脇役本

増補Web版

カトレアの女 原知佐子


『カトレア』N0.30(コーセー化粧品本舗、1961年1月)

 1970年代の刑事ドラマには、「戦争と犯罪」にまつわる話がよく出てくる。当時を知る世代が視聴者に多く、リアルなものとして受け止められたのだろう。
 たとえば、『非情のライセンス』第2シリーズ27回「兇悪の炎」(NET、1975年4月3日放送)。14歳の光子(石川えり子)は、母の芳江(原知佐子)が貯めた20万円を、歌手のジョージ・川井(立花直樹)に貢いでしまう。返却を拒む川井とトラブルになり、はずみで現場でボヤが起きる。誤って川井を刺し、重傷を負わせた芳江は、そのまま姿を消す。


『非情のライセンス』第2シリーズ27回「兇悪の炎」(NET、1975年4月3日放送)、斉藤芳江役の原知佐子

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、芳江は両親を失った。光子が貢いだ20万円は、いまも見つからない両親の遺骨を探すためのもの。広島の原爆で両親を亡くし、みずからも被ばくした会田刑事(天知茂)は、光子とともに芳江の行方を追う。
 芳江は、放心状態で街を彷徨っていた。焚き火を前に、あの夜の記憶がよみがえり、両親の幻影があらわれる。

 荒川区の工事現場で、空襲の犠牲者と思われる白骨遺体が二体、発見された。一報を聞いた会田と光子が駆けつけると、そこに芳江の姿が……。
「このお骨は両親のものと思って、私が供養させてもらいます。そう、空襲で死んだ人に、肉親も他人もないんです。いいえ、みんな他人じゃないんです」
 芳江は、遺体のそばにあった遺品の水筒に水をくみ、骨にかける。
「さぞ、お水が飲みたかったでしょうね。あの時は熱のために水筒の水まで干上がったくらいだから」

 深い祈りをささげる芳江。「お母さんをお願いします」と光子。その言葉に背中を押された会田が、芳江に近づく。


左は会田刑事役の天知茂

 主人公・会田刑事の出自もあって、『非情のライセンス』には「戦争と犯罪」を描いたエピソードが少なくない。東京大空襲から30年の節目に放送された「兇悪の炎」は、そのなかでも秀でたものとなる。
 なんといっても、芳江を演じた原知佐子(はら・ちさこ/1936~2020)の名演に尽きる。いじわる、気性が荒い、上昇志向、したたか、嫉妬深い、世間知らず……。女傑、悪女、小悪魔なキャラクターだけでなく、思いつめると歯止めがきかなくなる、不幸を一身に背負った役も素晴らしかった。
 考えてみれば、芳江の役と原本人とは、それほど年が変わらない。演じた女優もまた、戦争を知る世代であった。

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 1936(昭和11)年、高知県生まれ。本名、田原佐知子。女優にあこがれ、タカラジェンヌと松竹入りを目ざしたものの挫折、京都で大学生活を送った。その在学中に新東宝の「第4期スターレット」に合格、大学をやめ、映画女優の道を歩む。新東宝、東宝をへてフリーとなり、そのあいだに劇団青俳にいた時代もある。
 女優としては、ヒロインの三番手、四番手で存在感を示す、バイプレーヤーとして知られた。田中絹代がメガホンをとった『女ばかりの夜』(東宝、1961年)、下平堯二監督『テレビッ子・マンガッ子のしつけ』(学研映画、1972年)など、主演作はある。後者は、30分ほどの教育短篇映画で、テレビとマンガにうつつをぬかす息子(梶正昭)に頭を抱える、平凡な母親を好演した。


『テレビッ子・マンガッ子のしつけ』(学研映画、1972年)。左よりタケシ役の梶正昭、圭子役の原知佐子、家庭教師・浩一役の石川博(同作解説書より)

 名画座や上映イベントのトークショーに登壇し、さばけた人柄で客席を魅了するなど、いまでも根強い人気を誇る。戦後デビューした女優には、あまり興味がないけれど、原知佐子は好きだった。本があれば欲しいな、と探したことがある。
 知るかぎりでは、原知佐子の自伝なり、エッセイなりの単著は出ていない。愛する夫、実相寺昭雄の本はたくさんあるのに……。『映画論叢』(国書刊行会)20号(2009年3月)、22号(同11月)、24号(2010年7月)に掲載された聞き書き「原知佐子の女優人生」は、その意味でも貴重な記録となった。


『映画論叢』(国書刊行会)20号(2009年3月)、22号(同11月)、24号(2010年7月)

 原知佐子にまつわる新聞、雑誌の記事は、いろいろとある。
 半年ほど前、三省堂書店池袋本店の「古本まつり」(2020年2月)で、ある雑誌を見つけた。コーセー化粧品が月刊で出していたPR誌『カトレア』である。無造作に積まれたバックナンバーをあさっていると、原知佐子がいた。


『カトレア』N0.30(コーセー化粧品本舗、1961年1月)

 その第30号、おめでたい新年号の表紙は、有馬稲子がモデルをつとめている。ところがページをめくると、主役を喰わんとばかりに原知佐子が登場する。
 題して「フォト・ミュージカル'61*あなたがレディになるための九章」。出演は東宝専属時代の原、文と撮影は『カトレア』編集室、演出を劇団四季の浅利慶太が手がけている。こういう記事との出会いはうれしい。



(前掲書)

 そもそも、どういう記事なのか。1961(昭和36)年を迎えるにあたって、レディになるための9つの心得が挙げられている。伊藤整の大ベストセラー『女性に関する十二章』(中央公論社、1954年)へのオマージュだろう。その「九章」は以下のとおり。

  1. レディたるもの、すべからくコドクたるべし
  2. レディたるもの、すべからくヒステリーであるべし
  3. レディたるもの、すべからくケチになるべし
  4. レディたるもの、すべからくナミダを流すべし
  5. レディたるもの、すべからくヤキモチをやくべし
  6. レディたるもの、すべからくウソをつくべし
  7. レディたるもの、すべからくショックを与えるべし
  8. レディたるもの、すべからくドリンクすべし
  9. レディたるもの、すべからくオシャベリであるべし

 それぞれの心得にあわせて、モデルの原が、さまざまな表情を見せる。本人の文章やコメントはなく、サイレントフィルムのようにカットだけで見せる。それがとても魅力的だ。



(前掲書)

 浅利慶太の推薦があったのか、どういう経緯で決まったのか、よくわからない。表紙モデルの有馬稲子がこれを見たとして、どう感じたのだろう。
 この翌年(1962年)、原は東宝を辞めて、フリーになった。先述した『映画論叢』の聞き書きで、こう語っている。

東宝を辞めたのは、専属契約がイヤだったってだけ。専属じゃなきゃ砧の撮影所はダメだと言うんで。縛られるのがイヤなんです。もう次の年のカレンダーを撮ってたんですが……。これが新珠三千代さんとのツーショットだったんで、彼女は撮り直しをしなきゃならない。謝りに行きました……いま思うと新珠さんと同格扱いってことは、会社は私に期待してたんですね。辞めなきゃもっとスタアでしたね。損な性格ですね。つくづく……。
(「原知佐子の女優人生②『ジャンヌ・モロ-になれ』と堀川弘通監督に言われて――新東宝時代――」『映画論叢』22号)

 『カトレア』の「フォト・ミュージカル」を見るかぎり、新珠三千代と並んでも遜色のない存在感があった。この仕事は、新年を迎える原にとって、励みになったように思う。
 手元にもう一冊、『カトレア』がある。第55号(1963年2月)で、司葉子が表紙モデルをつとめた。


『カトレア』N0.55(コーセー化粧品本舗、1963年2月)

 第30号の有馬稲子とおなじく、ここでも原は、主役を喰ってしまう野心的な企画に挑戦した。題して「雪の精(スノー・フェアリー)の消えゆく愛」。出演は原知佐子と小野勝司、撮影が中村正也、文と構成を『カトレア』編集室が手がけた。



(前掲書)

 2年前の「あなたがレディになるための九章」とはうってかわり、今回は悲劇のヒロイン、雪の精(スノー・フェアリー)である。全8ページの誌面にはそれぞれ、印象的な詩が添えられる。たとえば――

わたしは雪の精(スノー・フェアリー)
春はわたしを立ち去らせる
人であり
女であることのおわり
わたしの愛も
それが強ければ強いほど
むなしく終って行く


「ジュテーム」
それは
死……
(前掲書)

  詩も、写真も、モデルも、レイアウトも、どれもいい。化粧品のPR誌といえば、資生堂の『花椿』が思い浮かぶけれど、コーセーもこんなに素敵なPR誌を出していた。
 雪の精(スノー・フェアリー)にも、終わりがくる。極寒の雪山、カクテルドレスを身にまとった原が、男(小野勝司)の肩で戯れている。

わたしの分身たちは
やがて
とけてゆく……
わたしも白く染まって
とけてゆく……
高い空の
白い雲の上で
神々の国で
野に放たれたウサギのように
蹴り
跳ね
飛び
うぶ毛のベッドによこたわる


わたしの中の
「人」が終ったから
愛することが絶えたから
(前掲書)

 
(前掲書)

 日活映画好きや「サユリスト」が見たら、あの作品を想うかもしれない。中平康監督『泥だらけの純情』(日活、1963年)、次郎(浜田光夫)と真美(吉永小百合)の死の道行である。『カトレア』は、そのパクリかな、と思った。ところが、映画の封切りは1963(昭和38)年2月10日なので、『カトレア』(2月1日発行)のほうが早い。


中平康監督『泥だらけの純情』(日活、1963年)。次郎役の浜田光夫と樺島真美役の吉永小百合

 「雪の精(スノー・フェアリー)の消えゆく愛」のラストシーンに、こんなエピソードが残されている。掲載号の編集後記にほんの小さく、みじかい文章がある。筆名は(平)とある。

東京から車で8時間、チエンをまいて雪深い志賀高原に入った。ふりしきる雪の中で、背をむき出したカクテルドレスで長時間の撮影に堪えた原知佐子さんの役者根性は見事。またカメラマン中村正也氏の寒さを意に介さぬ一徹な仕事ぶりも見ものだった。初めて原さんを撮った正也氏いわく「いい感をもった女優さんだね」かくて傑作が生まれた次第。(平)


(前掲書・部分拡大)

 新珠三千代に詫びを入れ、フリーの道を選んだだけの気概がある。五社協定全盛のころ、「縛られるのがイヤ」とざっくばらんに言ってはいるものの、そうとうな覚悟があってのこと。一本きちんと筋のとおった人だったことがわかる。
 東宝を辞めてフリーになったことは、当時のスポーツ新聞に取り上げられた。終生変わることのなかった、さばけた人柄を感じさせるコメントがある。

この歳で主役は無理でしょうからこれからはバイプレーヤーをめざします。いってみれば北林谷栄さんの線ですね。でも、こんなオバチャンでも、使ってくれる会社があれば、女臭がプンプンするような役、それができれば本望です。
(「タレント・ショート・ショート『原知佐子、六年目に“浮気”フリーに張り切る』」1962年11月9日付『スポーツタイムズ』東京タイムズ)


『スポーツタイムズ』(東京タイムズ、1962年11月9日付)

 当時まだ26歳。女優としての覚悟のあらわれか。それからの映画、テレビでの活躍っぷり、それこそ「女臭がプンプンするような役」は、枚挙にいとまがない。

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 2020(令和2)年1月19日死去、享年84。
 映画雑誌、インターネット、SNS上には、かなりの数の追悼文、惜しむ声があふれた。
 名画座のシネマヴェーラ渋谷では、特集「折れない花 追悼・原知佐子」が企画された。今年の5月30日から6月5日まで開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期された。
 来年(2021年)には、原知佐子の新作(遺作)の公開も控えている。山本起也脚本・監督『のさりの島』(北白川派、2020年)。原は、「オレオレ詐欺」を続ける若い男(藤原季節)と同居する艶子を演じる。準主役である。
 お楽しみはこの先に、ということで心待ちにしている。


山本起也脚本・監督『のさりの島』(北白川派、2020年)。艶子役の原知佐子(同映画チラシより)
https://www.nosarinoshima.com/