脇役本

増補Web版

夏の影。昼のラヂオ 宮口精二


岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』で東郷茂徳を演じた宮口精二(『日本のいちばん長い日』パンフレット、東宝事業・開発部出版、1967年8月)


 先月出した『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)に、徳川夢声の『連鎖反應 ヒロシマ・ユモレスク』(初出『オール讀物』1950年3月号、文藝春秋新社)を取り上げた。被ばく直後の広島を舞台にした、ユーモア小説である。


徳川夢声『ユーモア小説全集6 連鎖反應 ヒロシマ・ユモレスク』(東成社、1952年9月)、濱田研吾『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)

 2020(令和2)年8月6日。75年の節目を迎えた広島の街を、夢声の小説と、拙著と、被ばく前の広島の地図を手に、歩くつもりだった。ところが、疫病の猛威はとどまるところをしらず、遠く離れた街で“あの日”を想うことにした。
 せめて8月6日にちなんだ作品を、と横浜の放送ライブラリーで、一本のラジオドラマを聴いた。梶山季之作、文学座ユニット出演による『ABC劇場 放送劇 ヒロシマの霧』(朝日放送、1958年3月20日放送)である。
 原爆投下から7年後の8月6日夜、広島の街で、幽霊騒ぎが起きる。真相を追う新聞記者の深見(神山繁)に、「死の影」と名乗る男(宮口精二)が声をかけた。「あなたを、私たちの大会に招待します」。怪しむ深見に、「死の影」が静かに語り出す――。
 広島平和記念資料館に、「人影の石」と名づけられた展示品がある。爆心地から260mの紙屋町、住友銀行広島支店の入口階段を移設したもので、黒い影が焼きつく。午前8時15分、開店前に腰をかけていたであろう人間の影、と語りつがれている。


広島平和記念資料館蔵「人影の石」。出典「広島平和記念資料館」http://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=ItemView&item_id=78&lang=jpn

 深見が出会った「死の影」は、原爆の熱線で絶命したであろう「人影の石」をモデルにしている。怪談じみたストーリーながら、それを演じる宮口精二(みやぐち・せいじ/1913-1985)の語り口は、深い悲しみをたたえていた。
 深見は「死の影」に案内され、その夜の大会を目の当たりにする。原爆により成仏できない人たちが、原爆は誰の責任か、議論をたたかわせる。「エノラ・ゲイ」の機長か、米軍参謀本部の長官か、原爆を生んだ科学者か、アメリカ大統領か、戦争を推し進めた東条英機(劇中では「南条英機」)か。
 若いころ、広島に暮らした作家の梶山季之は、原爆文学に深く傾倒した。『ヒロシマの霧』は、その思索のなかで書かれた。同年3月27日には地元のラジオ中国で放送され、高い評価を得た。
 神山繁、内田稔、稲垣昭三ら、文学座の当時若手たちの語り口がいい。座のベテランである宮口精二が、その若々しき声を束ねる。その貫禄と深み。舞台に、映画に、テレビにと幅広かったけれど、ラジオドラマでもおおいに活躍した。


新日本放送(現・毎日放送)『ベーブルース物語』収録風景。左から北沢彪、戸川弓子、松本克平、新日本放送アナウンサー、恩田清二郎、宮口精二、田中明夫(1952年11月11日、東京・番町スタジオ)。(『俳優館』第17号、俳優館、1975年3月)

 『放送劇 ヒロシマの霧』。よきものを聴いた。

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 学生時代から、ずっと変わらず好きな俳優は多い。なかでも宮口精二は、我が月日とともに愛着が増し、沁みいるように輝きを増しつづける俳優のひとりだ。
 たとえば、『男はつらいよ 柴又慕情』(松竹、1972年)および『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(同、1974年)のヒロイン、高見歌子(吉永小百合)の父親にして、作家の高見修吉がいる。口ベタな男の、娘への情愛に揺れ動くこの役ひとつとってみても、この俳優の持ち味がひしと伝わってくる。


『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(松竹、1974年)。左より渥美清の車寅次郎、吉永小百合の歌子、宮口精二の高見

 “俳優 宮口精二”だけで、ここまで自分のなかに魅力が増したとも思えない。“雑誌編集長 宮口精二”の存在なくして、これほどの愛着は抱けなかった。
 文学座をやめ、東宝演劇部に入った宮口は、1970(昭和45)年9月、総合演劇雑誌『俳優館』(俳優館)を創刊した。コンセプトは「役者がつくる役者の雑誌」。タイトルは、松竹大船撮影所内の建物入口に掲げられていた扁額(横長の額)に由来する。最晩年に書いた、宮口の文章がある。

旧式な羅針盤だけが頼りの、弧風な舵輪を操って、この素人編集人の「俳優館号」は今後どういう漂流を続けるのか甚だ心もとないが、まあ、私が舞台に立てる間はこの小冊子を出し続けてゆくつもりで(以下略)
(宮口精二「『俳優館』漂流記」『総合ジャーナリズム研究』第106号、社団法人東京社、1983年10月)


宮口精二「『俳優館』漂流記」(『総合ジャーナリズム研究』第106号、社団法人東京社、1983年10月)

 素人編集人。なかば本音であり、なかば謙遜であろう。求められて書いたにしろ、ジャーナリズムの専門誌に一文を寄せたからには、こころに期するもの、既存のジャーナリズムに挑戦する気持ちが、きっとあった。宮口精二は名優であり、名編集長であった。
 みずから「編集兼発行人」となった『俳優館』は、亡くなるまでに40冊(第40号)発行された。奇しくも最終号(第41号、1986年4月)は、「宮口精二追悼特集」であった。


『俳優館』全41冊(俳優館、1970年9月~86年4月)

 『俳優館』については、このブログでたびたび取り上げたし、もとになった『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)ではページを多く割いた。『映画論叢』第13号(国書刊行会、2005年12月)には、拙稿「宮口精二と『俳優館』」を総目次つきで寄せたし、先月上梓した『俳優と戦争と活字と』にも書いた。いちばん好きな雑誌、と書いていい。
 宮口が『俳優館』を創刊したのは、1937(昭和12)年の創立から在籍した文学座を、退座したあと。ただし雑誌の構想は、文学座時代からあった。

かつては、自分の所属する劇団だけに小さく固っていた新劇人も、最近は映画、テレビ、ラジオではお互に交流しあい、呉越同舟などというも愚かで、自分の劇団の仲間より、よその劇団の方に友人が多いなどという例もある。そうした新劇団の横のつながりも考えて「新劇俳優だけの雑誌」というものを創刊して「言いたいことを洗いざらい言う場所」を造りたいというのが私の願いです。
(「宮口精二のページ 1号編集長・その11」『文学座』第32号、文学座、1962年1月)


「宮口精二のページ 1号編集長・その11」部分拡大(『文学座』第32号、文学座、1962年1月)

 『俳優館』を創刊する8年前の文章だが、誌面の骨子は出来上がっている。《永く保存しておきたいような美本》(前掲書)を体裁とし、《取敢ず大体の編集プランのようなもの》(同)として、以下を挙げた。「ゲストのページ」「俳優の観た劇評」「俳優による俳優論」「劇評を斬る」「私の秘密」「私の自叙伝」「旅行記・稽古日記」「随筆・漫談(小説、劇作)」「詩・俳句・短歌欄」「安楽椅子(座談会)」。すでにもう、自分の雑誌が頭のなかに描かれている。
 名優であり名編集長、とさきほど書いた(宮口にはアマチュア野球のアンパイアという顔もある)。さらに加えるならば、「名エッセイスト」でもある。奇をてらうことなく、身辺雑記や回想録のたぐいを好んで書いた。脇役本の愛好家としては見逃せない、昭和の名脇役である。
 1963(昭和38)年、文学座に激震が走る。1月早々、中堅・若手を中心に29名の座員が脱退、その衝撃も癒えぬなか、宮口が師と仰ぐ久保田万太郎が急逝(5月6日)する。12月には三島由紀夫の「『喜びの琴』事件」に端を発し、14名の座員が脱退した。
 創立から関わる宮口にとって、こころ乱れる日々だったはずだ。


久保田万太郎追悼、文学座公演『雨空/萩すゝき』パンフレット(毎日ホール、1963年10月)。表紙は『雨空』の幸三(宮口精二)、お末(八木昌子)

 そうしたなか、座の機関誌『文学座通信』にて、宮口の連載がスタートした。演劇随想「はる・なつ・あき・ふゆの記」。創立以来の盟友にして俳優の龍岡晋が、同誌の編集兼発行人をつとめていた。
 ひっそりと連載されたもので、のちに単行本化されることはなかった。各回の見出しと掲載号を、以下に掲げる。

◎その一 再会(第60号、1964年6月)
◎その二 女の一生(第61号、1964年7月)
◎その三 代役(第62号、1964年8月)
◎その四 あの頃のこと(第63号、1964年9月)
◎その五 座内結婚(第64号、1964年10月)
◎その六 十一月十五日(第65号、1964年11・12月)
◎除夜詣(第66号、1965年1月)
◎私の病歴(第67号、1965年2月)
◎さようなら―文学座(第68号、1965年3月)
(第66号以降は「その七」「その八」「その九」の表記なし)



宮口精二演劇随想「はる・なつ・あき・ふゆの記」掲載『文学座通信』(文学座、1964~65年)

 全9回、いずれも各話完結で、これといった話題のつながりはない。それでも、全篇をつらぬく視点、匂いのようなものはある。俳優としての軌跡、そして、戦争との関わり。
 たとえば玉音放送のこと。1945(昭和20)年8月15日は、文学座の移動演劇先である石川県釡清水村(現・白山市釡清水町)にいた。連載第4回「あの頃のこと」で、その前後のことをふりかえる。

ラヂオは異様に緊迫した放送を始めた。我々はすべてを放ったらかして、雑音のガーガー鳴る古めかしいラヂオを取囲んだ。何を云っているのかしかとは判りかねたが、どうやら日本は戦争に負けたと云ふ陛下の玉音放送である。我々はその日の公演を中止して忙しく基地に帰った。その帰りの汽車の中の異様な雰囲気は今でもありありと眼に浮ぶ。それからの数日と云うもの、バタバタと鳥のたつ様に座の連中は先を争って東京へ帰って行った。最後にたった一人残ったのが私であった。家庭の事情で何としても東京へは帰りたくなかった。昼は近くの川や沼で釣をして気がまぎれるが、夜暗くなってひとり二十燭位の電灯の下にぽつんと坐っていると、何とも心細くなってしぜんと涙がぽろぽろ頬を伝った。
(「その四 あの頃のこと」)

 玉音放送の前後には、人それぞれの風景がある。釣りで気を紛らわせつつ、心細くなる宮口は、三十路を迎えたころだった。戦前、戦後を通じて出演した、久保田万太郎の『釣堀にて』を思わせる。


三越現代劇第1回公演、久保田万太郎作・演出『釣堀にて』(三越劇場、1951年2月)。左より滝沢修の直七、宮口精二の長谷川信夫、宮内順子の小をんな

 宮口精二(本名、宮口精次)は、1913(大正2)年、本所緑町(現・墨田区緑)に生まれた。
 男ばかり6人兄弟の次男で、父親は大工であった。一家に落とす戦争の影。連載第6回に、そのことを綴っている。見出しの「十一月十五日」は、宮口の誕生日にあたる。

私はその、六人の男ばかりの兄弟の次男坊であった。長兄は父の跡をついで大工となったが、若い頃は左翼運動にも首をつっ込んだりして、ただの職人として終りたくない志をもっていたが、今次の太平洋戦争で海軍々人として応召し、小笠原近海で戦死をした。三男は夭折し、四男も陸軍歩兵として出征、日支事変で山東省に於て戦死、五男も北満で戦い、終戦とともにシベリアに抑留され、のち、無事に帰還したが、数年後、忽焉(こつえん)として病に倒れた。六男は大正十二年九月一日の関東大震災の折、母の背中に負はれたまま不慮の死をとげている。
(「その六 十一月十五日」)

 上野二中の夜間部を卒業した宮口は、保険会社につとめた。
 そのあいだに舞台俳優への夢をふくらませ、1933(昭和8)年、築地座の研究生となった。その築地座が解散し、同座の俳優が多く参加するかたちで、文学座が生まれた。1937(昭和12)年のことである。
 ところが、俳優として座の中心を担うべき友田恭助が、上海にて戦死する。せっかく船出した文学座は否応もなく、戦争と向き合わざるを得なくなる。それは、宮口も同じこと。不安な日々のなか、文学座の一員として、芝居に邁進する。
 戦時下、敗戦、戦後の混乱と復興、高度経済成長時代と、宮口は忙しく演じつづけた。舞台、映画、ラジオ、テレビ。場は異なれど、つねに文学座のひと、であった。そんな宮口にも、別れのときがおとずれる。


文学座公演、福田恆存作・演出『明智光秀』(東横ホール、1957年8月)。左より岸田今日子の桔梗、杉村春子の皐月及び妖婆、宮口精二の斎藤内蔵之助、小池朝雄の安田作兵衛、青野平義の妻木主計之頭、八代目松本幸四郎の明智光秀(『追想 青野平義』「追想 青野平義」出版事務局、1975年12月)

三十年になろうとする、新劇俳優としての私の修業、いや、修業などはおこがましい。先生方、先輩、仲間の皆さんの温い手にすがって、今日までこうして来られた私はしあわせ者であった。苦しいこともあった。人しれず泣いたこともあった。私などは新劇俳優としての資格は何もなかったのに、ただ一途にこつこつとやって来たが故に、いっぱしの役者として通って(注・原文ママ)事を思えば、これまで後輩諸君に、偉そうなことを言って来たのが、今ははづかしいようなものである。

(「さようなら―文学座」)

  本来であれば、連載はもうすこしつづくはずだった。同号の「アトリエ通信」には、《宮口精二は、健康上の理由により座員の立場から退き、今後は座友の形で協力してゆくことになりました》とある。なぜ、やめたのか。当人は多くを語らず、随想の末尾にこう一句添えた。

老いたるかマスクの中のひとり言 精二
(前掲書)


『文学座通信』第68号(文学座、1965年3月)
 俳優としての遺言のような、さびしげな別れのことば。いっぽうでそれは、“俳優 宮口精二”にとって、再出発のことばでもあった。
 1965(昭和40)年、文学座を退座した宮口は、東宝演劇部に入る。新劇から商業演劇の世界へ飛び込み、ジャンルの垣根を越えて、さまざまなスター、名優と共演した。
 編集兼発行人として『俳優館』を世に問うのは、それから間もなく。「新劇俳優だけの雑誌」は、「役者がつくる役者の雑誌」として船出する。

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 1985(昭和60)年4月12日死去。享年71。浅草のはずれ、台東区今戸2丁目の「浄土宗 瑞泉寺」境内に、宮口精二のお墓がある。
 こぢんまりとした細長の墓石には、《俳優 宮口精二》と刻まれている。《宮口精二》は自筆で、《俳優》には東山千栄子が『俳優館』のために書いた題字が使われた。墓誌にはこうある。《季刊雑誌 俳優館 を発行 演劇界の裏面史をときおこした》。
 瑞泉寺からは「とうきょうスカイツリー」が見える。宮口が生まれた本所緑町は、スカイツリーの向うがわにある。


宮口精二墓(浄土宗 瑞泉寺)撮影/筆者


浄土宗 瑞泉寺(台東区今戸2丁目)撮影/筆者