脇役本

増補Web版

かもめは7羽 中条静夫 嶋田親一の証言と資料に拠る⑤


『土曜劇場 6羽のかもめ』より清水部長役の中条静夫(『サンデー毎日』1975年2月16日号、毎日新聞社)


 前回のブログ「花嫁の父 有島一郎」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/11/06/202318に、有島が出演したフジテレビドラマ『土曜劇場 6羽のかもめ』第10回「花嫁の父」(1974年12月7日放送)のエピソードを書いた(倉本聰脚本、大野三郎演出)。
 黒岩伸吉(郷鍈治)と松平冬子(泉晶子)、人気スターどうしの婚約が、マスコミの大きな話題となる。ところが、冬子の父・松平公介(有島一郎)の猛反対で破談に。婚約発表記事の写真に、「黒岩伸吉、一人おいて松平冬子」と書かれたのが原因だった。
 公介はある夜、劇団「かもめ座」マネージャーの川南弁三(加東大介)に、「一人おいて」と書かれたつらい胸の内を語る。有島一郎と加東大介、名優ふたりのやりとりがユーモラスにして哀しい。


大野三郎演出『6羽のかもめ』第10回「花嫁の父」(フジテレビ、1974年12月7日放送)。左より松平公介役の有島一郎、川南弁三役の加東大介

 シーンはここで変わる。ところは東洋テレビ編成局第2制作部。弁三(加東)から、事の真相を聞かされた面々がそこに居並ぶ。第2制作部の清水正義部長(中条静夫)、課長の矢口(矢田稔)、プロデューサーの日高(斎藤晴彦)、ディレクターの大木(北浦昭義)、黒岩伸吉のマネージャー木田(柳生博)。
 「一人おいて」と写真に書かれた公介に、清水部長は深い同情を寄せる。歌謡協会賞の受賞式に出席したさい、まったくおなじ扱いを受けたからだ。以下は、倉本聰のシナリオからの引用である(「八代さん」は八代亜紀のこと)。

部長「ほかの写真はまだ許せるよ君!
許せないのは毎朝スポーツだよ!」
課長「何か」
部長「(手で空に図解)右はじの八代さん写ってなくてキミ、一番右が僕、その左が百恵ちゃん。その左が中条きよし。ネッ」
課長「ハア」
部長「“写真左から中条きよし、山口百恵”こうかかれるならわかりますよ」
一同「ハイ」
部長「それをあろうことかあるまいことか、“写真! 右から一人おいて山口百恵、中条きよし”」
一同。
部長「これはないでしょう!? そう思わない?」
一同「――ハア(それはひどい!)」
部長「だったらもともとトリミングして、僕のとこ入れなきゃいいじゃないの!」
一同「ハア」
部長「何でわざわざ入れといてから、その上で右から一人おくのよォ!」
一同「ハア」
部長「僕にだって立場ってものがあるでしょう。ねえ!!」
一同「ハイ!!」
間。
部長「わかるんだなァ。松平さんのおやじさんの気持!!」
(倉本聰「花嫁の父」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』理論社、1983年1月)


『6羽のかもめ』「花嫁の父」。左より清水部長役の中条静夫、矢口課長役の矢田稔
 
 ひとり息巻く清水を、カメラは中条静夫の連続アップで捉える。3人の部下と2人のマネージャーはうまく調子を合わせている。とぼけた芝居で見せる、組織の上下関係がおかしい。
 ストーリーはこのあと、清水の思いつきで、もうひと波乱起こる。「花嫁の父」である公介を、さらに哀しく追い込んでしまう。二段落ち、三段落ちの展開を用意する倉本聰のシナリオ、さすがである。

 

   2022(令和4)年7月9日、90歳で亡くなられた演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さん。今回も、13回に及ぶオーラルヒストリーと旧蔵資料を通して、ともに仕事をした俳優のあれこれを紹介する。
 佐々木孝丸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25、市村俊幸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11、河内桃子https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/10/02、有島一郎に続く5人目は、中条静夫(ちゅうじょう・しずお/1926~1994)を取り上げたい。
 嶋田親一と中条静夫といえば、先に述べた『6羽のかもめ』に尽きる。プロデューサーをつとめた嶋田さんの代表作にして、1970年代の名作ドラマである。


『6羽のかもめ』タイトルバック

 映像が失われた当時のスタジオドラマも多いなか、『6羽のかもめ』は幸運なケースをたどる。全26話すべての映像が残り、2009(平成21)年2月には、フジテレビ開局50周年記念でDVD化された。原案と脚本を手がけた倉本聰のシナリオは単行本化され、いまでも読める。


左より倉本聰著『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』(理論社、1983年1月)、同『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』(ペップ出版、1978年7月)、『6羽のかもめ』DVDボックス(ポニーキャニオン、2009年2月)
 
 嶋田さん自身、「6羽」を終生愛した。聞き取りの席でもよく話題に出たけれど、その中心にいるのは、倉本聰と中条静夫のふたりだった。
 嶋田さんから生前お預かりした資料のなかに、『6羽のかもめ』に関するスクラップブックがある。主演の淡島千景や高橋英樹より、中条の関連記事のほうが多いことに驚いた。
 

嶋田親一旧蔵『6羽のかもめ』スクラップブック(1975年頃)
 
 映画、テレビの一バイプレーヤーに過ぎなかった中条は、『6羽のかもめ』でブレイクする。それを裏づける放送史文献がある。

●6羽のかもめ
(前略)一時は数百人も団員がいた劇団「かもめ座」は、いまは座長も含めわずか6人。この6人の純粋さと、生活の無知から生まれる現実とのギャップ、笑いとペーソスをテレビ界の内幕を交えながら描く。原案・倉本聰。演出・富永卓二。出演・淡島千景、高橋英樹、加東大介、長門裕之、中条静夫ほか。これまで鳴かず飛ばずだった中条の、きまじめな中に何ともいえないユーモアを感じさせる演技が注目された。(後略)
(南利明編『放送史事典』学友会センター、1992年4月)

 「6羽」の夏純子と栗田ひろみが「ほか」とされ、中条静夫が入っている。同事典を読むかぎり、あと12文字余白があるので、長門裕之の後ろを《、夏純子、栗田ひろみ、中条静夫》にすればよかったのに。これでは「二人おいて、中条静夫」である。

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 中条静夫(本名・静雄)は、1926(大正15)年3月30日、静岡で生まれた。東京・八王子に移ったのち、戦時下と学生時代が重なり、1943(昭和18)年、東京府立第二商業高等学校を繰り上げ卒業する。
 陸軍に召集(二等兵)され、敗戦後まもなく神戸製鋼に入社する。しかしサラリーマンに飽き足らず、「スターになって、金もうけがしたい」と会社を辞めた。1948(昭和23)年、大映のニューフェイス第4期生として、大映東京撮影所に入った。
 昭和20~30年代の日本映画全盛期、脇役・端役として数多くの大映現代劇に出た。昭和50年代の『キネマ旬報』の人気連載「ニッポン個性派時代」に登場し、当時の思い出を語っている(インタビュアーは藤田真男)。

「いつでも申し上げるんですが、ぼくは通行人やっていても、辛いとか寂しいとか焦りとかは、ちっともなかったですよ。やっぱり楽しい時代でしたよ。実際にはスターになれなかったけれども、セットの隅では女優さんを集めてコメディ・スターでしたから。はっは」
(「ニッポン個性派時代22 中条静夫」『キネマ旬報』1978年8月下旬号、キネマ旬報社)


中条静夫(「ニッポン個性派時代22 中条静夫」『キネマ旬報』1978年8月下旬号、キネマ旬報社)

 中条は、みずからの大映時代をふりかえるさい、好んで「通行人」と称した。そこには多少のテレが込められている。昭和20年代は通行人のような端役もこなしたものの、昭和30年代の出演作には見せ場のある役柄も少なくない。


市川崑監督『野火』(大映東京、1959年11月3日公開)。左より星ひかる、中条静夫、船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス、佐野浅夫

 小西康陽責任編集『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。 大映映画スチール写真集』(DU BOOKS、2018年7月)に、井上梅次監督『黒蜥蜴』(大映東京、1962年3月14日公開)のスチールがある。京マチ子、川口浩、叶順子、大木実、杉田康、緋桜陽子とともに、松吉役の中条の顔が印象的に写っている。大映映画を代表する、バイプレーヤーのひとりだった。


井上梅次監督『黒蜥蜴』(大映東京、1962年3月14日公開)スチール。写真上左より緋桜陽子、杉田康、川口浩、大木実、叶順子、中条静夫、下に京マチ子(『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。 大映映画スチール写真集』DU BOOKS、2018年7月)

 昭和40年代に入ると、銀幕からブラウン管へと活躍の場を移していく。大映テレビ室制作の『ザ・ガードマン』(TBS、1965年4月9日~71年12月24日放送)では、「東京パトロール」の小森隊員役で初回(シリーズ初期は『東京警備指令 ザ・ガードマン』)から最終回まで出演した。宇津井健、神山繁、稲葉義男、川津祐介、倉石功、藤巻潤とともに7人のメインキャストのひとりとして、お茶の間に知られる顔となった。


TBSテレビ『ザ・ガードマン』オープニングより小森隊員役の中条静夫(1966年)

 『ザ・ガードマン』で演じた小森隊員は、喜怒哀楽に乏しく、どちらかといえば無口なキャラクターである。束ね役の高倉キャップ(宇津井)や片腕の榊隊員(神山)、フレッシュ枠の清水隊員(藤巻)や杉井隊員(倉石)にくらべると印象は薄い。それでも、ユーモラスでとぼけた一面をのぞかせ、小森隊員が活躍するエピソードは少なくない。


『ザ・ガードマン』第57回「危険を買う男」(TBS、1966年5月6日放送)。左より宇津井健、中条静夫、倉石功、藤巻潤、神山繁

 映画に愛着のあった中条は、テレビ映画『ザ・ガードマン』のオファーに当初、がっかりした。根っからの“映画人”としては、それが素直な気持ちだった。「ニッポン個性派時代」に、その話が出てくる。

「ガードマンで役がついたわけでしょ。でも、TVに出てくれといわれた時にはね、映画俳優としてはもうダメなのかなァ、とガッカリしましたよ。通行人ばかりやっていながらですよ。それが大当りに当りましてねェ。やる気になりますわね。単純なんですよ。まァ、私に青春という時代があるとすれば、その時代でしょうな。あんまり若い青春じゃないけど」
(「ニッポン個性派時代22 中条静夫」)

 1971(昭和46)年に大映が倒産し、『ザ・ガードマン』もこの年、放送350回を節目に終了した。大映ひとすじの役者人生は、ここからセカンドステージを迎える。
 中条は、大映テレビ室のプロデューサー・野添和子(野添ひとみと姉妹)の口利きで、福田恆存ひきいる「劇団欅」に入団する。1973(昭和48)年6~7月には、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』(福田恆存訳・演出)が上演され、中条がヴェニス王を演じた。


劇団欅 第9回公演『ヴェニスの商人』広告(『悲劇喜劇』1973年6月号、早川書房)

 この舞台の初日、観客のひとりが「ザ・ガードマンだ!」と声を出し、耳にした中条は動揺してしまう。出来すぎた話に思えるけれど、「キネ旬」の連載で中条本人がそう語っている。
 それからしばらくは、劇団欅に所属しながらテレビの仕事を増やしていく。現代劇から時代劇、ホームドラマから刑事ドラマ、特撮ヒーローモノから時代劇、悪役から善人、一般庶民から社会的地位の高い人物まで、いろいろな役をやった。


『非情のライセンス』第1シリーズ第26回「兇悪の番外地」(NET、1973年9月27日放送)。左より矢部警視役の山村聰、大曽根役の中条静夫

 『6羽のかもめ』がスタートしたのは、ちょうどこのころ。劇団欅の『ヴェニスの商人』の翌年、1974(昭和49)年10月である。
 この時期まで、嶋田親一と中条静夫のあいだに接点はない。そもそも嶋田さんは、『ザ・ガードマン』を見ておらず、「中条静夫」という俳優を意識していなかった。

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 1959(昭和34)年3月のフジテレビ開局時から、嶋田さんはプロデューサー兼ディレクターとして、たくさんのスタジオドラマを演出した(前回ブログ「花嫁の父 有島一郎」参照)。
 1967(昭和42)年8月、人事異動で編成局編成部勤務を命じられ、特別職(副部長待遇)となる。ここでテレビドラマの演出に別れを告げ、プロデューサーとして番組の企画・編成に携わるようになる。
 1971(昭和46)年、フジテレビが制作部門の切り離し(外部プロダクション化)を断行する。「フジ・ポニー」「ワイドプロモーション」「フジプロダクション」「新制作」の4つの新会社が生まれ、嶋田さんは新制作のトップとなる。
 新制作では、ドキュメンタリーやトーク番組の企画・制作が主となり、ドラマづくりの現場からしばらく離れた。そして3年後、脚本家の倉本聰を迎えたスタジオドラマの企画が持ちあがる。
 1974(昭和49)年の『大河ドラマ 勝海舟』(NHK総合、1974年1月6日~12月29日放送)の脚本を手がけた倉本聰は、制作サイドとトラブルになり降板する。傷心の倉本が東京を離れ、北海道に姿を消したことは、よく知られている。


倉本聰(倉本聰著『さらば、テレビジョン』冬樹社、1978年7月)

 倉本の立場を慮った嶋田さんは、新制作の金庫から50万円を用立てた。その50万円を部下の中村敏夫(のちに『北の国から』をプロデュース)が、北海道まで倉本に届けた。その旅に同行したのが、淡島千景や高橋英樹のマネジメントをする垣内健二で、2人の北海道行きが、倉本ドラマの企画へとつながる。これが、『6羽のかもめ』の誕生秘話である。
 この前後のいきさつは、倉本聰があちこちで語り、また書き残している。嶋田さんいわく、そこには“脚色”が施されているそうだが、中条静夫の話からそれるので、ここでは触れない。
 嶋田さんの旧蔵資料のなかに、『企画書 土曜劇場 かもめ座物語(仮)』がある。「49.7.18」(1974年7月18日)と印刷され、この時点で倉本は『勝海舟』の脚本を降りていなかったと思われる。垣内健二は、早い段階から淡島千景と高橋英樹出演の倉本ドラマを考えていたのだろう。すでに倉本はフジテレビで、高橋主演の『ぶらり信兵衛道場破り』(1973年10月4日~74年9月26日放送)の脚本を手がけていた。


『企画書 土曜劇場 かもめ座物語(仮)』(フジテレビ、1974年7月18日)

 嶋田さんの当時のスケジュール帳には、1974(昭和49)7月12日の夜、《垣内、白川、富永、倉本聰 『私はかもめ』打合せ(幸本)》とメモが残されている。白川はフジテレビ編成部の白川文造で、『ぶらり信兵衛道場破り』のプロデューサーをつとめた。「幸本」は会合場所で、東京・神楽坂にあった料亭である。
 制作サイドと倉本聰は、どういうドラマを目ざしたのか。放送枠は毎週土曜日22時から22時55分までの「土曜劇場」で、企画書『かもめ座物語(仮)』には、「企画意図」としてこう述べられている。

 広い意味のコメディと言えるかも分りません。つまり、ドタバタコメディではなくて、ビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』や、ウイリアム・ワイラーの『ローマの休日』をコメディと称する範囲内でのコメディを狙いたいということです。
 土曜の夜10時、という時間で、大人の観客が感じる面白さは、ドタバタやオーバーな演技や脚本から生れるのではなく、シリアスな演技、真面目で真剣な演技と、それを計算した脚本から生れるのだと、我々は考えています。そのような制作意図を本造り、演出、演技のすべてに貫徹させたいと思います。
(『企画書 土曜劇場 かもめ座物語(仮)』)

 倉本聰の起用については、《彼はここ数年間、物の怪につかれたように、傑作を書きつづけています。現在NHKで放映中の『勝海舟』はご存知のように快調ですし》(前掲書)とある。こうして生まれた新ドラマの企画に、“ドラマ屋・嶋田親一”の血は沸き立つ。

倉本から「かもめ座」のプロットがあがってきたときは感動しましたね。最初は「芸能界を舞台にしたホームドラマ」という話で、「ちょっと弱いな。かったるいな」と感じていたんです。それがいつの間にか、『6羽のかもめ』の話になっていく。だんだんホンが出来上がってきて、こちらも肚をくくりました。自分のいるテレビ業界の話をやるのは、神経を使いますから。
(嶋田親一第11回聞き取り)

 『6羽のかもめ』の制作著作はフジテレビ、制作協力は新制作(両社ともタイトルバックにクレジットなし)。原案が倉本聰、プロデューサーが嶋田親一と垣内健二、演出は新制作の富永卓二と大野三郎が交代で担う。音楽は深町純、主題歌の『かもめ挽歌』は、倉本聰の原案をもとにした加藤登紀子のオリジナル(作詞・作曲・唄)である。


加藤登紀子『かもめ挽歌』(ポリドールレコード、1974年)

 1983(昭和58)年1月に刊行された『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』(理論社)の冒頭に、倉本みずから物語の設定を綴った。

 劇団かもめ座は分裂を続けた。
 かつて二百人の劇団員を誇った新劇団の雄かもめ座は、女王犬山モエ子に対する造反につぐ造反の結果、遂に六人になってしまった。
 女王たる大女優犬山モエ子。
 若い二枚目俳優田所大介。
 文芸部員桜田英夫。
 その妻である女優水木かおり。
 新人女優西条ひろみ。
 そして彼らの生活の為に自ら役者を退役してマネージャーとなった、老優川南弁三。
 分裂以来六人は、それまで忌避していたテレビジョンの世界に身を売ることでまず生活を安定させんとし、かもめマンションに共同生活を営みながらテレビにあけくれる生活を始めた。そうして今や田所大介は、お子様向けの劇画アクション『ウルトラ・ボニータ』の主役スターとして哀しい人気者となってきたのである。
 ドラマは六人の住む「かもめマンション」と、その一階にある一同のたまり場、喫茶店「ミネ」を舞台としてスタートする。
(「はじめに」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)

 配役は、犬山モエ子に淡島千景、田所大介に高橋英樹、桜田英夫に長門裕之(企画書では財津一郎)、水木かおりに夏純子(企画書では倍賞美津子)、西条ひろみに栗田ひろみ、川南弁三に加東大介、「ミネ」のマスター・ミネにディック・ミネ、という顔ぶれ。
 加東大介は、東宝映画で共演した淡島千景の大ファンだった。加東は、「お景ちゃんといっしょにできるなんて。彼女は僕のあこがれの人なんです」と倉本に言った。その間柄は、劇中のモエ子と弁三の関係にも投影されている。


『6羽のかもめ』撮影風景。前列左より淡島千景(犬山モエ子)、高橋英樹(田所大介)、長門裕之(桜田英夫)。後列左より喜多岡輝代(エリ子)、下之坊正道(牛山)、加東大介(川南弁三)、ディック・ミネ(ミネ)、栗田ひろみ(西条ひろみ)、夏純子(水木かおり)

 撮影は、1974(昭和49)年8月30日にスタート。9月2日には河田町のフジテレビ本社で、『6羽のかもめ』の制作発表がおこなわれた。会場には「劇団『かもめ座』結成」の看板を掲げ、淡島千景、高橋英樹、長門裕之、夏純子、栗田ひろみ、加東大介の「6羽」が勢ぞろいした。
 高橋は、「“かもめのジョナサン”にあやかって、うまく飛べますように」とあいさつ。時代劇のイメージが当時強かった高橋が、コミカルな現代劇に出演するとあって、スポーツ紙が紙面を割いた。これらの記事に、中条静夫の名はまだない。


『6羽のかもめ』制作発表。左より夏純子、長門裕之、淡島千景、高橋英樹、栗田ひろみ、加東大介(1974年9月3日付「スポーツニッポン」)

 1974(昭和49)年10月5日夜、『6羽のかもめ』第1回「6羽目」(富永卓二演出)が放送された。「原案 倉本聰、脚本 石川俊子」とクレジットされているが、「石川俊子」は倉本の偽名で、渡哲也夫人の旧姓を使った。大河ドラマ『勝海舟』の脚本家降板に起因する処置だが、渡哲也夫人が脚本を書くはずもなく、見る人が見れば倉本聰その人だとわかる(第8回「大問題」以降は、「原案・脚本 倉本聰」とクレジットされる)。


『6羽のかもめ』広告。前列左より高橋英樹、淡島千景。中列左より長門裕之、夏純子、加東大介。後列に栗田ひろみ(『週刊TVガイド』1974年10月4日特大号、東京ニュース通信社)


『6羽のかもめ』放送リスト(筆者作成)

 第1回「6羽目」は、西条ひろみ(栗田ひろみ)が、5人だけの劇団「かもめ座」に入るまでのストーリー。そのエピソードと並行して、かもめ座の歴史と「6羽」それぞれの人となりを描いた。
 第1回から第5回まで演出した富永卓二は、自身の演出論に《倉本聰の脚本は面白すぎるぐらい面白く私たちを大いに触発してくれ》としたうえで、こう続ける。

 第一話の脚本を渡されたものの、分裂に分裂を重ねた貧乏劇団で生きている人びとの状況説明が多く、ドラマとしてとらえようがなかったというのが本当のところでした。
(富永卓二「テレビドラマ“6羽のかもめ”をおえて――テレビ演出論・Ⅰ」『テレビ映像研究』1975年9月創刊号、ナカ・プランニング・デスク)


『テレビ映像研究』1975(昭和50)年9月創刊号(ナカ・プランニング・デスク)

 富永卓二が書くように、第1回はレギュラー6人の自己紹介で、ドラマチックな展開はない。公刊された倉本のシナリオ集にも、おさめられていない(倉本のシナリオと実際のドラマとは、台詞が微妙に異なっている)。
 問題は、第2回「秋刀魚」(1974年10月12日放送/石川俊子脚本、富永卓二演出)である。『6羽のかもめ』最初の問題作として、シナリオ集にも収録された。富永は先の演出論でこう続ける。

 しかし第二回放送の「秋刀魚」の脚本を読んだ時、やっと何かがつかめた感じでした。
 サンマの頭をどちら向きに皿へ盛るのが正しいか、というハナシだけで一時間ドラマが成立するという不可思議さに驚嘆し、作家倉本聰の実力をまざまざと見せつけられました。
 (前掲書)

 第2回「秋刀魚」は、こんな話である。
 田所大介(高橋英樹)が、東洋テレビの生番組『スター料理教室』に出ることになった。番組で披露するのは、犬山モエ子(淡島千景)の得意料理「サンマのフライ タルタルソース」。「サンマをフライに?」という視聴者のツッコミをよそに、ドラマは進行する。
 迎えた生放送(本番)の日。大介は「サンマのフライ タルタルソース」をうまく仕上げ、母・正子(村瀬幸子)の習慣をまねて、サンマの頭を右にして盛り付ける。試食コーナーで「魚の頭は左では?」と訊く司会者(小林大輔、丹羽節子)に、「それは正式じゃないです」と得意げに答える(天真らんまんな高橋英樹がうまい)。



富永卓二演出『6羽のかもめ』第2回「秋刀魚」(1974年10月12日放送)。左より司会者役の小林大輔、丹羽節子、高橋英樹

 生放送のため、局には電話でクレームが殺到する。ふてくされる大介の前で、担当プロデューサー(小沢幹雄)が「馬鹿なおふくろ」と暴言を吐く。キレた大介に殴られ、プロデューサーは意識を失う。事態を収拾すべく、マネージャーの弁三(加東)は第2制作部を訪れ、制作部長の清水に頭を下げた。ここでいよいよ、中条静夫の初お目見えである。

長い間。
部長。
髪の毛をくしゃくしゃとかく。
部長「困っちゃうンだよねえ、こういうのは本当に」
弁三「まことに何とも申し訳ありません」
部長「暴力はいけませんよ暴力は君」
弁三「まったくおっしゃるとおりであります」
部長「うン」
うなだれている弁三。
電話鳴る。
課長「(とって)はい、部長席――あ、少々お待ちください。――部長、平井君」
部長、立ちあがってゆっくり席へ行く。
行きつつ。
部長「(弁三に)おたがい君いいとししてやってるンだ。まァ、お母さんを冒瀆されて怒った、田所君の気持はよくわかるけど、テレビ局ってとこは君、何てったってインテリの職場なンだから」
弁三「は」
部長「(電話に)ああ私。見たよ第一話。ありゃ君だめだよ。あれじゃ全然視聴率上がンないよ? もっとアクションをとり入れてだな。ガンガン殴るとか、ぶっとばすとか。――殺しちゃいなさいよォもっとバリバリ」
うつむいている弁三。
部長の声「だめだよ、そんなのオ――あすこだってあんた、もっと派手にさ、どういうかグイグイ、エグッちゃうとかさァ」
(「秋刀魚」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)


『6羽のかもめ』「秋刀魚」。左より矢田稔、中条静夫

 嶋田さんの旧蔵資料のなかに、手書きの原稿用紙があった。題して『プロデューサーから演出家への書簡――『6羽のかもめ』とともに――(1974.9.8~)』。この作品に対するプロデューサーとしての意見と視点をしたためた、原稿用紙16枚からなる名文だ。


嶋田親一『プロデューサーから演出家への書簡――『6羽のかもめ』とともに――』(1974年9月)

 その14枚目に「第1話から第5話までのゲスト評」がある。《中條静夫―抜群。制作部長に実在感をいだかせた。キャスティングのヒット。98点》。この役に中条静夫を配したのは、誰のアイデアだったのか。

演出の富永卓二ですよ。富永に「いかにもテレビ局にいる中間管理職で、もっともらしい顔をしている役者を探せ」と言ったんです。そこで富永が推薦したのが中条静夫。大映のドラマで、ずらっと男優の並ぶ作品があったでしょう。そのひとりが中条静夫で、そこに富永が目をとめた。僕は会ったことがなくて、「なかじょう・しずお」だと思っていたくらい。テレビの世界では、まだあまり知られた顔ではなかったと思います。調べたら、けっこうなキャリアの持ち主で、下積み時代は夫婦で苦労していたらしいです。
(第11回聞き取り)

 脚本へのこだわりが強い倉本聰は、本読み(読み合わせ)に同席し、プロデューサーや演出家以上にダメ出しすることで有名だった。主役や主要な登場人物はもちろん、脇にいたるまでキャスティングの良し悪しがここで試される。


由原木七郎 絵・文「0(ゼロ)チャンネルを往く!」(1974年11月30日付「夕刊フジ」)

 「清水部長=中条静夫」は、倉本も納得のキャスティングとなった。当時の現場の雰囲気を、嶋田さんがうれしそうにふりかえる。

配役が決まって、中条静夫と初めて会いました。古武士のような佇まいなのに、あの調子じゃない(笑)。あんなにコミカルな人とは、誰も知らなかった。本人もえらく役にノッて、最初の本読みからホントに面白かった。「困っちゃうンだよねえ」というところ、みんなで大笑い。「こういう言い方もあるんだ」と思った。倉本とパッと顔を見合わせて、ニヤッと笑ってね。いまでも、その光景を思い出します。「これで、このドラマはいける」と僕も倉本も思えた。そしたら急に、部長の役が大きくなっていった。こんなにいい役になるとは、誰も考えてなかった。局の制作部長として、ちょっと出るだけの予定でしたから。
(第11回聞き取り)

 生みの親である倉本自身、配役の妙と中条静夫のうまさに舌を巻く。当時の雑誌インタビューでこう答えた。《「初め、清水部長はなにげなく書いちゃったんですけど、中条さんがやるとやたらおかしくって、実感があって、どんどんイメージがふくらんできたんです」》(『サンデー毎日』1975年2月16日号)。
 現役時代の嶋田さんのことは、写真でしか知らない。ただなんとなく、中条静夫の清水部長に雰囲気が似ている。聞き取りの席で、「似てますね」と言ったら、笑いながらこう応えた。

中条さんは、僕より年上の大正生まれなのに、「兄(あに)さん」と呼ぶ。「僕は昭和6年です」と言ったら、「年じゃないんです」と。しかも清水部長はいつも、スーツの上着を脱いでベスト姿でしょう。あれは僕をマネしたんですよ(笑)。衣装合わせのとき、「どうですか」とやってきて、驚いた。僕のかっこう、そのまんまだもん。「そりゃあ、マネしますよ」と中条静夫が(笑)。周りのスタッフも面白がって、清水部長が座る制作部のソファは、僕が新制作で使っている部屋をセットで再現しています。「あの部長は嶋田がモデルだ」と言った人もいたくらい。
(第12回聞き取り)

 中条静夫といえば、メガネをかけているイメージがあるけれど、役づくりのためか、清水部長がメガネをかけることは、劇中で一度もない。
 役名については、第2回「秋刀魚」のタイトルバックでは「部長」としかクレジットされていない。「清水部長」と出るのは、後述する第9回「乾燥機」からである。


『6羽のかもめ』「秋刀魚」タイトルバック

 倉本聰のインタビューを碓井広義が構成した『ドラマへの遺言』(新潮新書、2019年2月)に、『6羽のかもめ』の話が出てくる。劇中で倉本は、ニッポン放送時代の上司をモデルにしたと語る。その元上司は、ニッポン放送の温泉慰安旅行に自分の愛人を連れこむような人物だった。
 そのモデルが、清水部長だったのか。『ドラマへの遺言』を読むと、そうとも受け取れるけれど、どうもしっくりこない。清水部長は、そこまで無分別なキャラクターではない。Web版「日刊ゲンダイ」にある見出し《中条静夫が演じる制作部長は納会に愛人を連れてきた元上司》も誤解のような気がする。https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/225107

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 『6羽のかもめ』は、演劇界の話ではない。「かもめ座」は新劇の劇団だけれど、座員が6人まで減ってしまったため公演がうてない。「6羽」はそれぞれ、舞台への夢を抱きながら、テレビの世界で悪戦苦闘する。
 ドラマも、劇団の拠点「かもめマンション」、たまり場の喫茶店「ミネ」、「東洋テレビ」局内、局前の喫茶店「ドン」を中心に展開する。東洋テレビは河田町の旧フジテレビ社屋とスタジオが使われ、ロケが必要なシーンも河田町のかいわいで全て撮影された。
 東洋テレビ局内のシーンが多いので、清水部長の出番は増やしやすい。第2回「秋刀魚」で手ごたえを感じた倉本は、清水のシーンをどんどん増やしていく
 第5回「花三輪」(1974年11月2日放送/石川俊子脚本、富永卓二演出)では、モエ子(淡島)、宮本みな子(久慈あさみ)、中山咲子(福田公子)の3人のベテラン女優が、若手人気スター・中川(伊藤幸雄)とプロデューサーの井上(柳瀬志朗)の態度に立腹し、撮影をボイコットする。現場のトラブルで、せっかくの自分の誕生パーティーを台無しにされ、清水はつむじを曲げてしまう。


富永卓二演出『6羽のかもめ』第5回「花三輪」(1974年11月2日放送)。左より中条静夫、矢田稔

 第7回「ギックリ・カメラです」(1974年11月16日放送/石川俊子・高際和雄脚本、大野三郎演出)では、俗悪ワースト番組『ギックリ・カメラ』に嫌気がさした大介(高橋)が、ドッキリ企画の仕掛け役を降板。責任の所在をめぐって清水部長と担当プロデューサーの中原(蜷川幸雄)が対立し、清水は中原を北海道の系列局に異動させようと画策する。


大野三郎演出『6羽のかもめ』第7回「ギックリ・カメラです」(1974年11月16日放送)。左より中原プロデューサー役の蜷川幸雄、中条静夫

 ステレオタイプな悪役中間管理職に思えるけれど、そうとは言い切れない。スポンサーと視聴率と上層部と組合をつねに意識し、部下に八つ当たりして、「困っちゃうンだよなあ」と頭を抱える姿は愛嬌がある。部長のそばで一喜一憂する制作課長の矢口がまたコミカルで、演じる矢田稔のうまさが光る。
 中条は当時のインタビューでこう答えた。《倉本さんの脚本がしっかりしてるんでなぞってるにすぎませんが、私の性格の中に清水正義にスッとはいっていけるものがあるようです》(『サンデー毎日』1975年2月16日号)。
 配役のうまさについて、嶋田さんはふりかえる。

『6羽のかもめ』というドラマの世界が浮かび上がってくる意味では、中条静夫の存在は大きかった。倉本がイメージした以上の部長の役に、中条さんがしたわけです。中条さんは計算づくで演じていませんし、倉本も俳優にあてがきしていません。中条さんの俳優としての個性と、倉本の書いた役がうまくマッチした。「中条でいける」と考えた倉本は、清水部長に焦点を合わせて話を書き始めた。演者に焦点を合わせて役を書く天才ですから、倉本は。
(第11回聞き取り)

 清水部長のキャラクターに手ごたえを感じた倉本は、その人物設定を細かく決めた。早稲田大学仏文科卒で、卒論はサルトル、妻と息子と双子の姉妹の5人家族。現場でさぞ盛り上がったのだろう。清水を主人公に、エピソードを用意することも決まった。第9回「乾燥機」(1974年11月30日放送/倉本聰脚本、大野三郎演出)である。
 東洋テレビと関係プロダクションの主催で、番組合同ゴルフコンペが開催される。スポンサー提供の豪華目玉賞品は、家庭用電気乾燥機。この電気乾燥機に、清水部長がえらくご執心である。しかも東洋テレビの改革人事で、清水の制作本部長昇進が噂される。
 コンペの幹事である3人のマネージャー、弁三(加東)、木田(柳生)、守永(五藤雅博)は、キャスティングの権限を握るであろう清水に恩をうっておきたい。そこで、清水が何位になっても電気乾燥機を受け取れるように画策する。
 コンペの当日、清水はご機嫌である(ばっちりドピンクのゴルフウェア)。スタート1時間前にはコースへ出て、ひたすら練習に励む。本番のスコアもよく、調子に乗って「乾燥機は君、僕のもんよ」と嫌味を言う始末だ。


中条静夫(大野三郎演出『6羽のかもめ』第9回「乾燥機」1974年11月30日放送)

 ところが、清水のボールがバンカーに落ち、何回叩いても砂から出てこない。4打目、ついにボールがグリーンに転がる。その一部始終を目撃した矢口課長(矢田)、中原プロデューサー(蜷川)、桜田英夫(長門)、タクシー運転手の伴(小鹿番)たちが、コースにいなかった面々に状況を説明する。

課長「ただその、出てきたボールがですねえ」
弁三。守永。木田。大木。
一同、課長を凝視している。
長い間。
課長、突然クシャクシャと頭をかきむしる。
課長「困ッチャウンダヨナァ」
井上「どうしたンです」
中原「紙はがしてなかったんだよ、まわりの紙」
弁三「紙?」
中原「包み紙、包み紙!」
桜田「ニューボール、まわりをホラ、パラフィン紙みたいなのできちんと包んであるでしょう」
伴「黒いやつ」
課長「ホラ、こういうふうに」
課長、尻のポケットから黒い紙で包まれたままのニューボールを出してみせる。
(「乾燥機」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)


『6羽のかもめ』「乾燥機」。前列左より加東大介、長門裕之、小鹿番(伴)、五藤雅博(守永)、蜷川幸雄、柳生博(木田)、矢田稔。後列左より北浦昭義(大木ディレクター)、柳瀬志朗(井上プロデューサー)、斎藤晴彦(日高ディレクター)、夏純子

 清水は、尻のポケットにしのばせたニューボールを、包み紙をはがさないままグリーンに投げた。そのために、イカサマが白日のもとにさらされた。
  『6羽のかもめ』はスタジオ撮りである。ゴルフ場のセットを組むのも、郊外のゴルフ場でロケするのも、お金がかかる。台詞だけで説明させる苦肉の策ながら、演じる俳優がみんなうまくて、抱腹絶倒のシーンとなった(水木かおり役の夏純子は“素”で笑っている)。

倉本が書いたほど、あからさまな話はないにしろ、あの時代は似たようなことが相当ありましたよ。特定の人に賞品がいくように、出来レースにしたり。部長がゴルフでイカサマをするでしょ。今でもドラマを見た人が「あのシーン、面白かった」と言うんです。でも、ゴルフのシーンはどこにもない。矢田稔の課長が、状況説明するだけ。そこが演出のミソでね。よほど面白かったのか、印象深いシーンになりました。
(第11回聞き取り)

 さて、自業自得で赤っ恥をかいた清水部長である。部長はあくまで“権力者”なので、イカサマを責める参加者はいない。なんとか場をおさめようと、イカサマを「珍プレー」と称し、「ユーモア賞」の名目で、清水に電気乾燥機を贈呈した。受賞パーティーで憮然としつつ、ちゃっかり目録を受け取る中条静夫がおかしい。
 


『6羽のかもめ』「乾燥機」。左より中条静夫、夏純子(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』)

 このあと銀座の高級クラブで二次会が開かれ、清水のご機嫌をなおさそうと一同は苦心する。にぎやかにカラオケが繰り広げられるなか、清水が十八番であるちあきなおみの『喝采』をしぶしぶ歌う。
 倉本聰のシナリオでは、高倉健の『網走番外地』になっている。なぜ、曲が変わってしまったのか。

あの場面は、清水部長にうまく歌ってもらうことが大事なんです。ヘタだと逆に面白くないでしょう。読み合わせのとき、「中条さん、何が歌えますか?」という話になって、『喝采』になったんじゃないかな。
(第13回聞き取り)


中条静夫(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 気分を入れ替え、『喝采』を熱唱する清水。そこに、酔っぱらったプロデューサーの中原が、大向こうをかける。「いよッ、家庭用電気乾燥機ッ!」。清水はすぐさまマイクを置き、店からひとり出ていってしまう。


蜷川幸雄(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 新潮新書『ドラマへの遺言』のなかで倉本聰は、《「実はね、この回で書いたのは本当の話だったんです」》と語っている。真偽のほどは、わからない。ちなみに蜷川幸雄がイヤミたっぷりに演じた東大卒のプロデューサー中原は、久世光彦がモデル、らしい。
 その夜、清水はひとり、弁三のもとを訪れる。深夜のスナックで、水割りをかたむけるふたり。清水は、みずからの行状を詫び、賞品の電気乾燥機を返上し、「ゴルフもやめる」と弁三にゴルフセットを進呈した。そして、電気乾燥機に執着した理由、妻への愛、部下の中原へのコンプレックスを訥々と弁三に語る。

部長「亭主は四十五、先が見えてる。一応テレビ局の部長じゃあるが、作詞家になる能力もないし、汚職するほどの度胸もない。その女房が――」
弁三「―――」
部長「山脇を出て、二十歳で嫁いで、子どもを二人産んで黙々と育てて、四十二になった一人の女が――たとえば亭主や子どもを送り出し、一人になって見る夢なンてもンは――ユーティリティなんて洒落たもンはいらない。風呂場の片隅の洗濯機の上に、電気乾燥機が厳然とあって、その窓の中に自分のパンティが――それもビキニの、花柄のやつが、クルクルフワフワ回転してる」
間。
部長「――それは時々、亭主や子どものと――(手つき)――こう――妙に隠微に触ったりして――そのようすは、何かこう――変に家庭的で――変にエロチックで――そうして、変に悲しくて――」
弁三「―――」
部長「それが、二十歳から二十二年間――あたしに尽くしてきた女房の夢なら――せめてそれくらいかなわせてやりたい」
弁三「―――」
部長「電気乾燥機を――取ってきてやりたい――」
音楽――ゆっくりとたかまって以下につづく。
(「乾燥機」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)


左より中条静夫、加東大介(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 ラスト、電器店のショーウインドーに飾られた電気乾燥機を、清水が哀しげに見つめている。街頭で踏みつけられ、風に舞い、雨に濡れ、雪に埋もれたボロボロのスコアカードが大写しになる。そこに加藤登紀子の『かもめ挽歌』が、エンディングで流れる。


中条静夫(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 以上が「乾燥機」の顛末である。冷静に考えて、清水部長に思慮分別がなさすぎる(名前を“正義”にしたのは倉本の遊びごころか)。けれども、当時なぜか受けた。新聞のテレビ評に、こんな記事が出た。

 今回は思いきったテレビ局の内情暴露ものだ。それもテレビドラマを製作する直接の責任者である製作部長(中条静夫)が主役で、ちょっとした汚職もどきの事件を起こし、いま話題の悪徳プロデューサーまで登場する。よくここまでテレビが内部を告発したものだと感心するし、出来もいい。(中略)
 終了後の二次会で酔った部下のプロデューサーに「恥をかいても乾燥機をほしがる」とさんざんからまれる。
 ここの部長の描写がいい。部下の悪たれにじっと耐え、不正をやった自責の念で顔がゆがむ。妻のためにと乾燥機にこだわった反省もある。それでも耐えて生きていくんだという中年男、中間管理職の悲哀がじーんと伝わってくる。
(「讀賣新聞」1974年11月30日付「試写室」)

 『キネマ旬報』連載「ニッポン個性派時代」で、中条静夫をインタビューした藤田真男は、「乾燥機」の感動を綴っている。

『乾燥機』というエピソードでは、ほとんど全篇を無言で演じ、ラストに至って、それまで頑なに押し殺していた心の内をトツトツと語る。加東大介がひとり、彼の言葉に耳を傾けている。小津安二郎『秋刀魚の味』で、笠智衆が加東大介と語るシーンとは好対照の、哀感あふるる饒舌だった。
 中条さんもびっくりしただろうが、TVをみていたぼくは、もっとびっくりした。中条さん自身が、それまでじっと貯えていた言葉が、一挙に爆発したように思えた。ドラマそのものよりも、俳優・中条静夫に、ばくは感動した。
(「ニッポン個性派時代」)


小津安二郎監督『秋刀魚の味』(松竹大船、1962年11月18日公開)。左より平山周平役の笠智衆、坂本役の加東大介

 『6羽のかもめ』の視聴率は、平均7%前後と決して良くなかった(むしろ悪い)。そのかわり、清水部長は「乾燥機」でブレイクする。メインの「6羽」に勝る人気者となり、フジテレビには「清水部長をもっと出して」と電話や投書が相次いだ。
 新聞・雑誌は、清水部長を話題の人として取り上げ、演じた中条静夫にも注目が集まる。嶋田さん旧蔵の『6羽のかもめ』スクラップブックに、『サンデー毎日』の特集記事がある。そこに、都内電機会社勤務の課長(35歳)のコメントが紹介されている。

「ハイ、ファンです。特に清水部長の気持がよくわかるんだなあ。妻の願いの電気乾燥機欲しさに、部長がゴルフでいかさまやった話なんか、感動しましたね。妻のためという気持、ばれたあとの自己嫌悪、職場での部下のうわさを思いわずらいながらの酒……本当によくわかるんだなあ。作者の部長を見る目がやさしいんだなあ」
(「この中間管理職の悩み 部長サンに寄せる困っちゃうほどの共感」『サンデー毎日』1975年2月16日号)


『サンデー毎日』1975(昭和50)年2月16日号

 清水部長に注目が集まるなか、『6羽のかもめ』をこっそり楽しむテレビ関係者も少なくなかった。この状況を誰よりも驚き、喜んだのが、演じる中条静夫本人だった。『ザ・ガードマン』の放送が終わって3年、この役との出会いを、藤田真男のインタビューで語っている。

――『6羽のかもめ』も、やはりひとつの転機になりましたか?
「あれはもう、何といってもガードマンのイメージをなくす第一作ですから。初めてですよ、あんな大役は。俳優・中条静夫は、倉本聰さんとの出会いによって作り上げていただいた、ということでしょうね。しかも、ぼくのを二本書いていただいた」
――『乾燥機』ですね?
「ええ、あれが、ぼくの代表作ですよ。完全主役で、まァ、セリフの長いこと長いこと。ラストの深夜のスナックなんて、しゃべってるのはぼくだけですからね。いやァ、あの台本もらった時はもう、びっくりしちやって」
(「ニッポン個性派時代」)

 『6羽のかもめ』は一話完結にして、そのときどきで連続性をもたせた。倉本聰が脚本で関わったのは、全26回のうち15回分。残りの11回を、高際和雄、斎藤憐、宮川一郎、土橋成男、野波静雄が書いた(前掲の放映リスト参照)。

倉本が忙しくて、「全部は書けない」と言う。書かない回をどうするか、倉本や演出の富永、大野の意見を聞きつつ、作家を決めるのに苦労しました。倉本の考えた人物設定を生かしながら、ちょっとひねったものを頼まないといけない。頼まれたほうも、やりづらかったと思いますね。僕と面識のあった宮川一郎は、倉本と同じ東大なんです。倉本に一目置いていたようで、「しょうがねえなあ」と2本書いてくれました。
(第11回聞き取り)

 「乾燥機」のあとも、倉本脚本回を中心に清水部長の出番が増えていく。第13回「切符屋の熊」(1974年12月28日放送/倉本聰脚本、富永卓二演出)では、指定席券予約の名人である庶務課員・小熊(藤岡琢也)を都合のいいように利用し、中間管理職のエゴと傲慢さを示した。


富永卓二演出『6羽のかもめ』第13回「切符屋の熊」(1974年12月28日放送)。小熊役の藤岡琢也

 第20回「個人的事情」(1975年2月15日放送/倉本脚本、大野三郎演出)では、大介(高橋)の兄・正一(大滝秀治)が、清水の小学校の同級生だとわかり、再会を祝う。倉本ドラマの常連である大滝秀治と中条静夫、息のあった芝居が愉しい。


大野三郎演出『6羽のかもめ』第20回「個人的事情」(1975年2月15日放送)。左より田所正一役の大滝秀治、中条静夫

 第25回「死んで戴きます」(1975年3月22日放送/倉本脚本、大野演出)では、スポンサーのクレームを神妙な面持ちで聞きながら、部下に責任転嫁する器の小ささをにじませた(スポンサー責任者を、テレビ時代劇の名悪役・川合伸旺が演じる配役の妙)。ゲストで出た黒柳徹子(敏腕マネージャー役)に、清水が徹底的にやりこめられるシーンも面白かった。



大野三郎演出『6羽のかもめ』第25回「死んで戴きます」(1975年3月22日放送)。(写真上)スポンサー役の川合伸旺、(写真下)中条静夫

ドラマは生き物だと感じましたね。俳優が役を作り上げ、そこに息吹が入って動き出す。中条静夫が「7羽目のかもめ」と呼ばれたくらいです。こうして脇役が話題になると、やきもちを焼く共演者はいたと思います。ただ6人だけだと、このドラマはちょっと弱くて、脇筋が膨らんでいった。狂言回しというか、周りが良くないとドラマは面白くならないんです。ディック・ミネさんも、少し出る役のはずが、人気が出て場面が増えました。そもそも「6羽」がもっと引き立つためには、たとえば栗田ひろみの役は、もっと面白くないといけなかった。
(第11回聞き取り)

 『6羽のかもめ』は、1975(昭和50)年3月29日放送の「さらばテレビジョン」(倉本聰脚本、富永卓二演出)で最終回(第26回)を迎えた。こんなストーリーである。
 東洋テレビで、スペシャルドラマの制作が決まる。俗悪番組を憂う政府が「テレビ禁止令」を発令する設定の、近未来SFドラマだ。タイトルは『さらばテレビジョン』。そんなセンシティブな題材のドラマが、本当に放送できるのか。弁三(加東)の深い苦悩と決意を交えつつ、現場の人間模様を描く。


富永卓二演出『6羽のかもめ』最終回「さらばテレビジョン」(1975年3月29日放送)台本

 『6羽のかもめ』の撮影が終盤にさしかかるころ、弁三役の加東大介が病に倒れた。加東は、入院先からスタジオに通って収録に臨んだ。弁三は、ラストエピソード「さらばテレビジョン」の要であり、加東は一世一代の名演で有終の美を飾った。

 
加東大介(『6羽のかもめ』「さらばテレビジョン」)

 嶋田家の書斎には、『6羽のかもめ』の写真が2枚残っていた。そのうち1枚は、最終回のVTR収録日(1975年3月10日)にスタジオで撮影された完成記念(クランクアップ)である。この記念撮影は、「さらばテレビジョン」のエンディングでも映像が流れた。


『6羽のかもめ』完成記念。前2列左より栗田ひろみ、夏純子、長門裕之、高橋英樹、加東大介、淡島千景、ディック・ミネ、桜むつ子、下之坊正道。3列右5人目より矢田稔、中条静夫、喜多岡輝代、原洋子。同列左3人目より北浦昭義、本郷あきら、嶋田親一、柳瀬志朗、倉本聰(1975年3月10日、フジテレビスタジオ)

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 1975(昭和50)年7月31日、加東大介が亡くなった。享年64。『6羽のかもめ』撮影中は、すでにがんが進行していて、最終回から5か月後の悲報だった。

「弁ちゃん」が主人公のようにして常にいたから、いろんなキャラクターが際立った。川南弁三なくして「6羽」は語れないし、加東大介という俳優なくして、このドラマもない。マネージャーさんから「具合が悪い」と聞いて、どうしようか悩みました。でも加東さんが「この役だけは、なんとしてもやりたい」と言ってくれたので、病院から撮影に通ってもらいました。最後まで役をまっとうしたんです、加東さんは。
(第11回聞き取り)

 劇中でも、愛すべきキャラクターとして描かれた「弁ちゃん」なくして、「6羽」はない。『テレビ映像研究』1975年9月創刊号「テレビドラマ“6羽のかもめ”をおえて」の追記にはこうある。《「6羽」に再び挑戦しようとした私たちは、いま虚しい。加東大介演ずる弁ちゃんなくして『6羽のかもめ』は考えられないからである。嗚呼》。
 劇団「かもめ座」の歴史は、幕を下ろした。そのかわり、「6羽の夢よ、もういちど」とばかりに制作されたテレビドラマがある。『6羽のかもめ』と同じ「土曜劇場」の枠で放送された『あなただけ今晩は』(フジテレビ、1975年7月26日~9月27日放送)である。連続10回で、原案・脚本は倉本聰、プロデューサーが嶋田親一と中村敏夫、演出を大野木直之が手がけた。


『土曜劇場 あなただけ今晩は』広告(1975年7月26日付「讀賣新聞」朝刊)

「若尾文子主演」で始まった企画です。若尾さんと仕事をするのは、僕は初めてでした。相手役の藤田まことさんは、どうして決めたんだろう。たしか、倉本と僕が興味を持って、「一度やってみましょう」となったのかな。演出はフジテレビの大野木直之でした。
(第11回聞き取り)

 主人公の夕子(若尾文子)は、夫の三上六助(藤田まこと)を残したまま、あの世へと旅立つ。ところが、あの世へ行く列車に乗る前、かつて使用人だった茂吉(六代目瀬川菊之丞)と再会し、四十九日間有効の‟切符”を手に入れる。
 夕子は、同じ境遇の秋子(岸田今日子)にけしかけられ、夫の六助恋しさに現世へ戻る。六助は、会社の同僚である田辺幸子(仁科明子)に関心を寄せていて、夕子はあの手この手で六助の気を引こうとする。

 
左より岸田今日子、若尾文子(『週刊TVガイド』1975年7月18日号)

幽霊が主人公で、四十九日に成仏するまでの物語です。倉本の好きなSFの世界ですよ。のちに僕と(岡本)喜八さんとやった『ブルークリスマス』もそうでしょう。設定はいいんだけど、「6羽」にくらべると凡作でした。そう何度もヒット作は出せません。「6羽」に全精力を傾けたあとの作品ですから。
(第11回聞き取り)

 『6羽のかもめ』と若尾文子には少しつながりがある。「6羽」がスタートする1974(昭和49)年10月5日、平岩弓枝原作・脚本、大野木直之演出、若尾主演の連続ドラマ『女の気持』がフジテレビで始まった(1975年1月25日まで)。「女の」が午後9時から、「6羽」が午後10時からの放送だった。


フジテレビ番組広告(1974年10月5日付「讀賣新聞」朝刊)

 『女の気持』には若尾文子のほかに、仁科明子が出ている。『あなただけ今晩は』は、『女の気持』と『6羽のかもめ』を組み合わせたスタッフ、キャストである(仁科は、倉本聰のお気に入りでもあった)。
 このドラマに加わるのが、『6羽のかもめ』でブレイクした中条静夫である。ヒロインの夕子(若尾)は、幽霊なのでこの世では姿が見えない。ところが、六助(藤田)の兄で銀行員の一平だけは夕子の姿が見える(夢枕に立つ設定)。この一平を、中条が演じた。
 一平は、義理の妹である夕子の話し相手となり、ときには騒動に巻き込まれる。単行本化された倉本聰のシナリオを読むと、夕子と一平のコミカルなやりとりが、このドラマの見せ場になっている。

若尾文子主演で始まったはずの企画が、いつの間にか中条静夫ありきの企画になってしまった。「6羽」の人気と話題を、倉本も僕も引きずっていたんです。若尾さんとしては、もうちょっとやりがいのある役にできなかったのか、それが申し訳なくて。そのあと若尾さんとお仕事する機会もなくて、残念でした。
(第11回聞き取り)


若尾文子の名刺(1975年)

 『あなただけ今晩は』の映像は、少なくとも第1回は残っているらしい。ただ、筆者は見たことがない。『6羽のかもめ』のようにDVD化されることもなく、嶋田さんも本放送のあと、見る機会はなかったそうである。
 いっぽうの中条静夫は、著名なバイプレーヤーへと躍り出る。「6羽」のあと話題になったのが、『連続テレビ小説 雲のじゅうたん』(NHK総合、1976年4月5日~10月2日放送)で演じたヒロイン(浅茅陽子)のガンコおやじである。同じ年、『赤い衝撃』(TBS、1976年11月5日 ~77年5月27日放送)でも、ヒロイン(山口百恵)の父親役をやった。
 『6羽のかもめ』『あなただけ今晩は』のあと、倉本聰と嶋田親一と中条静夫が組んだ仕事が、もう一本ある。倉本脚本、岡本喜八監督の『ブルークリスマス』(東宝映画、1978年11月23日公開)である。製作には、嶋田親一、垣内健二、森岡道夫の3人が名を連ねた。


岡本喜八監督『ブルークリスマス』(東宝映画、1978年11月23日公開)チラシ

 『ブルークリスマス』で中条は、日本国営放送(JBC)の沼田報道部長を演じた。UFOを題材にした血なまぐさい物語ではあるものの、自宅から電話で買い物を頼まれるなど、中条の芝居は「6羽」の清水部長をほうふつとさせる。
 JBC局内のシーンは、河田町のフジテレビでロケされた。しかも楽屋オチで、嶋田さんがJBCの制作部長役でカメオ出演している。


『ブルークリスマス』。左より南一矢役の仲代達矢、沼田報道部長役の中条静夫


『ブルークリスマス』。制作部長役の嶋田親一
 

 『ブルークリスマス』を最後に、嶋田さんと中条静夫の仕事はなくなる。ただ、「中条さんは6羽のあと、ほうぼうの局に出て、大活躍しましたよね」(第11回聞き取り)とうれしそうに言っていた。プロデューサー冥利に尽きる、ということか。
 昭和50~60年代の中条静夫の活躍は、ここで触れるまでもない。気まぐれ本格派、Yの悲劇、鉄道公安官、夢千代日記、花へんろ、茜さんのお弁当、間違いだらけの夫選び、不良少女とよばれて、ヤヌスの鏡、刑事物語'85、プロゴルファー祈子、あぶない刑事、四捨五入殺人事件、京ふたり、ビートたけしの浅草キッド、勝手にしやがれヘイ!ブラザー……。出演ドラマを列挙するだけで、あんな中条、こんな静夫が次々と思い浮かぶ。

 
日本テレビ『あぶない刑事』(1986年10月5日~87年9月27日放送)オープニングより、近藤課長役の中条静夫

 数多くのドラマに出演するなか、中条本人が感慨ぶかくオファーを受けた作品がある。『銀河テレビ小説 あるときは妻』(NHK総合、1989年1月30日~2月17日放送)。佐藤繁子(松平繁子)のオリジナル作による、夜の連続ドラマである。


左より佐藤繁子、中条静夫、京マチ子(佐藤繁子著『あるとき妻は』プラネット出版、1990年4月)

 定年を迎え、覇気のない生活を送る勝利(中条静夫)を横目に、妻の陽子(京マチ子)はアクティブに日々を謳歌する。陽子は、挿絵画家の涌井(森本レオ)と“いい関係”になり、陽子の朝帰り、家出、ついには離婚騒動へと発展する。熟年夫婦を中心に、その家族と周囲の人たちの姿を描く、コミカルかつ辛口のホームドラマである。


『銀河テレビ小説 あるときは妻』。左より京マチ子、結城美栄子、大谷直子、土家里織、中条静夫(『あるとき妻は』カバー帯)

 中条静夫と京マチ子が夫婦になる。中条は、このキャスティングを誰よりも喜び、「感慨ひとしお」とNHKのスタッフに言った。京は当時、映画から舞台・テレビに活躍の場を移していたが、中条からすれば、仰ぎ見る大女優である。

 晩年の中条は、根っからの悪人を演じることがなくなった。企業のトップを演じても、どこか憎めないキャラクターだった。
 

 1994(平成6)年10月5日、中条静夫死去、享年68。大手ビール会社の社長を演じ、途中降板した『東芝日曜劇場 オトコの居場所』(TBS、1994年7月3日~9月25日)が遺作となった。
 亡くなるまで、ドラマのレギュラーがとだえなかった印象がある。60代、現在の感覚からすれば、まだまだ働きざかり。“遅咲きの花”は、散りぎわも早かった。

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 最後に、『6羽のかもめ』第24回「青春賛歌」(1975年3月15日放送)より、清水部長(中条)の台詞を紹介したい。
 ある夜、街で偶然出会った犬山モエ子(淡島)を、清水が飲みに誘う。バーのカウンターで、身の上ばなしを始める清水。「乾燥機」の弁三(加東)と同じように、モエ子は聞き役に徹する。土橋成男脚本、富永卓二演出で、以下はドラマの画面より筆者が文字に起こした。

ようやく卒業して、就職したテレビ局が開局早々だ。朝から夜中まで真っ黒になって働いて――結婚して、子どもつくって、今は――今は制作部長。部長たって、たいした権限があるわけじゃない、もう先は見えてるんだ。――ねえ、犬山さん、私はときどき考えるんですがね、いったい私たちの青春というのは何だったのか。私はね、地下鉄で通ってましてね。中原は車ですよ、そう、マイカー。私は地下鉄。その地下鉄に乗ってますとね、いるんだよなあ、私と同じ年ごろの連中が。ちょっとばかりくたびれて、でもきちんとネクタイして、さぁやろうって健気な顔をしてね。私は、そういう連中を見ると言ってやりたいんだなあ。君たちにとって青春というのは何だったんだ、いやそもそも青春なんてあったのかってね。
(『6羽のかもめ』「青春賛歌」)


富永卓二演出『6羽のかもめ』第24回「青春賛歌」(1975年3月15日放送)。左より中条静夫、淡島千景

 嶋田さんも、地下鉄で、あるいは都電やバスで、フジテレビに通ったのだろう。いつだったか、雑談でその話になった。「僕が、どうやって河田町に通っていたのか。そんな話、おもしろいかい?」。お好きだったビールを手に、そう笑っていたことを思い出す。
 嶋田さんが手がけたテレビドラマの多くは、映像がうしなわれ、残っていても容易に視聴はかなわない。フジテレビの社屋も、1997(平成9)年に河田町からお台場に移り、当時の面影はない。『6羽のかもめ』が満足のいくかたちで残ったことは、せめてもの救いである。


『6羽のかもめ』タイトルバック

 佐々木孝丸、市村俊幸、河内桃子、有島一郎、中条静夫。嶋田親一さんが、ともに仕事をした俳優のあれこれを、5回にわたって書いてきた。
 ほかにも、新国劇の島田正吾と辰巳柳太郎をはじめ、さまざまな俳優の思い出、ドラマ作りの現場の息吹、ドラマ制作と映画プロデュースの裏側、フジテレビと新国劇の内幕、ご自身の演出論など、いろいろな話を聞かせていただいた。どこかでまとめる機会があれば、と願っている。
 嶋田さんが専務理事を務めたNPO法人 放送批評懇談会の雑誌『GALAC』2022(令和4)年10月号にて、特別号「ありがとう! 嶋田親一さん」(同号付録「ほうこん」)が発行された。生前のお人柄が伝わる、心のこもった追悼特集で、PDFで公開されている。https://houkon.jp/wp-content/uploads/2022/09/houkon202210.pdf
 追悼文を読ませてもらうと、放送批評懇談会で親しかった方たちも、コロナのあとは嶋田さんと会う機会がなかったという。2020(令和2)年9月に初めてお会いして、それから13回におよぶオーラルヒストリー。「人と会えなくなっても、この取材は続けたい」と毎月時間を割いてくださったことが、いまさらながら身に沁みる。

 あらためて、ご生前のご厚情に深く感謝するとともに、心より嶋田親一さんのご冥福をお祈り申し上げます。


フジテレビドラマの撮影現場にて(1961~62年頃)。左より渡辺篤史、1人おいて、嶋田親一(島田親一)

印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者資料及び撮影
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