脇役本

増補Web版

あねおとうと 夏川静江(静枝)


夏川静江 友の會編『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會)


 映画、テレビドラマ、商業演劇の脇に出て、渋い存在感で魅せた人たちが、往年の大スターだったり、絶世の美青年だったり、人気女優だったり、というのはよくある。夏川静江(なつかわ・しずえ 1909~1999)は、そのひとり。昭和37(1962)年に「静枝」と改名し、それからの印象が強い人も多いと思う。
 僕がまず思い浮かぶのは、『ドラマ人間模様 夢千代日記』(NHK総合)のおスミさん。芸者の置屋「はる家」の女中で、シリーズ第1作『夢千代日記』(1981年2~3月)から、第3作『新 夢千代日記』(1984年1~3月)の途中まで出演した。おスミさんは、はる家の女将・夢千代にとって大切な存在で、夢千代を演じた吉永小百合が、夏川のことを慕っていたようにも感じる。
 三船プロの大作『大忠臣蔵』(NET、1971年1~12月)にゲスト出演し、ワンシーンだけ顔を出した小野寺丹女も印象深い。仇討への悲願を秘めた夫・十内(伴淳三郎)を支える、品のいい奥方である。夏川は、大河ドラマ『赤穂浪士』(NHK総合、1964年1~12月)でも、この役を演じた。


『大忠臣蔵』第16回「柳生の隠密」(NET、1971年4月20日放送)

 映画の脇に出る夏川もいい。「あえてひとつ」と問われると、田坂具隆監督『ちいさこべ』(東映京都、1962年)を挙げたい。大工の棟梁・茂次(中村錦之助)の母親で、劇中ではすでにこの世の人ではない。茂次の回想シーンに、やさしげに、おぼろげに、わずかなシーンで登場する。同じくこの世の人ではない茂次の父が山本礼三郎で、田坂具隆こだわりのキャスティングがすばらしい。


『ちいさこべ』(東映京都、1962年)。左は中村錦之助

 最晩年まで美しい人だったが、昭和ヒトケタ時代の写真を見たときは、驚いた。かわいい。お年を召してからの品が、わかるような気がする。
 当時の人気が物語るように、本も出た。戦前の夏川静江本では、全4巻からなる自叙伝『私のスタヂオ生活』(1928~33年)と『誠文堂十銭文庫95 映画女優になるには』(誠文堂、1930年12月)がある。
 ここで紹介する夏川静江 友の會編『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會、1934年5月)は、昭和9(1934)年5月1日、大阪・朝日会舘で催された「夏川静江を舞台へ送る會」のパンフレットである。当時のスター人気を思うと、“脇役本”とは書きづらい。


『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會、1934年5月)

 明治42(1909)年9月、東京・芝の生まれ。7歳のとき、上山草人が主宰する近代劇協会の公演『銀笛』でデビューする。大正8(1919)年には、メーテルリンクの『青い鳥』に出演、初代水谷八重子がチルチルを、夏川がミチルに扮した。この舞台は、往年の夏川ファンのなかで語り草となる。
 昭和2(1927)年には日活入りして、本格的に映画に出始める。それに先立つ大正14(1925)年からは、本放送が始まったばかりのラジオに進出、ドラマ(放送劇)に、物語に、と活躍の場を広げた。モダンで先駆的な、気鋭の女優であった。


物語放送中の夏川静江(前掲書)

 夏川は、ひとつのところに安住することを好まない。昭和9(1934)年には日活を離れ、東宝へ移籍する。その節目に催されたのが「夏川静江を舞台へ送る會」と銘打つ一大イベントであった。
 とにかく豪華だ。「夏川静江 友の會」発起人に名を連ねるのが、大佛次郎、吉屋信子、谷崎潤一郎、久米正雄、山田耕筰、西條八十、岸田國士、メイ牛山ら総勢26人、そうそうたる顔ぶれ。
 当日のプログラムが、これまたゴージャスである。市川春代の「開会のことば」で第1部の幕をあけ、西條八十の「お話『しいちゃん今昔』」、日活総務・永田雅一のスピーチ「夏川君を送る」、夏川主演映画の主題歌コンサート(唄が松平晃と渡邊光子、踊りが川口秀子)とつづく。
 第2部は、口上から始まる。司会が松井翠声で、夏川、市川、鈴木傳明、小杉勇、高田稔、山本嘉一、入江たか子、伊達里子、飯塚敏子、片岡千恵蔵、林長二郎、阪東好太郎、中野英治、花井蘭子、山路ふみ子、杉山昌三九ら総勢19名、豪華スターが綺羅星のごとくズラり。当日は、撮影や都合で来れなかったスターがいるにしろ、すごいメンツである(プログラムにあるのは、出演を承諾した人たち)。
 口上のあとは、横山エンタツ・花菱アチャコの二人漫談(漫才に非ず)「夏川静江と結婚した話」、静江による「愛弟(夏川大二郎)紹介」、そして、市川春代・夏川大二郎主演のトーキー作品『さくら音頭』(日活太秦)でお開きとなる。


『夏川静江を舞臺へ送る』

 当日のパンフレットも、贅を尽くしたもの。菊判・全36ページ、すべてグラビア印刷である。
 吉屋信子の詩と大佛次郎のエッセイ(『私のスタヂオ生活』からの再録)、エンタツ・アチャコ「夏川静江と結婚した話」誌上再録、夏川のエッセイ3編(「スクリーンよりステージへ」「大二郎をどうぞよろしく」「わが二十六年史」)、夏川の出演リスト(舞台、映画、ラジオ)と盛りだくさん。サントリー角瓶、山葉ピアノ、コロムビア、ポリドール、宝塚少女歌劇、大阪ガスビルなど、当時の広告がまた楽しい。
 パンフレットにおさめられた3編のエッセイは、いずれも読ませる。たとえば、こんな赤裸々な文章がある。

 私が映畫から舞臺へ轉向を思ひ立ちました時、松竹のお世話になるべきか、東寶へ入るべきかと餘程迷ひましたが實を申しますと、私自身としては、どちらかと申せば、松竹の方へ心が傾いてゐたので御座います。それと申しますのは、松竹には、私の師事すべき先輩の方々がゐられるからであります。私の様な未熟者は、月が太陽に照らされて光つて見えます様に、はたの藝の光をあびて、始めて光つて見えるのです。で自力を養ふに、先づ他力にすがつて勉強いたしたいものと、松竹行きを考へたのでありますが、しかしこれは自分だけの立場から考へたことで、いよいよ自分の針路を決める段になると、やはり私の家庭の人々が在来の芝居國の慣習に踉(つ)いてゆけるものかどうかといふような點も考へねばならず(後略)
(夏川静江「スクリーンよりステージへ」前掲書)


『夏川静江を舞臺へ送る』

 世に、移籍のゴタゴタはつきものだ。この3年後には、松竹から東宝への移籍をめぐって、林長二郎こと長谷川一夫の顔斬り事件が起きた。夏川の東宝移籍は、血の雨こそ降らなかったものの、さまざまな大人の事情があったことは想像できる。
 当時の日活総務が永田雅一、のちの大映“永田ラッパ”で、東宝には小林一三がいる。日活が夏川を手放すと決めたとき、東宝とどういう手打ちをしたのか。本音では松竹に行きたかった夏川は、そのかけひきを知っていたはずである。この移籍ののち、夏川は東宝劇団(第一次)に参加する。
 それにしても、率直に書いたものだ。先のエッセイには、《一時沈鬱になつてをりました私》との言葉もある。舞台、映画、ラジオと場数を踏んだとはいえ、当時はまだ20代半ばの女性である。
 夏川が、このお祭り騒ぎな会を快諾した理由は、友の会の後押しや移籍をめぐる大人の事情だけではない。日活でデビューしてまもない弟・大二郎(当時22歳)を世に出す意味あいもあった。会のしめくくりを、大二郎主演映画の上映にあてたことからも、それがわかる。


夏川静江と夏川大二郎(前掲書)

 果して大二郎にどれだけの天分があるものか、ないものか、私にはちつともわかりませんが、映畫の議論をすると、きつと私が凹まされます。そりや全くゑらさうなことをいふのです。そして大の岡田嘉子さんびいきで、ぜひ岡田さんと『椿姫』が撮りたいなんて、一人前のスターででもあるやうなことをいふのです。しかし、やつぱり子供です。私のお知合に紹介してやらうと思つても、人一倍大きな體をしながら、すぐ顔を赤くしてしまつて、禄すつぽ挨拶もできない始末です。
 幸ひ日活の皆さんが、争ふようにして可愛がつて下さるので、この分ならどうにか道を變へずに進み得るかと、漸(や)つとのことに胸を撫で下ろしましたものの、何分にもまだ一人歩きのできないものを、獨りぼつちにして、舞臺へ立去る私です。實のところ心配でなりません。この上はただ皆さんの御鞭撻にお縋りするばかりです。
 こないだうちは撮影がたてこんで大二郎も徹夜撮影を重ねましたが、入社早々の仕事だけにかなり苦しかつた様です。でもそんな修業は皆さんも私もして来たことです。大二郎よ、あなたが燦然と第一線のスターになる日を私は心で祈つています。
(夏川静江「大二郎をどうぞよろしく」前掲書)

 愛弟を銀幕へ送り出す姉ごころ、胸をうつ。なんて素敵なお姉さんなのだろう。そうはいっても22歳、立派な大人だし、ちと甘やかし過ぎでは、と思わなくもない。松竹移籍への未練を書き綴ったこと、弟への愛情を照れ隠しにしなかったこと……正直な女優、人である。
 姉と弟、ともに戦前、戦後と息のながい活躍をした。戦後は静江(静枝)が脇にまわったように、大二郎もバイプレーヤーとなる。貫禄のある役者だったが、山形勲や佐々木孝丸のように、巨悪をこなすスケールには欠けた。『夢千代日記』で姉が当たり役とした、おスミさんのような作品にも恵まれなかった。
 それでも、ドラマ版『華麗なる一族』(毎日放送、1974年10月~75年3月)で演じた松平日銀総裁(映画版では中村伸郎が演じた)のように、記憶したい晩年の仕事はある。姉ゆずりの品と銀行家らしい冷徹さを併せ持つ、まさに適役だった。


『華麗なる一族』第22回(毎日放送、1975年2月25日放送)

 晩年の大二郎は体調を崩しがちで、1970年代末に第一線を退いた。ベテラン三女優の鼎談本『女優事始め 栗島すみ子/岡田嘉子/夏川静枝』(平凡社、1986年12月)で、岡田嘉子から《お元気なんでしょ?》と訊かれたときは、《いえ、この前も入院してたんですよ。もう、いまは体が……、年はまだそんなじゃないんですけどね》と答えている。大二郎が亡くなったのは昭和62(1987)年で、そのころはもう女優を引退している。
 夏川静枝の自宅は杉並区永福町にあり、夫(作曲家の飯田信夫)に先立たれたあとは、ひとり暮らし。近所の人と語らい、庭の花や鳥を愛で、3時のおやつも欠かさなかったらしい。雑誌のインタビューには最晩年まで応じ、訪れる人たちを変わらぬ品と美しさでもてなした。


夏川静枝(『ノーサイド』1995年9月号「総特集・キネマの美女」文藝春秋)

随想銀幕劇場 中村翫右衛門

 フィルムが失われていたり、権利関係が複雑な作品は別として、「観たい」と念じてさえいれば、映画はいずれ自分の前にあらわれる。名画座にしろ、BS・CS放送にしろ、DVDにしろ……。
 『劇映画 沖縄』(『沖縄』製作上映委員会、1970年)がそうだった。第1部「一坪たりともわたすまい」、第2部「怒りの島」からなる3時間15分の大作で、本土復帰前の沖縄を舞台にした群像劇である。過去にVHSビデオが発売され、各地での自主上映会もあるものの、なかなか観る機会に恵まれなかった。
 観たい。なぜか。三代目中村翫右衛門(なかむら・かんえもん 1901~1982)が出ているから。明治34(1901)年、東京・下谷の生まれ。父は柳盛座の座頭だった初代中村梅雀(二代目翫右衛門)で、三代目翫右衛門を継いだのは大正9(1920)年、19歳のときだった。
 そののち、春秋座の結成と挫折をへて、昭和6(1931)年に劇団前進座の創立に参加する。前進座の看板役者にして、昭和の演劇界を代表する名優のひとりである。山中貞雄不朽の名作『人情紙風船』(P.C.L.=前進座提携、1937年)をはじめ、主演格で出た映画も少なくない。
 晩年は、映画やテレビドラマの“脇の抑え”で存在感を光らせた。“渋い”という言葉では物足りない。ものがたりの要に出てくるだけで“幸せ”な気持ちになる。
 『劇映画 沖縄』には、そんな翫右衛門が登場する。だから、観たい。そう念じていたら、なかのZEROホール(2017年11月)、ラピュタ阿佐ヶ谷(2018年8~9月)、ポレポレ東中野(2019年6月)と近年相次いで上映された。なかのとラピュタで2度、この大作を味わうことができた。


『劇映画 沖縄』(『沖縄』製作上映委員会、1970年)リバイバル上映チラシ(2017、19年)

 加藤嘉、飯田蝶子、花沢徳衛、吉田義夫、鶴丸睦彦、戸浦六宏、鈴木瑞穂と好きな役者がいろいろと出てくる。お目当ては翫右衛門、である。演じるのは、米軍の土地強制接収に抗う反対派のリーダー、古堅秀定。反対運動を主導した阿波根昌鴻がモデルで、期待した以上の名演であった。
 秀定は、前半の要となる存在である。測量に来た米軍関係者を前に、土地を奪われる農民たちの怒りが昂る。一触即発、秀定は平和的な対話を農民たちに説く。ところが、米軍の暴挙が度を越したとき、秀定の堪忍袋の緒が切れた。米軍兵士に銃を突きつけられても動じない、翫右衛門憤怒の芸の幕があく。その見事さたるや!


『劇映画 沖縄』第1部「一坪たりともわたすまい」。手前左より鶴丸睦彦、中村翫右衛門、戸田春子、加藤嘉

 第1部の終盤、愛すべき沖縄のおばば(飯田蝶子がセリフなしで好演)が、米軍演習の巻き添えで命を落とす。秀定は、おばばの孫(佐々木愛)や集落の民の先頭に立ち、おばばの棺とともに、米軍に奪われた土地を歩む。「一坪たりともわたすまい!」。凛とした翫右衛門の佇まいに震えた。


『劇映画 沖縄』第1部。中央が中村翫右衛門、左が佐々木愛
 
 翫右衛門には、多くの著書がある。『愛人の記』『演技自伝』『人生の半分』『芸話 おもちゃ箱』『劇団五十年 わたしの前進座史』『歌舞伎の演技』……自伝、芸談、プライベートな秘め事まで多彩である。
 映画俳優としての翫右衛門を知るのなら、『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』(前進座宣伝部、1987年8月)という好冊子がある。昭和62(1987)年8月13日から23日まで、今はなき前進座劇場(東京・吉祥寺)で開かれた「前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯」の公式パンフレットである。
 この特集上映では、翫右衛門が出演した『人情紙風船』、『逢魔の辻』(東宝=前進座提携、1938年)、『怪談』(にんじんくらぶ=東宝配給、1964年)、『風林火山』(三船プロ=東宝、1969年)、『天狗党』(大映京都、1969年)、『劇映画 沖縄』、『いのちぼうにふろう』(俳優座映画放送=東宝配給、1971年)、『軍旗はためく下に』(東宝=新星映画社提携、1972年)が上映された。


『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレット(前進座宣伝部、1987年8月)


「前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯」チラシ

 このパンフレットには、翫右衛門の文章がいくつか再録されている。『劇映画 沖縄』上映パンフに寄稿した、こんなエッセイがある。

 前進座映画『どっこい生きてる』以来、二十年ぶりで、また飯田蝶子さんと一緒に映画をつくれることは、私のよろこびの一つでした。飯田さんとは若い若いころからお友達でしたから……。
 徳之島のロケ先で、ひさしぶりで飯田さんと対面、お互いの元気をよろこびあいました。
(中村翫右衛門「『沖縄』出演のよろこび」『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』/初出は『劇映画 沖縄』パンフレット、1970年1月)

  中村翫右衛門と飯田蝶子、二名優の再会と語らいは、どんな光景であったのか。お互いの元気をよろこびあったものの、飯田は昭和47(1972)年12月に亡くなった。
 
 昭和8(1933)年公開の『段七しぐれ』(大日本自由映画プロダクション=新興キネマ配給)で、翫右衛門は映画に初出演する。それから40年ほどのあいだに、26本の作品に出演した。この特集上映は8作品なので、集大成と呼べる規模ではない。
 ただし、パンフレットはよくできている。A4判・全28ページ。上映作品データ、スチールや撮影風景、台本・ポスター・チラシ・パンフレットなどの図版、雑誌・パンフレットからの関連記事抜粋と、マニアックな翫右衛門愛にあふれている。
 読み物と資料も充実している。中村梅之助、深作欣二、栗原小巻がそれぞれ翫右衛門の人となりを綴り、演劇評論家の尾崎宏次が論考「映画のなかの翫右衛門」を寄せ、精緻きわまる「翫右衛門と前進座映画年表 1901⇒1982」を巻末に収めた。とりあえずこの一冊があれば、映画俳優・中村翫右衛門の仕事は、人前で語ることができる。


『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレット

 パンフレットの奥付を見て、気合いの入った内容に納得した。編集・レイアウト・タイトルデザインのすべてを、日本映画史家・日本映画文献史研究家の本地陽彦が手がけているのだ(本地は前進座宣伝部にいた時期がある)。
 翫右衛門ファンとしては、飯田蝶子との再会だけでなく、そのつど反応したくなる記事がほかにもある。稲垣浩監督『風林火山』では、武田家の名将・板垣信方を演じた。福島県相馬原ノ町での合戦ロケでは、山本勘助役の三船敏郎と現場が同じだった。

 三船さんとは初対面だが、私が衣裳をつけるのに手伝って鎧を着せてくれる心からの親切さと謙虚な態度に、こちらが恐縮して頭が下がる想いであった。
(中村翫右衛門「新・おもちゃ箱」前掲書/初出は『月刊前進座』1968年12月号)

 三船にとって翫右衛門は、映画俳優として大先輩にあたる。その心づかい、しみるなあ。このうるわしき光景を、息子の梅之助が見ていた。

 ロケ現場に到着しますと、ありがたいことに三船敏郎氏が自ら翫右衛門の鎧を着ける手助けをして下さいました。そして、まだ早いと言うのに兜まで着け、二時間も床几(しょうぎ)にかけて出番を待ちます。「呼ばれて待たせるのは失礼だ」、というわけです。現場では全く台本を見ない、というのもいつものことでした。
(中村梅之助「映画俳優としての父・翫右衛門」前掲書)


『風林火山』(三船プロ=東宝、1969年)ロケスナップ。左が中村翫右衛門、右が三船敏郎

 翫右衛門にとって、深作欣二監督『軍旗はためく下に』が、最後の映画出演となった。この映画は数年前、池袋・新文芸坐の夏の戦争と平和特集で観た。
 本作の役どころは、『劇映画 沖縄』とはうってかわり、老獪な人物だった。太平洋戦争末期のニューギニア、謎につつまれた理由で後藤軍曹(丹波哲郎)が処刑される。遺された妻のサキエ(左幸子)は戦後、関係者を訪ね歩き、執念で真相を暴いていく。夫の上官だった千田参謀(翫右衛門)は罪を逃れ、悠々自適の老後をおくっている。サキエの追及に動じず、のらりくらりとはぐらかす千田のしたたかさ。うまい!


『軍旗はためく下に』(東宝=新星映画社提携、1972年)。右が中村翫右衛門、左が岡本征男

 『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレットに、深作欣二のエッセイがある。翫右衛門への愛が、ひしと伝わる。

 当時、私はまだ青臭い若手監督のひとりでした。血気にはやり、性急で舌足らずな注文も多かった筈で、今思い出せば汗顔の至りなのですが、翫右衛門さんはいつもていねいな熱心さで、私の注文を受けて下さいました。そういえば翫右衛門さんは、末端のスタッフや無名の俳優さんに対する時でも、そのていねいな物腰を崩すことはありませんでした。映画界に入って以来、スタアと呼ばれる連中の馬鹿げた我侭ぶりに、ほとほと愛想をつかしていた私としては、本当に心洗われる思いの仕事ぶりでした。
 思えば私は、映画に志した頃から翫右衛門さんのファンだったのです。『戦国群盗伝』『人情紙風船』『元禄忠臣蔵』等の戦前の作品から、戦後の『箱根風雲録』『怪談』『いのちぼうにふろう』等の時代劇に於ける格調ある演技は、他の追随を許さず、今なお私の記憶の中に鮮明に残っています。
 『軍旗はためく下に』の時には、撮影現場だけの短かいおつき合いだったので、そういう私の思いをお伝えする機会もありませんでした。せめてもう一度、時代劇でご一緒していれば、いろいろ教えていただく事も多かったろうにと、本当に残念でなりません。
 偉大な俳優さんでした。改めて合掌。
(深作欣二「中村翫右衛門の想い出」前掲書)


『軍旗はためく下に』製作発表の日。左より丹波哲郎、深作欣二、左幸子、中村翫右衛門、市川祥之助、江原真二郎
 
 翫右衛門の映画出演が、『軍旗はためく下に』で終わったことが惜しまれる。幸いなことに、前進座公演や他劇団への客演のかたわら、テレビドラマには数多く出た。
 『座頭市物語』第1話「のるかそるかの正念場」(フジテレビ、1974年10月3日)では、市(勝新太郎)も一目おく、情と凄みを兼ね備えた渡世人。『横溝正史シリーズ 獄門島』(毎日放送、1977年7~8月)では、旧家の三姉妹連続殺人の鍵をにぎる住職・了然。『松本清張シリーズ 天城越え』(NHK、1978年10月7日)では、時効を迎えた殺人事件の顛末を真犯人(宇野重吉)に語る元刑事。『修羅の旅して』(NHK、1979年10月28日)では、主人公(岸恵子)の父で、病床の妻(長岡輝子)に寄り添う老いた夫。挙げればキリがない。


『座頭市物語』第1話「のるかそるかの正念場」(フジテレビ、1974年10月3日)左が勝新太郎、右が中村翫右衛門

 姿と形が見えなくても、声だけの翫右衛門もすばらしかった。ラジオ小説「私の文庫本」第79回『巷談本牧亭』(文化放送、1979年4月6日)では、舞台で当たり役とした講釈師・桃川燕雄を口演した。舞台で絶賛された見事な語り芸は、ラジオでも変わらない。
 昭和57(1982)年9月21日没、享年81。生前の舞台には、間に合わなかった。でも、たくさんの映画、テレビ、ラジオ、そして、語りのレコードを残してくれた。没後37年、その芸と人は、色褪せることがない。

愛妻家の本棚 松村達雄


『のんびり行こうよ』(浪曼、1974年5月)口絵

 マメにチェックしているわけではないのに、よく見かける俳優がいる。松村達雄(まつむら・たつお 1914~2005)は、そのひとり。亡くなって14年。もうそんなになるのか、と思う。
 BSやCSの衛星劇場でやってる『男はつらいよ』シリーズ(松竹)の常連だし、CSのTBSチャンネルをつければ、大映ドラマや『東芝日曜劇場』で顔を見る。名画座で旧作邦画を観ると、東宝系の作品や大好きな『警視庁物語』シリーズ(東映東京)に、ちょいちょい脇で出てくる。
 TBSチャンネルで最近やっていた大映ドラマ『顔で笑って』(1973年10月~74年3月)では、婿養子で恐妻家の病院長をコミカルに演じて、おもしろかった。院長の威厳は保ちつつ、家では妻(葦原邦子)や義妹(冨士真奈美)に頭が上がらない。友人の医師(フランキー堺)を訪ねては、「女房に『バカもん!』と言ってみたい」とグチをこぼす。


大映ドラマ『顔で笑って』。左より冨士真奈美、松村達雄、葦原邦子

 大正3(1914)年、横浜生まれ。法政大学在学中は、ラグビー部のエースだった。新劇俳優を志したのち出征し、復員。昭和27(1952)年に劇団「五十人劇場」を旗揚げし、新劇人としての我が道を歩んでいく。
 でも、それだけでは生活が苦しい。映画や草創期のテレビドラマに出演し、顔と名前が少しずつ知られていく。昭和40年代には、テレビのホームドラマで売れっ子となる。佐分利信や山村聰のような“重厚オヤジ”ではなく、威厳がからまわりする“色気のある”恐妻家がぴったりだった。
 そのことは、演じる本人も知っている。松村が書いた「いいと思うよ」というエッセイがある。タイトルは、松村が出たカメラのミニCM「コニカはコニカ、いいと思うよ」(小西六写真工業)にかけている。

 ホームドラマの話が舞いこんで、さてどんな役だろうと脚本を読んでみると、大がい恐妻家の旦那というのが私の役どころである。
 たまにはその旦那が学者であったとしても、金にならない研究かなんかしていて、生活能力はいたって薄弱、怠惰の見本みたいな人物で、それならそれで女房の指揮のもとにおとなしくおさまっていればいいのだが、女房以外の女性には意外と勤勉なところがあり、仕事などは後手、後手となるくせに、逢いびきともなると、約束した喫茶店では二十分も前から坐っているような旦那なのである。
 いわばどこにでも転がっている鼻下長旦那の姿なのだろうか、そんな旦那の役がしばしばくるところをみると、その姿は私にまんざら無縁なものではないのだろう。
(松村達雄「いいと思うよ」『金はなくても 芝居と女と貧乏と』未央書房、1968年5月)

 ホームドラマで顔が売れたこともあり、本を出す話が松村に舞い込む。新聞・雑誌に書いた雑文を集めた『金はなくても 芝居と女と貧乏と』(未央書房、1968年5月)が最初の本で、渥美清と岸田今日子が推薦文を寄せた。


松村達雄『金はなくても 芝居と女と貧乏と』(未央書房、1968年5月)

 装幀といい、タイトルといい、いかにも安直な俳優本で、内容は期待しなかった。ところが読んでみて、驚いた。短いエッセイばかりだが、どれも手馴れている。私小説作家が書く随筆のような洒脱さ、ユーモアとペーソスがある。
 この本に、「飯店通い」と題した3ページ足らずの一文がある。松村がレギュラー出演した『若い季節』(NHK総合テレビ、1961年4月~64年12月)の舞台裏を綴ったものだ。NHKのスタジオは当時、西新橋の内幸町にあった。『若い季節』は、日曜夜の生放送で、本番前のわずかな時間、出演者は近くの四川料理店で夕食をとる。松村は「S飯店」と書いているが、陳建民が営む「赤坂四川飯店」(旧田村町)のことだろう。

 ピリッと舌にやきつくような、それでいてえもいわれないかおりのある辛味、四川料理独特の味をすでに一同は知っているのである。さあ、きょうも食うぞと、あの特徴のあるやさしい目をちょっとつり上げて渥美ちゃんが私に呼びかける。だれ一人多忙ならざる者のない中で、特に大多忙のハナちゃん、植木ちゃんは先週は映画のロケのため食いそこなったが、ロケ隊で豚のむしたやつを思い出してかなわなかったと、すでに腕まくりして戦意じゅうぶんと見受けられる。実際にこの二人の食欲に私はあぜんとしたことだった。スーダラの源泉であろうか。
 淡路恵子さんは相も変わらぬ落ち着いた物腰で、このクラゲがおいしいのよ、この味が。私はこれだけあればいいのよ、としっとりとおっしゃる。おいしいわね、おいしいわねとニコニコの森光子さん。ある日ゲストでこられた伴淳さんがゆうゆうとハシを運ばれる姿はまさに中国の大人であった。黒柳さんも横山さんも夢中である。あの恐るべき急テンポの舌を四川料理にたいしてはどのように処するものか、くわしく観察する余裕は私にもなかったが、とにかく実によく食べ、よくしゃべるのである。
 さて会計ともなると、いつのころからか菅原謙二さんにきまってしまって、さっと勘定を払ってもらう。そのあとで回転の速い菅原さんの計算でワリカンの数字がこれもまたさっと出る。そしてこれもまたいつのころからか、女性は速度も分量もだいぶ男性からは劣るように感じられるという男性側の決議で、女性側の猛反対にもかかわらず八割ときまっていた。(中略)
 セリフなどとちりながらも本番ともなれば、あの四川独自の辛味がピリリとききめを現わして、あのように楽しく『若い季節』は放送されたのである
(「飯店通い」前掲書)

 『若い季節』は、銀座の化粧品会社が舞台で、松村の役どころは同社の専務だった。ドラマ版の映像は残されていないが、そのにぎやかな雰囲気が、このエッセイからは伝わる。このわずかな文章のなかに、これだけの人(渥美清、ハナ肇、植木等、淡路恵子、森光子、伴淳三郎、黒柳徹子、横山道代、菅原謙二)が登場し、四川料理のうまさとドラマの魅力もちゃんと書き込む。うまい。


松村達雄自画像(『金はなくても 芝居と女と貧乏と』扉)

 松村達雄のエッセイ集は、『金はなくても』と『のんびり行こうよ』(浪曼、1974年5月)がある。この2冊を読むと、洒脱な随筆をものにした秘密がわかる。大の読者家なのである。
 おさめられたエッセイには、武林無想庵、尾崎一雄、川崎長太郎、和田芳恵、辻潤といった、好きな作家、愛読書のことがよく出てくる。戦後の生活が苦しかったとき、大学の友人3人と出版業をもくろみ、文学叢書を企画したこともあった(資金のメドがたたず頓挫)。
 松村のエッセイには、そうした読書傾向がにじみ出る。「銀座と暢気眼鏡」(『金はなくても』)では、尾崎一雄の『芳兵衛物語』を引き合いにしつつ、みずからの貧乏生活と19歳年下の妻とのおのろけを綴り、“愛妻家”らしいオチをつけた。《すこぶるのん気な芳兵衛だった》。
 2冊目の『のんびり行こうよ』に、旧知の永六輔がこう序文を寄せる。

 松村サンは話をしていると役者というより文士という気がする。
 作家ではなく文士。
 世をすね、世間からも半端者に思われているという文士である。
(永六輔「序文」『のんびり行こうよ』浪曼、1974年5月)

 その『のんびり行こうよ』では、本の校正段階で松村が、担当編集者に川崎長太郎論をふっかけている。「あとがき」にその顛末を記したあと、こうつづけた。

 さて、その川崎長太郎氏のことだが、その飄々脱俗のくらし振りの、なんとうらやましいことか。
 もちろんその姿勢の仔細は、小説からしか知らないのだが、あのような情けない始末から生まれる愛嬌の根はなんだろう、無理なく自然に生きている、ということだろうか。
 こんな話をしていては、あとがきにならないのだが、役者の書いたものなど、どこか気取りや体裁ぶったところがあって、正直なところ、私は本のうしろにかくれたい。
(「あとがき」前掲書)



松村達雄『のんびり行こうよ』(浪曼、1974年5月)

 つい先日、愛書家らしいところで松村の名前を見た。自宅に送られてきた古書展の目録に、その名があった。
 目録には《松村達雄旧蔵書》と記され、33冊の旧蔵本がまとめて売りに出ていた。書き手の顔ぶれがすごい。森繁久彌、沢村貞子、高橋とよ、伊藤雄之助、金田龍之介、香川京子、葦原邦子、望月優子、仲代達矢、なべおさみ、中村梅之助、中村メイコ、永六輔、稲垣浩、平岩弓枝……。その多くが、松村宛ての献呈署名本である。
 33冊まとめて大人買い(ページ買い)して、我が書棚に松村達雄旧蔵書コーナーをこしらえる、という余裕はない。このなかから2冊“厳選”して注文した。
 ひとつが、“名脇役本”たる伊藤雄之助の『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年4月、古書価6,000円)。もう一冊が、山本薩夫監督『戦争と人間』(日活、1970年)で張作霖を演じた落合義雄の『ぐんま演劇 回り舞台――自伝に寄せて』(上毛新聞社、1965年1月、古書価1,500円)である。



伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年4月 ※画像は再版本)

 『大根役者』は、これで3冊目となる。すでに装幀違いを2冊持っているが、「松村達雄宛て献呈署名本」も欲しくなった。それはまた、期待を裏切らない逸品だった。顔も、声も、芝居も味わいぶかき名優は、ペン書きのサインにも味がある。
 署名には《一九六八・六・歌舞伎座ニテ》とあり、同年6月発行の再版を献じている。伊藤はこの月、歌舞伎座の「吉例中村錦之助公演」に出ていた。面識のある伊藤の楽屋を訪ねた松村へ、出来たばかりの再版本をプレゼントしたのかもしれない。
 大切に保存したのか、書き込みや傷みはなく、帯・カバー・売上スリップ(補充カード)、いずれも欠けていない。まごうことなき雄之助の極美本。「読みました?」と訊きたくもなるが、それでは愛書家に忌み嫌われる。やめておこう。