脇役本

増補Web版

馬と、かかしと 伊藤雄之助


「東宝現代劇新春特別公演『縮図』」(ヒビヤ芸術座、1967年1~2月)公演パンフレット


 あの俳優が、本を出していたら。そう思うことは、よくある。
 本ブログで取り上げた、中村竹弥、三谷昇、中条静夫、市村俊幸、伊吹聰太朗、原知佐子、北村英三、江見俊太郎、清水将夫、山茶花究、恩田清二郎、小林トシ子は、知るかぎりにおいて著書がない。自叙伝なり、エッセイ集なりが出ていたら、『脇役本』として取り上げたかった。
 あのエピソードを、書いていてくれたら。そう思うことも、よくある。著書があっても、こちらが読みたい話を過不足なく書いているものは意外とすくない。
 伊藤雄之助(いとう・ゆうのすけ/1919~1980)の著書『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年4月/わせだ書房新社、1969年9月)は、そうした一冊。演劇・映画・テレビ・芸能界へのうっぷんを、みずからの生い立ちを交えてぶつけた。




上/伊藤雄之助著『大根役者・初代文句いうの助』(右:朝日書院、1968年4月、左:わせだ書房新社、1969年9月)/中:松村達雄旧蔵本(朝日書院版)/下:朝日書院版のカバー帯

 『大根役者・初代文句いうの助』は、刊行時にメディアの注目を集め、版を重ねた。いまでも、古本屋や古書店で見かける。『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)と『俳優と戦争と活字と』(同、2020年7月)で取り上げたし、本ブログ「愛妻家の本棚 松村達雄」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/09/01/212312でも書いた。“脇役本の名著”だと思っている。
 伊藤雄之助が独立プロの中篇劇映画に主演し、みずからメガホンをとっていたら。それが日の目を見ないまま、お蔵入りになってしまったら。そのあたりの事情を、悔しさと憤りをふくめ、“文句いうの助”ならではの筆致で、一刀両断にしてほしかった。
 ところが、この本にそうした記述はない。沈黙する雄之助、その胸中やいかに。


伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』著者近影

 1957(昭和32)年の秋、オールロケーションによる一本の劇映画が完成した。伊藤雄之助監督および主演の『限りなき道』。独立プロの新東亜映画株式会社による、中篇(53分)の自主作品である。


伊藤雄之助監督『限りなき道』(新東亜映画、1957年9月完成)。左より、初井言栄(言榮)のしげ、六郷育子のふみ子、小沢直好の育男、伊藤雄之助の松山周助(「映画物語『限りなき道』」『小学五年生』1957年10月号、小学館)

 中篇の独立プロ作品とはいえ、伊藤雄之助が劇映画のメガホンをとったことは、あまり知られていない。『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』(キネマ旬報社、1996年10月)や山根貞男編『日本映画作品大事典』(三省堂、2021年6月)に、『限りなき道』のことは載っていない。
 さもあろう、完成したものの、一般公開された気配がないのだから。肝心のフィルムも行方知れずのまま、である。

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 伊藤雄之助は、1919(大正8)年8月3日、東京市浅草区東仲町、現在の台東区雷門1丁目生まれ。本名は「伊藤嘉朗」と「伊藤雄之助」の二説ある。
 祖父は「猛優」と呼ばれた歌舞伎俳優の七代目澤村訥子、父は初代澤村宗之助(伊藤三次郎)、母は帝国劇場の専属女優第1期生の鈴木徳子という俳優一家。雄之助は三兄弟の次男で、兄弟の上に姉(長女・文惠)がひとりいた。


帝国劇場の舞台より。左に三浦徳子、右に初代澤村宗之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 つまり、当時の常識からいえば、好むと好まざるとにかかわらず、俳優となるべき宿命を背負って生れたのです。
(伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』朝日書院、1967年4月)

 前回のブログ「老竹色、褪せず」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2023/03/12/210023で書いた中村竹弥は、「大部屋」「三階さん」「小芝居」と呼ばれた歌舞伎の俳優だった。竹弥のひとつ年下の雄之助は、いわゆる“いいとこ”の子である。
 ところが満4歳のとき、父の宗之助が本番中に脳出血で倒れた。1924(大正13)年4月6日に倒れ、翌7日、38歳の若さで息をひきとる。「澤村雄之助」の名で初舞台を踏んで、わずか6日目のことだった。


1924(大正13)年4月、父・宗之助の告別式での雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 一家の後ろ盾となった祖父の七代目訥子も、1926(大正15)年3月26日に亡くなる。歌舞伎界の孤児となった雄之助は、母の徳子、兄の惠之助(二代目澤村宗之助)、弟の敞之助(澤村昌之助、伊藤寿章)とともに俳優を続けた。
 1930年代に入り、一家で「兄弟プロダクション」を旗揚げした。
 兄弟プロでは、高田保監督『少年諸君』(1932年7月28日)と田中栄三監督『少年忠臣蔵』(1933年2月1日公開)を自主製作した。2本とも、当時はまだ珍しいオール・トーキー(全発声)で、フィルムがサイレント版ながら残っている。
 『少年忠臣蔵』は、「澤村宗之弼」「澤村雄之弼」「澤村昌之弼」と名をあらためた三兄弟が主演し、17歳以下の少年・少女俳優だけが出演した。


田中栄三監督『少年忠臣蔵』(兄弟プロダクション、1933年2月1日公開)広告(『キネマ旬報』第456号、キネマ旬報社、1932年12月)

 『少年忠臣蔵』は数年前、活動弁士・坂本頼光さんの説明で観たことがある。子役ばかりとはいえ、本格的な『忠臣蔵』映画だった。
 兄の宗之助が大石内蔵助と赤垣源蔵、弟の昌之助が浅野内匠頭と大石主税と岡野金右衛門、雄之助が吉良上野介と大高源吾と服部市郎左衛門と、兄弟が複数の役をこなしている。


『少年忠臣蔵』広告。上より、澤村雄之弼(伊藤雄之助)、澤村昌之弼(澤村昌之助、伊藤寿章)、澤村宗之弼(澤村宗之助)(『キネマ旬報』第456号)

 雄之助は子役時代から、兄の宗之助と弟の昌之助にくらべて「役者に向かない」と周りに言われていた。凛々しい二枚目の兄、麗しき美少年の弟のあいだで、コンプレックスにさいなまれた。
 《ふたりのあいだにはさまったわたしは、才能の芽らしいものは全く見あたらない。そのうえ、容貌とくれば、みなさんごらんのとおり憎く憎くしくヒネコビています》(『大根役者・初代文句いうの助』)とは本人の弁である。
 通っていた慶應義塾幼稚部では、成績が良かった。雄之助は俳優ではなく、学校の先生を夢みる。しかし母の徳子も、若くして亡くなってしまう。通っていた慶應義塾普通部を1年生でやめ、小林一三のはからいで、雄之助は東宝劇団に入る。
 東宝劇団、日中戦争下での兵役、戦時中の移動演劇(東宝移動文化隊)と辛苦は続く。1945(昭和20)年3月の東京大空襲で、ふるさとの浅草も焼けた。下積み時代の苦労ばなしは、『大根役者・初代文句いうの助』にくわしい。


1943(昭和18)年、雄之助24歳のとき(『大根役者・初代文句いうの助』)

 戦争が終わり、移動演劇隊は解散する。俳優たちは、それぞれの道を模索する。たとえば中村竹弥は、松竹の移動演劇隊が解散し、新劇の民衆座に移った。
 雄之助も演出家・八田元夫の研究所にいて、新劇の世界にいた。しかし、それでは暮らしが成り立たない。そこで活路を見いだしたのが映画だった。姉の夫で映画監督の佐伯清に紹介され、東宝撮影所長・森田信義を訪ねた。

 わたしは森田さんにいいました。
「あの、名前はどうしましょう……」
「そうだな。沢村雄之助じゃ、いかにも古めかしい。映画は歌舞伎とちがって、そのひとの腕一本だからね。ヘンに門閥なんか感じさせないほうがいいんだ」
「なにか、キリッとした名前を付けていただけませんか」
「キリッとした……? いや、本名のほうがいいよ、伊藤雄之助、けっこうだ。きみのその顔にピッタリだよ」
 伊藤雄之助がなぜわたしの顔にピッタリなのかはわかりませんでしたが、森田さんは、そういってしきりとうなづいていました。こうして、わたしはながいあいだ世話になった沢村雄之助とわかれをつげたのです。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 楠田清監督『命ある限り』(東宝、1946年8月1日公開)への出演が、「伊藤雄之助」としての映画デビューになる。「ゾルゲ事件」を題材にした、岡譲二主演の反戦メロドラマである。雄之助は検事の役で、ポスターやチラシに名前はないけれど、チョイ役ではない。


楠田清監督『命ある限り』(東宝、1946年8月1日公開)。左に岡譲二の木下晃、右に花井蘭子の三舟ゆり子

 撮影が終わり、弁護士役の山村聰(聡)とふたり、砧の東宝撮影所から小田急の成城学園前まで歩いて帰った。演劇の世界にいた山村もまた、映画の仕事は初めてだった。

「映画ってむずかしいな。ボクは自信喪失だよ」
「あーあ、やだやだ」
 と、歎きあいながら歩いたのを憶えています。翌日、森田さんのところへ、
「やっぱり、ダメでした」
 と報告にいくと、森田さんは笑いながら慰めてくれました。
「いや、楠田くんがいってたよ。使いものになりそうだって。だれでも、最初は勝手が違うさ。まあ、焦らずにやることだな」
 わたしも聡さんも、その言葉に力付けられ、少しずつ、映画の仕事に慣れていったのです。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 森田信義と楠田清の目に狂いはない。そのあとの伊藤雄之助と山村聰のフィルモグラフィーを見れば、一目瞭然である。
 雄之助は当時20代。二枚目のニューフェイスでなかったぶん、異色の若手俳優として重宝されていく。
 常連だった市川崑の監督作をはじめ、昭和20年代からたくさんの映画に出た。東宝、新東宝、大映、東映、独立プロと各社を渡り歩き、キャリアを重ねていく。いまでも名画座やCS放送でよく見かける、旧作邦画の代表的俳優のひとりである。


市川崑監督『恋人』(昭映プロ、1951年3月10日公開)。伊藤雄之助の洗濯屋

 そのときどきでプロダクションや映画会社と契約しながら、本放送が始まったばかりのテレビにも出た。1954(昭和29)年に製作を再開した日活や松竹の作品にも出演し、活躍の場を広げていく。


小林正樹監督『三つの愛』(松竹大船、1954年8月25日公開)。伊藤雄之助の八杉神父

 主役、脇役、準主役、善人、悪人、一般人、なんでもござれ。演劇の世界で芽は出なかったが、戦後の映画界で成功する。ただし映画界には、歌舞伎界の因習やしがらみとは異なる、いやな空気が蔓延していた。
 スター偏重の現場も気に入らない。みずから主演した『気違い部落』(松竹大船、1957年11月26日公開)にかけ、映画界を「気違い部落」と評した。
 アメリカのおさがり中古服を、流行りのようにして着る「カツドウヤ」にも反発を覚えた。雄之助は、かたくなに「ナッパ服」ばかりを着た。ついたあだ名が「関東配電」。撮影所で働き始めたばかりの警備員が、「関東配電」の集金人と勘違いしたのが由来である。

 なにかにつけて、わたしは、実によくハラを立てていました。「関東配電」の異名は、いつしか、「文句いう雄之助」にかわっていました。伊藤雄之助という名前を知らないひとたちでも、
「ほら、あの文句雄之助さ」
 といえば、
「ああ、あの朴念仁か」
 と、撮影所中にかくれもなかったものです。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 映画の合間をぬって、芝居も続けた。新東宝作品に出ていた1950年代初めには、田所千鶴子、小栗一也らと劇団二十世紀劇場に属し、第1回公演『残された藁』(寺岡実作、有司哲演出/読売ホール、1951年6月12~14日)に出演した。


劇団二十世紀劇場第1回公演『残された藁』(読売ホール、1951年6月)公演パンフレット(部分拡大)

 舞台では、1954(昭和29)年に『虹』(大阪・中座)を演出した。詳細はわからないけれど、自主公演と思われる。


1954(昭和29)年、大阪・中座で『虹』を演出中の伊藤雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 芝居やテレビに出るいっぽう、仕事の中心は映画である。「気違い部落」の映画界に無理してなじむことなく、こだわりをもって役者稼業に励む日々――。
 1955(昭和30)年から翌年にかけて、日活で久松静児監督の作品に何本か出た。そこで、こんなエピソードがあった。

 ラッシュ・フイルムがあがってきました。試写を見ると、わたしの芝居がどうにもこうにも我慢できない。そこですぐ久松さんのところへとんでいって、再撮影を頼みこんだのです。
「しかし、雄ちゃん、セットはもうこわしちゃったよ」
「ですから、建てなおしてほしいんです。費用はボクのギャランティ(出演料)を、全部だしますから費用のたしにしてください」
 確か、セット費が七十万、それに撮影部、照明部、録音部、俳優などの手当てを加算すると、百万円にちかい金額でした。
「そんな例は聞いたことがないけどなあ」
 久松さんも、あきれていましたが、わたしはがんばりぬいて、ついに撮りなおしてもらったことがあります。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 現場の立場で考えると、なかなか面倒くさい俳優である。それでも干されず、さまざまな作品に起用されたのは、演者として得がたい存在だったことの証だろう。


岡本喜八監督『ああ爆弾』(東宝、1964年4月18日公開)ポスター

 1946(昭和21)年から映画に出始めてからは、コンスタントに出演を重ねた。テレビ、舞台(商業演劇)の仕事もある。
 著書『大根役者・初代文句いうの助』を刊行した1968(昭和43)年には、テレビ時代劇『待っていた用心棒』(NETテレビ、1968年1月29日~7月22日放送)に主演した。
 主人公の浪人「野良犬」を好演したものの、キャラクターの設定をめぐって、製作サイドとトラブルになる。雄之助は、第18回(全26話)で降板した。


『待っていた用心棒』第1回「剣を抱いた十人の客」(NETテレビ、1968年1月29日放送)。伊藤雄之助の野良犬

 この年の6月には、「吉例中村錦之助公演」(歌舞伎座、6月2~28日)にも参加した。昭和40年代の初め、東映の労働争議で組合側についた錦之助は、東映をやめ、「中村プロダクション」を立ち上げる。その義侠心に惚れ込んだ雄之助は、錦之助とのつながりを深めていく。
 この歌舞伎座公演で雄之助は、昼の部の『酒中日記』『御存知森の石松』『かみなり』、夜の部の「明治百年」記念上演『竜馬がゆく』と昼夜すべての演目に出た。


「吉例中村錦之助公演」(歌舞伎座、1968年6月2~28日)『御存知森の石松』。左より、中村玉緒のお民、中村錦之助の森の石松、伊藤雄之助の小松村七五郎(『毎日グラフ』1968年6月30日号)

 本の出版と歌舞伎座への出演にあわせ、週刊『毎日グラフ』(毎日新聞社)の連載「行動する人間」に雄之助が登場した(1968年6月30日号)。全7ページにわたる大特集である。


(『毎日グラフ』1968年6月30日号)

 こうした多忙がたたったのか。翌1969(昭和44)年6月、歌舞伎座の「中村錦之助公演」に出演中、脳溢血で倒れた(6月9日より休演)。さいわいにも生死の境を脱し、懸命のリハビリに励み、まもなくカムバックした。
 住井すゑ原作、今井正監督の『橋のない川』(ほるぷ映画、第1部1969年2月1日公開/第2部1970年4月25日公開)で復帰、物語の要となる永井藤作をやった。被差別部落民の悲哀と憤りを演じきり、後半生の代表作になる。


今井正監督『橋のない川』第2部(ほるぷ映画、1970年4月25日公開)。左に陶隆の黒痣のある刑事、右に伊藤雄之助の永井藤作

 ちなみに、兄の二代目澤村宗之助、弟の澤村昌之助(伊藤寿章)もまた、俳優として息のながい活躍を見せた。脇役が中心であったけれど、舞台、映画、テレビ、時代劇から現代劇まで出演作は数多い。


『非情のライセンス』第2シリーズ第83回「兇悪の捜査」(NETテレビ、1976年5月20日放送)。澤村宗之助(沢村宗之助)の畑中


『大忠臣蔵』第38回「大石東下り」(NETテレビ、1971年9月21日放送)。澤村昌之助(沢村昌之助、伊藤寿章)の長山佐馬之助

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 新東亜映画の劇映画『限りなき道』を監督し、みずから主演した1957(昭和32)年も、売れっ子ぶりに変わりはない。この年の出演作をふりかえると――

渋谷実監督『正義派』(松竹大船、2月20日公開)
五所平之助監督『黄色いからす』(歌舞伎座映画、2月27日公開)
佐伯清監督『抜打ち浪人』(東映東京、5月20日公開)
福田晴一監督『赤城の血煙 国定忠治』(松竹京都、7月1日公開)
中村登監督『集金旅行』(松竹大船、10月29日公開)
伊藤雄之助監督『限りなき道』(新東亜映画、9月完成)
渋谷実監督『気違い部落』(松竹大船、11月26日公開)

 1957年に出演した『黄色いからす』と『気違い部落』の2本は、映画俳優・伊藤雄之助の代表作となった(代表作の多い俳優ではあるが)。
 五所平之助監督『黄色いからす』は、中国から復員してくる吉田一郎役。戦争の長いブランクがあるため、一郎と小学生の息子・清(設楽幸嗣)のあいだには、埋められない溝がある。妻のマチ子(淡島千景)が心を痛めても、父と子の不協和音はどうすることもできない。
 その吉田一家に、娘が生まれる。幼い妹を溺愛する父に、兄の清は疎外感を深めていく(学校の美術課題で“黄色いからす”を描くのがタイトルの由来)。
 一郎もまた、元の職場に復帰できず、イライラを募らせる。「家族愛」と呼ぶにはやるせなく、でも、救いのある佳品である。


五所平之助監督『黄色いからす』(歌舞伎座映画、2月27日公開)。左より、伊藤雄之助の吉田一郎、設楽幸嗣の清、淡島千景のマチ子

 きだみのる原作、渋谷実監督の『気違い部落』では、ふたたび淡島千景と夫婦をやった。奥多摩の部落で繰り広げられる群像劇で、因習に逆らい村八分にされる村田鉄次を、雄之助が演じた。


渋谷実監督『気違い部落』(松竹大船、11月26日公開)。左より、伊藤雄之助の村田鉄次、淡島千景のお秋、水野久美のお光

 部落を牛耳る因業機屋の野村(山形勲)と鉄次の壮絶なバトル。頑固な父と因習の板ばさみになる鉄次の娘・お光(水野久美)の悲劇。『キネマ旬報』の広告には《痛烈な諷刺と笑い!》《日本人全部に通じる皮肉とおかしみ!》とあるものの、後味はすこぶる悪い。
 いっぽうで、クセのある顔ぶれを束ねる存在感はさすがで、主演作の名に恥じない。のちに雄之助が、映画界を「気違い部落」と評したことは先述した。


『気違い部落』広告(部分拡大)(『キネマ旬報』1957年11月上旬号、キネマ旬報社)

 テレビドラマにも出た。1957(昭和32)年当時、NHKと年間15本のドラマ出演を契約している。石坂洋次郎原作『石中先生行状記』(日本テレビ、1957年4月9日~7月16日放送)に主演するなど、民放のドラマにも出た。
 この年の2月から、日中映画人交流の一環で、牛原虚彦、五所平之助らと中国を訪れた。およそ1か月にわたり、現地の映画界を視察し、首相の周恩来と会談をおこなっている。映画人たる雄之助は、この旅で大きな刺激を受けた。


1957(昭和32)年2~3月の日中映画人交流。左に周恩来、右に伊藤雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 伊藤雄之助監督・主演『限りなき道』の撮影は、『黄色いからす』と中国訪問のあとにおこなわれた。田植えが終わって、初夏のシーズンである。
 『限りなき道』の原作は、松山ふみ子(茨城県下館市養蚕小学校4年生)の作文『うられていつた馬』。「全国児童・生徒作品コンクール」(1954年度)で、「総理大臣賞」を受賞した。以下はその冒頭部分である。

 八月十日私の家の馬が、とつぜん静岡県のほうにうられて行きました。それは馬車くみあいがかいさんになつてしまつて、父ちやんの仕事がひまになつてしまつたからです。
 「父ちやん、どうして馬車くみあいがなくなつたんで」
と私が聞いたら、父ちやんは
 「いまはな、ふみ子、馬車なんか時代おくれなんだ。スピード時代で馬車なんかだれもたのむ人がねえんだ。にもつは自動車と三りん車にとられてしまうんだ。まつたくふけいきな世の中だ」と教えてくれました。こんな話を家で聞いている時いえの前を、自動車が砂けむりをあげて西に走つて行きました。(後略)
(松山ふみ子『うられていつた馬』『限りなみ道』撮影台本、新東亜映画株式会社、1957年)


1954(昭和29)年度「全国児童・生徒作品コンクール」で「総理大臣賞」を受賞する松山ふみ子(左)(『小学四年生』1955年2月特別号、小学館)

 およそ2000字の作文の映画化を、「新東亜映画株式会社」が企画し、プロダクションの「第一協団」が協力した。
 新東亜映画について、『限りなき道』のプレスシートには《新しく誕生した独立プロダクシヨン》とある。製作当時の新東亜映画の代表は今田喜次郎で、くわしい素性はわからない。
 『限りなき道』の撮影台本のトップには、《企画 木村桂三 大河内一權(第一協団)》と印刷されている(今田喜次郎の名はない)。木村桂三は、古賀聖人監督の国策映画『マライの虎』(大映東京、1943年6月24日公開)の脚色を手がけている。


『限りなき道』撮影台本(1957年)

 2000字の作文を、そのまま映画の脚本にすることはできない。その脚色を、脚本家の高橋二三が担当した。タイトルは『うられていつた馬』をあらため、『限りなき道』となった。
 1948(昭和23)年、松竹大船脚本研究所を卒業した高橋は、1955(昭和30)年に大映と契約した。1957(昭和32)年当時、すでに何本かの大映作品を手がけていた。のちに『ガメラ』シリーズを手がけ、特撮ファンに広く知られる存在となる。
 『限りなき道』の脚本は、『シナリオ』(シナリオ作家協会)1957年8月号に掲載された。同年秋の映画完成前で、この脚本と後述する撮影台本の文言に違いはない。


『シナリオ』(シナリオ作家協会)1957年8月号

 高橋二三のシナリオでは、主人公は原作の松山ふみ子ではなく、父親になっている。トラック運送のあおりを受ける荷馬車屋、松山周助がその人である。
 この荷馬車屋の役を、伊藤雄之助に打診した。「ひねりがなさ過ぎる」と思いつつ、シナリオを読むと、この役は雄之助しか考えられない。俳優としての格、知名度にも申しぶんはない。
 そのオファーを雄之助は受けた。「監督もやりたい」と条件をつけて。この前後のいきさつは、著書『大根役者・初代文句いうの助』に言及されていない。
 「監督もやりたい」と本人が言ったとして、とくに不思議はない。1950年代、みずからメガホンをとった俳優は少なくない。佐分利信、山村聰、田中絹代、斎藤達雄、菅井一郎、宇野重吉、小杉勇……。
 菅井一郎監督『泥だらけの青春』(日活、1954年9月21日公開)では、シナリオライター・畑山役で賛助出演した。俳優の菅井がメガホンをとる姿を、雄之助はそばで見て知っている。


菅井一郎監督『泥だらけの青春』(日活、1954年9月21日公開)。伊藤雄之助のシナリオライター・畑山

 そもそも映画に一家言あり、中国の映画界から刺激を受けた俳優である。メガホンをとりたい気持ちを、こころに秘かに抱いていたのかもしれない。
 映画界に入って、はや11年。大手6社(松竹、大映、東宝、新東宝、東映、日活)は無理でも、独立プロなら監督のチャンスがあった。高橋二三は、映画監督としての伊藤雄之助について、こう書く。

 脚本家は計算型の人種で、演出家は情熱型が多い。計算型が一応計算の上で首尾一貫して書いた物を、情熱型が気に入つた所だけ拾い上げて撮影したら、計算が崩れて全体のつながりがアンバランスになるのは分り切つている。だから「はい高橋さんフイート数から換算された枚数の原稿をきつちり作つて、それを変えずに丹念に撮影しましよう。その方が間違いないと思います」と仰有つて下さる演出家がいるとしたら、彼は計算型の人種である。その人の名は伊藤雄之助。元来俳優さんは情熱型が多いのに、好漢伊藤氏が如何なる映画を計算的作り上げてくれるか、その成功を祈るや切――
(高橋二三「計算型と情熱型」『シナリオ』1957年8月号、シナリオ作家協会)

 高橋の文章を読むかぎり、シナリオにきちんと敬意を払っていることがわかる。撮影台本と活字化されたシナリオには、文言に違いがない。

 1957(昭和32)年の初夏、『限りなき道』の撮影がおこなわれた。原作(作文)の舞台にあわせ、茨城県袋田温泉近くでのオールロケーションである。
 ロケ隊の宿は「袋田温泉ホテル」。低予算かつ製作日数は20日ほどしかない。映画づくりの現場としては、けっこう厳しい。
 そのかわり、伊藤雄之助の初メガホンを祝って、俳優仲間が協力を惜しまなかった。ロケ地の袋田温泉は、都内から車で3時間はかかる。それでもおおぜいの俳優が、この映画のために駈けつけた。
 雄之助とは古い付き合いの沢村貞子、『黄色いからす』でも共演した多々良純、青年座の初井言栄(言榮)、第一協団の清水元、深見泰三、そして、案山子クラブの織田政雄、西村晃などなど。 
 「案山子クラブ」は、雄之助をはじめ、気ごころの知れた仲間たちの集まりである。のちに「かかしぐるーぷ」と名をかえ、つながりを深めた。
 2022(令和4)年7月に亡くなった嶋田親一さん(演出家、テレビプロデューサー)の旧蔵品に、かかしぐるーぷから嶋田さん宛ての年賀状(1961年)があった。
 新宿区四谷3丁目に事務所があり、《株式会社 かかしぐるーぷ》とある。所属俳優は、伊藤雄之助、織田政雄、西村晃、濱村純(浜村純)、加藤嘉、日高澄子、北原三枝の7人になっている。


島田親一(嶋田親一)宛て、かかしぐるーぷ年賀状(1961年1月1日消印)。嶋田親一旧蔵品

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 俳優仲間が協力して生まれた『限りなき道』は、どのように仕上がったのか。フィルムは行方知れずのため、関係者の手で残された撮影台本をもとに探ってみたい。
 手元にある台本は、傷みぐあいと書き込みから判断して、現場で使われたもの。ただ、雄之助が使ったものではおそらくない。監督の使用台本なら、もっと書き込みが多いと思う。
 表紙には《限りなき道 新東亜映画株式会社》とあり、松山ふみ子の原作『うられていつた馬』が巻頭に再録されている。とくに明記はないけれど、おそらくモノクロ作品。


『限りなき道』撮影台本

 原作の再録のあと、スタッフとキャストが印刷、ペン、えんぴつで記されている。参考までに以下に記した(*印は空欄)。

企画 木村桂三、大河内一權(第一協団)
製作 藤野武志、有馬猛
原作 松山ふみ子(總理大臣賞受賞『うられていつた馬』より)
脚本 高橋二三
撮影 広川朝次郎
監督 伊藤雄之助
美術 三島杜霧
照明 守屋惣一
録音 田中義透(理研)
音楽 田村大八(*筆者注 田村大三)
編集 辻井正則
助監督 *
撮影助手 *
製作主任 金巻博司
監督助手 渡辺成男、郭成強
撮影助手 浅岡、秋山
録音助手 *
効果 *
照明助手 市川、松原、すが
美術助手 *
小道具 *
大道具 *
特殊機械 *
記録 木下とし子
編集助手 *
演技事務 金巻博司
衣裳 大和
技髪 奥山
結髪 *
製作宣伝 *
スチール 江橋隆明
製作経理 *
進行 保田進
美術助手 辰巳実
■人物
松山周助(荷馬車屋)伊藤雄之助
しげ(その妻)初井言栄(青年座)
育男(その息子)小沢直好(すみれ)
ふみ子(その妹)六郷育子
ばくさん(馬喰)清水元
春江(居酒屋のおかみ)沢村貞子
源吉(元荷馬車屋)織田政雄
達三(その息子)杉本修
山の旦那 深見泰三
岡野秀子(小学校の先生)北原三枝
石田(組合の荷役係)西村晃
杉本(運送会社の荷役係)森健二
獣医 丘寵児
紳士(全日本愛国党の役員)多々良純
保健婦 戸田春子




『限りなき道』撮影台本

 音楽欄に書き込みのある《田村大八》は誤りで、指笛音楽家の田村大三が正しい。
 キャストについては、撮影台本とプレスシートに若干の違いがある。プレスシートでは、岡野秀子が淡京子、杉本が丘寵児、獣医が森健二、保健婦が梅野公子になっている。また、《秋葉 藤山竜一》《婆さん 木村時子》の配役が撮影台本になく、プレスシートにはある。
 『シナリオ』に掲載された高橋二三の脚本および撮影台本と、完成した作品が異なっている可能性もある。配役の変更も、映画づくりの現場では珍しくない。
 撮影台本には《脚本 高橋二三》とあるけれど、プレスシートでは《脚本 高橋二三 伊藤雄之助》と連名になっている。高橋のシナリオを尊重したはずの雄之助が、現場で手を加えたことも考えられる。
 雄之助がどんな演出をしたのか、興味がある。プレスシートには、作品の狙いと特長がみじかく書かれている。

 監督として、演技者として伊藤雄之助はこの作品を単なる教育映画に終らせず、大きな社会問題にまで発展させ、貧しき人々への愛情と祈りを静かな詩情の中で美しく謳いあげている。
(『限りなき道』プレスシート)

 初めての映画演出で、雄之助がこだわったのは音楽である。
 音楽の田村大三は、指笛音楽の第一人者として知られた。田村に『限りなき道』の劇伴を委ねたのは、雄之助のアイデア。取材を受けたさい、音楽のプランについて語っている。


田村大三(『少年』1965年11月号、光文社)

「いくら働いても食ってゆけないバクロウ一家のつらい生活の哀感を表現するにはオーケストラの伴奏ではダメで、アコーディオンやハーモニカも考えたが作品のテーマにも画調にもぴったりこない気がした。そこで口笛を全編に流そうと思っていたところ、田村さんの指笛を思い出し、全編指笛だけの伴奏をお願いすることにした」
(「映画音楽への新しい試み 指笛で哀感を 伊藤雄之助新監督」1957年8月13日付「讀賣新聞」夕刊)

 高橋二三のシナリオと完成作が、どれほど違っているのか(あるいは同じなのか)。田村大三の指笛音楽が、どんな詩情を与えたのか。映画を観ることができない以上、台本とスチールで想像するしかない。
 シーンの数にして46、上映時間53分の『限りなき道』。印象深い場面を、撮影台本から抜き出してみたい。
 シーン1。荷馬車屋の松山周助(伊藤雄之助)と一家を支える馬の「ジロー」が、街道をゆく。

[1 乾いた街道(タイトルバツク)]
(ガタガタ揺れ乍ら行く荷馬車の上から見た目で)
どこまでも続く道。
(タイトル終る)
その道へダーツと猛烈な勢いでトラツクが数台走り抜けて、街道に砂ぼこりが立ちこめる。
と、その砂ぼこりの中から現われる荷馬車屋の周助(40)何かブツブツ呟きつつ体にあびたほこりをはたき乍ら、せかせかと速ぎ足に、手綱を曳いて街道を来る。
荷物を満載したその荷車。
それを牽く汗だらけの馬。
周助は何者かに追い立てられるが如くせかせかと足を急がせる。
と、後方でけたたましい車の警笛。
周助、振り返ると、大型トラツクが道をあけろとしきりに警笛を鳴らしている。
周助、仕方なさそうに手綱を曳いて荷車を片側へ寄せる。と、街道のふちが崩れて車輪の一つがずり落ちかかる。
周助、慌てて車を停める。
その横をダーツと通りぬける大型トラツク、周助に砂ぼこりをあびせて去る。(後略)


『限りなき道』撮影台本

 これだけでもう、雄之助のハマりっぷりが目に浮かぶ。新東亜映画が、周助役にオファーした狙いがよくわかる。あてがきじゃないか、とさえ思う。
 シーン2。周助は約束の時間に遅れて、村の共同出荷所に着く(台本には《太子薪炭出荷組合》の書き込み)。案山子クラブの西村晃が、事務員の石田を演じる。


西村晃(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」キネマ旬報社、1958年6月)

[2 ○○共同出荷所(太子薪炭出荷組合)]
事務員石田(35)弁当を食い乍ら、
「……何時だと思つてるだね」
その前に困り顔で立つている周助。
背後の、表の広場に周助の荷馬車がポツンと一台、置いてある。
石田「汽車は待つてちやくれなかつぺ……(弁当箱へヤカンの水をぶつかけて、サラサラかツこみ乍ら)……仕事はこれで打ち切りだ」
周助「へえツ?!」
石田「……トラツクに頼みやきちつと時間に間に合わせツからな……こつちにだつて予定つてもんがあツでな、困るだよ、こつちの立場もな」
梅干のタネをボツと窓の外に吐き出し、傍若無人に爪楊枝を使う。
周助、何か云い返そうとするが言葉にならない。
(WIPE)

 これまた目に浮かぶやりとりだ。上から目線で周助に嫌みをぶつけるあたり、西村晃の声が聞こえてくる。ワンシーンの友情出演のため、事務員石田こと西村晃は、このあと登場しない。
 続くシーン3と4。納品に遅れ、出荷所の事務員に嫌みを言われたうえ、周助は仕事をうしなってしまう。意気消沈した周助は、ジローを連れて、行きつけの居酒屋に立ち寄る。
 居酒屋の外では、ジローが飼い葉を食べている。店ではおかみの春江が、周助の話し相手になっている。演じるのは沢村貞子。ふたりのやりとりが、物語の伏線となる。


沢村貞子(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」)

[4 同・店の内]
ポツンと周助一人、握り飯をボソボソ食べている。
おかみの春江(40)渋茶を出し乍ら、
「ここら辺で商売替えでも、するならしてみたらどうだつぺ。荷馬車なんていまどき時代遅れだよ」
子供が日掛け貯金の箱を持つて来る。
「小母チヤン」
春江「あいよ」
子供、去る。
春江、貯金箱に小金を入れ乍ら、
「川上の源さんでさえ三十年の馬車曳き辞めて馬ツコ売つたつて云うでねえか。なんでもいい田んぼ買つたとかつて、評判聞くがよ」
と、云い乍ら隣室との窓を開けて、
春江「おばさん」
隣室の婆さん、顔を出して貯金箱を受け取る。
春江「(周助に)人間て見切り時が肝心だつぺ(声をひそめて隣室に顎をしやくり)うちの婆さん、時々貯金箱からくすねツだよ。タチが悪くつて(元の声で元の話題に戻り)ひと思いに馬ツコ売つて田んぼ拡げたらどうだつぺ。そりや何商売したつて苦労はついて廻るけど、やつてみツたら、やつてみたらよかつぺ」
周助「……おらあ、親代々の馬車曳きだ。馬ツコは売れねえツ」
春江「じや、息子にも空馬車曳かせようツてのかい?」
(WIPE)

 沢村貞子と雄之助は、公私ともに親しい仲だった。雄之助の子どものころ、沢村が伊藤家で家庭教師をしていた縁に始まる。『徹子の部屋』(テレビ朝日)で放送された伊藤雄之助追悼特集(1980年3月19日放送)では、沢村が故人の思い出を語った。宮口精二の個人誌『俳優館』第33号(1980年6月)に、この放送回が誌上再録されている。
 シーン9。居酒屋をあとにした周助は、空の荷馬車とジローを連れて、駅前の運送会社を訪ねる。
 荷役係の杉本(森健二)に「おらにも仕事分けて」と頼みこむものの、追い返されてしまう。杉本はトラックで立ち去り、彼にあげたせっかくのタバコも無駄になる。
 なすすべもなく、駅前で呆然とする周助。駅前では、見知らぬ紳士が熱弁をふるっている。演じるのは多々良純。ふたりは五所平之助の『黄色いからす』にて共演しており、これも友情出演と思う。


多々良純(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」)

[9 ○○駅附近(昼)]
(前略)
[全日本愛国党 
東関東支部結成記念大会]
と、記した看板を立て、胸に大きな造花をつけた汗ぎつた紳士が、マイクを片手に、軍艦マーチの伴奏で、喋り出す。
紳士「親愛なる皆さん、今や祖国日本を救うの道は再軍備あるのみであります。今日、東西陣営が原子爆弾を所有する以上、平和を守るには、我等は武装せねばならんのであります。諸君、平和は武力より、武力は我等日本人の団結より。諸君、今こそ大和魂を武力に直結せしめよ。力は正義なり、力あればこそ身が守れ、そして一旦緩急の暁には攻撃に転じ得るのであります……」
そのかしましい人だかりの彼方に、先刻のままポツンと一人、忘れ去られたように佇んでいる周助の後ろ姿。
勇壮なるマーチにも、演説にも、行き交うバスや人の賑わいにも、無縁の如き悄然とした後ろ姿。
その肩へ、手がかかる。
周助、ゆつくり振り返つて、
「……源さん」
そこに立つている元荷馬車屋の源吉(55)
(WIPE)

 右翼団体の役員らしく、再軍備を説く多々良純。なにをかいわんや、なキャスティングである(かなり唐突に思えるので、「新東亜映画」をとりまく政治的人脈を感じさせなくもない)。
 駅前で佇む周助に声をかける荷馬車仲間の源吉を、織田政雄がやる。案山子クラブの仲間で、いかにも織田政雄らしい役で和む。ふたりのやりとりが、シーン10に続く。


織田政雄(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」)

[10 街道]
肥料叭を二つ積んだリヤカーを曳いた源吉と空馬車を曳いた周助、並んで帰つて来る。源吉のリヤカーにはその子達三(12)が後押ししている。
源吉「周さん、一寸頼みがあツだが……」
周助、源吉を見る。
源吉「その手綱、握らせてくれねえか」
周助、立ち停つて源吉を見つめ、二人は立場を入れ替える。
それを怪訝そうに見ている達三。
源吉、手綱を曳いて歩き出し、
「……こうやつて歩くと、体がシヤンとすツぜ。懐かしいもんだ。我ながら荷馬車屋なんてバカな商売、良くまあ三十年もやつてたもんだな、ハハ……空し空車はいけねえな。空車曳いてけえつた時を思い出すと、気がめいらあ。全く、目ハシの効く人間なら、こんな稼業いつまでやつちやいられねえよ。いまどき、荷馬車屋だけは伜にやらせたくねえでな」
と、後ろを振り返る。そこに――
一心にリヤカーを押している達三。

 源吉の息子・達三(杉本修)と周助の息子・育男(小沢直好)は、仲のいい友だちどうし。大人の事情と時代の流れのあおりを、子どもたちも受けることになる。
 シーン13。周助はあきらめず、営業にまわる。源吉と別れたあと、頼りにする「山の旦那」の家を訪ねた。第一協団の俳優で、戦前から活躍するベテランの深見泰三が、山の旦那にふんする。


『限りなき道』。左に深見泰三の山の旦那、右に伊藤雄之助の周助(『小学五年生』1957年10月号)

[13 山の旦那の家の縁先]
縁側にどつしり控えた山の旦那(55)
「おう、よく来たなあ」
その前の庭先で、恐縮そうに小腰をかゞめている周助、何か云い訳じみた事を云い出そうとすると、
旦那「よしよし、分つてる」
と、大らかに周助の発言をとゞめさせ、紙入れから一万円出して、
旦那「どうだ、材木運び、三日間で一万円、やってくれるかな」
周助、喜びで口もきき得ない。
旦那「ハハ、じや、頼んだぞ」
と、一万円を差し出す。
周助、天にも昇る気持で手を出す。
と、旦那は一万円を引つこめて、
旦那「そうだそうだ、お前たしか、借金があつたな」
周助「(しゆんとして)……へえ」
旦那「幾らだつた?」
周助「六千円で……」
旦那「ふん、そうだつたな(と、六千円を紙入れに戻し)一ケ月分の利息、ニ千円(と、二千円更に戻し)まあ、しつかりやつてくれ」
と、残つた千円札二枚を渡す。
周助、両手でそれを受け取つて、複雑な表情。
(F・O)

 周助、ふんだりけったりである。シーン1から13まで、映画は淡々と、時代おくれとなった荷馬車屋の悲哀、世の冷たさを映し出していく。
 主演の伊藤雄之助を軸に、西村晃、沢村貞子、多々良純、織田政雄、深見泰三が、かわるがわる出てきては、いかにもな芝居を見せる。ぜいたくな配役である。
 周助の日常を描きながら、映画は松山家の人たちの暮らしを映し出す。周助の妻・しげ(初井言栄)は妊娠がわかって、落ち込んでいる。貧乏人の子だくさん、中絶するには時期がおそかった。
 しげ役の初井言栄は当時、劇団青年座に所属しつつ、日活映画によく出ていた。きっとそこで、雄之助や案山子クラブの面々と知り合った。独立プロではあるが、主人公の妻役は抜てきである。


『限りなき道』。左に初井言栄のしげ、右に小沢直好の育男(『小学五年生』1957年10月号)

 育男と妹のふみ子(六郷育子)は、ジローを家族として慈しんでやまない(原作者の松山ふみ子がモデル)。ジローの体調が芳しくなく、ふみ子は心配する。

[15 小学校附近]
ふみ子、写生をしている。
その辺で思い思いに写生する小学生達。
彼方に学校が見える。
岡野秀子先生(23)が一人々々見廻つている。(中略)
ふみ子の後ろに立つて、岡野先生は“アレツ?”と云うような顔をして、辺りを見廻し、またいぶかしそうにふみ子の写生を見る。それは――
画面一杯に大きく描かれた馬。
岡野先生、念を押すようにもう一度近くを見廻して、
「何処にも、馬はいないじやないの」
ふみ子、可愛く振り仰いで、
「思い出して書いてんです」
岡野「ああ、あんたの家には馬がいたのね。馬、元気?」
ふみ子「(しゆんとして)今朝は、あんまり元気じや……」
岡野「そう、それでこんな絵を書いてんの」
と、画面を見る。
その馬の画(アツプ)に、ポツンと一つ大粒の雨。
そしてまた一つ、二つ、雨粒が、描かれた馬の体に落ちて来る。
(O・L)


『限りなき道』撮影台本

 ふみ子が通う小学校の先生・岡野秀子は、シーン15にのみ登場する。撮影台本には《北原三枝》と書き込まれているが、プレスシートや先に引用した「讀賣新聞」の記事では、淡京子の名になっていた。
 北原三枝は、案山子クラブ(かかしぐるーぷ)のメンバーで、そのかたわら日活と契約していた。1957(昭和32)年当時、長門裕之や石原裕次郎の相手役で、忙しかったはずである。


井上梅次監督『勝利者』(日活、1957年5月1日公開)。左より、石原裕次郎の夫馬俊太郎、南田洋子の宮川夏子、三橋達也の山城英吉、北原三枝の白木マリ

 独立プロの作品で、伊藤雄之助への友情出演だとしても、日活がこころよく出演を許可したとは考えにくい。ワンシーンとはいえ、ロケ地の袋田温泉と東京を往復すると、1日がかりになってしまう。
 その余裕が、当時の北原三枝にあったのか、否か。北原の出演は結局ダメになり、淡京子に代ったのではないか。
 淡京子は昭和20年代から、独立プロの作品に出ていた。北原三枝ほどの人気はなかったものの、『日真名氏飛び出す』(ラジオ東京テレビ、1955年4月9日~62年7月14日放送)にレギュラー出演するなど、それなりに顔は知られていた(1958年、結婚を機に芸能界を引退)。


藤原杉雄監督『赤い自転車』(全逓従業員組合・第一映画社、1953年12月1日公開)。淡京子の加藤はる子(シナリオ文庫第14集『赤い自転車』映画タイムス社、発行日未掲載)

 話を『限りなき道』に戻す。
 シーン15でふみ子は、ジローの絵を描き、体調が悪いことを心配する。その絵に、大粒の雨が落ちてくる。この描写がシーン16につながる。
 体調のよくないジローは、悪天候のなか材木を運ぶ(シーン13の山の旦那から請けた仕事)。周助とジロー、それぞれの苦闘が、映画中盤のクライマックスとなる。

[16 山道A]
雨に降りこめられているジロー。
山のような材木を積んで、雨の中を周助の荷馬車は急ぐ。
(WIPE)
[17 坂道]
周助、雨の中でジローに鞭をあてる。
だが、車輪がスリツプして荷車は進まない。
周助、懸命に手綱を曳く。ジローは首を上下して手綱を取られるのをいやがる。
[18 山道B]
泥沼にめりこんだ車輪を、周助が体当りで押し出そうとしている。だが押せども引けども車は泥沼にめりこむばかり。
周助が片手の鞭で後ろからジローを叩いても、ジローの足はもがくばかりで、車は泥沼から出られない。降りしきる雨の中で、人も馬も泥んこで苦斗している。
(WIPE)


『限りなき道』。伊藤雄之助の周助(『小学五年生』1957年10月号)

 映画では、周助と源吉、ふたりの荷馬車屋が対照的に描かれている。源吉は、この稼業に見切りをつけて土地を買う。居酒屋のおかみ(沢村貞子)は、「なんでもいい田んぼ買ったとかって、評判聞くがよ」と周助に言う。
 かたや周助は、親代々の稼業にこだわる。頑固ではあるけれど、源吉にはない強さと反骨精神をもっている(そのぶん、馬のジローを酷使することにもなる)。
 そんな周助も、時代の流れには逆らえない。体調を崩したジローは、清とふみ子の看病もあって持ち直す。それは根本的な問題の解決、松山家の希望を見いだすことにはならない。
 妻しげの出産も、間近に迫っていた。シーン35と36では、子どもが不在の周助宅での夫婦の語らいが、やや深刻に描かれる。

[36 同・家の中]
(しげから見た目で)上りがまちに腰を下した周助が、悄然と視線を落としている。
しげ、入つて来て、周助と間隔を置いて同様上りがまちに腰を下す。
夫婦、互にあらぬ方を向いたまま、
しげ「(呟く)幾ら直つたつて、仕事がねえじや、なんにもなりやしねえ……」
周助「……」
しげ「いつそ、貸し馬に出したらどうだつぺ……幾らかでも日ゼニが入るだ」
周助「……赤ん坊は生まにやなんねえのか」
しげ「保健婦さんが、もう遅いつて」
周助「……」
しげ「……思い切つてジローを売つたらどうだツペ……商売替えすツにや、早い方がいいだ」
胴乱を握つた周助の手が微かに震えている。
しげ「田んぼ拡げて、百姓するより仕方なかつぺ。おら、二人分でも三人分でも働くだ。子供たちに、ひもじい思いだけはさせたくねえだ!(始めて周助を見て)お前さんツ、馬ツコ売つて田んぼ買つて――」
周助「うるせえ! おらア親代々の荷馬車曳きだ! 馬ツコが売れッかッ!」
と、叫んで逃れるように表へ出て行く。


『限りなき道』。左に初井言栄のしげ、右に伊藤雄之助の周助(『小学五年生』1957年10月号)

 家族として慈しみ、ともに暮らしてきたジローを売ることを、清とふみ子は納得しない。悩んだすえ、荷馬車屋を辞める決意をした周助は、馬喰のばくさん(清水元)に、ジローを売ってしまう。子どもたちには内緒で……。


『限りなき道』撮影台本

 同じころ、荷馬車屋仲間の源吉一家は、北海道の炭鉱へと旅立つ。土地を買ったものの、中途半端に肥料を撒くだけで、思うように開墾できなかったからだ。清と達三(源吉の息子)に別れがおとずれる。
 村を去る源吉と入れ替わるように、周助が土地(草原の開墾地)を買う。清とふみ子は、ジローが売られたことをついに知る。映画はここで、大詰めを迎える。

[44 新しい田んぼ(草原の開墾地)]
(前略)
周助一人、黙々と土を掘り起こす。
育男、つかつかと来て、周助に体当りするように拳固で父を打ち乍ら、
「父ちやんのバカ!」
周助、軽く育男をつき放し、あらぬ方へ視線をやり乍ら、手の甲で首筋の汗を拭く。
育男「父ちやんの嘘ツこき! 売らねえツて云つたでねえか!」
しげ、うずくまつたまま、
「しよんねえだよ。ジローはなツ、この田んぼ残して行つただ」
育男「おら、田んぼなんかいらねえ!」
しげ「バカこけ。田んぼなかつたら、なんしておまんま食うだツ」
育男「まんまなんか食わんでもいい!」
周助、いきなり育男を殴りつける。
殴られた頬を押さえて、父を睨む育男。
周助、複雑な気持で育男を見詰めて、二人の視線が合う。
その時、彼方で遠い馬のいななき。
育男、ハツと気づいて、その方へ走り出す。
ふみ子も続いて駈け出す。
[45 傍の小高い場所]
駈けて来た育男とふみ子、立ち停つて彼方を見る。
向うの道を、ばくさんに曳かれてジローが行く。
育男もふみ子も、声が出ない。
ジローはだんだん小さくなる。
ふみ子、一杯涙を浮かべて育男の手につかまる。
育男、涙の目でじつとジローを見送つている。
ジロー、だんだん遠くなる。


『限りなき道』。左に六郷育子のふみ子、右に小沢直好の育男(『小学五年生』1957年10月号)


『限りなき道』。小沢直好の育男(『小学五年生』1957年10月号)

 清とふみ子は、売られていくジローを、小高い場所からさびしく見送る。
 気持ちのもって行き場のない周助は、ただひとり、土地を耕す。そして、シーン46「新しい田んぼ」で幕となる。

[46 新しい田んぼ]
しげ、よろよろと立ち上り、
「しよんねえ、しよんねえ……」
と、呟きつつ、鍬を振り始める。
ずつと土を掘り続けていた周助、ふと手をとめて、丘の上の育男とふみ子の後ろ姿へゆくつり顔を向けて、じいつと見詰める。その顔に、押えに押えていた哀しみのカゲが一瞬浮かぶ。
その時、ゴーツと傍の道をトラツクが走り抜けて、舞い上る砂ぼこりに周助の姿が消える。
やがて、砂ぼこりが薄れると、もはや周助は前にもまして懸命に鍬を振つている。
一見やけくそとも見えるほど我武者羅に鍬を振う。
汗でシヤツがベツトリと肌にくつついたその丸まつた背中――
(完)


『限りなき道』撮影台本

 伊藤雄之助監督・主演『限りなき道』は、低予算、オールロケ、撮影日数20日と厳しい条件のなか、1957(昭和32)年9月に完成した。
 原作が「総理大臣賞」を受賞した縁で、『限りなき道』の題字は、当時首相の岸信介が書いた。完成にあたって、雄之助はコメントを寄せた。

(前略)何事に依らず第一作と云うものは大変むずかしいもので、その第一作にこの作品を選んだ事が間違つて居たか居なかつたかそんな事はとても解りません。まア出来て終つた事は致し方の無い事で、今更どう悔やんでも始まらない。この道で何十年と苦労されて居る諸先輩が一つの作品に永い歳月を費して一本一本真劔に勝負されて居る中に、映画界に入つて実績未だ七、八年程度の一俳優の私が、而も独立プロというさゝやかな経済機構の中で無い智恵を絞つて見ても全く以てはじまらない。とは解り乍らもそれでも何か創つて見度いと一生懸命にやつたのがこの仕事です。しかし撮映実数二十日間ではとてもとても……。
 常日頃、悪い状態でのみ仕事をさせられて居る先輩監督諸兄に今更の如く心から御同情申上げ度い気持です。(後略)
(伊藤雄之助「演出者の言葉」『限りなき道』プレスシート)

 謙虚にして、いささか皮肉めいた物言いである。みずから監督となり、気づいたことも多かったはず。さまざまな制約に阻まれ、監督デビュー作が思うようにいかなかった後悔が感じられる。
 作品に対する第三者の評価はどうだったのか。『昭和32年度 文部省選定教育映画等目録 年報』に概要が載っている。

限りなき道 (劇(娯))成 32.10.31
貧しい荷馬車屋の一家が、新しい運送機関の発達によって次第にとりのこされていく姿の中にこどもたちが馬にそそぐ愛情を描いたもので、やや暗い感じがないでもないが、こどもや生活の問題について考えさせることができよう。小学4年生の作文「売られていった馬」を映画化したもの。
(『昭和32年度 文部省選定教育映画等目録 年報』文部省社会教育局視聴覚教育課、1957年4月~1958年3月)

 相応の評価はされつつ、《やや暗い感じがないでもない》とある。高橋二三のシナリオを読むと、はつらつとした子どもたちのパートはともかく、大人の側の描写は切実で、コミカルな要素がほとんどない。
 雄之助ふんする松山周助も、「怒と哀」ばかりで、「喜と楽」の表情がほぼない。中川信夫監督『かあちゃん』(新東宝、1961年3月15日公開)で雄之助が好演した、ブリキ職人の”とおちゃん”のようなユーモア、明るさがあれば、また違った印象の映画になったと思う。
 作品の《暗い感じ》は、監督の《誠実さ》のあらわれでもある。雑誌『娯楽よみうり』の教育映画紹介欄では、好意的に取り上げられた。
 筆者の長江(フルネーム不明)は、周助と源吉、ふたりの荷馬車屋の姿を、《社会や時代から取残されていくもののどうにもならない悲劇》とし、こう続ける。

 演出は、技巧をさけて、まともにこの悲劇をみつめている。題材がこういうものだから、おのずと描写は暗いものにならないわけにはいかぬ。しかし伊藤雄之助の人柄なのだろう、暖かい目でこの悲劇をながめているようだ。
 ひたむきなこの人間の生き方といったものに、われわれはうたれないではおかぬ。
 たとえば、雨の土砂ぶりのどろんこ道をひいてゆく馬車のくだりの描写など、演技以上の何か切実なものが出ている。これは、演出のはりつめた精神のおのずと現われないではおかぬ何かであり、それが尊いとおもう。(中略)
 主演の伊藤雄之助が、いつものように人間的な明暗をもっと豊かに見せていたならと少し心残りでもある。しかし、この誠実な描写態度は立派なものである。
(教育映画「誠実な社会の描写『限りなき道』」『娯楽よみうり』1957年9月6日号、読売新聞社)

 独立プロの中篇劇映画とはいえ、知名度のある伊藤雄之助がメガホンをとったことは、メディアの話題となった。
 小学館の学習雑誌『小学五年生』1957年10月号には、「映画物語」として5ページにわたり、ストーリーがスチールつきで紹介された。また、同年9月27日放送の『映画の窓』(ラジオ東京テレビ[現・TBS])では、『限りなき道』が紹介され、雄之助が出演している。


1957(昭和32)年9月27日付「毎日新聞」テレビ欄(部分拡大)

 問題は、『限りなき道』がどこで、どう公開されたのか。先述の『文部省選定教育映画等目録』や『教育委員会月報』第90号(文部省初等中等教育局地方課、1958年3月)に掲載されていることから、文部省の選定は受けている。
 いっぽうで『キネマ旬報』別冊「日本映画人大鑑」(キネマ旬報社、1959年7月)の高橋二三の項には、《限りなき道(未封切)》とある。
 上映時間53分であれば、併映作として大手6社(松竹、大映、東宝、新東宝、東映、日活)のどこかが配給すればいい。その形跡が見当たらないのは、新東亜映画との調整がつかなかったからか。
 新東亜映画では、洋画配給のほか、何本かの劇映画もしくはドキュメンタリーを製作した。社名が「新東亜」で、岸信介が『限りなき道』の題字を書き、右翼団体の役員(多々良純)が再軍備を力説していることから、保守人脈の流れをくむ組織にも思える。


『限りなき道』撮影台本

 2023(令和5)年現在、「新東亜映画」に該当するプロダクションは見当たらない。『限りなき道』のフィルムは、どこへ消えたのか。雄之助の著書『大根役者・初代文句いうの助』およびエッセイ、インタビュー記事に、この映画に関する文言は見当たらない。

□□□

 主演作にして監督デビュー作『限りなき道』は、テレビ、雑誌に取り上げられたことから、試写会は実施されている。しかし、大々的に一般公開されなかった。
 作品が日の目を見ず、お蔵入りになることは珍しくない。とはいえ、主演作にして初監督作、俳優仲間の協力により完成した一本である。雄之助の胸中、察するに余りある。
 がっかりして、悲嘆にくれる余裕はない。日本映画の全盛期、出演のオファーは絶えず、売れっ子俳優として忙しい日々が待っている。
 1959(昭和34)年には、伊藤雄之助の主演作が公開された。獅子文六原作、野崎正郎監督の『広い天』(松竹大船、1959年4月14日公開)。


野崎正郎監督の『広い天』(松竹大船、1959年4月14日公開)タイトルバック

 敗戦間近の1945(昭和20)年、出征している父の田山健三(山内明)、母の春子(井川邦子)と離れ離れになった新太郎(真藤孝行)は、縁をたよって熊吉(松本克平)のもとに預けられる。その途中、新太郎は風変りな男、小杉朝雲(伊藤雄之助)と出会う。朝雲は熊吉の弟で、彫刻家であった。


『広い天』。左に伊藤雄之助の小杉朝雲、右に真藤孝行の田山新太郎

 海沿いの田舎町での疎開暮らし。都会っ子の新太郎は、疎開先で疎まれ、子どもたちからいじめに遭う。朝雲は、そんな新太郎をあたたかく見守る。新太郎もまた「馬おじさん」と呼んで、朝雲を慕う。
 戦争が終わり、朝雲は新太郎をモデルに創作に励む。作品を完成させた朝雲はひとり、東京へ向かう。そしておとずれる、ふたりの別れ。


『広い天』より伊藤雄之助と真藤孝行

 2011(平成23)年10月、ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「世紀の大怪優 FANTASTIC 伊藤雄之助 」(10月9日~12月3日)にて、『広い天』が上映された。
 上映時間79分のかくれた佳品で、旧作邦画好きのあいだでも知られていなかったと思う。「こんなすばらしい雄之助映画があったとは!」と感激したことを覚えている。
 『広い天』は、シネマヴェーラ渋谷の特集「名脇役列伝Ⅳ 伊藤雄之助生誕百年記念 怪優対決 伊藤雄之助VS西村晃」(2019年7月6日~26日)でも上映されたほか、CSの「衛星劇場」でも放送された。


ラピュタ阿佐ヶ谷「世紀の大怪優 FANTASTIC 伊藤雄之助」(2011年10~12月)、シネマヴェーラ渋谷「名脇役列伝Ⅳ 伊藤雄之助生誕百年記念 怪優対決 伊藤雄之助VS西村晃」(2019年7月)チラシ

 名画座で今後「伊藤雄之助特集」が組まれるとすれば、『広い天』は欠かせぬプログラムになるはず。『限りなき道』も、“馬おじさん”のようなハートウォーミングな作品だったかと思うと、ますます観たくなる。
 『限りなき道』の再来を思わせる、雄之助の主演作もある。大映の「温泉シリーズ」のひとつ、原田治夫監督『温泉巡査』(大映東京、1963年9月21日公開)。脚本は高橋二三のオリジナルで、『限りなき道』のコンビがふたたびタッグを組んだ。


原田治夫監督『温泉巡査』(大映東京、1963年9月21日公開)タイトルバック。伊藤雄之助の望月六郎太

 舞台は、海沿いにある温泉地。派出所のカタブツ警官・望月六郎太巡査部長(伊藤雄之助)は、風紀の乱れた温泉街を、徹底的に取り締まる。
 それをけむたく思う者たちが、あの手で、この手で、望月を温泉街から追放しようとたくらむ。望月にブタ箱に入れられた石田森松(川崎敬三)が、その急先鋒に立つ。そこに、望月の娘・マリ(姿美千子)、ストリッパーの夏子(浜田ゆう子)、望月の後輩・小泉巡査(高橋元太郎)らがからむ。


『温泉巡査』ポスター。左より、川崎敬三、浜田ゆう子、伊藤雄之助、高橋元太郎、姿美千子

 2020(令和2)年11月17日、再公開やリバイバル上映されていない大映映画を発掘上映する「KADOKAWA CINEMA DIG」で『温泉巡査』がえらばれた。この夜、東京・飯田橋のKADOKAWA富士見ビルにある「神楽座」にて、デジタル上映された。
 「KADOKAWA CINEMA DIG」の企画に関わるのむみちさん(「名画座かんぺ」発行人)に誘ってもらい、観せてもらった。67分の中篇(併映作)にして、高橋二三と伊藤雄之助のコンビ作。『限りなき道』と似てはいるけれど、作風はかなり違う。他愛のない人情コメディで、秀作と呼ぶほどの出来ではなかった。
 それでも、珍しい「雄之助映画」がよみがえるのはうれしい。喜怒哀楽、いろんな雄之助がこれ一本で愉しめた(『温泉巡査』もCSの「衛星劇場」で放送された)。

 『広い天』と『温泉巡査』のほかにも、観る機会の少ない雄之助主演作の蔵出し上映はあった。
 2014(平成26)年3月30日、「短篇映画研究会」主催の16mmフィルム上映会(千代田区立日比谷図書文化館)で、『あき巣―ある泥棒の告白―』(朝日テレビニュース[現・テレビ朝日映像]、1967年)を観た。東京防犯協会連合会の企画で、山崎大助脚本・監督による、30分のカラーPR映画である。
 あき巣の常習犯(伊藤雄之助)が、住居侵入の手口を明かしながら、防犯のヒントを見せていく。そのあき巣は、犯行を子どもに目撃され、あっけなく逮捕されてしまう。
 飄々として、ふてぶてしく、どこか愛嬌のあるあき巣の常習犯は、雄之助にぴったり。山本麟一、恩田清二郎、阿部寿美子、利根はる恵、三田登喜子ら出演者も豪華だった。


山崎大助監督『あき巣―ある泥棒の告白―』(朝日テレビニュース[現・テレビ朝日映像]、1967年)。伊藤雄之助のあき巣(短篇映画研究会「名優アンコール」チラシ、2014年3月)

 珍しい雄之助映画との出会いは、まだあった。
 2017(平成29)年7月15日、「被爆者の声をうけつぐ映画祭」(武蔵大学江古田キャンパス)で、高木一臣脚本・監督『人間であるために』(新映画協会、1974年4月24日公開)を観た。
 雄之助は「原爆裁判」訴訟を手がけた弁護士の岡本尚一を演じた。岡本は、1955(昭和30)年4月、アメリカの原爆投下が国際法違反だと訴え、原爆被害の損害賠償を国に求め、東京地裁に提訴した。


高木一臣監督『人間であるために』(新映画協会、1974年4月24日公開)。左に中野誠也の松井康浩、右に伊藤雄之助の岡本尚一(シナリオ『人間であるために』新映画協会、1974年)

 公園のブランコに腰をかけ、ともに裁判を闘う松井康浩弁護士(中野誠也)に「子どもはいいなあ」とつぶやく情味。そうかと思えば、「原爆が落ちる!原爆が落ちるぞ!」と叫び、人混みのなかを走り抜けるエキセントリックなラスト。
 岡本尚一は、裁判の決着をみないまま、1958(昭和33)年に世を去る。『人間であるために』は、独立プロによる自主映画だったけれど、雄之助は精魂こめて、亡き反骨の弁護士と向き合った。


『人間であるために』より伊藤雄之助(前掲書)

 『広い天』『温泉巡査』『あき巣――泥棒の告白』『人間であるために』。いずれも近年になって、筆者が観ることのできた、忘れえぬ雄之助主演映画である。

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 最後に、演出家としての伊藤雄之助について、触れておきたい。
 『限りなき道』以外に、雄之助が映画のメガホンをとった話は、聞いたことがない。最初で最後の監督作となり、しかも、広く公開されなかった。
 知るかぎりでは『限りなき道』のあと、テレビドラマを2本、演出した。いずれもNETテレビ(現・テレビ朝日)の仕事で、演出と出演を兼ねている。
 1本目が「ガス グランド劇場」の枠で放送された西村滋作、伊藤雄之助演出『ある断層』(1962年9月9日放送)。母(望月優子)と子(山本学)、世代に横たわる“断層”を描いた。後述する『週刊現代』の記事には、《概して、好意的なものだった》とある。
 2本目が「ポーラ名作劇場」シリーズの『西陣の蝶』(1963年4月8日放送)。水上勉原作、茂木草介脚本、伊藤雄之助演出である。雄之助は、水上勉、望月優子と3人で「三朋プロ」を結成し、このドラマが同プロ最初の作品となった(雄之助と優子といえば、『かあちゃん』を思い出す)。


1963(昭和38)年4月8日付「朝日新聞」テレビ欄(部分拡大)

 南禅寺境内の料亭の離れ座敷で、京都地検の次席検事・出水俊三(松村達雄)が殺される。事件前、座敷に呼ばれていた芸者の蝶子(乙羽信子)は、姿を消す。
 置屋の女将(中畑道子)のもとに、蝶子から手紙が届く。そこには、蝶子の父・田島与吉(加藤嘉)が無実の殺人罪で捕まり、拷問で殺されたことが書かれており――。
 演出に伊藤雄之助を起用したことについて、当時の『週刊現代』が記事にしている。

 雄之助は現在、「仕事は映画中心」主義を持しており、テレビの方は仕事厳選主義を取っているのだが、そうしたとき、NETからあるドラマへの出演交渉を受けた。
 ところが雄之助は作者の名前を見たとたん、かかる作者の台本では出演に応じかねるといい出し、果てはこういうものに出演させようとする局とはつき合いかねると強い態度を示した。
 あわてたのは局側、スポンサーを口説き落すには雄之助ほどの俳優は絶好のタレント。なんとか慰留をと努めた次第だが、そこで雄之助が交換条件? にと、二回目の演出を申し出たということだ。
(「テレビ局をあわてさせた執念 第二回ドラマ演出をする伊藤雄之助」『週刊現代』1963年3月7日号、講談社)

 この記事が本当だとすると、かなりの熱の入れようだ。しかも、かなりの大物俳優である。
 雄之助はやっぱり、演出がしたかった。『週刊現代』にも、《雄之助は機会を狙っていた訳だ》とある。ドラマの脚色を茂木草介に依頼し、みずから京都の西陣に出かけ、下調べまでおこなった。


『ポーラ名作劇場 西陣の蝶』(NETテレビ、1963年4月8日放送)リハーサル風景。左より、乙羽信子、松村達雄、伊藤雄之助(同日付「朝日新聞」)

 『西陣の蝶』については、別の証言もある。NETテレビのディレクター・若井田久は、雄之助・若井田の共同演出だったと著書『主役との遭遇』に書いている。

 雄さんが暴走しないように見張りつつ、最初は雄さんの演出プランの甘さを注意し、衣装の選択や、舞妓さんの動きを具体的に指示できずに音をあげようとしていたから、ぼくは個室で雄さんを叱った。個々の具体的な動きはなんとかなったが、演出プランに則った演技指導は苦手のようだったので、ぼくが、遠慮がちだったが雄さんの半歩ほど前に出て演出をぼくはぼくなりに考えていた。雄さんは口にこそ出さなかったが、(生放送の演出はもうコリゴリだ)という表情をしていた。当然、サブのD席にはぼくが座り、技術マンたちや音響効果などの打合せなどは全て仕切っていたのだが、雄さんはぼくの後ろに座り一言も発することはなかった。
(若井田久『主役との遭遇』中央公論事業出版、2020年10月)

 「名選手、名監督にあらず」ということか。テレビのスタジオドラマでは、映画とは異なるノウハウ、段取り、センスが問われる。草創期からテレビドラマに出た俳優とはいえ、いささか勝手が違ったはずである。
 若手ディレクターの若井田久もまた、水上文学のドラマ化に情熱をかたむけた。雄之助の主演ドラマ『署長日記』(NETテレビ、1961年4月7日~6月30日放送)を演出した縁もあり、「若さん」「雄さん」と呼び合う仲であった。


『ゴールデン劇場 死の流域』(東京12チャンネル、1964年9月14~18日放送)演出打合せ風景。左端に演出の若井田久、右端に主演の伊藤雄之助(若井田久著『主役との遭遇』中央公論事業出版、2020年10月)

 昭和30年代のスタジオドラマは、映像の多くが残っていない。伊藤雄之助が演出した2本のドラマも、視聴は叶わない。肝心のドラマを見ることができない以上、『週刊現代』の記事と若井田久の回想を、鵜のみにすることはできない。
 VTRに上書きされ、データごと消えるテレビドラマと異なり、映画はフィルムが物体として残る。そう考えると、劇映画『限りなき道』は観ることができるかもしれない。
 フィルムがネットオークションに出品されることは多いし、フィルムのレンタル会社から見つかる可能性もある。“どこかにある”証拠はあっても、“どこにもない”確証はない。

 大病を患ったのち、昭和50年代に入っても、精力的に仕事を続けた(野菜ぎらいで、肉ばかり食べていたという)。
 映画、テレビ、舞台にくわえ、草笛光子とテレビCM(「パオン トリートメントカラー」)にも出た。1977(昭和52)年2月には、『四角い函/彼岸花』(ワーナー・パイオニア)で、レコードデビューも果たす。


伊藤雄之助歌『四角い函/彼岸花』(ほむら遥作詞、原田良一作曲、小野崎孝輔編曲/ワーナー・パイオニア、1977年2月)

 1980(昭和55)年3月11日、伊藤雄之助は、療養がてら出かけた静岡県伊東で急逝する。享年60、まだまだ働きざかりだった。
 亡くなったあとに公開された映画、放送されたテレビ時代劇や2時間サスペンスもある。戦前・戦中の下積み時代はともかく、戦後のキャリアに関しては、俳優の浮き沈みが感じられない。



伊藤雄之助の死去後に放送された『鬼平犯科帳』第3回「血頭の丹兵衛」(テレビ朝日、1980年4月15日放送)。雄之助の血頭の丹兵衛/下:同オープニングクレジット

 《自分の道だと 働いたけど 結局 四角い函の中》(『四角い函』)。そう歌った俳優の幕切れは、突然おとずれた。

 伊藤雄之助のお墓は、ふるさとの浅草から少し離れた「浄土宗 東日山 西光寺」(墨田区千歳2丁目)にある。
 浄光院雄誉明徹居士。ありし日の風貌を思わせる、この人らしい戒名である。


楽屋の伊藤雄之助(『毎日グラフ』1968年6月30日号)


*本記事中に引用した『限りなき道』プレスシートは、籾山幸士氏がTwitter上にアップした画像を参考にしました。
*そのほか特記なきものは筆者撮影および所蔵資料。