脇役本

増補Web版

アトリエでふたり 中村伸郎


中村伸郎『永くもがなの酒びたり』(早川書房、1991年8月)

 『ユリイカ』2020(令和2)年10月臨時増刊号総特集「別役実の世界 1937-2020」(青土社、2020年9月)が出た。今年3月3日に死去した劇作家、別役実の追悼を兼ねるとあって、錚々たる演劇界の重鎮、ゆかりの人びと、気鋭の批評家が誌面に集う。
 この号に「別役実を、テレビで見た」と題して書かせてもらった。別役は脚本家として、NHKのテレビドラマを10本ほど手がけている。


『ユリイカ』2020年10月臨時増刊号総特集「別役実の世界 1937-2020」(青土社、2020年9月)

 編集部から届いた見本誌を繰りつつ、想う。別役作品を彩った俳優の多くがいなくなったな、と。つい先ごろも、70年代の別役ドラマの常連だった岸部シロー(岸部四郎)が亡くなった(8月28日死去)。
 乏しい我が観劇歴においては、文学座12月アトリエの会『鼻』(1994年12月14~23日、文学座アトリエ)の三津田健、高原駿雄が、この世を去って久しい。
 近年では、別役実フェスティバル 交流プロジェクトVol.1「別役実を読む、聞く、語る」の「円熟俳優(レジェンド)たちによるリーディング」(2015年8月19、20日、青年座劇場)で観た文学座の金内喜久夫が、今年4月28日に亡くなった。


文学座12月アトリエの会『鼻』チラシ(文学座、1994年12月)

 別役実といえば、忘れることのできない名優がいる。
 中村伸郎(なかむら・のぶお/1908~1991)。1908(明治41)年、北海道・小樽の生まれ。戦前は築地座から文学座へ、戦後は文学座からグループNLT、劇団浪曼劇場、現代演劇協会、演劇集団円と、昭和を代表する新劇俳優のひとりとして生きた。
 中村は晩年、20本を超える別役作品に出演した。ただ、関西に長く暮らしたぼくには、遠い存在だった。“生で”舞台に接することはできなかった。


パルコ スペース パート3『ドン・キホーテより 諸国を遍歴する二人の騎士の物語』パンフレット(パルコ、1987年10月)。中村伸郎(右)と三津田健(左)

 中村伸郎を知ったのは、中学生のとき。再放送で見た『白い巨塔』(フジテレビ、1978年)でハマった。浪速大学医学部第一外科 東教授、その畏怖すべき演技は、“わが中村伸郎”の原点である。
 「言葉を慎みたまえ」というセリフひとつとっても、なんとうまい役者なんだろう、と魅了された。1950年代から80年代にかけては、映画、テレビドラマに欠かせない名脇役であった。朗読や放送劇など、戦前からラジオにも多く出た。


『白い巨塔』第1回(フジテレビ、1978年6月3日放送)

 『ユリイカ』の別役特集を読んで、別役実と中村伸郎のつながりの深さをあらためて痛感した。最後の舞台も別役作品で、1990(平成2)年9月の演劇集団円公演『眠れる森の美女』(シアターサンモール)の「男4」であった。
 『白い巨塔』で知ったころ、中村は第一線を退き、舞台から去った。入れ違いだったな、と思う。

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 中村伸郎は、名文家でもあった。そのことは、『おれのことなら放つといて』(早川書房、1986年2月)と『永くもがなの酒びたり』(同、1991年8月)、ふたつの随筆集を読むとよくわかる。
 飄々と、どこか人をくったようなユーモア、その文章と視点には、ファンが多かった。

中村伸郎『おれのことなら放つといて』(早川書房、1986年2月)、同『永くもがなの酒びたり』(同、1991年8月)

 芝居と随筆ともうひとつ、中村伸郎(以下「伸郎」と表記)を語るうえで「絵」の存在がある。10人兄弟の末っ子(七男)で、画家の兄がふたりいる。次男の小寺健吉と六男の小寺丙午郎、ともに洋画家である。
 末っ子の伸郎は7歳のとき、小松製作所のトップである実業家、中村税の養嗣子となる(中村家は長女敏子の嫁ぎ先)。税は、伸郎を可愛がり、本人が画家を志したときも応援した。しかし、19歳の伸郎がパリ留学を希望したとき、頑として許さなかった。
 ふたりの兄、健吉と丙午郎のまわりには、さまざまな画家が集う。「フランス女を連れて帰国する」「パリに住みついて帰ってこない」。よからぬ噂が、養父である税の耳に入る。それが仇となった。

 私はアトリエに籠って父を恨み、私がセーヌ河岸に画架を立ててセーヌに架かる橋を、ノートルダム寺院を、河岸の並木を描く自分の姿を何度想像したことか……。そんなことがあったあと、二年足らずで絵筆もアトリエも捨てて役者修業に転身した。
(中村伸郎「セーヌ河岸」『おれのことなら放つといて』早川書房、1986年2月)


1930(昭和5)年2月、東中野「ミモザ」での久保守渡欧送別会。後列右端に中村伸郎、3人目に小寺丙午郎、前列右から2人目に久保守(『線描のシンフォニー 三岸好太郎の《オーケストラ》』北海道立三岸好太郎美術館、1993年10月)

 養父の税は、開成中学を卒業した伸郎を川端画学校に通わせ、東中野にアトリエまで建てた。藤島武二に師事し、帝展に入選した伸郎は、周りもプロになるものだと思うほどの腕前だった。
 ところが、伸郎は絵筆を捨てる。パリ留学の夢やぶれ、2度目の帝展に落選し、みずからの画風への限界が、そうさせた。
 築地小劇場に通うなど、芝居好きだった伸郎は、絵をあきらめたのち、新劇の世界へ入る。1932(昭和7)年、友田恭助・田村秋子夫妻が立ち上げた築地座の第1期研究生となった。同期に龍岡晋、第2期研究生に宮口精二がいたという。のちにいずれも文学座の一員となり、三津田健を加えた4人は亡くなるまで、つかず離れずの仲間であった。
 伸郎には、先述したふたつの随筆集とは別に、もう一冊ある。みずから「編輯」した『「丙午郎」遺稿』(私家版、1937年9月20日発行)である。B5判上製、本文とグラビアあわせて150ページほどの立派なものだ。



中村伸郎編輯『「丙午郎」遺稿』(私家版、1937年9月)

 ふたつ違いの丙午郎と伸郎は、小さいころから仲がよかった。ともに絵の道を志し、川端画学校にもいっしょに通っている。
 伸郎が編んだ『「丙午郎」遺稿』には、丙午郎が旅先の神戸から父(中村税)に宛てたハガキが載っている。

 昨日六甲山脈中の高座の瀧に行きました。(中略)それから右手に聳えて見える禿山に登つて一枚スケツチをしました。幅五寸許りの峰を傳つてづるづるすべり乍ら行きました 歸りは一層危險なので僕と伸ちやんの帶を繋いで帶につかまり乍ら下りました。
(小寺丙午郎葉書「大正八年八月十九日 打出にて丙午郎」『丙午郎』)


丙午郎5歳と伸郎3歳(『「丙午郎」遺稿』)

 兄と弟、帯をつないで、急な山路を下りる。それだけで、仲のよさが伺える。ふたりの兄にあたる次男・健吉も、その仲のよさを回想する。

 自分より二歳の弟伸郎とは殊に親しく交つて、演劇や映畫を見たり談じたりすることも知つてゐた。無頓着の丙午郎が、たとへばネクタイの一本にも色合の撰擇に凝るといふことは、伸郎やそのグループの感化だと思はれる。
(小寺健吉「丙午郎追憶」『「丙午郎」遺稿』私家版、1937年9月)

 24歳で芝居の道に進んだ伸郎だったけれど、丙午郎は画家として生きた。ただ、伸郎が活躍し始めたころから、健康を害すようになる。旅に、創作に、観劇に、読書に、交友に……。若き画家の豊かな暮らしは、永くは続かなかった。
 1936(昭和11)年2月21日、急性肺炎を悪化させた丙午郎は、この世を去る。享年31。遺された家族と友人が協力し、伸郎が編集するかたちで『「丙午郎」遺稿』が出た。
 題字を兄の小寺健吉、扉絵を東京美術学校で同級だった久保守が手がけ、丙午郎の家族と芸術家仲間がありし日を寄稿。丙午郎が遺した油彩、デッサン、カット、書簡、紀行文、メモなどがおさめられた。
 編集した伸郎は、「僕の芝居と丙ちやん」と題した一文を、この本に寄せた。

 僕が芝居を始めてからは殆んど彼は不健康だつた。それもごく初めの頃、科白(セリフ)も一言か二言の頃はよく見に來た。僕の得意の「おふくろ」はとうとう見ずだつた。ラヂオは一つも逃さず聞いてゐた。「おふくろ」も聞いたし、其の他僕がだんだん大きな役をする様になつたのもラヂオを通してその聲だけは聞いてゐた。
(中村伸郎「僕の芝居と丙ちやん」『「丙午郎」遺稿』)

 「おふくろ」とは、築地座公演『おふくろ』全1幕(1933年6月、飛行館)のこと。田中千禾夫作、川口一郎演出で、母親の坂(田村秋子)の息子・英一郎を演じた。母と子のすれ違い、情の通いあいを見せた伸郎は、好評を博した。


築地座公演『おふくろ』(1933年6月、飛行館)。左より、田村秋子の坂、堀越節子の峰子、中村伸郎の英一郎(『悲劇喜劇』1983年5月号「特集・中村伸郎」早川書房)


同プログラム(『築地座』第15号、築地座、1933年6月)

 小寺丙午郎は、「夭折の天才画家」と伝説化されるほどの画家ではない。これまでに大規模な回顧展が開かれたり、画集が出たわけでもない。画家としては道半ばで、未完成であった。そのことは、伸郎もわかっている。しかし――

 彼の繪はまれ(、、)に見る純粹な美しい繪だと僕は確信してゐる。勿論中途のことであるから未完成だし、その未完成が本當な處なのだが、それにしてもかなりいゝものだと思つて居る。一緒に繪を描いて居乍ら、一緒に展覧會を見、同じ畫集を繙いて居乍ら、僕の繪などは彼のそれに比ぶべくもないし、僕自身見るのも嫌である。今更乍ら、どうして彼があんなに純粹だつたのか、周圍に特にそんな雰圍氣があつたのでもないのに……、彼の素質を考へ、彼の日頃を想ひ、やはり短い間ではあつたけれ共、努力して殘した仕事なのだ、と思ふのである。
(「僕の芝居と丙ちやん」)

 『丙午郎』には、故人の遺した作品が数多く掲載されている。画家としては中途で、作風が未完成だったかはさておき、奇をてらわない魅力がある。たとえば「神田駿河臺」(1931年作)と題した15号の油彩がある。


小寺丙午郎 画「神田駿河臺」(『「丙午郎」遺稿』)

 この作品について版画家で洋画家の石井柏亭は、こう指摘した。《君の繪はいつもこゝ迄しか描かない この先きの仕事をやつて行くことを考へなくちやいけない》(『「丙午郎」遺稿』)。伸郎は、この「神田駿河臺」を、カラー図版(三色刷)で掲げた。 
 丙午郎もまた、ふたつ下の伸郎に、画家として信頼を置く。養父の中村税が、こうふりかえる。

 よく丙午が伸郎の處へ自分の油繪を持つて來て批評を聞いて居たが、伸の批評を熱心に傾聴して感心して居た様であつた。
(中村税「丙午(ヘコ)、思ひ出のまゝ」『「丙午郎」遺稿』)

 『「丙午郎」遺稿』を手にすると、伸郎が愛情をこめ、ていねいにこしらえたことが、よくわかる。手元にあるのは裸本で、カバーや函の有無はわからないけれど、本としての佇まいが美しい。丙午郎の作品および写真のグラビアの前には必ず、和紙が挟み込まれている(下記画像参照)。


『「丙午郎」遺稿』

 丙午郎の遺稿を編んだのは、文学座の創立に参加したころだった。解散した築地座の流れをくむ文学座には、龍岡晋や宮口精二も行動をともにした。新劇の道を歩む伸郎にとって、文学座が新たなスタートとなる。
 それもあってか、『「丙午郎」遺稿』に寄せた文章では、みずからの俳優業にも言及した。

 僕自身仕事に生き甲斐を感じ、そしてフト彼の挫折した仕事の上を、又、彼の早逝を想ふ時、どうしてもセンチにならざるを得ないが、若し僕に、ものの眞實の姿を見、純粹な考へ方をする雰圍氣を、僕の周圍に僕自身感じる事が出來たとすれば、それは彼から承けたものである。この承けた(、、、)ものを僕自身の内に生かさうとすることによつて、僕は彼の中途の仕事を、早逝を悲しむ僕のセンチメンタルを、幾分消す事が出來る様な氣がしてるのである。
(「僕の芝居と丙ちやん」)

 創立直後の文学座には、東山千栄子や徳川夢声ら大物が名を連ねていた。そのなかで伸郎は、キャリアを重ねていく。戦争が激しくなるなかで、文学座の芝居は続く。伸郎は、ラジオにも出て、詩の朗読放送を得意とした。
 戦後は、福田恆存、矢代静一、三島由紀夫ら新たな作家を得て、作品にも、役にもめぐまれた。1964(昭和39)年12月に退座するまで、文学座のひとであった。


久保田万太郎作・演出『釣堀にて』(1938年12月、有楽座)。左より徳川夢声の直七、中村伸郎の信夫(『文學座』文学座、1939年2月)

 伸郎の随筆やインタビュー記事は、たくさんある。そのなかで、兄の丙午郎について深く言及したものは少ない。随筆集『おれのことなら放つといて』と『永くもがなの酒びたり』にも、丙午郎のエピソードは出てこない。如月小春著『俳優の領分 中村伸郎と昭和の劇作家たち』(新宿書房、2006年12月)は、伸郎のロングインタビューをもとにした名著だが、丙午郎の話題は出てこない。
 晩年になって、若いころ交友のあった画家、三岸好太郎についてのインタビューを受けた。そこで、亡き兄の名を口にしている。

一番下の僕を入れれば10人兄弟の中から3人の絵描きが生まれるはずだったのです。僕が演劇の世界へ転向し、丙午郎もまもなく肺病で死にましたから、これは実現しませんでしたが、アトリエでいっしょに描いていた丙午郎は純粋ないい絵を描いていて、とてもほれ込んだ三岸さんが節子夫人にも見せたいと言って連れて来たこともあります。
(中村伸郎[談]「三岸さんを回想して」『北海道立三岸好太郎美術館報』第8号、1982年3月)

 画家の三岸節子もまた、丙午郎や伸郎と親しくした。『「丙午郎」遺稿』には、節子の追悼文「小寺丙午郎氏に就て」がある。
 三岸好太郎美術館のインタビューで、《純粋ないい絵を描いていて》と伸郎を語った。『「丙午郎」遺稿』に寄せた一文にも、《まれに見る純粹な美しい繪》と綴っている。「純粋」というのが、変わらぬ兄への評価だったのだろう。

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 1991(平成3)年7月5日、中村伸郎死去。享年82。
 冒頭で紹介した『ユリイカ』の「別役実の世界」には、中村伸郎の名前と思い出がたびたび登場する。来年で没後30年。その名は、これからも残っていくと思う。
 兄の小寺丙午郎が「夭折の天才画家」として、もてはやされることは、多分ない。『「丙午郎」遺稿』がなければ、ぼく自身、気にとめることのない画家だった。特筆したい“名脇役本”である。


小寺丙午郎 画「自画像」(『「丙午郎」遺稿』)