脇役本

増補Web版

ヒロインひとり 河内桃子 嶋田親一の証言と資料に拠る③


河内桃子(フジテレビ『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ、1961年8月

 先々月、国立映画アーカイブ(東京・京橋)の特集上映「生誕120年 映画監督 山本嘉次郎」(2022年8月2~28日)で、『坊っちゃん社員』(東宝、1954年3月3日公開)と『續 坊っちゃん社員』(同、4月7日公開)を観た。夏目漱石の『坊っちゃん』を、現代の地方都市に置きかえた、源氏鶏太お得意のサラリーマン青春明朗喜劇である。
 小林桂樹の主演で、伊藤雄之助、清水将夫、斎藤達雄、十朱久雄、山本礼三郎、志村喬、沢村貞子、中村是好、横山運平、汐見洋、伊豆肇、堺左千夫などなど、我がごひいき俳優がぞろぞろと出てくる。理屈ぬきに愉しい作品だった。
 工場の総務課で働く昭和太郎(小林桂樹)は、さまざまなトラブルに巻き込まれつつ、持ち前の正義感と大胆さで切り抜けていく。
 太郎をひそかに想い、あたたかく見守る同僚のまり子を、デビューしてまもない河内桃子(こうち・ももこ/1932~1998)が演じている。そうそうたる出演者が顔を揃えるなか、ヒロインとしては控えめかつ、チャーミング。前から好きな女優さんだったけれど、あらためて「いいなあ」と見惚れてしまった。


東宝映画『坊っちゃん社員』(1954年3月3日公開)スチール。左より小林桂樹、河内桃子、伊豆肇

 銀幕の河内桃子を観ながら、どうしても思い出してしまう。7月9日、90歳で亡くなった演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さんのことを……。
 河内桃子と嶋田親一、ふたりはひとつ違いの同世代であり、ともに仕事をした間柄だった。そこで今回は、「素描 佐々木孝丸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25「ブーチャン葬送曲 市村俊幸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11に続いて、嶋田さんの旧蔵資料を通して、河内桃子のことを書いてみたい。
 今年で生誕90年、66歳で亡くなって、24年になる。映画から新劇の人となり、大輪の花を咲かせた、素敵な俳優であった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。右より2人目に河内桃子、3人目に嶋田親一(1961年8月)

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 河内桃子は、1932(昭和7)年3月7日、東京市下谷区谷中に生まれた。祖父の大河内正敏は元子爵にして「理研グループ」の創設者、父の大河内信敬は洋画家、世が世なら子爵のご令嬢、良家のお嬢さまである。


左より父の大河内信敬、河内の母、河内桃子、河内の妹(「一週間の記録『演技派女優の道を行く河内桃子さん』」『ドレスメーキング』1960年4月号、鎌倉書房)

 日本女子大学付属高校を卒業したのち、貿易会社のタイピストをへて、1953(昭和28)年、東宝の第6期ニューフェイスに応募、合格する(その2年前、日劇の舞台『モルガンお雪』に出たことがある)。ニューフェイスの同期には、宝田明、佐原健二、足立玲子、藤木悠、岡田眞澄がいた。本名の「大河内桃子」から「大」の字をとって、「河内桃子」とした。

 早くから出演作に恵まれた。1954(昭和29)年には、先述した『坊っちゃん社員』をはじめ、いくつかの作品で重要な役を演じた。本多猪四郎監督『ゴジラ』(東宝、1954年11月3日公開)では、古生物学者の山根博士(志村喬)の娘・恵美子を演じた。河内桃子といえば、『ゴジラ』を思い浮かべる人は多い。


東宝映画『ゴジラ』(1954年11月3日公開)スチール。左に志村喬、右に河内桃子

 その後も東宝の青春映画やメロドラマを彩る若手として活躍する。宝田明の相手役をつとめた本多猪四郎監督『わが胸に虹は消えず』(東宝、1957年7月9日公開)は、全2部からなる大作で、堂々たる主演作であった。
 現代劇が多かったものの、時代劇に出ることもあった。東宝作品への出演は、4年間(1954~57年)で30本近くにおよぶ。


東宝映画『眠狂四郎無頼控 第二話 円月殺法』(1957年4月2日公開)スチール。左に鶴田浩二、右に河内桃子

 ところが、本人なりに思うところがあったのか、河内は新劇の世界に身を投じていく。
 1956(昭和31)年、劇団俳優座養成所の門をたたき、養成所の第8期生となる。東宝作品に出演しながら、六本木にある俳優座に通い、演技の勉強にいそしむ。ニューフェイス同期の宝田明は、のちにこう語った。

 同期の河内桃子は、『ゴジラ』で共演した後、一年後に司葉子が入社して来たために、ヒロインの役は司君に移行され、司君と僕との共演が続きました。
 そこで河内君は、芝居をちゃんと勉強しよう、と俳優座に入り、演技の研鑽に励み、その後舞台でプリマドンナとして活躍しました(後略)
(宝田明著/のむみち構成『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』筑摩書房、2018年5月)

 河内桃子の養成所入りは、俳優座のなかで話題となった。劇団の若手だった中谷一郎は、その噂を聞いて、写真家の秋山庄太郎に訊いた。「庄ちゃん、河内桃子って、どんな人?」。秋山が即答する。「フランス人形」。秋山と河内は、古くからの知り合いであった。


俳優座劇場前での河内桃子(『ドレスメーキング』1960年4月号)

 河内桃子の身になって考えると、俳優座養成所入りには、相当な覚悟があったはずである。同世代の、それも無名の俳優が少なくないなか、東宝における活躍を知らぬ者は少ない。
 やさしく目をかける先輩がいるいっぽうで、河内の養成所入りをこころよく思わない劇団員もいたかもしれない。養成所で同期の小笠原良知(小笠原良智)が当時の河内について、こうふりかえっている。

同期としては何となく近寄りがたい別格な存在として見ていたような気がします。そのうちあなたは、何とかクラスに溶け込もうと、そっと寄りそい腕を組み耳もとへちょっとHな冗談を言っては皆を笑わせていましたね。反面、青春スターから舞台女優へと懸命に努力していた三年間でした。
(小笠原良知「弔辞」『悲劇喜劇』1999年1月号、早川書房)

 俳優座養成所で3年間、みっちり修業した河内は、1959(昭和34)年4月、俳優座に入団する。養成所時代には、映画だけでなく、ラジオとテレビドラマにもたくさん出た。


ラジオ東京『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』放送1500回記念パーティー。後列左より河内桃子、植野晃弘、市川三郎、藤枝利民、木村時子、阿部寿美子、須藤健、野々浩介、十朱久雄、浅沼由美代、前田敏子、増田順二。前列左より佐伯徹、浦川麗子、本郷秀雄、淡島千景、久慈あさみ、佐野周二、西川敬三郎(『旬刊ラジオ東京』1956年10月21日号、ラジオ東京)

 俳優座での本格的なデビューは、シェイクスピアの恋愛喜劇『十二夜』(1959年9~10月)で、伯爵令嬢のオリヴィア役に抜てきされた。

 この公演は、俳優として確固たる地位にある小沢栄太郎が初めて演出する舞台でもあった(訳は三神勲)。河内オリヴィアの美しさは、その舞台写真を見るとよくわかる。


俳優座公演『十二夜』よりオリヴィア役の河内桃子(『AAA』創刊号、コダマプレス、1959年11月)

 付録にフィルムレコード(ソノシート)がつく雑誌『AAA』創刊号(コダマプレス、1959年11月)には、『十二夜』の一場面を吹き込んだレコードが挟まれている。河内オリヴィアの台詞も、僅かではあるけれど聴くことができる。伯爵令嬢のいい意味での高飛車な感じと品と可愛らしさがたまらない。
 事実、河内オリヴィアは、当時の新劇ファンに鮮烈な印象を残した。英文学者で演劇評論家の小田島雄志は回想する。

 花に大輪の花があるように、女優にも大輪の女優があるとすれば、この人だ、とそのとき思ったが、その思いはいまでも変わらない。彼女が舞台に立つと、凛としたその姿は等身大より一まわりも二まわりも大きく見え、彼女が笑顔を浮かべると、あたりの空気までがその笑顔の色に染まるのである。白バラが花びらの周辺の空気を染めるように。
(小田島雄志「河内桃子『十二夜』」『舞台人スナップショット』朝日文庫、1999年1月)

 新劇の舞台で華々しく、颯爽とスポットライトを浴びた河内桃子。しかし内心は、映画界に戻るつもりだった。『十二夜』で共演した中谷一郎とテレビ番組で、こんな対談をしている。

河内:私ね、発表会と卒業公演をやらなかったら、舞台人にならなかったかもしれない。
中谷:でもそう思って、劇団に入ってというか、養成所に……
河内:違うの、ぜんぜん。映画からデビューしたでしょ。(養成所に)入って、また映画界に戻るつもりだったの。
中谷:そうだったの。
河内:でも3回、舞台を踏んだということで、憑りつかれちゃったのかな。
(『すばらしき仲間』第449回「花の俳優座同窓会」中部日本放送、1984年9月30日放送)


俳優座近くで三島雅夫(右)と会う河内桃子(『ドレスメーキング』1960年4月号)

 俳優座に入団したのち、河内の東宝映画への出演はほぼなくなる。そのかわり、東映や松竹作品にときどき顔を出した。
 舞台、テレビ、ラジオに関しては、いくつかの仕事を掛け持ちして、かなりの売れっ子である。本読み、リハーサル、本番、移動、取材と忙しいなか、映画や芝居に足を運び、休暇があるとスキーに出かけた。
 地方での公演が終わると、無事に終えた解放感から、キャバレーで「ドドンパ」を踊り、酔っぱらって素足で夜の浜辺を駆けまわった。先に引用した小笠原良知の「弔辞」に、その話が出てくる。


リハーサル仲の河内桃子(『ドレスメーキング』1960年4月号)

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 河内桃子が、フジテレビディレクターの島田親一(嶋田親一)と初めて仕事をしたのは、1960(昭和35)年。俳優座入団の翌年に放送された島田親一演出『サンウエーブ火曜劇場 暖流』(フジテレビ、1960年3月1、8日放送)が最初である。
 名門病院が舞台の岸田國士のメロドラマで、看護師の石渡ぎんを岩崎加根子が、院長の娘・志摩啓子を河内が演じた。岩崎と河内はともに俳優座の所属で、1932(昭和7)年生まれの同い年だった。当時の新聞に河内評がある。

(前略)現在の彼女に欠けているのは、自分を主張する強さだ。もうそのくらいの自信はもった方がいい。さきごろの『暖流』(フジテレビ)にはその芽があった。ポンと肩をたたきたくなるようなやさしいふんいきをもちつづけながら、バリバリ自分を押し出せるようになれば、彼女の魅力は一段と増すはず。(後略)
(「タレント登場 河内桃子」1960年3月31日付け『報知新聞』)

 昭和30~40年代のフジテレビ時代、嶋田さんは演出担当のディレクターとして、さまざまな俳優と仕事をした。河内桃子はそのひとりで、それほど深いつながりはなかった。もともと俳優座の若手と親しく、河内や岩崎加根子のほかにも、滝田裕介、大塚道子、井川比佐志を主役で起用している。


フジテレビ『東芝土曜劇場 そこから歩くのだ』(1961年1月14日放送)。左に河野秋武、右に井川比佐志。島田親一演出

 多彩な交友を記した著書『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』(清流出版、2008年4月)に河内桃子の名はない。13回におよんだ嶋田さんへの取材(2020年9月~2021年12月)でも、河内の思い出はそれほど語らなかった。
 それでも、思い出ぶかい人だったのだろう。嶋田家の書斎には、ロケ先で写した河内のスナップ写真が50枚近く残されていた。
 河内桃子主演の連続ドラマ『ソフラン座 ゼロの焦点』(フジテレビ、1961年8月15日~11月28日放送)、その能登・金沢ロケの様子である。河内にとっては、『暖流』に続く2度目の島田親一演出であった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登・金沢ロケスナップ(1961年8月)

 松本清張原作『ゼロの焦点(零の焦点)』(光文社、1959年12月)は、映画に、テレビに、ラジオにとたびたび取り上げられ、いまも広く知られている。「ソフラン座」の枠(30分)で放送された本作は、野村芳太郎監督の映画版(松竹大船、1961年3月19日公開)のあとに制作され、初のテレビドラマ化となった。
 高橋辰雄の脚本、渡辺岳夫の音楽で、スポンサーは東洋ゴム工業。ミステリアスで不思議な旋律のオープニングテーマは、CD『作曲家・渡辺岳夫の世界[ドラマ編]』(キングレコード、2010年6月)で聴くことができる。

松本作品のなかでも、『ゼロの焦点』をやりたかった。連続ドラマなので、犯人が「パンパン」だったころのエピソードを克明に描いたり、話を延ばしに延ばしたんです。脚本の高橋辰雄さんとは、ニッポン放送時代からの仲です。松本先生はあのころ、すでに巨匠ではあったけれど、わりと僕の提案をOKしてくれて、「どうやってもいい」と許可はいただけました。でも、放送日の都合で夏にロケをしているんです。冬の能登半島の絶壁が舞台なのに。先生からは、「君、変わってるねえ。冬のものを夏にやるんだね」と言われました。
(嶋田親一第4回聞き取り)


河内桃子(『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ、1961年8月)

 松竹映画版で久我美子が演じた主人公の鵜原禎子を、フジテレビの「ソフラン座」版では河内桃子が演じた。のちに嶋田さんは、《河内桃子とは昔からの仲良しだったので強引に口説いて出演してもらった》(『鰰』第189号、鰰友の会、2011年9月)と書いている。
 河内のほかに、禎子の夫・憲一を小山田宗徳、禎子の母を村瀬幸子、事件の鍵をにぎる室田佐知子を鳳八千代(当初は池内淳子の予定)が演じ、河野秋武、永田靖、植村謙二郎、原泉、細川俊夫、井川邦子、牟田悌三、桜むつ子、久米明、井川比佐志、武内亨、臼井正明(語り手)らが脇をかためた。ベテランから若手まで、渋くて豪華な顔ぶれである。


『ソフラン座 ゼロの焦点』新聞広告(1961年8月15日付け「産経新聞」、嶋田親一旧蔵スクラップブックより)


同番組紹介(1961年8月15日付け「報知新聞」、同スクラップブックより)

 嶋田家の書斎にあった『ゼロの焦点』のロケスナップの多くは、名所として名高い能登金剛「巌門」かいわいで撮影されている。
 演出の島田親一、アシスタントディレクターの富永卓二らロケ隊一行は、1961(昭和36)年8月17日、上野発の夜行急行「能登」に乗り、石川へ向かった。女優は、ヒロインの河内桃子ただひとり。

この企画はわりとノッていたので、一所懸命でした。映画では久我美子さん、こちらのドラマ版は河内桃子さん。桃ちゃんはちょうど、結婚したばかりでね。お相手は、世が世なら松山城のお殿様です。「ロケに来れる?」と訊いたら、「大丈夫」と。新婚早々なのにロケに連れ出しちゃって、「原作とよく似た話だね」と言いました。桃ちゃん、なかなかよかったですよ。明るい人だけど、徐々に禎子の寂しさを出せるようになって。
(第5回聞き取り)

 河内桃子は、そのひと月前に結婚したばかりだった。相手は電通勤務の久松定隆で、四国・今治藩松平家の末裔にあたる。つまり《世が世なら松山城のお殿様》というわけ。


「若奥さん 河内桃子さん」(『婦人倶楽部』1961年10月号、講談社)部分拡大

 かたや『ゼロの焦点』の禎子は、夫の憲一(小山田宗徳)と見合い結婚したものの、新婚1週間目に憲一が謎の失踪を遂げる。夫の行方を追う新妻と、そのまわりで起こる連続殺人。ドラマとはいえ、縁起が悪い。
 奇しくも、禎子の夫と河内の夫はそれぞれ広告代理店に勤務している。河内の周りには、出演を反対する声もあったものの、本人は気にせず主役を引き受けた。


『ソフラン座 ゼロの焦点』国鉄列車内ロケ。右に河内桃子(1961年8月)

 夏の夜、ロケ隊を乗せ、北陸へ向かう夜行急行「能登」には、原作者の松本清張も乗っていた。松本の詩を刻んだ歌碑の除幕式に出席するためである。その詩は、能登の断崖から身を投げ、『ゼロの焦点』のモデルとなった女性を悼むものだった。


1961年8月13日付け「東京新聞」(嶋田親一旧蔵スクラップブックより)

 「能登」号の車内で松本は、ロケ隊の一行に現金20万円を渡した。嶋田さんは言う。《「みんなで一杯やってくれ」と。当時の20万は大金ですよ。ロケ先で泊ったとき、使いました。「松本先生は身体も大きいけど、すごい太っ腹だね」とみんなで言い合いました》(第5回聞き取り)。 
 嶋田さんの書斎を見せてもらったかぎりでは、松本清張の写ったスナップは1枚もなかった。見つけたのはロケ中のスナップのみで、河内桃子と嶋田さん以下、スタッフの姿ばかり。女優は河内ひとりだが、スタイリストやスクリプターと思われる女性の姿もある。
 ドラマの重さとは裏腹に、ロケ現場の雰囲気は和気あいあいとしている。ドラマの撮影だと知らなければ、海水浴か物見遊山にしか見えないスナップもある。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。手前に河内桃子(1961年8月)

 『ゼロの焦点』は、フィルム撮りのテレビ映画ではなく、VTR撮りだった。当時はまだ、VTRによるロケが大変で、ロケではおそらく16ミリが使われている。スタッフも少人数だ。フジテレビに本編の映像が残されているとは考えられず、ロケ中のスナップは貴重な記録となった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。右に河内桃子、左より2人目に嶋田親一(1961年8月)


同上。左から2人目に河内桃子

 スナップに写る河内桃子の表情は、禎子のキャラクターとは対照的に明るい。休憩中、タクシーのなかでおやつ(果物か?)を食べているスナップもある。現場のなごやかな空気が伝わってくる。
 すでに女優として、相応のキャリアと知名度を持っていたが、傲慢な印象は感じさせない(コート姿のシーンもあるが、夏のロケで暑かったはず)。聞き取りの席で嶋田さんは、親しみをこめて「桃ちゃん」と呼んだ。ロケ現場でもそう呼ばれ、スタッフから愛されていたことだろう。


河内桃子(『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ、1961年8月)


同上。左より2人目に河内桃子

 河内の演技について嶋田さんは、「明るい人だけど、徐々に禎子の寂しさを出せるようになって」(第5回聞き取り)と話した。東宝に在籍していたころは、どちらかと言えば明るい役柄のイメージがあった。『ゼロの焦点』の放送当時、女優として陰のある印象は薄かったように思う。
 嶋田さん旧蔵のスクラップブックには、『ゼロの焦点』関係の記事が多く貼られ、「河内桃子に薄幸のヒロインを演じきれるのか」との論調が目立つ。
 野村芳太郎監督の松竹映画版では、冬の能登の断崖に立つ久我美子の佇まいが、暗く沈んだ禎子のキャラクターによくあっていた。河内の持ち味は、明るさと可愛らしさにあって、禎子のニンではないともいえる。


松竹映画『ゼロの焦点』(1961年3月19日公開)。鵜原禎子役の久我美子

(前略)結婚前は明るすぎる性格から、カゲのある人妻役や、複雑な役柄はムリだといわれていた彼女も、最近は『思い悩む禎子の寂しさがでてきた』(島田フジテレビ芸能部員談)という。(中略)
 禎子は、能動的なタイプではなく、まわりの人々の考えや動きに動かされるひかえ目な女。“損でやりにくい”役だが『私には結婚後はじめての仕事、いままでの私に区切りをつける気持ちでやっています』とはりきる河内だ。
(「この人 河内桃子」1961年9月11日付け「報知新聞」)


1961年9月11日付け「報知新聞」(嶋田親一旧蔵スクラップブックより)

 ドラマ本編の映像が視聴できないかぎり、くわしいところはわからない。ただ、残されたいくつかの記事を読むかぎり、河内の演技は好評を得ている(上記の引用記事でコメントを出す《島田フジテレビ芸能部員》は嶋田さんのこと)。
 3人の一般女性がモニターとなり、感想を語り合う週刊誌の記事でも、その演技が話題になった(記事には所属先と実名が出ているため、イニシャルとした)。

F:『ゼロの焦点』、いよいよ佳境に入ってきたわね。
O:新婚早々行方不明になった夫を探しに奥さんが北陸へ乗り込んでね。
H:それで、夫にはじぶんのほかに女があったンだとうすうす気づくところね。
F:あの辺の河内桃子のクローズ・アップされた表情に女の悩みがよくでてたわ。
(中略)
H:北陸の暗いよどんだ空気が、ヒロインの心境を象徴しているようね。
F:その意味じゃ、河内桃子さんって、可愛らしすぎて。
O:でも、新婚早々のまだ初々しい若妻の感じをよくだしてると思うの。
(「愛読者テレビモニター室」『女性自身』1961年9月25日号、光文社)


河内桃子(『ソフラン座 ゼロの焦点』ロケ、1961年8月)

 「新婚で幸せまっただなか」と雑誌に書かれるなか、河内は禎子の役づくりに励んだ。以下の引用記事にも、嶋田さんが登場する。

(前略)新婚一週間で夫が行くえ不明になる新妻の役。ところが前から明るく円満なご面相の河内桃子は、結婚後、しあわせが倍増したか、めきめき貫禄を増し、とても憂いに沈んだ人妻のかげを出せそうにない始末。
 そこで芸熱心の桃ちゃんは、びっくりするほどきつい減食療法をはじめた。肉類はほとんど絶って一日一食。担当の島田ディレクターなど「あんまりやせられるとご主人にもうしわけない」とハラハラするほどだ。
(「映画・演劇・放送『ダイアル』」『週刊朝日』1961年10月27日号、朝日新聞社)

 『ゼロの焦点』は、開局(1959年)してまもないフジテレビにとって、本格的な連続サスペンスドラマとなった。
 ただし、連続20回の予定で始まったものの、実際には16回で最終回を迎えている。演出はすべて「島田親一」だが、ピンチヒッターで1回だけ、同僚の五社英雄が演出した。

 芸術祭参加ドラマ(『シャープ火曜劇場 朝子の子供たち』1961年10月31日放送)の演出とぶつかって、どうしても撮れない。僕の代わりに演出する人は、プレッシャーがかかります。そのとき「やる」と手を挙げたのが五社英雄です。僕がどういうふうに撮っていたか、五社は知りません。あとで聞いた話では、最初に役者が集まったとき、「五社です、よろしく。犯人は誰?」と(笑)。それが第一声。『ゼロの焦点』のストーリーは百も承知です。そうやって周りをひきつけた。
 『ゼロの焦点』は、再放送で見ました。画面の構図から、何から、なかなかうまくて、自分で感心しちゃった。演出は「島田親一」の名前でクレジットが出るので、気づかない。実は五社の演出だった、という笑い話です。
(第5回聞き取り)

 河内桃子版『ゼロの焦点』のVTRが、フジテレビに残されているとは、ほぼ考えられない(フィルムで撮られたロケシーンだけでも、残っていればうれしいが)。
 名画座でたびたび上映され、BS・CSで放映される映画版のことを思うと、当時のテレビドラマのはかなさと神秘を感じてしまう。


『ソフラン座 ゼロの焦点』ロケ。右より2人目に河内桃子、その左隣に嶋田親一(1961年8月)

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 『ゼロの焦点』のあと、河内桃子は俳優としてのキャリアを重ねていく。
 島田親一演出のフジテレビドラマでは、『ソフラン座 若い川の流れ』(1962年2月6~27日放送)に河内の名がある。石坂洋次郎の原作を松木ひろしが脚色し、河内は北岡みさ子を演じた(石原裕次郎主演の日活映画版では北原三枝が演じた)。
 テレビでは『ゼロの焦点』の翌年、ひとつの当たり役と出会う。法律事務所を舞台にした日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)のドラマ『判決』(1962年10月16日~1966年8月10日放送)である。
 1960年代を代表する社会派法廷ドラマで、河内は弁護士の井上圭子役で最終回まで登場した。正義感にあふれ、凛としたその姿に憧れた人は少なくなかった。その演技に触れ、実際に弁護士を志した女性もいたのではないか。


NETテレビ『判決』第145回「この壁を破れ」(1965年7月21日放送)スチール。右より河内桃子、三津田健、ひとりおいて、和田浩治

 テレビ、ラジオ、映画出演の合間をぬって、俳優座の舞台にも精力的に立つ。
 ドラマ『判決』がスタートした1962(昭和37)年に限ると、5~7月にカルロ・ゴルドーニの『1度に2人の主人を持つと』(牧野文子訳)でベアトリーチェを、10月にはベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』(千田是也訳)でルウシーを演じた。いずれも大役で、前者を小沢栄太郎が、後者を千田是也が演出した。
 『1度に2人の主人を持つと』でやったベアトリーチェ(トリノ人)は、男装で登場する。『十二夜』のオリヴィア姫で美しき姿を見せた河内は、ここでは凛々しいいで立ちである。


俳優座日曜劇場『1度に2人の主人を持つと』(1962年5~7月)ポスター。左より仲代達矢、大塚道子、河内桃子(小沢栄太郎旧蔵)
 
 ここで「脇役本」の話をひとつ。
 『1度に2人の主人を持つと』は、イタリア伝統の仮面喜劇で、牧野文子訳を小沢栄太郎が上演台本に脚色(台詞化)し、みずから演出した。その「訳本」「上演台本」「演出メモ」を3段組にレイアウトしたものが、小沢栄太郎著『演出記録』(私家版、1962年9月)として1冊になっている。
 その「あとがき」に小沢は書く。《ひとつ、自分の心覚えのためにも、また、西洋の芝居を、日本に移す場合のやり方の一例として、記録に残しておくのも、あながち、無駄なことではあるまいと考えた》。


小沢栄太郎著『演出記録』(私家版、1962年9月)

 『演出記録』は限定100部の自費出版で、A4判変型、上製148ページ、秋山庄太郎の舞台写真が入って頒価は3500円。何冊かある小沢栄太郎の著作のなかでも、もっとも立派な造りである。
 この本は15年近く前、京王井の頭線池ノ上駅近くにある「古書ゆかり堂」で見つけた。たまたまそれが「河内桃子様」宛ての献呈署名本だった。奥付には「No.12」とナンバーが押され、小沢栄太郎が早い段階で献呈したことがわかる。
 古書ゆかり堂の棚でこの本を見つけたときは、うれしかった。と同時に「そうか、河内桃子は亡くなったんだ」と切なくなった。


同上『演出記録』表見返し。「河内桃子様」宛て、「小澤栄太郎」署名

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 映画・テレビと地続きの新劇界にあって、古巣の劇団から離れていく人気俳優は少なくない。そのなかで河内桃子は、外部のプロデュース公演に参加しつつ、俳優座から離れなかった。そこには演出家・千田是也への、変わることのない尊敬があった。
 かわいい役、汚れ役、精神を病む役、愛に狂う役……。翻訳劇から日本の創作劇、ひとり芝居からミュージカルまで、その芸域は幅広い。映画・テレビでは脇役が多かったけれど、俳優座では村瀬幸子、大塚道子、岩崎加根子、栗原小巻らとともに、劇団を代表する主演女優であった。 


俳優座公演『ヴェニスの商人』(1982年1~4月)パンフレット。左にポーシャ役の河内桃子、右にシャイロック役の小笠原良知

 舞台のかたわら、映画、テレビ、ラジオと出演を重ねた。童話など、やさしい語り口の朗読も得意だった。
 年を重ねてからは、テレビドラマで助演する印象が強い。筆者は、河内の舞台を観ることができず、テレビで親しんだ世代である。上品な家庭の主婦、こころ根のやさしい母親、嫁に厳しい姑、憎まれ役や屈折した役もうまかった。


テレビ朝日『燃えろアタック』(1979年 1月5日~1980年 7月11日放送)より小野民役の河内桃子

 河内の出演ドラマは、BSやCSの再放送でよく見かける。つい最近も、松本清張の作家活動40周年を記念した『金曜ドラマシアター 球形の荒野』(フジテレビ、1992年2月7日放送)を「日本映画専門チャンネル」で見た。
 たびたびドラマ化される原作で、主人公の野上久美子(若村麻由美)の母・孝子がその役どころ。脚本は野上龍雄で、かつて『ゼロの焦点』でアシスタントディレクターをつとめた富永卓二が演出を手がけた。夫の顕一郎(平幹二朗)と再会できないまま、娘を包み込む孝子の佇まいがあたたかい。


フジテレビ『金曜ドラマシアター 球形の荒野』(1992年2月7日放送)より野上孝子役の河内桃子

 ちなみに、河内桃子にも「脇役本」がある。1988(昭和63)年11月に出た著書『イキイキ フレッシュ桃子流家事の知恵』(大陸書房)である。
 自伝や俳優エッセイの類いではなく、手料理を中心に掃除や洗濯の「桃子流ノウハウ」がところせましと綴られている。ノリのいいタイトルから受ける印象とは異なり、実直な人柄と暮らしぶりが行間に滲み出る。


河内桃子著『イキイキ フレッシュ桃子流家事の知恵』(大陸書房、1988年11月)

 また本の仕事では、全6巻からなる豆本『アンデルセン味の百科』(タカギベーカリー、1971~73年)で監修をつとめた。料理好き、食文化通としても、知られたようである。

 このように多くの仕事をこなしながら、とくにライフワークとしたのが、カトリック教会のラジオ番組『心のともしび』『太陽のほほえみ』の朗読だった。5分間の番組で、KBS京都で放送された『心のともしび』を寝床で聴いた記憶がある。
 河内はこの番組の語りを、30年以上続けた。『心のともしび』1万回記念の放送(1996年8月10日)では、《この32年間、この番組は、わたくしの人生に大きな意味がありました》とリスナーに語りかけた。


『太陽のほほえみ』『心のともしび』収録中の河内桃子(ジェームズ・F・ハヤット著『太陽のほほえみ』東出版、1972年1月)

 この放送の2か月前、俳優座と三越劇場の提携公演『ゆの暖簾』(1996年6月6~19日)に主演し、中野誠也の相手役をつとめた(平石耕一作、阿部廣次演出)。経営危機に陥った箱根の老舗温泉旅館が舞台で、元仲居頭の女将・寿美子を河内が、旅館の若社長・啓一を中野が演じた。


俳優座・三越劇場提携公演『ゆの暖簾』(1996年6月6~19日)。左に啓一役の中野誠也、右に寿美子役の河内桃子

 『ゆの暖簾』は翌1997(平成9)年に、地方公演がおこなわれた。原田清人が演じた板前を、『十二夜』で河内と初舞台を踏んだ小笠原良知がやった。
 その年の12月、東北巡業を終えた河内は、病に倒れる。この作品が、河内桃子のラストステージとなった。

(前略)あなたは温泉旅館の女将、私は板長で経営のやり方で意見が食い違いぶつかり合うという役でした。きれいな澄んだ声、歯切れのいいセリフ、気品に満ちた容姿は一瞬あのオリビア姫に再会したような気がしました。まだまだやりたいことが沢山あったでしょうに本当に残念です。悲しいです。
(小笠原良知「弔辞」『悲劇喜劇』1999年1月号)

 ライフワークのラジオ『心のともしび』は、闘病中も収録に取り組んだ。そして、1998(平成10)年7月、俳優座の後輩で『ゆの暖簾』でも共演した坪井木の実に、その語りを託した。
 1998年11月5日、帰天。享年66。亡くなる1週間前には、病の床で洗礼を受け、「マリア河内桃子」として旅立った。

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 2022(令和4)年の今年、フリーの渡辺美佐子、俳優座の岩崎加根子、文学座の本山可久子がそれぞれ舞台に立った。いずれも、河内桃子と同世代の新劇女優である。客席でその姿に接するとき、河内の不在をふと感じる。
 その思い出を語る俳優仲間は少なくない。俳優座養成所でいっしょだった山﨑努は、今年8月に新聞連載された自伝のなかで、養成所時代の河内との逸話に触れている(「日本経済新聞」2022年8月9日付け「私の履歴書」)。
 
 『ゼロの焦点』の放送から、今年で61年になる。原作の松本清張、脚本の高橋辰雄、音楽の渡辺岳夫、演出の島田親一、アシスタントディレクターの富永卓二、主演の河内桃子、いずれもこの世の人ではない。
 おそらくはもう見ることの叶わない、幻のテレビドラマ。嶋田さんが遺した夏の能登・金沢ロケのスナップが、せめてものしのぶよすがとなった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。左に河内桃子(1961年8月)


同上。前列左に河内桃子、後列左より4人目に嶋田親一

 

(つづく)


*印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者所蔵
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