憲法によつて保證されてゐる筈だ。」
 と、小生も、もう目茶である。
「ようし、今殺してやるぞ」
 とその男がツカツカと舞臺に近づいて來た。二階から座蒲團が、小生を目がけてバサッバサッと投げられる。
 次の瞬間、私は制服の警官によつて、樂屋へ引きづり込まれて、からくも事なきを得た。
(前掲書)


新宿武蔵野館で説明する徳川夢声(1926年7月26日付『都新聞』)

 『カツベン!』のパンフレットで、周防正行はこんなコメントをしている。《映画が音を持っていなかったが故に、上映空間が賑やかだったなんて考えたこともなかった。昔の映画館は、生演奏の音楽があって、活動弁士がしゃべって、お客さんが野次を飛ばして……とまるでライブパフォーマンスの会場だった。今「映画」と聞いてイメージするものとは全く違いますよね》(『カツベン!』座談会)。
 上映空間の熱気、無声映画全盛期の常設館の匂いは、『カツベン!』の大きな魅力となった。それは『くらがり二十年』からも伝わってくる。『カツベン!』で描かれた世界より、リアルで生々しいところもある。
 その最たるものが、葵館で夢声が説明したフランス映画『鐵の爪(アイアン・クロウ)』(1917年)だろう。夢声の説明で同作を観た男が、面識のない少女を公園で襲い、惨殺し、遺棄した。とばっちりで裁判所に呼ばれた夢声は、判事からこう言われた。

「で、その犯人がぢやねぇ、如何なる動機で少女を殺したかと云ふとだ。葵館で、このアイアンのクロウなる寫眞を見物し、惡漢のジユールスなるものが、鐵の爪を以つて、女の首を絞める所がある――そこが實に何とも斯とも云はれん面白さで、自分も一つアレをやつて見たいちゆう氣になつて、ついフラフラと芝公園で出遭つた少女に向つて、それを實行に移したん ぢや――と斯う云ふとる。」
「ナナルホド。」
「その時、君は一段と聲を張り上げて、ヒジヨウに眞に迫つた説明をした――と犯人は云ふトルがね。」「ドドウツカマツリマシテ。」
(「前説廢止の事」『くらがり二十年』)

 『カツベン!』には、凄みのある悪人が登場するけれど、ここまで後味の悪いエピソードはない。事実は小説より奇なり、というべきか。


『週刊アフヒ』第2号部分拡大(1917年8月27日)


徳川夢声「アイアンのクロウ」挿絵(松本勝治[かつぢ]画)『現代ユーモア叢書 第五編 夢聲半代記』(資文堂書店、1929年4月)

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 活動弁士の著作や研究書は、これまでに何冊か出ている。なかでも『くらがり二十年』は、“カツベン全盛期”を記録した貴重な読み物となる。
 『新青年』の連載から86年、アオイ書房の本から85年を迎えた。『くらがり二十年』には、いくつかバージョンがあるので、以下に初出・書誌データを記す。


◆「くらがり二十年」『新青年』(博文館)1933(昭和8)年1月号~同10月号掲載(全10回連載)
◆『くらがり二十年』アオイ書房、1934(昭和9)年3月26日初版発行
◆「続くらがり二十年」『新青年』1934年5月号~1935(昭和10)年8月号掲載(全10回連載)
◆「続くらがり二十年」『現代ユーモア小説全集 第五巻 喃扇楽屋譚/碁盤貞操帯』アトリエ社、1935年9月20日初版発行
◆『くらがり二十年』春陽堂文庫、1940(昭和15)年4月5日初版発行
◆『くらがり二十年』春陽堂文庫/陸軍恤兵部発行、1944(昭和19)年7月7日初版発行
◆『くらがり二十年』春陽文庫、1957(昭和32)年5月10日初版発行
◆『徳川夢声のくらがり二十年』清流出版、2010(平成22)年12月13日初版発行



『くらがり二十年』各種(左上から右へ刊行順)


1957年春陽文庫版カバー絵(鈴木信太郎 画)

 『新青年』の連載「くらがり二十年」は好評を博し、アオイ書房で単行本化されてまもなく、「続くらがり二十年」がスタートした。アトリエ社の『現代ユーモア小説全集』には、この続編しか収録されていない。
 正・続が一冊にまとまったのは、1940(昭和15)年の春陽堂文庫が最初である。4年後に出た文庫版は、陸軍恤兵部が恤兵寄附金を使って、兵士の慰問を目的に発行された。
 このようにバージョンこそ多いものの、「くらがり二十年」と「続くらがり二十年」が完全版で出たことは、長らくなかった。正・続ふくめ、完全版として刊行(復刊)されたのは、 2010(平成22)年の『徳川夢声のくらがり二十年』(清流出版)が最初である。
 この清流出版本は、解題執筆と資料提供でお手伝いした。お世辞にも売れたとは言えなかった(在庫分が現在も新刊で流通)。あれから9年。活動弁士がテーマの新作が封切られるとは、予想もしなかった。
 あらためて清流出版の『徳川夢声のくらがり二十年』を手にして、驚いた。発行日が12月13日、『カツベン!』の封切り日と同じだ。なんというマの悪さ、タイミングのずれ。あの世の老も苦笑い、か。


内田誠撮影「徳川夢声」。内田誠『緑地帯』(モダン日本社、1938年7月)