脇役本

増補Web版

老竹色、褪せず 中村竹弥


「松竹時代劇第1回公演」(東横ホール、1965年10月)パンフレット

 子どものころから“旧作テレビっ子”で、時代劇、刑事ドラマ、ホームドラマの再放送を好んで見ていた。その脇で貫禄を示すベテラン俳優が大好きで、ずいぶん顔と名前をおぼえた。
 片岡千恵蔵、大友柳太朗、東千代之介、萬屋錦之介(中村錦之助)は、晩年までテレビの脇で渋いところを見せた。いずれも往年の東映時代劇の大スターである。
 いまひとり、時代劇の再放送でなじみ深いベテランがいる。その名は中村竹弥(なかむら・たけや/1918~1990)。
 出演作は膨大にあるけれど、『大江戸捜査網』(東京12チャンネル[現・テレビ東京]、1970年10月3日~84年3月31日放送)で、11年にわたって演じた旗本寄合席・内藤勘解由がまず思い浮かぶ。
 「御前」と呼ばれる内藤は、十文字小弥太(杉良太郎)、井坂十蔵(瑳川哲朗)、伝法寺隼人(里見浩太朗)ら「隠密同心」の束ね(隠密支配)である。芝居がかったセリフまわし、立派なタラコ唇、するどい視線、風格のある殺陣と麗しき所作、一件落着後のおおらかな笑み、こぼれんばかりの色気。


『大江戸捜査網』第3シリーズ(東京12チャンネル、1974年)オープニング。左より、中村竹弥の内藤勘解由、安田道代のくれないお蝶、里見浩太朗の伝法寺隼人、瑳川哲朗の井坂十蔵、江崎英子の不知火のお吉

 筆者のもっとも愛するテレビ時代劇『編笠十兵衛』(フジテレビ、1974年10月3日~75年4月3日放送)にも、竹弥は出た。
 池波正太郎原作の忠臣蔵外伝で、赤穂浪士の討ち入りを陰で支える公儀隠密、月森十兵衛(高橋英樹)の活躍を描く。竹弥は、物語の要となる大石内蔵助にふんし、ハードボイルドなドラマをひきしめた。


『編笠十兵衛』第23回「陥穿」(フジテレビ、1975年3月13日放送)。左に高橋英樹の月森十兵衛、右に中村竹弥の大石内蔵助

 中村竹弥のキャリアは、映画で花を咲かせた片岡千恵蔵、大友柳太朗、東千代之介、萬屋錦之介とは異なる。舞台出身なのは同じだが、テレビで大成したスターであり、渋い名脇役だった。フジテレビで数多くの時代劇を手がけた能村庸一は書く。

彼こそはテレビが見出した、いわばテレビプロパーの時代劇スター第一号なのである。(中略)中村竹弥最大の功績は、テレビの成長期にあって、のちにリメークされるテレビ時代劇のほとんどのヒーロー役に先鞭をつけたことにあると言えよう。
(能村庸一「中村竹弥」『時代劇 役者昔ばなし』ちくま文庫、2016年2月)

 昭和30年代のテレビ草創期は、テレビスター・中村竹弥の全盛期と重なる。KR(ラジオ東京)テレビ、現在のTBS(東京放送)と専属契約を結び、10年間ほぼ毎週のように主役の枠をもった。
 その輝かしきキャリアは、主演作のタイトルで一目瞭然である。いずれも中村竹弥主演で、KRテレビ及びTBSがキー局となって放送された30分枠の番組である。

『江戸の影法師』(1955年10月21日~56年2月24日放送)
『隠密草紙』(1956年3月1日~4月26日放送)
『半七捕物帖』(1956年5月3日~12月27日放送)
『右門捕物帖』(1957年1月3日~58年4月12日放送)
『又四郎行状記』(1958年5月3日~ 11月22日放送)
『旗本退屈男』(1959年1月6日~60年9月27日放送)
『風流あばれ奉行』(1960年10月4日~61年10月10日放送)
『新選組始末記』(1961年10月17日 ~62年12月25日放送)
『鞍馬天狗』(1963年1月8日~9月24日放送)
『父子鷹』(1964年5月27日~9月2日放送)
『燃ゆる白虎隊』(1965年5月4日~7月27日放送)
『丹下左膳』(1965年10月6日~66年3月30日放送)

 役どころは、半七(半七捕物帖)、近藤右門(右門捕物帖)、早乙女主水之介(旗本退屈男)、遠山金四郎(風流あばれ奉行)、近藤勇(新選組始末記)、鞍馬天狗こと倉田典膳(鞍馬天狗)、勝小吉(父子鷹)、丹下左膳と大岡越前(丹下左膳)など、時代劇でおなじみのキャラクターばかりだ。


『鞍馬天狗』(TBS、1963年1月8日~9月24日放送)。中村竹弥の倉田典膳(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』サン出版社、1963年1月)

 KRテレビ及びTBSで放送された竹弥の主演作は、映像の多くが失われている。TBSに残る映像は『新選組始末記』が最古で、完全なかたちでは「鳥羽・伏見の戦い」の回(第55、56回)しか保存されていない。
 さいわいにも2023(令和5)年3月、CSの「時代劇専門チャンネル」が、現存する『燃ゆる白虎隊』と『丹下左膳』を再放送した。両作ともフィルム録りの「テレビ映画」だったため、すべてのエピソードの映像が残された(同様に『父子鷹』も現存)。
 とくに『燃ゆる白虎隊』は、ソフト化がされておらず、CSで再放送されることも珍しい。本作では、元会津藩主・松平容保と家老・日向外記の二役だった。やれうれしや、中村竹弥ファン感涙の再放送である。



『燃ゆる白虎隊』第1回「山河夢あり」(TBS、1965年5月4日放送)。中村竹弥の日向外記(上)と松平容保(下)の二役

 中村竹弥は、自叙伝や評伝の類いが1冊もないけれど、そのキャリアは昭和の演劇・放送史そのもの。歌舞伎、移動演劇、新劇、ラジオ、テレビ、映画、商業演劇と戦前から平成のはじめまで、あらゆるジャンルを渡り歩いた。 
 今年で生誕105年、71歳で亡くなって33年――。若竹、青竹、老竹と深みを増していく、その役者人生をふりかえる。

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 中村竹弥は、1918(大正7)年7月11日、東京・浅草で生まれた。
 本名を「佐藤勇」とする文献が多いいっぽう、竹弥は雑誌のインタビューで「佐藤友彦」と名乗っている。本項では、本人の発言を尊重して「友彦」名義で書いていく。
 父の佐藤重雄は、七代目市川八百蔵(七代目中車)の門下で市川百太郎、のちに松本麗五郎に改名する歌舞伎俳優だった。父の名を「麗三郎」とする文献もあるけれど、竹弥は「麗五郎」と語っている。
 友彦はひとり息子だった。小学校4年生のときに母の千代が亡くなり、父と子のふたりきりになる。


七五三のころの中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 高等小学校を卒業した友彦は、浅草の宮戸座で活躍していた中村竹三郎に弟子入りし、「中村竹弥」を名乗り、初舞台を踏む。1929(昭和4)年ないし30(昭和5)年のころである。
 師の竹三郎は、歌舞伎でも「小芝居」と呼ばれた世界の人で、晩年は六代目尾上菊五郎ひきいる「菊五郎劇団」の脇役となった。


中村竹三郎の栗山大膳(『演劇界11月号臨時増刊「三代の名優」』演劇出版社、1982年11月)

 宮戸座の舞台には、師の竹三郎とともに、父の麗五郎も立っていた。宮戸座時代の麗五郎と子役時代の竹弥を、劇作家の宇野信夫がそばで見ていた。宇野の回想エッセイに、その姿が印象的に綴られている。

 そのうちに小芝居も入りが薄くなり、一軒減り、二軒減り、とうとう宮戸座一軒になってしまった。私もその頃は学校を出て、戯曲を書きはじめていた。ある小雨のふる日、麗五郎が傘をさして、山谷の停留所に立っていた。久しぶりに見る麗五郎は、すっかり年をとっていた。おそらく、もう役者はやめているのであろう。すると、私のあとから長い袂の着物を着た子役が電車から下りて、麗五郎の傘へ入った。
 年老いた役者は、わが子の子役を傘に入れて、路地へ消えていった。私はその淋しい後姿を、感傷的な気持で見送った。
 後年、今テレビで活躍している或る俳優に、麗五郎の話をした。すると、「私はその麗五郎の息子で、その頃、宮戸座の子役をしていました」と言う。してみると、その時の長い袂の着物をきていた子役は、その俳優だったのである。(その彼も、今は金満家の後援者を得て、豪奢な邸宅に住んでいる)
(宇野信夫『むかしの空の美しく』青蛙房、1967年12月)

 情景の浮かぶ、いい文章である。それだけにラストの一文が、蛇足のような気がする。
 後述するが、竹弥なりに下積みが長かった。宇野信夫は、おそらくそれを知らない。《今テレビで活躍している或る俳優》と名を明かしていないところに、宇野が抱いたであろう違和感がうかがえる。

 中村竹弥は、歌舞伎の大名跡を継ぐ“いいとこ”の出ではない。「大部屋」「三階さん」(舞台から離れた場所に楽屋がある)と呼ばれた下積みの時代。竹弥は、そのころの思い出を好んで語ろうとしなかった。
 ゆえに、若き日のキャリアはいまひとつはっきりしない。竹三郎の縁で「菊五郎劇団」に入ったり、竹三郎と「青年歌舞伎」に出たり、若手の下積み役者を集めて研究劇団「新成座」を旗揚げするなどした。ただし、正確な舞台記録や出演リストはない。


「菊五郎劇団」時代の中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 すでにテレビ時代劇のスターになっていた1962(昭和37)年、『婦人倶楽部』(講談社)に手記「竹彌のたたきあげ記」を寄せた。わずかながらそこに、若き日のことを綴っている。

いまはすっかり太ってしまいましたが、そのころはほっそりとした姿のいい? 女形だったもので、いえ、けっして嘘は申しません。紫の矢絣の衣裳に黒じゅすの帯を立矢の字に結んで、大ぜいの仲間といっしょにずらりと舞台の下手にならび、「わが君さまにはいらせられましょう」などとやっていたのでした。
(手記 中村竹彌「竹彌のたたきあげ記」『婦人倶楽部』1962年11月特大号、講談社)

 1938(昭和13)年に上演された「青年歌舞伎」の絵本筋書を見ると、若き日のキャリアの一端がうかがえる。青年歌舞伎は、片岡我當(十三代目片岡仁左衛門)、十四代目守田勘弥が中心となった興行で、戦後歌舞伎を担う俳優たちが出演している。


「青年歌舞伎」絵本筋書(1938年4月、7月、12月)

 絵本筋書から《竹彌》の名をさがしてみる。4月の「東西合同青年歌舞伎四月興行」(新宿・第一劇場)では、昼の部『鏡山奮錦繪』で腰元青葉と夜の部『軍配曇りなし』で見物人。
 7月の「青年歌舞伎劇」(築地・東京劇場)では、『阪崎出羽守』で上野介の家来と『江戸の花和尚』で往来の男女。
 12月の「青年歌舞伎顔見世興行」(木挽町・新橋演舞場)では、『菅原傳授手習鑑』で捕人と大森彦七家来の二役、さらに戦意高揚を狙った現代劇『従軍記者最前線』で兵士を演じた。


1938年7月「青年歌舞伎劇」(築地・東京劇場)絵本筋書(部分拡大)

 腰元、見物人、家来、往来の男、捕人、兵士といった役から、当時の竹弥の置かれた立場、歌舞伎俳優の「格」がわかる。舞台姿の絵はがきが売り出されることもなく、「大部屋」「三階さん」から、なかなか抜け出せなかった。

 芽が出ないまま20代をむかえた竹弥にとって、「戦争」がひとつのチャンスとなる。日中戦争から太平洋戦争への時代、「お国のため」を掲げる移動演劇(移動劇団)が盛んとなり、そこに身を投じていく。
 1940(昭和15)年11月、「松竹国民移動劇団(松竹國民移動劇團)」が結成され、竹弥ら「新成座」の俳優が合流した。結成を伝える演劇雑誌には、《劇團員の顔触れですが、名のある俳優は一人も居ません》(「演劇の再發足 中支戰線慰問の旅 松竹國民移動劇團」『國民演劇』1941年5月号、牧野書店)とある。
 結成からまもない1941(昭和16)年1月には、松竹国民移動劇団が中国への慰問公演に旅立つ。二班体制がとられ、竹弥は第二班のひとりとなった。慰問公演を伝える『國民演劇』の記事に、《中村竹彌》の名がある。
 1941(昭和16)年1月12日、一行は東京駅を発ち、「中支皇軍慰問」の名のもと、中国へ渡った。上陸した南京で二班にわかれ、竹弥が属する第二班は長江から漢口、武昌、岳州、九江とまわった。
 出しものは、岡本綺堂作『修禅寺物語』(村崎敏郎演出)と獅子文六作『断髪女中』(伊田和一脚色、村崎敏郎演出)、そして舞踊が数番つく。
 のちに竹弥は、NHKアナウンサーの宮田輝との対談でこう語った。《むこうで兵隊さんは木頭の音、チョーンとやるだけで泣きましたね。ああいうものは、いかに日本的なものだったかということですね》(「宮田輝おしゃべりジャーナル『ゲスト 中村竹弥』」『週刊平凡』1962年8月23日号、平凡出版)。
 日本を発った翌月、1941(昭和16)年2月、九江にいた竹弥は、東京から電報を受け取る。「チチシス」。2月10日が、父・松本麗五郎の命日だった。
 たったひとりの肉親を失い、竹弥は天涯孤独の身となる。親の死に目に会えない役者稼業、「皇軍慰問」の旅となれば、すぐ帰るわけにもいかない。

 予定どおり慰問をおえて、船にのって帰ってくる途中、こんなに船脚というのはのろいものかとおもったのは、まるで広い海の上では動いていないように見えたからです。
「ああ、これでほんとに一人ぼっちになってしまったな」
 と私は甲板で、沈んでいく水平線の向こうのまっ赤な太陽を眺めながら考えさせられました。私の胸のなかには、
「やっていけるだろうか」
 という微かな不安もありましたが、
「だが、やっていかなくちゃならない」
 私は甲板の手すりにもたれて、一人で唇を?みしめました。二十一年前のことですから、私がちょうど二十三ぐらいのときだったでしょうか。そのときのエンジンの音、波の音……いまもはっきりとおぼえているような気がします。
(「竹彌のたたきあげ記」)


手記 中村竹彌「竹彌のたたきあげ記」(『婦人倶楽部』1962年11月特大号、講談社)

 1941(昭和16)年3月に帰国したのちも、松竹国民移動劇団の一員として活動した。利倉幸一の回想によれば、利倉演出の『勘平の死』に竹弥が主演したという。
 日米開戦の翌月、1942(昭和17)年1月には、日本移動演劇聯盟主催「移動演劇綜合公演」(築地・国民新劇場、1月9日~15日)が上演された。松竹国民移動劇団、東宝移動文化隊、籠寅移動演藝隊、吉本移動演劇隊による合同公演で、情報局、大政翼賛会、東京日日新聞社が後援した。


日本移動演劇聯盟主催「移動演劇綜合公演」(築地・國民新劇場、1942年1月9日~15日)チラシとプラグラム

 この公演で竹弥は、情報局賞・国民演劇入選脚本『灯消えず』(松崎博臣作、金子洋文演出)に出た。みずから戦地に赴く陸軍軍医大尉・田口龍一(浅野進治郎)の勇姿を描く大作(4幕5場)で、竹弥は同少尉・清水健一と負傷兵の二役を演じた。
 主役ではないけれど、腰元や家来をやっていた「青年歌舞伎」にくらべると、それなりに見せ場があったのではないか。


移動演劇綜合公演『灯消えず』プログラム(部分拡大)

 「菊五郎劇団」時代や青年歌舞伎の思い出を好んで口にしなかった竹弥も、戦時下の移動演劇の思い出はときどき書いたり、語ったりした。手記「竹彌のたたきあげ記」に、当時の回想が少しある。

農・山・漁村や、各地の工場、炭鉱などをまわって歩いていました。むずかしい議論は別として、一口にわかりやすくいえば、ごくすくない人数の俳優で、簡単な道具を持って移動し、工場や農村ではたらいている人たちに今日の娯楽、そして明日に生きる勇気を与えようというのがねらいで、そのころいくつもの「移動劇団」ができたものですが、私たち松竹の仲間は歌舞伎の大部屋ではたらいていたものを中心としてつくられました。
(「竹彌のたたきあげ記」)

 後述する『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』(サン出版社、1963年1月)のインタビューでは、こう答えた。

いろいろあったけど、何んといっても国民移動演劇隊にいたころの思い出がいちばんですね。そうとう苦しい思いもしたけど、いまになってみると、その一つ一つが楽しい思い出ですよ。
(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』「おたずねします/お答えします」サン出版社、1963年1月)

 家柄と門閥にしばられる都市での歌舞伎興行より、慰問で津々浦々をまわる移動演劇のほうが、性にあっていたのかもしれない。慰問公演や移動演劇に従事した多くの俳優と同じく、口をつぐむところもある。とくに日米開戦前の中国慰問について、父の死のほかは書き残していない。
 しかし、移動演劇の日々はそう長くは続かない。1945(昭和20)年8月15日のことを、のちにこうふりかえる。

郡山です。お昼前まで機銃掃射をうけて、駅前に退避していたんですが、たいへんな放送があるというので、近所の食堂へ行ったら、そこで陛下のお声を聞いたんです。それから一昼夜歩き続けて、仙台の近くまで行ったんですが、それから東京へ帰るまでがたいへんでした。
(「宮田輝おしゃべりジャーナル『ゲスト 中村竹弥』」『週刊平凡』1962年8月23日号、平凡出版)

 敗戦により、松竹国民移動劇団は解散した。草創期のテレビ時代劇で主役をはるまで、この先まだ10年の月日がある。
 占領下の日本で、名だたる時代劇スター、歌舞伎の名優でさえ、さまざまな制約を強いられた。中村竹弥の下積みは、戦後になっても変わることはない。

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 敗戦後まもなく、多くの俳優が辛苦を味わう。中村竹弥もその例外ではなく、手記にこう綴っている。

 やっぱり一番ひどかったのは戦争がすんでからで、なにしろ私たち俳優というものほど、つぶしのきかないものはありません。芝居をするということ以外は芸がないのですから。
 やがて東京に舞い戻り、みんな芝居で生きていくために、身の皮をはぐような暮らしがはじまりました。なかには夜店の商人になって芝居から離れていった人もありましたし、私たち歌舞伎出身のものは踊りの会に手つだいにいったり、そうかとおもうと田舎へいって干した椎茸を買ってきて、これを木でふやかして生椎茸のように見せかけて売って歩く、というような、苦肉の策をめぐらす人などもでてきました。
(「竹彌のたたきあげ記」)

 戦後になり、古巣の歌舞伎からは距離をおいた。1946(昭和21)年からは、和田勝一が中心となった「民衆座」に参加し、3年ほど在籍した。
 劇団の機関紙『民衆座』第1号(民衆座、1947年6月)で、劇団幹事長の池田清二はこう記す。《幼年時代から師匠の許で叩き上げられた歌舞伎出身の八雲隊の人々と、昭和五、六年以後、革命的演劇運動に参加し、その理論と実践との矛盾をつぶさに体験した私達とが結合したのである》。
 この「八雲隊」に、おそらく竹弥がいた。民衆座では「中村竹弥」ではなく、本名の「佐藤友彦」を名乗った。機関紙『民衆座』には、演技部に佐藤の名があり、《幹事會構成》の欄には《演技部長 佐藤友彦》とある。


『民衆座』第1号(民衆座、1947年6月)と「民衆座関西第1回公演」(毎日会館、6月19~29日)プログラム

 1947(昭和22)年6月、大阪の毎日会館で「民衆座関西第1回公演」(6月19~29日)が上演された。
 演目は近松門左衛門原作(『平家女護島』)より『俊寛』(1幕/菊地史郎演出)と、モリエールの『守銭奴』(4幕/土井逸雄訳、堤安彦演出)のふたつ。竹弥は佐藤友彦として、『俊寛』で丹羽少将成経を、『守銭奴』で主人公クレアント(槙村浩吉)の召使ラ・フレーシュを演じた。


『民衆座』第1号(部分拡大)

 民衆座では、座員の合議制(演技部会)により配役が決められた。その姿勢が、歌舞伎界の因習を知る竹弥には新鮮だった。前述の『民衆座』において、こう所感を述べた。

観念的にではなく、具体的な過程の中から自己を凝視し、芸術にたづさわる資格を先づつける為に既成概念から見れば暴挙とも云うべき革新的組織となつたのです。演技者としてこの組織で生きる為には、先づ何をおいても、眞裸になることから始めなくてはなりません。
(佐藤友彦「新しき組織に於ける演技者の喜び」『民衆座』第1号、民衆座、1947年6月)


『民衆座』第1号(部分拡大)

 のちに竹弥は、人気アナウンサーの高橋圭三と対談したさい、当時のことを語った。

そのこんとんとした時代に、新しい演劇を確立しようと、たいへん大きな目標をたてましてね。われわれ、多少、歌舞伎をカジった人間、それから真山美保さんのグループ、それから新劇の一部とで、モリエールの『守銭奴』みたいなもの、もう一つ日本的な近松門左衛門の『俊寛』――『俊寛』では義太夫の部分をとっちゃって、そのかわりに七五調の韻をふんだ文章をナレーターにして……。
(「圭三対談『どうもどうも』」第16回「錦を飾った“近藤勇” ゲスト 中村竹弥氏」『週刊サンケイ』1962年9月17日号、産経経済新聞社) 

 民衆座から離れたあと、「佐藤友彦」からふたたび「中村竹弥」に名を戻した。1950(昭和25)年2月のピカデリー実験劇場第4回公演『廿日鼠と人間と』(丸の内・ピカデリー劇場、2月4~27日)では、佐藤友彦ではなく、中村竹弥の名で出た。
 「ピカデリー実験劇場」は、劇作家・演出家の菅原卓らが中心となったプロデュース公演である。当時の連合国総司令部民間情報教育局の指導を受けつつ、占領下にあった「ピカデリー劇場」で上演された。


ピカデリー実験劇場第4回公演『廿日鼠と人間と』(丸の内・ピカデリー劇場、1950年2月4~27日)パンフレット

 『廿日鼠と人間と』(3幕6場)はジョン・スタインベック作、三宅大輔訳、佐久間茂高・西田實の演出で、製作・上演にあたって讀賣新聞社がバックについた。
 プロデュース公演とあって、顔ぶれは多彩である。歌舞伎から三代目市川段四郎(二代目市川猿翁の父)、二代目尾上九朗右衛門(六代目尾上菊五郎の長男)、第一協団から河津清三郎、石黒達也、清水元、ムーラン・ルージュから宮坂将嘉、新派から高橋潤、映画から高杉早苗、そこに浅野進治郎、中村竹弥をくわえた座組である。
 竹弥が演じたのは、舞台となるカリフォルニア州南部の農場で働くホイット。脇役ではあるものの、公演パンフレットには顔写真がちゃんと載っている。


『廿日鼠と人間と』パンフレット(部分拡大)

 『廿日鼠と人間と』は竹弥にとって、よき思い出の舞台となる。

当時は、みんな撮影やなんかの仕事から帰ってきちゃ、やったんです、けいこをね。いずれにしても延べ一か月はけいこしたからね、いまでもみんなと会うと、ああいうけいこをやって芝居ができたらいいがなあと、いいあうんですがね。
(「圭三対談『どうもどうも』」) 

 翻訳劇の舞台に立ったとはいえ、新劇の世界は竹弥にとって安住の地とならなかった。歌舞伎に戻ったところで、家柄と門閥にめぐまれない身では、満足のいく居場所は容易に見つからない。
 俳優だけでは食べていけず、戦後は舞台の化粧係や舞踊の仕事もこなした。結婚し、長女が生まれるなか、生活はラクではない。
 そこで身を投じたのが放送の世界、NHKラジオだった。心機一転、名も本名の「佐藤友彦」にふたたびあらためた。少しでも歌舞伎のイメージを払拭したい気持ちからだった。まさしく流転のひと、である。
 NHKでは、北村寿夫の連続放送劇『新諸国物語』に出た。第2部『笛吹童子』(NHK第一、1953年1月5日~12月31日放送)では三日月童子を、第3部『紅孔雀』(同、54年1月4日~12月31日放送)では主人を演じた。
 いずれも子どもに大ヒットしたラジオドラマで、東映が東千代之介と中村錦之助のコンビで映画化し、さらなるブームに火をつけた。元のラジオ版に出た「佐藤友彦」が、後年の「中村竹弥」と知る人は少ない。


「昭和二十八年度連続放送劇一覧」(部分拡大)『年刊ラジオ・ドラマ 1954年版』(宝文館、1954年8月)

 このころからようやく、竹弥のキャリアに光明が差し込む。幸いだったことはふたつ。
 ひとつは、1951(昭和26)年以降、民放(民間放送)各局が産声をあげたこと。もうひとつは、1953(昭和28)年にテレビの本放送が始まったこと。NHKを皮切りに、民放の日本テレビ、ラジオ東京(現在のTBS)がテレビに参入したことが、竹弥の人生を大きく好転させていく。
 すでに30代の半ば、四捨五入すれば40になる年ごろ。テレビの草創期が、遅咲きのチャンバラスターが生むことになる。

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 「電気紙芝居」と揶揄されたテレビだが、1955(昭和30)年ごろは、海のものとも、山のものともつかないメディアだった。
 テレビ局としては、映画でおなじみのスターはもちろん、著名な舞台俳優にも声はかけづらい。しかも、生放送の時代劇である。ネームバリューより、主役をこなせるだけの力量がまず問われる。
 1955(昭和30)年、開局まもないラジオ東京テレビ(KRテレビ)で、30分の時代劇枠の制作が決まった。当時演出部にいた岸井良衛とディレクターの石川甫は、主役さがしに奔走する。
 そこで見つけたのが、NHKで何本かのテレビドラマに出ていた竹弥だった(NHKではテレビにも佐藤友彦の名前で出た)。ラジオ東京の当時専務で、のちにTBSの社長となる鹿倉吉次が、竹弥起用の経緯を明かす。

 彼は、ようやく青年期も過ぎようとしていた歌舞伎の名題役者ではあったがいわゆる世間に知られた役者ではなかった。ただ彼のもつ瑞々しさと真面目そうな人間性がわれわれの眼をひいた。この二つの資質は十年後の今でも彼の大きな魅力となっているが、このとき前記の岸井君は、彼に踊りの名取の素養があることが、必ず殺陣を必要とする主役として立派に役を果すであろうという推挙の理由を述べた。これによって竹弥君の主役が決定した。
(鹿倉吉次「竹弥君のこと」(『松竹時代劇第1回公演』東横ホール、1965年10月)

 鹿倉の文章だと、岸井良衛が発見したように受け取れるが、実際に抜てきしたのは石川甫と思われる。マキノ雅弘が、石川に竹弥を紹介したとの文献(志賀信夫『映像の先駆者 125人の肖像』日本放送出版協会、2003年3月)もある。


石川甫(『キネマ旬報』第207号・臨時増刊「テレビ大鑑・一九五八年版」キネマ旬報社、1958年6月)

 主役のオファーを受けた竹弥は、即答していない。それなりに躊躇したことを、手記「竹彌のたたきあげ記」で明かしている。

 なにしろ主役をやるのははじめてのことですし、こちらにもいろいろ事情があって一月考えさせてもらいました。
 それでいろいろ考えて結局ひきうけることにきめましたが、今日こういうことになるなどとは、夢にも考えていませんでした。
 それが次第に『半七捕物帳』の半七、むっつり右門、又四郎となり、早乙女主水正、近藤勇と一歩ずつ、一歩ずつ歩いているわけです。
(「竹彌のたたきあげ記」)

 KRテレビでの主演シリーズ第1作は、白井喬二原案の『江戸の影法師』(1955年10月21日~56年2月24日放送)。生放送の時代劇であり、写真が残るのみで映像は残っていない。
 この年、師の中村竹三郎が亡くなった(1955年4月22日死去、享年76)。


『江戸の影法師』(KRテレビ、1955年10月21日~56年2月24日放送)生放送風景。右に中村竹弥、左は不明。(『週刊娯楽よみうり』1955年12月2日号、読売新聞社)

 このキャスティングに賭けたKRテレビは、竹弥と専属契約した。当時の民放テレビでは、珍しいケースとなる。
 『江戸の影法師』に出たころは、ラジオの仕事も続けている。伏見扇太郎主演の『風雲黒潮丸』(ニッポン放送、1955年5月1日~56年9月30日放送)では、佐藤友彦の名で従者の秀光をやった。
 竹弥の主演シリーズは、『隠密草紙』(1956年3月1日~4月26日放送)、『半七捕物帖』(56年5月3日~12月27日)、『右門捕物帖』(57年1月3日~58年4月12日)、『又四郎行状記』(58年5月3日~ 11月22日)と続いていく。


『隠密草紙』(KRテレビ、1956年3月1日~4月26日放送)。中村竹弥の神谷(『旬刊 ラジオ東京』1956年5月1日号、ラジオ東京)


『又四郎行状記』(KRテレビ、1958年5月3日~11月22日放送)。左に中村竹弥の笹目又四郎、右に浜田百合子(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑・一九五八年版」)

 メジャースターの扱いを受けたわけではない。けれども、『旬刊ラジオ東京』(ラジオ東京)のグラビアを飾るなど、ちょっとずつ露出の機会は増えていく。新聞や雑誌にも、竹弥の名が取り上げられるようになった。

 映画が「総天然色」「シネマスコープ」を謳った当時、竹弥は小さなブラウン管のなかでアップとなり、見得をきった。画面は小粒でも、貫禄のあるヒーローだった。


「スタジオの片隅で」(『旬刊 ラジオ東京』1956年11月11日号)。右より4人目に半七役の中村竹弥

 殺陣もうまかった。広いスタジオやロケ先で撮影できる映画と異なり、狭いテレビのスタジオでチャンバラを、それも数台のカメラの前でこなす必要がある。
 殺陣の間合いとアップの表情、そうした制約をクリアするだけの技があったし、本人なりに工夫もした。

 手が伸びなくてね、刀抜くのにしても、骨折っちゃいますよ。まともに刀を抜くと相手の額にぶっけちゃいそうで。ほんとに、ここ(目の前)にいるんだから。こうぬすんで(身を後ろにそらして)抜くとか、長年やったカンで(笑)。(中略)
 あたしの立回りの基本は、日本舞踊なんですね。よく剣道の有段者のかたに「ほんとにお前さんは段を持っているように見えるよ」といわれるんですよ。それは、芸の知恵に通ずるというか、日本舞踊の腰の入れかた、構えが、剣道の勝負の構えに通じるものがあるんじゃないですか。
(「宮田輝おしゃべりジャーナル」)

 竹弥の殺陣のうまさに注目したひとりに、殺陣師の的場達雄がいる。『旗本退屈男』での殺陣をひきあいに出し、「讀賣新聞」の取材に答えている。

カブキ畑の人だけに踊りを知っていること、刀、ヤリ、いずれも使いこなせ、足の運びが実にきれい。“からみ”と呼吸をあわせて間をとることもうまい。目の表情ひとつで左右に飛んで切り捨てるのを“目をひく”というが、竹弥の目はこまかく“からみ”をリードしている点などをあげ「刀を抜いたりサヤにおさめたりするうまさに重量感があり、あたりを制している」とベタほめだ。
(「テレビ剣豪採点表 タテ師の的場達雄さんにきく」1960年3月3日付「讀賣新聞」夕刊)

 的場が指摘する「殺陣の重量感」は、逆にいえば身軽でスピーディーな立ち廻りではない。竹弥の貫禄は、スクリーンの大きな映画より、画面の小さいテレビに向いていた。
 主演シリーズの第6作『旗本退屈男』(1959年1月6日~60年9月27日放送)は評判がよく、放送期間は1年半以上に及んだ。
 映画では市川右太衛門の十八番である早乙女主水之介は、貫禄たっぷりの竹弥の柄にもあった。竹弥自身、この役が決まったさい、京都にいる右太衛門を訪ね、指導を仰いでいる。


『旗本退屈男』(KRテレビ、1959年1月6日~60年9月27日放送)。中村竹弥の早乙女主水之介(「テレビのチャンバラ指南書(部分拡大)」『少年画報』1960年5月号、少年画報社)

 1959(昭和34)年7月には、新宿第一劇場で『旗本退屈男 南蛮寺の悪魔』が上演され、主演で舞台を踏んだ。この劇場で腰元や見物人をやった「青年歌舞伎」から、21年の月日が経っていた。

 早乙女主水之介を演じたころから、竹弥の人気はさらに高まっていく。少年雑誌をはじめ、新聞・雑誌への露出も増えていく。


1950年代の中村竹弥(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑・一九五八年版」)

 続く主演第7作『風流あばれ奉行』(1960年10月4日~61年10月10日放送)では、映画で片岡千恵蔵が持ち役にした遠山金四郎を演じた。

 1961(昭和36)年9月には、浅草国際劇場の「村田英雄ショウ」(9月10~16日)に特別出演した。郡司次郎正の『侍ニッポン』(淀橋太郎構成・演出)に出て、新納鶴千代(村田英雄)の父にして、わが子に討たれる井伊直弼をやっている。

 その翌月、代表作となる『新選組始末記』(1961年10月17日 ~62年12月25日放送)がスタートした。
 新橋、祇園、先斗町と東西の舞妓が席を陣取り、「タケヤ~」と黄色い声をあげた伝説の連続時代劇。菊は栄えて、葵は枯れる……新選組局長・近藤勇が、いよいよここにお目見えすることになる。

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 『江戸の影法師』から『風流あばれ奉行』まで、中村竹弥の主演シリーズはいずれも勧善懲悪、お決まりのパターンが売りの「痛快娯楽時代劇」である。
 主演第8作となる『新選組始末記』は、それまでのシリーズとは、かなり毛色が違う。娯楽時代劇には違いないものの、幕末動乱期の京が舞台の連続もので、血なまぐさい“亡びの美学”が横溢する。
 『新選組始末記』の原作は、子母沢寛の同名作で、1928(昭和3)年に萬里閣書房から出版された。小説と呼ぶより、ノンフィクションに近く、第1回「十三人の隊士」放送日の新聞各紙には《ドキュメント時代劇》と紹介されている。

 歴史の上にまともな足跡も残さず、単なるテロ集団として消滅した新選組を、近藤以下の主だった隊員の人間像をもとめながら描き出そうとする。(中略)
 演出も、たとえば立ち回りなど、真にせまった感じを出すため、刀も軽い竹光でなく本身を使ったりするそうだ。
(1961年10月17日付「朝日新聞」)


『新選組始末記』第1回「十三人の隊士」(TBS、1961年10月17日放送)。左より、森光子のお梅、中村竹弥の近藤勇、戸浦六宏の土方歳三(同日付「朝日新聞」)

 『新選組始末記』は、毎週火曜日の21時30分からの30分、当時「東京テレビ」と呼ばれたTBS(東京放送)をキーステーションに、全国18局ネットで放送された。
 『旗本退屈男』『風流あばれ奉行』から続いて、八欧電機株式会社(現・富士通ゼネラル)の一社スポンサーである(現存する映像には《提供 八欧電機 ゼネラル商事》とテロップが出る)。高嶺の花だったテレビ受像機も、1960年代に入ると契約台数が年々増えていた。
 ドラマは、子母沢寛の原作を、生田直親や太田久行(若き日の童門冬二)らが脚色、TBSの山本和夫が演出した(山本は竹弥を見いだした石川甫の部下)。音楽は舟越隆司、三橋美智也が歌う『新選組の歌(新撰組の歌)』(牧房雄作詞、舟越隆司作曲、キングレコード)が主題歌である。
 エンディングは、三橋が歌う主題歌をバックに、勇壮なナレーションが入る。この語りを、TBSアナウンサーからフリーになった芥川隆行がつとめた。のちに数多くの作品で語り手をつとめる芥川にとって、これが出世作となる。


『新選組始末記』タイトルバック

 おもな配役は、近藤勇に中村竹弥、土方歳三に戸浦六宏、沖田総司に明智十三郎、原田左之助に山岡徹也、お孝(近藤の愛妾)に喜多川千鶴、芹沢鴨に金子信雄、近藤周平に服部哲治、松原忠司に黒川弥太郎、山南敬助に土屋嘉男、佐々木愛次郎に市川団子(二代目市川猿翁)、松平容保に外山高士など。
 ほかに坂東好太郎、水島道太郎、河津清三郎、河野秋武、御木本伸介、森光子、中村梅之助、花柳小菊、長谷川待子、青山京子、花柳喜章、天津敏、織本順吉、小松方正、玉川伊佐男、清水元、小堀明男らが出演した。若手、中堅、ベテランと豪華な30分時代劇である。


『新選組始末記』。左より、山岡徹也の原田左之助、中村竹弥の近藤勇、戸浦六宏の土方歳三、明智十三郎の沖田総司(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 中盤の見せ場となる「池田屋事変」では延々30分、殺し合いを見せるなど、『新選組始末記』は生々しい殺陣(桜井美智夫)が話題となった(1962年3月13日放送「池田屋事変 その四」の映像がわずかに残っている)。
 時期としては、黒澤明監督『椿三十郎』(東宝、1962年1月1日公開)と三隅研次監督『座頭市物語』(大映京都、1962年4月18日公開)、五社英雄演出『三匹の侍』(フジテレビ、1963年10月10日~64年4月9日放送)と工藤栄一監督『十三人の刺客』(東映京都、1963年12月7日公開)の狭間にあたる。時代劇に情熱をかたむけた人たちが、あらたな殺陣を模索する時代だった。
 能村庸一の労作にして名著『実録テレビ時代劇史』(東京新聞出版局、1999年1月)では、こう評されている。

当時としては新鮮な作品だった。チャンバラは厳密に写実ではなく、そうかといって斬られても全然血の出ない歌舞伎の立ち廻りでもない。虚実をうまく取り入れ、新国劇の舞台を見るようだったという。ある所では本身を使いギョッとするような工夫も折り込まれていたのだ。
(能村庸一『実録テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年1月)

 殺陣の迫力、戸浦六宏ふんする新選組副長・土方歳三ら隊士の魅力はある。それもさることながら、視聴者に強いインパクトを与えたのが、中村竹弥の近藤勇だった。


『新選組始末記』。中村竹弥の近藤勇(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 40代も半ばにさしかかる男ざかり。殺りく集団を束ねる苦悩のリーダーは、当時の竹弥にうってつけだった。それまで近藤勇の役は、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎が演じていたが、竹弥の貫禄も申しぶんない。
 その滑舌と押し出しのよさは、TBSに残された第55回「鳥羽・伏見の戦い 前編」(1962年10月30日放送)、第56回「同・後編」(11月6日放送)を見るとよくわかる。
 重い鉄砲傷を負った近藤は、戦場に赴くことができない。大阪城(大坂城)内で、ただひたすら待つしかない。映像が残るこのエピソードでは、殺陣を見せないぶん、近藤の無念な心境がクローズアップされる。


『新選組始末記』第55回「鳥羽・伏見の戦い 前編」(1962年10月30日放送)。中村竹弥の近藤勇

 回を追うごとに、『新選組始末記』の人気は高まっていく。中村竹弥の存在が、新聞や雑誌で取り上げられることも増えていく。
 『新選組始末記』を愛したひとりに、右翼の大物にして政界の黒幕、昭和の怪人物たる児玉誉士夫がいる。児玉は、中村竹弥後援会「竹友会」の発起人をつとめた。

それまで近藤勇と云う人間はとかくあまりにも誇大に価値づけられていたからである。だが、テレビのそれはたゞ強いだけでなくあの幕末の中での一人の組織者としての苦悩を史実に忠実に描き、それをまた適格に演じられた竹弥氏に敬意を表したのでした。以後私は彼のテレビ番組の愛好者となったのでした。
(児玉誉士夫「大衆と演劇」『中村竹弥奮斗公演』新橋演舞場、1963年8月)


中村竹弥後援会「竹友会」発会式風景。左に中村竹弥(新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット、1963年8月)

 新選組は時流に逆らえず、仲間がひとり減り、ふたり減り、どんどん追い込まれていく。「判官びいき」な視聴者の琴線を刺激したのか、『新選組始末記』の人気を、竹弥みずからこう分析している。

「新選組」は負けると判っても将軍様のために戦っている。つまり、利害をはなれた行為が、日本人らしい共感を呼んだのではないでしょうか。それに、血のりをふんだんに使って、かわった殺陣をお目にかけたこと。もう一つ……(少しためらいながら)……私たち人間の中に、残酷だとか、悪の要素が少くないといわれますが、そんなことも、みなさまに親しまれた理由ではないかと思います。
(「ショートインタビュー中村竹弥」『中村竹弥2月特別公演』梅田コマ・スタジアム、1963年2月)

 『新選組始末記』のヒットを喜んだのは、スタッフとキャスト、TBSこと東京放送の関係者だけではない。なにより感激したのが、スポンサーの八欧電機である。
 「ゼネラル」と聞けば、思い出す世代が多いはず。テレビやステレオをはじめ、さまざまな電化製品で知られた大手家電メーカーである。
 こうして実現したのが、1962(昭和37)年8月の新橋演舞場における「中村竹弥奮斗公演」(8月2~26日)だった。東京放送(TBS)と八欧電機が全面的にバックアップした竹弥初の座長公演で、新派の伊志井寛が特別出演した。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」広告(1962年7月28日付「讀賣新聞」夕刊)

 新聞の公演広告には《テレビの人気番組をレギュラータレントで舞台に再現!》とある。TBSの人気ドラマが演目となり、いまでいう「メディアミックス」の様相を見せた。
 前半の演目は、伊志井寛と京塚昌子の熟年夫婦の日常を描く『東芝日曜劇場』の人気シリーズ『カミさんと私』(5場/土岐雄三原作、辻久一脚色・演出)。伊志井、京塚、長男の小山田宗徳、長女の大空真弓(眞弓)、次男の山本学(學)、いずれもテレビ版と同じ配役だった。
 後半が、本公演の目玉『新選組始末記』(3幕)である。生田直親と小松君郎の脚色、演出が村山知義。出演は中村竹弥の近藤、戸浦六宏の土方、明智十三郎の沖田、山岡徹也の原田、喜多川千鶴のお孝らテレビ版のキャストが勢ぞろい。テレビ版のファンとしては、たまらない。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」より『新選組始末記』。左に中村竹弥の近藤勇、右に戸浦六宏の土方歳三(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 演目の最後には、舞踊家のキャリアをいかした『江戸名所三代踊』(清元連中)がつく。西川鯉三郎の作で、名人の吾妻徳穂がつきあう豪華な舞踊劇となる。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」より『江戸名所三代踊』。左に吾妻徳穂、右に中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 新橋演舞場といえば、東京では歌舞伎座や明治座とならぶ大舞台だ。下積みの長かった竹弥にとって、感慨はひとしおであった。
 新橋演舞場をもつ松竹としては、興行に対する不安もあった。俗に「ニッパチ」と呼ばれるように、2月と8月は芝居公演のふるわないシーズンとされる。テレビで人気だからといって、中村竹弥の座長公演で客が入るのかどうか――。
 松竹の不安は、杞憂に終わる。初日から公演は大盛況で、客席は女性ファンでいっぱい。公演翌月に出た『週刊現代』が、そのフィーバーぶりを大きく取り上げている。

幕あけ二日目に、先斗町の舞妓さん五十人が、飛行機で京都から総見にかけつければ、反対側の桟敷には、赤坂、柳橋、芳町の姐さんが陣取り、期せずして東西の美妓が妍をきそうことになった。中旬には、先斗町に負けじとばかり祇園の舞妓が押しかけて舞台の近藤勇に黄色い声援を送った。
(「人物クローズ・アップ『中村竹弥の“唇”始末記』」『週刊現代』1962年9月9日号、講談社)


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」。京都・祇園の舞妓に囲まれる中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 東西の舞妓が新橋演舞場に押しかけたことを、竹弥本人もうれしそうに語った。

お客さまのほうでは、京都の祇園の舞妓連中が、飛行機をかりきって出てきて下さったんで、劇場のふんいきをなごやかにし、一層、芝居をもりあげていただいたこと。もう一つはみなさんがソッポをむいて知らん顔でなく、「ヨシ、応援してやろう」ということで、ひと肌もふた肌もぬいで下すった――そういう方が、数限りなくいたということですね。
(「圭三対談『どうもどうも』」)

 公演に参加していない黒川弥太郎もゲストで駆けつけ、初の「中村竹弥奮斗公演」は、8月26日に無事、千穐楽を迎えた。竹弥初の座長公演は、大成功に終わった。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」千穐楽(1962年8月26日)。左に黒川弥太郎、右に中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

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 『新選組始末記』は全63回と、中途半端な放送回数だった。番組のヒットを受け、当初の予定より延長したからである。
 いくら好評だからといって、新選組の話をそういつまでも伸ばすことはできない。1962(昭和37)年12月をもって完結することが決まった。
 第55回(1962年10月30日放送)と第56回(11月6日放送)では、終盤のクライマックス「鳥羽・伏見の戦い」が前後編で描かれた。火薬をふんだんに使った合戦シーンは迫力じゅうぶんで、近藤役の竹弥はもちろん、土方役の戸浦六宏の好演が光る。
“近藤竹弥”の貫禄と“戸浦歳三”の凛々しさが、化学反応を起こしたことも、人気の要因であった。


『新選組始末記』第55回「鳥羽・伏見の戦い 前編」。戸浦六宏の土方歳三

 「鳥羽・伏見の戦い」の放送に先立ち、轟夕起子が司会の教養トーク番組『あまから夫人』(TBS)に、中村竹弥が招かれた。題して「テレビに生きる・中村竹弥」(1962年10月24日放送)。
 この番組には、戸浦六宏、明智十三郎、山岡徹也ら『新選組始末記』の面々も出演した。クライマックスの「鳥羽・伏見の戦い」の番宣も兼ねている。


『あまから夫人』「テレビに生きる・中村竹弥」(TBS、1962年10月24日放送)。左に中村竹弥、右に轟夕起子(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 1962(昭和37)年12月25日放送の「終章」をもって、『新選組始末記』はその物語に終止符をうった。
 実質的な最終回は、第62回「ああ十三人の隊士」(12月18日放送)だったらしく、最終回はエピローグにあたる。原作者の子母沢寛、脚色の生田直親、殺陣の桜井美智夫らが特別出演して、ドラマをふりかえった。

 『新選組始末記』は終わった。でも、中村竹弥フィーバーは終わらない。
 年が明けて1963(昭和38)年1月、ユニークなソノシート(フォノシート)つきの雑誌が発売された。『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』(サン出版社、1963年1月)。4枚のソノシート(33回転)と折り込みのカラーグラビアがついた全20ページで、定価は390円である。


『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』(サン出版社、1963年1月)

 『藝能フォノ・グラフ』は、1962(昭和37)年に創刊された。当時は、月刊『朝日ソノラマ』 (朝日ソノプレス社)のような、ソノシートと読み物がセットの媒体に人気があった。「ソノシート」は、朝日ソノプレス社が商標権をもち、タイトルの「フォノ・グラフ」は「フォノシート」と「グラフ」を組み合わせたものだろう。
 創刊号の「大川橋蔵・ムード集」(1962年1月)を皮切りに、三波春夫、美空ひばり、東映の青春スタア(里見浩太朗、松方弘樹、北大路欣也)、加山雄三、テレビ映画主題曲、ロシア民謡、ラテン・コーラス とラインナップが続く。その第13集に、満を持して中村竹弥が登場した。
 完結したばかりの『新選組始末記』人気に当て込んだ企画で、裏表紙には八欧電機の「ゼネラル3Dソノラシリーズ」の広告が大きく載る。同号の編集後記に、企画の経緯がある。

 愛読者のみなさん、ごきげんいかがですか。いよいよ待望の“中村竹弥・お楽しみ特集”をお手もとへおとどけいたします。八月の新橋演舞場公演から取材スタートして以来、三か月間、ほんとうにお待たせいたしました。
 さて人気番組“新選組始末記”も十二月いっぱいで完結することになりましたが、新春一月からは新番組“鞍馬天狗”がはじまります。時代劇一途に生きる竹弥さんにファンのみなさんといっしょに声援しましょう。
(青木弘「編集後記」『中村竹弥 お楽しみ特集号』)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』

 中村竹弥には、自叙伝やエッセイといった著書がない。『竹弥のチャンバラ人生』のような自伝が出ていれば、まっさきに紹介する「脇役本」になったはずだが、残念ながらない。雑誌の手記やインタビュー、座長公演のパンフレットしかない。
 その意味において、『中村竹弥 お楽しみ特集号』は貴重な「竹弥本」となった。その充実度は、ソノシートの内容と読みものページの目次を見ればよくわかる。

■ソノシート
◇シート1「シート・ドラマ『新選組始末記』」
◇シート2「たのしいミュージック・コーナー(オンリー・ユー、トゥ・ナイト)」
◇シート3「歌う中村竹弥/民謡集(木曽節、田原坂、さくらさくら)」
◇シート4「中村竹弥/名せりふ集(半七捕物帖から鞍馬天狗まで)」
■誌面目次
◇カラー口絵「中村竹弥TV名場面集」(新選組始末記、旗本退屈男、半七捕物帖)
◇特集グラフ「菊は栄えて葵は枯れる…『新選組始末記』」「竹弥の新番組/鞍馬天狗」「日本趣味」
◇よみもの「お茶の間ファンの人気スター中村竹弥さんをたずねて。」「この道ひとすじに」「おたずねします/お答えします」
◇特集グラフ「竹弥のワン・カット集/京都の一日」「竹弥の社会科見学 八欧電機・川崎本社工場をたずねて」「舞い姿」
◇「みんなで入会しましょう/中村竹弥後援会」「編集後記」

 これでもかと竹弥のてんこもり。もりだくさんの竹弥づくし。まずは4枚のソノシートから紹介したい。


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート1)

 シート1「シート・ドラマ『新選組始末記』」は、『新選組始末記』をラジオドラマ風に再現したもの。中村竹弥(近藤勇)、戸浦六宏(土方歳三)、喜多川千鶴(お孝)、芥川隆行(語り手)のオリジナルメンバーによる新たな収録である。


シート・ドラマ『新選組始末記』収録風景。左より、芥川隆行、喜多川千鶴、戸浦六宏、中村竹弥(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 シート・ドラマは6分に満たないけれど、ドラマの世界が堪能できる。参考までに、全編を活字に起こした(4人の演者の声を想像して読むと一興かと)。

語り:幕末風雲の時代、京の都に、「あれは人斬りよ、狼よ」とののしられ、恐れられた新選組。それは、ただの敗者の歴史のみであったろう。滅びゆく幕府の命運に、己を捨て、武士の意気地をつらぬいて、近藤勇の胸中を、真に涙する者、いずこにぞある。
お孝:近藤先生、今日もまた、人を斬らはったんどすか。京の町の人たちが、新選組のことをなんと言うてるか、ご存じどすか。壬生の狼、人斬りの群れ。先生、先生のお命を狙うお人が、日一日として増えていきます。こんな思いで過ごす毎日は、うちにはもう、がまんできまへん。
近藤:お孝、わたしの気持ちをいちばんよく知っているはずのお前が、なぜそんな取り乱したことを言う。なんと言われようと、大義のためには、新選組は人を斬る。明日からもまた斬り続ける。たとえ時の潮に逆らい、亡び去ろうと、それを承知で武運を尽くすのが新選組の意地なのだ。この近藤勇の意地なのだ。
お孝:けど、今日もご無事やったか、明日もご無事かと先生のお身体ばっかり心配する、うちの身にもなっておくれやす。
近藤:人を斬れば、わたしのこころも曇る。しかし、人を斬るたびに、まずはお前のところへ帰ってくるわたしの気持ちがわかるか。多くの血で曇ったわたしの胸の闇に、お前の手で、やさしいともしびを灯してほしいからだ。
お孝:先生。
土方:局長!かねて画策中の薩摩の密偵が功を奏し、ただいま上様は、大政を奉還されました!
近藤:なに、大政を奉還。そんな暴挙はたとえ上様がご承知なされようと、この近藤は承服できぬ。ただちに二条城に赴く。馬、馬ひけっ!
土方:局長!
お孝:先生!
近藤:お孝!いまのわたしの言葉を忘れるなよ!
お孝:先生!(号泣)
語り:菊は栄えて、葵は枯れる。ときに維新の黎明は目前に迫っていた。
(♪三橋美智也『新選組の歌』1番♪)
語り:京都洛外、壬生の地に、生死を誓った血盟の同志。ただひとすじの武士道に、風雲太刀風は鋭くとも、夜明けを告げる鐘の音は、やがて胸に、こころにしみわたる。時代の流れにおもてを背け、新選組は今日もゆく。
(♪三橋美智也『新選組の歌』2、3番♪)
(同シート1「シート・ドラマ『新選組始末記』」)

 シート3「歌う中村竹弥/民謡集」では、竹弥が自慢ののどを披露し、「木曽節」「田原坂」「さくらさくら」の3曲を歌った。
 シート袋の解説には、《“はじめてにしては、まんざらすてたもんでもないでしょう……”と、真剣な表情でご自慢のシブいノドを披露する竹弥さん………》とある。


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート3)

 シート4「中村竹弥/名せりふ集」では、KRテレビ時代からの主演キャラクターを再現した。半七、早乙女主水之介、遠山金四郎、近藤勇、鞍馬天狗の名文句をダイジェストでおさめている。たとえば、「さのさ」を口ずさみながら登場する半七が、粋にささやきかける。

三河町の半七でございます。今日は朝から浅草・奥山の掛け小屋で、ちょいとした殺しがありました。へい、とんだ縄張りちげぇの遠出でさ。いやねえ、まだホシはあがっちゃおりませんが、ま、あせってみたところで、仕方ありませんや。今夜はこれでひとまず、三河町ってなわけです。みなさん、ごめんなさいよ。
(同シート4「中村竹弥/名せりふ集」)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート4)

 どのシートもいいけれど、筆者の推しはシート2「たのしいミュージック・コーナー」。義太夫、長唄(杵屋勝東治の「長唄の会」に参加)、小唄が得意な竹弥は、洋楽も好きだった。ポピュラーミュージックやクラシックを愛した人でもある。
 そこでディスクジョッキーに初挑戦し、みずから2曲えらんだ。これがなかなか素敵な語りで、竹弥の人柄に触れることができる。参考までに全編を活字に起こした。

(♪『オンリー・ユー(Only You)』♪)
 みなさん、ごきげんいかがですか。わたくし、中村竹弥です。毎週ファンのみなさんとは、テレビでお目にかかっていますが、今日はちょっと趣きを変えて、みなさんといっしょにムード音楽を聴くことにしました。
 いま流れている曲は、みなさんもよくご存じの『オンリー・ユー』です。
(♪『オンリー・ユー』♪)
 続いての曲は、ミュージカル映画の代表作で、わたしのいちばん印象に残っている映画『ウエスト・サイド物語』の主題歌です。
(♪『トゥ・ナイト(Tonight)』♪)
 もう曲名を言わなくても、おわかりでしょ。そうです、『トゥ・ナイト』です。では、最後までごゆっくり、どうぞ。
(♪『トゥ・ナイト』♪)
(同シート2「たのしいミュージック・コーナー」)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート2)

 豊富なビジュアル(特集グラフ)と読みもので構成される雑誌の部分もおもしろい。竹弥の足跡と素顔を伝えるもので、『平凡』や『近代映画』などが組むスター特集と、それほど大差はない。
 ただそれが、まるごと中村竹弥の特集なので、リアルタイムで主役時代を知らない身には新鮮だ。昭和30年代は掛け値なしのスターにして、堂々たる主演俳優であった。


ページの右下に中村竹弥と桜町弘子(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 素顔と人柄を感じさせる企画では、Q&Aのページ「おたずねします/お答えします」がある。悲壮感ただよう近藤局長に親しんだ視聴者からすれば、素顔に接する絶好の企画となった。

■先ず、ご自分の見た竹弥感を?
そう、第一に言えることはお世辞ひとつ言えない男だということかな。そのかわり、長くつきあっていると、なかなか味のある男ですよ(笑)。もっともこれは手前みそだけど……。
■では、お好きなタイプの人間?
どちらかというと無口でもってとぼけた味を持っている人。それと日本的な趣味を持った人。
■趣味は?
ぼくのは動的な趣味でしてね、スポーツをやったり、まあ仕事をするのなんかもそうじゃないかな?
■印籠を集めているそうですが?
ええ、もう20点ぐらいになったかなあ。よく自分の番組に小道具として使うこともあるんです。中には逸品も二、三あります。
■スポーツは?
水泳をのぞいては、まあ万能選手です。野球、ゴルフから乗馬まで何んにでも手をだしてます。(後略)
(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「おたずねします/お答えします」)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』

 『新選組始末記』のスポンサーであり、中村竹弥を応援した八欧電機の“竹弥愛”も、「お楽しみ特集号」にはあふれている。たとえば、特集グラフ「竹弥の社会科見学 八欧電機・川崎本社工場をたずねて」。

 この日、しぶい茶色の背広姿、いかにも落着いたスタイルの竹弥さんは、本社工場に出勤し?
 さっそくコバルト色の作業服に着がえて工場内へ――。
「いちどゆっくり工場見学をしたいと思っていたところなんです。こうして家庭電化製品が完成するところを見て、大へん勉強になりますね――」(中略)
 ゼネラル・テレビ、電気洗濯機、冷蔵庫とみるみる完成してゆくオートメーションコンベアーをみながら竹弥さんは目をみはっていました。
「新型製品をみているとほしいものばかりで困っちゃうなぁー」
(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「竹弥の社会科見学 八欧電機・川崎本社工場をたずねて」)


八欧電機・川崎本社工場を見学する中村竹弥(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 「お楽しみ特集号」のページを飾るのは、川崎の本社工場で、バレーボールに興じる竹弥と従業員の姿。会社ぐるみで応援する八欧電機に対して、竹弥も精いっぱいのサービスで応えた。


八欧電機・川崎本社工場で従業員とバレーボールをする中村竹弥(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 ほかにも、「東映城の三人娘」こと桜町弘子と京都でデートする竹弥、自慢のゴルフでナイスショットの竹弥、舞妓さんにかこまれる竹弥、自宅豪邸でくつろぐ和服姿の竹弥、マージャンをする竹弥、入浴中の竹弥、などなどプライベートショットが満載である。


『中村竹弥 お楽しみ特集号』

 子役時代を知る宇野信夫は、こうした竹弥の佇まいが鼻についたのかもしれない。『江戸の影法師』で主役デビューして7年、週1本の30分枠をもつ俳優にしては厚遇である。TBS、八欧電機など、相当な後押しがあったことはたしかである(TBSの鹿倉社長は後援会「竹友会」の会長だった)。
 「お楽しみ特集号」には、『新選組始末記』に続く主演第9作『鞍馬天狗』(1963年1月8日~9月24日放送)の告知も、ちゃんと載っている。原作は大佛次郎、スポンサーの八欧電機は変わらず、竹弥の快進撃はまだまだ終わらない。
 それにしても、近藤勇のあとが鞍馬天狗とは……。「天狗のおじさん」こと倉田典膳は、近藤勇にとって宿命のライバル。違和感はなかったのか。
 そう思いきや、竹弥はそれなりにわりきっている。いわく《アメリカ映画“シェーン”に負けないようなさっそうとした天狗をごらんに入れます!》(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「竹弥の新番組/鞍馬天狗」)。


TBS『鞍馬天狗』広告(新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット、1963年8月)

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 1963(昭和38)年2月、『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』が出た翌月、大阪の梅田コマ・スタジアムで、「中村竹弥2月特別公演」(2月1~25日)が上演された。
 前年の1962(昭和37)年8月に新橋演舞場で好評を博した「中村竹弥奮斗公演」を受けての大阪初公演である。同公演のチラシには、《「新選組始末記」で全国にブームをまきおこしたテレビ界最高の人気花形颯爽の登場!》とある。


梅田コマ・スタジアム「中村竹弥2月特別公演」(1963年2月1~25日)パンフレットとチラシ

 演目は『新選組始末記』(18場/生田直親脚色、山本和夫・竹内伸光演出)と、『舞踊 竹弥七変化』(12場/西川鯉三郎構成・演出、宮川寿朗作曲)のふたつ。
 『新選組始末記』は、「池田屋事件」をクライマックスにした筋立て。中村竹弥、戸浦六宏、明智十三郎、山岡徹也、喜多川千鶴らテレビ版のキャストが復活し、二代目市川小太夫が松平容保役で助演する。


梅田コマ・スタジアム「中村竹弥2月特別公演」チラシ裏

 中村竹弥後援会「竹友会」の後押しもあり、座長公演はこのあとも続いた。1963(昭和38)年8月には新橋演舞場にふたたび戻り、第2回「中村竹弥奮斗公演」(8月4~27日)が上演された(前年に引き続き、伊志井寛が特別出演)。
 この公演では『新選組始末記』をかけず、TBSで放送中の『鞍馬天狗』(3幕/大佛次郎作・演出)をかけた。それも、近藤勇との二役である。
 ほかに『旗本残酷物語 青山播磨』(4幕/南条範夫作、武智鉄二演出)で青山播磨、『吉野山』(藤間勘十郎振付)で佐藤忠信実は源九郎狐、『舞踊劇 電光石火』(林悌三作、藤間勘十郎振付)で白拍子静を、昼の部と夜の部を通してやりきった。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット(1963年8月)

 1963(昭和38)年から65(昭和40)年にかけては、活躍の場を映画へと広げた。歌舞伎、移動演劇、新劇、商業演劇、ラジオ、テレビと渡り歩いたものの、映画には縁がなかった。そこにまず、松竹が声をかけた。
 菊島隆三の原作を、内川清一郎が脚色・監督した『残酷の河』(松竹、1963年5月15日公開)で明智光秀を演じ、これが映画初出演となる。
 ポスターや広告では名前が「トメ」の位置にあり、「特出」とつく。テレビが生んだスターを、映画界が招くかっこうとなる。ただ、松竹の時代劇映画は低迷しており、そのあとが続かなかった。


内川清一郎監督『残酷の河』(松竹、1963年5月15日公開)広告。上より、園井啓介、桑野みゆき、中村竹弥(1963年5月8日付「讀賣新聞」夕刊)

 続いて声をかけたのが東映で、加藤泰監督『幕末残酷物語』(東映京都、1964年12月12日公開)に出演。持ち役の近藤勇をやった。さらに大映からもオファーがあり、安田公義監督『新鞍馬天狗』(大映京都、1965年9月18日公開)では、市川雷蔵の鞍馬天狗(倉田典膳)に対して、またもや近藤勇の役がきた。


加藤泰監督『幕末残酷物語』(東映京都、1964年12月12日公開)広告。上段右より、西村晃、中村竹弥、大友柳太朗。中段右より、内田良平、河原崎長一郎、藤純子、広告下に大川橋蔵(1964年12月10日付「讀賣新聞」夕刊)

 幕末ものが続くなか、テレビと舞台の仕事は好調である。
 主演シリーズ第9作『鞍馬天狗』のあとが、子母沢寛作『父子鷹』(1964年5月27日~9月2日放送)となる。国際放映が制作に加わり、VTR収録ではなく、16㎜フィルム撮りのテレビ映画となる。スポンサーもそれまでの八欧電機から、日野自動車とタイガー魔法瓶に変わった。
 竹弥ふんする勝小吉は、勝麟太郎(青山良彦)の豪放磊落な父として知られている。ヒーロー一辺倒だったテレビスターにとって、新境地の役柄となる。このころ眼の病を患ったけれど、それも克服した。
 主演シリーズとは別に、歴史ドラマの大作『幕末』(TBS、1964年10月25日~65年4月11日放送)にも出た。ここでは近藤勇と松平容保の二役で、いくらなんでも近藤勇のやりすぎだ。このころから、竹弥の主演企画に限界が見えてくる。
 それでも仕事は続く。舞台では中村竹弥を座長に、南原宏治、戸浦六宏、花柳小菊、江見俊太郎、中原早苗らの助演で、松竹・東横提携「松竹時代劇第1回公演」(渋谷・東横ホール、1965年10月1~23日)が上演された。


「松竹時代劇第1回公演」(東横ホール、1965年10月)パンフレット

 竹弥は、南原主演の『太鼓の鉄』(3幕7場/小幡欣治作、増見利清演出)に助演(滝川播磨守役)するとともに、『父子鷹』(4幕7場/子母沢寛原作、阿木翁助脚色、宇野信夫演出)でテレビ版と同じ勝小吉を演じた(勝麟太郎もテレビと同じで青山良彦)。


「松竹時代劇第1回公演」『父子鷹』稽古風景。左より、宇野信夫、中村竹弥、花柳小菊、南原宏治、森健二、片山豊、青山良彦、高野通子(同パンフレット)

 1965(昭和40)年には、TBSの後援で、東京の歌舞伎座に進出した。中村竹弥主宰「竹友会」第1回公演(3月26、27日)で、2日間とはいえ歌舞伎座の大舞台に立った。
 演目は『旗本奴』(4幕7場/大垣肇作・演出)と『舞踊 源九郎義経』(5場/藤間勘十郎構成・振付)。前者で水野十郎左衛門を、後者で源九郎義経にふんした。
 共演者も豪華で、「菊五郎劇団」の当時ベテランだった三代目市川左團次、市川右太衛門、藤間紫、坂東好太郎らが竹弥の晴れ舞台を祝う。


中村竹弥主宰「竹友会」第1回公演(歌舞伎座)より『舞踊 源九郎義経』。中村竹弥の源九郎義経(同公演パンフレット、1965年3月)

 父の松本麗五郎と師の中村竹三郎はすでに亡い。歌舞伎座の大舞台に立ち、その胸に去来するものはなにか。

 KRテレビの『江戸の影法師』で主役をはってから、ちょうど10年。さすがに幕末と近藤勇だけでは飽きられる。
 それでも企画に新味はなく、『父子鷹』の次が主演第11作『燃ゆる白虎隊』(1965年5月4日~7月27日放送)となる。元会津藩主・松平容保と家老・日向外記(白虎隊士中二番隊長)の二役は、竹弥のキャラクターにぴったりである。逆にぴったりすぎて、『新選組始末記』の二番煎じに思えなくもない(語りも芥川隆行)。
 予算の都合か「会津戦争」のシーンは少なく、そのぶん会津の人びとの姿をじっくり描く良作となる。いっぽうで放送された1965(昭和40)年当時、すでに古めかしい印象を与えたのではないか。
 三田明、加藤治子、佐々木孝丸、神田隆、神山繁、金田龍之介、富田仲次郎、瀬川路三郎、伊藤寿章(沢村昌之助)ら脇役陣は、筆者好みの渋さ。にしても、竹弥と孝丸のふたり芝居では、いまひとつ華やかさに欠ける。


『燃ゆる白虎隊』第2回「揺らぐ太陽」(TBS、1965年5月11日放送)。左に中村竹弥の日向外記、右に佐々木孝丸の西条頼母

 テレビ時代劇の主演スターとしては、このあたりが過渡期であった。『江戸の影法師』から続くTBSの主演シリーズは、丹下左膳と大岡越前の二役をやった『丹下左膳』(1965年10月6日~66年3月30日放送)がラストとなる。
 TBSの企画、宣弘社プロダクションの制作で、林不忘の原作を川内康範が脚色、船床定男が監督した。恰幅のいい“竹弥左膳”は、おおらかにしてアダルト、恋に奥手の好漢のヒーローで、往年の活動大写真をほうふつとさせる魅力がある。特注でみずから左膳の衣裳を誂えるなど、竹弥の力の入れ込みようも相当なものだった。
 中原早苗のお藤、菅貫太郎の柳生源三郎、光本幸子の萩乃、戸上城太郎の蒲生泰軒、花沢徳衛の愚楽老人など、左膳ものおなじみのキャラクターの配役も愉しい。竹弥の主演シリーズのなかで、この『丹下左膳』だけがDVD化(ハミング、2016年3月)されている。


『丹下左膳』(TBS、1965年10月6日~66年3月30日放送)タイトルバック。中村竹弥の丹下左膳

 1966(昭和41)年1月には、「松竹時代劇第2回公演」が東横ホールで予定(1月4~27日)されていた。竹弥を座長に、新国劇の若手(大山克巳、緒形拳、高倉典江)を加えた座組である。


「松竹時代劇第2回公演」告知(「松竹時代劇第1回公演」パンフレットより部分拡大)

 この公演に、竹弥は出演しなかった。TBSの『丹下左膳』を優先したのが原因らしく、「松竹時代劇」の公演自体、TBSの後援を受けていた。竹弥の降板はけっこう揉めたらしいが、市村竹之丞(五代目中村富十郞)が参加するかたちで、予定どおり上演された。
 50代を前にした意欲作で、新国劇とのコラボを反故にしてまで出た『丹下左膳』も、新境地をひらくには至らなかった。この番組を最後に、TBSと中村竹弥の専属契約は解消する。喧嘩わかれしたのではない。KRテレビ時代からの両者の関係は、竹弥の晩年まで変わらなかった。
 『丹下左膳』終了から4か月後の1966(昭和41)年8月、東映・明治座提携「8月特別公演 東映歌舞伎」(8月3~28日)が、東京・浜町の明治座で幕を開けた。


東映・明治座提携「8月特別公演 東映歌舞伎」(明治座、8月3~28日)広告。広告上より、市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村竹弥(1966年8月2日付「讀賣新聞」夕刊)

 市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村竹弥の「三枚看板」で、新聞広告には3人の顔が同じ大きさで載っている。この公演は、親交のある右太衛門が、竹弥を招いたことで実現した。
 その縁から舞台では、千恵蔵とではなく、右太衛門との顔合わせになる。東映時代劇で主役をはった東千代之介が脇にまわり、竹弥が重用されたことに、千恵蔵が反発を覚えたことも考えられる(千恵蔵は同公演の『新選組』で近藤勇をやっている)。
 竹弥の出番はふたつ。世話物狂言の『素町人罷り通る』(3幕/中野実作・演出)では、右太衛門の和泉屋徳兵衛と竹弥の和泉屋(分家)清三郎。『歌舞伎曼陀羅』(3幕/綾部洸二作、藤間勘十郎演出)では、右太衛門の名古屋山三郎と竹弥の石田三成で、いずれもがっぷり四つの競演となった。


「8月特別公演 東映歌舞伎」より『素町人罷り通る』。左に中村竹弥の和泉屋清三郎、右に市川右太衛門の和泉屋徳兵衛(『演劇界』1966年9月号)

 こうしてみると、まだまだ主役でいけそうである。ただ、王道のチャンバラ映画は衰退し、テレビ時代劇をとりまく環境も変わっていく。
 45分枠、1時間枠の番組が増えると、30分枠で主役をはる竹弥の居場所が逆になくなる。二代目尾上松緑や長谷川一夫のように、NHKの大河ドラマで主演するほどの格は、竹弥になかった。
 1965(昭和40)年前後の時代、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫、大川橋蔵、中村錦之助、近衛十四郎、美空ひばりなど、映画畑のスターがテレビ時代劇に続々と進出する。北大路欣也、林与一、高橋幸治、緒形拳、加藤剛、栗塚旭、田村正和ら若手が、そこに新風を吹き込む。


フジテレビ『三匹の侍』『ひばり・与一の花と剣』『銭形平次』広告(1966年9月29日付「東京新聞」)

 司馬遼太郎の原作を結束信二が脚色し、栗塚旭が土方歳三を好演した『新選組血風録』(NET、1965年7月11日~66年1月2日放送)が放送されたのも、この時期である(舟橋元演じる近藤勇は、竹弥のそれと比べるとかなりイメージが異なる)。


『新選組血風録』第2回「誠の旗」(NET、1965年7月18日放送)。左に栗塚旭の土方歳三、右に舟橋元の近藤勇

 わずかしか映像の残らない『新選組始末記』と、幾度となく再放送される『新選組血風録』を比べると、どうしても知名度に差が出てしまう。「血風録」への高い評価を聞くたびに、「始末記」の映像がすべて残っていれば、と惜しまれる。

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 1967(昭和42)年以降、中村竹弥は主役の座を譲り、引き立て役にまわる。昭和40年代から亡くなるまでのおよそ20年間、脇でその存在感を示した。
 仕事量は、旺盛かつ膨大である。50代から60代のキャリアを簡単にふりかえっておく。
 映画は、昭和40年代に時代劇が下火になったこともあり、時代劇の企画にめぐまれなかった。重量感のある殺陣を得意とした竹弥は、テレビや舞台に比べると、映画向きの人ではなかったようにも思う。
 時代劇に代わって隆盛を極めたのが、東映の任侠映画で、こちらは竹弥のニンにあった。昔かたぎの親分、貸元、兄貴分といった善玉を得意とした。勧善懲悪で主役をはったテレビ時代劇の余韻か、河津清三郎や金子信雄が担うような悪玉は不得手だった。


中島貞夫監督『男の勝負』(東映京都、1966年7月1日公開)ポスター。上段左より、中村竹弥、北島三郎、長門裕之、藤山寛美。下段左より、天知茂、高倉健、村田英雄(『写真集 天知茂五十年の光芒』臼井薫写真の店、1987年7月)

 任侠映画では、内田吐夢監督『人生劇場 飛車角と吉良常』(東映東京、1968年10月25日公開)に出ている。
 鶴田浩二の飛車角、辰巳柳太郎の吉良常、高倉健の宮川、松方弘樹の青成瓢吉で、竹弥は瓢吉の父にして侠客の青成瓢太郎を演じた。吉良常の亡き恩人で、出番は少ないものの重要な存在である。


内田吐夢監督『人生劇場 飛車角と吉良常』(東映東京、1968年10月25日公開)。左に中村竹弥の青成瓢太郎、右に辰巳柳太郎の吉良常

 竹弥はこのあと、日活の任侠・やくざ映画に顔を出した。『潮騒』(東宝、1975年4月26日公開)と『春琴抄』(東宝、1976年12月25日公開)でヒロイン(山口百恵)の父親をやったりしたが、昭和50年代以降は、活躍の場を舞台とテレビに移していく。

 舞台は、もっぱら商業演劇が中心となる。中村扇雀(四代目坂田藤十郎)、中村賀津雄(嘉葎雄)、天知茂、三波春夫、美空ひばり、林与一、北島三郎、杉良太郎、里見浩太朗、財津一郎、水前寺清子、橋幸夫、細川たかしなど、最晩年まで多くのスターの座長公演に付き合った。
 座長公演では二番手、三番手、あるいは「中トメ」「トメ前」「トメ」と呼ばれるベテラン枠に位置する。東京の明治座と新宿コマ、名古屋の御園座、大阪の新歌舞伎座と梅田コマなど、ホームグラウンドはいくつもある。


大阪・新歌舞伎座「7月納涼特別公演」(1972年7月2~26日)チラシ。左より、天知茂、野川由美子、中村竹弥、朝丘雪路(『写真集 天知茂五十年の光芒』)

 商業演劇の一例として、1973(昭和48)年の大阪・新歌舞伎座「三波春夫特別公演」(3月2~29日)ならびに東京・歌舞伎座「吉例第13回 三波春夫特別公演」(8月1~29日)への出演がある。
 演目は『元禄友情物語 立花左近』(3幕/花登筺作・演出)。歌謡浪曲『大忠臣蔵』の完成記念で、三波が立花左近と天野屋利兵衛の二役、竹弥は大石内蔵之助である。立花と大石、天野屋と大石、それぞれ両優による見せ場が用意された。


歌舞伎座「吉例第13回 三波春夫特別公演」広告(1973年7月28日付「讀賣新聞」夕刊)


歌舞伎座「吉例第13回 三波春夫特別公演」(1973年8月1~29日)より『元禄友情物語 立花左近』。左に三波春夫の立花左近、右に中村竹弥の大石内蔵之助(『歌舞伎座百年史 本文篇下巻』松竹/歌舞伎座、1998年11月)

 テレビの仕事に目を向けると、昭和40年代以降は現代劇を増やしていった。
 ホームドラマ、ラブコメディ、刑事ドラマ、スポ根もの、特撮ヒーローものと枚挙にいと間はない。頑固な父親、こだわりの職人、市井の善人、叩きあげのベテラン刑事、因習にとらわれた地方の名士、と役の幅を広げていく。


『ゴールデン・スペシャル・シリーズ』第1回「パパの青春」(TBS、1968年4月22日放送)。左より、飯田蝶子のおばあちゃん、扇千景の藤岡司寿、星由里子の鏡子、中村竹弥の俊太郎

 先に紹介した『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』のインタビュー「おたずねします/お答えします」で、こんなコメントをしている。

■現代劇出演の話は?
あるにはあるんですが、いまのぼくとしては、ファンのみなさんが抱いている“チョンマゲ姿の竹弥”のイメージをあえてこわしたくないし、その時期がきたらやるつもりです。
(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「おたずねします/お答えします」)

 《その時期がきたら》と語ったように、テレビの現代劇に出ることで、竹弥は新境地をひらいた。
 DVDやCSの再放送で見ることができる現代劇のひとつに、『五番目の刑事』(NET、1969年10月2日~70年3月26日放送)がある。東新宿署捜査課の個性ゆたかな刑事(原田芳雄、工藤堅太郎、桑山正一、常田富士男、殿山泰司)を束ねる山田部長刑事役で、頼れる“デカ長”を好演した。


『五番目の刑事』(NET、1969年10月2日~70年3月26日放送)オープニング。中村竹弥の山田部長刑事

 一貫して変わることのない仕事として、テレビ時代劇への出演も欠かさない。昭和30年代のように、主役でシリーズを背負うことはないけれど、落ち目になったわけではなかった。
 そのことは、昭和40年代に放送された作品と演じた役柄でよくわかる。放送局と放送日を省いて列挙すると、『源義経』で熊谷直実、『戦国太平記 真田幸村』で真田昌幸、『剣』で大塩平八郎、『日本剣客伝』で近藤勇、『大奥』で徳川家康、『あゝ忠臣蔵』で不破数右衛門、『丹下左膳』で大岡越前、『大坂城の女』で真田幸村、『大忠臣蔵』で多門伝八郎、『天皇の世紀』で井伊直弼、『編笠十兵衛』で大石内蔵助、といった具合である。


『天皇の世紀』第4回「地熱」(朝日放送、1971年9月25日放送)。中村竹弥の井伊直弼

 テレビ時代劇には、レギュラーとゲスト、実在の人物と架空のキャラクターをひっくるめて、ざっと数百回分は出ている。
 昭和50年代になっても、ほうぼうの局で重宝された。『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』『遠山の金さん』『桃太郎侍』『新五捕物帳』『斬り捨て御免!』『長七郎江戸日記』『鬼平犯科帳』など、おなじみのシリーズからの出演依頼も多かった。


『長七郎江戸日記スペシャル』「柳生の隠密」(日本テレビ、1984年12月25日放送)。左に里見浩太朗の松平長七郎、右に中村竹弥の高杉伊予守威晴

 1980年代になると、竹弥も老境にさしかかっていく。『大江戸捜査網』の内藤勘解由役も、通算500回を過ぎるまで演じて、1981(昭和56)年に引退した。
 晩年となり、凄みのある黒幕や悪役を演じることもあった。時代劇では『大奥』(関西テレビ、1983年4月5日~84年3月27日放送)における南光坊天海が印象に残る。三代将軍家光の治世、天海は徳川幕府ににらみをきかした黒幕で知られる。


『大奥』第13回「子連れ将軍と五人の女」(関西テレビ、1983年6月28日放送)。中村竹弥の南光坊天海

 当時はやりの2時間サスペンスにも顔を出し、渋いところを見せた。もともと二枚目なので、スーツ姿の紳士がよく似合う。
 天知茂の明智小五郎で人気を博した「土曜ワイド劇場」の「江戸川乱歩の美女シリーズ」(テレビ朝日)にも出た。シリーズ第18作『化粧台の美女 江戸川乱歩の「蜘蛛男」』(1982年4月3日放送)では、殺人と会社乗っ取りの報いを受けるレーヨン会社社長・山際大造役で、地下室に監禁され、首まで砂責めにされた。


『土曜ワイド劇場 化粧台の美女 江戸川乱歩の「蜘蛛男」』(テレビ朝日、1982年4月3日放送)。左に天知茂の明智小五郎、右に中村竹弥の山際大造


『化粧台の美女』(同上)。左に中村竹弥の山際大造、右に蜷川有紀の山際洋子

 映画では、伊丹十三監督『マルサの女2』(東宝、1988年1月15日公開)での大物代議士・漆原をよく覚えている。宗教法人を隠れ蓑にした地上げ屋の鬼沢(三國連太郎)を背後であやつり、国税局査察部に圧力をかける黒幕である。痩せていたぶん凄みが増し、「こういう悪役もやるようになったのか」と“うれしく”なった。


伊丹十三監督『マルサの女2』(東宝、1988年1月15日公開)。左より、洞口依子の奈々、小松方正の猿渡、三國連太郎の鬼沢鉄平、加藤治子の赤羽キヌ、中村竹弥の漆原、柴田美保子の受口繁子、上田耕一の猫田、不破万作のチビ政(『マルサの女2』東宝㈱出版事業室、1988年1月)


『マルサの女2』(同上)

 

 時代は、昭和から平成へ。
 1990(平成2)年1月、名古屋の御園座で「細川たかし正月特別公演」(1月2~28日)が上演された。『遠山金四郎――人情長持唄』(陣出達朗原作、土橋成男脚本・演出)と『熱唄!細川たかし』の2部構成である。


御園座「細川たかし正月特別公演」(1990年1月2~28日)チラシ。細川たかし(中央)の左に中村竹弥、その下に東千代之介

 竹弥は、遠山金四郎(細川たかし)を庇護する水野越前守で出演した。平成になるまで、ベテランの貫禄を示したことになる。
 この公演が、中村竹弥にとって最後の仕事となる。公演中に体調をくずし、やむなく舞台を降板、入院した。

 1990(平成2)年5月28日、中村竹弥死去、享年71。枯れた名脇役になってはいたけれど、元気でさえいれば、まだまだ活躍できる場はあった。
 長谷寺(港区西麻布)で営まれた通夜の席上、香典(現金197万円)と3冊の人名録が盗まれた。この事件は、浮き名を流した竹弥の私生活を含め、週刊誌が書き立てた。
 後味の悪いエピソードながら、息のながかったスターの宿命、と言えなくもない。

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 かれこれ40年以上、中村竹弥が演じたあの役、この役、ずいぶんと見てきた。
 そのかわり、その素顔に接したことはない。ワイドショーやトーク番組にも出たと思うけれど、見た記憶はない。
 唯一、横浜の放送ライブラリーで『テレビの青春 特集!TBS歌う30年』(TBS、1981年5月4日放送)を見た。人気ドラマの主題歌を通して、TBSテレビの歴史をふりかえる趣向である。
 スタジオでは、三橋美智也が『新選組始末記』の主題歌『新選組の歌』を熱唱した。そのあと、中村竹弥と芥川隆行が着物姿で顔を見せ、和室のセットで思い出を語り合った。このふたりが揃うと、話題は『新選組始末記』しかない。
 殺陣のこと、生放送のこと、三橋美智也の主題歌のこと。「菊は栄えて、葵は枯れる」の名調子を引き合いに出し、芥川の語りがドラマを盛り上げたことにも触れた。
 意外だったのは、竹弥が饒舌で、気さくなおじいちゃんだったこと。芥川隆行もおしゃべりな人だったが、動じずにしゃべる、しゃべる。ご機嫌である。

 わがこころのチャンバラスター、その魅力はこれからも色褪せない。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット(1963年8月)


*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料