伊吹總太朗と仲間の会 初公演『大菩薩峠』パンフレット(1987年4月)
テレビ・ラジオプロデューサーの澤田隆治氏が亡くなった(2021年5月16日死去、享年88)。“笑ビジネス”の巨星墜つ、の感がある。
1985(昭和60)年6月、新宿3丁目の国際会館5階に「コメディシアター」がオープンした。ストリップ劇場「新宿ミュージックホール」を改装、200ほどの客席を有する「笑いの実験劇場」で、プロデュースしたのは澤田である。そこにはかつて、洒落た喜劇で人気を博した「ムーランルージュ新宿座」があった。
1987(昭和62)年4月16日から18日までの3日間、ここでユニークな公演がおこなわれた。「伊吹總太朗と仲間の会」初公演『大菩薩峠』。幾度となく舞台、映画、テレビドラマになった中里介山、不朽の名作である。
演出と殺陣と主演の三役を兼ねたのが、新国劇出身の伊吹聰太朗(いぶき・そうたろう/1928~1998)である。公演パンフレットの表紙にあしらった大菩薩峠と机竜之介の墨絵も、伊吹みずから描いた。
聰太朗、聡太朗、總太朗、総太朗などの名をもち、テレビ時代劇が好きな人には馴染みぶかい悪役だろう。吊り上った眉と鋭い眼光、不適な笑みと野太い声、「邪剣」「魔剣」と呼ぶべき太刀さばき。女だろうと、年寄りだろうと容赦しない。
『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(TBS、1973年9月~74年3月)では、由井正雪(成田三樹夫)の門弟・林戸右衛門を演じた。軍学者で幕府転覆をたくらむ正雪は、自分で手を汚さず、面倒な実務は林が引き受ける。火付け、人斬り、かどわかし……。
その最終回。たくらみが露見し、腹をかき切った正雪を横目に、林は役人らを相手に大暴れ。壮絶な最期を遂げる。
『江戸を斬る 梓右近隠密帳』最終回「対決」(TBS、1974年3月25日放送)より伊吹聰太朗の林戸右衛門、右は成田三樹夫の由井正雪
伊吹は居合の名手であり、豪快でいて美しい所作を身につけていたので、殺陣には説得力があった。黒幕や悪徳商人を演じることもあったけれど、立ち回りのない役は物足りなかった。剣術指南役、用心棒、刺客、剣客と“デキる男”に尽きる。
新宿のコメディシアターで上演された『大菩薩峠』は、伊吹が座頭となった自主公演である。その演出を、師である島田正吾に依頼した。しかし島田は、スケジュールの都合で引き受けることができず、伊吹が演出も担った(台本もおそらく伊吹が手がけている)。
客席200余の劇場とはいえ、大作である。場割りは、予曲「大菩薩峠」に始まり、三幕九場からなる本篇があり、終曲「大菩薩峠」で幕となる。
伊吹は、机竜之介と宿敵の島田虎之助の二役を演じた。長く在籍した新国劇では、二枚看板の辰巳柳太郎と島田正吾がそれぞれ持ち役とした。さかのぼれば新国劇の生みの親、澤田正二郎の十八番であり、一世を風靡した名作である。
さて、この度、永年の夢でございました「大菩薩峠」を上演させて頂くことになりましたが、私も新国劇に入団し役者として出発して以来三十六年になりました。しかしながら唯々年をとったのみでお恥かしい私でございますが、いろいろ多くの方々のお力添えで上演出来ます事は、此の上もない光栄であり嬉こびでございます、しかい烏滸がましい事と存じますが、私の師・島田正吾のすすめで演出おもいたしました。出来映えはどうか解りませんが、私なりに勢一ぱい努力いたした積りでございます。どうぞ御笑覧下さいませ。(原文ママ)
(伊吹總太朗「御挨拶」伊吹總太朗と仲間の会『大菩薩峠』パンフレット、1987年4月)
伊吹には自叙伝、エッセイ集といった単著がない。全16ページのパンフレットは貴重な文献であり、その役者人生が投影されている。これは、映画『国際秘密警察 虎の牙』(東宝、1964年)やテレビ『鬼平犯科帳』を手がけた脚本家・安藤日出男の旧蔵品。見つけたときはうれしかった。安藤が新国劇で手がけた演目に、伊吹は出演している。この自主公演にも、足を運んだのだろう。
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1928(昭和3)年、東京生まれ、北海道育ち。親交のあった津田類(演劇評論家)は、エッセイ「總ちゃんのこと」(前掲書)に人となりを綴っている。《どちらかというと人づきあいの下手な總ちゃん(略)ま正直で世渡りの下手な彼》。自主公演のパンフレットに掲げられた顔写真も、悪人の面構えではなく、やさしげだ(本ブログ冒頭に掲載)。
島田正吾にあこがれ、新国劇に入団したのは1952(昭和27)年のこと。下積みからのスタートで、すぐに役がもらえるわけではない。役付きで名前が出たのは、1956(昭和31)年1月の明治座(東京)公演からである。
入団6年目のころ(『新國劇40周年記念』新国劇、1957年10月)
殺陣が生命の新国劇にあって伊吹は、東大二朗、大山克巳とともに「新国劇剣究会」のリーダーとなり、“剣究”を怠らなかった。その成果のひとつに、1963(昭和38)年に上演された『タテ 天地(あまつち)』がある。お家芸『殺陣 田村』につづく新たな新国劇の殺陣で、長谷川伸の発案で生まれた。若手中心の座組で、シン(主役)に抜擢された伊吹の姿が、『週刊朝日』のグラビアを大きく飾っている。
八双のかまえ。「きられ五年」といって、一人前の立ちまわりができるには十年かかる。するどい気迫が感じられる一瞬。
(殺陣「天地」『週刊朝日』1963年6月21日号)
1966(昭和41)年6月の明治座公演では、全演目の作・演出を手がけた劇作家の北條秀司が、新しい新国劇の殺陣を創り上げることを提案。伊吹が殺陣を手がけた『雪の夜の殺陣』(四幕)が、夜の部のラストに上演された。
夜の部はガラリと変わった洋楽で行くことにした。これはかねがね伊吹と研究して来たベートーベンの交響曲を借りた試みだった。全員があっと歓声をあげた。洋楽マニヤの伊吹はすでに第五や第九を基本にした編曲を手製していたから、小躍りして狂喜した。
音と光線だけの単色舞台に、リズムを持った雪だけを降らせ、小川昇さんのライトで清純感を出してもらい、一切の躍動を伊吹に任せてやった。若い座員の綜合昂奮で、それは観客の心を射た。今でもあの美感はわすれられない。
(北條秀司『演劇太平記(五)』その227「壬生野の恋狸」毎日新聞社、1990年1月)
北條は、殺陣師としての伊吹を高く評価した。1970(昭和45)年11月の国立劇場公演『大老』では、北條が作・演出をつとめ、伊吹が殺陣を担当した。のべ6時間、130人以上の俳優が出演する大舞台で、大抜擢と書いていい。
のちの自主公演『大菩薩峠』でも、「予曲」「終曲」と名づけた場があり、伊吹の洋楽好きがうかがえる。巧みな殺陣への創意工夫を、親交のあった津田類が明かす。
忍者の役を演じたとき、武器を持てない状態におかれながら、いざ戦闘場面となるとふところにしのばせていた武器を出し、あっという間に敵を倒した。その武器というのがカーラジオのアンテナだった。縮めてしのばせ、素早く伸ばして相手を倒し、また縮める。その手際のよさで観客には誰れひとりアンテナと気づかせない。こういう工夫と妙技は總ちゃんの独壇場だった
(津田類「總ちゃんのこと」前掲書)
新国劇『荒木又右衛門』(明治座、1964年5月)。左より伊吹聰太朗の武右衛門、宮本曠二郎の孫右衛門、宮島誠の桜井半兵衛、辰巳柳太郎の荒木又右衛門(『新国劇五十年』中林出版、1967年7月)
殺陣師としての活躍は、新国劇だけではない。1965(昭和40)年8月の歌舞伎座「吉例三波春夫特別公演」では、昼と夜それぞれのショータイムに、伊吹が殺陣をつけた。読売新聞の合評座談会には、《新国劇の伊吹総太朗がつけた“たて(殺陣)”が、三波の舞台を引き立たせた》(8月12日付夕刊)と触れられている。
歌手で俳優の荒木一郎も、殺陣師としての伊吹を回想する。荒木は剣の達人、塚原卜伝をテレビで演じ、伊吹が指導した(『日本剣客伝』第4話「塚原卜伝」NET、1968年6月~7月)。《伊吹(聰太朗)さんっていう殺陣師とすぐ仲良くなって、いろんな話をして「じゃあ、今度こういうのやってみない?」っていう感じで決めていきました》(荒木一郎『まわり舞台の上で 荒木一郎』文遊社、2016年10月)。
新国劇での殺陣を記録したフィルムに、『剣』最終回「春夏秋冬」(日本テレビ、1968年2月26日放送)がある。伊吹は、東大二朗とともに殺陣を担当、「殺陣 田村」のパートでは居合を披露した。
『剣』最終回「春夏秋冬」(日本テレビ、1968年2月26日放送)より『殺陣 田村』、伊吹聰太朗の居合
洋楽に精通した人だけあって、所作にもスマートでモダンな色彩がある。ステレオタイプな勧善懲悪時代劇では、なかなかお目にかかれない演出だ。
昭和40年代、新国劇は斜陽期を迎える。島田と辰巳につづくスターが輩出できず、後継者として目された緒形拳も、1968(昭和43)年に退団してしまった。
新国劇が冬の時代、伊吹は若手の座員数人を従え、赤坂のナイトクラブに出演。『殺陣 田村』を上演し、評判を呼んだ。しかし、彼もまた古巣から旅立っていく。1977(昭和52)年2月の御園座公演が、伊吹にとって最後の新国劇公演となる。劇団創立60周年、伊吹が入団してから四半世紀の節目だった。
新国劇に別れを告げた伊吹は、新天地へ向かった。意外にもそこは、藤山寛美率いる松竹新喜劇。心機一転、芸名を「伊吹聡吾朗」にあらためた。
新国劇の舞台やテレビ時代劇の悪役に見覚えのある人には、いまひとつイメージがつかみにくい。津田類は、その舞台に戸惑ったひとりである。
背広を着、黒の手さげかばんを抱えた、外交員などで登場、慣れぬ大阪弁をつかっている彼は、正直いって痛々しかった。舞台を見ていて、もうかんべんしてくれという気持だった。
(津田類「總ちゃんのこと」)
伊吹聡吾朗のころ(『7月松竹新喜劇 笑いと涙の傑作集!!』新橋演舞場、1978年7月)
皮肉にも「伊吹聡吾朗」として舞台に立つ姿は、多くの映像に記録されている。
DVD化された舞台のひとつに、1978(昭和53)年8月の新橋演舞場公演『はなの六兵衛』がある。藩主の有馬玄蕃頭(小島慶四郎)の側用人・田辺右近役で、花道の出とひっこみ、それぞれに見せ場がある。セリフも多く、決して役は小さくない。
松竹新喜劇『はなの六兵衛』(新橋演舞場、1978年8月)より伊吹聰太朗(聡吾朗)の田辺右近、右は藤山寛美の大和の百姓 六兵衛
松竹新喜劇だからといって、笑いを見せるわけではない。側用人田辺は、悪役でなく、主君思いの実直な家来である。藤山寛美と小島慶四郎、客席を沸かせるふたりの前で、生まじめに側用人を演じる姿がおかしい。
いっぽうで伊吹のニンではない演目も少なくない。人情劇『裏露地』で演じた宝飾商支配人・前川は、津田が書く「もうかんべんしてくれ」といえる役柄ではないか。
なぜ、畑違いに思える劇団に移ったのか。京都南座の楽屋を訪ねた吉岡範明(演劇評論家)は、その真意を伊吹に訊ねた。
寛美の誘いあってのことだったが、喜劇を勉強して重厚な演技から軽妙な芝居をこなせる芸域のひろい役者(ひと)になるためというのが確か、その時の答えだったと覚えている。あの時、その心掛けには頭の下がる思いがした。
(吉岡範明「伊吹聰太朗」『松平健 特別公演』明治座、1998年7月)
伊吹にとってそこは、居心地のいい場所だったのか。在籍当時の松竹新喜劇は、悪くいえば寛美の独裁体制が激しさを増すころだった。
円満なかたちか、後味は悪かったのか、いずれにせよ伊吹は5年ほどで松竹新喜劇から去った。この前後、テレビ時代劇にはずっと出ている。
それでも気持ちは、舞台にあったのだろう。1983(昭和58)年10月の帝国劇場(東京)特別公演『孤愁の岸』では、郷士の渡辺勘左衛門を演じ、擬斗(殺陣)も手がけた。宝暦治水工事で多大な犠牲を強いられた薩摩藩士たち、その壮烈な悲劇大作である。津田類は、《ひさしぶりに總ちゃんらしい舞台姿に接した思いだった》(「總ちゃんのこと」)とふりかえる。
伊吹は2年後の再演にも登板し、笠松郡代の青木治郎九郎を演じた。初演にくらべて見せ場が増え、憎まれ役の公儀役人とはいえ、いい役になった。
東宝・御園座提携公演『孤愁の岸』より伊吹聰太朗の青木治郎九郎(御園座、1985年9月)
時代劇のステージに帰ってきた伊吹は、テレビの仕事をつづけながら、八代亜紀の座長公演などに立った。
迎えた1987(昭和62)年4月、満を持しての自主公演『大菩薩峠』が幕を開ける。島田正吾にあこがれて新国劇入りしてから、35年が経っていた。
「伊吹總太朗と仲間の会」と銘打つだけあって、友人や仲間は協力を惜しまない。新国劇の舞台を手がけた橋場清が音楽を担当、新国劇の役者仲間だった森章二が友情出演した。『孤愁の岸』でともに仕事をした演出家の津村健二は、パンフレットにこう記した。
長い芸歴と、劇団新国劇にあって磨いた剣の道を、この舞台で思う存分ぶちまけ、叩きつけてアバレてほしい。
長い芸歴と云うことは決して、若くはないと云うことでもある。それは裏返せば失敗はもう許されないという厳しさおも同時に背負っていることでもある……余計なことでもあるがひと言。
今回は主演を兼ねて演出にも取り組むという、殺陣師というスタッフ側の目も持ち合せているのであるから、鬼に金棒である。
さあ、アバレロ!金棒を剣に代えて―。
(津村健二「アバレロ伊吹!」)
よき理解者である津田類は、商業演劇の舞台であまり役に恵まれないことを惜しみつつ、エールを送った。
ま正直で世渡りの下手な彼のこと、素晴しい殺陣の技術と得意な雰囲気を持つ役者でありながら、それを発揮する場に恵まれない。残念で仕方がない。が、こんどはその技術と蓄積した芸をたっぷりと発揮できるだろう。伊吹總太朗の机竜之介、聞いただけでもぞくぞくする。がんばってほしい。
(津田類「總ちゃんのこと」)
伊吹聰太朗の机竜之介、たしかにファンであればゾクゾクする趣向だろう。
師じきじきの演出は実現しなかったものの、パンフレットには島田正吾が一文を寄せた。覚悟を決め、自主公演に踏み切った伊吹にとって、なによりのはなむけである。
永年劇団員として舞台は見て来ているし当人も出演して、大菩薩峠の演出・演技は良く心得ている事でもあり、ましてや剣で知られた伊吹君だけに其の点新しい工夫も期待出来ると僕はそう思って「いっそ、演出もやったらどうか」とすゝめて見たものだった。彼も僕の意をくんで演出・主演を決意したらしい。兎にも角にも初めての自主公演で永年の夢を果すことだし、切に其の成果を期待してやまない、健闘を祈る。
(島田正吾「大菩薩峠上演にあたって」)
伊吹はどちらかといえば“脇の人”だった。自主公演だったからこそ、この大役を演じることができた。喜びと緊張に満ちあふれたであろう、その胸中を想う。
わずか3日間の自主公演、出来栄えはどうだったのだろう。知るかぎりでは、劇評に大きく取り上げられたり、テレビで劇場中継されたりしていない。今となっては夢まぼろしのステージとなった。
この自主公演から5か月後、1987(昭和62)年9月、新国劇は解散し、その歴史に幕を閉じた。それでも伊吹のキャリアと新国劇の血脈は途絶えない。
1994(平成6)年3月、新橋演舞場の特別公演『大菩薩峠』では、島田正吾、清水彰、香川桂子、外崎恵美子、緒形拳ら、新国劇のなつかしい顔がふたたび集った。伊吹は土方歳三に扮し、島田虎之助役の島田と共演する場もあった(島田が演出を手がけた)。
新橋演舞場3月特別公演『大菩薩峠』広告(『演劇界』1994年3月号、演劇出版社)
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1998(平成10)年7月2日、明治座の「松平健 特別公演」が初日を迎えた。
前半の芝居パートは、『吉宗評判記 暴れん坊将軍―吉宗の恋―』(二幕)。テレビシリーズで常連のように悪役を演じた伊吹は、その舞台に立った。役どころは、水戸家乗っ取りを企む江戸家老・三浦伊賀守(川合伸旺)の右腕、佐久間徹右衛門である。まさに伊吹聰太朗にこそふさわしい。
松平健 特別公演『吉宗評判記 暴れん坊将軍―吉宗の恋―』より伊吹聰太朗の佐久間徹右衛門(明治座、1998年7月)
後半は、がらっと世界が一変してのショータイム「'98/唄う絵草紙」となる。パンフレットの配役表に伊吹の名があり、フィナーレの『マツケンサンバ・パートⅡ』にも出ている。
千穐楽は7月27日、それからまもない8月5日、伊吹聰太朗は名古屋の病院で亡くなった。享年69。新聞に載った訃報を、うっすら記憶している。ベテランだったけれど、ずっと若々しい印象があったので、急な悲報におどろいた。
北海道新聞は《公演後、体調を崩して入院していた》(8月7日付朝刊)と報じている。病を押し、命を削って立った明治座の舞台。その壮絶な舞台裏を、楽屋に出前を届けていた蕎麦屋の主人がブログに明かしている(http://www5a.biglobe.ne.jp/~detectiv/soba0008.htm)。
今年で没後23年。ありし日のさっそうたる姿は、日々再放送されるテレビ時代劇で健在だ。その遺志は息子の伊吹謙太朗が、俳優として、殺陣師として、しっかり受け継いでいる。