脇役本

増補Web版

くらがり二十年 徳川夢声


徳川夢声『くらがり二十年』著者の近影(アオイ書房、1934年3月)


 2019(令和元)年12月13日、映画『カツベン!』(2019「カツベン!」製作委員会)が公開される。周防正行監督、5年ぶりの新作である。
 サイレント映画全盛のころ、ある町の映画館が『カツベン!』の舞台となる。活動弁士を夢みる染谷俊太郎(成田凌)を主人公に、同僚の活動弁士(高良健吾、永瀬正敏、森田甘路)、初恋の新人女優(黒島結菜)、映画館主夫妻(竹中直人、渡辺えり)、楽士(徳井優、田口浩正、正名僕蔵)、映写技師(成河)、ライバル館の館主と娘(小日向文世、井上真央)、泥棒(音尾琢真)、映画好きの刑事(竹野内豊)らがストーリーを盛り上げる。


『カツベン!』(2019「カツベン!」製作委員会、2019年)

 この映画愛に満ち溢れた青春ドタバタ活劇を、試写で拝見した。本作には筆者自身、思いいれが深い。理由はふたつ。ひとつは、現役の活動弁士で旧知の片岡一郎、坂本頼光のご両氏が、活動弁士指導として関わっていること。
 もうひとつは、敬愛してやまない徳川夢声(とくがわ・むせい/1894~1971)らしき弁士が登場すること。舞台となる「靑木館」は、夢声がいた「赤坂葵館」に由来する。その靑木館の弁士で、俊太郎に影響を与える山岡秋聲(永瀬)は、夢声をモデルに創作された。
 夢声が亡くなって、今年で48年になる。“話術の神様”と呼ばれ、劇場、寄席、映画、ラジオ、テレビ、レコード、新聞、雑誌、書籍など各方面で活躍。職業“雑”を自称した、マルチタレントの先駆けである。大正の初めから昭和40年代まで、その多彩なキャリアの始まりが活動弁士の仕事だった。映画がサイレントからトーキーになってからは、俳優として多くの作品に出演する。映画俳優・徳川夢声を評価する人は、いまも少なくない。
 活動弁士が登場する劇映画は、とくにめずらしくない。ただ、主役に据えた劇映画としては、『カツベン!』のほかには、『伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語』(松竹京都、1957年)しか思い浮かばない。『活弁物語』で夢声は、主人公の千葉淳太郎(伴淳三郎)が師とあおぐ名弁士、谷口緑風に扮した。バイプレーヤーとして、ちょくちょく映画に出ていた夢声にとって、ひさしぶりの準主役であった。


『伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語』プレスシート(松竹京都、1957年)

 『カツベン!』についての雑感は、ご縁があって『キネマ旬報』2019年12月下旬号(キネマ旬報社)に書かせていただいた。そこでも触れたけれど、感激したシーンがある。俊太郎が子どものころから憧れる山岡が、靑木館で『椿姫』を説明するところである(ちなみに劇中の『椿姫』は、アラ・ナジモヴァとルドルフ・ヴァレンチノを草刈民代と城田優で再現した新撮)。脚本と監督補をつとめた片島章三のシナリオから引用する。

44 同・場内(夜)
 袖で控える俊太郎の元に山岡が来る。
山岡「明かりを消せ」
俊太郎「前説は無しでええんですか?」
山岡「前説だ? 馬鹿な。消せ!」
 明かりが消え山岡が弁士台につくと、すぐに『椿姫』の上映が始まる。
× × ×
 最小限の言葉をボソボソと語る山岡の説明に、唖然とする俊太郎。
客A「おい弁士! 聞こえへんぞ!」
山岡「黙って聞け! 画を見てればわかる」
客B「飲み過ぎで口が回らんのと違うか」
客C「喋らんでもええんや。弁士っちゅうのは楽な商売やな」
 飛んで来るヤジに動じる事なく淡々と語る山岡。
(片島章三「カツベン!」『シナリオ』2020年1月号、日本シナリオ作家協会)



山岡秋聲(永瀬正敏)。『カツベン!』(2019「カツベン!」製作委員会、2019年)

 山岡の説明に、お客さんは怒り出し、俊太郎は唖然と山岡を見つめている。のちに映画監督となる二川文太郎(池松壮亮)だけが、山岡に拍手を惜しまない。
 夢声も弁士時代に、『椿姫』(1921年)を語っている。このシーンの永瀬正敏の語りがすばらしかった。ずっと『椿姫』を説明してくれたらいいのに、とさえ思った。山岡の役づくりについて、永瀬はこう語っている。

 僕が演じた山岡については、最初に監督から「活動写真の過渡期をいちばん敏感に感じ取っている弁士です」とヒントをいただいて。モデルとなった徳川夢声さんが、そういう先見の明を持っていた方らしいので、いち早く未来を察知しながら、自分たちの限界をわかった上で生活しているというか。いろんな思いで押しつぶされそうになっている。それはいつも胸に持っていましたね。
(巻頭特集「古き良き 新しき良き 二ッポンの映画『カツベン!』/対談・高良健吾×永瀬正敏」『キネマ旬報』2019年12月下旬号、キネマ旬報社)

 たしかに夢声は、先見の明を持っていた。赤坂葵館の主任弁士だったとき、それまで映画説明の常識だった「前説」をやめている。そのエピソードが、シーン44のモデルとなった。前説とは、本篇の上映前に登壇した弁士が、お客さんに作品の見どころを解説する口上である。
 夢声が前説をやめた理由は、ガニマタにコンプレックスをもち、あかるみに自分の姿をさらすのが嫌だったからだ。映画説明の視点から、前説はいらないと判断した部分もある。夢声はこうふりかえる。

 ――まてよ。
 と私は考へた。前週の『シビリゼーション』は、第一巻が全部字幕で、前説の代り、――イキナリ客席を暗くして、カーテンにメインタイトルが映ると共に、スクリンを出して行つた 、――そしてその演出方法が、馬鹿に氣が利いて好評だつた。
 ――よし。今週もその傳をやつて見ろ!
 と云ふ譯で、イキナリ暗くして、パッと映しを用ひて見た。大變調子がよろしい。
 次の週は、何うしようかと躊躇した。連續物だけに困つた。前週の畧筋を前説しなければ、客は承知すまい、と思はれた。
 ――何ァに、説明中に、前週の畧筋ぐらゐ客にのみ込ませる事は出來よう。
 と、この週も思ひ切つて前説無しでやつて見た。客は別に不滿らしくなかつた。私としてはオツカナビツカリであつたんだけれど。もしも客が湧くやうであつたら、翌日から前説をつ けやうと思つてた位ゐだ。もつもと子供客なぞのうちには
「チエツ。ベンシ怠けてやがら。」
 と言ふものもあつた。
(「前説廢止の事」『くらがり二十年』アオイ書房、1934年3月)

 前説を廃止したかわりに、B5判二つ折りのプログラム『週刊アフヒ』(週刊『アフヒ』社)を創刊した。そこに作品解説や映画にまつわるコラムを載せ、前説のかわりにした。前説廃止と『週刊アフヒ』の創刊を、若き日の夢声は自負した。いまから100年以上も前のことである。


『週刊アフヒ』第1号(週刊『アフヒ』社、1917年8月20日)


新宿武蔵野館時代の徳川夢声(1926年)

□□□

 徳川夢声(本名、福原駿雄)は、1913(大正2)年8月10日、見習い弁士となる。東京・新橋にあった「第二福宝館」がそのデビューで、師匠の清水霊山にあやかり「福原霊川」を名乗った。それから映画館を転々として、洋画専門の赤坂葵館に移ったとき、館名にちなんで「徳川夢声」になる。
 夢声は、東京を代表する花形弁士のひとりとなる。その人気ぶりは、いささか伝説じみているけれど、誇張ではない。『週刊アフヒ』のバックナンバーを読むだけで、映画説明に対する高い評価が伝わってくる。
 しかし時代は、サイレントからトーキーへ。1933(昭和8)年3月31日、新宿武蔵野館の主任弁士を最後に、やむなく活動弁士を廃業した(ようするにクビ)。弁士生活20年のエピソード、失敗談、出会い、研鑽、泣き笑いの日々は、さまざまな夢声の著作で読める。
 弁士廃業の翌年には、先に引用した『くらがり二十年』(アオイ書房、1934年3月)が刊行され、版を重ねた。東京・中野で酒屋を営む志茂太郎が、雑誌『新青年』(博文館)の同名連載に惚れこみ、単行本化するためにアオイ書房を立ち上げた。『くらがり二十年』は、同書房の刊行第1作となる。版元の名前は葵館でなく、志茂の生家の庭に咲くトロロアオイにちなむ。


徳川夢声『くらがり二十年』(アオイ書房、1934年3月)


『くらがり二十年』見返し(岸井明宛て献呈署名)


『くらがり二十年』別添資料各種

 『カツベン!』のパンフレットに、山岡秋聲は《大酒飲みの酔っ払い活動弁士》と紹介されている。山岡の酒ぐせの悪さに、俊太郎はじめ、登場人物はふりまわされる。これも、夢声の実像をモデルにしている。
 葵館を去った夢声は一時期、現在の神田神保町にあった「東洋キネマ」で弁士をしていた。そのころ、ドイツ映画『ドクトル・マブゼ』(1922年)が封切られた。夢声は泥酔したまま弁士台に立ち、トラブルを起こす。その話も『くらがり二十年』に書かれている。

「よう、伯爵夫人、はくしやくの――ふじんよ、ふじチャんよ。ねッ。さうデショ。コレコレ、伯爵の奥方や――奥方スナハチ細君や、伯爵の細君スナハチ、ハクサイよ、やいハクサイッ、はくさい返事は、ナナ何んと。」
 てな事を云つたやうな氣がする。
「馬鹿ッ!」誰れかが客席で怒鳴つた。
「今、馬鹿と怒鳴つた男よりは、ボクの方が馬鹿でないのでアル。」
「何をッ。」
(「ドクトル・マブゼ事件」前掲書)

 館内が騒然とするなか、スクリーンに字幕が出た。
《汝等、愚ナル者共、俺ハ神ノ如キモノデアル、汝等如何ニ反抗セントシテモ、終ニハ余ガ命令ニ服従セン》
 酔っぱらった夢声は、こう訳した。
《汝等、大馬鹿野郎どもよ、俺はエラいぞよ。神様みたいであるゾヨ。汝等如何にヂタバタすればとて、終にはペシャンコになるであらう。静かしてろ》

 サア、大變な事になつちやつた。
「何をッ」「こん畜生ッ!」「ベン士生意氣だぞ。」「取消せーーッ!」「撲つちまへッ!」と熊蜂の?をひつぱたいて、擴聲器にかけたやうな騒ぎとなつた。
「殺しちまふぞ。」
「面白い、殺せるなら殺して見給へ。苟もボクは日本臣民である。僕の生命は帝國憲法によつて保證されてゐる筈だ。」
 と、小生も、もう目茶である。
「ようし、今殺してやるぞ」
 とその男がツカツカと舞臺に近づいて來た。二階から座蒲團が、小生を目がけてバサッバサッと投げられる。
 次の瞬間、私は制服の警官によつて、樂屋へ引きづり込まれて、からくも事なきを得た。
(前掲書)


新宿武蔵野館で説明する徳川夢声(1926年7月26日付『都新聞』)

 『カツベン!』のパンフレットで、周防正行はこんなコメントをしている。《映画が音を持っていなかったが故に、上映空間が賑やかだったなんて考えたこともなかった。昔の映画館は、生演奏の音楽があって、活動弁士がしゃべって、お客さんが野次を飛ばして……とまるでライブパフォーマンスの会場だった。今「映画」と聞いてイメージするものとは全く違いますよね》(『カツベン!』座談会)。
 上映空間の熱気、無声映画全盛期の常設館の匂いは、『カツベン!』の大きな魅力となった。それは『くらがり二十年』からも伝わってくる。『カツベン!』で描かれた世界より、リアルで生々しいところもある。
 その最たるものが、葵館で夢声が説明したフランス映画『鐵の爪(アイアン・クロウ)』(1917年)だろう。夢声の説明で同作を観た男が、面識のない少女を公園で襲い、惨殺し、遺棄した。とばっちりで裁判所に呼ばれた夢声は、判事からこう言われた。

「で、その犯人がぢやねぇ、如何なる動機で少女を殺したかと云ふとだ。葵館で、このアイアンのクロウなる寫眞を見物し、惡漢のジユールスなるものが、鐵の爪を以つて、女の首を絞める所がある――そこが實に何とも斯とも云はれん面白さで、自分も一つアレをやつて見たいちゆう氣になつて、ついフラフラと芝公園で出遭つた少女に向つて、それを實行に移したん ぢや――と斯う云ふとる。」
「ナナルホド。」
「その時、君は一段と聲を張り上げて、ヒジヨウに眞に迫つた説明をした――と犯人は云ふトルがね。」「ドドウツカマツリマシテ。」
(「前説廢止の事」『くらがり二十年』)

 『カツベン!』には、凄みのある悪人が登場するけれど、ここまで後味の悪いエピソードはない。事実は小説より奇なり、というべきか。


『週刊アフヒ』第2号部分拡大(1917年8月27日)


徳川夢声「アイアンのクロウ」挿絵(松本勝治[かつぢ]画)『現代ユーモア叢書 第五編 夢聲半代記』(資文堂書店、1929年4月)

□□□

 活動弁士の著作や研究書は、これまでに何冊か出ている。なかでも『くらがり二十年』は、“カツベン全盛期”を記録した貴重な読み物となる。
 『新青年』の連載から86年、アオイ書房の本から85年を迎えた。『くらがり二十年』には、いくつかバージョンがあるので、以下に初出・書誌データを記す。


◆「くらがり二十年」『新青年』(博文館)1933(昭和8)年1月号~同10月号掲載(全10回連載)
◆『くらがり二十年』アオイ書房、1934(昭和9)年3月26日初版発行
◆「続くらがり二十年」『新青年』1934年5月号~1935(昭和10)年8月号掲載(全10回連載)
◆「続くらがり二十年」『現代ユーモア小説全集 第五巻 喃扇楽屋譚/碁盤貞操帯』アトリエ社、1935年9月20日初版発行
◆『くらがり二十年』春陽堂文庫、1940(昭和15)年4月5日初版発行
◆『くらがり二十年』春陽堂文庫/陸軍恤兵部発行、1944(昭和19)年7月7日初版発行
◆『くらがり二十年』春陽文庫、1957(昭和32)年5月10日初版発行
◆『徳川夢声のくらがり二十年』清流出版、2010(平成22)年12月13日初版発行



『くらがり二十年』各種(左上から右へ刊行順)


1957年春陽文庫版カバー絵(鈴木信太郎 画)

 『新青年』の連載「くらがり二十年」は好評を博し、アオイ書房で単行本化されてまもなく、「続くらがり二十年」がスタートした。アトリエ社の『現代ユーモア小説全集』には、この続編しか収録されていない。
 正・続が一冊にまとまったのは、1940(昭和15)年の春陽堂文庫が最初である。4年後に出た文庫版は、陸軍恤兵部が恤兵寄附金を使って、兵士の慰問を目的に発行された。
 このようにバージョンこそ多いものの、「くらがり二十年」と「続くらがり二十年」が完全版で出たことは、長らくなかった。正・続ふくめ、完全版として刊行(復刊)されたのは、 2010(平成22)年の『徳川夢声のくらがり二十年』(清流出版)が最初である。
 この清流出版本は、解題執筆と資料提供でお手伝いした。お世辞にも売れたとは言えなかった(在庫分が現在も新刊で流通)。あれから9年。活動弁士がテーマの新作が封切られるとは、予想もしなかった。
 あらためて清流出版の『徳川夢声のくらがり二十年』を手にして、驚いた。発行日が12月13日、『カツベン!』の封切り日と同じだ。なんというマの悪さ、タイミングのずれ。あの世の老も苦笑い、か。


内田誠撮影「徳川夢声」。内田誠『緑地帯』(モダン日本社、1938年7月)

 

あねおとうと 夏川静江(静枝)


夏川静江 友の會編『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會)


 映画、テレビドラマ、商業演劇の脇に出て、渋い存在感で魅せた人たちが、往年の大スターだったり、絶世の美青年だったり、人気女優だったり、というのはよくある。夏川静江(なつかわ・しずえ 1909~1999)は、そのひとり。昭和37(1962)年に「静枝」と改名し、それからの印象が強い人も多いと思う。
 僕がまず思い浮かぶのは、『ドラマ人間模様 夢千代日記』(NHK総合)のおスミさん。芸者の置屋「はる家」の女中で、シリーズ第1作『夢千代日記』(1981年2~3月)から、第3作『新 夢千代日記』(1984年1~3月)の途中まで出演した。おスミさんは、はる家の女将・夢千代にとって大切な存在で、夢千代を演じた吉永小百合が、夏川のことを慕っていたようにも感じる。
 三船プロの大作『大忠臣蔵』(NET、1971年1~12月)にゲスト出演し、ワンシーンだけ顔を出した小野寺丹女も印象深い。仇討への悲願を秘めた夫・十内(伴淳三郎)を支える、品のいい奥方である。夏川は、大河ドラマ『赤穂浪士』(NHK総合、1964年1~12月)でも、この役を演じた。


『大忠臣蔵』第16回「柳生の隠密」(NET、1971年4月20日放送)

 映画の脇に出る夏川もいい。「あえてひとつ」と問われると、田坂具隆監督『ちいさこべ』(東映京都、1962年)を挙げたい。大工の棟梁・茂次(中村錦之助)の母親で、劇中ではすでにこの世の人ではない。茂次の回想シーンに、やさしげに、おぼろげに、わずかなシーンで登場する。同じくこの世の人ではない茂次の父が山本礼三郎で、田坂具隆こだわりのキャスティングがすばらしい。


『ちいさこべ』(東映京都、1962年)。左は中村錦之助

 最晩年まで美しい人だったが、昭和ヒトケタ時代の写真を見たときは、驚いた。かわいい。お年を召してからの品が、わかるような気がする。
 当時の人気が物語るように、本も出た。戦前の夏川静江本では、全4巻からなる自叙伝『私のスタヂオ生活』(1928~33年)と『誠文堂十銭文庫95 映画女優になるには』(誠文堂、1930年12月)がある。
 ここで紹介する夏川静江 友の會編『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會、1934年5月)は、昭和9(1934)年5月1日、大阪・朝日会舘で催された「夏川静江を舞台へ送る會」のパンフレットである。当時のスター人気を思うと、“脇役本”とは書きづらい。


『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會、1934年5月)

 明治42(1909)年9月、東京・芝の生まれ。7歳のとき、上山草人が主宰する近代劇協会の公演『銀笛』でデビューする。大正8(1919)年には、メーテルリンクの『青い鳥』に出演、初代水谷八重子がチルチルを、夏川がミチルに扮した。この舞台は、往年の夏川ファンのなかで語り草となる。
 昭和2(1927)年には日活入りして、本格的に映画に出始める。それに先立つ大正14(1925)年からは、本放送が始まったばかりのラジオに進出、ドラマ(放送劇)に、物語に、と活躍の場を広げた。モダンで先駆的な、気鋭の女優であった。


物語放送中の夏川静江(前掲書)

 夏川は、ひとつのところに安住することを好まない。昭和9(1934)年には日活を離れ、東宝へ移籍する。その節目に催されたのが「夏川静江を舞台へ送る會」と銘打つ一大イベントであった。
 とにかく豪華だ。「夏川静江 友の會」発起人に名を連ねるのが、大佛次郎、吉屋信子、谷崎潤一郎、久米正雄、山田耕筰、西條八十、岸田國士、メイ牛山ら総勢26人、そうそうたる顔ぶれ。
 当日のプログラムが、これまたゴージャスである。市川春代の「開会のことば」で第1部の幕をあけ、西條八十の「お話『しいちゃん今昔』」、日活総務・永田雅一のスピーチ「夏川君を送る」、夏川主演映画の主題歌コンサート(唄が松平晃と渡邊光子、踊りが川口秀子)とつづく。
 第2部は、口上から始まる。司会が松井翠声で、夏川、市川、鈴木傳明、小杉勇、高田稔、山本嘉一、入江たか子、伊達里子、飯塚敏子、片岡千恵蔵、林長二郎、阪東好太郎、中野英治、花井蘭子、山路ふみ子、杉山昌三九ら総勢19名、豪華スターが綺羅星のごとくズラり。当日は、撮影や都合で来れなかったスターがいるにしろ、すごいメンツである(プログラムにあるのは、出演を承諾した人たち)。
 口上のあとは、横山エンタツ・花菱アチャコの二人漫談(漫才に非ず)「夏川静江と結婚した話」、静江による「愛弟(夏川大二郎)紹介」、そして、市川春代・夏川大二郎主演のトーキー作品『さくら音頭』(日活太秦)でお開きとなる。


『夏川静江を舞臺へ送る』

 当日のパンフレットも、贅を尽くしたもの。菊判・全36ページ、すべてグラビア印刷である。
 吉屋信子の詩と大佛次郎のエッセイ(『私のスタヂオ生活』からの再録)、エンタツ・アチャコ「夏川静江と結婚した話」誌上再録、夏川のエッセイ3編(「スクリーンよりステージへ」「大二郎をどうぞよろしく」「わが二十六年史」)、夏川の出演リスト(舞台、映画、ラジオ)と盛りだくさん。サントリー角瓶、山葉ピアノ、コロムビア、ポリドール、宝塚少女歌劇、大阪ガスビルなど、当時の広告がまた楽しい。
 パンフレットにおさめられた3編のエッセイは、いずれも読ませる。たとえば、こんな赤裸々な文章がある。

 私が映畫から舞臺へ轉向を思ひ立ちました時、松竹のお世話になるべきか、東寶へ入るべきかと餘程迷ひましたが實を申しますと、私自身としては、どちらかと申せば、松竹の方へ心が傾いてゐたので御座います。それと申しますのは、松竹には、私の師事すべき先輩の方々がゐられるからであります。私の様な未熟者は、月が太陽に照らされて光つて見えます様に、はたの藝の光をあびて、始めて光つて見えるのです。で自力を養ふに、先づ他力にすがつて勉強いたしたいものと、松竹行きを考へたのでありますが、しかしこれは自分だけの立場から考へたことで、いよいよ自分の針路を決める段になると、やはり私の家庭の人々が在来の芝居國の慣習に踉(つ)いてゆけるものかどうかといふような點も考へねばならず(後略)
(夏川静江「スクリーンよりステージへ」前掲書)


『夏川静江を舞臺へ送る』

 世に、移籍のゴタゴタはつきものだ。この3年後には、松竹から東宝への移籍をめぐって、林長二郎こと長谷川一夫の顔斬り事件が起きた。夏川の東宝移籍は、血の雨こそ降らなかったものの、さまざまな大人の事情があったことは想像できる。
 当時の日活総務が永田雅一、のちの大映“永田ラッパ”で、東宝には小林一三がいる。日活が夏川を手放すと決めたとき、東宝とどういう手打ちをしたのか。本音では松竹に行きたかった夏川は、そのかけひきを知っていたはずである。この移籍ののち、夏川は東宝劇団(第一次)に参加する。
 それにしても、率直に書いたものだ。先のエッセイには、《一時沈鬱になつてをりました私》との言葉もある。舞台、映画、ラジオと場数を踏んだとはいえ、当時はまだ20代半ばの女性である。
 夏川が、このお祭り騒ぎな会を快諾した理由は、友の会の後押しや移籍をめぐる大人の事情だけではない。日活でデビューしてまもない弟・大二郎(当時22歳)を世に出す意味あいもあった。会のしめくくりを、大二郎主演映画の上映にあてたことからも、それがわかる。


夏川静江と夏川大二郎(前掲書)

 果して大二郎にどれだけの天分があるものか、ないものか、私にはちつともわかりませんが、映畫の議論をすると、きつと私が凹まされます。そりや全くゑらさうなことをいふのです。そして大の岡田嘉子さんびいきで、ぜひ岡田さんと『椿姫』が撮りたいなんて、一人前のスターででもあるやうなことをいふのです。しかし、やつぱり子供です。私のお知合に紹介してやらうと思つても、人一倍大きな體をしながら、すぐ顔を赤くしてしまつて、禄すつぽ挨拶もできない始末です。
 幸ひ日活の皆さんが、争ふようにして可愛がつて下さるので、この分ならどうにか道を變へずに進み得るかと、漸(や)つとのことに胸を撫で下ろしましたものの、何分にもまだ一人歩きのできないものを、獨りぼつちにして、舞臺へ立去る私です。實のところ心配でなりません。この上はただ皆さんの御鞭撻にお縋りするばかりです。
 こないだうちは撮影がたてこんで大二郎も徹夜撮影を重ねましたが、入社早々の仕事だけにかなり苦しかつた様です。でもそんな修業は皆さんも私もして来たことです。大二郎よ、あなたが燦然と第一線のスターになる日を私は心で祈つています。
(夏川静江「大二郎をどうぞよろしく」前掲書)

 愛弟を銀幕へ送り出す姉ごころ、胸をうつ。なんて素敵なお姉さんなのだろう。そうはいっても22歳、立派な大人だし、ちと甘やかし過ぎでは、と思わなくもない。松竹移籍への未練を書き綴ったこと、弟への愛情を照れ隠しにしなかったこと……正直な女優、人である。
 姉と弟、ともに戦前、戦後と息のながい活躍をした。戦後は静江(静枝)が脇にまわったように、大二郎もバイプレーヤーとなる。貫禄のある役者だったが、山形勲や佐々木孝丸のように、巨悪をこなすスケールには欠けた。『夢千代日記』で姉が当たり役とした、おスミさんのような作品にも恵まれなかった。
 それでも、ドラマ版『華麗なる一族』(毎日放送、1974年10月~75年3月)で演じた松平日銀総裁(映画版では中村伸郎が演じた)のように、記憶したい晩年の仕事はある。姉ゆずりの品と銀行家らしい冷徹さを併せ持つ、まさに適役だった。


『華麗なる一族』第22回(毎日放送、1975年2月25日放送)

 晩年の大二郎は体調を崩しがちで、1970年代末に第一線を退いた。ベテラン三女優の鼎談本『女優事始め 栗島すみ子/岡田嘉子/夏川静枝』(平凡社、1986年12月)で、岡田嘉子から《お元気なんでしょ?》と訊かれたときは、《いえ、この前も入院してたんですよ。もう、いまは体が……、年はまだそんなじゃないんですけどね》と答えている。大二郎が亡くなったのは昭和62(1987)年で、そのころはもう女優を引退している。
 夏川静枝の自宅は杉並区永福町にあり、夫(作曲家の飯田信夫)に先立たれたあとは、ひとり暮らし。近所の人と語らい、庭の花や鳥を愛で、3時のおやつも欠かさなかったらしい。雑誌のインタビューには最晩年まで応じ、訪れる人たちを変わらぬ品と美しさでもてなした。


夏川静枝(『ノーサイド』1995年9月号「総特集・キネマの美女」文藝春秋)

随想銀幕劇場 中村翫右衛門

 フィルムが失われていたり、権利関係が複雑な作品は別として、「観たい」と念じてさえいれば、映画はいずれ自分の前にあらわれる。名画座にしろ、BS・CS放送にしろ、DVDにしろ……。
 『劇映画 沖縄』(『沖縄』製作上映委員会、1970年)がそうだった。第1部「一坪たりともわたすまい」、第2部「怒りの島」からなる3時間15分の大作で、本土復帰前の沖縄を舞台にした群像劇である。過去にVHSビデオが発売され、各地での自主上映会もあるものの、なかなか観る機会に恵まれなかった。
 観たい。なぜか。三代目中村翫右衛門(なかむら・かんえもん 1901~1982)が出ているから。明治34(1901)年、東京・下谷の生まれ。父は柳盛座の座頭だった初代中村梅雀(二代目翫右衛門)で、三代目翫右衛門を継いだのは大正9(1920)年、19歳のときだった。
 そののち、春秋座の結成と挫折をへて、昭和6(1931)年に劇団前進座の創立に参加する。前進座の看板役者にして、昭和の演劇界を代表する名優のひとりである。山中貞雄不朽の名作『人情紙風船』(P.C.L.=前進座提携、1937年)をはじめ、主演格で出た映画も少なくない。
 晩年は、映画やテレビドラマの“脇の抑え”で存在感を光らせた。“渋い”という言葉では物足りない。ものがたりの要に出てくるだけで“幸せ”な気持ちになる。
 『劇映画 沖縄』には、そんな翫右衛門が登場する。だから、観たい。そう念じていたら、なかのZEROホール(2017年11月)、ラピュタ阿佐ヶ谷(2018年8~9月)、ポレポレ東中野(2019年6月)と近年相次いで上映された。なかのとラピュタで2度、この大作を味わうことができた。


『劇映画 沖縄』(『沖縄』製作上映委員会、1970年)リバイバル上映チラシ(2017、19年)

 加藤嘉、飯田蝶子、花沢徳衛、吉田義夫、鶴丸睦彦、戸浦六宏、鈴木瑞穂と好きな役者がいろいろと出てくる。お目当ては翫右衛門、である。演じるのは、米軍の土地強制接収に抗う反対派のリーダー、古堅秀定。反対運動を主導した阿波根昌鴻がモデルで、期待した以上の名演であった。
 秀定は、前半の要となる存在である。測量に来た米軍関係者を前に、土地を奪われる農民たちの怒りが昂る。一触即発、秀定は平和的な対話を農民たちに説く。ところが、米軍の暴挙が度を越したとき、秀定の堪忍袋の緒が切れた。米軍兵士に銃を突きつけられても動じない、翫右衛門憤怒の芸の幕があく。その見事さたるや!


『劇映画 沖縄』第1部「一坪たりともわたすまい」。手前左より鶴丸睦彦、中村翫右衛門、戸田春子、加藤嘉

 第1部の終盤、愛すべき沖縄のおばば(飯田蝶子がセリフなしで好演)が、米軍演習の巻き添えで命を落とす。秀定は、おばばの孫(佐々木愛)や集落の民の先頭に立ち、おばばの棺とともに、米軍に奪われた土地を歩む。「一坪たりともわたすまい!」。凛とした翫右衛門の佇まいに震えた。


『劇映画 沖縄』第1部。中央が中村翫右衛門、左が佐々木愛
 
 翫右衛門には、多くの著書がある。『愛人の記』『演技自伝』『人生の半分』『芸話 おもちゃ箱』『劇団五十年 わたしの前進座史』『歌舞伎の演技』……自伝、芸談、プライベートな秘め事まで多彩である。
 映画俳優としての翫右衛門を知るのなら、『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』(前進座宣伝部、1987年8月)という好冊子がある。昭和62(1987)年8月13日から23日まで、今はなき前進座劇場(東京・吉祥寺)で開かれた「前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯」の公式パンフレットである。
 この特集上映では、翫右衛門が出演した『人情紙風船』、『逢魔の辻』(東宝=前進座提携、1938年)、『怪談』(にんじんくらぶ=東宝配給、1964年)、『風林火山』(三船プロ=東宝、1969年)、『天狗党』(大映京都、1969年)、『劇映画 沖縄』、『いのちぼうにふろう』(俳優座映画放送=東宝配給、1971年)、『軍旗はためく下に』(東宝=新星映画社提携、1972年)が上映された。


『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレット(前進座宣伝部、1987年8月)


「前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯」チラシ

 このパンフレットには、翫右衛門の文章がいくつか再録されている。『劇映画 沖縄』上映パンフに寄稿した、こんなエッセイがある。

 前進座映画『どっこい生きてる』以来、二十年ぶりで、また飯田蝶子さんと一緒に映画をつくれることは、私のよろこびの一つでした。飯田さんとは若い若いころからお友達でしたから……。
 徳之島のロケ先で、ひさしぶりで飯田さんと対面、お互いの元気をよろこびあいました。
(中村翫右衛門「『沖縄』出演のよろこび」『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』/初出は『劇映画 沖縄』パンフレット、1970年1月)

  中村翫右衛門と飯田蝶子、二名優の再会と語らいは、どんな光景であったのか。お互いの元気をよろこびあったものの、飯田は昭和47(1972)年12月に亡くなった。
 
 昭和8(1933)年公開の『段七しぐれ』(大日本自由映画プロダクション=新興キネマ配給)で、翫右衛門は映画に初出演する。それから40年ほどのあいだに、26本の作品に出演した。この特集上映は8作品なので、集大成と呼べる規模ではない。
 ただし、パンフレットはよくできている。A4判・全28ページ。上映作品データ、スチールや撮影風景、台本・ポスター・チラシ・パンフレットなどの図版、雑誌・パンフレットからの関連記事抜粋と、マニアックな翫右衛門愛にあふれている。
 読み物と資料も充実している。中村梅之助、深作欣二、栗原小巻がそれぞれ翫右衛門の人となりを綴り、演劇評論家の尾崎宏次が論考「映画のなかの翫右衛門」を寄せ、精緻きわまる「翫右衛門と前進座映画年表 1901⇒1982」を巻末に収めた。とりあえずこの一冊があれば、映画俳優・中村翫右衛門の仕事は、人前で語ることができる。


『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレット

 パンフレットの奥付を見て、気合いの入った内容に納得した。編集・レイアウト・タイトルデザインのすべてを、日本映画史家・日本映画文献史研究家の本地陽彦が手がけているのだ(本地は前進座宣伝部にいた時期がある)。
 翫右衛門ファンとしては、飯田蝶子との再会だけでなく、そのつど反応したくなる記事がほかにもある。稲垣浩監督『風林火山』では、武田家の名将・板垣信方を演じた。福島県相馬原ノ町での合戦ロケでは、山本勘助役の三船敏郎と現場が同じだった。

 三船さんとは初対面だが、私が衣裳をつけるのに手伝って鎧を着せてくれる心からの親切さと謙虚な態度に、こちらが恐縮して頭が下がる想いであった。
(中村翫右衛門「新・おもちゃ箱」前掲書/初出は『月刊前進座』1968年12月号)

 三船にとって翫右衛門は、映画俳優として大先輩にあたる。その心づかい、しみるなあ。このうるわしき光景を、息子の梅之助が見ていた。

 ロケ現場に到着しますと、ありがたいことに三船敏郎氏が自ら翫右衛門の鎧を着ける手助けをして下さいました。そして、まだ早いと言うのに兜まで着け、二時間も床几(しょうぎ)にかけて出番を待ちます。「呼ばれて待たせるのは失礼だ」、というわけです。現場では全く台本を見ない、というのもいつものことでした。
(中村梅之助「映画俳優としての父・翫右衛門」前掲書)


『風林火山』(三船プロ=東宝、1969年)ロケスナップ。左が中村翫右衛門、右が三船敏郎

 翫右衛門にとって、深作欣二監督『軍旗はためく下に』が、最後の映画出演となった。この映画は数年前、池袋・新文芸坐の夏の戦争と平和特集で観た。
 本作の役どころは、『劇映画 沖縄』とはうってかわり、老獪な人物だった。太平洋戦争末期のニューギニア、謎につつまれた理由で後藤軍曹(丹波哲郎)が処刑される。遺された妻のサキエ(左幸子)は戦後、関係者を訪ね歩き、執念で真相を暴いていく。夫の上官だった千田参謀(翫右衛門)は罪を逃れ、悠々自適の老後をおくっている。サキエの追及に動じず、のらりくらりとはぐらかす千田のしたたかさ。うまい!


『軍旗はためく下に』(東宝=新星映画社提携、1972年)。右が中村翫右衛門、左が岡本征男

 『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレットに、深作欣二のエッセイがある。翫右衛門への愛が、ひしと伝わる。

 当時、私はまだ青臭い若手監督のひとりでした。血気にはやり、性急で舌足らずな注文も多かった筈で、今思い出せば汗顔の至りなのですが、翫右衛門さんはいつもていねいな熱心さで、私の注文を受けて下さいました。そういえば翫右衛門さんは、末端のスタッフや無名の俳優さんに対する時でも、そのていねいな物腰を崩すことはありませんでした。映画界に入って以来、スタアと呼ばれる連中の馬鹿げた我侭ぶりに、ほとほと愛想をつかしていた私としては、本当に心洗われる思いの仕事ぶりでした。
 思えば私は、映画に志した頃から翫右衛門さんのファンだったのです。『戦国群盗伝』『人情紙風船』『元禄忠臣蔵』等の戦前の作品から、戦後の『箱根風雲録』『怪談』『いのちぼうにふろう』等の時代劇に於ける格調ある演技は、他の追随を許さず、今なお私の記憶の中に鮮明に残っています。
 『軍旗はためく下に』の時には、撮影現場だけの短かいおつき合いだったので、そういう私の思いをお伝えする機会もありませんでした。せめてもう一度、時代劇でご一緒していれば、いろいろ教えていただく事も多かったろうにと、本当に残念でなりません。
 偉大な俳優さんでした。改めて合掌。
(深作欣二「中村翫右衛門の想い出」前掲書)


『軍旗はためく下に』製作発表の日。左より丹波哲郎、深作欣二、左幸子、中村翫右衛門、市川祥之助、江原真二郎
 
 翫右衛門の映画出演が、『軍旗はためく下に』で終わったことが惜しまれる。幸いなことに、前進座公演や他劇団への客演のかたわら、テレビドラマには数多く出た。
 『座頭市物語』第1話「のるかそるかの正念場」(フジテレビ、1974年10月3日)では、市(勝新太郎)も一目おく、情と凄みを兼ね備えた渡世人。『横溝正史シリーズ 獄門島』(毎日放送、1977年7~8月)では、旧家の三姉妹連続殺人の鍵をにぎる住職・了然。『松本清張シリーズ 天城越え』(NHK、1978年10月7日)では、時効を迎えた殺人事件の顛末を真犯人(宇野重吉)に語る元刑事。『修羅の旅して』(NHK、1979年10月28日)では、主人公(岸恵子)の父で、病床の妻(長岡輝子)に寄り添う老いた夫。挙げればキリがない。


『座頭市物語』第1話「のるかそるかの正念場」(フジテレビ、1974年10月3日)左が勝新太郎、右が中村翫右衛門

 姿と形が見えなくても、声だけの翫右衛門もすばらしかった。ラジオ小説「私の文庫本」第79回『巷談本牧亭』(文化放送、1979年4月6日)では、舞台で当たり役とした講釈師・桃川燕雄を口演した。舞台で絶賛された見事な語り芸は、ラジオでも変わらない。
 昭和57(1982)年9月21日没、享年81。生前の舞台には、間に合わなかった。でも、たくさんの映画、テレビ、ラジオ、そして、語りのレコードを残してくれた。没後37年、その芸と人は、色褪せることがない。