脇役本

増補Web版

三人の先輩 大滝秀治


『民藝の仲間 第351号』(劇団民藝、2008年3月)

 昨年の秋から、テレビ畑を歩んできた、さるベテラン演出家・プロデューサーの聞き取り(オーラルヒストリー)をしている。その方が手がけた作品に『土曜劇場 6羽のかもめ』(フジテレビ、1974年10月-75年3月)がある。
 劇団かもめ座のたった6人しかいない座員(淡島千景、加東大介、長門裕之、夏純子、高橋英樹、栗田ひろみ)が、テレビの世界で奮闘する姿を描く。全26回で、倉本聰が原案と脚本(15話分)を手がけた。マネージャーの「弁ちゃん」こと川南弁三役を好演した加東大介は、このドラマが遺作となった。


『土曜劇場 6羽のかもめ』宣材写真。前列左より高橋英樹、淡島千景、後列左より長門裕之、夏純子、栗田ひろみ、加東大介(DVD『6羽のかもめ』フジテレビ、2009年3月)

 このドラマにセミレギュラーとして登場するのが、高橋英樹ふんする田所大介の兄・正一で、大滝秀治(おおたき・ひでじ/1925-2012)が演じる。浅草でうなぎやを営む正一は、妻(青木和子)と母(村瀬幸子)、嫁姑の板ばさみになっている苦労人だ。深刻ぶることなく、とぼけた調子で大介にグチをこぼす姿が、微笑ましくも哀しい。


高橋英樹の大介(左)と大滝秀治の正一(右)。『土曜劇場 6羽のかもめ』第2回「秋刀魚」(フジテレビ、1974年10月12日放送)より(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)

 『6羽のかもめ』が放送中だった1975(昭和50)年5月、倉本を囲んだ座談会が開かれた。倉本は《一番多く出ていただいているという座付役者としての感覚が一番強いお三人》(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)として、八千草薫、桃井かおり、大滝秀治を招いた。
 倉本が脚本を手がけたドラマと映画に、大滝は、それはそれはたくさん出ている。大のお気に入りだったことは間違いない。倉本は語る。

いかに大滝さんを書いても、たとえば大滝さんの中にありうるものを書いても、どこかで、ベースはぼくの生理になっちゃう部分があるわけですよ。だから「間」とか「短い間」とか、そういったものというのは、自分の生理がどこかに、ベースにはあるわけです。
(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)

 ぼく自身、子どものころから親しんだ俳優である。政界の黒幕から悪徳商人、町工場のおやじから人情刑事まで、なんでもござれ。殺虫剤、ミネラルウォーター、黒酢、賃貸住宅とコマーシャルでもおなじみだった。2000年代以降の劇団民藝の舞台も、いくつか観た。
 「大滝秀治は名優か?」と問われると正直、違和感を覚える。「名優」の称号がなんとなく似合わない、不思議なバイプレーヤーだった。
 2012(平成24)年10月2日死去、享年87。今年で9年になる。

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 大滝秀治が亡くなった翌年、『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』(集英社クリエイティブ、2013年5月)が出た。
 新聞、雑誌、劇団民藝の公演パンフレットなど、インタビューを受ける機会は多かった。でも、自叙伝やエッセイ集の類いは生前、出ていないはず。大滝の単著としては、最初で最後の一冊かもしれない。


大滝秀治 著/谷古宇正彦 写真『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』(集英社クリエイティブ、2013年5月)

俳優であったという事実を、自分で確認するために、この本を出す。
(『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』集英社クリエイティブ、2013年5月)

 冒頭に、この一文を掲げた本書に、目次はない。大滝が生前に書いた(語った)文章が、章見出しやタイトルもなく、断片的に載せられている。
 その文章の合間あいまに、演劇写真を数多く手がけ、被写体としての大滝をライフワークとした谷古宇(やこう)正彦の写真が、挿入される。つまり「写文集」というわけ。
 写真と文章の内容は、とくに一致しない。いい意味で不親切な構成が、大滝の芸と人となり、どこか捉えどころのなかった役者像を浮かび上がらせていく。行間から、あの語り口が聞こえてくる。
 大滝の娘である山下菜穂が、「あとがき」を寄せる。

 読み進んでいくと、せっかちだった父が「どう? ぼくの本いい? 面白い?」と子供のように感想を急かす声も聞こえてくるような、また父がすぐ隣にいるようにも感じられる本になっていて、とても幸せでありがたい気持ちでいっぱいです。
(山下菜穂「あとがき」前掲書)

 奥付には「協力」として、劇団民藝 制作部の菅野和子の名がある。大滝のことを知りつくしていないと、これほどセンスのいい本に仕上がらない。菅野が、編集にタッチしたのだろうか。
 巻末には23ページに及ぶ「大滝秀治年譜」がつく。《俳優であったという事実》を、読者もまた《自分で確認する》ことになる。あの映画、あのドラマ、あのコマーシャル、あの舞台。懐かしく思い出しながら読んだ。

 大滝秀治は、1925(大正14)年、新潟県吉川町(現・上越市吉川区)に生まれた。尋常小・中学校時代は東京にいて、先の戦争を挟んで、逓信省の仕事をつづけた(戦時中は静岡県磐田の第一航空総軍通信隊にいた)。
 戦争が終わって、それまで弾圧されていた新劇は、息を吹き返す。戦後まもなく上演された舞台に感化され、新劇を志した者は少なくない。大滝もそのひとりだった。
 1948(昭和23)年、民衆藝術劇場(第一次民藝)付属養成所の第一期生となり、翌年に初舞台を踏む。1950(昭和25)年の劇団民藝創立には、研究生として参加した。その旗揚げ公演『かもめ』(アントン・チェーホフ作、岡倉士朗演出)では、料理人の役で出た。同公演には、終生の友であり同志となる奈良岡朋子が、小間使いの役で出ている。


劇団民藝創立2年目の大滝秀治(『民藝の仲間 第2号』劇団民藝、1951年)

 離合集散、脱退入座のはげしい新劇の世界で、大滝はずっと劇団民藝に所属した。
 この写文集の土台には、民藝での人との出会いがある。とくに印象的に綴られているのが、劇団の創立メンバーにして、大滝にとって雲の上の存在だったふたり、宇野重吉と滝沢修である。


宇野重吉(左)と滝沢修(右)。1980(昭和55)年12月28日、劇団民藝忘年会にて(『劇団民藝の記録 1950-2000』劇団民藝、2002年7月)

 上に掲げた忘年会でのツーショットは、チャーミングな表情だけれど、これはこれ。大滝が綴った思い出には、読み手を圧倒させる厳しい教え、新劇の先人たる貫禄がある。まずは宇野重吉との日々から――

 研究生になって、しばらくしてから、宇野さんに「おまえの声は、ぶっ壊れたハモニカみたいな不協和音を出す。ドレミファソラシド全部入ってる不協和音を出すと、お客に不快感を与えるから、役者に向かないんじゃないか」って言われた。「声が悪いし、見目かたちもちょっと……。おまえ、二十三だけど、老けてるな」って。
 自分では、そういうふうに生まれたんだから、劣等感を持ったことはないんですが、そんなことがずいぶんありました。
 宇野さんは厳しかったですね。でも、こんなすばらしい師匠に出会えたから、ぼくは今日まで役者をやってこられたと思うんです。どういうわけか、声が悪いなんて言われながら、ぼくは宇野さんに、とっても使われたような気がします。
(『長生きは三百文の得』)

 大滝の存在が、広くお茶の間に知られるようになるのは1970年代のこと。倉本聰の作品をはじめ、テレビドラマの影響が大きかった。
 それまで芽が出なかったわけではない。大勢の劇団員を擁する劇団民藝にあって、大滝はそれなりに重い役を担っている。ただし、主役をこなすこともあった奈良岡朋子、芦田伸介、山内明、下元勉、鈴木瑞穂らにくらべると、一歩遅れをとった印象を受ける。
 宇野重吉は、その大滝にダメを出しつづけた。そのわりに、目をかけていたように見える。それは写文集を読むと伝わってくる。


劇団民藝公演『鋤と星』(ショーン・オケイシー作、渡辺浩子演出、1969年10月)。右より大滝秀治ピータァー・クリテロ―、宇野重吉のフラター・グッド、米倉斉加年のウィリイ、北林谷栄のミセス・ゴーガン(『劇団民藝の記録』)

 宇野は民藝の看板俳優であり、演出家である。よくも悪くも、劇団内での発言力は大きい。大滝が、その庇護のもとにいたことは否めない。もちろんそれは、本人の俳優としての実力(魅力)と、宇野に対する尊敬があればこその話である。
 その宇野が、大滝を大抜擢した。1970(昭和45)年9月から12月にかけて上演された『神と人とのあいだ(1)審判』である。「東京裁判」をモチーフにした木下順二の法廷劇で、宇野が演出をつとめた。 
 大滝は、「主席弁護人(日本人)」を演じた。東京裁判で弁護人をつとめた清瀬一郎がモデルで、大役である。彼と対峙する「主席検察官(アメリカ人)」を、滝沢修が演じる。同裁判の主席検察官、ジョセフ・キーナンがモデルで、ふたりのやりとりが芝居の“キモ”となる。


劇団民藝公演『神と人とのあいだ(1)審判』(木下順二作、宇野重吉演出、1970年)稽古風景。手前左より大滝秀治の首席弁護人、滝沢修の首席検察官、後列左より松下達夫の判事、清水将夫の裁判長、石森武雄の判事(『民藝の仲間 第129号』劇団民藝、1970年)

 稽古のさい、宇野は大滝に言った。《「あせることはない。でも、ぐずぐずしてはいられないぞ」》(『長生きは三百文の得』)。
 写文集におさめられた写真に、宇野から大滝に宛てたメモがある。《①大滝主席弁ゴ人 大変よくなりました。努力を感謝します。更にもうひと工夫!》。宇野から、まず褒められることのなかった大滝にとって、このメモは宝物となった。主席弁護人の演技は高く評価され、紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した。


(『長生きは三百文の得』)

 宇野重吉は、1988(昭和63)年1月9日に亡くなる(享年73)。『審判』のエピソードひとつとっても、宇野と大滝の師弟関係、つながりの深さがうかがえる。
 ぼくが紀伊國屋サザンシアターで観た『審判』は、2006(平成18)年4月の再演だった。大滝の首席弁護人に魅せられつつ、亡き宇野とのつながりを想った(主席検察官は鈴木智)。いい舞台を観たと思う。

 滝沢修との関係はどうだったのか。写文集には、滝沢から受けた教えについても、多く割かれている。そこには、宇野とは異なる冷徹な視点がある。


劇団民藝公演『火山灰地 第一部』(久保栄作、村山知義演出)より、左から信欣三の青木、滝沢修の雨宮、大滝秀治の滝本(『芸術劇場』NHK教育、1961年8月20日放送)

 あるとき宇野は、「芝居を続けようと自分で決めるときは、いまだ」と大滝を励ました。時を同じくして滝沢は言った。「芝居をやめようと思うのも、才能のひとつだよ」。ふたりの言葉を、大滝はこう受けとめる。《一方だけに寄りかかり、もう一方は捨てようと思う》(『長生きは三百文の得』)。
 宇野へのかぎりない尊敬と愛着を知るいっぽう、滝沢に対してはどこか溝のようなものを感じた。「新劇の神様」と敬われた先輩への畏れ、発せられた言葉への葛藤が、行間からにじみ出る。

 やっぱし、滝沢先生の役者としての存在は、ぼくとは次元がちがったんでしょうね。
 あるとき、後輩に「池を前にして、これが海だと思えますか」って言われたから、ぼくには、池が即座に海に見える、これだけがおれの特技だよと言ったんだ。
 そしたら、その後輩が、滝沢さんにそのことを伝えてね。何日か経ってから、滝沢さんがぼくに「きみ、後輩にとんでもないことを教えたね。池は池だよ」と。
 だけど、役者っていうのは、錯覚の世界で生きる商売だって気がするんだよ。だって、舞台は虚構なんだから。それが自分の人生に、自分の生きている場になるためにはどうすればいいかというところであがき、また、それを錯覚するのも悪いことではないと思うんだけども。
 きっと滝沢さんはね、舞台ではいくらカアッとなっても、冷静になる第三の自分がいなきゃいけないんだということを教えたんだと思う。冷静な自分。でなきゃ、芝居はできない。嘘の世界なんだからと言おうと思ったんじゃないかな。
(『長生きは三百文の得』)

 滝沢修の存在は、大滝の肉体と思想に影のようについてまわった。『忠臣蔵 風の巻・雲の巻』(フジテレビ、1991年12月13日)では、滝沢が幾度となく演じてきた吉良上野介を大滝がやり、滝沢は語り手にまわった。企画の能村庸一(フジテレビ)は、「君、吉良をやるの。あれはいい役だよ」と滝沢から言われた話を、大滝本人から聞いている(能村庸一『時代劇 役者昔ばなし』ちくま文庫、2016年2月)。
 2000(平成12)年6月から8月にかけて、『炎の人――ヴァン・ゴッホ小伝』(三好十郎作、内山鶉演出)が再演された。滝沢が生涯の当たり役としたゴッホを、大滝が演じた。1951(昭和26)年の初演(岡倉士朗演出)で大滝は、画家のポール・シニャックを演じた。初演からおよそ半世紀、俳優 大滝秀治にとって、滝沢に対するひとつの答えとなる。


劇団民藝公演『炎の人――ヴァン・ゴッホ小伝』(2000年)より、大滝秀治のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(『劇団民藝の記録』)

 奇しくも『炎の人』の公演中だった6月22日、滝沢がこの世を去る(享年93)。1か月後、劇団民藝の稽古場(川崎市麻生区)で、「滝沢修とお別れする会」が営まれた(7月22日)。熱心な滝沢ファンのぼくは一般参列した。
 滝沢の死を冷静に受けとめる奈良岡朋子に対して、大滝はどこか興奮ぎみだった。甲高い声で「これは事件です」とあいさつし、目に涙を浮かべて「ありがとうございました」と参列者に頭を下げる姿を覚えている。


「滝沢修とお別れする会」であいさつする大滝秀治(2000年7月23日付「スポーツ報知」)

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 本ブログを「三人の先輩」と題した。宇野重吉、滝沢修、清水将夫の三人である。清水もまた、劇団民藝の創立メンバーである。


左より宇野重吉、清水将夫、滝沢修。民芸映画社『三太と花荻先生』(1952年公開)撮影現場(『民藝の仲間 第2号』)

 宇野と滝沢は演出も手がけたけれど、清水は俳優に徹した。先述した『審判』を例にすると、演出が宇野、主席検察官が滝沢、主席弁護人が大滝、裁判長(ウィリアム・ウェッブがモデル)が清水であった。


冨田英三「続・てんじょうやじ記12」(『民藝の仲間 第129号』)

 清水の思い出は、写文集のなかでただ一か所、数行しか登場しない。そのわずかな文章が、とてもいい。

 ぼくが池尻にある低所得者用の都営アパートで暮らしていたとき、清水さんは渋谷の南平台に住んでいて、稽古が終わると必ず「おっ、帰ろう」と声をかけてくれて、車で渋谷へ寄っては「飲め、飲め」と。
 金がなくて、酒が飲みたくても飲めないときに、心の豊かさを教えてくれました。
(『長生きは三百文の得』)

  清水将夫の酒をめぐるエピソードは、本ブログの第15回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/12/29/211933)で触れた。清水は、新劇人や文化人のたまり場だった渋谷の小料理屋「とん平」の常連だった。 

 川崎市麻生区に移るまで、劇団民藝の稽古場は青山にあった。清水は、劇団の後輩を「とん平」に連れていっては、奢っていた。先のブログで紹介した『しぶや酔虎伝 とん平・35年の歩み』(牧羊社、1982年7月)では、庄司永建と下條正巳が、その思い出を書いている。
 清水が大滝に《心の豊かさ》を教えた酒場も、おそらく「とん平」だったはず。庄司と下條のエッセイを読んだとき、「やさしい先輩だな」と思った。その印象が間違っていないことを、大滝の写文集が教えてくれる。
 清水が大滝に向けた視線は、どんなものだったのか。宇野と滝沢、偉大すぎる先輩に挟まれた後輩を、あたたかく見守っていたのか。
 ふたりが共演した作品は少なくない。そのひとつにテレビ映画『女・その愛のシリーズ』の一篇「鶴八鶴次郎(前後篇)」(NET、1973年12月12日、19日放送)がある。幾度となく映像化された川口松太郎の原作を、劇団民藝がユニットで制作し、民藝の若杉光夫が監督した。
 滝沢修のほか、民藝の俳優がこぞって出演するなか、清水は太夫元(興行主)の竹野を、大滝は舞台番の佐平を演じた。この民藝版「鶴八鶴次郎」では、佐平が狂言まわしを兼ねている。



『女・その愛のシリーズ』第11回「鶴八鶴次郎」(NET、1973年12月12日放送)より、大滝秀治の佐平(左)と清水将夫の竹野(右)

 佐平役の大きさを象徴するように、タイトルバックで大滝の名は、清水と連名でクレジットされた。寄席の舞台袖で、ふたりが仲睦まじくやりとりするシーンがある。清水の胸を借りながら、芝居しているように思えた。
 この放送から2年後、清水将夫は亡くなった(1975年10月5日死去、享年67)。大滝の俳優人生を支えた、先輩のひとりだった。

 宇野重吉、滝沢修、清水将夫、大滝秀治。みなそれぞれ、劇団民藝の旗揚げに馳せ参じ、終生かわらず在籍した。「劇団」の重みが、一冊の写文集から見えてくる。「脇役本」の名著である。