脇役本

増補Web版

素描 佐々木孝丸  嶋田親一の証言と資料に拠る ①


佐々木孝丸(1983年)

 「青蛙の剣 伊吹聰太朗」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2021/06/05/215803 から、1年以上ぶりの更新となった。紹介したい脇役本はたまっているけれど、一昨年からやっていたオーラル・ヒストリーに没頭してしまい、更新が止まってしまった。
 2020(令和2)年9月から毎月1回、演出家でテレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち)さんへの聞き取りをしていたのである。伊吹聰太朗が在籍した新国劇とゆかりが深く、本ブログ「長崎の鐘」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/08/18/212054で取り上げた佐々木孝丸(ささき・たかまる)の愛弟子にあたる方である(佐々木もまた、新国劇と深いつながりがあった)。
 嶋田さんに引き合わせてくれたのは、名画座でちょくちょく顔を合わせる編集者の朝倉史明さん。朝倉さんは、編集者の高崎俊夫さんと芦川いづみの写真集(『芦川いづみ 愁いを含んで、ほのかに甘く』文藝春秋、2019年12月)を編集中に、嶋田さんを訪ねた。フジテレビのドラマに主演した芦川のエピソードなど、昔ばなしで盛り上がったらしい。
 朝倉さんから後日、「自分ひとりで聞くのはもったいない」と声をかけられ、「嶋田さんさえよろしければ、喜んでお会いしたい」と応えた。
 嶋田親一の名は知っていた。フジテレビのディレクターとして、石原裕次郎のテレビ初主演作『一千万人の劇場 小さき闘い』(1964年5月6日放送)をはじめ、草創期のフジドラマを数多く演出した(当時は「島田親一」名義)。芦川いづみ、佐久間良子、司葉子、山本富士子、新珠三千代など、映画スターがテレビに活躍の場を見いだしたころ、その現場第一線にいた方である。


嶋田親一(フジテレビスタジオ、1960年代)


『一千万人の劇場 小さき闘い』撮影現場。左に石原裕次郎、右手前に嶋田親一(『週刊TVガイド』1964年5月15日号、東京ニュース通信社)

 1967(昭和42)年に編成部に異動してからは、プロデューサーとして辣腕をふるった。倉本聰原案・脚本の『土曜劇場 6羽のかもめ』(1974年 10月5日~75年 3月29日放送)は、70年代の名作ドラマとして今なお色褪せない。

 
『土曜劇場 6羽のかもめ』完成記念。スタッフ、出演者とともに嶋田親一がいる(1975年)

 テレビだけではない。1970年代には、映画のプロデュースも手がけた。
 フジテレビと新国劇が提携した大作『暁の挑戦』(フジテレビジョン・新国劇映画、1971年5月22日公開)、倉本聰脚本・岡本喜八監督の『ブルークリスマス』(東宝、1978年11月23日公開)には、製作者として「嶋田親一」の名がクレジットされている(『ブルークリスマス』ではテレビ局の制作部長役でカメオ出演した)。


『暁の挑戦』舞台挨拶。左に若林豪、右に嶋田親一(1971年5月)

 近年の嶋田さんの仕事では、『新国劇百年 国定忠治~劇団若獅子結成三十周年記念公演~』(BSフジ、2018年11月24日放送)が印象ぶかい。劇団若獅子の笠原章が、師匠辰巳柳太郎の十八番、国定忠治を演じた新橋演舞場の公演である。
 放送にあわせ、新国劇(澤田正二郎)とゆかりの深い早稲田大学演劇博物館で座談会が開かれ、笠原章、山形屋女将役の南條瑞江とともに嶋田さんも出演した(司会は演劇博物館副館長の児玉竜一)。
「笠原氏の忠治というのは、辰巳のおやじが生き返っているんじゃないかと思ったくらいね、そういうショックを受けましたよ」
 そう語った嶋田さんは、1950(昭和25)年の秋、新国劇文芸部に入った。放送当時、新国劇について語ることのできる最古参のOBだった。


嶋田親一(『新国劇百年 国定忠治~劇団若獅子結成三十周年記念公演~』BSフジ、2018年11月24日放送)

 旧知の朝倉さんが紹介してくれるとはいえ、面識のない嶋田さんにいきなり会うのは緊張する。そこで2冊の自著、『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)と『俳優と戦争と活字と』(同、2020年8月)をお送りした。そしたら、すぐ電話がかかってきた。
 「佐々木のおやじのことを、こんなに書いてくれる人がいるとは!」
 「佐々木のおやじ」すなわち佐々木孝丸のことである。多彩なキャリアと交友関係を綴った著書『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』(清流出版、2008年4月)には、《師佐々木孝丸なくして、今の私は存在しない》とある。


嶋田親一著『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』(清流出版、2008年4月)

 1983(昭和58)年、嶋田さんは当時編集長をしていた雑誌『放送批評』で、晩年の佐々木と対談した。その前書きを読むと、ふたりの間柄がよくわかる。

佐々木孝丸先生はフランス文学者だった伯父の小牧近江と親友であり、雑誌『種蒔く人』を作り歴史に種蒔いた。私の父・晋作もその仲間であり後輩でもあった。その父が亡る前の年に佐々木先生の前に私を連れていった。虫の知らせだったのかもしれない。父の死後、私は弟子入りし、 佐々木先生の紹介状をもって新国劇に入団する。伯父も父も今は亡い。私にとって恩師佐々木先生は一言で言えない存在なのだ――。
(「close・up エンサイクロペディアと人は言う ゲスト・佐々木孝丸」『放送批評』1983年12月号)


『放送批評』1983年12月号(放送批評懇談会編、行政通信社発行)

 お送りした2冊のちくま文庫に、佐々木孝丸のことをたしかに書いた。ただし、「佐々木のおやじのことを、こんなに書いてくれる人がいる」には、いささか誤解がある。
 仏文学者でエッセイストの鹿島茂は、『甦る昭和脇役名画館』(講談社、2005年11月)で、佐々木について多くのページを割いた。ノンフィクション作家の砂古口早苗は、評伝『起て、飢えたる者よ <インターナショナル>を訳詞した怪優・佐々木孝丸』(現代書館、2016年10月)をまとめている。
 でも、それはそれ。佐々木孝丸の思い出は、ぜひ聞いてみたい。嶋田さんの人となりは、電話の印象でなんとなくわかった。実際にお会いするまで、さほどの時間は要さなかった。
 初めてお目にかかったのは、2020(令和2)年9月21日。場所は、都営大江戸線の新江古田にある「ロイヤルホスト江古田店」。嶋田さんの行きつけだった。
 ファミレスで、思い出ばなしに興じるのは悪くない。けれどせっかくの機会なので、生い立ちからオーラル・ヒストリーのかたちで、きちんと取材することをお願いした。その席で嶋田さんは、亡き師の思い出をいろいろと聞かせてくれた。

(佐々木孝丸は)久里浜に住んでいて、いやあ、驚きました。書庫の大百科辞典に。フランス語の百科辞典と、英語と、スペイン語かな。(エンサイクロペディアにかけて)「佐々木エンサイ」と言われていたくらいですから、3か国語くらい翻訳している。「これ、君、うちに帰って、読んでおけよ。面白いよ」とポーンとくれるんです。フランス語の演劇論ですよ。そんなの、わかるわけがない(笑)。
 うちのおふくろに言わせると、俳優のイメージじゃなくて、一風変わっていたそうです。着物を着ていてもゾローっとしてて、風来坊とは言わないまでも、いつも金を持ってなくて、しかも態度がでかい(笑)。そういう人なんです。
(第2回聞き取り)

 新型コロナでいろんな不自由が強いられるなか、月に一度の聞き取りは楽しい時間だった。自分の父親より、ひとまわり上の大先輩だけれど、古くからの友だちのように“仲良く”していただいた。
 佐々木孝丸をはじめ、亡き俳優のあれこれに触れ、書いてきたからこその縁か。ある日、ふっと舞い降りてきたような、不思議な出会いだった。

 江古田の「ロイホ」で重ねた聞き取りは、2021(令和3)年12月19日の第13回が最後となった。
 今年の5月、「必要だと思う資料は、残しておいてほしい」と病床から電話をいただき、嶋田家のみなさんのご厚意もあり、初めて書斎にお邪魔した。「いろいろ見つけたので、退院したら、またお話を聞かせてください」。そう電話で話したものの、叶わなかった。


 2022(令和4)年7月9日、嶋田親一永眠、享年90。
 きちんとお礼を伝えることのできないまま、嶋田さんは旅立った。のべ40時間以上におよぶ証言と、段ボール数箱分の資料を遺して……。
 以下に記すのは、いまからざっと70年前、新劇から映画に活躍の場を移した佐々木孝丸と、演劇と放送に夢をぶつけた嶋田親一の、師弟の記録である。心のなかでおふたりに許しを得て、おおやけにされていない事実をふくめて書いてみたい。敬称を略すのは、まだ気がひけるので、「嶋田さん」とさせていただく。


『放送批評』対談風景。左に嶋田親一、右に佐々木孝丸(1983年)

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 1898(明治31)年1月30日、北海道・釧路の山村で生まれた佐々木孝丸。
 1931(昭和6)年8月30日、東京・中野の野方で生まれた嶋田親一。
 かたや教誨師の父をもち、かたやジャーナリストの父をもつ。親子ほど年の離れたふたりは、どのようにして出会ったのか。先述した『放送批評』の対談の前書きに、《佐々木孝丸先生はフランス文学者だった伯父の小牧近江と親友であり》とある。
 
 嶋田さんの祖父・近江谷栄次は、秋田県土崎の名士で、実業家として、政治家として、地元で知らぬ者のいない存在だった。
 1894(明治27)年生まれの小牧近江と、1901(明治34)年生まれの近江谷晋作(嶋田晋作)は、7つ違いの兄弟である。栄次の長男・近江谷駒(おうみや・こまき)がのちの小牧近江であり、二男の晋作が嶋田家に養子に入り嶋田晋作になる(戸籍上は「嶋田」だが「島田」名義での仕事が多い)。晋作の長男・親一は、小牧近江の甥にあたる。
 父の栄次とパリに渡った小牧は、そのままパリ大学に留学する。時代は第一次世界大戦のまっただなか、小牧は「クラルテ(CLARTE、光明)」と呼ばれる反戦平和運動の影響を受けた。
 帰国した小牧は、1921(大正10)年2月、仲間の金子洋文、今野賢三らと月刊同人誌『種蒔く人』を土崎で創刊した(小牧、金子、今野は土崎小学校の同級生)。「クラルテ運動」を広めるのが目的だったが、「土崎版」と呼ばれる『種蒔く人』は同年4月、3号で休刊となった。
 その直後、小牧は東京で佐々木孝丸と知り合う。4つ下の佐々木との出会いを、晩年の回想録にこう記した。

一九二一年五月、早稲田大学の吉江喬松先生を中心としたフランス同行会(原文ママ)は、歿後二十五年のヴェルレーヌ祭を計画したが、そこで私は村松正俊、佐々木孝丸の両君と知合った。(中略)村松、佐々木両君との交流が、土崎版につづく東京版『種蒔く人』を創刊する奇縁となった。
(小牧近江著『種蒔くひとびと』かまくら春秋社、1978年4月)

 プロレタリア演劇の世界でその名を轟かせる佐々木は、まだ本格的に演劇活動を始めていない。佐々木も小牧との出会いを、自伝に書いている。

吉江さんを中心に結成された「フランス同好会」(Amis de France)に入り、そこで私は、初めて小牧近江、村松正俊の両君に知り合いになつた。小牧は少年時代からずつとフランスで育ち、向うの大学を出て、十何年ぶりかで日本へ帰つてきた変り種で、如何にもフランス育ちらしい機智縦横のヴィヴィッドな青年であつたし、村松は、東大の美学を出た博学で気鋭な新進評論家であつた。
(佐々木孝丸著『風雪新劇志―わが半生の記―』現代社、1959年1月)


左から小牧近江、村松正俊、松本弘二、佐々木孝丸(佐々木孝丸著『風雪新劇志―わが半生の記―』現代社、1959年1月)

 小牧と出会ったとき、佐々木は友愛の情をすぐに抱いたわけではない。お互いにどこか他人行儀なところがあり、本心から打ちとけて語り合うことはなかった。
 それからまもない1921(大正10)年5月、日本で2回目となるメーデーのデモ行進に、佐々木は参加した。警官隊に追われ、上野の山へ逃げ、そこで小牧の姿を見かけた。「ハイカラで貴族趣味の青年が、汗くさいデモ行進に参加するのか」。小牧の姿に、佐々木は意外な印象を受けた。

誘われるままに、青山二丁目の小牧のうちへ行き、夕飯を御馳走になりながらいろいろ話しているうちに、どうしてどうして私のような幼稚きわまる社会主義者――理論も何もない「感情的社会主義者」などと違つて、確乎たる信念と理論をもつた「筋金入り」であることが分り、しかもそういう人にありがちな、嵩にかかつて理窟をおつかぶせてくるというような態度はみじんもなく、いくぶん東北訛りのある言葉で、磊落に打ちくつろいで話相手になつてくれたので、私はあらためて、畏敬の念を深くしたことであつた。
(前掲書)

 こうして小牧と佐々木は、終生変わることのない友情を深めていく。
 「土崎版」が休刊になったのち、小牧ら同人は『種蒔く人』の再刊を準備する。佐々木も同人に加わり、1921(大正10)年10月、『種蒔く人』(種蒔き社)の「東京版」が創刊された。
 1923(大正12)年には、アンリ・バルビュス著『クラルテ』を小牧と佐々木で共訳し、叢文閣から刊行(4月)され、版を重ねた。


アンリ・バルビュス著/小牧近江・佐々木孝丸訳『クラルテ』総扉(叢文閣、1923年4月)

 晋作は、文壇やジャーナリズムで華々しく活動する兄・小牧の影響を受けた。みずから翻訳を手がけたほか、『種蒔く人』の同人とも知己を得て、そのなかに佐々木孝丸がいた。
 東京帝国大学経済学部を卒業した晋作は、日本経済新聞の前身、中外商業新報の記者となる。そののち経済評論家として独立し、『文藝春秋』連載「財界夜話」をはじめ、気鋭のジャーナリストとして健筆をふるう。島田晋作、相模太郎(当時の人気浪曲師と同名)、檜六郎(赤坂檜町6番地に暮らしたことに由来)など、複数のペンネームを使いわけた。


左に小牧近江、右に嶋田晋作(嶋田親一旧蔵アルバム、年代不詳)


檜六郎著『中・小商工農業者は没落か?更生か?』(大衆公論社、1930年7月)、相模太郎著『財界夜話 武装せる日本経済』(萬里閣、1940年4月)、島田晋作著『昭和財界風雲録 戦時財界の巻』(橘書店、1943年8月)

 いっぽうの佐々木孝丸は、小牧近江と出会い、『種蒔く人』を創刊したころから、プロレタリア文学および演劇の世界で活動を本格化させていく。落合三郎、香川晋の筆名をもち、小説、戯曲、評論、翻訳、演出、俳優と多才な人だった。1920~30年代には、土蔵劇場(先駆座)、トランク劇場、前衛座、東京左翼劇場(のちの中央劇場)、新築地劇団など多くの劇団・ユニットに関係した。1940(昭和15)年に当局から弾圧・拘束され、転向を迫られるまで、新劇界を牽引する存在だった。


新築地劇団第12回公演『慶安太平記後日譚』プログラム(築地小劇場、1930年4月)、落合三郎著『慶安太平記後日譚』(鹽川書房、1930年5月)


新築地劇団時代(1937年4月)、左より薄田研二、佐々木孝丸、山本安英(『山本安英舞台写真集』未來社、1960年9月)

 ここからようやく、嶋田親一の物語が始まる(父・晋作も、一冊の本が書けるくらいユニークなのだが、話を先に進める)。
 中野の野方で生まれ、一時は鎌倉で暮らした嶋田さんは、小さいころから映画と演劇に親しむ。戦時中は秋田に疎開し、そこで敗戦を迎えた。日本最後の空襲といわれる「土崎空襲」(1945年8月14日)のことも覚えていた。
 敗戦の年、秋田市立中学2年に編入し、演劇部を創立、演劇活動に熱中した。当時、秋田市役所土崎出張所長だった父・晋作は敗戦後まもない10月、論文「四等國民に訴ふ―日本未だ目覺めず―」を執筆し、月刊『さきがけ』創刊号(秋田魁新報社、1945年11月)に掲載された。父がしたためたこの檄文を、嶋田さんはずっと誇りにしていた。
 こころ期するものがあったのか、晋作は上京し、政治の道を歩みだす。1946(昭和21)年4月の衆議院選挙に日本社会党から立候補(秋田県全県)し、初当選。一度は再選を果たしたものの、1949(昭和24)年1月の衆院選で落選した。吉田茂内閣、片山哲内閣、芦田均内閣と、政界が混迷を極めた時代だった。


選挙活動中の島田晋作(嶋田親一旧蔵アルバム、1949年)

 父・晋作が衆院選に落選するなか、長男の親一は、新発足した早稲田大学 高等学院の試験に合格し、3年に編入した。翌1950(昭和25)年、早稲田大学文学部芸術科に入り、演劇を専攻した。このとき、嶋田家ではひと悶着あった。

おやじはまず、早稲田に行くことが気に入らなくてね。「なんで東大に行かないんだ」と。東大に行けるほど、頭はよくないし。「月謝が安いんだよ、東大は」。これはちょっと胸に堪えた。「なんで早稲田を選んだんだ」と言うから、「芝居(のメッカ)だから。河竹黙阿弥、演劇博物館、僕はとにかく早稲田に行きたい」と強引に頼み込みました。
(第1回聞き取り)

 晋作はわが子を連れ、『種蒔く人』の同人で、懇意にしていた青野季吉(文芸評論家、早稲田大学出身)を訪ねた。いわく「演劇ではなく、英文科あたりを専攻するよう説得してほしい」。ところが青野から、「本人の希望どおりにさせるのが親だ」と逆に説得された。
 嶋田さんが、早稲田で演劇の道を志すことができたのは、こうした事情がある。早稲田時代は学生演劇に没頭しながら、外国映画と芝居見物(前進座や俳優座が好きだった)にのめりこみ、夢と希望で胸をふくらませていく。ところが――

―6月20日 父晋作、急逝!―
重大決意、親族会議で政経転向をすすめられたものの「演劇」に志す心ますます燃え、退学を決意。河竹繁俊博士の賛同を得て、学窓を去る。
(嶋田親一自筆略歴、1981年ごろ記)

 昭和25(1950)年6月20日、父・晋作が亡くなる。享年49。肝硬変の悪化による急逝であった。
 その前の年、嶋田さんは父・晋作に伴われ、劇作家組合の事務所(東京・築地)で佐々木孝丸と初めて会った。佐々木は当時、同組合の委員長だった。ただ、あいさつていどのことで、そこで佐々木に弟子入りしたわけではない。
 父が急逝し、嶋田さんは早稲田大学を退学した。政経に編入し、政治家として父の跡を継ぐ気はない。長男で、母親と4人の妹弟がいる身では、学問ではなく、別の生き方を見つける必要がある。そのかわり、進むべき道は演劇しかない。
 ほんのわずかな大学生活、しかもそれは、苛酷な時代を経たうえで得た演劇との時間だった。それが無念にも途絶えた、19歳のときである。自筆略歴の《学窓を去る》の言葉は重い。
 傷心の若者の行く末を、まわりの大人たちは案じた。伯父の小牧近江も、青野季吉も、小牧の友人で『種蒔く人』同人の金子洋文も、そして、佐々木孝丸も――。

おやじが生きていたら、どうしたんだろう。そのあと代議士に復活するほど、政治が好きではなかったので、また評論の道に行ったんだと思いますけどね。そしたら僕の人生は、どうなったかぜんぜん(わかりません)。芝居はやっていたでしょうけども、新国劇には入らなかったでしょうね。
(第1回聞き取り)

□□□

 ずっと年の離れた私が、師である佐々木孝丸に関心があることを知り、嶋田さんは感じるところがあったのか。
 江古田の「ロイホ」で初めてお会いした日、「迷惑でなければ、受けとってほしい」と佐々木孝丸からの書簡とハガキを手渡された。数日後、《品々お受けとり下さって肩の荷がおりた心境です。なに、自分一人が「宝物」と思いこみ 共に生きてきた「記念の一頁」です》とハガキが届いた。


佐々木孝丸から島田親一(檜眞一郎)宛て書簡(1950~52年、一部加工)
 
 佐々木孝丸から「島田親一」に宛てた書簡のうち、最初の1通は、1950(昭和25)年6月26日にしたためられている。佐々木は横須賀市久里浜に、嶋田さんは世田谷区松原に暮らしていた。
 手紙は、400字詰め原稿用紙2枚に書かれている。《お父上の突然の御逝去はあまりに思いがけなく、たゞ呆然たるばかりです。》の書き出しで、行き違いで通夜と告別式に参列できなかったことへの詫びが、まず綴られている。そのうえで、こう続く。

お父上とは、思えばずいぶん長いおちかずきでした。お父上がまだ角帽を冠っておられた時代―関東大震災よりずっと前からの話なので…僕がしかし、あなたのお父様の思い出話をするような廻り合はせになろうとは夢にも思っていませんでした。勿論あなたも、こんなに出しぬけにお父さまと別れるなどとはやはり夢想もしておられなかったでしょう。
仕事の関係からしばらくおつき合いが遠去がっていましたが、終戦後また旧交を温め、ちょく/\御会いするようになった矢先だけに遺憾この上もありません。(中略)
何とおなぐさめ申しあげてよろしいか分りませんが、お父様が、あなたのことをどんなに心にかけておられたかということは、僕にもよく分ります。悲しみをふみこえてしっかり勉強して下さい。(後略)
(佐々木孝丸から島田親一宛て書簡、1950年6月26日記、同28日消印)


佐々木孝丸から島田親一宛て書簡(1950年6月26日記、同28日消印)

 達筆だが読みやすく、きれいな字である。「文は人なり」と言うけれど、この手紙を読んで、佐々木孝丸のことがますます好きになった。悪役でならした俳優の、知られざる素顔である。
 佐々木は、父を急に亡くした嶋田さんの身を案じ、親友の小牧近江にも手紙を送った。それを小牧は、当の嶋田さんに渡した。友から甥への厚情を、本人に託したのである。嶋田さんが手元に残していたのは、便せんがわりの2枚の原稿用紙だけ。封筒はなく、消印は不明ながら、父・晋作の急逝からまもない時期と思われる。

晋作君は、親一君のことを非常に心に懸けていた。当然といえば当然だが、あれほど冷静で理知的だった晋作君も親一君のこととなるとまことによき「親バカ」だったように思う。無力な僕にさえ親一君のことを頼まずにいられなかった晋作君の親としての心の中がよく分る。遺志に添うよう親一君が優れた芸術家になってくれるよう、僕で役に立つことは何でもするから、遠慮なく利用してくれるよう、大兄からもしかるべく…(後略)
(佐々木孝丸から小牧近江宛て書簡、1950年、消印不明)


佐々木孝丸から小牧近江宛て書簡(1950年、消印不明)

 伯父の小牧近江はいつ、この手紙を甥の嶋田さんに渡したのだろう。聞きそびれてしまったけれど、佐々木の心づかいに、本人はひどく感激した。「涙が出ました。僕にとっての宝物です」(第2回聞き取り)とは嶋田さんの弁である。
 友・小牧近江への手紙に、《僕で役に立つことは何でもするから》と佐々木は書いた。嶋田さんの新国劇入りが、ここから具体化していく。
 1950(昭和25)年前後の時代、新劇は息を吹き返す。1949(昭和24)年から高まるレッドパージ(日本共産党員とその同調者の公職追放)と劇団の離合集散があるなか、文学座、俳優座、新協劇団、ぶどうの会、劇団民芸など、さまざまな劇団がひしめきあった。
 早稲田大学 高等学院に在学中の嶋田さんも新劇に熱中した。俳優座公演『フィガロの結婚』(ピカデリー劇場、1949年5月)の通し稽古(青山杉作演出)を見学したこともある。その日の感激が忘れられず、「舞台稽古―“フィガロの結婚”をめぐつて―」と題した作文を書いた。残された原稿には、《いいものを見て来たね。よく気分が素直に出ていて面白かつたよ》と担任の先生と思われる書き込みがある。


俳優座創立5周年記念第11回公演『フィガロの結婚』チラシ(ピカデリー劇場、1949年5月)

劇団に入るイメージはなかったんですが、どっちかというと新劇志向になりますよ。佐々木先生が杉村春子さんと話して、「文学座の研究生になるのはOKとったよ」と。新国劇も研究生扱いで、これは島田正吾に話してくれた。「文学座か、新国劇か、君が決めろ」と先生に言われたときに、やっぱり一瞬考えました。
(第2回聞き取り)

 佐々木はなぜ、俳優座や新協劇団、前進座でなく、文学座を紹介したのか。レッドパージと混沌とする各劇団の事情、千田是也(俳優座)や村山知義(新協劇団)へのわだかまりなど、理由はいくつか推測できる。とにかく杉村春子を介して、文学座入りの道すじをつけた。 

 いっぽうの新国劇は、島田正吾を通して入座の内諾を得た。佐々木孝丸は、戦中・戦後を通じて、新国劇の舞台をいくつか演出している。1947(昭和22)年2月、有楽座で上演した『シラノ・ド・ベルジュラック』はそのひとつである。


佐々木孝丸演出『シラノ・ド・ベルジュラック』(1947年2月、有楽座)でシラノを演じる島田正吾(新国劇編『新国劇五十年』中林出版、1967年7月)

 文学座と新国劇、いわずと知れた有名劇団である。杉村春子と島田正吾、どちらも仲介の窓口として申し分のない大物だ。どちらかいっぽうでいいものを、二者択一にしたところに、佐々木孝丸なりの心づかいを感じる。
 当の嶋田さんは、俳優になる気はない。演出か、それに連なる裏方か。そのうえで進むべきは文学座か、新国劇か。本音では文学座に入り、新劇の世界へ身を投じたい。でも、島田正吾と辰巳柳太郎の二枚看板率いる新国劇を選んだ。なぜか。

佐々木先生が「文学座はお金が出ないよ、一切」と。新国劇は研究生として入るけれど、日当、月給が出る。本当は文学座に行きたい。でも、おやじが死んで、人に頼るのは嫌だったし、おふくろたちも「お金が入ったほうがいい」と言う。だから新国劇に決めた。これが運命でしたよ。のちに杉村先生にその話をしたとき、「あ~た、良かったわよ。入んなくて」(杉村の声色風に)と言われましたけどね。
(第2回聞き取り)

 新国劇入りの話が具体化するものの、それまで島田も、辰巳も、写真でしか見たことがなかった。澤田正二郎が生み、《右に芸術 左に大衆》を標ぼうした新国劇は、時代劇から現代劇、翻訳劇と演目は多彩ながら、当時の嶋田さんはとくに関心がなかったらしい。
 それでも、新国劇には多少の縁と思い入れがあった。生みの親である澤田正二郎は、退学したとはいえ、母校早稲田の偉大な先輩である。伯父・小牧近江の友人である金子洋文も、新国劇に作品を提供する関係にある。さらに新国劇のベテランとして活躍した金井謹之助は、小牧の同級生だった。
 さらに嶋田さんは戦後まもない時期、元新国劇座員の秋月正夫の公演を秋田で観た。戦争末期、秋月、妻の二葉早苗、宮本雄次郎(曠二郎)ら一部座員は新国劇を退座し、秋田に疎開した。そのメンバーが1946(昭和21)年7月、秋田で旗揚げしたのが「協同座」である。
 協同座は、嶋田さんの父・晋作が会長だった「土崎文化協会」が主催となり、公演を2度もっている。嶋田さんはそのどちらも観ている。

『国定忠治』と『瞼の母』を覚えています。忠治をやったのは、のちに宮本曠二郎になる宮本雄次郎で、きれいで、立ちまわりが最高にうまかった。秋月正夫さんが(悪役の)山形屋藤造です。この舞台に、秋田の人がみんなしびれてね。新国劇に入ったとき、秋月さんにその話をしたら、「縁だなあ」とえらく喜んでくれました。
(第1回聞き取り)

 父・晋作が多少なりとも関係した協同座の芝居が、新国劇入りを決意するひとつの決め手となった。協同座はまもなく活動を終え、秋月正夫、二葉早苗、宮本雄次郎らは新国劇に戻る。秋月はその後、新国劇の名バイプレーヤーとして、島田・辰巳の二枚看板を支えていく。


秋月正夫(嶋田親一旧蔵アルバム、1953年)

 こうした事情があり、文学座ではなく、新国劇に入ることを決意する。いくつもの縁を知ると、新国劇を選んだのは必然だったようにも思う。嶋田さんの真意を知った佐々木孝丸は、すぐに動き出す。1950(昭和25)年9月29日夜、「島田親一」宛ての手紙を速達で出した。

(前略)
新国劇の浜田右二郎氏(總務)宛の紹介状を同封して置きますから、一度、仝氏を訪ねて下さい。来月は演舞場の筈で、稽古場は、組合の事務所で聞いて呉れれば分ります。浜田君にも島田正吾君にもよく話してありますし、浜田君は、「兎に角、一度本人にお会いしてから」ということになっているのです。無論、僕が御仝道する積りでいたのですが、この調子ではいつ御一緒に行けるか分らないので……一つ勇気を出して一人で行ってみて下さい。九分九厘まで大丈夫の筈です。
(佐々木孝丸から島田親一宛て書簡、1950年9月29日記、同30日消印)


佐々木孝丸から島田親一宛て書簡(1950年9月29日記、同30日消印)

 手紙にある「浜田右二郎氏」は、これまた新国劇の実力者である。17歳のとき、澤田正二郎に見出されて新国劇に入り、数々の美術を手がけた。戦後も新国劇の装置を一手に引き受けるとともに、劇団総務の束ね役として影響力は大きかった。


左より浜田右二郎、菊田一夫、島田正吾(嶋田親一旧蔵アルバム、1950~53年)

 嶋田さんを浜田右二郎に引き合わせるとき、佐々木も同行するつもりだった。しかし、忙しくて行けなくなった。1950(昭和25)年は、50代を迎えてまもない佐々木にとっても、キャリアの節目となっていたからである。
 翻訳、劇作、演出、俳優と新劇界で名をはせた佐々木は、弾圧と戦争と転向を経験したすえ、敗戦を迎えた。1946(昭和21)年1月には、娘の佐々木踏絵と夫の千秋実が劇団「薔薇座」を旗揚げした。佐々木は演出を手がけるなど、協力を惜しまなかった。ところが薔薇座は長く続かず、1949(昭和24)年に解散した(薔薇座時代の佐々木については、『俳優と戦争と活字と』に書いた)。


薔薇座の公演パンフレット(1947~49年)

 戦後の新劇界から距離を置きはじめた佐々木は、映画へと活動の場を移していく。山本薩夫監督『ペン偽らず――暴力の街』(ペン偽らず共同製作委員会、1950年2月26日公開)への出演が、そのきっかけとなる。
 当初、暴力団の組長を演じる予定だった薄田研二が、なぜか出られなくなった。そこで映画俳優未経験の佐々木に、白羽の矢が立つ。冷酷で、凄みたっぷりの孝丸親分は、映画初出演とは思えぬ貫禄で好評を博した。以来、銀幕の悪役、渋い脇役として、ほうぼうの作品から引っぱりだこになる。


『ペン偽らず――暴力の街』の佐々木孝丸(プレスシート部分拡大、1950年)

 映画の撮影で忙しい佐々木が同行しなくても、嶋田さんの新国劇入りはほぼ決まっていた。佐々木は、速達で出した先の手紙の後半に、こんな助言を綴った。

それから、幸いに採用されることになりましたら、将来のことは別として、新国劇に居る間だけは、「島田」という姓を何か変えられた方がよくはないかと思います。何しろ劇団の御大が島田なので、「島田君」と人に呼ばれたりするときに具合が悪いのではないかと思います――尤もこれはホンの老婆心で、そんなことも、愈々採用ときまってから浜田君にザックバランに打ちとけて相談して下さい。(中略)
それから、これも老婆心までに申し添えますが、浜田、島田、辰巳達には、「先生」と呼ぶようにして下さい。
(前掲書簡)

 ていねいな気の遣いようである。演出家として、新国劇の舞台裏を知る者のアドバイスだ。「老婆心」がふたつ続くあたり、世間しらずの青年が一人前にやっていけるのか、心配していることがよくわかる。
 3枚の原稿用紙に連綿と綴られた文面は、こうしめくくられている。

君の最初の舟出に僕が附き添って行ってあげられないのはかえすがえすも残念ですが、人生とは、とかくそういうもの。これからも(新国劇に入ってからも)苦しいことや気に喰わぬことや事志と違うことが次ぎ/\と襲いかかってくることでしょう。屁古垂れずにやって下さい。
(前掲書簡)

 その言葉はあたたかく、胸をうつ。佐々木孝丸の「最後の弟子」を自称し、師として慕い続けた嶋田親一。この手紙を読むと、そのわけがよくわかる。手紙を70年間ずっと大切に持ち続けたことも……。
 1950(昭和25)年10月4日、嶋田さんは新国劇の浜田右二郎を、東京・築地に訪ねた。ひとりではなく亡き父・晋作の秘書が、かたちばかりではあったが付き添った。

「松竹寮」という松竹の寮がありまして、そこが稽古する場所だったんです。浜田右二郎氏に会いに行ったから、誰にも挨拶はしません。通し稽古の休憩時間で、僕のいる部屋のひとつ向こうで、お囃子の音がするんです。そうしたらズローと寝そべって、素顔で、メガネの男がいた。ものすごく、しわがれ声なんです。後でわかったんだけど、それが辰巳柳太郎でした。
 本番と同じイキで、ちょうど机龍之助役の辰巳の出番じゃなかったのかな。みんな浴衣みたいなのを着て、三味線が奏でられている。現代ものもやる劇団なのに、このときは通し、ぜんぶ『大菩薩峠』です。これにはびっくり仰天しちゃってね。「えらいところにきたなあ」と思いましたよ。島田正吾と会ったのは、それから2、3日後、舞台稽古のときだったはずです。
(第2回聞き取り)

 1949(昭和24)年、新国劇は中里介山の七回忌追善として『大菩薩峠』(第1篇)を上演した。6月の有楽座を皮切りに、宝塚大劇場(7月)、御園座(12月)、大阪歌舞伎座(1950年1月)と公演を重ねた。辰巳柳太郎が机龍之助を、島田正吾が宇津木兵馬と島田虎之助を演じた。
 嶋田さんが「びっくり仰天」したのは、翌1950(昭和25)年10月の新橋演舞場公演『大菩薩峠』の稽古だった(7日初日、29日千秋楽)。昼の部が第2篇、夜の部が第3篇で、行友李風の脚色、谷屋充(第2篇)と浜田右二郎(第3篇)の演出である。


新国劇十月公演『大菩薩峠』パンフレット(松竹事業部、1950年10月)


辰巳柳太郎の机龍之助(前掲パンフレット)

 当時の新国劇には、辰巳柳太郎と島田正吾をツートップに、ベテランから中堅、若手まで、戦後の全盛期を物語る、そうそうたる顔ぶれがそろう。
 10月公演の『大菩薩峠』では、辰巳の机龍之助、島田の宇津木兵馬とがんりきの百蔵、以下、久松喜世子、石山健二郎、秋月正夫、金井謹之助、野村清一郎、河村憲和(憲一郎)、清水彰、美川洋一郎(陽一郎)、大山克巳、外崎恵美子、香川桂子、初瀬乙羽、さらに客演として長谷川裕見子、藤間紫の名がならぶ。当時19歳の嶋田さんが、「えらいところにきた」と圧倒されたのも無理はない。
 父・晋作を亡くして4か月、佐々木孝丸の後押しを受けた嶋田さんは、新国劇文芸部に「研究生」として入った。当時まだ10代のはずだが、写真を見るとずいぶんと大人びている。


新国劇文芸部入座のころ(嶋田親一旧蔵アルバム、1950年11月12日、大野義平撮影)

 佐々木が老婆心から助言したとおり、島田正吾がいるなかでの「シマダ」では都合が悪い。そこで名乗ったのが「檜眞一郎」。父・晋作のペンネーム「檜六郎」と本名の「親一」に由来する。研究生の立場なので、当時のプログラムに「檜眞一郎」の名は見当たらない。
 新国劇文芸部では、演出助手として裏方(雑務)を担うかたわら、タブロイド判のPR誌『新国劇ニュース』の編集を手がけた。檜眞一郎として過ごした日々、新国劇文芸部時代の仕事と出会いは、嶋田さんにとって終生の思い出となる。
 島田正吾、辰巳柳太郎、香川桂子ら俳優との交流。長谷川伸、行友李風、菊田一夫ら作家との出会い。俳優であれば、島田か辰巳どちらかの部屋子として修業を重ねるが、文芸部なので作家と過ごす時間が多かった。


楽屋での嶋田親一と香川桂子(嶋田親一旧蔵アルバム、1951~53年)


島田正吾と辰巳柳太郎(嶋田親一旧蔵アルバム、1952年)

 なにより大きかったのは、北條秀司のもとでの演出助手の仕事だった。『王将』『文楽』『霧の音』『井伊大老』など、新国劇になくてはならぬ作家にして演出家である。佐々木孝丸と北條秀司、嶋田さんは立て続けに“ふたりの師”と出会う。
 嶋田さんが大切に残した佐々木孝丸からの手紙のなかに、「檜眞一郎」宛ての書簡が一通ある。1952(昭和27)年11月7日の投函(久里浜局消印)で、宛て先は《京都市四條大宮 南座内 新國劇》になっている。
 京都・南座ではこの11月、菊田一夫作・演出『花咲く港』、長谷川伸作・谷屋充演出『沓掛時次郎』、長谷川・谷屋の『荒木又右衛門』、池波正太郎作・佐々木隆演出『檻の中』が上演されている(1日初日、21日千秋楽)。
 新国劇文芸部に入って丸2年、ようやく「研究生」から「正座員」に昇格した。南座の楽屋かどこかで、師に宛てて報告の手紙を書いたのだろう。その返事である。

おたより有難う。
愈々正座員にきまった由。まずはお目出度う。しっかりやって下さい。
京都の秋を官費で満喫出来る只今の貴兄の境遇がちょっと羨ましい気がします。
ほんとにヒョータンからコマではないが、映画の仕事か何かで四五月でも秋の京都ゑ行ってみたいなと思ったりしますが目下の仕事のスケヂュールではまず望あるに非ずです。
座の諸君によろしく。
(佐々木孝丸から檜眞一郎宛て書簡、1952年11月7日記・同消印)


佐々木孝丸から檜眞一郎宛て書簡(1952年11月7日記・同消印)

 文面の《望あるに非ず》は、石川達三のベストセラー『望みなきに非ず』(読売新聞社、1947年)にかけている。当時の佐々木は、東宝や東映映画によく顔を出していた。

正座員になるまで、時間がかかったんです。これは檜君宛てで、速達で南座へわざわざ送ってきたくらいだから、お祝いかな。僕にとったら宝物ですね。
(第2回聞き取り)

 島田と辰巳の二枚看板、層の厚い俳優陣とスタッフ、劇団をとりまく作家と演出家、劇場にもめぐまれ、新国劇はますます隆盛を誇っていく。
 ところが、である。1953(昭和28)年5月、嶋田さんは新国劇をやめた。「檜眞一郎」名義の挨拶状(ハガキ)には、《私このたび、家庭の事情により新國劇を圓滿退座いたしました》(5月8日記)と記されている。
 《家庭の事情》は表向きで、直接の引きがねは池波正太郎との確執だった。池波は、新国劇とゆかりの深い長谷川伸の門下生で、嶋田さんより8歳上の大正生まれにあたる。
 文芸部の演出助手と、頭角をあらわす気鋭の作家。ふたりの確執は、池波正太郎が書いた『渡辺崋山』に、「芝居が重い、説明が多い、台詞が長い」と注文をつけたことに始まる。関係者が居並ぶ本読みの席で、ふたりは口論になった。『渡辺崋山』(佐々木隆演出)が明治座で上演されたのは1953(昭和28)年4月、嶋田さんが退座の挨拶状を出したのが5月、時期は合う。

さすがに佐々木先生は、ちょっとびっくりしていました。「せっかく入って、島田・辰巳の覚えが悪かったわけでもなくて、どこかで会ったときも(島田か辰巳から)『あいつ、いいよ』と言われたのに、やめるのか?」と。でも結局は反対しなかったです。
(第2回聞き取り)

 研究生として2年、正座員になって1年たらず、ここでやめるのはもったいない。なにより、紹介してくれた佐々木はもちろん、関係者に顔向けができない。やめるにあたっては、本人なりの葛藤がもちろんあった。池波正太郎との確執が引き金になったとはいえ、若気の至りで飛び出したわけではない。
 池波とのトラブルは、劇団内で噂として広がったものの、嶋田さんの退座を新国劇はすぐ認めたわけではない。退座届けは半年ほど、預かりとなった。

新国劇文芸部長の金子市郎さんが、「半年待て。それで気持ちが変わらなければ」と引き止めてくれた。新国劇としては、僕を許してくれているわけです。「でも待てよ」と。天の啓示じゃないけど、「新国劇でやっていくのは合わないな」と思ったんでしょうね。あまりにも島田・辰巳のふたりが絶対君主で、「オレのいるところではない」と。じゃあ、なにをすればいいのかというと、なんにもない。食べるあてもない。それは、やめてから考えようと。
(第2回聞き取り)

 俳優、スタッフ、作家、演出家と人に不自由しない新国劇に居続けて、果たして芽が出るのか。檜眞一郎としての将来に不安があったのでは、と思う。おなじ世代の仲間や先輩との出会いも刺激になった。そのひとりに明治座文芸部出身で、長く親交をふかめていく松木ひろしがいる。のちにテレビのホームドラマで名をなす、脚本家である。
 こうして新国劇に別れを告げた嶋田さんは、浪人となる。当時21歳、ふたたびそこで手を差しのべたのが佐々木孝丸だった。
 
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 新国劇文芸部を去り、ニッポン放送に入るまでの1年弱、佐々木からさまざまな援助と指導を受けた。
 自筆略歴には《佐々木孝丸先生のもとで勉強。ラジオドラマ演出助手等をつとめ修業。演劇以外、はじめて映画、放送の世界を知る》とある。それは、どういう日々だったのか。

佐々木孝丸のかばん持ちですよ。僕が勝手に「佐々木孝丸研究所」という名刺をつくってね。僕しかいないんですから、ぜんぶ任してくれた。先生は、僕にかばん持ちをさせる気はないんです。「月々1万円のお小遣いをやるから、好きに勉強しろ」と言ってくれて。当時の1万円はすごいことです。撮影所について行ったりもしました。佐々木先生には、足を向けて寝られなかったです。
(第2回聞き取り)

 嶋田さんは亡くなるまで、何度か住まいを変えているが、写真や資料、手紙は捨てずに持ち続けた。とくに新国劇をやめ、ニッポン放送に入るまでの期間の資料とゆかりの品々は、意識して残したように感じる。そのなかに「ひのきしん一ろう」名義の大学ノート『エツセイ集 窓』があった。
 『エツセイ集 窓』は、新国劇退座前の1953(昭和28)年2月16日から書かれている。日記、身辺雑記、映画評、舞台評、ラジオドラマ評、演劇論、映画論、文学論、果ては宗教や哲学、人生論にいたるまで、若き日の嶋田さんの視点、感性、ものの見方がよくわかる。


ひのきしん一ろう『エツセイ集 窓』(1953年)

 たとえば、沼田曜一主演、香川京子ヒロインの映画『韋駄天記者』(東映東京、1953年3月5日公開)に対する論考がある。「清涼剤『韋駄天記者』―香川京子の魅力―」の見出しで8ページにわたって、香川の演技、シナリオ(八住利雄)、演出(田中重雄)について分析している。
 聞き取りの席でも語っていたけれど、若いころから香川京子(1931年生まれの同い年)の大ファンだった。成瀬巳喜男の『おかあさん』(新東宝、1952年6月12日公開)が大好きで、かなり恋焦がれたらしい。『窓』に連綿と書かれた論考からは、香川への思い入れの深さが伝わってくる。


東映東京『韋駄天記者』パンフレット(京橋出版社、1953年)

 『窓』を読むと、佐々木孝丸と嶋田親一、ふたりの関係も見えてくる。佐々木への傾倒ぶりはほほえましく、愛情に満ち満ちている。師弟の間柄は、こうも豊かなものなのか。新国劇をやめてまもない5月29日には、こう書いている。

トレーニングの報告として、コメデイ『うそを云わない薬の話』を佐々木先生に送つた。前説が長すぎたが、どういう反響があるか、たのしみ。これは、この間の合評会パスしたので、一応自信もつて第一候補にあげたわけ。自己批判すれば、あの中に果して「ドラマ」の要素がどれだけあつたかということだ。
(『エツセイ集 窓』1953年5月29日記)

 「合評会」とは、新国劇時代から参加していた「つくしの会」のことか。作家、演出家、俳優、ジャーナリストなど多彩なメンバーが集い、明治座文芸部にいた松木ひろしもいる。
 嶋田さんは当時、とにかく書くことに没頭した。青春小説やラジオドラマの脚本を、ニッポン放送に入るまでの時期に書いている。コメディ『うそを云わない薬の話』は、そのひとつである。
 弟子から送られた原稿を、師の佐々木はちゃんと受け取り、律儀に受け取りの返事まで出した。

とりいそぎ一筆。
先日御手紙と原稿拝受。メチヤクチヤに忙しくて御返事を出せずゴメンナサイ。今夜の汽車で京都へ立ちます。十日から半日の予定。(「東映」京都撮影所)
ラジオドラマ帰るまでに讀みます。帰京したら知らせます。その節来て下さい。
(佐々木孝丸から島田親一宛てハガキ、1953年6月10日記・11日消印)


佐々木孝丸から島田親一宛てハガキ(1953年6月10日記・11日消印)

 『うそを云わない薬の話』は、自信作だったのだろう。師匠の感想を待ちわび、7月4日には《佐々木先生より連絡なく、やや焦燥気味》と『窓』にある。
 原稿を受け取った佐々木は、映画の撮影で忙しい。映画だけでなく、ラジオの仕事もある。それでも原稿はちゃんと読んでいる。7月11日、ふたりは銀座の電通スタジオで顔をあわせた。

『うそを云わない薬の話』の批評をしてくれた。赤顔の至り。
曰く「君の傑作みたよ。才にまかせて書きなぐつたというところだな。」とピシリとやられた。(中略)
「諷刺がまだ上滑りだ。あの種のものは、中途半端ではいけない」とは小手先器用を批判されたと思つてよいだろう。
しかし「技術は仲々どうして大したものだ」と激励。とにかく「筆が立つんだから君は書くことに専心せよ」という有難い御託宣である。
「僕は普通書くな/\と云つてきたが、君にはジヤンジヤン書けと云う。とにかくひたすら書くのみだ。」と云われたのにはさすが驚喜した。
経済生活を心配されていたので、つい安定したらと思うと正直云うと、「とにかく一應の生活保障は僕が責任もつから、君は書いていればよい」と前に云われた基本方針を再確認なさるので、ほんとに幸運児と思う。(中略)
仕事は先生のアシスタント、願つてもないことで、十七日『月の物語』の連続ドラマより、五日間連続でつき合うことになつた。
(『エツセイ集 窓』1953年7月12日記)

 7月17日以降の『窓』には、『月の物語』のタイトルがたびたび出てくる。自筆略歴に《ラジオドラマ演出助手等》とあるのがそれである。
 NHKがテレビの本放送をスタートさせたのは、1953(昭和28)年2月。放送の世界は、まだまだラジオ全盛である。そのなかで日々、膨大な数のラジオドラマがつくられ、流され、満足に記録も残らぬまま消えていった。『月の物語』もそうである。
 『月の物語』は、1953(昭和28)年4月1日から1954(昭和29)年3月31日までの1年間、TBSの前身であるラジオ東京で放送された。月・水・金の週3回、17時45分からの15分番組である。詩人の大木惇夫が台本を手がけ、スポンサーは「月のマーク」の花王石鹸であった。


ラジオ東京『月の物語』広告(「朝日新聞・東京版」1953年4月1日付朝刊)、左は大木惇夫

 放送開始を告げる新聞広告やラジオ欄には書かれていないが、佐々木孝丸がこのドラマの演出を手がけた。日本演劇協会編『年刊ラジオ・ドラマ 1954年版』(宝文館、1954年8月)所載「昭和二十八年放送劇一覧」には、《(演出)佐々木孝丸(音楽)乗松昭博(出演)村瀬幸子・その他新児童劇団・キューピット・民芸・俳優座》とある。同書に記載はないが、電通が『月の物語』の制作を請け負っている。
 ラジオドラマ全盛のころだ。1953年当時のラジオ東京だけとっても、多彩なプログラムで花ざかりである。毎日のように連続ドラマが放送され、「水ドラ」(水曜放送)と呼ばれた単発のドラマ枠もある。有名スポンサーが名を連ね、作者、脚色、出演者と豪華な顔ぶれがならぶ。『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』や『ママの日記』のように、ラジオ東京の人気ドラマがノベライズ版で出版され、映画化までされるケースもあった。


ラジオ東京『ママの日記』収録風景。左に岡田茉莉子、右に木暮実千代(『ママの日記』日本出版協同、1953年9月)

 夕方の放送時間からみて、『月の物語』は子ども向けの枠だった。佐々木孝丸がその演出をしていたことは、あまり知られていない。1951(昭和26)年12月にラジオ東京が開局する前後から、佐々木は嘱託顧問の立場でラジオ東京に出入りしていた。その縁から受けた仕事と思われる。
 大木惇夫が手がけた『月の物語』の台本は改訂され、のちにポプラ社で単行本化された。

創作の長篇(この書中「月に祈る少女」という題になっているもの)を一本、連続ドラマの形で通して、その間に世界神話・伝説、民話、童話、名作物語などをちりばめ、すべて世界を旅する月が物語るという趣向のものでした。今度、「月の物語」として、まとめて出版するにあたり、放送ドラマの形をはずして、普通の小説体、或は物語体にあらためました。
(大木惇夫「作者のことば」『月の物語』ポプラ社、1954年11月)


大木惇夫著『月の物語』(ポプラ社、1954年11月)

 大木の書く《世界を旅する月》が語り手となり、それを俳優座の村瀬幸子が演じた。村瀬はラジオドラマでも活躍し、そのやわらかな語り口は、聴く者を物語へと誘う語り手にぴったりである。
 子役など村瀬以外の出演者は、エピソードごと変わった。各エピソードのタイトルと放送日は以下の通りである(表記は各紙新聞縮刷版のラジオ欄に準拠)。

◎プロローグ(1953年4月1日)
◎十二の月(4月3~8日)
◎花屋の前(4月10~17日)
◎ギリシャの神々と人間(4月20~5月1日)
◎春の星座(5月4~8日)
◎地獄のおみやげ(5月11~15日)
◎みどりの讃歌(5月18~29日)
◎隣りの人(6月1~12日)
◎蛍(6月15~19日)
◎美しいワルツ(6月22~26日)
◎少年ダビデのパチンコ(6月29~7月3日)
◎七夕(7月6~10日)
◎三吉の田舎(7月13~24日)
◎裸の王様(7月27~31日)
◎ナポレオン皇帝と洗濯娘(8月3~7日)
◎真珠島(8月10~21日)
◎とんち娘(8月24~28日)
◎オルゴールの行方(8月31~9月18日)
◎山のともしび(9月21~25日)
◎キイ子の旅路(9月28~10月9日)
◎また山のともしび(10月12~16日)
◎黒チューリップ(10月19~11月13日)
◎都会の夕ぐれ(11月16~27日)
◎野の花(11月30~12月11日)
◎よみがえるもの(12月14~30日)
◎春のあらし(1954年1月1~29日)
◎朝の子・夜の子(2月1~26日)
◎若草の歌(3月1~26日)
◎エピローグ(3月29、31日)

 判明したかぎりでは、「美しいワルツ」に中村たつ、「蛍」に真弓田一夫、「七夕」に小池朝雄、「裸の王様」に山形勲と浅野進治郎、「ナポレオン皇帝と洗濯娘」に北澤彪、「真珠島」に久米明と佐野浅夫と横森久と森塚敏、「とんち娘」に田武謙三、「キイ子の旅路」に望月優子が出演している(エピソードは不明だが、石黒達也、北村和夫も出演)。
 新劇畑を中心に、名優ぞろいである。ラジオドラマ全盛期の層の厚さがわかる。音源があれば聴いてみたいけれど、TBSにはまず残されていまい。
 佐々木孝丸演出『月の物語』が始まった翌月(1953年5月)に、嶋田さんは新国劇を退座した。2ヵ月後の7月、電通スタジオでふたりは会い、佐々木のアシスタントとして、『月の物語』への参加が決まる。そのいきさつは、先に引用した『窓』(7月12日)に書かれている。
 『月の物語』の放送当時、ラジオ東京では新国劇ユニットの『鞍馬天狗』が人気を博していた。明治製菓がスポンサーで、大佛次郎の原作、霜川遠志の脚色である。島田正吾ふんする鞍馬天狗は、本家の嵐寛寿郎に匹敵する人気を博し、ラジオ東京版、新国劇版、松竹映画版とそれぞれ作られた。その人気を受け、ラジオ版は公開録音されることもあった。退座前の嶋田さんは、ラジオ版の裏方として参加した。


ラジオ東京『鞍馬天狗』収録風景。右から2人目に嶋田親一(1952~53年)

 佐々木孝丸の立場で考えると、嶋田さんは頼りになる弟子といえる。文芸部の一員として、ラジオ版『鞍馬天狗』に裏方として携わり、現場の空気を心得ている。なにより新国劇では、北條秀司、島田正吾、辰巳柳太郎ら強烈な個性の洗礼を受け、度胸がついている。
 こうして嶋田さんは、『月の物語』の収録に、アシスタントとして立ち会うことになる。7月19日の『窓』には、「種は蒔かれた!(最近の仕事から)」の見出しで、こう綴った。

僕が行つたところで大した役に立つていないが、大いに先生のアシスタントとして活躍したいと思つている。出演者の中ではレギユラーの村瀬幸子さんとは面識が出来たことは大収穫だし、毎回変る顔ぶれも、北澤彪、石黒達也、山形勲、北村和夫、久米明(ぶどうの会)、浅野進治郎と、バラエテイに富んでいて、たのしい。(中略)今後この番組の続く限り、つきあうこと、僅か二日でレギユラーの一人になつたような心やすさである。攝取したい。
(『エツセイ集 窓』1953年7月19日記)

 文中では、村瀬幸子との出会いを《大収穫》と書いた。早稲田大学 高等学院の時代、俳優座の通し稽古に接し胸をときめかせた『フィガロの結婚』で、村瀬はフィガロ(小沢栄太郎)の許嫁・シュザンヌを演じた。その村瀬と、『月の物語』が縁で知り合えたのである。


俳優座公演『フィガロの結婚』(1949年5月、ピカデリー劇場)でシュザンヌを演じる村瀬幸子(『俳優座・十年の歩み』劇団俳優座、1954年4月)

 嶋田さんは、新国劇、ニッポン放送、フジテレビと多くのスター、名優と仕事をした。幾人もの忘れ得ぬ俳優がいるなか、「村瀬幸子さんが大好きだった」と聞き取りの席で言っていた。
 昭和40年代にフジテレビと新国劇が提携したとき、嶋田さんは新国劇に出向し、専務として劇団を牽引した。その時期、吉川英治原作『宮本武蔵』が上演(新橋演舞場、1971年2月)され、お杉の役で村瀬幸子が客演した。プロデューサーとして携わった『6羽のかもめ』では、田所大介(高橋英樹)の母・正子を村瀬が演じ、印象的な演技を見せた。いずれも嶋田さんの意向(好み)を反映したキャスティングである。

 佐々木孝丸のアシスタントとして、『月の物語』の収録に立ち会う嶋田さんは、放送の仕事への思いを募らせていく。『窓』や後述するメモには、映画の撮影で佐々木がいないとき、代理で演出していたことが書かれている。
 ラジオドラマへの造詣を深めていくなか、《なるべく遠慮した発言にしようと思うが、佐々木孝丸演出となると、心配になりウルサクなる。つきあいか、芸術の良心か、とにかくうまく云うに限る》(『窓』1953年11月21日記)との記述がある。
 この時期、『月の物語』とともに、『窓』やメモにたびたび出てくる単語が「とん平」である。渋谷駅前を流れる渋谷川沿いにあった「とん平」のことは、本ブログ「マーちゃんの酒 清水将夫」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/12/29/211933 で触れた。
 佐々木孝丸と嶋田親一、ふたりが師弟の関係を深めた場所が、この「とん平」だった。佐々木はここの常連で、嶋田さんはいつも奢ってもらっていた(『月の物語』の大木惇夫も常連だった)。

1階は全部カウンターで、2階が座敷で将棋をするところ。佐々木先生はめっぽう将棋が好きで、「親一くんも、将棋をやればなあいいのに。しょうがねぇや」とぼやいていましたよ。下のカウンターがすごいんだ。一番隅に座っているのが、「師匠」と呼ばれているシナリオライターの三村伸太郎さん。(仏文学者の)辰野隆先生が、その隣に座っていたりする。外で僕が「先生、来ないかな」と待っていると、毎日のことですからママがよく知っていて、「ここ、座んなさいよ」と言ってくれる。いざ座ると、(映画監督の)滝沢英輔さんが隣にいたり。「とん平」ではいちばん年少者だった。「とん平大学」ですよ。
(第2回聞き取り)


佐々木孝丸(左)と八田元夫(右)、とん平のカウンターで(『しぶや酔虎伝―とん平35年の歩み』牧羊社、1982年7月)

 新国劇をやめ、佐々木孝丸のアシスタントとして放送の世界に身を投じ、秋から冬へ。1953(昭和28)年は、こうして暮れていく。

勉強になつたし、一応、調子も出たと云える。ここでは、やはり、新国劇のメシを喰つてきたことがプラスになつている。(中略)
佐々木孝丸先生も、正直、この仕事を通じて、僕の才能(演出者として)を認めてくれたし、試金石となつた。(中略)
『月の物語』では、技術的に大なる収穫があつたというわけではないが、僕に一種のラジオに対する『場馴れ』させてくれたといえる。これは貴重なことである。
(『エツセイ集 窓』1953年12月記)

 嶋田さんの書斎で見つけた『窓』は、この一冊だけである。
 それとは別にもう一冊、書斎に残っていたものがある。1954(昭和29)年1月3日から3月31日までのメモ(日記)である。日記帳の表紙と4月1日以降のページはなく、抜き身のように3か月分だけ残されていた。


嶋田親一メモ(1954年1~3月)

 1954年1月から、ニッポン放送に入る4月までのおよそ3か月。ここにも師・佐々木孝丸との日々が、あちこちに記されている。

先生は今年いよいよ映画のメガフオンとることになつた。客観的情勢にもよるし、先生の腹も決まつたからだ。僕にとつてはシナリオの勉強には勿論、新しい世界への魅力は大きい。新東宝作品が第一作だが、漱石の『こころ』が白羽の矢に立ち、主演女優で悩んでいたところ、石黒達也のはからずもスイセンする久我美子に、先生も僕も賛成した。映画論、舞台回顧と、石黒さんと三人の話はつきなかつたが、散会。
(嶋田親一メモ、1954年1月10日記)

 佐々木孝丸が新東宝で、夏目漱石の『こころ』を監督する。佐分利信、山村聰、菅井一郎、田中絹代など、俳優がメガフォンをとることは当時、珍しいことではなかった。舞台、ラジオで演出経験のある佐々木が映画を撮っても、とくに不思議ではない。
 事情は定かでないけれど、この企画は実現しなかった。1955(昭和30)年8月に公開された映画『こころ』は、新東宝ではなく日活であり、佐々木孝丸ではなく市川崑であり、久我美子ではなく新珠三千代だった。
 メガフォンをとることはなかったけれど、バイプレーヤーとしての佐々木は、けっこう売れていた。嶋田さんはアシスタントとして、練馬区の東映東京(大泉)撮影所に出かけ、映画の現場にも足を踏み入れた。
 東映東京の撮影所ではちょうど、佐伯清監督『花と龍』二部作(東映東京、1954年3月公開)の撮影中で、玉井金五郎(藤田進)と敵対する友田親分を佐々木が演じた。嶋田さんはそこで、共演者の滝沢修を紹介され、《好感もてる当代随一の名優である》(2月12日)とメモにある。


『花と龍 第二部 愛情流転』(東映東京、1954年3月24日公開)。左より藤田進、佐々木孝丸、神田隆

 聞き取りのときに話していた「佐々木孝丸研究所」の名刺の話も、メモに書かれている。正確な名称は、「佐々木孝丸演劇映画研究所」のようだ。

名刺の肩書はなんでもよいが、佐々木孝丸演劇映画研究所に最終的決定。僕はその上に主事と印刷しろと、僕曰ク、それでは人はインチキと見抜くと、いや、事実だからと大笑い。
(同1月28日記)

 1954(昭和29)年を迎えても、師・佐々木孝丸との日々は続く。2月9日を例にすると、『月の物語』の収録前、ふたりで銀ブラを楽しみ、銀座の文藝春秋のサロンでお茶を飲み、そこで井伏鱒二、吉田健一、三島由紀夫らと会った。収録が終わると、なじみの「とん平」に寄り、師匠と一献傾けている。なんとぜいたくな日であることか。
 創作意欲も衰えない。当時、世間の話題をさらった政界の一大汚職「造船疑獄事件」をテーマに諷刺喜劇を執筆し、松木ひろしをはじめ、友人や先輩との意見交換を活発もおこなった。ラジオドラマについての研究会「D・A・G」(ドラマアーティストグループ)は、そのひとつである。新国劇文芸部での日々を糧に、演劇・映画・放送からできるだけのものを吸収し、劇作へとのめりこんでいく。
 そのかたわら『月の物語』は不調だった。《全体にこの番組自体、線が弱いのはいささか問題。三月から新スタートを余儀なくされるだろう》(1月4日メモ)との指摘は鋭い。
 実はシリーズの後半には、作者が大木惇夫から、ラジオで売れっ子の伊馬春部に代わった(伊馬も「とん平」の常連)。それもうまくいかなかったのか、1954年3月いっぱいで『月の物語』の終了が決まる。番組関係者はラジオ東京からニッポン放送に変更し、放送の続行を模索した。

三月以降、ニツポン放送で“月の物語”再開まで佐々木先生訳す“世界演劇映画史(?)”を口述することに内定。いつの日か、先生より独立して御恩返し出来るか? ちょっとのびて、サラリー(8000)うける。
(同3月2日記)

 2日後の3月4日、ニッポン放送での放送再開に見込みがないことがはっきりする。この日のメモには、《佐々木孝丸先生にこれ以上負担をかけてはならない》とある。
 翌5日、文学座公演『どん底』を演出中だった岸田國士が、稽古場で倒れ、急逝した。同日の嶋田メモには、《孝丸先生も長生きして貰うことをひたすら祈る》とある。
 一念発起した嶋田さんは、開局を間近にひかえたニッポン放送を就職先にえらぶ。日本で民間放送の歴史が始まったのは、1951(昭和26)年。スタートしてまもない民放に活路を見いだす弟子に、師はエールを惜しまない。

「とん平」でひとりビールに舌鼓をうち、佐々木先生に電話。いい気なものである。おかげで散財したが、先生、僕のことを心配していてくれ、速達で重村氏への紹介状、送つてくれることになる。それから活動だ。
(同3月18日記)

 「重村氏」は、ニッポン放送で芸能課長になる人と思われるが、詳細はわからない(ニッポン放送の元会長・重村一は別人)。
 トントン拍子でニッポン放送入りが決まるのは、亡き父・晋作や親せきに、経済界への太いパイプがあったことが大きい。それに嶋田さん自身、新国劇文芸部でのキャリアがあり、ラジオの仕事も少しはこなした。新たに発足する民放としては、経験者がひとりでも欲しく、若き即戦力として期待できる(親友の松木ひろしものちにニッポン放送へ入社)。
 1954(昭和29)年3月23日、『月の物語』は最終収録の日を迎えた。演出の佐々木孝丸は不在で、伊馬春部立ち会いのもと、嶋田さんが本番を告げる「キュー」をふった。
 ニッポン放送から、最終面接の通知が届いたのは、6日後の3月29日。嶋田さんはその日、佐々木孝丸に速達を出した。
 1954(昭和29)年4月13日、嶋田さんは株式会社ニッポン放送に入社する。会社創立(設立登記完了)は4月23日で、7月14日に開局記念前夜祭が歌舞伎座で挙行された。


『ニッポン放送開局記念前夜祭プログラム』(歌舞伎座、1954年7月14日)

 ニッポン放送での初仕事は、初代中村吉右衛門一座による『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』(歌舞伎座)の舞台中継である。舞台をアセテート盤に録音して放送したもので、担当者として歌舞伎座での録音に立ち会った。舞台の録音は、「開局記念前夜祭番組」として7月14日に放送(21時30分~23時45分)され、舞台中継の名手だった高橋博が解説をつとめた。この公演が初代吉右衛門、最後の舞台となる。
 ニッポン放送に入社した翌5月、鎌倉に住む伯父の小牧近江から、ハガキが届いた(差出人は「近江谷小牧」)。そこには《これも孝丸さん、新国劇諸氏のおかげで実を結んだのですから、暇があったら顔を出すことです》(5月23日記)とある。親友の佐々木が、なにくれとなく甥っ子を支えていたことを、小牧はよく知っている。
 ニッポン放送に入社したあとは、ディレクターとして、クイズや公開番組を数多く手がけることになる。月給生活者として、ようやく生計を立てる身の上となった。

 ニッポン放送入社を祝ってくれた師、佐々木孝丸先生は、乾杯したビールをさして、
「今日から君、酒は自分で勘定払うんだよ」
 と愉快そうに大きな声で笑った。
(島田親一「『とん平大学』入門記」『しぶや酔虎伝 ―とん平35年の歩み』牧羊社、1982年7月)


ニッポン放送『ポーラファニーショー 飛び出す放送』公開収録。左より村田正雄、万代峯子、三味線豊吉、トニー谷、嶋田親一(新日本放送[現・毎日放送]スタジオ、1955年4月29日)

 ちなみに新国劇を退座したのちも、島田と辰巳以下、劇団の関係者とは付き合いがあった(退座の原因となった池波正太郎とものちに和解)。それどころか、文芸部時代以上に濃い新国劇とのつながりが1960~80年代に生まれる。それは、佐々木孝丸との師弟関係とはまた別の話である。

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 佐々木孝丸のアシスタントとしての日々は、ニッポン放送入りとともに、終わりを告げた。1955(昭和30)年10月22日には、同局アナウンサーの小島英子と結婚。銀座教会で式を挙げ、佐々木夫妻が媒酌人をつとめた。
 残念なのは、佐々木と『月の物語』をめぐるエピソードを、聞き取りの席で聞けなかったことである。念入りに取材の下準備をしたつもりだったが、『月の物語』のことは調査およばずだった。退院したら、真っ先にお訊ねしよう。その願いは、果たされぬまま終わった。
 そのかわり、ある一本のラジオドラマの話を、私に聞かせてくれた。

ニッポン放送に採用が決まったとき、文化放送がその前に募集していた(新人コンテストの)ドラマがあったんです。檜眞一郎作『丁字路(ていじろ)』という題で、これが入選しちゃった。それぞれ別の主人公がいて、事故を起こす話です。丁字路だから、3つの話が交差する。みんな何か事情を抱えている3人の話です。その台本は今でも自分で持っている。我ながら、よく出来ているんです。
(第3回聞き取り)

 新国劇をやめ、ニッポン放送に入るまでの1年弱、佐々木のアシスタントをしながら創作に励んだ。ラジオドラマ『丁字路』は、そのころ書いた何篇かのうちの一本である。当時のメモにはこうある。

ラジオ・ドラマ『丁字路』(30分)を今朝六時、書きおろす。想を練ってあたためること半歳、所要時間三時間というレコード。懸案のオムニバス・ドラマで、僕としてはすでに二十二枚ばかり書いて失敗していて、今改めて取組むにはシンドかつたが、敢えて奮斗したわけ。D・A・G合評会は例によつて松木宅にて。出席・作品呈出、共に良好。『丁字路』が、最も好評で力作であると評されたのは意外でありうれしい極みだ。
(嶋田親一メモ、1954年3月13日記)

 「台本は今でも自分で持っている」と語ったように、嶋田さんの書斎には、『丁字路』の自筆台本と謄写版(ガリ版刷り)の台本が残されていた。前者には「放送劇『丁字路』」、後者には「みつ蜂会勉強会《ラジオドラマ》丁字路 脚本部 檜眞一郎作」と表紙にあり、自筆台本がほぼそのまま刷られている。


檜眞一郎作「『丁字路』」自筆台本、謄写版台本(1954年)

 ある朝、路線バスの走る狭い通りと商店街が突き当たる「丁字路」で、事故が発生した。物語は、警察署を訪れた新聞記者が、交通課の主任に事故を取材するかたちで展開する。
 加害者は、路線バスの運転手、斉藤雨太郎(46歳)。被害者は、就職試験に落ちたばかりの牧晴夫(25歳)と、駅前の売店で新聞を売る森下ユリエ(18歳)のふたり。3人はどんな暮らしをし、どんな家族がいて、どんな事情を抱えていたのか。その朝、3人はどう過ごし、なぜ事故が起きたのか。新聞記者と交通主任が狂言まわしとなり、淡々と明らかにされていく。
 運転手の斉藤はその日、否応もなく社内ストライキに巻き込まれ、さらに妻が産気づき、気が気でなかった。晴夫とユリエは、ひょんなことから丁字路で出会った。ほんの一瞬の運転不注意と、ユリエから晴夫へのささやかな善意。表裏一体の日常と悲劇が描かれたのち、事故の結末が語られる。

 S.E. 正午の時報
ニュースのアナ 今朝八時十分頃、市内旭町バス停留場附近で、起つた交通事故の氏名が判明しました。即死……森下ユリエ(18才)さんで、朝の通勤の途上でした。軽傷は一名で奇跡的に電信柱のかげにかくれたため助かつた牧晴夫(25才)さんでした。尚、このバスの運転手、斉藤市太郎(42才★ママ★)は、業務過失致死罪で、本日、送検されました。
 S.E. レコード「オーマイパパ」、ニュースにかぶせて――F.I.――UP――DOWN――F.O.
 S.E. バスの進行音、レコードにかぶせて、F.I.――UP
 M(それをとつて、突つ放して UP――エンディング)
(みつ蜂会勉強会《ラジオドラマ》丁字路)


『丁字路』謄写版台本

 効果(S.E.)のレコード「オーマイパパ」は、雪村いづみの流行歌『OH,MY PAPA』(ビクター、1954年)のこと。最初は鶴田浩二の『街のサンドイッチマン』(ビクター、1953年)にしていたのを、台本上で推敲している。
 30分のラジオドラマにしては、登場人物が20人弱と多い。交通ストライキ、道路事情、許されぬ恋愛、貧しい生活、にぎやかな町の風景と音楽……ドラマの要素もいろいろつまっている。
 それでいて台本を読んでも頭は混乱せず、臨場感があり、録音を聴いているような気になる。70年近く経ったのち、「我ながら、よく出来ている」と語った作者の自負が、よくわかった。
 嶋田さんにとって『丁字路』が、忘れ得ぬ思い出になったことには、大きな理由がある。この作品が、公共の電波にのったからだ。
 『丁字路』は1954(昭和29)年8月7日、文化放送の『新人劇場』で15時20分から放送された。入選した新人作家の作品を放送するドラマ枠である。放送当日の毎日新聞朝刊ラジオ欄には、《新人劇場『T(ママ)字路』作檜眞一郎 田中明夫 真木恭介》の文字が確認できる。ニッポン放送に入社して4か月後、ある夏の土曜日である。


「毎日新聞・東京版」1954年8月7日付朝刊・ラジオ欄(部分拡大)

『丁字路』を放送する日、僕はニッポン放送にいました。仕方がないから、よその喫茶店に行って、「悪いけど文化放送を出してくれ」と頼んで、松木(ひろし)といっしょに聴いたんです。(新人劇場に)松木とふたりで応募して、「作家を志した俺が先を越された」と悔しがっていました。
 向こうは生ではなく、録音でやっていると思う。水城蘭子が出演していました。ライバル局の文化放送が放送してくれて、ひとり悦に入っていた。ドラマがどういう出来だったか、舞い上がってぜんぜん記憶にないんです。あのテープが残っていれば、面白いんですけどね。
(第3回聞き取り)

 出演した田中明夫、真木恭介、水城蘭子はいずれも劇団七曜会のメンバーで、ラジオドラマに数多く出演した(真木と水城は夫婦でもある)。『丁字路』も七曜会のユニット出演だが、配役はわからない。七曜会の看板俳優だった田中が、新聞記者かバス運転手の斉藤を演じたのか。
 七曜会は当時、活発に活動していた劇団で、ほかに高城淳一、小栗一也、西田昭市、武内文平、戸川暁子らがいた。『丁字路』放送の3か月前には、1930年代アメリカが舞台のボクシング群像劇『ゴールデン・ボーイ』(クリフォード・オデッツ作、清水光訳)を第6回公演として上演した(飛行館ホール、1954年5月13~19日)。


劇団七曜会第6回公演『ゴールデン・ボーイ』パンフレット(飛行館ホール、1954年5月)


田中明夫(前掲パンフ)


真木恭介(前掲パンフ)


水城蘭子(前掲パンフ) 

 『丁字路』が放送された1954(昭和29)年には、嶋田さんが担当ディレクターの『声のスター・コンテスト』がニッポン放送で始まった。素人参加の声優コンテスト番組で、『丁字路』に出演した田中明夫が司会、水城蘭子が出場者の相手役でレギュラー出演した。七曜会の俳優とは、よくよく縁がある。


『ニッポン放送ニュース』1954年12月18日号(部分拡大)

 日々、さまざまなラジオドラマが放送されるなか、『丁字路』は泡沫のように消えていった。手軽にテープに録音し、保存できる時代ではない。仕事を抜け出し、やっとのことで聴いて記憶に刻む、たった一度きりのチャンス。ニッポン放送近くの喫茶店で、ラジオに耳を傾けるふたり、若き日の嶋田親一と松木ひろしに想いを馳せる。
 師の佐々木孝丸は、『丁字路』を聴いたのだろうか。そもそも事前に、放送されることを伝えたのか。肝心なことをまた聞きそびれてしまった。

 文化放送の『新人劇場』には、「檜眞一郎」のほかにも注目すべき名がある。松田暢子『加奈子の結婚』(1954年7月31日放送)、山本雪夫『流れ星』(同9月11日)、山田隆之『雨の日の愛情』(同12月4日)、八木柊一郎『七号岸壁の女』(同12月11日)……いずれも劇作家・脚本家として活躍する人たちである。
 とくに松田暢子と山本雪夫は、フジテレビ時代に嶋田さんが、松木ひろしとともに親しく仕事をした脚本家である。山本とは『フジ劇場 執刀』(1959年2月9日試験放送)で、松田とは『サンウエーブ火曜劇場 横丁の女』(1960年4月19日放送)で、初めて仕事をした。
 
 1958(昭和33)年、嶋田さんはニッポン放送から、開局を翌年に控えたフジテレビへ異動する。民放テレビ局として先行する日本テレビで研修を受け、テレビドラマ制作のイロハをみっちり仕込まれた。
 ラジオから、未知なるテレビへ。しかし、演劇への想いは断ちがたい。テレビドラマの修業で忙しいなか、なんと劇団を立ち上げた。
 1958(昭和33)年4月、嶋田さんは盟友の松木ひろし、劇団東芸出身の演劇プロデューサー・加藤勇らと語らい、劇団「現代劇場」を旗揚げした。オリジナルの和製コメディ、フランスの「ブールバール劇」のような芝居を目ざした(松木ひろしは「たくあんブールバール劇」と呼称)。
 その第1回公演『娑婆に脱帽』(有楽町ヴィデオ・ホール、1958年4月10~12日)は、松木ひろし作、島田親一演出で好評を博し、現代劇場は第6回まで公演を重ねた。


現代劇場第1回公演『娑婆に脱帽』パンフレットとチラシ(1958年4月)

 フジテレビでの初仕事は、新宿区河田町に完成したばかりのスタジオで収録された30分ドラマ『警察日記』の演出である(当時は島田親一名義)。1959(昭和34)年1月12日、本放送として電波にのらなかった試験放送のドラマが、テレビの演出家・プロデューサーとしての幕開けになった(開局は同3月1日)。


島田親一演出台本『警察日記』(フジテレビ、1959年1月12日試験放送)

 佐々木孝丸との師弟関係は、その後も続いた。かたや映画・テレビの名脇役として、かたやドラマのディレクターとして、ふたりは己の仕事をこなしていく。
 佐々木は、『三行広告』第8回「許す」(小川秀夫演出、1959年4月19日放送)など開局当初から、フジテレビのドラマに出演した。嶋田さんの演出では、有島一郎主演の生放送ドラマ『ありちゃんの「パパ先生」』(1959年3月3日~60年2月23日放送)にゲスト出演し、スチールが残されている。


『ありちゃんの「パパ先生」』スチール。左から佐々木孝丸、島田妙子、演者不明(1959~60年)

 敬愛する師が出演する記念すべきドラマながら、嶋田さんはあまり記憶していなかった。「佐々木のおやじに、出てもらった気がするなあ」(第4回聞き取り)と語っただけである。
 その後の演出作では、『サンウエーブ火曜劇場 暖流』(1960年3月1、8日放送)と『さくらスターライト劇場 哀愁によろしく』(1964年1月12日~2月23日放送)に、佐々木孝丸は出演している。いずれも聞き取りの席で訊いたものの、詳しいことは覚えていなかった。
 一本のドラマを企画し、本読み、リハーサル、本番と無事に放送するまでには、おおぜいの人間が関係する。多忙でときには混乱する現場で、一脇役として出演する佐々木と、語らいの時間をもつ余裕はなかったはずだ。嶋田さん自身、手がけたドラマの数がとても多い。
 当時の佐々木は、フリーの立場でたくさんの映画とテレビドラマに出演した。しかし舞台出演はなく、演出の仕事も減った。松木ひろし、市村俊幸らと演劇ユニット「海賊の会」を旗揚げしたとき、嶋田さんは《ぼくは恩師佐々木孝丸先生から「演出のこころ」を学んだ》(第1回公演『実践悪党学』公演パンフ、1963年5月)と書いた。「佐々木はなぜ、情熱をかたむけた演劇(新劇)の世界から離れたのか」と聞き取りの席で訊いたことがある。

芝居はもう、しんどかったんじゃないですか。あんまり年をくっちゃうと、台詞を覚えて、25日間やっていくのは肉体的に大変なんですよ。それに、お呼びもかからなかったんじゃないか、と僕は思いますね。
(第2回聞き取り)

 1968(昭和43)年の劇団世代公演『若者のイメージ』(農協ホール、5月7~11日)が、佐々木孝丸にとって最後の舞台出演となる。「久板栄二郎劇作40年記念」として企画され、親交のあった久板戯曲への特別出演だった。


劇団世代公演『久板栄二郎劇作40年記念公演 若者のイメージ』チラシ(農協ホール、1968年5月)

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 1982(昭和57)年3月、嶋田さんはフジテレビを退職する。1980(昭和55)年4月、新宿東口にオープンした「スタジオアルタ」に立ち上げから携わったのが、フジテレビ時代最後の大仕事となる。
 フジテレビ退職後は、テレビ・演劇・映画・イベントとジャンルを問わないプロデュース会社「新日本制作株式会社」を立ち上げ、代表となる。1983(昭和58)年には、「北條秀司名作公演『霧の音』」(三越ロイヤルシアター、1983年8月24日~9月6日)をプロデュース。北條秀司と金子市郎の演出、島田正吾の主演で、新国劇文芸部時代の恩返しとなった。
 いっぽうの佐々木孝丸は、俳優・芸能人の権利を守るための仕事に取り組み、1980(昭和55)年3月には協同組合日本俳優連合理事長に選任された。映画やドラマにも、1985(昭和60)年ごろまで出演した。


佐々木孝丸(『ザ・スーパーガール』最終回「時限爆弾 タイムリミット1分前」東京12チャンネル、1980年3月17日放送)

 ともに仕事をする機会は減ったものの、師弟のつながりが消えることはない。1978(昭和53)年4月22日には、伯父・小牧近江の回想録『種蒔くひとびと』(かまくら春秋社)の出版記念会が鎌倉で催され、小牧と佐々木がそろって出席、嶋田さんが司会をつとめた。
 晩年の佐々木が、嶋田さんに宛てたハガキも何通か残されている。律儀で、筆まめな人だったことがうかがえる。


佐々木孝丸が嶋田親一に宛てたハガキ(1978~83年)

 1983(昭和58)年には、長時間にわたる師との語らいが実現した。冒頭で紹介した『放送批評』1983年12月号の対談である。
 対談当日に撮られた写真を見ると、嶋田さんが成城の佐々木孝丸宅を訪ねて、対談がおこなわれたらしい。残された数枚の写真のなかに、とてもうれしそうな佐々木の表情を捉えたものが一枚ある。


嶋田親一と対談する佐々木孝丸(1983年)

 1986(昭和61)年12月28日、佐々木孝丸永眠、享年88。
 年が明けて1987(昭和62)年1月23日、新宿区の千日谷会堂で「日本俳優連合葬」が営まれた。

 嶋田さんの書斎には、伯父の小牧近江、師の北條秀司、島田正吾の著書とともに、佐々木孝丸の『風雪新劇志―わが半生の記―』(現代社、1959年1月)があった。表見返しには「佐々木孝丸 一九五九年一月 島田親一様」の献呈署名が、裏見返しには「嶋田藏書」の印とともに、「1959.1.17 S.SHIMADA」の署名がある。
 本が出てまもなく、師から献じられたもので、本文には付せんがいくつかついていた。形見の“脇役本”として、大事に引き取らせていただいた。


(佐々木孝丸著『風雪新劇志―わが半生の記―』現代社、1959年1月/カバー、表見返し)


(同・裏見返し)

 師・佐々木孝丸との日々をひもとくだけで、戦後の商業演劇や民放ラジオの歴史が浮かび上がってくる。演劇と映画と放送が地続きで、それぞれ元気だった時代に、嶋田さんは青春を過ごした。戦争と父の急逝があったとはいえ、人に恵まれ、幸せな日々だったのでは、と思う。
 嶋田さんにお聞きしたかったことは、多々ある。まさかこんなに早く、お別れすることになるとは。2年と満たない、短くも、深いおつきあいだった。
「僕のことはいいんですよ。出会った人たちのことを、きちんと書いておいてほしい」
 いつだったか、そうおっしゃったことがある。その言葉を忘れずにいたい。

(つづく)

 


    印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者所蔵
    (無断転載はご遠慮ください)