脇役本

増補Web版

ブーちゃん葬送曲 市村俊幸 嶋田親一の証言と資料に拠る②


市村俊幸(1963年)

 前回の「素描 佐々木孝丸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25に引き続き、2022(令和4)年7月9日に亡くなられた演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さんについて書きたい。
 嶋田さんへの13回に及ぶオーラル・ヒストリー(2020年9月~21年12月)と遺された数多くの資料には、その長いキャリアのなかで出会ったスター、俳優の仕事や素顔が息づいている。そのひとりに、“終生の師“として慕った佐々木孝丸がいた。
 いまひとり、“終生の仲”と称した友がいた。「ブーちゃん(ブーチャン)」こと市村俊幸(いちむら・としゆき/1920~1983)である。

ニッポン放送の時代から、フジテレビの『三太物語』まで、ブーちゃんとは、ずっと組んできました。最後は僕のプロダクション(新日本制作)に来てくれて、葬儀もやって、有島一郎さんに葬儀委員長をお願いして、という終生の仲でした。
(第6回聞き取り)

 そこで今回は、市村俊幸との日々について書きたい。嶋田さんが、盟友の松木ひろしとともに心血をそそいだ劇団「現代劇場」(1958~61年)、市村の提案で“出帆”したテレビ界発のユニークな演劇ユニット「海賊の会」(1962~64年)の顛末を交えながら――。

誰が名付けたのか、皆、ブーちゃんと愛称で呼んだ。なるほど、当時なんとなくブーちゃんと呼びたくなるような巨漢で、人々に愛された人気タレントであった。(略)私が初めて舞台の姿を見たのが昭和二十四(一九四九)年、ムーラン・ルージュ。芝居の幕間にピアノを弾き、楠トシエが歌っていた。当時、彼は二十九歳。私、十八歳。
(嶋田親一「市村俊幸」『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)


「海賊の会」のころ(1963年)。左より市村俊幸、嶋田親一、村田正雄(『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)

 

 市村俊幸は、1920(大正9)年12月10日、東京・駒込で生まれた。1931(昭和6)年生まれの嶋田さんのひとまわり上の世代にあたる。戦前、日劇ダンシングチームに入った市村は、独学でピアノを学び、戦後はジャズピアニストとして名を馳せる。
 嶋田さんがムーラン・ルージュ新宿座の舞台で、初めてその姿に接したのは、1949(昭和24)年のこと。父・嶋田晋作に連れられ、佐々木孝丸と初めて会った年である。
 翌1950(昭和25)年、父・晋作は49歳の若さで亡くなる。入ったばかりの早稲田大学を退学し、新国劇文芸部に入り、そのキャリアをスタートさせたことは、前回のブログで詳しく書いた。
 昭和20年代から30年代にかけての市村俊幸は、舞台に、ラジオに、テレビに、映画にと飛ぶ鳥を落とす勢いだった。民放ラジオが始まり、テレビの本放送がスタートしたころ。当時のメディアの時流にのり、司会、俳優、広告モデルとマルチに活躍、かなりの売れっ子である。
 全盛期を知る世代は減ったものの、旧作邦画好きにはお馴染みの存在である。黒澤明監督『生きる』(東宝、1952年10月9日公開)でのキャバレーのピアニスト(志村喬が唄う『ゴンドラの唄』の伴奏)、フランキー堺と組んだ日活の主演作、川島雄三監督『幕末太陽傳』(日活、1957年7月14日公開)のラストに出てくる杢兵衛がよく知られている。


日活映画『幕末太陽傳』(1957年7月14日公開)より市村俊幸の杢兵衛

 1953(昭和28)年に新国劇をやめ、師・佐々木孝丸のもとで浪人生活を送った嶋田さんは、1954(昭和29)年、開局にあわせてニッポン放送に入社した。プロデューサー(当時は「ディレクター」の呼び名が少ない)と売れっ子タレント、ふたりはこのとき出会った。
 嶋田さんが担当した演芸番組『ロート 東西お笑い他流試合』(ニッポン放送・朝日放送)の写真には、司会役の市村の姿が確認できる。このころからふたりは、仕事を通じて面識があった。


『ロート 東西お笑い他流試合』(ニッポン放送・朝日放送)収録風景(1955年頃)。舞台左より2人目に市村俊幸

 嶋田さん旧蔵のスクラップブックに、おもしろい記事があった。1955(昭和30)年10月、ニッポン放送のアナウンサー、小島英子と結婚(媒酌人は佐々木孝丸夫妻)したときのものである。

 ニッポン放送の『今週の花嫁花婿』のプロデューサー島田親一氏が、自ら“今週の花婿”となり、同局アナウンサー小島英子さんと二十三日めでたく結婚。
 ニュートーキョーで行われた披露宴は、すべて放送形式という変ったもので『放送論壇』の時間で来賓祝辞、『東西お笑い他流試合』の時間では「亭主関白是か非か」の討論、祝電は「スポット・アナウンス」といった具合、芸能担当プロデューサーだけに、芸能人も多数参会したが、このブッツケ本番の披露宴にはいささかタジタジの態。(後略)
(1955年10月25日付け「朝日新聞」)


1955年10月25日付け「朝日新聞」(嶋田親一旧蔵スクラップブック、1959年頃

 このユニークな披露宴の出席者に、市村俊幸もいた。
 嶋田さんがニッポン放送で担当した番組は、枚挙にいとまがない。そのなかで印象的な仕事として、『トクホン・ミュージカルス 俺はマドロス』(1956年10月24日~57年5月29日放送)を挙げる。
 毎週水曜21時からの30分番組で、肩こりに効く「トクホン」がスポンサーだった。音楽は松井八郎、演奏がスクリーンミュージック・オーケストラ、脚本の「トクホン工房」には岡田教和、高橋辰雄、岩間芳樹が名を連ねる。脚本家として名を成す岩間芳樹の、ごく初期の作品である。 


『トクホン・ミュージカルス 俺はマドロス』広告。1956年11月8日付け「産経新聞」など(嶋田親一旧蔵スクラップブック、1959年頃)

ラジオミュージカルは初めてです。有楽町の「ヴィデオホール(東京ヴィデオホール)」での公開収録で、僕が芝居(新国劇)出身なので、担当させたかったんでしょうね。お客さんを入れて収録するので、出演者はみんな衣裳をつけて演じます。千葉信男、柳沢真一、村田正雄、旭輝子など、のちに僕の一家となる人たちが支えてくれました。松井八郎さんがピアノを弾いて、生のオーケストラで、とても豪華な番組でした。
(第3回聞き取り)

 『俺はマドロス』は、亡き船長の遺産を探し求める船員コンビ、真さん(柳沢真一)と信さん(千葉信男)をめぐるコメディ。そこに、マドンナ役の船長の娘(池内淳子)、謎の女(旭輝子)、その女を追う謎の男(村田正雄)がからむ。
 その第1回「かくておハナシは始まる」で市村俊幸は、ヒロインに言い寄る外国人「ミスター・ブーちゃん」として友情出演した。市村がNHK専属となり、もっぱらNHKテレビに出ていたのは、このころである。


『トクホン・ミュージカルス 俺はマドロス』第1回収録風景。左より千葉信男、柳沢真一、旭輝子、市村俊幸、村田正雄、池内淳子。1956年10月24日付け「読売新聞」(嶋田親一旧蔵スクラップブック、1959年頃)

『俺はマドロス』は、今から考えると、たいしておもしろい番組ではなかったように思うけれど、舞台出身の僕らしい仕事でした。「お前はやっぱり舞台なんだよな」と言われたのを思い出します。まだ経験の少なかった自分に、よくやらしてくれたと思います。
(第4回聞き取り)

 嶋田さんと市村俊幸は、少しずつ仕事を重ねていく。しかしそれは、スタッフと出演者の関係に過ぎない。

 それよりも、嶋田さんが胸をときめかせた芝居に、市村が同人で加わっていたことが重要だった。『俺はマドロス』の始まる2年前、1954(昭和29)年11月、有楽町のヴィデオホールで第1回公演がおこなわれた「虻蜂座(あぶはちざ)」である。
 師・佐々木孝丸から「演出のこころ」を学んだ嶋田さんは、昭和30年代、劇団「現代劇場」と演劇ユニット「海賊の会」をそれぞれ立ち上げ、舞台を演出した。そのかたわらにはつねに盟友・松木ひろしの存在と、市村俊幸が参加する「虻蜂座」への憧れがあった。

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 嶋田さんが生前、捨てずに残した資料は、書斎の一室を埋めつくすほどだった。写真、手紙、ハガキ、年賀状、名刺、住所録、原稿、自筆ノート、メモ、スクラップブック、同人誌、PR誌、新聞、スケジュール帳、演出台本、会議資料、企画書、フジテレビ時代の辞令などなど。
 そのなかには、嶋田さんが演出・プロデュースした演劇公演のパンフレットとチラシが、たくさんあった。観劇記念に保存した「虻蜂座」第3回公演(ヴィデオホール、1956年5月25~29日)のパンフレットも、そのひとつである。モダンな表紙の絵は、人気漫画家の横山泰三が描いた。


虻蜂座第3回公演パンフレット(1956年5月)

 「虻蜂座」は、音楽評論をはじめ多方面で活躍した三木鮎郎、劇作家の小野田勇、コメディアンの千葉信男のアイデアから生まれた。
 そのアイデアに乗り気となった三木のり平の呼びかけで、市村俊幸、キノトール(木下徹)、矢田茂(演出家、ダンサー)、森繁久彌と顔ぶれが揃っていく。映画、舞台、ラジオ、始まったばかりのテレビで活躍しつつも、所属の枠組みに物足りなさを抱いた同人たちによる、垣根のない演劇ユニットが誕生した。第3回公演で同人になっているのは、市村、千葉、小野田、矢田、キノ、三木、のり平、森繁、フランキー堺の9人である。


虻蜂座同人。手前より奥へ三木のり平、小野田勇、三木鮎郎、千葉信男、市村俊幸、森繁久彌、キノトール(虻蜂座第3回公演パンフレット)

「虻蜂座」を観たヴィデオホールは、『俺はマドロス』で縁のある場所です。僕は新国劇出身だと思われていますが、むしろこの虻蜂座が、芝居の道へと自分を引きずりこんだんです。先輩たちが枠にとらわれず、昔の芝居の伝統を大事にしながら、みんなで創り上げていった。そこに刺激されました。キノトールさんに、とくに憧れちゃった。これがのちに、松木(ひろし)といっしょにやる「現代劇場」や「海賊の会」につながるんです。
(第1回聞き取り)

 前回のブログで少し触れたけれど、嶋田さんにとって、3つ年上の松木ひろし(1928~2016)の存在は大きかった。新国劇文芸部時代、松木は明治座の文芸部にいた。そこで出会い、意気投合したふたりは、ほかの仲間とともに創作活動やラジオドラマの研究に励んだ。


松木ひろし(1952年8月11日、信州・美しの森/谷口一祐撮影)(嶋田親一旧蔵アルバム、1953年)

 ニッポン放送に入社した嶋田さんは、「芝居のわかる男」として松木を推薦、舞台中継の担当者として中途採用された。そののち嶋田さんは演出家の道を、松木は物書きの道を志しながら、ふたりは友情を深めていく。そこにあらわれたのが、この虻蜂座だった。
 しかし、その虻蜂座は、嶋田さんが観た第3回公演で終わってしまう。小林のり一の聞き書き『何はなくとも三木のり平 父の背中越しに見た戦後東京喜劇』(青土社、2020年9月)には、《毎回、やってる時は続けていくつもりだったんでしょうけど、だけどみんなもう忙しくなり過ぎちゃったんですね。テレビ番組も増えて自然消滅しました》(前掲書)と明かされている。
 この時点で嶋田親一と市村俊幸の関係は、スタッフと出演者であり、それほど深いものではない。その関係をひもとく前に、松木ひろしと旗揚げした劇団「現代劇場」について書いておく。新劇、商業演劇、軽演劇をはじめ、大小さまざまな劇団がひしめく時代、現代劇場の存在は、戦後演劇史で語られることはない。

 ニッポン放送の社報によれば、島田親一と松木ひろしのふたりは、1958(昭和33)年5月6日付けで、ニッポン放送から富士テレビ(フジテレビ)に出向している。フジテレビの開局は、1959(昭和34)年3月1日、それまでのあいだ、ふたりに自由な時間が与えられた。

ニッポン放送から、「基本給は出すから、フジテレビの開局準備が始まるまで、テレビで役に立つと思うことをやれ」と言われたんです。つまり、何をやってもいい。松木と「どうしようか」と話していたら、劇団東芸から独立した演劇プロデューサーの加藤勇さんが、訪ねてきた。どこで僕らのことを知ったのか、「劇団を旗揚げするので、参加してほしい」と頼まれたんです。
(第3回聞き取り)


劇団「現代劇場」メンバー(『娑婆に脱帽』パンフレット、1958年4月)

 加藤勇は、当時の劇団新派や東宝現代劇とはまた違った、現代劇の創作と上演を志した。こうして生まれたのが、30名近いメンバーからなる劇団「現代劇場」である。学生演劇や新国劇文芸部のころ、嶋田さんは芝居の演出を経験しているが、アマチュアの域を出ていない。本格的な芝居の演出は、現代劇場が初めてだった。 
 松木ひろしも、この劇団に賭けた。明治座にいたときから物書き志望だったが、ニッポン放送では当時、局員がラジオ・テレビの脚本を書くことが禁じられた。物書きになれる場は、芝居しかなかったのである。

現代劇場は、新協劇団出身の人がいたり、浅草でアチャラカ喜劇をやってる人がいたり、バラバラのメンバーなんです。人気ドラマ『日真名氏飛び出す』(ラジオ東京テレビ 現・TBS)に出ていた影山泉、声優として名を成す納谷悟朗、デビュー前の三田佳子(第2回公演『野良犬譚』より参加)などがいました。このバラバラな感じを生かすべく、ちょっと思い切った発想でいこう、と松木と決めたんです。そして生まれたのが『娑婆に脱帽』です。多彩な俳優を一人ずつ、役にあてはめていってね。
(第3回聞き取り)


影山泉、三田佳子、納谷悟朗(現代劇場第2回公演『野良犬譚』パンフレット、1958年10月)

 旗揚げとなる劇団現代劇場 春の公演『娑婆に脱帽』(3幕)は、1958(昭和33)年4月10日から12日までの3日間、有楽町のヴィデオホールで上演された。虻蜂座の公演と『俺はマドロス』の収録がおこなわれた、嶋田さんにとって思い入れのある場である。
 『娑婆に脱帽』には多くの人が、スタッフとしてはせ参じた。装置の河野国夫は、戦前から活躍する舞台美術のベテラン。音楽の渡辺浦人は、映画や放送の世界でも活躍したクラシックの音楽家。効果の加納米一は、ニッポン放送を代表する効果マン。舞台監督の渡辺浩子は、浦人の娘でのちに劇団民藝の演出家となった(数々の嶋田演出のドラマを手がけ、劇伴の世界で活躍した作曲家・渡辺岳夫は浦人の息子)。


現代劇場第1回公演『娑婆に脱帽』のパンフレットとプログラム(1958年4月)

 『娑婆に脱帽』は、どんなストーリーか。チラシには《世のユウウツと暗さをふっとばす!天衣無縫のシャレとショックのコクテール・ドラマ‼》とある。フランスの「ブールバール劇」のような芝居を目ざし、松木は「たくあんブールバール劇」と呼んだ。
 舞台は東京・下町、小路を挟んで古ぼけた煙草屋と事務所が向かい合わせに立っている。物語の主人公は、元ペテン師の勘平(影山泉)、元スリの学者(納谷悟朗)、元強盗のカポネ(河野彰)、元コソ泥のモタ(早川研吉)の4人。
 根っからの悪人ではない彼らは出所後、身の振り方を考える。罪ほろぼしとばかりに、この町で不可思議な「オール代役業」を始める。そこでさまざまな騒動が起こり、麻薬の密売や恋愛沙汰に巻き込まれながら、人の善意に触れていく。世の中、捨てたもんじゃない。つまり、娑婆に脱帽、というわけ。


現代劇場第1回公演『娑婆に脱帽』の舞台(ヴィデオホール、1958年4月)

 作者の松木いわく、『娑婆に脱帽』のタイトルは、生みの苦しみだった。

この脚本で最も苦しんだのは、題名なのである。これでズバリと云うのが妙に見つからない。考え過ぎた為もあるが、本のタイトルに迷うと云う事は、内容に何か欠陥が有る様な気さえして頗る憂鬱になり、演出の島田にも智恵を借りて考えたが、結局、半月余りもかかつてしまつた。その間、二人して作つた夥しい数の珍題奇名を書並べたノートは、今もつて全くの苦笑ものである。
(松木ひろし「桶屋の夢」『娑婆に脱帽』パンフレット)

 笑いのツボも、泣かせどころもある人情喜劇。戯曲を読むだけで、シチュエーションコメディのおもしろさが伝わってくる。のちに石立鉄男の主演ドラマをはじめ、多くのホームドラマ、現代劇で名を成す書き手の萌芽、というべきか。この2年後、松木はフジテレビを辞め、筆一本で生きていく覚悟を決める。
 本格的な芝居初演出となる嶋田さんも、パンフレットに意気込みを綴っている。

ぼくは新国劇にいる時「新劇」に対して極度のコンプレックスと、同時に優越感みたいなものを味わつた。毎日、同じ舞台を観ていて心底面白かつたのである。新劇とか新国劇とかそんな分類をとびこえて、とにかく楽しい舞台が多かつたのである。(略)なんとかして北条秀司、菊田一夫両先生の「芝居作り」の秘密を探ろうと、演出助手をし乍らクンクン鼻をならして、かぎ廻つたものである。そして同時に、「新劇」の外側にいて却つて新劇の魅力、正体がぼくには摑めたような気がしたのだ。(気がしただけである。)
(島田親一「芝居作り」前掲書)


『娑婆に脱帽』プログラム中面

 嶋田さんが大事に残していた公演パンフレットは、B5判20ページ(+4ページ挟み込み)の立派なもの。たった3日間の公演だが、関係者一同の気合いが伝わる。パンフレットには、虻蜂座同人の三木鮎郎が「芝居という麻薬」と題した一文を寄せ、《もう駄目だよ、君達の人生は。芝居という麻薬のとりこになつてしまつたのだから》とエールを送った。
 『娑婆に脱帽』の思い出は、聞き取りの席でもいろいろと聞いた。「かなり威勢のいい演出家だったと思う」と前置きしたうえで、こう話している。

ニッポン放送の『俺はマドロス』のときは、まるで舞台のようなことを市村俊幸や柳沢真一、池内淳子にやらしたわけです。ラジオだから制約もあり、むしろ欲求不満でした。その不満を一気に晴らそうと。こういうガチャガチャした劇団のほうが、自分もやりやすい。‟テレビ屋嶋田”がこの世界にドブッとハマったきっかけは、『娑婆に脱帽』じゃないかなと思うくらい、おもしろかったです。ニッポン放送で上司だった平岡鯛二さんはじめ、先輩たちも応援してくれました。
(第3回聞き取り)


『娑婆に脱帽』の舞台より。左に煙草屋の娘・吉崎路子(池田昌子)、右にモタ(早川研吉)

 『娑婆に脱帽』をかたちにしていくなかで、松木ひろしの才能にも触れた。著書『人と会うは幸せ!』には、《もしこの男と出会わなかったら、もし『娑婆に脱帽』という芝居を二人で作っていなかったら――二人の人生は今と変わっていたかもしれない》とある。作者と演出家、丁々発止の名コンビであった。

松木は、台詞のうまさ、作品を創り上げていく発想が巧みでした。彼も演出のアイデアを出しますが、洒落ていて、あか抜けている。僕はそのアイデアを崩して、わかりやすく、田舎くさくやる。新国劇出身ですから(笑)。「お前さんのギャグは、お客にわからないぞ」と言いながらね。
(第3回聞き取り)

 たった3回の公演だったけれど、『娑婆に脱帽』は好評を博した。菊田一夫が編集・発行する月刊誌『現代劇』(現代劇社)で、劇作家の伊馬春部がこう激賞する。

(前略)面白かつたナ、近頃の拾いものでしたよ。台本をごらんに入れたいくらいですね。再演したほうがいいと思うナ。とにかくサビのきいたセンスの明るい芝居でね。(中略)開幕から終幕まで満場哄笑の渦なんだが、ちやんと人生を考えさせるものがあつて、モラルがあるんだ。これは声を大にして推賞したいな。(中略)ちようど安藤鶴夫さんも来てて、感激して立ちあがつて、手をたたいてたもの。こんな新人がいたことは嬉しいねといつてね。
(座談会「近ごろ岡目六目」『現代劇』1958年6月号)

 喜びは、さらに続く。まず、伊馬春部がコメントしたとおり、戯曲『娑婆に脱帽』が『現代劇』に2号にわたって全篇掲載された(1958年9月号、10月号)。
 演劇の専門誌に戯曲が掲載されるのは、関係者にとってうれしいものである。2冊の『現代劇』は、嶋田さんの宝物だったのだろう。書斎にきれいに残されていた。のちに『現代日本戯曲大系 第4巻 1957-1960』(三一書房、1971年8月)に収録された『娑婆に脱帽』は、劇団テアトル・エコーが再演したときのバージョンで、初演のオリジナル戯曲は『現代劇』でしか読めない。


『現代劇』1958(昭和33)年9月号、10月号(現代劇社)

 第1回公演の勢いにのって、現代劇場は半年もたたずして、第2回公演『野良犬譚(のらいぬものがたり)』を上演した(ヴィデオホール、1958年10月22~25日)。三流週刊誌の編集部を舞台にした作品で、松木ひろしと島田親一のコンビふたたび、である。

もともと別の作品の予定だったのが、松木が書けなくなっちゃって、急きょ代わりに執筆したのが『野良犬譚』です。僕は子どもが産まれたばっかりで、松木を2晩ほどうちに泊めて、そこで書かせました。僕が鍵を渡して、会社に行っちゃって、松木が家で書いていたという(笑)。懐かしいな。
(第3回聞き取り)

 伊馬春部が《再演したほうがいいと思うナ》と語ったように、『娑婆に脱帽』も再演を重ねていく。
 1961(昭和36)年6月には、現代劇場の第5回公演として、初演と同じヴィデオホールで再演された(6月21~25日)。顔ぶれは初演と変わり、勘平を村田正雄、学者を小玉修嗣、モタを高木久芳が演じ、カポネは初演の河野彰がやった。のちに劇団テアトル・エコー、人間座、劇団市民劇場、現代劇場(後年、影山泉らが再結成)も、『娑婆と脱帽』を上演している。
 翌1962(昭和37)年5月12日には、フジテレビの「東芝土曜劇場」(日曜にあらず)で、『娑婆に脱帽』が放送された。ドラマ化に際し松木ひろしがアレンジ、配役はカポネに市村俊幸、勘平に大坂志郎、学者に牟田悌三、モタに高木久芳、演出は「島田親一」である。

『娑婆に脱帽』は、観た人はすごく誉めてくれたけど、実際に観た人は限られます。もっと広く知ってもらいたい気持ちはありました。ただ時間を半分以上、短くせざるを得ない。ずいぶんカットしたので、舞台のようなおもしろさは出せませんでした。
(第4回聞き取り)


島田親一演出『東芝土曜劇場 娑婆に脱帽』(フジテレビ、1962年5月12日放送)。左より大坂志郎、浦里はるみ、牟田悌三、市村俊幸、高木久芳(同日付け「毎日新聞」)

 ドラマ版『娑婆に脱帽』は、舞台ほどの成果は得られなかった。ただ、主演の大坂志郎をはじめ、出演者はいずれも嶋田さんの信頼する役者仲間である。市村俊幸とも信頼しあう仲となり、市村、牟田悌三、浦里はるみはのちに「海賊の会」のメンバーとなる。

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 松木ひろしとともに、ニッポン放送からフジテレビに出向した嶋田さんは、現場第一線のプロデューサー兼ディレクターとして、試験放送の時代から演出にかかわる。
 生放送からVTR撮りへと移りゆく、昭和30年代のドラマの現場。新宿区河田町のフジテレビスタジオでの出会いとエピソードは、それだけで本一冊のボリュームになる。
 五社協定の縛りのあった当時、映画スターのテレビドラマ出演はのぞめなかった。嶋田さんが演出した作品では、滝田裕介、大塚道子、岸田今日子、岩崎加根子、河内桃子、吉行和子、松本典子、井川比佐志ら新劇三大劇団(文学座、俳優座、劇団民芸)の若手の出演が目立つ。


島田親一演出『ソフラン座 ゼロの焦点』(フジテレビ、1961年8月15日~11月28日放送)能登ロケ。右より2人目に河内桃子、その左隣に嶋田親一

 いっぽうで有島一郎、左ト全、市村俊幸、千葉信男、村田正雄といった軽演劇を得意とする俳優が、演出作には常連のように出ている。

ムーラン・ルージュや軽演劇の俳優に、ひじょうに愛情がありました。現代劇場やフジテレビのドラマに、いろんな人が出てくれたのは、ニッポン放送でこの人たちと仕事をしたからです。バラエティー豊かで、いい意味で雑多でしょう。ドラマの配役も、自分の好みで決めました。たとえば、大好きな左ト全さんには、『巨匠錦を飾る』で警察署長の役をお願いしました。3人組の詐欺師(西村晃、夏川かほる、岡田眞澄)に、田舎町の人たちが騙される話です。ト全さん、ユーモラスでねえ。
(第4回聞き取り)


島田親一演出『サンウェーブ火曜劇場14 巨匠錦を飾る』(フジテレビ、1960年5月31日放送)。左2人目より西村晃、岡田眞澄、左ト全、夏川かほる、林寛

 子役がメインのドラマを演出するのも好きだった。そのきっかけが『富士ホーム劇場 にあんちゃん』(1960年11月27日~12月11日放送)で、この作品で二木てるみ、劇団若草の渡辺篤史と出会う。
 翌年、渡辺篤史を主役に抜擢し、嶋田さんの代表作となる『三太物語』(1961年3月2日~62年5月31日放送)がスタートする。NHKのラジオドラマや新東宝映画、劇団民芸の舞台などで知られる原作(青木茂)の初テレビドラマ化である。


『三太物語』広告(現代劇場第5回公演『娑婆に脱帽』プログラム)


『三太物語』予告用手書きテロップ(1961年)

 『三太物語』は、神奈川県津久井の山里を舞台に、わんぱく少年の三太と三太をとりまく人たちの日常を描く。「おらぁ、三太だ」の決めゼリフで、当時よく知られていた。
 主役の三太を渡辺篤史、友だちの花子をジュディ・オングが演じ、いずれも名子役として人気を博す。担任の花荻先生には、新東宝を経て当時フリーの中西杏子を起用した。この主要キャストの脇を、左ト全、市村俊幸、瀬良明、原泉、永井柳太郎、七尾伶子、市川寿美礼らベテラン・実力派が固めた。


島田親一演出『三太物語』。左より原泉、渡辺篤史、左ト全(1961~62年)

 当時の市村俊幸は、絶頂期の人気に陰りが出始めていたとはいえ、ラジオやテレビ番組の司会など、まだまだ知名度抜群の存在である。フジテレビ版『三太物語』では、三太の父を演じ、妻を七尾伶子がやった。

おかげさまで、人気番組になりました。夜の7時から三太、7時半から『少年探偵団』という編成もうまかった。「子役だから」と上から目線でやったことは一度もない。「嶋田さん」「先生」と呼ばれても、気持ちはお友だちのような関係です。話すときも、相手の目線までしゃがむ。同僚の岡田太郎から後年、「子どもじゃなく、“大人”で売り出していかなきゃ」と皮肉を言われたこともありました。
(第4回聞き取り)

 聞き取りの席で「気持ちはお友だち」と語っていたけれど、現場ではそれなりに怖かったらしい。育ちざかりの子役とベテランのキャストが混在するなか、あるていど毅然とした態度で接しないと現場を仕切れない。


『三太物語』撮影風景。右より渡辺篤史、天草四郎、嶋田親一(1961~62年)

 市村俊幸にいたっては、「ゴルフ焼けしちゃってね」と顔にドーランをぬらず、そのまま出てくるありさまである。その市村と、『三太物語』の現場であるトラブルが起きた。

一度だけ、ブーちゃんを怒鳴ったことがあります。休憩時間が長くて、楽屋でこいこい(花札)をやってたんですよ。「子どもたちがそばにいるのに、冗談じゃない!」と本気で怒りました。賭けてなかったかもしれませんが、僕はそういうところがへんに潔癖で、見過ごせない。ブーちゃん、謝ってました。この事件があって、結束がかたくなりました。渡辺篤史の宿題を大人が見てやったり、そういうムードに変わったんです。大人のいい役者たちが、子どもたちを守ってくれて、うれしい現場でした。
(第4回聞き取り)


1962年8月30日、フジテレビそばの「長寿庵」2階にて嶋田親一誕生日会。右端に七尾伶子、左後ろに嶋田、その前に渡辺篤史、ほかに中西杏子、市村俊幸、天草四郎、永井柳太郎、原泉らがいる

 『三太物語』は、嶋田さんが三十路を迎えたころの仕事で、思い出ぶかい作品となった。書斎に、『三太物語』の写真を数多く残したことからも、このドラマへの深い愛着を感じる。
 市村俊幸との仲も、『三太物語』のころから深まっていく。写真を見るかぎり、市村はなかなかクセのある雰囲気だが、フジテレビ時代の嶋田さんも堂々たる貫禄である。年長の市村とは、プロどうしのドライな付き合いができたのかもしれない。


嶋田親一(左)と市村俊幸(右)、ロケ中のひとこま(1960年代)

 嶋田さんの演出では、ドラマシリーズ「おんな」の枠で放送された連続ドラマ『女が階段を上る時』(1961年5月20日~6月10日放送)に、市村俊幸が出演している。銀座の雇われマダム・矢代圭子(池内淳子)に言い寄るバーの客・関根松吉役で、成瀬巳喜男監督の東宝映画版(1960年1月15日公開)で加東大介が演じたキャラクターである。


島田親一演出『女が階段を上る時』紹介記事。出演者に市村俊幸の名がある(1961年5月20日付け「東京新聞」)

 ドラマの現場で手一杯のはずが、若さゆえか、勢いなのか、嶋田さんの芝居熱は冷めることがない。
 フジテレビを辞め、フリーの劇作家として独立した松木ひろしもおなじである。1960(昭和35)年5月には、新橋演舞場の劇団新派公演『おアツい壁』(5場)が話題となる。才女(渡辺千世)とプロ野球選手(吉本学)のラブコメディで、演劇評論家の大木豊は《奇抜な着想と、しゃれた会話が特色》(『戦後新作戯曲事典』青蛙房、1960年10月)と評した。
 演出と脚本、ふたりはそれぞれの仕事をこなしながら、劇団「現代劇場」の公演を続けていた。

◎第1回公演『娑婆に脱帽』(ヴィデオホール、1958年4月10~12日)
◎第2回公演『野良犬譚(のらいぬものがたり)』(同、1958年10月22~25日)
◎第3回公演『予約席は黒枠つき』(同、1959年6月19~22日)
◎第4回公演『ネグリジェと十字架』(同、1960年6月22~26日)
◎第5回公演『娑婆に脱帽[再演]』(同、1961年6月21~25日)
◎第6回公演『靴のなかの石ころ』(平河町都市センターホール、1961年12月12~21日)


現代劇場第1~6回公演パンフレット(1958~61年)

 6回に及ぶ現代劇場の公演は、すべて松木ひろしのオリジナルである。フジテレビの仕事で時間がつくれず、第3回公演は渡辺浩子に演出を委ねたが、ほかはすべて島田親一演出だった。
 市村俊幸は、現代劇場のメンバーではなかったが、ドラマを通じて嶋田さんと縁ができた。それがきっかけで、第6回公演『靴のなかの石ころ』(3幕)に、中村メイコ、沼田曜一とともに特別参加(客演)した。
 舞台は、雑誌『アルコール』の編集室。社長兼編集長の海老原弥子(中村メイコ)、下着デザイナーの手代木雄介(沼田曜一)、弁護士の金平繁治(市村俊幸)、野球狂いのやくざ組長・立花権太(村田正雄)らが織りなす、野球場建設をめぐる土地買収コメディである。

ニッポン放送時代の同僚で友人の吉田史子、当時は演劇プロデューサーとして注目を浴びていた彼女が仕掛け人です。第6回公演だけ、現代劇場の単独でなく、スポンサー(西武生活クラブ)をつけて共催にしたんです。おかしかったなあ、この舞台は。プロ野球がいろいろと話題のころで、巨人の川上哲治が監督を辞める・辞めないなど、スポーツ新聞の見出しが日々躍っていた。それを生かして、村田正雄の親分の台詞が毎日違う。そういう演出が好きでね。ムーラン・ルージュ新宿座の舞台の雰囲気にしたかったんです。
(第5回聞き取り)


現代劇場第6回公演『靴のなかの石ころ』のパンフレットとプログラム(1961年12月)


『靴のなかの石ころ』プログラム中面

 中村メイコふんする海老原弥子は、雑誌『酒』編集長の佐々木久子がモデルらしい(パンフレットに佐々木がエッセイを寄稿している)。パンフレットやプログラムにある「製作・神宮美智子」は、おそらく吉田史子の仮名だろう。

 現代劇場への客演を、市村俊幸は喜んだ。パンフレットに客演した中村メイコ、沼田曜一、市村の座談会が載っている。

沼田 ぼくの場合からいうとね、タイミングがよかった。芝居やりたいなと思ってるときにね、ぴたり、タイミングあったんだ。
メイコ あああ、タイミングね。グッド・タイミングだったのよ。私も。
市村 ぼくも同じ。
メイコ ほんと。タイミングが三つ集っちゃった……。
市村 ちょうど一年間くらい舞台に出ないでいると、どうしても、なんかやりたくなるね。(略)こんどのは、芝居としてはたいへんに楽しいっていうか、楽しいというと、あれだな、軽いタッチで……。
(座談会「舞台が魔ものの三つのタイミング」『靴のなかの石ころ』パンフレット)


中村メイコ(『靴のなかの石ころ』パンフレット)


沼田曜一(『靴のなかの石ころ』パンフレット)

 この公演のために松木ひろしは、主題歌『靴のなかの石ころ』を作詞、渡辺岳夫が作曲した(聞いてみたい!)。
 中村メイコの言葉を借りれば、市村俊幸、松木ひろし、嶋田親一、みんなそれぞれ《グッド・タイミングだった》。作家、演出、音楽、俳優、装置、照明、効果、舞台監督にいたるまで、誰もがこの芝居によき余韻を残した。
 結果的に『靴のなかの石ころ』が現代劇場のラスト公演となり、翌年旗揚げの「海賊の会」につながっていく。提唱したのは市村俊幸である。海賊の会について、色川武大がのちに少しだけ書いている。

思いおこすと、時々、『二十日鼠と人間』とか『欲望という名の電車』とかシリアスな舞台に混ざりこんでいたりした。“海賊の会”というのはブーちゃんが中心で、主として脚本家や裏方を集め、芝居作りの意欲を満たそうとしたらしい。そのために私費で、青山にスタジオを建てる。それが騙されたかして建物も私財も失ってしまう。
(色川武大「ブーちゃんマイウェイ」『なつかしい芸人たち』新潮文庫、1993年6月)

 「ブーちゃん」といえば当時、コメディアン、テレビ・ラジオ番組の司会者として知られていた。そのかたわら、芸術座の東宝現代劇、劇団手織座、劇団葦の公演に客演するなど、新劇や商業演劇の舞台に身を投じていた。


劇団手織座第5回公演『愛の凄鬼』(銀座ガスホール、1957年10月/芸術座、同12月)。左より市村俊幸、宝生あやこ、小山源喜(『劇団手織座三十周年史』劇団手織座、1984年11月)

 そもそも、色川武大の書く《芝居作りの意欲を満たそうとしたらしい》「海賊の会」とは、いかなる集団だったのか――。

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 嶋田さんがフジテレビ時代、プロデューサー兼ディレクターとして演出したドラマの映像は、そのほとんどが失われている。フジテレビのアーカイブに保存された番組も、外部の人間が視聴することは叶わない。石原裕次郎主演『一千万人の劇場 小さき闘い』(1964年5月6日放送)が、横浜の放送ライブラリーで公開されているくらいである。
 その意味でも、嶋田さんの手元に残されていたスチールや集合写真は、1950~60年代の仕事を知る手がかりになる。たとえば、『10人の目撃者』(1962年11月1日~63年4月11日放送)の集合写真には、演出の嶋田さんをはじめ、出演の市村俊幸、二本柳寛、高松英郎、牟田悌三、山下洵一郎、藤田佳子、榊ひろみの顔が見える。


島田親一演出『10人の目撃者』集合写真(部分拡大)。後列左に嶋田親一、前列左より市村俊幸、二本柳寛、高松英郎(1963年)

 『10人の目撃者』は木曜夜の1時間番組で、ドラマパートの「事件編」のあと、10人の一般出場者が犯人やトリックを推理し、タネあかしの「解決編」となる。NHKの人気番組『私だけが知っている』と『事件記者』を混ぜこぜにした内容である。
 司会は『プロ野球ニュース』(フジテレビ)の解説で知られた飯島滋弥、ドラマパートは新聞社の社会部が舞台で、二本柳寛のデスク、牟田悌三・高松英郎・山下洵一郎らの記者、市村俊幸の捜査主任という顔ぶれ。ミステリー評論家の中島河太郎らが、ドラマ部分の脚本を担当した。

ドラマとクイズが一緒になった番組です。ブーちゃん、牟田悌三、高松英郎、山下洵一郎、藤田佳子、榊ひろみ……みんなのちの「海賊の会」のメンバーです。つながりのある俳優を起用する仲間意識は、キャスティングからわかりますね。当時のディレクターの実権は、大きかったんです。“ものづくり屋”が配役に相当食い込んでいましたから。
(第5回聞き取り)

 『三太物語』『女が階段を上る時』『娑婆に脱帽』『靴のなかの石ころ』『10人の目撃者』と、嶋田さんは市村俊幸と仕事を重ねていく。そのころ市村から、ある相談を持ちかけられた。

ブーちゃんがある日、「あなたはテレビをやっているが、舞台をやらないか。劇団に入らなくても、芝居をやりたいやつはたくさんいる。日本では、そうしたグループがなかなかない」。ここからが、ブーちゃんのすごいところ。「稽古場は俺が借りる。ピアノは俺のがある。やれることはなんでもやる。シマちゃんは、フジテレビのほかにも、仲のいい人がたくさんいるだろ?」「この忙しさでは……」「みんな忙しい。でも、志はひとつにできる」。ブーちゃんから、訥々と説得されました。
(第6回聞き取り)

 いよいよここで「海賊の会」の旗揚げである。その出帆については、航路案内をイメージしたパンフレット『キッド・アイラック号 航路ご案内 1963 海賊の会』と、第1回公演『実践悪党学』のパンフレットに詳しい。


海賊の会『キッド・アイラック号 航路ご案内』(1962年12月)と第1回公演『実践悪党学』パンフレット(1963年5月)

 前者は、海賊の会編集委員会編集、海賊の会製作で、発行は1962(昭和37)年12月20日、住所は「東京都赤坂新町三の二三中村ビル」とある。
 後者の『実践悪党学』パンフレットは、1963(昭和38)年5月17~25日まで、有楽町の読売ホールで上演された。パンフレットの発行は初日の5月17日、住所は「東京都港区赤坂青山北町四の一六 神宮外苑ビル四階」となっている。色川武大が《私費で、青山にスタジオを建てる》と書き、市村が《稽古場は俺が借りる》と嶋田さんに言った場所である。
 『キッド・アイラック号 航路ご案内』と『実践悪党学』のパンフレットは、どちらも贅を尽くしていて、デザイン、編集、執筆者と関係者の並々ならぬ情熱が伝わってくる。テレビ業界発の演劇ユニットではあるけれど、手間ひまを書けたパンフ類からは、雑誌を創刊するノリを感じる。
 「海賊の会」誕生のいきさつは、『実践悪党学』のパンフレットで市村俊幸が、「初日の幕があがる迄」として日記風に明かしている。

六一年十二月某日
…現代劇場公演松木ひろし作島田親一演出「靴の中の石ころ」千秋楽……
 実に楽しい芝居だつた。出来る事ならもう一度やりたいと思う。作の松木、演出の島田両氏のフレッシュな感覚が私をとりこにしている。…いわゆる新劇調でない新らしいコメデイタッチ!大衆を基調とした狙いが自分流に気にいつた。どうも二人の仕事にほれたらしい。(略)
六二年八月某日
 春も過ぎもう夏だと云うのに彼等は忘れてしまつたのだろうか。それともスタッフクラブなんて作るのは無理な話なのだろうか。結局自分の一人相撲だつたらしい。毎日毎日夢をふくらませて実現に一歩一歩と…へん馬鹿みたいな話だ…。
六二年八月某日
 赤坂のアマンドにて島田、松木氏と逢う!昨日ボヤいた事などすつかり忘れた!例の話を其体的に進めようと云うのだ。やつぱり私のほれた二人は此の八ヶ月じつくり考えてたんだ。無性に嬉しい お互いの胸のうちで練られて育った考えが……、次から次えと話がはずむ どうせやるなら役者も心の通じ合った者がいる方がいい!そうガッチリしたバックポーンのある奴!ブーちゃんを信頼してるからこんな事始めようって云うんだぜ!…お世辞にしろ嬉しい……。
(市村俊幸「初日の幕があがる迄」『実践悪党学』パンフレット)

 市村俊幸の、松木ひろしと島田親一への惚れっぷりが熱い。
 市村から、演劇ユニット立ち上げの相談を持ちかけられたのが、1962(昭和37)年8月。3か月前の5月12日には、先述したドラマ版『娑婆に脱帽』が放送され、市村俊幸が出演している。ユニット立ち上げの相談相手として、嶋田さんは頼りになる立場にいた。

実際にブーちゃんは、スポンサーをいろいろと決めてきてくれました。僕も話に乗ると、すぐ動くタイプなんです。渡辺岳夫、いずみたく、せんぼんよしこ、ベテランの杉狂児さんも口説いた。大川俊雄は効果マン、松下朗は装置、ふたりともフジテレビの同僚です。たちまち、これだけの人間が集まりました。
(第6回聞き取り)

 市村俊幸の呼びかけに応じたのか、『キッド・アイラック号 航路ご案内』には、市村がCMモデルの「ロート胃腸薬 シロン」と「洋菓子の店 アマンド」の広告が、それぞれ表3と表4(裏表紙)に大きく載っている(市村は当時、ロート製薬一社提供の番組で司会をしていた)。


市村俊幸「ロート胃腸薬 シロン」広告(『キッド・アイラック号 航路ご案内』)

 ユニットへの賛同者も増えてきた。「初日の幕があがる迄」に市村は書く。

六二年十月某日
 初め考えていたよりも総てが大きくなつて来た。こんな沢山同志が集まつたが大丈夫だろうか?順調なすべり出しを喜ぶ半面荷が重すぎるような気もする。名称も海賊の会というおつかない名前に決つた。劇団でもないしプロダクションでもない理想と云えば理想だけで終りそうな団体だが個々の考え方の枝葉は違つても幹は一本でありたいものだ。(後略)
(「初日の幕があがる迄」前掲書)

 言い出し役の市村が抱いた一抹の不安は、結果的に正しかった(それについては後述する)。
 いずれにせよ、海賊船はいよいよ出航する。もう止められない。第1回公演も決まらぬうちに、勢いでパンフレット『キッド・アイラック号 航路ご案内』を作ってしまった。その1ページ目に「海賊ごあいさつ」が載っている。

 こんな会が出来上りました。劇団ではありません。プロダクションでもありません。気のあつた連中が集まつてたのしい舞台を作りながら勉強しようという仲間の会です。誰にも気がねなくフリーな立場でお芝居をやりたい―そんな願いをこめて作つた会です。
 面白そうだからなんかやらしてみようとおつしやるスポンサー、楽しそうだから一緒にやろうとおつしやる仲間の方、おまちしております。
 とにかく不思議な会が出来上ってしまいました。
 海賊の会同人一同
(「海賊ごあいさつ」『キッド・アイラック号 航路ご案内』)

 「海賊ごあいさつ」の下には、「乗組員」として同人39名の名が記されている。

乗組員(イロハ順)
■文芸演出
山中恒、山崎あきら、山本雪夫、松田暢子、松木ひろし、河野詮、島田親一
■音楽
いづみたく、渡辺岳夫、神津善行
■舞台美術
松下朗、小泉正名、篠原久
■制作
渡辺淳、増井春雄
■演技
市村俊幸、市川和子、千葉信男、桂小金治、田浦正巳、中村メイ子(ママ)、中西杏子、七尾伶子、牟田悌三、村田正雄、臼井正明、浦里はるみ、山内幸子、松島トモ子、藤田佳子、上月左知子、里井茂、榊ひろみ、御木本伸介、島田多恵子、杉狂児
(前掲書)

 多彩である。映画会社、劇団、プロダクションの枠組みをとっぱらい、さまざまな顔が集う。テレビ、ラジオ、映画では飽き足らず、芝居ごころの疼いた“乗組員”がこれだけいたのだ。戦後デビューの俳優にまじって、戦前からのベテランである杉狂児もいる。そのほとんどが、ラジオとテレビを通じて嶋田さんと何かしら縁のある人たちだった。
 「現代劇場」と異なり、「海賊の会」は劇団ではない。かといって、一度きりの座組となる「プロデュース公演」でもない。志をともにした、テレビ業界発の演劇ユニットである。『キッド・アイラック号 航路ご案内』のなかで、嶋田さんはこう発言する。

島田 (前略)劇団というのは第一に生活をゆだねているでしよう。それから劇団には劇団のカラーがある。あるいは、統率者がいて、そのひとの考えが反映するわけですよ。そういうことからいったら、ここは劇団でないんですよ。そういうことでは、ここは無所属だけれどもなにか共通しているところがある。そういう人が集まっているんですよ。(後略)
(座談会「はかりごと」前掲書)

 『キッド・アイラック号 航路ご案内』では、全同人(乗組員)が一言ずつ、コメントを寄せている。そのトップを飾るのは代表であり、船長として束ねるブーちゃんこと市村俊幸である。

 僕は世間からコメデイアンとみられています。コメディーを演ずることがどんなにむずかしいかを考えると、これは大変光栄なことであると同時に、事の重大さを痛感します。世阿弥が残した次のような言葉を思い出さずにはいられません。「返す返す をかしなればとて さのみ卑しき言葉 風体ゆめゆめあるべからず」。
(「ワカツテルノ? ソノ意味。)
(前掲書)


市村俊幸のコメント(『キッド・アイラック号 航路ご案内』)

 旗揚げ公演も決まらぬまま、出航した海賊の会。しかし、そこからの展開は早い。メンバーが決まり、月に2度の会合は盛り上がり、あれよあれよと話が決まっていく。
 1962(昭和37)年11月には、第1回公演の話が具体化し、翌1963(昭和38)年5月の上演が決まった。そのためには、それ相応の稽古場が必要となる。市村俊幸が奔走し、神宮外苑近くのビルの4階に稽古場を借りた。上演先は、有楽町の読売ホールに決まった。

「芝居をやりたい」とこれだけの人が、意志をもって集まってくれたことがうれしかった。そのかわり、これだけの顔をそれぞれ生かさないといけない。そうなると商業演劇ベースです。読売ホールで1週間やるのは、いい度胸ですよ。その前にフジテレビで、海賊の会のユニットドラマを一本やりました。そのころは編成を利用できる力が、僕にもあったんです。
(第6回聞き取り)


「海賊の会」の会合風景。右奥より臼井正明、松木ひろし、嶋田親一、七尾伶子(1963年)


 海賊の会第1回公演の2ヵ月前、1963(昭和38)年3月5日、フジテレビの「シャープ火曜劇場」で『異母妹たち』が放送された。田宮虎彦の原作を松田暢子が脚色、渡辺岳夫の音楽、島田親一の演出で、市村俊幸、藤田佳子、上月左知子、山内幸子、市川和子、沼田曜一、田浦正巳が出演した。さらに4月スタートの山中恒作、渡辺音楽、島田演出の『かっぱ子物語』(4月5日~10月25日放送)には、市村、山内、杉狂児、牟田悌三、七尾怜子、村田正雄が出ている。いずれも海賊の会のメンバーである。


島田親一演出『シャープ火曜劇場 異母妹たち』(フジテレビ、1963年3月5日放送)。左より山下洵一郎、市村俊幸、藤田佳子、山内幸子

 ドラマ放送の翌月、4月22日には、青山の神宮外苑ビル4階で「海賊の会稽古場開き」がおこなわれた。業界やメディアの関係者を招いた、お披露目のパーティーである。


1963年4月22日、神宮外苑ビル4階での「海賊の会稽古場開き」(『実践悪党学』パンフレット)

 稽古場開きの案内状を見ると、乗組員こと同人の顔ぶれが発足時とやや変わっている。当時、日本テレビのディレクターだったせんぼんよしこのほか、演技陣として藤岡琢也、旭輝子が加わっている。
 いっぽうで、中村メイコと神津善行が夫婦で抜けている。嶋田さんいわく、《メイコさんは、こうやって徒党を組むのが嫌いなんです》(第6回聞き取り)とのことだった。「徒党を組むのが嫌い」というその感性は、海賊の会の弱点を見抜いたともいえる。
 細工はりゅうりゅう仕上げを御覧じろ、とばかりに船出した海賊の会。そのユニークな試みは、メディアの注目も浴びた。嶋田さんがスクラップ用に切り抜いた新聞記事に、あるコラムを見つけた。「ひとつの試金石 『海賊の会』の旗上げ」と見出しにある。

ちと物騒な名前のこの会は、メンバーの大部分がテレビで活躍しているタレントやディレクター、劇作家、作曲家たちで、いま総勢三十九人。根城は、海の上ならぬ明治神宮外苑のほとり、近代的ビルの四階だ。(略)新劇、カブキの俳優たちがテレビに進出、“内職かせぎ”をやるのは、近ごろちっとも珍しくない。が、逆にテレビのタレントたちが、「本当の芝居をやりたい」と、このようにひとつにまとまり、生活上・経済上のマイナスも乗りこえて精進している――というのは、ちょっと類がない。
(1963年5月19日付け「朝日新聞」)

 海賊の会の記念すべき最初の公演は、松木ひろし作、島田親一演出『実践悪党学』(4幕)に決まった。音楽は、渡辺岳夫といずみたくのふたりが担当した。


『実践悪党学』プログラム中面

 聞き取りの席で海賊の会の思い出を語る嶋田さんの表情は、懐かしげでありつつ、どこか冴えない印象も受けた。現代劇場について語るときほど、生き生きとしていなかった。実は稽古の段階で、ある違和感を覚えたからである。

海賊の会は、テレビ屋的な発想ですよ。雑ぱくで、寄せ集めもいいところ。それが、裏目に出たのかもしれません。稽古の途中で、「なんだか難しいな」と感じました。こちらも忙しければ、みんなも忙しいから、稽古の仕方もテレビ的な演出になってしまう。「じっくりやる」と言いながら、実際には満足に稽古ができない。劇団ではないから、責任の所在もはっきりしませんでした。だいたいタバコを吸いながら演出しているんだから、偉そうだよね(笑)。稽古場の雰囲気がわかるでしょう?
(第6回聞き取り)


『実践悪党学』稽古中の嶋田親一(1963年)


『実践悪党学』稽古風景。手前中央に嶋田、奥左より2人目に杉狂児、4人目に御木本伸介、奥右に市村俊幸

 俳優の良さを引き出すにしても、これだけ多彩だと簡単ではない。出演者のスケジュールを調整して、揃って稽古すること自体が難しい。

 芝居づくりの夢、志の高さはともかく、ほうぼうから人を寄せ集めた弱点は拭いようもない。それを早々と見抜いた俳優がいる。森雅之である。
 嶋田さんは、森雅之と面識があった。『サンウェーブ火曜劇場11 脚光(フットライト)』(1960年5月3、10日放送)など、森出演の3本のドラマを演出している。戦後まもない「民衆芸術劇場」のころからの森雅之ファンで、思い入れのある俳優のひとりだった。


島田親一演出『サンウェーブ火曜劇場11 脚光(フットライト)』(フジテレビ、1960年5月3、10日放送)。森雅之(左)、浅野進治郎(右)

 森雅之のメッセージは、『実践悪党学』のパンフレットに掲載された。明治座の楽屋でインタビューした談話(4月22日)で、海賊の会にエールを送りつつ、鋭く弱点を突く。森は、《大へん、皆さんイキケンコーとしてる事はよく分るんだけど》と前置きしたうえで、こう続ける。

まあ、卒直に云って、いろんな畑のいろんな個性の集った、アンデパンダン的なって云うか、勝手なことをやる面白さは出るでしようね。勿論そういう楽しさも芝居の中の大切なある一部の要素ではあるわけで、はじめのうちは、それだけでも満たせばいいんぢやないですか。それにはありものの脚本よりも、皆さんの事をよく知ってる作家が書いた脚本って事はいいと思いますよ。ただ、それだけでやって行くと舞台的なリアリズムを通しての演技の格調のない役者になるおそれはあるってことね、これは個々の役者が気をつけなければならないことでしようね。(後略)
(森雅之「奥深い芸」『実践悪党学』パンフレット) 

 森雅之の指摘は、《こんな沢山同志が集まったが大丈夫だろうか?》(「初日の幕があがる迄」)という市村俊幸の心配ともつながる。
 師・佐々木孝丸の教えを受け、芝居に造詣の深い嶋田さんも、海賊の会の限界を稽古の段階で感じていた。こうした違和感、不安、限界を抱きつつ、第1回公演『実践悪党学』の幕は上がる。


海賊の会第1回公演『実践悪党学』の舞台(読売ホール、1963年5月)。左から2人目に杉狂児、その右隣に市村俊幸

 『実践悪党学』の芝居自体のスケールは大きい。
 物語は、「殺人犯の血は遺伝する」の学説を掲げる心理学教授・太田黒法隆(市村俊幸)を軸に展開する。会社員の長男・宏之(高木久芳)、大学生の次男・勇(山下洵一郎)、中学生になる後妻の娘・シオリ(松島トモ子)のほか、法隆には後藤光枝(浦里はるみ)、塩沢友子(上月左知子)、茨木昌代(藤田佳子)の3人の愛人がいる。法隆の父・實(杉狂児)は、精神病院の元院長である。
 この一家を中心に、さまざまな人物が入り乱れる。父と祖父の両方が殺人犯の遠山千加子(市川和子)、法隆の助手・久保知彦(牟田悌三)、法隆の顧問弁護士・立花丸男(臼井正明)、精神病院の看護婦・鮫島節子(七尾伶子)、太田黒家の女中・永井君子(島田多恵子)、“分裂病三銃士”の小倉礼二郎(千葉信男)・遠野栄造(河野彰)・馬場敏(村田正雄)などなど。


『実践悪党学』の舞台。左に太田黒法隆(市村俊幸)、右に久保知彦(牟田悌三)

 法隆は、家族や周囲の人間を巻き込みながら、「殺人犯の血は遺伝する」学説を実証すべく躍起になる。それでいて、女たらし。松木が好んだ、スリラー・ブラックコメディである。本人はその狙いを、パンフレットに綴っている。

(前略)もともと、血となり肉となるパンやビフテキとは縁が無く、専ら口当りの好いアぺリチーフかデザートみたいな芝居を好き好んで書いて来た僕だが、今度も勿論その例外ではない。初めて僕の芝居を観て下さる方は大変奇妙奇天烈で八方破れな感じを受け取られるだろう。然し、それはそれ、前にも申し上げた通り出発点から高くかざしたアンチ芸術の聖火を未だに手から離して居ない為である。(後略)
(松木ひろし「お帰りになる前に」『実践悪党学』パンフレット) 

 1963(昭和38)年5月21日付け「読売新聞」夕刊に、『実践悪党学』の劇評が出た(筆名は「孝」)。「巧みな人間像の交錯」と見出しにあるものの、海賊の会の弱点が指摘されている。

 松木脚本は例によって間口の広い事件、各人各種の人間像を巧みに交錯させて芝居を展開する。しかし前半は非常におもしろく、終末に近く収拾をあせるいつもの癖が見えはするが、小気味のいいセリフを各人の口からポンポンと発射させるあたり、やはり非凡な作者である。
 登場人物はいずれも一癖も二癖もある連中で、演技陣たちもその役柄によく取り組んでいるが、セリフのはいっている割りに、動きが伴わない俳優もいる。これは各人が多忙なタレントのため全員そろったけいこが不十分だったことによると思える。今後はこの調整に一苦労というところだろう。(後略)
(1963年5月21日付け「読売新聞」夕刊)

 話題性がじゅうぶんだったからか、第1回公演は黒字になった。特別協力のシスコ製菓のほか、銀座三愛、ヤマハ発動機、日本ビール、オーシャンウイスキーとスポンサーも少なくない。《メンバーにお小遣いていどの額が出せた。仕掛けは派手で、けっこう受けた。それが本当の意味で受けて、評価されたのかどうか》(第6回聞き取り)と嶋田さんはふりかえる。


『実践悪党学』カーテンコール。左より市村俊幸、松木ひろし、牟田悌三、嶋田親一、御木本伸介、藤田佳子、浦里はるみ

 気が早いというべきか、『実践悪党学』のパンフレットには、海賊の会「次回公演予告」が掲載されている。松田暢子作『五一七号室』(仮題)、松木ひろし作『魔女のCM』、山本雪夫作『休火山』、山崎あきら作『ぽんこつ親父』(仮題)、山中恒作『身代地蔵縁起』。以上の5作品で、演出には島田親一、せんぼん・よしこの名がある。
 海賊の会はさっそく、第2回公演へと動き出す。新たに演技陣として、三上真一郎、小栗一也、久里千春、渋沢詩子、田の中勇らが参加した。俳優として、声優として、映画、テレビ、軽演劇、新劇で活躍する顔が揃う。
 演出では、フジテレビの島田親一、日本テレビのせんぼんよしこに加え、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の河野宏が同人となった。河野は、人気ホームドラマ『バス通り裏』をはじめ、日本教育テレビの開局当初から数々のドラマを手がけた。
 フジ、日テレ、NETと在京民放各局の気鋭のディレクターが、会社の枠をこえて参加したことに注目が集まる。1964(昭和39)年1月15日付け「スポーツニッポン」には、「テレビ演出家が舞台進出の動き 腕競う河野(NET)島田(フジ)氏 『海賊の会』第二回公演」の見出しで、大きく取り上げられた。記事中の《五社ディレクター》は、松竹映画『三匹の侍』(1964年5月13日公開)でメガホンをとった五社英雄のことである。

五社ディレクターとおなじフジテレビの島田ディレクターは“五社君が映画の演出をするということには、両手をあげて賛成した。舞台に限らず、テレビ以外のジャンルにわれわれは自らとびこんで、さまざまな交流をなすべきだ。技術的に一つの地点に到達してしまったテレビ・ドラマは、そこから新しい道を開拓できるのではないか”といっている。
(1964年1月15日付け「スポーツニッポン」)


1964(昭和39)年1月15日付け「スポーツニッポン」

 《技術的に一つの地点に到達してしまったテレビ・ドラマ》という嶋田発言は興味深い。ドラマは生放送の時代を終え、VTR撮りが主流になりつつある。「電気紙芝居」と揶揄する声も薄れ、NHK「大河ドラマ」をはじめ、映画スターもテレビに出始める。嶋田さんが、石原裕次郎のテレビ初主演作『一千万人の劇場 小さき闘い』(1964年5月6日放送)を演出したのは、1964(昭和39)年のことである。


島田親一演出『一千万人の劇場 小さき闘い』打合せの様子。手前に池田秀一、奥に嶋田、右端に石原裕次郎(1964年4月29日付け「日刊スポーツ」)

 メンバーが揃わず、稽古もままならぬなか、海賊の会は第2回公演の幕を開けた。1964(昭和39)年2月13~16日の4日間、会場は新宿の朝日生命ホール。今回は『実践悪党学』とスタイルを変え、1幕ものの2本立てとなった。プログラムには、《二本立!異色作!》の文字が躍る。


海賊の会第2回公演パンフレット(1964年2月)

 1本目は、松田暢子作、河野宏演出の『オレンジの匂い』(1幕)である。テーマは、槇純一郎(御木本伸介)と洋子(中西杏子)の夫婦愛のモラル。自殺した洋子にかわって、洋子の恋人だったインターン学生・富永(山下洵一郎)が純粋な愛のかたちを純一郎に訴える。ほかに、市川和子、浦里はるみ、ベテランの杉狂児、浮田左武郎が出演した。
 2本目は、山中恒作、島田親一演出の『北涯停点』(1幕3場)。1935(昭和10)年ごろの北海道の寒村を舞台に、地元を仕切るボス、性搾取される女性たち、肺病の青年画家などの人間模様が描かれる(プログラムに音楽担当の記載はない)。
 出演は、ボスである支配人太田に市村俊幸、太田の部下・向井に牟田悌三、ねぶ寅の権次に藤岡琢也、6人の淫売婦に七尾伶子・浦里はるみ・南条秋子・山内幸子・古川潤子・中西杏子、女たちを支配する川原キネに藤田佳子、青年画家の水上に三上真一郎、ゼゲンの常元に桂小金治といった配役である。


海賊の会第2回公演『北涯停点』稽古の様子。左より南条秋子、浦里はるみ、牟田悌三、市村俊幸、藤岡琢也、七尾伶子、手前に古川潤子(1964年2月11日付け「東京新聞」夕刊)

 ふたつの演目とは別に、幕間のスポンサー(プログラムに広告のある東芝か?)タイムに千葉信男が出演した。スケジュールの都合か、出演していない同人もいるが、海賊の会の主要な顔はだいたい参加している。
 『オレンジの匂い』と『北涯停点』はそれぞれ、笑いのない、シリアスな芝居だった。向井役の牟田悌三は、稽古場での取材に対し《ケレンなしのまじめな芝居で、趣味や道楽ではありません》(1964年2月11日付け「東京新聞」夕刊)と語っている。
 スケールの大きな『実践悪党学』にくらべると、第2回公演は、こぢんまりとした印象を受ける。それは「海賊の会」の衰退ではなく、むしろ成熟に思える。喜劇だけにとらわれず、さまざまな作品に意欲的に挑む姿勢がうかがえる。
 パンフレット、チラシ、案内状など、多くの資料が残る第1回公演『実践悪党学』に対して、第2回公演『オレンジの匂い』『北涯停点』については、残された資料が少ない。嶋田家の書斎で見つかったのは、B5判二つ折りのプログラムとわずかな新聞記事の切り抜きだけである。


海賊の会第2回公演プログラム中面

 この第2回公演プログラムに、次回公演予告が載っている。松木ひろし作、島田親一演出、いづみたく音楽の『アマゾンの左の乳房』(3幕)である。会場は第2回公演と同じく新宿の朝日生命ホールで、同年5月15日から23日と予定されている。


「海賊の会」次回公演予告(同第2回公演パンフレット)

 しかし、第3回公演は上演されず、この年の秋、海賊の会の解散が決まる。10月10日付け「サンケイスポーツ」には、「『海賊の会』解散 テレビ界の自主的公演グループ 日程に四苦八苦」の見出しで、9段組の大きな記事が出た。
 総勢50名近い大所帯となれば、メンバーどうしの仲たがいが起こりそうなものだが、とくにそういうトラブルが原因ではない。この記事には、《解散の理由は、タレントたちが日常の仕事に追われ、じっくり舞台の勉強に取り組む余裕がなくなったため》と記されている。1か月は必要な稽古期間が、2週間ほどしかなく、見切り発車で公演に踏みきっている。


1964(昭和39)年10月10日付け「サンケイスポーツ」

 海賊の会の解散は、10月9日付け「報知新聞」にも4段組の記事で取り上げられた。嶋田さんは「再出発をちかって」の見出しとともに、こうコメントしている。

はじめは十人ぐらいのメンバーで現代喜劇の追究をやろうとしたが、二年のうちに身をもって実績のあがらなかったことを痛感し、みんながそのことに気がついたので、思いきって前向きの姿勢で解散にふみきりました。海賊船が難破を前に帰港、再出発を誓いあったわけです。
(1964年10月9日付け「報知新聞」)

 海賊の会の解散日は、1964(昭和39)年11月5日と決まった。前日の4日、フジテレビの「一千万人の劇場」の枠で松木ひろし作『風船玉計画』が放送された。海賊の会のユニット出演で、この1時間ドラマが、海賊の会の解散記念作品となった。
 ドラマの舞台は、都内にあるミリオン商事。毎月の給料日に運ばれてくる二千数百万円の現金を、8人の経理担当者が奪うべく、狂言強盗を目論む。牟田悌三の経理部長、藤岡琢也の経理係長、御木本伸介・山下洵一郎・高木久芳・市川和子・中西杏子・藤田佳子の経理部員、そこに市村俊幸の専務がからむ。


塚田圭一演出『一千万人の劇場 風船玉計画』(フジテレビ、1964年11月4日放送)。左より山下洵一郎、藤岡琢也、牟田悌三、高木久芳、藤田佳子(同日付け「毎日新聞」)

 演出は「島田親一」と思ったけれど、実際には同僚の塚田圭一が担当している。嶋田さんは当時、「一千万人の劇場」「シオノギテレビ劇場」などのドラマ枠を担当しており、スケジュール的な事情と思われる。
 解散記念の作品ということで、通常は3日で仕上げるところを、1日延長してリハーサルに念を入れた。11月4日付け「日刊スポーツ」のテレビ欄では、『風船玉計画』の紹介を兼ねて、市村俊幸がコメントを寄せている。

「このドラマを見ればわかるとおり、“海賊の会”の喜劇が軌道に乗ったころだけに残念だが、これで終わりというわけではないから、これからもわれわれの理念は機会あるごとに追求する」
(1964年11月4日付け「日刊スポーツ」)

 嶋田さんと市村俊幸のコメントはいずれも、海賊の会の再出発について言及している。しかし、これだけ大がかりな演劇ユニットを、ふたたび元どおりに始めることは難しい。
 むしろ、あっぱれなくらい潔い幕締めだ。無理やり続けたところで、先細りしていくばかりで、かえって人間関係がこじれてしまう。

ブーちゃんと解散を決めたとき、「頭で考えた発想をかたちにするのは難しかった。みじめなかたちで続けるのはよそう」と話しました。どんどん人数が少なくなって終わるのではなく、ここできっぱりとやめる。もう少しこじんまりやればよかった。中途半端で終わってしまったし、虻蜂座ほど大人の集団でもなかったんです。
(第6回聞き取り)

 以上が、市村俊幸が夢を描き、多くの仲間が集まった「海賊の会」の顛末である。それは、当時のテレビ界と演劇界をつなぐユニークな存在であった。しかし、これといった成果を残せないまま、2度の公演と2本のテレビドラマで終わった。
 ちなみに、海賊の会の解散記念ドラマとなった『風船玉計画』は、1965(昭和40)年3月、新国劇で舞台化された(明治座、3月1~25日昼の部)。松木ひろしの作・演出で、緒形拳、高倉典江ら若手が出演した。「海賊の会」が、いかに当時のテレビ界と演劇界をつなぐ存在だったか、松木の活躍ぶりを含めてよくわかる。


新国劇公演『風船玉計画』(明治座、1965年3月)。松木ひろし作・演出。左より小柳ナナ子、桂広行、緒形拳、高倉典江、井手良男、松木悟朗(『新国劇五十年』中林出版、1967年7月)

 海賊の会の記録は今日、満足に残されていない。早稲田大学文化資源データべース「演劇上演記録データベース」でも、まったくヒットしない。

「海賊の会」は短かったけれど、僕にとって忘れられないです。今では幻の集団で、亡くなられた方も多い。生きていれば、いろいろと思い出ばなしもできますけどね……。この会のことが少しでも記録に残せたら、関係した人たちはみんな喜びますよ。
(第6回聞き取り)

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「海賊の会」の終焉とともに、嶋田さんが市村俊幸と仕事をする機会は、この先しばらくなくなった。
 1965(昭和40)年前後、嶋田さんはフジテレビドラマの演出で多忙である。1時間ドラマ枠の「シオノギテレビ劇場」「信託水曜劇場」を任され、高峰三枝子、司葉子、佐久間良子、山本富士子とそうそうたる大物女優の主演ドラマを演出した。


『週刊TVガイド』1965(昭和40)年2月26日号。表紙は島田親一演出『シオノギテレビ劇場 佐久間良子アワー 北野踊り』(フジテレビ、1965年2月12~3月5日放送)

 なにより因縁深かったのが、新国劇ユニット出演のドラマを5本手がけたことである。その皮切りとなる『一千万人の劇場 おやじの勲章』(1964年9月2日放送)では、島田正吾と辰巳柳太郎が共演した。かつての文芸部青年・檜眞一郎は、壮年のテレビディレクター・島田親一となり、島田と辰巳を演出する側となった。


島田親一演出『一千万人の劇場 おやじの勲章』(フジテレビ、1964年9月2日放送)予告用手書きテロップ

 この時期、忙しいテレビの仕事のかたわら、精力的に芝居の演出もこなした。
 1966(昭和41)年3月には、松木ひろしと組んで、劇団テアトル・エコー第26回公演『オレンジ色の罪状』(3幕)を上演(有楽町・第一生命ホール、3月10~16日)。テアトル・エコーの10周年記念連続公演の第2弾で、主演の納谷悟朗、装置の松下朗、音楽の渡辺岳夫らは、「現代劇場」「海賊の会」の仲間である。


劇団テアトル・エコー『エコー・ド・エコー』第53号(1966年2月)、第26回公演『オレンジ色の罪状』プログラム(1966年3月)

 すごいのは『オレンジ色の罪状』とおなじ3月に、歌舞伎座の「橋幸夫特別公演」(3月1~28日)に参加し、商業演劇の舞台を演出したことである。
 手がけたのは、夜の部の出し物『江戸っ娘気質(えどっこかたぎ)』(4場)。有高扶桑の人情劇で、橋幸夫は出ておらず、倍賞千恵子の主演、曾我廼家明蝶、岩井半四郎、藤代佳子らの共演である。


「橋幸夫特別公演」パンフレット(歌舞伎座、1966年3月)

 翌1967(昭和42)年夏、嶋田さんは編成部の企画キャップとして異動、8年にわたるドラマ演出の現場に別れを告げる。この年の5月には「フジテレビ労働組合」が発足し、組合の副委員長に担ぎ上げられた。
 1968(昭和43)年7月には、新国劇とフジテレビが業務提携して株式会社新国劇が発足した。不振にあえぐ新国劇を、フジテレビが支援するかたちとなり、新国劇に縁のある嶋田さんが常務取締役となった(同年8月、後継者と目された緒形拳が新国劇を退団した)。
 以降の嶋田さんのキャリアは激動かつ多彩である。フジテレビの番組編成、新国劇の立て直し、映画のプロデュース(新国劇映画『暁の挑戦』1971年5月22日公開)、新国劇とフジの提携解消とその後始末まで、殺人的スケジュールをこなす。フジ・サンケイグループを束ねる鹿内信隆の思惑による、フジテレビ制作部門の外部プロダクション化の渦にも巻き込まれていく。
 いっぽうの市村俊幸は、糖尿病で体調を崩したこともあり、メディアでの露出が減っていく。「ブーちゃん」の由来となった、まるまるとした体型と表情は消え、痩せ、愛嬌のある持ち味は失われた。
 1970(昭和45)年前後の時代は、映画やテレビドラマにときどき出演するくらいだった。八代目松本幸四郎版『鬼平犯科帳』の「妖盗葵小僧」(NET、1969年12月23日放送)で演じた老盗の市兵衛のように、凄みのある芝居にも魅力があった。


『鬼平犯科帳』第12回「妖盗葵小僧」(NET、1969年12月23日放送)より、市村俊幸の市兵衛

 当時の週刊誌で「あの人は今?」のような扱いも受けたけれど、そこには市村自身の考えもあった。再婚した夫人のサポートを受けながら、新宿・歌舞伎町にピアノバー「BOO'S(ブーズ)」を開いたのである。ちいさな店内でピアノを弾き、客席を魅了した。
 
 嶋田さんが、ふたたび市村と仕事をしたのは、昭和50年代に入ってから。フジテレビの外部プロダクション「新制作株式会社」取締役の時代である。舞台から遠ざかっていた市村は、1976(昭和51)年1月、新劇団協議会公演『かくも長き不在』(紀伊國屋ホール、1月15~28日)でカムバック。翌年ふたりは再会し、「海賊の会」以来久しぶりに舞台の仕事をした。
 1977年(昭和52)年3月、財団法人民主音楽協会(民音)主催の民音浪漫劇場第2回公演『からすなぜ啼くの~さすらいの詩人・野口雨情』が上演された。新制作の制作、嶋田さんの演出で、林秀彦の作・脚本、渡辺岳夫の音楽、主人公の野口雨情を緒形拳が演じた。

民音浪漫劇場第2回公演『からすなぜ啼くの~さすらいの詩人・野口雨情』パンフレット(1977年3月)

 『からすなぜ啼くの』は、いわゆるゴーストものの一種である。かつて自分のつくった詩や歌が、どう受けつがれているのか。あの世で1日だけ許可をもらい、野口雨情(緒形拳)が地上に舞い降りる。
 すっかり様変わりした東京に、雨情は困惑を隠せない。そんなとき、とあるディスコで、結婚を明後日に控えた陽子(沢田亜矢子)と出会う。陽子は、男手ひとつで育ててくれた父・志村(市村俊幸)を残して結婚することに不安を感じていた。雨情に諭され、陽子は結婚を決意する。結婚式の当日、雨情はみずからの歌と再会して……というストーリ-である。

市村俊幸と沢田亜矢子は現代の登場人物で、そこに過去の人・野口雨情が舞台に出てくるわけ。テレビ屋的な発想ですが、ひねった構成なんです。なかなかよかったですよ。
(第12回聞き取り)


『からすなぜ啼くの~さすらいの詩人・野口雨情』の舞台。左より、市村俊幸、沢田亜矢子、三井恒、背後に緒形拳(民主音楽協会『MINON』1977年5月号)

 嶋田さんにとってこの芝居は、新国劇を退団し、10年近く絶交状態にあった緒形拳と和解するきっかけとなった。いっぽうで緒形が売れっ子のため、代役で稽古をこなすなど、一筋縄ではいかない現場となる。
 公演は3月7・8日の東京・厚生年金大ホールを皮切りに、北海道、東北、関東、北陸、中部、近畿、中国、九州を巡り、4月20日の八幡市民会館で千秋楽を迎えた。全36公演におよぶ長丁場である。その巡業中、緒形が相手役の女優にクレームをつけ、役が交代するトラブルが起きた。

 テレビや映画なら、現場でいっちょ上がり、です。でも、芝居は無理。全国30数か所で上演しますから、チームワークがひじょうに問われます。たいがい巡業しているうちに、仲たがいしたりします。緒形にも、わがままなところがあって、相手役の交代はちょっと事件でした。
 ほかにも仕事があるので、僕がすべての公演に同行することはできません。顔を出したのは、初日と中日と千秋楽くらいです。そこで、べテランのブーちゃんに座組の軸になってもらい、内部のまとめ役を期待しました。苦労人だし、僕のことも『三太物語』以来、いやというほど知っていますから。
(第12回聞き取り)

 ふたたび市村と仕事をするようになった嶋田さんには、もうひとつの恩がある。
 1980(昭和55)年7月13日、秋田市文化会館落成記念「『外野の会』ふるさとを謳う」(同大ホール)が催された。「秋田・外野の会」は、秋田出身の俳優、劇作家、文化人による親睦グループで、秋田にゆかりの深い嶋田さんが世話役をつとめた。


「『外野の会』ふるさとを謳う」プログラム(秋田市文化会館大ホール、1980年7月13日)と嶋田親一演出台本(1980年)

 嶋田さんは、秋田出身の劇作家で早稲田の先輩にあたる野口達二とふたりで、構成と演出を担当した。全6景からなる構成は盛りだくさん。和洋大合奏、秋田民謡、演劇、トーク、殺陣、シャンソンと、あらゆる角度から「ふるさとを謳う」趣向だ。出演者も豪華で、俳優では大坂志郎、浅利香津代、佐竹明夫、福田豊土、山谷初男らが出た。いずれも「秋田・外野の会」のメンバーである。
 この公演に、秋田出身ではない市村俊幸が、特別ゲストとして登場した。嶋田さんの演出台本と自筆原稿によれば、大坂志郎や山谷初男と寸劇をしつつ、第5景「シャンソン『秋田の巴里祭!』」ではピアノ演奏を披露した。その合間にも、大坂と丁々発止のやりとりを見せている。映像や写真は手元にないけれど、台本だけでも、楽しそうな当日の様子が伝わってくる。


嶋田親一自筆台本(「『外野の会』ふるさとを謳う」)

 一度は、芸能界の第一線から姿を消した市村だったが、このころはミュージカルの渋い脇役として、演劇界で注目を集めていた。とくにジュール・ルナール原作の音楽劇『にんじん』(日生劇場、1979年8月2~26日)が評判となる。
 夏休みの親子向けミュージカルとして企画され、山川啓介の脚本・作詞、山本直純の音楽、福田善之の演出である。大竹しのぶのフランソワ、大塚道子の母、久米明の父、沢たまきの女中というキャストで、市村はフランソワを見守る「にんじん」の名づけ親にふんし、好評を博す。
 大竹と市村が劇中で歌った『空はなんでも知っている』(山川啓介作詞、山本直純作曲)は、LP盤『にんじん』(ビクター、1979年)にも収録された。市村が歌舞伎町で営むピアノバー「BOO‘S」にも、大竹は足を運んでいる。


音楽劇『にんじん』の舞台。左より喜志屋文、市村俊幸、大竹しのぶ(『にんじん』ビクター、1979年)

 ピアニストとして活動し、ミュージカルの世界でも注目を集める市村が、秋田の「外野の会」公演に出演したことは、嶋田さんにとって大きな喜びとなる。その前には、民音浪漫劇場の『からすなぜ啼くの』でも協力してもらった。
 「海賊の会」以来のつながりを、ふたたびもつことができた。白ひげをたくわえるその姿に、かつてのブーちゃんの面影はないものの、寄る年波が年輪となり、味になった。
 その活躍は、さらに続く。1981(昭和56)年9月には、アレクセイ・アルブーゾフ原作、和田豊訳・演出『古いアルバート街の物語』(サンシャイン劇場、9月3~27日)に出演した。
 モスクワの一角で暮らす老人形師・バリャースニコフ(二代目尾上松緑)の恋を描いた舞台で、ヒロインのヴィクトーシャに大竹しのぶ、バリャースニコフの助手でともにヴィクトーシャに想いを寄せるブローヒン(クリストフォール・ブロヒン)に市村俊幸、という配役である。


『古いアルバート街の物語』チラシ(サンシャイン劇場、1981年9月)

 演劇評論家のほんち・えいき(本地盈輝)は、こう評す。《誇張しない、構えのない、飄々とした、なんともいえぬ、いい味の老人を演じて、このクリストフォールは、市村俊幸の晩年を飾る、まさに絶品であった》(芸能学会編『芸能』1985年8月号)。
 『古いアルバート街の物語』の翌年、1982(昭和57)年3月、嶋田さんは長くつとめたフジテレビを退職した。その後、テレビ・演劇・映画・音楽・イベントと幅広く手がけるプロデュース会社「新日本制作株式会社」の代表となる。
 「新日本制作株式会社 芸能本部」のリーフレット(宣材)には、淡路恵子、石橋正次、伊吹剛、佐藤京一、眞帆しぶきら13名の所属俳優のなかに、市村俊幸の名と写真がある。


市村俊幸(『新日本制作株式会社 芸能本部』リーフレット、1982年)

 50代を迎えた嶋田さんにとって、新日本制作の立ち上げは独立の第一歩、第二の人生の始まりとなる。新日本制作への所属は、その船出に市村が協力したともいえるし、市村を金銭的にサポートしたともいえる。
 市村俊幸と嶋田親一、ふたりの友情の証となるレコードがある。1982(昭和57)年10月に発売された『My Life My Piano』(定価4,000円)である。発売元はアポロン音楽工業、制作は新日本制作、企画は市村勝子(市村俊幸夫人)、プロデューサーは嶋田親一である。


『My Life My Piano』(アポロン音楽工業、1982年10月)ジャケット表 


『My Life My Piano』ジャケット裏

 『My Life My Piano』はLP2枚組(AM40-4001、AM40-4002)で、全4部構成になっている。収録曲は以下のとおり。

AM40-4001
◎SlDE A
1.スターダスト
2.バーモントの月~私のものはあなたのもの~こよい踊ろう~ドリーム
3.インディアン・ラブ・コール
4.トウ ヤング
5.嘘は罪
6.恋人よ我に帰れ~ムーン・グロー
7.センチになって
8.セプテンバー・ソング~九月の雨
9.ジェラシー
◎SIDE B
1.魅惑のワルツ
2.慕情
3.トウ・ラブ・アゲイン
4.ひき潮
5.白い恋人たち
6.マイ ウエイ
7.鈴懸の径~水色のワルツ
8.私はこの街を愛している
AM40-4002
◎SIDE A
1.空は何でも知っている
2.夕焼小焼~七つの子~赤とんぼ~故郷~里の秋~シャボン玉
3.靴が鳴る~鳩~ぞうさん~おもちゃのマーチ~どんぐりころころ~あめふり
4.浜千鳥~母さんのうた~花嫁人形~月の砂漠~赤い靴~青い目の人形~雨
5.さくら~お江戸日本橋~五ッ木の子守唄~荒城の月~宵待草
6.小さい秋見つけた
◎SIDE B
1.枯葉
2.雪が降る
3.セ・シ・ボン
4.ばら色の人生
5.小さな花
6.ムーランルージュ
7.愛の讃歌

 『My Life My Piano』の1枚目は、ジャズのスタンダードナンバーや洋楽ポピュラーで構成され、ラストの『私はこの街を愛している』(矢田茂作詞、市村俊幸作詞)を市村が唄う。『私はこの街を愛している』の前に、市村の軽快なおしゃべりが吹き込まれている。

 やあ、僕のピアノ、お気に召していただけましたか。
 日本(にっぽん)が戦争に負けたことで、ジャズピアノを弾いて生きてきた時代が、実は、僕にもあったんですよ。アメリカの兵隊さんが日本に進駐してきたとき、僕の大好きなジャズがドドッと日本に入ってきて、そう、今から35年前かな。ジャズブームの到来となったわけです。(略)
 このアルバム一枚目の最後に、僕が矢田茂君とムーラン・ルージュでやっていたころのミュージカルテーマで、いちばん強く思い出に残っている矢田茂君の詩で、僕の作曲、森繁久彌君の唄った曲、『私はこの街を愛している』、どうぞ、聴いてください。
(『My Life My Piano』)

 2枚目のA面は、日本の唱歌や童謡メドレーである。1曲目に、評判をとったミュージカル『にんじん』のナンバーで、市村の語りと唄による『空は何でも知っている』をおさめた。B面はシャンソンのパートで、おなじみの名曲がならぶ。
 ジャケットの帯には《わが青春、わがピアノ 市村俊幸ピアノメッセージ》とある。市村の俳優の仕事は映画やテレビで味わえるものの、キャリアのベースとなるピアノについては、CDやサブスクリプションでもあまり味わえない。その意味でも、貴重な一枚である。


市村俊幸(『My Life My Piano』ライナーノーツ)

 そもそも『My Life My Piano』が、市村俊幸のファーストアルバムであった。嶋田さんの著書『人と会うは幸せ!』には、《私は恩返しに、彼の初のレコード、ピアノ演奏集製作の片棒を担いだ》とある。ライナーノーツに市村は、こう言葉を寄せる。

 私なりの音に対する考え方は、常に口にしている事ですか、自分の弾くピアノはピアニストの弾くものではない!役者の弾くピアノだ!わかり易く云いなおせば、私のピアノは素人だと云う意味です。たからアマならアマの良さがある筈だし、特徴もある筈だ!その気持ちで毎日下手なピアノをあえて弾いています。
 この度のレコード制作に関しても、技術的には満足いかないので大いに悩みましたが、周囲の親切な皆さんのススメもあり、私も自分の個性や曲の表現方法にある程度の納得がいくならば、私の長い一生のたった一度の記念に、レコードとして残しておくのも……と考えて作る事にしました。私の好きな曲ばかりを無計画に選んで録(い)れてみました。(後略)
(市村俊幸「思いつくまま」『My Life My Piano』)

 市村がみずからの演奏を《素人》と評したことは、色川武大も『なつかしい芸人たち』で触れている。そのうえで『My Life My Piano』について、《年輪が造った本物の優しさが満ちているレコードだった》と書いた。
 さまざまな厚意に導かれ、このレコードが出たことは、ライナーノーツを読むとよくわかる。二代目尾上松緑、有島一郎、倍賞千恵子、大竹しのぶ、北村英治(クラリネット奏者)、矢田茂(演出家)、菅野光亮(作曲家)、平野快次(元ジャズベーシスト)と俳優・音楽仲間がメッセージを寄せた。いずれも愛情のこもったものだが、大竹の一文がことのほか心に沁みた。

(前略)三年前の夏、初めてブーズへ行き、市村さんのピアノを聞きました。大好きな童謡のメドレーでした。シャボン玉、雨、赤い靴、月の砂漠、荒城の月――。涙が次から次へと溢れ出て、押さえることができませんでした。
 神様のいるところへ連れていってもらったような、神様のいる所と心が通じることができたような気がしたのです。私の前に大きな橋がかかり、私の大好きだった父がみえたり そして、幼い頃の私に戻れるような気がしたのです。気負うことなく、静かに、そして、やさしく、実にやさしい顔でピアノを弾いてらっしゃるブーちゃん先生のお顔がとても好きです。
(大竹しのぶ「神様のいるところ」『My Life My Piano』」


「My Life My Piano 市村俊幸さんを励ます夕べ」(新宿・京王プラザホテル、1982年10月13日)。市村俊幸(左)と大竹しのぶ(右)

 『My Life My Piano』の発売を記念して、「My Life My Piano 市村俊幸さんを励ます夕べ」が催された。1982(昭和57)年10月13日の夜、会場は新宿の京王プラザホテル南館5階エミネンスホール、会費は『My Life My Piano』謹呈込みで12,000円だった。
 嶋田さんが幹事のひとりとなり、「“市村俊幸さんを励ます夕べ”実行委員会」は、「新日本制作株式会社気付」になっている。案内状には発起人67名の名前とともに、こう記されている。

 われらがブーちゃんこと市村俊幸さんが、LPレコードを出すことになりました。しかも意外なことに、これが初めてのLPレコードなのです
 「最初で最後」とシャイなご本人は照れていますが、ブーちゃんファンの私たちとしては、これは見逃すわけにまいりません。
 そこで――
 これをきっかけに、ブーちゃんのお尻を叩き今後も大いに活躍してもらおうとこの「励ますタベ」を企画しました。
 18歳の時から今日まで、ミュージシャンとして俳優として私たちを楽しませてくれている市村さん――。その芸と人柄を愛するすべての方々にお集まりいただいて、ご本人とピアノを肴に飲みかつ語る素敵な一夕にしたいと思います。
 皆様おさそい合せの上ご出席下さいますようお願いいたします。
(「My Life My Piano 市村俊幸さんを励ます夕べ」案内状)


「My Life My Piano 市村俊幸さんを励ます夕べ」案内状(1982年)

 案内状とは別に、2枚の添え状が残る。一通は発起人に宛てたもの、もう一通は発起人以外に宛てたもので、いずれも嶋田さんの自筆である(読みやすい手書きの文字が懐かしい)。世話人気質だった嶋田さんが、準備に奔走する姿が目に浮かぶ。


嶋田親一自筆「同・夕べ」添え状(1982年)

 嶋田家の書斎では、「市村俊幸さんを励ます夕べ」の写真を5枚見つけた。ピアノとともにうれしそうな市村のほか、大竹しのぶ、沢田亜矢子、司会のフジテレビアナウンサー・露木茂の姿がある。
 夕べは盛況だったのだろう。著書『人と会うは幸せ!』に、《ブーちゃん夫妻の幸せな笑顔で、私も永年の荷物が軽くなったような気がした》と嶋田さんが書く。


「My Life My Piano 市村俊幸さんを励ます夕べ」でピアノを弾く市村俊幸


「同・夕べ」。左より沢田亜矢子、露木茂、市村俊幸

 『My Life My Piano』の発売と「市村俊幸さんを励ます夕べ」から、わずか10か月後。あらたな映画出演やリサイタルの企画が持ちあがるなか、ファーストアルバムを置き土産に、ブーちゃんは逝く。
 1983(昭和58)年8月9日、市村俊幸永眠、享年62。


市村俊幸(「My Life My Piano 市村俊幸さんを励ます夕べ」)

 『My Life My Piano』を入手したのは、今年7月9日に嶋田さんが亡くなったあとのことである。
 数千円の安もののプレーヤーでかけてみた。よきもの、である。1枚目の「マイ ウエイ」は、ブーちゃんへの葬送曲に思えて仕方がない(そういえば色川武大も、『なつかしい芸人たち』に「ブーちゃんマイウェイ」と見出しをつけていた)。
 もっと早く手に入れて、いっしょに聴きたかった。本当にいいお仕事をされましたね、の言葉を添えて……。
 
 (つづく)


*印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者所蔵
(無断転載はご遠慮ください)