脇役本

増補Web版

花嫁の父 有島一郎 嶋田親一の証言と資料に拠る④


『ありちゃんのパパ先生』(フジテレビ、1959~60年)本読み中の有島一郎(新宿区河田町のフジテレビにて)

 2022(令和4)年7月8日、90歳で亡くなられた演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さん。今回も、入院される直前までおこなったオーラルヒストリーと旧蔵資料を通して、ともに仕事をした俳優の素顔をさぐっていく。
 佐々木孝丸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25、市村俊幸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11、河内桃子https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/10/02に続いて、4人目は有島一郎(ありしま・いちろう/1916~1987)のことを書く。有島主演の30分ドラマ『ありちゃんのパパ先生』(フジテレビ、1959年3月3日~60年2月23日放送)は、嶋田さんにとって最初の連続ドラマ演出となった。


島田親一(嶋田親一)演出『ありちゃんのパパ先生』。左より有島一郎、野上優子、家田佳子、若山セツ子

 嶋田さんには、終生慕った師匠がいた。ひとりが本ブログで書いた佐々木孝丸、いまひとりが新国劇文芸部時代に演出助手としてついた劇作家で演出家の北條秀司である。
 有島一郎もまた、演出家・嶋田親一にとっての師匠である。著書『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』(清流出版、2008年4月)にこうある。《「あなたのテレビ演出の師匠は?」と、もし問われたら私はためらわず「ありちゃん、有島一郎!」と答えるだろう》。


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景。左端に若山セツ子、中央に嶋田親一、右端に有島一郎(嶋田親一『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)

 有島一郎のことは、筆者も『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)で触れた。愛嬌のある芝居、哀歓のにじむ佇まい、したたかな中間管理職から凄みのある悪役まで、さまざまな役どころで魅せる往年の名脇役だ。
 そんな有島の素顔を、嶋田さんからいろいろと伺った。映像が残らず、いまや幻となってしまった生放送ドラマのエピソード、現場の匂い、人の息づかい。すてきな思い出を聞かせてもらい、感謝の気持ちでいっぱいである。
 
 有島一郎が亡くなったのは、1987(昭和62)年7月20日。享年71。その4日前(7月16日)にはトニー谷が、3日前(7月17日)には石原裕次郎が、それぞれ亡くなった。ワイドショーや芸能メディアは裕次郎の死でもちきりとなり、トニー谷と有島一郎の死は、その陰にかくれてしまった。
 有島の死から35年。その印象がいまなお薄れないのは、名画座でかかる旧作邦画によく顔を出すことと、地上波・BS・CS問わず再放送される『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)の印象があるからだろう。
 有島一郎ふんする「爺」こと加納五郎左衛門は、徳川吉宗(松平健)の守り役(御側御用取次)である。登場したのは初期の『吉宗評判記 暴れん坊将軍』(1978年1月7日~82年5月1日放送)と『暴れん坊将軍Ⅱ』(1983年3月5日~87年3月7日放送)に過ぎないが、それでも400話以上ある。


『暴れん坊将軍Ⅱ』より加納五郎左衛門役の有島一郎(第89回「八丁堀師走の恋唄」テレビ朝日、1984年12月29日放送)

 いまでも有島一郎といえば、「上様!」と吉宗を追いかけまわす、硬骨の老臣にして可愛げのある「爺」を挙げる人が多い。演じた本人にとっても、愛着のある役柄となる。『脇役本』でも紹介したユニークな自叙伝『ピエロの素顔』(レオ企画、1985年4月)に、有島はこう書く(有島は自分のことを「彼」と三人称にしている)。

 現在の彼は、テレビ朝日の『暴れん坊将軍』の仕事で、十日に一ぺんは京都の東映撮影所と東京を往復する生活を送っている。どうせ半年ぐらいで終わるだろうと思っていた仕事だったのだが、早いもので七年も続いている長寿番組となった。
 主役の松平健さんと彼は、この仕事ではじめて知り合った。長いつき合いの間に、娘ばかりで息子のいない彼は、息子を見守るような気持ちで健さんの成長を楽しんでいる。
(有島一郎『ピエロの素顔』レオ企画、1985年4月)


有島一郎『ピエロの素顔』(レオ企画、1985年4月)

 1986(昭和61)年11月24日、嶋田さんは、大阪・新歌舞伎座の楽屋を訪ね、有島と会っている。「松平健特別公演」(11月1日初日、28日千秋楽)夜の部『吉宗評判記 暴れん坊将軍―二人吉宗・望郷の唄―』(土橋成男脚本・演出)に、有島は特別出演した。演じるのはもちろん、「爺」こと加納五郎左衛門である。


大阪・新歌舞伎座「松平健特別公演」広告(『演劇界』1986年11月号、演劇出版社)

 体調は思わしくなかったものの、有島は「爺」の役をライフワークと決め、『暴れん坊将軍』の仕事だけは続けた。嶋田さんの著書『人と会うは幸せ!』に、面会時の様子が書かれている。

(前略)テレビでの持ち役、爺ィに病をおして出演していた。体に器具をつけ、歩行も困難だったらしい。
 楽屋で待ちかねていた有島一郎は、ほんとうに嬉しそうに、前の晩から栗しみにしていたと語ってくれた。そして、スクッと立ち上がって「ホレ見てよ!」と、あの、足芸をやってみせた。周囲の人が呆気にとられた。
「ホラ、まだやれるでしょ。もう一度やろうよ、シマダさん!」と言って楽しそうに大声で笑った。これが最後になった。(後略)
(嶋田親一『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)

 有島一郎が71歳で亡くなったのは、翌年の7月。『暴れん坊将軍Ⅱ』の放送が終わって、4か月後のことである。筆者の大学の同級生は、「有島一郎が亡くなってから(『暴れん坊将軍』を)見なくなった」と言っていた。

□□□

 有島一郎は著書『ピエロの素顔』の「序」に、こう記している。

大正初期に生まれ
昭和にかけて第二次大戦の戦前、戦中、戦後を生きてきた彼は
今だに光輝いているスターではなく
まるでスターダストのように細々と光っている六十代になった老優である。
(『ピエロの素顔』)

  1916(大正5)年3月1日、名古屋の生まれ。病弱な母親に連れられ、幼いころから映画と芝居に親しむ。それが、ごくごくわずかな、母と過ごした思い出となった。
 1933(昭和8)年、中学校の先輩で俳優の田村邦男へ弟子入り。京都で暮らし、師匠のお供で日活の撮影所に出入りし、大河内傳次郎をはじめ、多くのスターと接した。
 まもなく田村邦男のもとから去り、軽演劇の世界に身を投じる。それからのキャリアは多彩だ。笑の十字軍、名古屋劇場、ムーラン・ルージュ新宿座、有島一郎一座、新進劇団、劇団新生家族、劇団たんぽぽ、空気座、松竹、東宝ミュージカル、東宝現代劇……。戦前、戦中、戦後とさまざまな役をこなし、舞台、映画、ラジオとジャンルは問わない。


「劇団たんぽぽ」のころ。左より堺駿二、水の江瀧子、有島一郎(『ピエロの素顔』)


川島雄三監督『花影』(東京映画、1961年 12月9日公開)。左に有島一郎、右に池内淳子
 
 1953(昭和28)年2月の本放送開始時から、テレビにも多く出た。NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現・TBS)、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)に続いてフジテレビが開局(1959年3月1日)したころ、有島はテレビの売れっ子だった。
 映画では脇にまわることが多かったものの、テレビでは堂々たる主演スターである。有島左内役で主演した『ありちゃんのおかっぱ侍』(ラジオ東京テレビ、1957年1月8日~59年2月25日放送)は、テレビ草創期の人気作となり、主題歌はレコード発売された。

 まだ、ビデオテープなどという便利なものもなかったため、スタジオで芝居をしている同時刻に、そのまま各家庭の受像機に送られる“生放送”で、どんなミスも許されなかった。そのため三十分番組だった『ありちゃんのおかっぱ侍』は、三十分の枠内できっちり終わらなくてはならないなど、いろいろと拘束条件も多く、芝居の間は緊張の連続であった。とはいえ、無事に終了した後の喜びと充実感はまた格別で、今のテレビの仕事では到底味わうことのできないものだった。
(『ピエロの素顔』)


『ありちゃんのおかっぱ侍』(ラジオ東京テレビ、1957~59年)の有島一郎(『ピエロの素顔』)

 『ありちゃんのおかっぱ侍』が終了して1週間後、開局したばかりのフジテレビで、『ありちゃんのパパ先生』がスタートする。毎週火曜日、22時15分(のちに22時開始に変更)からの30分ドラマで、『ありちゃんのおかっぱ侍』と同じくぶっつけ本番の生放送だった。
 担当(プロデューサー兼ディレクター)として演出を任されたのが、当時28歳の嶋田親一(当時は「島田親一」名義)である。有島一郎は43歳、ひとまわり以上離れた先輩との初仕事となる。


『ありちゃんのパパ先生』。左より若山セツ子、有島一郎、清川虹子

『ありちゃんのパパ先生』が、プロデューサー兼ディレクターのデビュー作になるのかな。有島さんとは、ニッポン放送時代に一度お目にかかったくらいの関係です。「パパ先生」は、僕の企画でもなんでもないんです。「有島一郎主演のドラマを東宝とやることになった。君に演出してもらいたい」と。
(第4回聞き取り)

 『ありちゃんのパパ先生』は、男やもめの開業医(有島一郎)と3人の娘(若山セツ子、家田佳子、野上優子)が織りなすホームドラマ。新宿区河田町に落成したフジテレビスタジオからの生放送で、サンウエーブ工業株式会社の一社提供だった。音楽は、『ありちゃんのおかっぱ侍』から引き続き、宇野誠一郎が担当した(嶋田さんの日記によれば、主題歌もあったらしい)。
 脚本を手がけたひとり、小野田勇の旧蔵台本には「8 JOCX-TV」のロゴとともに「製作 東宝株式会社テレビ部」の判が押されている。台本は現在、一般社団法人「日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム」が管理している(現時点で閲覧できないため、登場人物の名前は不明)。

お母さんがいなくて、3人の娘のお父さんが有島さん。「パパ」だけど「先生」、お医者さんというわけ。脇まで配役はすべて決まっていました。「ぜんぶ決まっているんですか」と上司にぼやいたら、「東宝はフジテレビの株主だし、開局すぐのドラマだから、キャスティングそのほかは東宝のチカラを借りたほうがいい。でも演出は君だ。このドラマは、有島さんとうまくいかないとできない。君はニッポン放送での経験があるし、(有島一郎の俳優仲間である)千葉信男や市村俊幸とも親しいし、きっとうまくいくよ」。そうおだてられて、説得されたんです。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』。左より家田佳子、野上優子、若山セツ子、有島一郎

 「電気紙芝居」とテレビを揶揄する声もあるなか、嶋田さんはテレビに夢と希望を抱いた。ニッポン放送から、開局前のフジテレビに異動が決まったとき、「音だけのラジオから、画面のあるテレビへ」と前向きだった。ただ、有島一郎主演ドラマの演出は、どちらかといえば気乗りがしなかった。聞き取りの席でも、「最初のスタートがお仕着せの番組というのはアレだけど」と言っていた。
 嶋田さんにとってテレビドラマの演出は、『ありちゃんのパパ先生』が初めてではない。フジテレビの開局前、『警察日記』(1959年1月12日試験放送)、『フジ劇場 執刀』(1959年2月9日試験放送)を演出した(台本には《P・D 島田親一》とある)。いずれも30分ドラマ(18時15分開始)で、開局前の試験放送(試験電波)のため、一般家庭の受像機には流れていない。
 『警察日記』は、日活で映画化(1955年2月3日公開)された伊藤永之介の原作で、高橋辰雄が脚色、ベテランの村田正雄と浮田左武郎のほか、新人の三田佳子が出演している。美術を妹尾河童、音楽をアーコディオン奏者の横森良造が担った。嶋田家の書斎に演出台本が残されていたが、テレビドラマ史にまったく記録されていない、幻の作品である。


島田親一演出『警察日記』(フジテレビ、1959年1月12日試験放送)台本

 続く『フジ劇場 執刀』は、山本雪夫のオリジナルで、夫婦にして同僚の外科医の葛藤を描く異色の医療ドラマである。主人公の外科医夫婦を、俳優座の滝田裕介と大塚道子が演じた。フジテレビの隣に東京女子医大病院がある関係で、同医大の榊原外科(心臓外科医の榊原仟)が監修、スタジオに手術室のセットを組むなど本格的な作品となる。


島田親一演出『フジ劇場 執刀』(フジテレビ、1959年2月9日試験放送)台本表紙

 『執刀』は、洋画の字幕を真似て「スーパーインポーズ」を使うなど、演出も意欲的だった。嶋田さんが生前、国立国会図書館に寄贈した台本を読むと、テンポがよく、ドラマチックな展開で本当に面白い。のちにアメリカの人気テレビドラマとなる『ベン・ケーシー』(ABC、1961年10月~66年3月放送)を彷彿とさせる。これだけの力作が、電波にのらなかったとは……。
 嶋田さんにとっても、『執刀』は忘れがたい作品となる。企画、配役、演出のすべてを手がけ、聞き取りの席でもエピソードを聞かせてもらった。国会図書館で台本を読んだことを告げると、とても喜んでくれた。

僕にとってテレビは、限りなく映画に挑戦する気持ちでやっていました。たとえば、滝田裕介と大塚道子がそれぞれドイツ語を話すと、そこに日本語の字幕が出る。夫婦で言いにくいことを、ドイツ語でごまかして言い合う。そこに「スーパーインポーズ」をいれる。そういうのって、映画しかできないじゃないですか。いかに映画に憧れていたか、なんです。あらためて(台本を)読むと、よくできたホンだと思いますね。
(第4回聞き取り)



『フジ劇場 執刀』テロップと同・台本の部分拡大(嶋田親一寄贈、国立国会図書館蔵)

 さらにもう1本、スタジオドラマではなく、16㎜フィルムによる30分のテレビ映画『恋と御同席』を演出した。盟友である松木ひろしのオリジナルで、残された台本には島田親一、森川時久、丹羽茂久の3人の名が演出としてならぶ。建築デザイナー(沼田曜一)と洋装店の店員(松田敦子、今井和子、翠潤子)が織りなす、しゃれたラブコメディである。
 嶋田さんの証言によれば、杉並区荻窪でロケがおこなわれ、「こういう映画は苦手」と森川から演出を押しつけられた。『恋と御同席』は、内部研修用のパイロットドラマだが、1959(昭和34)年4月11日に放送されている。


島田親一、森川時久、丹羽茂久演出『恋は御同席』(フジテレビ、1959年4月11日放送)台本

 嶋田さんにとって『ありちゃんのパパ先生』は、『警察日記』『執刀』『恋と御同席』に続くもので、本放送として最初のドラマ演出となった。演出家として記念すべき作品であり、『執刀』のように企画から配役まで、自分のカラーを出したかった。局から、すべてお膳立てができていることを告げられ、その心中は穏やかではなかった。
 ところがやってみると、『ありちゃんのパパ先生』も忘れ得ぬ仕事となる。嶋田家の書斎には、このドラマの写真(スチールとリハーサル風景)が70枚以上残されていて、深い愛着がうかがえる。そのいちばんの理由は、主演であり現場の要となった有島一郎の存在にある。

有島さんとの最初の顔合わせで、「すごい人だな」と感じました。開口一番、「東宝がお膳立てしたけど、作るのはあなたです。ひとつ、いっしょにやりましょう」と。「恐縮です。僕は舞台出身ですが、テレビドラマを生で演出するのは初めてです。ご指導をお願いします」と言いました。有島さんは早くから、テレビドラマに出られていましたから。それから本当によくしていただいたし、仲良くなりました。謙虚な方なんですよ。出会ってから亡くなるまで、ずっと「シマダさん」と「さん」づけでしたし。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』メイク中の有島一郎(フジテレビメーキャップ室、1959~60年)

 当時の生ドラマはどのように作られ、電波にのったのか。『執刀』の演出台本によると、「ロケハン」「音楽録音」「本読み」「立ち稽古」「スタッフ会議」「ドライリハーサル」「カメラリハーサル」「本番(放送)」の流れで、ロケハンから本番まで6日かけている。当時の生ドラマはだいたい、この流れで放送されていた。
 嶋田さんは生前、『ありちゃんのパパ先生』第26回「おふくろ台風」(小野田勇脚本、1959年8月25日放送)の演出コンテ台本を寄贈している(日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムが管理)。同台本の表紙には「71カット」とあるが、残念ながら内容は閲覧できない。
 『ありちゃんのパパ先生』の演出は、フジテレビ芸能部第4班のプロデューサー(ディレクター)島田親一である。有島一郎は、その現場のまとめ役となり、(いい意味で)演出に口をはさむ。残された写真を見ると、現場での存在感がわかる。


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景。左より3人目に有島一郎

演出コンテ台本をもとに、立ち稽古をします。この場面はアップで撮る、という決め事はしておく。ただし、有島さんのようにキャリアのある方は、いろんな発想をお持ちだし、あんまりこちらで決めてしまうとおもしろくない。立ち稽古のとき、「ここ、もらえる?」と有島さんが僕に言う。「自分をアップで撮ってほしい」というわけ。演出に問題がなければ、「有島アップ」と台本に書き込む。そして本番、ゆがめたり、笑ったり、顔で芝居をする。有島芸ですよ。そうした現場でのあ・うんの呼吸は楽しかったし、名優だと思いました。
(第4回聞き取り)

 有島ほどのキャリアの持ち主が、現場で口を出すことに、嶋田さんは違和感を覚えなかった。むしろそこに、演出のキモを見いだしていく(有島はアドリブを入れるとき、嶋田さんにきちんと許可をとったそうである)。有島一郎や新国劇文芸部時代に接した島田正吾、辰巳柳太郎について、「あのクラスになると演出家以上」とふりかえる。

島田と辰巳は、舞台稽古で演出が気に入らないと、舞台上で動かないんです。僕が演出助手でついた中野実さんの芝居(1954年上演『叛乱』)では、演出の中野さんと大喧嘩でした。島田も、辰巳も、客席から自分がどう見えるのか、ちゃんとわかっている。自分を客観視することができて、そこに俳優としての筋が通っている。有島さんもそうでした。ご自分で演出はしなかったけれど、演出家以上の注文をこちらにぶつけてくる。僕も演出のことを、そこから学びました。芸を盗むのではなく、こちらに伝わってくる。自然とどこかで会得していました。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景。手前左に有島一郎、右奥に殿山泰司

 『ありちゃんのパパ先生』の原案は、ムーラン・ルージュ新宿座で活躍した劇作家の小崎政房(松山宗三郎の名で俳優としても活動)によるもの。ただし、ドラマの基本フォーマットは、有島一郎の意向を反映している。コメディの『ありちゃんのおかっぱ侍』とは路線を変え、有島はしっとりとしたホームドラマを目ざした。嶋田さんは著書にこう書き残す。

 喜劇人としての地位を作り上げていた有島一郎は、「笑わせる」という意識を捨てて、リアルな日常生活を描き、その中で父娘の愛情を表現したい――企画の意図は彼の理想を反映させたものだった。この日常生活を丹念に描くというのは、茶の間にじかに入っていくテレビという媒体に合っていた。
(『人と会うは幸せ!』)

 演劇評論家の戸板康二は、家族連れで日比谷を歩く有島の姿を見かけて、こう書いた。《子供をつれて散歩をしている彼は、日曜日のサラリーマンのように、あかるい表情の一市民だ(略)短い時間、ほんのりと、ぼくを楽しませてくれる役者なのだろう》(『百人の舞台俳優』淡交社、1969年5月)。
 ごくごくまじめな小市民、年ごろの娘を3人もつ父親、男やもめの哀歓とペーソス。「パパ先生」のキャラクターは、有島一郎の人となり、芸と持ち味にうってつけである。しかも有島自身、3人の娘をもつ父親だった。


有島一郎・まさ子夫妻(中央)と娘たち(NETテレビ『夫と妻の記録』1961年9月22日放送)

 1959(昭和34)年2月28日、嶋田さんは『フジテレビ開局前夜祭(コマ劇場の部)第一部』の演出を担当する(新宿コマ劇場からの生中継)。翌3月1日にフジテレビが開局し、2日後の3月3日22時15分から、『ありちゃんのパパ先生』第1回「先ずはお目見得の巻」が放送された。
 テレビの本放送開始からおよそ7年、皇太子の成婚を翌月(4月10日)に控え、一般家庭へのテレビ受像機の普及は進んでいた(1959年末のNHK受信契約数は346万世帯)。しかし、当時はまだラジオがお茶の間の中心にあった。新聞の放送欄もラジオは上段、テレビは下段に掲載されている。『ありちゃんのパパ先生』も、新番組の紹介記事や広告はなく、夜の遅い帯ドラマとして、ごくひっそりとタイトルがある。


1959年3月3日付け「毎日新聞」朝刊のテレビ欄(フジテレビ部分を部分拡大)

『ありちゃんのパパ先生』のサブタイトル、放送日、脚本家は以下の通りである(表記は各紙新聞縮刷版のテレビ欄に準拠。無記名は脚本家不明)。

◎先ずはお目見得の巻(1959年3月3日)
◎先きんずればの巻(3月10日)
◎春のためいきの巻(3月17日)
◎智恵子の卒業式の巻(3月24日)
◎昔の部下の巻・前編(3月31日)
◎昔の部下の巻・後編(4月7日)
◎辛い日曜日の巻(4月14日)
◎親馬鹿の巻(4月21日)
◎晩春の巻(4月28日)
◎緑の雨の巻(5月5日)
◎夫婦喧嘩の味の巻(5月12日)
◎お早くどうぞの巻(5月19日)
◎邪魔ですの巻(5月26日)
◎青春ふたたびの巻(6月2日/小野田勇)
◎本日開業の巻(6月9日/小野田勇)
◎狼なんか怖くないの巻(6月16日)
◎奇妙なお見合の巻(6月23日/小野田勇)
◎風と花と聴診器の巻(6月30日/小野田勇)
◎今夜はラッキーセブンの巻(7月7日/小野田勇)
◎祇園まつりの巻(7月14日/小野田勇)
◎奥さま飼育法の巻(7月21日/小野田勇)
◎箱入娘冒険旅行の巻(7月28日/小野田勇)
◎ラブレター第一号の巻(8月4日/小野田勇)
◎雷雨もたのしの巻(8月11日/小野田勇)
◎なぐられたラッキーボーイの巻(8月18日/小野田勇)
◎おふくろ台風の巻(8月25日/小野田勇)
◎風が九月を持ってきたの巻(9月1日/小野田勇)
◎まごころありての巻(9月8日)
◎招かざるお客の巻(9月15日)
◎お月様はレモン色の巻(9月22日/小野田勇)
◎秋風たちての巻(9月29日)
◎困った病人の巻(10月6日)
◎わが家の禁句の巻(10月13日/須崎勝弥)
◎大阪よいとこの巻(10月20日/小野田勇)
◎智恵子の特ダネの巻(10月27日/小野田勇)
◎菊咲きみだれての巻(11月3日/須崎勝弥)
◎花束は誰に贈られたの巻(11月10日)
◎落葉の贈りものの巻(11月17日/小野田勇)
◎吾娘よ美しくあれの巻(11月24日/須崎勝弥)
◎何でも大当りの巻(12月1日)
◎師走のバラードの巻(12月8日/小野田勇)
◎捕らぬ狸の何とやらの巻(12月15日/須崎勝弥)
◎今宵楽しくの巻(12月22日)
◎鬼が笑いますの巻(12月29日)
◎華やかな招待の巻(1960年1月5日/小野田勇)
◎白梅の宿の巻(1月12日)
◎商売がたきの巻(1月19日/須崎勝弥)
◎みぞれ後ゆきの巻(1月26日/小野田勇)
◎ある夜の出来事の巻(2月2日)
◎看板に偽りなしの巻(2月9日/須崎勝弥)
◎結婚準備完了の巻(2月16日/小野田勇)
◎ハッピーエンドの巻(2月23日)

 各回のストーリーはわからないものの、季節感や年中行事をいかしつつ、一家4人の日常と人間模様を描いていることが想像できる。3人の娘の話だけでなく、男やもめである「パパ先生」の恋ごころも、そのときどきで描かれたらしい。


『ありちゃんのパパ先生』。左より家田佳子、野上優子、有島一郎、若山セツ子

 メインライターのひとり小野田勇は、三木鶏郎とともに仕事をした劇作家で、『ありちゃんのおかっぱ侍』の脚本も手がけた。ニッポン放送時代に嶋田さんが胸をときめかせた、「虻蜂座」(前々回ブログ参照)の同人でもある。須崎勝弥は当時、東宝と契約する脚本家で、数多くの映画・テレビドラマのシナリオを手がけた。

「パパ先生」の原案は、小崎政房さんでした。ムールン・ルージュ新宿座の舞台で知られた方で、僕は新国劇でごいっしょ(1953年上演『平手造酒』)したことがあります。小崎さんは最初のほうで脚本を降り、そのあとは小野田勇さんが中心となります。テレビドラマは、お茶の間にスッと入っていかなければならない。とくにこの作品は、「ありちゃんの」と役者の名前が頭についています。一話完結の人情モノ、いわゆる父モノのホームドラマで、テレビ的だったと思いますね。ストーリーも、長くても前後編で完結するかたちにしました。
(第4回聞き取り)


左に小野田勇、右に小崎政房(「ありちゃんのパパ先生・完結記念」部分拡大、1960年2月23日)
 
 嶋田さんは、生ドラマのハプニングを、おもしろおかしく語る人ではなかった。そこに、プロとしての矜持があったように感じる。生ドラマの現場は過酷で、とくに小野田勇の脚本はなかなか上がらず、ホテルに缶詰になって仕上げていた。ホンは遅いが、出来はうまい。小野田と有島、それぞれの持ち味を生かしたシナリオに、嶋田さんは舌を巻く。
 『ありちゃんのパパ先生』のメインキャストは、有島一郎の主人公と若山セツ子、家田佳子、野上優子の3人娘、くわえて島田妙子(お手伝いさん役か?)がレギュラー出演した。第26回「おふくろ台風」の演出コンテ台本によると、ほかに舟橋元、武智豊子、小田切みき、村田正雄などが出演している。
 東宝が制作にかかわった関係で、多彩で豪華な俳優がゲスト出演した。越路吹雪、三木のり平、久慈あさみ、市川春代、高杉妙子、高島忠夫、安西郷子、花井蘭子、田代百合子、三条美紀、清川虹子、殿山泰司、中村是好、嶋田さんの師である佐々木孝丸も出た。


『ありちゃんのパパ先生』。左に三木のり平、中央に有島一郎
 
 なかでも異色回は、第34回「大阪よいとこの巻」である。系列の関西テレビ放送スタジオで収録され、松竹新喜劇の曽我廼家五郎八がゲスト出演した(フジテレビでは当時『松竹新喜劇アワー』を放送していた)。その収録の帰り、東海道本線の急行「あかつき」の車内で撮られたスナップが、嶋田さんの旧蔵写真のなかにあった。


『ありちゃんのパパ先生』収録帰り、急行「あかつき」車内にて。右より2人目に嶋田親一(1959年10月19日、松下朗撮影)

有島さんだけではなく、東宝の担当者もなかなかいい人で、うまくいっしょに仕事ができました。ゲスト出演者はこちらでも考えて、佐々木のおやじ(佐々木孝丸)にも出てもらった気がするなあ。たった一度とはいえ、越路吹雪さんを演出(第45回「華やかな招待の巻」)できたのは、いまから考えるとありがたいです。感じのいい人だった記憶があります。
(第4回聞き取り)

『ありちゃんのパパ先生』。左に佐々木孝丸、中央に島田妙子

 有島一郎と若山セツ子は、お茶の間で知られた東宝のスターである。ただ『ありちゃんのパパ先生』は、テレビドラマ史にその名を刻む名作、人気作、話題作ではない。毎週火曜の夜、子どもが寝静まるころに放送された、ささやかなホームドラマである。
 フジテレビではすでに、連続・単発問わず週に何本ものドラマが放送されていた。嶋田さんも『ありちゃんのパパ先生』だけでなく、単発枠の『東芝土曜劇場』や角田喜久雄原作の『風雲さそり谷』(1959年8月30日~60年2月28日放送)を演出している。


島田親一演出『東芝土曜劇場 私は死んでいる』(フジテレビ、1959年8月15日放送)リハーサル風景。左より多岐川恭、垂水悟郎、岸田今日子、島田正吾

 メディアの注目を集めることなく、ひっそりと回を重ねていく『ありちゃんのパパ先生』。それでも、熱心な視聴者はいた。番組のファンだった小学1年の男の子が、ひとつの逸話を残す。きっかけは、フジテレビに届いた母親からの手紙だった。

有島さんのパパ先生が、その男の子の亡くなったお父さんにそっくりだったそうです。ブラウン管を見て、いつも「パパ、パパ」と話しかけている。そういう投書が、お母さんからありました。その話を有島さんに伝えたら、「いやあ、それは感激だね」と喜んで、激励の手紙(寄せ書き)をみんなでプレゼントしたんです。
(第4回聞き取り)

 このエピソードは、マスコミの知るところとなる。1960(昭和35)年1月22日付け「東京新聞」に、「少年ファンへ寄せ書き 有島一郎たちが感謝して」の見出しで記事となり、嶋田さん旧蔵のスクラップブックに貼られていた。

(前略)中森さん一家は大変な有島一郎ファン、それというのも中森さんの夫が有島そっくりで近所でも評判の人。夫婦には小学一年生の男の子があるが、夫の帰りが遅いと「アリちゃんのパパ先生」を見て「お父さんだ」と、一時のさびしさをまぎらしてきたという。ところが昨年十月十五日、突然その父親が他界してしまった。それ以来というもの、一年生の子供は毎週土曜(ママ)日夜「もう遅いから」という母親の言葉も聞かずにテレビの「アリちゃん」にかじりついて離れない。亡き父をしのぶ子供心の哀れさにたまりかねた中森さんが、子供にかわって「有島一郎さんがんばって」と手紙を書いたもの。感激した有島一郎や島田親一プロデューサーが、早速記念品を贈ろうと協議した末、とりあえず出演者一同の寄せ書きで「力を落とさず明るく暮らして下さい」と激励することになった(中略)
(有島一郎の話)ボクにも三人の子供があるが、投書を読んで胸をえぐられる気持ちがしました。俳優生活で初めての経験ですし、こういうファンのためにもシッカリやらなければならないことを痛感しました。
(1960年1月22日付け「東京新聞」)


左より家田佳子、野上優子、島田妙子、有島一郎、若山セツ子。フジテレビのメーキャップ室にて(1960年1月22日付け「東京新聞」、嶋田親一旧蔵スクラップブックより)
 
 この話は、著書『人と会うは幸せ!』にも書かれている。嶋田さんの長い放送人生のなかでも、忘れられない出来事となった。

当時のテレビは、お茶の間にストレートに入っていくものでした。男の子の話もそうですが、生放送だからこそ、見ている人や子どもたちにスッと伝わったと思いますね。「パパ先生」は、視聴率も安定していたように記憶しています。テレビのよき時代だったという気がします。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』。右から2人目に有島一郎
 
 そんな愛すべき「パパ先生」一家とも、別れのときが訪れる。スポンサーであるサンウエーブ工業の都合で、放送1年をもって終了が決まった。それを知ったファンの男の子は、さぞかし嘆き悲しんだことだろう。
 『週刊明星』(集英社)1960年2月28日号に「有ちゃん一家の別れ話」の見出しで、有島一郎、若山セツ子、家田佳子、野上優子の4人がそれぞれコメントを寄せた。

有島 お前たち、みんな仲良くやれよ。
家田 お姉さま(若山)の縁談だけはハッピー・エンドにしてもらおうね。
野上 パパにも、ナイト・クラブや、あっちこっちにつれて行ってもらって、ほんとに楽しかった。
若山 パパも、この一年間、久慈あさみさん、市川春代さん、髙杉妙子さん、ずいぶん、ヨロめいたわネ、でも、いいパパだった。
 こんどは、あたし達でお金をかけてでも、一家を再建?したいわネ……
(『週刊明星』1960年2月28日号、集英社)

 この記事によれば、有島やスタッフは2~3年は番組を続けるつもりだった。三姉妹役の若山セツ子、家田佳子、野上優子も、プライベートで親しくなった。撮影現場では文字どおり、有島が「パパ先生」となり、アットホームな雰囲気に包まれていた。そのことは、残された写真から伝わってくる。
 色川武大は著書『なつかしい芸人たち』(新潮文庫、1993年6月)のなかで、有島の素顔を綴っている。気むずかしく、孤立癖があり、不機嫌な気配をただよわせ、楽屋で人を寄せつけない。そういう一面はあったにしろ、「パパ先生」の現場での有島は、色川のエッセイを読んで受けた印象とはだいぶ違う。


『ありちゃんのパパ先生』本読み風景。右端に有島一郎
 
 1960(昭和35)年2月23日、『ありちゃんのパパ先生』の最終回「ハッピーエンドの巻」が放送された。サブタイトルと写真から推測して、長女(若山セツ子)の結婚が描かれたようである。有島のパパ先生は「花嫁の父」となり、有終の美を飾った(映画やテレビでも「花嫁の父」が得意な俳優だった)。放送当日の新聞テレビ欄の扱いはふだんと変わらず、ドラマはひっそり幕をとじた。


『ありちゃんのパパ先生』最終回「ハッピーエンドの巻」(1960年2月23日放送)。左に有島一郎、右に若山セツ子
 
 最終回の当日、フジテレビのスタジオでは、スタッフと出演者が勢ぞろいし、記念撮影がおこなわれた。生みの親というべき小崎政房や小野田勇、主演の有島一郎らと並んで、嶋田さんの姿もある。これだけ多くのスタッフと出演者の手で作られ、お茶の間へと送られていた。


「ありちゃんのパパ先生・完結記念」(フジテレビスタジオ、1960年2月23日)。前列右3人目より家田佳子、若山セツ子、有島一郎、野上優子、小崎政房、小野田勇。野上の後ろに嶋田親一
 
 有島の著書『ピエロの素顔』に、『ありちゃんのパパ先生』についての記述はない。そのかわり、本にしていない原稿を、有島はたくさん抱えていた。有島と親交のあった芳賀綏さん(東京工業大学名誉教授、故人)から直接、その話を聞いたことがある。日の目を見なかった原稿に、「パパ先生」の思い出を綴っていた可能性はある。
 映像が霧散霧消した30分の生ドラマ。『ありちゃんのパパ先生』の関係者の多くが、この世の人ではない。嶋田さんが亡くなったことで、懐かしく思い出を語る人もいなくなってしまった。若山セツ子のことなど、もっといろいろ聞きたかった……。


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景

□□□

 有島一郎と嶋田親一、ふたりの仕事は『ありちゃんのパパ先生』のあとも続く。
 番組を終えた半年後の1960(昭和35)年8月6日、『東芝土曜劇場』の枠で、松木ひろし作、有島一郎主演の1時間ドラマ『墓場はバラ色』が放送された。『ありちゃんのパパ先生』とはうってかわり、今回はスリラー仕立ての風刺喜劇である。
 パリに憧れるコックの伴六平(有島一郎)はある日、フランス帰りの犬丸かおり(鳳八千代)と知り合う。かおりの希望で、ふたりは偽装夫婦となる。フランスにいるかおりの夫の財産を、夫のいとこ夫婦(高橋昌也、加代キミ子)が狙っていたからだ。殺し屋(植村謙二郎)が暗躍し、金と欲をめぐるトラブルに六平は巻き込まれていく。


島田親一演出『東芝土曜劇場 墓場はバラ色』(フジテレビ、1960年8月6日放送)リハーサル風景。左より鳳八千代、植村謙二郎、有島一郎、加代キミ子、高橋昌也

 前々回のブログ「ブーチャン葬送曲 市村俊幸」で触れたけれど、松木ひろしと嶋田さんは劇団「現代劇場」を旗揚げし、しゃれた喜劇をいくつも上演した。『墓場はバラ色』は、そこに有島一郎を加えた意欲作で、舞台仕立てのユニークなテレビドラマを狙った。

このドラマは覚えています。セットを横につないで、その前を登場人物に歩かせ、カメラが移動する実験的な演出にしました。僕とずっとコンビを組んだ松下朗が美術で、壁面だけのセットを組んだんです。カメラが横に移動して、カットをそこで切り替えると、ぜんぜん違う画面がそこに映る。エンドマークもフランス語で出して、しゃれたつもりでした。
(第4回聞き取り)


『墓場はバラ色』リハーサル風景。中央に有島一郎
 
 松木ひろし、島田親一、有島一郎の組み合わせで、さぞかし愉快な作品だったと思う。残されたリハーサル写真を見るだけでも、こころが躍る。ところが聞き取りの席では嶋田さんは、こう苦笑した。

『ありちゃんのパパ先生』でいい気になって、有島さんに出てもらって、松木といっしょにやったわけです。これが失敗作でね。映画評論家の飯島正さんに、ばっさりやられました。もう、めったぎりに。決していい作品ではなかったけれど、思い出ですね。
(第4回聞き取り)

 映画評論で名をなす飯島正は、テレビドラマにも注目していた。嶋田さんの言うばっさり、めったぎりにされた作品評が、当時のテレビ情報誌に掲載された(嶋田さんは辛辣な作品評もすべて、スクラップブックに貼っていた)。

 作者松木ひろしと演出の島田総一(ママ)については、何も知らない。新聞記事によると「やたら理窟の多い新劇作品の中で、しゃれたタッチとチョッピリ風刺もきかせ、ムーランの再現として評判をとった」のだそうである。もっともそれは新劇の場合で、テレピはこれがはじめだとのこと。
 ぼくもずいぶん、好奇心の強い方で、そういうふれこみならばぜひ一見をと、かたずをのんで拝見したわけだが、どうも作中の有島一郎もいっているように、これでは「なにがなんだかちっともわからない。」「しゃれたタッチ」も「チョッピリ風刺」も「ムーランの再現」も感じられなかった。いや、それらしいものをだそうとする意図の片鱗は見えないこともないのだが、それはムーラン・ルージュのような小舞台で、むしろチャチにやってこそ生きるのでテレビには無理である。これを東京宝塚劇場の大舞台でやるそうだが、その点ぼくには疑念がある。(後略)
(飯島正「テレビでは無理」『週刊テレビ時代』1960年8月第2週号、旺文社)

 この作品評で飯島は、《これを東京宝塚劇場の大舞台でやるそうだが》と書く。『墓場はバラ色』は、テレビと舞台によるメディアミックスとして企画され、放送ならびに上演された。
 ドラマ放送の翌月、日比谷の東京宝塚劇場で「秋の東宝特別公演」(9月1日初日、28日千秋楽)が上演された。3本の演目のうち、最初に上演された『夜の道化師』(4場)が、『墓場はバラ色』の舞台版である。テレビ版と変わらず有島一郎が主演し、菊田一夫が演出した。ヒロインに越路吹雪、財産を狙う夫婦に八波むと志と加代キミ子、殺し屋が三木のり平だった。


東京宝塚劇場「秋の東宝特別公演」広告(1960年8月31日付け「讀賣新聞」夕刊)


菊田一夫演出『夜の道化師』。左に堀越正太役の有島一郎、右にさつき役の越路吹雪

 先のドラマ評で飯島正は、大劇場での上演に疑念を抱いた。当時の劇評を読むかぎり、『夜の道化師』の評判はあまり良くない。舞台版について嶋田さんに訊いたところ、「舞台になったことは覚えていない」とのことだった。
 菊田一夫のキャリアのなかでも、この舞台のことは論じられることが少ない。フジテレビと東京宝塚劇場がコラボしたメディアミックスは、話題にならず終わったようである。

□□□

 有島一郎主演の『ありちゃんのパパ先生』と『墓場はバラ色』の映像が、フジテレビに残されているとは考えられない。残された写真で、想像するしかない。
 嶋田さんの演出ではほかに、小林桂樹主演の『シオノギテレビ劇場 ピーターと狸』(フジテレビ、1967年7月27日~8月17日放送)に有島が出演している。この作品は嶋田さんにとって、最後のテレビドラマ演出となった(その後はプロデューサーとして活動)。2010(平成22)年9月16日に小林が亡くなったとき、ワイドショーで『ピーターと狸』の映像が流れた記憶があるものの、全編を視聴することは叶わない。
 さいわいにも1本だけ、嶋田親一プロデュースによる有島一郎出演ドラマを見た。倉本聰原案の『土曜劇場 6羽のかもめ』(フジテレビ、1974年10月5日~75年3月29日)である。
 メンバーが6人に減ってしまった新劇の劇団「かもめ座」の座員(淡島千景、加東大介、高橋英樹、長門裕之、夏純子、栗田ひろみ)が、テレビ業界で奮闘する姿をユーモラスかつ哀しみをこめて描く。嶋田親一と垣内健二(淡島千景のマネージャー)がプロデューサーをつとめ、富永卓二と大野三郎が交代で演出を手がけた。


『土曜劇場 6羽のかもめ』。前列左より高橋英樹、淡島千景、中列左より長門裕之、夏純子、加東大介、後列に栗田ひろみ(DVD『6羽のかもめ』解説書)
 
 『6羽のかもめ』は、1970年代を代表する名作テレビドラマであり、嶋田さんの代表作でもある。2009(平成21)年2月には、フジテレビ開局50周年記念でDVD(ポニーキャニオン)が発売され、いまでも見ることができる。
 有島一郎は『6羽のかもめ』のゲスト出演者で、第10回「花嫁の父」(1974年12月7日放送)に登場する。演出は大野三郎、原案の倉本聰が脚本を手がけた。
 このエピソードで有島が演じたのは、文字どおり「花嫁の父」である。黒岩伸吉(郷鍈治)と松平冬子(泉晶子)、当代人気スターどうしの結婚が決まる。ところが冬子の父・松平公介(有島一郎)が突然ヘソを曲げてしまい、破談に。仲介の労をとった「かもめ座」の座長・犬山モエ子(淡島千景)を巻き込む、芸能スキャンダルへと発展してしまう。
 公介はなぜ、ヘソを曲げたのか。婚約発表を伝える記事の写真キャプションに、「黒岩伸吉、一人おいて松平冬子」と書かれたことに傷ついたのだ。


大野三郎演出『土曜劇場 6羽のかもめ』第10回「花嫁の父」(フジテレビ、1974年12月7日放送)。写真下に淡島千景、写真上左より郷鍈治、有島一郎、泉晶子

「一人おいて」のエピソードは、よく覚えています。同僚で仲の良かった岡田太郎から、「あれはおかしい」と指摘されたんです。岡田は、吉永小百合といっしょになったでしょう(岡田と吉永は1973年に結婚)。「芸能記事が花嫁の父を無視することは、あり得ないんじゃないか」と。「たとえ話なんだし」と答えるしかない(笑)。そもそも「一人おいて」は、倉本聰がどうしても書きたかった話なので、変えるわけにいきません。
(第11回聞き取り)

 岡田太郎の指摘は当時、週刊誌に取り上げられた。嶋田さんが「どうしても書きたかった」と明かすように、作者の倉本聰はこう反論した。

「そんなこといったって、週刊誌記者だって、佐久間良子や浅丘ルリ子のお父さんの顔を知らない人は多いでしょう。スターの父親というのは本質的に取り残された、寂しい存在なのだから、あれはあれでいいんですよ」
(「『6羽のかもめ』になぜかタレント達が大騒ぎ!」『週刊平凡』1975年2月27日号、平凡社)

 嶋田さんによると、『6羽のかもめ』のキャスティングは、脚本家、プロデューサー、演出家がアイデアを出し合い、倉本聰の了解を得たうえで決めた。寡黙で勤勉実直な公務員(区役所戸籍課の課長)にして、人気女優を娘にもつ公介役は、有島一郎にぴったりである(『ありちゃんのパパ先生』の最終回も「花嫁の父」だった)。
 「花嫁の父」の中盤に名シーンがある。ことを穏便に済ませようと、「かもめ座」のマネージャー・川南弁三(加東大介)が、公介の自宅を訪れる。公介は部屋にひきこもったまま、出てこない。弁三はふと、公介の妻・富子(初井言榮)に戦時中の身の上ばなしを始める。
 そこへ、ふすまごしに話を聞いていた公介が顔を出す。実は、ふたりは南方の戦地で会っていた。以下は、単行本化された倉本聰のシナリオの引用である。


『6羽のかもめ』「花嫁の父」。左より初井言榮、有島一郎、加東大介

公介「芝居やったでしょ。慰問隊つくって。――あっちこっち廻って、雪の降る芝居」

弁三「あ、あンた、ア、アノ芝居」
公介「観ましたよ。アバンで。ありゃまいった」
弁三「――!!」
公介「とにかくボルネオで――南の島で――舞台に雪が降ってきちゃうんだもん」
弁三「――!!」
公介「ありゃァまいった。――私ンちぁ新潟だし、わりと年じゅう雪があるから」
弁三。
――感激。
弁三「そうですかァ? あれを――。
あの芝居をボルネオで」
公介「――」
音楽――軍歌のメロディ、遠くしのびこむ。
(倉本聰「花嫁の父」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』理論社、1983年1月)


『6羽のかもめ』「花嫁の父」
 
 シナリオを読んで気づいた人も多いと思うけれど、加東大介のエッセイ『南の島に雪が降る』(文藝春秋新社、1961年9月)のエピソードそのままである。作者の倉本聰は楽屋オチとして、このシーンを書いている。
 『文藝春秋』に発表された『南の島に雪が降る』はすぐ話題となり、NHKがテレビドラマ化(1961年4月30日放送)、東宝系の東京映画が久松静児監督で映画化(1961年9月29日公開)した。どちらも加東みずから主演し、映画版では博多仁輪加が得意な篠原曹長を有島が演じた。加東はもちろん、東宝の役者仲間だった有島にとっても縁のある作品である。


久松静児監督『南の島に雪が降る』(東京映画、1961年9月29日公開)。左に篠崎曹長役の有島一郎、右に加東軍曹役の加東大介


『南の島に雪が降る』広告(1961年9月25日付け「朝日新聞」夕刊)

 「花嫁の父」のシナリオでは、「!!」が多用されているけれど、実際はもっと穏やかな雰囲気で、加東の芝居もしっとりとしている。実際の映像とくらべると、微妙に台詞の言いまわしも異なっている。
 公介と弁三、つかのまのやりとりのあと、倉本聰のシナリオはこう続く。

時の経過
酒がつがれ、また返盃される。
徳利が次々と空になっていく。
無言で飲む弁三。
無言で飲む公介。
何かきく弁三。
ボソボソ答えているらしい公介。
その二人の目にウッスラとにじんでいる涙。
音楽――静かに消えていく。静寂。
(『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)



『6羽のかもめ』「花嫁の父」

 しみじみとしたやりとりのあと、「一人おいて」がいかに無礼千万な仕打ちか、酔った公介が訥々と語り出す。弁三は、ただ黙ってうなずくしかない。有島の“語り芸”とともに、それを受ける加東がまた絶品である。

公介「弁ちゃん」
弁三「――ハイ」
公介「私は父親ですよ!」
弁三「――ハイ」
公介「二十四年間冬子を育ててきた――まぎれもない冬子の父親である!」
弁三「――ハイ」
公介「――無礼じゃないか!」
弁三「ハイ!」
公介「(涙)無礼でしょう弁ちゃん!?」
音楽――ゆっくりとたかまって終る。
(前掲書)



『6羽のかもめ』「花嫁の父」

 ストーリーはこのあと、公介を中心にもうひと騒動起こる。劇的ではないにしろ、展開としてはほろにがい結末となる。言葉すくない花嫁の父と、プライドを傷つけられた小市民のペーソス。不器用な中年男の佇まいは、有島一郎の独擅場である。

 嶋田さんが亡くなったとき、哀悼の意をこめて、この「花嫁の父」を見た。有島一郎、加東大介、倉本聰、大野三郎、そして、嶋田親一。みなさん、ほんとうに良きドラマを残してくれた。『6羽のかもめ』の話は、次回またあらためて――。
 
(つづく)

 

*印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者所蔵
(無断転載はご遠慮ください)

ヒロインひとり 河内桃子 嶋田親一の証言と資料に拠る③


河内桃子(フジテレビ『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ、1961年8月

 先々月、国立映画アーカイブ(東京・京橋)の特集上映「生誕120年 映画監督 山本嘉次郎」(2022年8月2~28日)で、『坊っちゃん社員』(東宝、1954年3月3日公開)と『續 坊っちゃん社員』(同、4月7日公開)を観た。夏目漱石の『坊っちゃん』を、現代の地方都市に置きかえた、源氏鶏太お得意のサラリーマン青春明朗喜劇である。
 小林桂樹の主演で、伊藤雄之助、清水将夫、斎藤達雄、十朱久雄、山本礼三郎、志村喬、沢村貞子、中村是好、横山運平、汐見洋、伊豆肇、堺左千夫などなど、我がごひいき俳優がぞろぞろと出てくる。理屈ぬきに愉しい作品だった。
 工場の総務課で働く昭和太郎(小林桂樹)は、さまざまなトラブルに巻き込まれつつ、持ち前の正義感と大胆さで切り抜けていく。
 太郎をひそかに想い、あたたかく見守る同僚のまり子を、デビューしてまもない河内桃子(こうち・ももこ/1932~1998)が演じている。そうそうたる出演者が顔を揃えるなか、ヒロインとしては控えめかつ、チャーミング。前から好きな女優さんだったけれど、あらためて「いいなあ」と見惚れてしまった。


東宝映画『坊っちゃん社員』(1954年3月3日公開)スチール。左より小林桂樹、河内桃子、伊豆肇

 銀幕の河内桃子を観ながら、どうしても思い出してしまう。7月9日、90歳で亡くなった演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さんのことを……。
 河内桃子と嶋田親一、ふたりはひとつ違いの同世代であり、ともに仕事をした間柄だった。そこで今回は、「素描 佐々木孝丸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25「ブーチャン葬送曲 市村俊幸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11に続いて、嶋田さんの旧蔵資料を通して、河内桃子のことを書いてみたい。
 今年で生誕90年、66歳で亡くなって、24年になる。映画から新劇の人となり、大輪の花を咲かせた、素敵な俳優であった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。右より2人目に河内桃子、3人目に嶋田親一(1961年8月)

□□□

 河内桃子は、1932(昭和7)年3月7日、東京市下谷区谷中に生まれた。祖父の大河内正敏は元子爵にして「理研グループ」の創設者、父の大河内信敬は洋画家、世が世なら子爵のご令嬢、良家のお嬢さまである。


左より父の大河内信敬、河内の母、河内桃子、河内の妹(「一週間の記録『演技派女優の道を行く河内桃子さん』」『ドレスメーキング』1960年4月号、鎌倉書房)

 日本女子大学付属高校を卒業したのち、貿易会社のタイピストをへて、1953(昭和28)年、東宝の第6期ニューフェイスに応募、合格する(その2年前、日劇の舞台『モルガンお雪』に出たことがある)。ニューフェイスの同期には、宝田明、佐原健二、足立玲子、藤木悠、岡田眞澄がいた。本名の「大河内桃子」から「大」の字をとって、「河内桃子」とした。

 早くから出演作に恵まれた。1954(昭和29)年には、先述した『坊っちゃん社員』をはじめ、いくつかの作品で重要な役を演じた。本多猪四郎監督『ゴジラ』(東宝、1954年11月3日公開)では、古生物学者の山根博士(志村喬)の娘・恵美子を演じた。河内桃子といえば、『ゴジラ』を思い浮かべる人は多い。


東宝映画『ゴジラ』(1954年11月3日公開)スチール。左に志村喬、右に河内桃子

 その後も東宝の青春映画やメロドラマを彩る若手として活躍する。宝田明の相手役をつとめた本多猪四郎監督『わが胸に虹は消えず』(東宝、1957年7月9日公開)は、全2部からなる大作で、堂々たる主演作であった。
 現代劇が多かったものの、時代劇に出ることもあった。東宝作品への出演は、4年間(1954~57年)で30本近くにおよぶ。


東宝映画『眠狂四郎無頼控 第二話 円月殺法』(1957年4月2日公開)スチール。左に鶴田浩二、右に河内桃子

 ところが、本人なりに思うところがあったのか、河内は新劇の世界に身を投じていく。
 1956(昭和31)年、劇団俳優座養成所の門をたたき、養成所の第8期生となる。東宝作品に出演しながら、六本木にある俳優座に通い、演技の勉強にいそしむ。ニューフェイス同期の宝田明は、のちにこう語った。

 同期の河内桃子は、『ゴジラ』で共演した後、一年後に司葉子が入社して来たために、ヒロインの役は司君に移行され、司君と僕との共演が続きました。
 そこで河内君は、芝居をちゃんと勉強しよう、と俳優座に入り、演技の研鑽に励み、その後舞台でプリマドンナとして活躍しました(後略)
(宝田明著/のむみち構成『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』筑摩書房、2018年5月)

 河内桃子の養成所入りは、俳優座のなかで話題となった。劇団の若手だった中谷一郎は、その噂を聞いて、写真家の秋山庄太郎に訊いた。「庄ちゃん、河内桃子って、どんな人?」。秋山が即答する。「フランス人形」。秋山と河内は、古くからの知り合いであった。


俳優座劇場前での河内桃子(『ドレスメーキング』1960年4月号)

 河内桃子の身になって考えると、俳優座養成所入りには、相当な覚悟があったはずである。同世代の、それも無名の俳優が少なくないなか、東宝における活躍を知らぬ者は少ない。
 やさしく目をかける先輩がいるいっぽうで、河内の養成所入りをこころよく思わない劇団員もいたかもしれない。養成所で同期の小笠原良知(小笠原良智)が当時の河内について、こうふりかえっている。

同期としては何となく近寄りがたい別格な存在として見ていたような気がします。そのうちあなたは、何とかクラスに溶け込もうと、そっと寄りそい腕を組み耳もとへちょっとHな冗談を言っては皆を笑わせていましたね。反面、青春スターから舞台女優へと懸命に努力していた三年間でした。
(小笠原良知「弔辞」『悲劇喜劇』1999年1月号、早川書房)

 俳優座養成所で3年間、みっちり修業した河内は、1959(昭和34)年4月、俳優座に入団する。養成所時代には、映画だけでなく、ラジオとテレビドラマにもたくさん出た。


ラジオ東京『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』放送1500回記念パーティー。後列左より河内桃子、植野晃弘、市川三郎、藤枝利民、木村時子、阿部寿美子、須藤健、野々浩介、十朱久雄、浅沼由美代、前田敏子、増田順二。前列左より佐伯徹、浦川麗子、本郷秀雄、淡島千景、久慈あさみ、佐野周二、西川敬三郎(『旬刊ラジオ東京』1956年10月21日号、ラジオ東京)

 俳優座での本格的なデビューは、シェイクスピアの恋愛喜劇『十二夜』(1959年9~10月)で、伯爵令嬢のオリヴィア役に抜てきされた。

 この公演は、俳優として確固たる地位にある小沢栄太郎が初めて演出する舞台でもあった(訳は三神勲)。河内オリヴィアの美しさは、その舞台写真を見るとよくわかる。


俳優座公演『十二夜』よりオリヴィア役の河内桃子(『AAA』創刊号、コダマプレス、1959年11月)

 付録にフィルムレコード(ソノシート)がつく雑誌『AAA』創刊号(コダマプレス、1959年11月)には、『十二夜』の一場面を吹き込んだレコードが挟まれている。河内オリヴィアの台詞も、僅かではあるけれど聴くことができる。伯爵令嬢のいい意味での高飛車な感じと品と可愛らしさがたまらない。
 事実、河内オリヴィアは、当時の新劇ファンに鮮烈な印象を残した。英文学者で演劇評論家の小田島雄志は回想する。

 花に大輪の花があるように、女優にも大輪の女優があるとすれば、この人だ、とそのとき思ったが、その思いはいまでも変わらない。彼女が舞台に立つと、凛としたその姿は等身大より一まわりも二まわりも大きく見え、彼女が笑顔を浮かべると、あたりの空気までがその笑顔の色に染まるのである。白バラが花びらの周辺の空気を染めるように。
(小田島雄志「河内桃子『十二夜』」『舞台人スナップショット』朝日文庫、1999年1月)

 新劇の舞台で華々しく、颯爽とスポットライトを浴びた河内桃子。しかし内心は、映画界に戻るつもりだった。『十二夜』で共演した中谷一郎とテレビ番組で、こんな対談をしている。

河内:私ね、発表会と卒業公演をやらなかったら、舞台人にならなかったかもしれない。
中谷:でもそう思って、劇団に入ってというか、養成所に……
河内:違うの、ぜんぜん。映画からデビューしたでしょ。(養成所に)入って、また映画界に戻るつもりだったの。
中谷:そうだったの。
河内:でも3回、舞台を踏んだということで、憑りつかれちゃったのかな。
(『すばらしき仲間』第449回「花の俳優座同窓会」中部日本放送、1984年9月30日放送)


俳優座近くで三島雅夫(右)と会う河内桃子(『ドレスメーキング』1960年4月号)

 俳優座に入団したのち、河内の東宝映画への出演はほぼなくなる。そのかわり、東映や松竹作品にときどき顔を出した。
 舞台、テレビ、ラジオに関しては、いくつかの仕事を掛け持ちして、かなりの売れっ子である。本読み、リハーサル、本番、移動、取材と忙しいなか、映画や芝居に足を運び、休暇があるとスキーに出かけた。
 地方での公演が終わると、無事に終えた解放感から、キャバレーで「ドドンパ」を踊り、酔っぱらって素足で夜の浜辺を駆けまわった。先に引用した小笠原良知の「弔辞」に、その話が出てくる。


リハーサル仲の河内桃子(『ドレスメーキング』1960年4月号)

□□□

 河内桃子が、フジテレビディレクターの島田親一(嶋田親一)と初めて仕事をしたのは、1960(昭和35)年。俳優座入団の翌年に放送された島田親一演出『サンウエーブ火曜劇場 暖流』(フジテレビ、1960年3月1、8日放送)が最初である。
 名門病院が舞台の岸田國士のメロドラマで、看護師の石渡ぎんを岩崎加根子が、院長の娘・志摩啓子を河内が演じた。岩崎と河内はともに俳優座の所属で、1932(昭和7)年生まれの同い年だった。当時の新聞に河内評がある。

(前略)現在の彼女に欠けているのは、自分を主張する強さだ。もうそのくらいの自信はもった方がいい。さきごろの『暖流』(フジテレビ)にはその芽があった。ポンと肩をたたきたくなるようなやさしいふんいきをもちつづけながら、バリバリ自分を押し出せるようになれば、彼女の魅力は一段と増すはず。(後略)
(「タレント登場 河内桃子」1960年3月31日付け『報知新聞』)

 昭和30~40年代のフジテレビ時代、嶋田さんは演出担当のディレクターとして、さまざまな俳優と仕事をした。河内桃子はそのひとりで、それほど深いつながりはなかった。もともと俳優座の若手と親しく、河内や岩崎加根子のほかにも、滝田裕介、大塚道子、井川比佐志を主役で起用している。


フジテレビ『東芝土曜劇場 そこから歩くのだ』(1961年1月14日放送)。左に河野秋武、右に井川比佐志。島田親一演出

 多彩な交友を記した著書『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』(清流出版、2008年4月)に河内桃子の名はない。13回におよんだ嶋田さんへの取材(2020年9月~2021年12月)でも、河内の思い出はそれほど語らなかった。
 それでも、思い出ぶかい人だったのだろう。嶋田家の書斎には、ロケ先で写した河内のスナップ写真が50枚近く残されていた。
 河内桃子主演の連続ドラマ『ソフラン座 ゼロの焦点』(フジテレビ、1961年8月15日~11月28日放送)、その能登・金沢ロケの様子である。河内にとっては、『暖流』に続く2度目の島田親一演出であった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登・金沢ロケスナップ(1961年8月)

 松本清張原作『ゼロの焦点(零の焦点)』(光文社、1959年12月)は、映画に、テレビに、ラジオにとたびたび取り上げられ、いまも広く知られている。「ソフラン座」の枠(30分)で放送された本作は、野村芳太郎監督の映画版(松竹大船、1961年3月19日公開)のあとに制作され、初のテレビドラマ化となった。
 高橋辰雄の脚本、渡辺岳夫の音楽で、スポンサーは東洋ゴム工業。ミステリアスで不思議な旋律のオープニングテーマは、CD『作曲家・渡辺岳夫の世界[ドラマ編]』(キングレコード、2010年6月)で聴くことができる。

松本作品のなかでも、『ゼロの焦点』をやりたかった。連続ドラマなので、犯人が「パンパン」だったころのエピソードを克明に描いたり、話を延ばしに延ばしたんです。脚本の高橋辰雄さんとは、ニッポン放送時代からの仲です。松本先生はあのころ、すでに巨匠ではあったけれど、わりと僕の提案をOKしてくれて、「どうやってもいい」と許可はいただけました。でも、放送日の都合で夏にロケをしているんです。冬の能登半島の絶壁が舞台なのに。先生からは、「君、変わってるねえ。冬のものを夏にやるんだね」と言われました。
(嶋田親一第4回聞き取り)


河内桃子(『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ、1961年8月)

 松竹映画版で久我美子が演じた主人公の鵜原禎子を、フジテレビの「ソフラン座」版では河内桃子が演じた。のちに嶋田さんは、《河内桃子とは昔からの仲良しだったので強引に口説いて出演してもらった》(『鰰』第189号、鰰友の会、2011年9月)と書いている。
 河内のほかに、禎子の夫・憲一を小山田宗徳、禎子の母を村瀬幸子、事件の鍵をにぎる室田佐知子を鳳八千代(当初は池内淳子の予定)が演じ、河野秋武、永田靖、植村謙二郎、原泉、細川俊夫、井川邦子、牟田悌三、桜むつ子、久米明、井川比佐志、武内亨、臼井正明(語り手)らが脇をかためた。ベテランから若手まで、渋くて豪華な顔ぶれである。


『ソフラン座 ゼロの焦点』新聞広告(1961年8月15日付け「産経新聞」、嶋田親一旧蔵スクラップブックより)


同番組紹介(1961年8月15日付け「報知新聞」、同スクラップブックより)

 嶋田家の書斎にあった『ゼロの焦点』のロケスナップの多くは、名所として名高い能登金剛「巌門」かいわいで撮影されている。
 演出の島田親一、アシスタントディレクターの富永卓二らロケ隊一行は、1961(昭和36)年8月17日、上野発の夜行急行「能登」に乗り、石川へ向かった。女優は、ヒロインの河内桃子ただひとり。

この企画はわりとノッていたので、一所懸命でした。映画では久我美子さん、こちらのドラマ版は河内桃子さん。桃ちゃんはちょうど、結婚したばかりでね。お相手は、世が世なら松山城のお殿様です。「ロケに来れる?」と訊いたら、「大丈夫」と。新婚早々なのにロケに連れ出しちゃって、「原作とよく似た話だね」と言いました。桃ちゃん、なかなかよかったですよ。明るい人だけど、徐々に禎子の寂しさを出せるようになって。
(第5回聞き取り)

 河内桃子は、そのひと月前に結婚したばかりだった。相手は電通勤務の久松定隆で、四国・今治藩松平家の末裔にあたる。つまり《世が世なら松山城のお殿様》というわけ。


「若奥さん 河内桃子さん」(『婦人倶楽部』1961年10月号、講談社)部分拡大

 かたや『ゼロの焦点』の禎子は、夫の憲一(小山田宗徳)と見合い結婚したものの、新婚1週間目に憲一が謎の失踪を遂げる。夫の行方を追う新妻と、そのまわりで起こる連続殺人。ドラマとはいえ、縁起が悪い。
 奇しくも、禎子の夫と河内の夫はそれぞれ広告代理店に勤務している。河内の周りには、出演を反対する声もあったものの、本人は気にせず主役を引き受けた。


『ソフラン座 ゼロの焦点』国鉄列車内ロケ。右に河内桃子(1961年8月)

 夏の夜、ロケ隊を乗せ、北陸へ向かう夜行急行「能登」には、原作者の松本清張も乗っていた。松本の詩を刻んだ歌碑の除幕式に出席するためである。その詩は、能登の断崖から身を投げ、『ゼロの焦点』のモデルとなった女性を悼むものだった。


1961年8月13日付け「東京新聞」(嶋田親一旧蔵スクラップブックより)

 「能登」号の車内で松本は、ロケ隊の一行に現金20万円を渡した。嶋田さんは言う。《「みんなで一杯やってくれ」と。当時の20万は大金ですよ。ロケ先で泊ったとき、使いました。「松本先生は身体も大きいけど、すごい太っ腹だね」とみんなで言い合いました》(第5回聞き取り)。 
 嶋田さんの書斎を見せてもらったかぎりでは、松本清張の写ったスナップは1枚もなかった。見つけたのはロケ中のスナップのみで、河内桃子と嶋田さん以下、スタッフの姿ばかり。女優は河内ひとりだが、スタイリストやスクリプターと思われる女性の姿もある。
 ドラマの重さとは裏腹に、ロケ現場の雰囲気は和気あいあいとしている。ドラマの撮影だと知らなければ、海水浴か物見遊山にしか見えないスナップもある。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。手前に河内桃子(1961年8月)

 『ゼロの焦点』は、フィルム撮りのテレビ映画ではなく、VTR撮りだった。当時はまだ、VTRによるロケが大変で、ロケではおそらく16ミリが使われている。スタッフも少人数だ。フジテレビに本編の映像が残されているとは考えられず、ロケ中のスナップは貴重な記録となった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。右に河内桃子、左より2人目に嶋田親一(1961年8月)


同上。左から2人目に河内桃子

 スナップに写る河内桃子の表情は、禎子のキャラクターとは対照的に明るい。休憩中、タクシーのなかでおやつ(果物か?)を食べているスナップもある。現場のなごやかな空気が伝わってくる。
 すでに女優として、相応のキャリアと知名度を持っていたが、傲慢な印象は感じさせない(コート姿のシーンもあるが、夏のロケで暑かったはず)。聞き取りの席で嶋田さんは、親しみをこめて「桃ちゃん」と呼んだ。ロケ現場でもそう呼ばれ、スタッフから愛されていたことだろう。


河内桃子(『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ、1961年8月)


同上。左より2人目に河内桃子

 河内の演技について嶋田さんは、「明るい人だけど、徐々に禎子の寂しさを出せるようになって」(第5回聞き取り)と話した。東宝に在籍していたころは、どちらかと言えば明るい役柄のイメージがあった。『ゼロの焦点』の放送当時、女優として陰のある印象は薄かったように思う。
 嶋田さん旧蔵のスクラップブックには、『ゼロの焦点』関係の記事が多く貼られ、「河内桃子に薄幸のヒロインを演じきれるのか」との論調が目立つ。
 野村芳太郎監督の松竹映画版では、冬の能登の断崖に立つ久我美子の佇まいが、暗く沈んだ禎子のキャラクターによくあっていた。河内の持ち味は、明るさと可愛らしさにあって、禎子のニンではないともいえる。


松竹映画『ゼロの焦点』(1961年3月19日公開)。鵜原禎子役の久我美子

(前略)結婚前は明るすぎる性格から、カゲのある人妻役や、複雑な役柄はムリだといわれていた彼女も、最近は『思い悩む禎子の寂しさがでてきた』(島田フジテレビ芸能部員談)という。(中略)
 禎子は、能動的なタイプではなく、まわりの人々の考えや動きに動かされるひかえ目な女。“損でやりにくい”役だが『私には結婚後はじめての仕事、いままでの私に区切りをつける気持ちでやっています』とはりきる河内だ。
(「この人 河内桃子」1961年9月11日付け「報知新聞」)


1961年9月11日付け「報知新聞」(嶋田親一旧蔵スクラップブックより)

 ドラマ本編の映像が視聴できないかぎり、くわしいところはわからない。ただ、残されたいくつかの記事を読むかぎり、河内の演技は好評を得ている(上記の引用記事でコメントを出す《島田フジテレビ芸能部員》は嶋田さんのこと)。
 3人の一般女性がモニターとなり、感想を語り合う週刊誌の記事でも、その演技が話題になった(記事には所属先と実名が出ているため、イニシャルとした)。

F:『ゼロの焦点』、いよいよ佳境に入ってきたわね。
O:新婚早々行方不明になった夫を探しに奥さんが北陸へ乗り込んでね。
H:それで、夫にはじぶんのほかに女があったンだとうすうす気づくところね。
F:あの辺の河内桃子のクローズ・アップされた表情に女の悩みがよくでてたわ。
(中略)
H:北陸の暗いよどんだ空気が、ヒロインの心境を象徴しているようね。
F:その意味じゃ、河内桃子さんって、可愛らしすぎて。
O:でも、新婚早々のまだ初々しい若妻の感じをよくだしてると思うの。
(「愛読者テレビモニター室」『女性自身』1961年9月25日号、光文社)


河内桃子(『ソフラン座 ゼロの焦点』ロケ、1961年8月)

 「新婚で幸せまっただなか」と雑誌に書かれるなか、河内は禎子の役づくりに励んだ。以下の引用記事にも、嶋田さんが登場する。

(前略)新婚一週間で夫が行くえ不明になる新妻の役。ところが前から明るく円満なご面相の河内桃子は、結婚後、しあわせが倍増したか、めきめき貫禄を増し、とても憂いに沈んだ人妻のかげを出せそうにない始末。
 そこで芸熱心の桃ちゃんは、びっくりするほどきつい減食療法をはじめた。肉類はほとんど絶って一日一食。担当の島田ディレクターなど「あんまりやせられるとご主人にもうしわけない」とハラハラするほどだ。
(「映画・演劇・放送『ダイアル』」『週刊朝日』1961年10月27日号、朝日新聞社)

 『ゼロの焦点』は、開局(1959年)してまもないフジテレビにとって、本格的な連続サスペンスドラマとなった。
 ただし、連続20回の予定で始まったものの、実際には16回で最終回を迎えている。演出はすべて「島田親一」だが、ピンチヒッターで1回だけ、同僚の五社英雄が演出した。

 芸術祭参加ドラマ(『シャープ火曜劇場 朝子の子供たち』1961年10月31日放送)の演出とぶつかって、どうしても撮れない。僕の代わりに演出する人は、プレッシャーがかかります。そのとき「やる」と手を挙げたのが五社英雄です。僕がどういうふうに撮っていたか、五社は知りません。あとで聞いた話では、最初に役者が集まったとき、「五社です、よろしく。犯人は誰?」と(笑)。それが第一声。『ゼロの焦点』のストーリーは百も承知です。そうやって周りをひきつけた。
 『ゼロの焦点』は、再放送で見ました。画面の構図から、何から、なかなかうまくて、自分で感心しちゃった。演出は「島田親一」の名前でクレジットが出るので、気づかない。実は五社の演出だった、という笑い話です。
(第5回聞き取り)

 河内桃子版『ゼロの焦点』のVTRが、フジテレビに残されているとは、ほぼ考えられない(フィルムで撮られたロケシーンだけでも、残っていればうれしいが)。
 名画座でたびたび上映され、BS・CSで放映される映画版のことを思うと、当時のテレビドラマのはかなさと神秘を感じてしまう。


『ソフラン座 ゼロの焦点』ロケ。右より2人目に河内桃子、その左隣に嶋田親一(1961年8月)

□□□

 『ゼロの焦点』のあと、河内桃子は俳優としてのキャリアを重ねていく。
 島田親一演出のフジテレビドラマでは、『ソフラン座 若い川の流れ』(1962年2月6~27日放送)に河内の名がある。石坂洋次郎の原作を松木ひろしが脚色し、河内は北岡みさ子を演じた(石原裕次郎主演の日活映画版では北原三枝が演じた)。
 テレビでは『ゼロの焦点』の翌年、ひとつの当たり役と出会う。法律事務所を舞台にした日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)のドラマ『判決』(1962年10月16日~1966年8月10日放送)である。
 1960年代を代表する社会派法廷ドラマで、河内は弁護士の井上圭子役で最終回まで登場した。正義感にあふれ、凛としたその姿に憧れた人は少なくなかった。その演技に触れ、実際に弁護士を志した女性もいたのではないか。


NETテレビ『判決』第145回「この壁を破れ」(1965年7月21日放送)スチール。右より河内桃子、三津田健、ひとりおいて、和田浩治

 テレビ、ラジオ、映画出演の合間をぬって、俳優座の舞台にも精力的に立つ。
 ドラマ『判決』がスタートした1962(昭和37)年に限ると、5~7月にカルロ・ゴルドーニの『1度に2人の主人を持つと』(牧野文子訳)でベアトリーチェを、10月にはベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』(千田是也訳)でルウシーを演じた。いずれも大役で、前者を小沢栄太郎が、後者を千田是也が演出した。
 『1度に2人の主人を持つと』でやったベアトリーチェ(トリノ人)は、男装で登場する。『十二夜』のオリヴィア姫で美しき姿を見せた河内は、ここでは凛々しいいで立ちである。


俳優座日曜劇場『1度に2人の主人を持つと』(1962年5~7月)ポスター。左より仲代達矢、大塚道子、河内桃子(小沢栄太郎旧蔵)
 
 ここで「脇役本」の話をひとつ。
 『1度に2人の主人を持つと』は、イタリア伝統の仮面喜劇で、牧野文子訳を小沢栄太郎が上演台本に脚色(台詞化)し、みずから演出した。その「訳本」「上演台本」「演出メモ」を3段組にレイアウトしたものが、小沢栄太郎著『演出記録』(私家版、1962年9月)として1冊になっている。
 その「あとがき」に小沢は書く。《ひとつ、自分の心覚えのためにも、また、西洋の芝居を、日本に移す場合のやり方の一例として、記録に残しておくのも、あながち、無駄なことではあるまいと考えた》。


小沢栄太郎著『演出記録』(私家版、1962年9月)

 『演出記録』は限定100部の自費出版で、A4判変型、上製148ページ、秋山庄太郎の舞台写真が入って頒価は3500円。何冊かある小沢栄太郎の著作のなかでも、もっとも立派な造りである。
 この本は15年近く前、京王井の頭線池ノ上駅近くにある「古書ゆかり堂」で見つけた。たまたまそれが「河内桃子様」宛ての献呈署名本だった。奥付には「No.12」とナンバーが押され、小沢栄太郎が早い段階で献呈したことがわかる。
 古書ゆかり堂の棚でこの本を見つけたときは、うれしかった。と同時に「そうか、河内桃子は亡くなったんだ」と切なくなった。


同上『演出記録』表見返し。「河内桃子様」宛て、「小澤栄太郎」署名

□□□

 映画・テレビと地続きの新劇界にあって、古巣の劇団から離れていく人気俳優は少なくない。そのなかで河内桃子は、外部のプロデュース公演に参加しつつ、俳優座から離れなかった。そこには演出家・千田是也への、変わることのない尊敬があった。
 かわいい役、汚れ役、精神を病む役、愛に狂う役……。翻訳劇から日本の創作劇、ひとり芝居からミュージカルまで、その芸域は幅広い。映画・テレビでは脇役が多かったけれど、俳優座では村瀬幸子、大塚道子、岩崎加根子、栗原小巻らとともに、劇団を代表する主演女優であった。 


俳優座公演『ヴェニスの商人』(1982年1~4月)パンフレット。左にポーシャ役の河内桃子、右にシャイロック役の小笠原良知

 舞台のかたわら、映画、テレビ、ラジオと出演を重ねた。童話など、やさしい語り口の朗読も得意だった。
 年を重ねてからは、テレビドラマで助演する印象が強い。筆者は、河内の舞台を観ることができず、テレビで親しんだ世代である。上品な家庭の主婦、こころ根のやさしい母親、嫁に厳しい姑、憎まれ役や屈折した役もうまかった。


テレビ朝日『燃えろアタック』(1979年 1月5日~1980年 7月11日放送)より小野民役の河内桃子

 河内の出演ドラマは、BSやCSの再放送でよく見かける。つい最近も、松本清張の作家活動40周年を記念した『金曜ドラマシアター 球形の荒野』(フジテレビ、1992年2月7日放送)を「日本映画専門チャンネル」で見た。
 たびたびドラマ化される原作で、主人公の野上久美子(若村麻由美)の母・孝子がその役どころ。脚本は野上龍雄で、かつて『ゼロの焦点』でアシスタントディレクターをつとめた富永卓二が演出を手がけた。夫の顕一郎(平幹二朗)と再会できないまま、娘を包み込む孝子の佇まいがあたたかい。


フジテレビ『金曜ドラマシアター 球形の荒野』(1992年2月7日放送)より野上孝子役の河内桃子

 ちなみに、河内桃子にも「脇役本」がある。1988(昭和63)年11月に出た著書『イキイキ フレッシュ桃子流家事の知恵』(大陸書房)である。
 自伝や俳優エッセイの類いではなく、手料理を中心に掃除や洗濯の「桃子流ノウハウ」がところせましと綴られている。ノリのいいタイトルから受ける印象とは異なり、実直な人柄と暮らしぶりが行間に滲み出る。


河内桃子著『イキイキ フレッシュ桃子流家事の知恵』(大陸書房、1988年11月)

 また本の仕事では、全6巻からなる豆本『アンデルセン味の百科』(タカギベーカリー、1971~73年)で監修をつとめた。料理好き、食文化通としても、知られたようである。

 このように多くの仕事をこなしながら、とくにライフワークとしたのが、カトリック教会のラジオ番組『心のともしび』『太陽のほほえみ』の朗読だった。5分間の番組で、KBS京都で放送された『心のともしび』を寝床で聴いた記憶がある。
 河内はこの番組の語りを、30年以上続けた。『心のともしび』1万回記念の放送(1996年8月10日)では、《この32年間、この番組は、わたくしの人生に大きな意味がありました》とリスナーに語りかけた。


『太陽のほほえみ』『心のともしび』収録中の河内桃子(ジェームズ・F・ハヤット著『太陽のほほえみ』東出版、1972年1月)

 この放送の2か月前、俳優座と三越劇場の提携公演『ゆの暖簾』(1996年6月6~19日)に主演し、中野誠也の相手役をつとめた(平石耕一作、阿部廣次演出)。経営危機に陥った箱根の老舗温泉旅館が舞台で、元仲居頭の女将・寿美子を河内が、旅館の若社長・啓一を中野が演じた。


俳優座・三越劇場提携公演『ゆの暖簾』(1996年6月6~19日)。左に啓一役の中野誠也、右に寿美子役の河内桃子

 『ゆの暖簾』は翌1997(平成9)年に、地方公演がおこなわれた。原田清人が演じた板前を、『十二夜』で河内と初舞台を踏んだ小笠原良知がやった。
 その年の12月、東北巡業を終えた河内は、病に倒れる。この作品が、河内桃子のラストステージとなった。

(前略)あなたは温泉旅館の女将、私は板長で経営のやり方で意見が食い違いぶつかり合うという役でした。きれいな澄んだ声、歯切れのいいセリフ、気品に満ちた容姿は一瞬あのオリビア姫に再会したような気がしました。まだまだやりたいことが沢山あったでしょうに本当に残念です。悲しいです。
(小笠原良知「弔辞」『悲劇喜劇』1999年1月号)

 ライフワークのラジオ『心のともしび』は、闘病中も収録に取り組んだ。そして、1998(平成10)年7月、俳優座の後輩で『ゆの暖簾』でも共演した坪井木の実に、その語りを託した。
 1998年11月5日、帰天。享年66。亡くなる1週間前には、病の床で洗礼を受け、「マリア河内桃子」として旅立った。

□□□

 2022(令和4)年の今年、フリーの渡辺美佐子、俳優座の岩崎加根子、文学座の本山可久子がそれぞれ舞台に立った。いずれも、河内桃子と同世代の新劇女優である。客席でその姿に接するとき、河内の不在をふと感じる。
 その思い出を語る俳優仲間は少なくない。俳優座養成所でいっしょだった山﨑努は、今年8月に新聞連載された自伝のなかで、養成所時代の河内との逸話に触れている(「日本経済新聞」2022年8月9日付け「私の履歴書」)。
 
 『ゼロの焦点』の放送から、今年で61年になる。原作の松本清張、脚本の高橋辰雄、音楽の渡辺岳夫、演出の島田親一、アシスタントディレクターの富永卓二、主演の河内桃子、いずれもこの世の人ではない。
 おそらくはもう見ることの叶わない、幻のテレビドラマ。嶋田さんが遺した夏の能登・金沢ロケのスナップが、せめてものしのぶよすがとなった。


『ソフラン座 ゼロの焦点』能登ロケ。左に河内桃子(1961年8月)


同上。前列左に河内桃子、後列左より4人目に嶋田親一

 

(つづく)


*印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者所蔵
(無断転載はご遠慮ください)