脇役本

増補Web版

三人の先輩 大滝秀治


『民藝の仲間 第351号』(劇団民藝、2008年3月)

 昨年の秋から、テレビ畑を歩んできた、さるベテラン演出家・プロデューサーの聞き取り(オーラルヒストリー)をしている。その方が手がけた作品に『土曜劇場 6羽のかもめ』(フジテレビ、1974年10月-75年3月)がある。
 劇団かもめ座のたった6人しかいない座員(淡島千景、加東大介、長門裕之、夏純子、高橋英樹、栗田ひろみ)が、テレビの世界で奮闘する姿を描く。全26回で、倉本聰が原案と脚本(15話分)を手がけた。マネージャーの「弁ちゃん」こと川南弁三役を好演した加東大介は、このドラマが遺作となった。


『土曜劇場 6羽のかもめ』宣材写真。前列左より高橋英樹、淡島千景、後列左より長門裕之、夏純子、栗田ひろみ、加東大介(DVD『6羽のかもめ』フジテレビ、2009年3月)

 このドラマにセミレギュラーとして登場するのが、高橋英樹ふんする田所大介の兄・正一で、大滝秀治(おおたき・ひでじ/1925-2012)が演じる。浅草でうなぎやを営む正一は、妻(青木和子)と母(村瀬幸子)、嫁姑の板ばさみになっている苦労人だ。深刻ぶることなく、とぼけた調子で大介にグチをこぼす姿が、微笑ましくも哀しい。


高橋英樹の大介(左)と大滝秀治の正一(右)。『土曜劇場 6羽のかもめ』第2回「秋刀魚」(フジテレビ、1974年10月12日放送)より(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)

 『6羽のかもめ』が放送中だった1975(昭和50)年5月、倉本を囲んだ座談会が開かれた。倉本は《一番多く出ていただいているという座付役者としての感覚が一番強いお三人》(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)として、八千草薫、桃井かおり、大滝秀治を招いた。
 倉本が脚本を手がけたドラマと映画に、大滝は、それはそれはたくさん出ている。大のお気に入りだったことは間違いない。倉本は語る。

いかに大滝さんを書いても、たとえば大滝さんの中にありうるものを書いても、どこかで、ベースはぼくの生理になっちゃう部分があるわけですよ。だから「間」とか「短い間」とか、そういったものというのは、自分の生理がどこかに、ベースにはあるわけです。
(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)

 ぼく自身、子どものころから親しんだ俳優である。政界の黒幕から悪徳商人、町工場のおやじから人情刑事まで、なんでもござれ。殺虫剤、ミネラルウォーター、黒酢、賃貸住宅とコマーシャルでもおなじみだった。2000年代以降の劇団民藝の舞台も、いくつか観た。
 「大滝秀治は名優か?」と問われると正直、違和感を覚える。「名優」の称号がなんとなく似合わない、不思議なバイプレーヤーだった。
 2012(平成24)年10月2日死去、享年87。今年で9年になる。

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 大滝秀治が亡くなった翌年、『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』(集英社クリエイティブ、2013年5月)が出た。
 新聞、雑誌、劇団民藝の公演パンフレットなど、インタビューを受ける機会は多かった。でも、自叙伝やエッセイ集の類いは生前、出ていないはず。大滝の単著としては、最初で最後の一冊かもしれない。


大滝秀治 著/谷古宇正彦 写真『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』(集英社クリエイティブ、2013年5月)

俳優であったという事実を、自分で確認するために、この本を出す。
(『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』集英社クリエイティブ、2013年5月)

 冒頭に、この一文を掲げた本書に、目次はない。大滝が生前に書いた(語った)文章が、章見出しやタイトルもなく、断片的に載せられている。
 その文章の合間あいまに、演劇写真を数多く手がけ、被写体としての大滝をライフワークとした谷古宇(やこう)正彦の写真が、挿入される。つまり「写文集」というわけ。
 写真と文章の内容は、とくに一致しない。いい意味で不親切な構成が、大滝の芸と人となり、どこか捉えどころのなかった役者像を浮かび上がらせていく。行間から、あの語り口が聞こえてくる。
 大滝の娘である山下菜穂が、「あとがき」を寄せる。

 読み進んでいくと、せっかちだった父が「どう? ぼくの本いい? 面白い?」と子供のように感想を急かす声も聞こえてくるような、また父がすぐ隣にいるようにも感じられる本になっていて、とても幸せでありがたい気持ちでいっぱいです。
(山下菜穂「あとがき」前掲書)

 奥付には「協力」として、劇団民藝 制作部の菅野和子の名がある。大滝のことを知りつくしていないと、これほどセンスのいい本に仕上がらない。菅野が、編集にタッチしたのだろうか。
 巻末には23ページに及ぶ「大滝秀治年譜」がつく。《俳優であったという事実》を、読者もまた《自分で確認する》ことになる。あの映画、あのドラマ、あのコマーシャル、あの舞台。懐かしく思い出しながら読んだ。

 大滝秀治は、1925(大正14)年、新潟県吉川町(現・上越市吉川区)に生まれた。尋常小・中学校時代は東京にいて、先の戦争を挟んで、逓信省の仕事をつづけた(戦時中は静岡県磐田の第一航空総軍通信隊にいた)。
 戦争が終わって、それまで弾圧されていた新劇は、息を吹き返す。戦後まもなく上演された舞台に感化され、新劇を志した者は少なくない。大滝もそのひとりだった。
 1948(昭和23)年、民衆藝術劇場(第一次民藝)付属養成所の第一期生となり、翌年に初舞台を踏む。1950(昭和25)年の劇団民藝創立には、研究生として参加した。その旗揚げ公演『かもめ』(アントン・チェーホフ作、岡倉士朗演出)では、料理人の役で出た。同公演には、終生の友であり同志となる奈良岡朋子が、小間使いの役で出ている。


劇団民藝創立2年目の大滝秀治(『民藝の仲間 第2号』劇団民藝、1951年)

 離合集散、脱退入座のはげしい新劇の世界で、大滝はずっと劇団民藝に所属した。
 この写文集の土台には、民藝での人との出会いがある。とくに印象的に綴られているのが、劇団の創立メンバーにして、大滝にとって雲の上の存在だったふたり、宇野重吉と滝沢修である。


宇野重吉(左)と滝沢修(右)。1980(昭和55)年12月28日、劇団民藝忘年会にて(『劇団民藝の記録 1950-2000』劇団民藝、2002年7月)

 上に掲げた忘年会でのツーショットは、チャーミングな表情だけれど、これはこれ。大滝が綴った思い出には、読み手を圧倒させる厳しい教え、新劇の先人たる貫禄がある。まずは宇野重吉との日々から――

 研究生になって、しばらくしてから、宇野さんに「おまえの声は、ぶっ壊れたハモニカみたいな不協和音を出す。ドレミファソラシド全部入ってる不協和音を出すと、お客に不快感を与えるから、役者に向かないんじゃないか」って言われた。「声が悪いし、見目かたちもちょっと……。おまえ、二十三だけど、老けてるな」って。
 自分では、そういうふうに生まれたんだから、劣等感を持ったことはないんですが、そんなことがずいぶんありました。
 宇野さんは厳しかったですね。でも、こんなすばらしい師匠に出会えたから、ぼくは今日まで役者をやってこられたと思うんです。どういうわけか、声が悪いなんて言われながら、ぼくは宇野さんに、とっても使われたような気がします。
(『長生きは三百文の得』)

 大滝の存在が、広くお茶の間に知られるようになるのは1970年代のこと。倉本聰の作品をはじめ、テレビドラマの影響が大きかった。
 それまで芽が出なかったわけではない。大勢の劇団員を擁する劇団民藝にあって、大滝はそれなりに重い役を担っている。ただし、主役をこなすこともあった奈良岡朋子、芦田伸介、山内明、下元勉、鈴木瑞穂らにくらべると、一歩遅れをとった印象を受ける。
 宇野重吉は、その大滝にダメを出しつづけた。そのわりに、目をかけていたように見える。それは写文集を読むと伝わってくる。


劇団民藝公演『鋤と星』(ショーン・オケイシー作、渡辺浩子演出、1969年10月)。右より大滝秀治ピータァー・クリテロ―、宇野重吉のフラター・グッド、米倉斉加年のウィリイ、北林谷栄のミセス・ゴーガン(『劇団民藝の記録』)

 宇野は民藝の看板俳優であり、演出家である。よくも悪くも、劇団内での発言力は大きい。大滝が、その庇護のもとにいたことは否めない。もちろんそれは、本人の俳優としての実力(魅力)と、宇野に対する尊敬があればこその話である。
 その宇野が、大滝を大抜擢した。1970(昭和45)年9月から12月にかけて上演された『神と人とのあいだ(1)審判』である。「東京裁判」をモチーフにした木下順二の法廷劇で、宇野が演出をつとめた。 
 大滝は、「主席弁護人(日本人)」を演じた。東京裁判で弁護人をつとめた清瀬一郎がモデルで、大役である。彼と対峙する「主席検察官(アメリカ人)」を、滝沢修が演じる。同裁判の主席検察官、ジョセフ・キーナンがモデルで、ふたりのやりとりが芝居の“キモ”となる。


劇団民藝公演『神と人とのあいだ(1)審判』(木下順二作、宇野重吉演出、1970年)稽古風景。手前左より大滝秀治の首席弁護人、滝沢修の首席検察官、後列左より松下達夫の判事、清水将夫の裁判長、石森武雄の判事(『民藝の仲間 第129号』劇団民藝、1970年)

 稽古のさい、宇野は大滝に言った。《「あせることはない。でも、ぐずぐずしてはいられないぞ」》(『長生きは三百文の得』)。
 写文集におさめられた写真に、宇野から大滝に宛てたメモがある。《①大滝主席弁ゴ人 大変よくなりました。努力を感謝します。更にもうひと工夫!》。宇野から、まず褒められることのなかった大滝にとって、このメモは宝物となった。主席弁護人の演技は高く評価され、紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した。


(『長生きは三百文の得』)

 宇野重吉は、1988(昭和63)年1月9日に亡くなる(享年73)。『審判』のエピソードひとつとっても、宇野と大滝の師弟関係、つながりの深さがうかがえる。
 ぼくが紀伊國屋サザンシアターで観た『審判』は、2006(平成18)年4月の再演だった。大滝の首席弁護人に魅せられつつ、亡き宇野とのつながりを想った(主席検察官は鈴木智)。いい舞台を観たと思う。

 滝沢修との関係はどうだったのか。写文集には、滝沢から受けた教えについても、多く割かれている。そこには、宇野とは異なる冷徹な視点がある。


劇団民藝公演『火山灰地 第一部』(久保栄作、村山知義演出)より、左から信欣三の青木、滝沢修の雨宮、大滝秀治の滝本(『芸術劇場』NHK教育、1961年8月20日放送)

 あるとき宇野は、「芝居を続けようと自分で決めるときは、いまだ」と大滝を励ました。時を同じくして滝沢は言った。「芝居をやめようと思うのも、才能のひとつだよ」。ふたりの言葉を、大滝はこう受けとめる。《一方だけに寄りかかり、もう一方は捨てようと思う》(『長生きは三百文の得』)。
 宇野へのかぎりない尊敬と愛着を知るいっぽう、滝沢に対してはどこか溝のようなものを感じた。「新劇の神様」と敬われた先輩への畏れ、発せられた言葉への葛藤が、行間からにじみ出る。

 やっぱし、滝沢先生の役者としての存在は、ぼくとは次元がちがったんでしょうね。
 あるとき、後輩に「池を前にして、これが海だと思えますか」って言われたから、ぼくには、池が即座に海に見える、これだけがおれの特技だよと言ったんだ。
 そしたら、その後輩が、滝沢さんにそのことを伝えてね。何日か経ってから、滝沢さんがぼくに「きみ、後輩にとんでもないことを教えたね。池は池だよ」と。
 だけど、役者っていうのは、錯覚の世界で生きる商売だって気がするんだよ。だって、舞台は虚構なんだから。それが自分の人生に、自分の生きている場になるためにはどうすればいいかというところであがき、また、それを錯覚するのも悪いことではないと思うんだけども。
 きっと滝沢さんはね、舞台ではいくらカアッとなっても、冷静になる第三の自分がいなきゃいけないんだということを教えたんだと思う。冷静な自分。でなきゃ、芝居はできない。嘘の世界なんだからと言おうと思ったんじゃないかな。
(『長生きは三百文の得』)

 滝沢修の存在は、大滝の肉体と思想に影のようについてまわった。『忠臣蔵 風の巻・雲の巻』(フジテレビ、1991年12月13日)では、滝沢が幾度となく演じてきた吉良上野介を大滝がやり、滝沢は語り手にまわった。企画の能村庸一(フジテレビ)は、「君、吉良をやるの。あれはいい役だよ」と滝沢から言われた話を、大滝本人から聞いている(能村庸一『時代劇 役者昔ばなし』ちくま文庫、2016年2月)。
 2000(平成12)年6月から8月にかけて、『炎の人――ヴァン・ゴッホ小伝』(三好十郎作、内山鶉演出)が再演された。滝沢が生涯の当たり役としたゴッホを、大滝が演じた。1951(昭和26)年の初演(岡倉士朗演出)で大滝は、画家のポール・シニャックを演じた。初演からおよそ半世紀、俳優 大滝秀治にとって、滝沢に対するひとつの答えとなる。


劇団民藝公演『炎の人――ヴァン・ゴッホ小伝』(2000年)より、大滝秀治のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(『劇団民藝の記録』)

 奇しくも『炎の人』の公演中だった6月22日、滝沢がこの世を去る(享年93)。1か月後、劇団民藝の稽古場(川崎市麻生区)で、「滝沢修とお別れする会」が営まれた(7月22日)。熱心な滝沢ファンのぼくは一般参列した。
 滝沢の死を冷静に受けとめる奈良岡朋子に対して、大滝はどこか興奮ぎみだった。甲高い声で「これは事件です」とあいさつし、目に涙を浮かべて「ありがとうございました」と参列者に頭を下げる姿を覚えている。


「滝沢修とお別れする会」であいさつする大滝秀治(2000年7月23日付「スポーツ報知」)

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 本ブログを「三人の先輩」と題した。宇野重吉、滝沢修、清水将夫の三人である。清水もまた、劇団民藝の創立メンバーである。


左より宇野重吉、清水将夫、滝沢修。民芸映画社『三太と花荻先生』(1952年公開)撮影現場(『民藝の仲間 第2号』)

 宇野と滝沢は演出も手がけたけれど、清水は俳優に徹した。先述した『審判』を例にすると、演出が宇野、主席検察官が滝沢、主席弁護人が大滝、裁判長(ウィリアム・ウェッブがモデル)が清水であった。


冨田英三「続・てんじょうやじ記12」(『民藝の仲間 第129号』)

 清水の思い出は、写文集のなかでただ一か所、数行しか登場しない。そのわずかな文章が、とてもいい。

 ぼくが池尻にある低所得者用の都営アパートで暮らしていたとき、清水さんは渋谷の南平台に住んでいて、稽古が終わると必ず「おっ、帰ろう」と声をかけてくれて、車で渋谷へ寄っては「飲め、飲め」と。
 金がなくて、酒が飲みたくても飲めないときに、心の豊かさを教えてくれました。
(『長生きは三百文の得』)

  清水将夫の酒をめぐるエピソードは、本ブログの第15回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/12/29/211933)で触れた。清水は、新劇人や文化人のたまり場だった渋谷の小料理屋「とん平」の常連だった。 

 川崎市麻生区に移るまで、劇団民藝の稽古場は青山にあった。清水は、劇団の後輩を「とん平」に連れていっては、奢っていた。先のブログで紹介した『しぶや酔虎伝 とん平・35年の歩み』(牧羊社、1982年7月)では、庄司永建と下條正巳が、その思い出を書いている。
 清水が大滝に《心の豊かさ》を教えた酒場も、おそらく「とん平」だったはず。庄司と下條のエッセイを読んだとき、「やさしい先輩だな」と思った。その印象が間違っていないことを、大滝の写文集が教えてくれる。
 清水が大滝に向けた視線は、どんなものだったのか。宇野と滝沢、偉大すぎる先輩に挟まれた後輩を、あたたかく見守っていたのか。
 ふたりが共演した作品は少なくない。そのひとつにテレビ映画『女・その愛のシリーズ』の一篇「鶴八鶴次郎(前後篇)」(NET、1973年12月12日、19日放送)がある。幾度となく映像化された川口松太郎の原作を、劇団民藝がユニットで制作し、民藝の若杉光夫が監督した。
 滝沢修のほか、民藝の俳優がこぞって出演するなか、清水は太夫元(興行主)の竹野を、大滝は舞台番の佐平を演じた。この民藝版「鶴八鶴次郎」では、佐平が狂言まわしを兼ねている。



『女・その愛のシリーズ』第11回「鶴八鶴次郎」(NET、1973年12月12日放送)より、大滝秀治の佐平(左)と清水将夫の竹野(右)

 佐平役の大きさを象徴するように、タイトルバックで大滝の名は、清水と連名でクレジットされた。寄席の舞台袖で、ふたりが仲睦まじくやりとりするシーンがある。清水の胸を借りながら、芝居しているように思えた。
 この放送から2年後、清水将夫は亡くなった(1975年10月5日死去、享年67)。大滝の俳優人生を支えた、先輩のひとりだった。

 宇野重吉、滝沢修、清水将夫、大滝秀治。みなそれぞれ、劇団民藝の旗揚げに馳せ参じ、終生かわらず在籍した。「劇団」の重みが、一冊の写文集から見えてくる。「脇役本」の名著である。

日本映画名優列伝 バイプレイヤーズ

 前回の中村伸郎から半年以上、更新が滞ってしまった。別案件の聞き取り取材で手一杯となり、当ブログは手つかずのまま。中村竹弥のソノシートつき雑誌、徳大寺伸や井上孝雄のファン雑誌など、紹介したいものはいろいろあるんだけど。
 そうしたなか、鎌倉市川喜多映画記念館(鎌倉市雪ノ下)から声をかけていただき、本やポスターを展示(出品)協力した。3月19日(金)から6月20日(日)まで開かれる企画展「日本映画名優(バイプレイヤーズ)列伝」である。
https://kamakura-kawakita.org/exhibition/202103_byplayers/

一口に《脇役》といっても、巨匠たちから絶大な信頼を置かれ、人生の酸いも甘いも味わい尽くした演技で主演だってお手のもの、堂々たる貫禄で主役の向こうを張り、演劇人として舞台のスポットライトも浴びる…そんな縦横無尽の活躍を見せる彼らには、まさに《名優》の名がふさわしいと言えるでしょう。
本展では 1950-70年代を中心に、日本映画の黄金時代を築いた「名優(=バイプレイヤー)」たちの仕事ぶりを、映画や書物を通してご紹介します。日本映画の豊かさ、その層の厚みを改めてご堪能ください。
(企画展「日本映画名優列伝」webサイト)

 浪花千栄子がモデルの連続テレビ小説『おちょやん』(NHK総合)が佳境を迎え、映画『バイプレイヤーズ~もしも100人の名脇役が映画を作ったら』(映画「バイプレイヤーズ」製作委員会)の公開を控えるなかでのスタートとなる。宣伝ビジュアルには、吉川満子、飯田蝶子、伴淳三郎、沢村貞子、草笛光子、小林桂樹、杉村春子、笠智衆、殿山泰司、望月優子、加東大介、浪花千栄子の顔がならぶ。
 会場には、「脇役本コーナー」が設けられるそう。埃っぽい部屋に積まれた古本を飾ってもらえるとは、うれしいかぎり。どんなふうに展示されるのだろう。
(感染症の収束次第だけれど)6月19日(土)午後には、映画上映+トークイベントを企画していただいた。
https://kamakura-kawakita.org/kevents/202106191330/

 本展の担当学芸員・阿部さんから、「オススメはなんですか?」と訊かれ、迷わず『にっぽんのお婆ぁちゃん』(M・I・Iプロ=松竹、1962年1月)を挙げた。男女とわず名だたるベテラン俳優がそろい踏みした、今井正監督の風刺喜劇である。



『にっぽんのお婆ぁちゃん』(M・I・Iプロ=松竹、1962年1月)スピードポスターとプレスシート

 そのリクエストに応えていただき、トークと合わせて上映できることになった。親分じいさん杉山(山本礼三郎)、ノイローゼじいさん加藤(小笠原章二郎)に、鎌倉で再会できる!


『にっぽんのお婆ぁちゃん』プレスシート(部分拡大)

 トークのお相手は、フリーペーパー『名画座かんぺ』発行人、のむみちさん。古書往来座(南池袋)の店番をほっぽり出し(?)、鎌倉まで駆けつけてくれることに。奇しくも『にっぽんのお婆ぁちゃん』には、のむみちさんが愛してやまない飯田蝶子(風船ばあさん 花)が出演している。
 会期中は関連上映として、我が愛すべき超大作『華麗なる一族』(芸苑社、1974年1月)をはじめ、全9作品が上映される。5月22日(土)には、映画『バイプレイヤーズ』の松居大悟監督のトークイベントがあり、こちらも楽しみ。



『華麗なる一族』(芸苑社、1974年1月)予告篇

 大学1年のとき、由比ヶ浜にある古本屋(いまも盛業中)で短期バイトした話は、『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)に書いた。あれから25年。鎌倉との縁を感じている。
 このご時世ですが、鎌倉にお越しのさい、お立ち寄りいただけると幸いです。

アトリエでふたり 中村伸郎


中村伸郎『永くもがなの酒びたり』(早川書房、1991年8月)

 『ユリイカ』2020(令和2)年10月臨時増刊号総特集「別役実の世界 1937-2020」(青土社、2020年9月)が出た。今年3月3日に死去した劇作家、別役実の追悼を兼ねるとあって、錚々たる演劇界の重鎮、ゆかりの人びと、気鋭の批評家が誌面に集う。
 この号に「別役実を、テレビで見た」と題して書かせてもらった。別役は脚本家として、NHKのテレビドラマを10本ほど手がけている。


『ユリイカ』2020年10月臨時増刊号総特集「別役実の世界 1937-2020」(青土社、2020年9月)

 編集部から届いた見本誌を繰りつつ、想う。別役作品を彩った俳優の多くがいなくなったな、と。つい先ごろも、70年代の別役ドラマの常連だった岸部シロー(岸部四郎)が亡くなった(8月28日死去)。
 乏しい我が観劇歴においては、文学座12月アトリエの会『鼻』(1994年12月14~23日、文学座アトリエ)の三津田健、高原駿雄が、この世を去って久しい。
 近年では、別役実フェスティバル 交流プロジェクトVol.1「別役実を読む、聞く、語る」の「円熟俳優(レジェンド)たちによるリーディング」(2015年8月19、20日、青年座劇場)で観た文学座の金内喜久夫が、今年4月28日に亡くなった。


文学座12月アトリエの会『鼻』チラシ(文学座、1994年12月)

 別役実といえば、忘れることのできない名優がいる。
 中村伸郎(なかむら・のぶお/1908~1991)。1908(明治41)年、北海道・小樽の生まれ。戦前は築地座から文学座へ、戦後は文学座からグループNLT、劇団浪曼劇場、現代演劇協会、演劇集団円と、昭和を代表する新劇俳優のひとりとして生きた。
 中村は晩年、20本を超える別役作品に出演した。ただ、関西に長く暮らしたぼくには、遠い存在だった。“生で”舞台に接することはできなかった。


パルコ スペース パート3『ドン・キホーテより 諸国を遍歴する二人の騎士の物語』パンフレット(パルコ、1987年10月)。中村伸郎(右)と三津田健(左)

 中村伸郎を知ったのは、中学生のとき。再放送で見た『白い巨塔』(フジテレビ、1978年)でハマった。浪速大学医学部第一外科 東教授、その畏怖すべき演技は、“わが中村伸郎”の原点である。
 「言葉を慎みたまえ」というセリフひとつとっても、なんとうまい役者なんだろう、と魅了された。1950年代から80年代にかけては、映画、テレビドラマに欠かせない名脇役であった。朗読や放送劇など、戦前からラジオにも多く出た。


『白い巨塔』第1回(フジテレビ、1978年6月3日放送)

 『ユリイカ』の別役特集を読んで、別役実と中村伸郎のつながりの深さをあらためて痛感した。最後の舞台も別役作品で、1990(平成2)年9月の演劇集団円公演『眠れる森の美女』(シアターサンモール)の「男4」であった。
 『白い巨塔』で知ったころ、中村は第一線を退き、舞台から去った。入れ違いだったな、と思う。

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 中村伸郎は、名文家でもあった。そのことは、『おれのことなら放つといて』(早川書房、1986年2月)と『永くもがなの酒びたり』(同、1991年8月)、ふたつの随筆集を読むとよくわかる。
 飄々と、どこか人をくったようなユーモア、その文章と視点には、ファンが多かった。

中村伸郎『おれのことなら放つといて』(早川書房、1986年2月)、同『永くもがなの酒びたり』(同、1991年8月)

 芝居と随筆ともうひとつ、中村伸郎(以下「伸郎」と表記)を語るうえで「絵」の存在がある。10人兄弟の末っ子(七男)で、画家の兄がふたりいる。次男の小寺健吉と六男の小寺丙午郎、ともに洋画家である。
 末っ子の伸郎は7歳のとき、小松製作所のトップである実業家、中村税の養嗣子となる(中村家は長女敏子の嫁ぎ先)。税は、伸郎を可愛がり、本人が画家を志したときも応援した。しかし、19歳の伸郎がパリ留学を希望したとき、頑として許さなかった。
 ふたりの兄、健吉と丙午郎のまわりには、さまざまな画家が集う。「フランス女を連れて帰国する」「パリに住みついて帰ってこない」。よからぬ噂が、養父である税の耳に入る。それが仇となった。

 私はアトリエに籠って父を恨み、私がセーヌ河岸に画架を立ててセーヌに架かる橋を、ノートルダム寺院を、河岸の並木を描く自分の姿を何度想像したことか……。そんなことがあったあと、二年足らずで絵筆もアトリエも捨てて役者修業に転身した。
(中村伸郎「セーヌ河岸」『おれのことなら放つといて』早川書房、1986年2月)


1930(昭和5)年2月、東中野「ミモザ」での久保守渡欧送別会。後列右端に中村伸郎、3人目に小寺丙午郎、前列右から2人目に久保守(『線描のシンフォニー 三岸好太郎の《オーケストラ》』北海道立三岸好太郎美術館、1993年10月)

 養父の税は、開成中学を卒業した伸郎を川端画学校に通わせ、東中野にアトリエまで建てた。藤島武二に師事し、帝展に入選した伸郎は、周りもプロになるものだと思うほどの腕前だった。
 ところが、伸郎は絵筆を捨てる。パリ留学の夢やぶれ、2度目の帝展に落選し、みずからの画風への限界が、そうさせた。
 築地小劇場に通うなど、芝居好きだった伸郎は、絵をあきらめたのち、新劇の世界へ入る。1932(昭和7)年、友田恭助・田村秋子夫妻が立ち上げた築地座の第1期研究生となった。同期に龍岡晋、第2期研究生に宮口精二がいたという。のちにいずれも文学座の一員となり、三津田健を加えた4人は亡くなるまで、つかず離れずの仲間であった。
 伸郎には、先述したふたつの随筆集とは別に、もう一冊ある。みずから「編輯」した『「丙午郎」遺稿』(私家版、1937年9月20日発行)である。B5判上製、本文とグラビアあわせて150ページほどの立派なものだ。



中村伸郎編輯『「丙午郎」遺稿』(私家版、1937年9月)

 ふたつ違いの丙午郎と伸郎は、小さいころから仲がよかった。ともに絵の道を志し、川端画学校にもいっしょに通っている。
 伸郎が編んだ『「丙午郎」遺稿』には、丙午郎が旅先の神戸から父(中村税)に宛てたハガキが載っている。

 昨日六甲山脈中の高座の瀧に行きました。(中略)それから右手に聳えて見える禿山に登つて一枚スケツチをしました。幅五寸許りの峰を傳つてづるづるすべり乍ら行きました 歸りは一層危險なので僕と伸ちやんの帶を繋いで帶につかまり乍ら下りました。
(小寺丙午郎葉書「大正八年八月十九日 打出にて丙午郎」『丙午郎』)


丙午郎5歳と伸郎3歳(『「丙午郎」遺稿』)

 兄と弟、帯をつないで、急な山路を下りる。それだけで、仲のよさが伺える。ふたりの兄にあたる次男・健吉も、その仲のよさを回想する。

 自分より二歳の弟伸郎とは殊に親しく交つて、演劇や映畫を見たり談じたりすることも知つてゐた。無頓着の丙午郎が、たとへばネクタイの一本にも色合の撰擇に凝るといふことは、伸郎やそのグループの感化だと思はれる。
(小寺健吉「丙午郎追憶」『「丙午郎」遺稿』私家版、1937年9月)

 24歳で芝居の道に進んだ伸郎だったけれど、丙午郎は画家として生きた。ただ、伸郎が活躍し始めたころから、健康を害すようになる。旅に、創作に、観劇に、読書に、交友に……。若き画家の豊かな暮らしは、永くは続かなかった。
 1936(昭和11)年2月21日、急性肺炎を悪化させた丙午郎は、この世を去る。享年31。遺された家族と友人が協力し、伸郎が編集するかたちで『「丙午郎」遺稿』が出た。
 題字を兄の小寺健吉、扉絵を東京美術学校で同級だった久保守が手がけ、丙午郎の家族と芸術家仲間がありし日を寄稿。丙午郎が遺した油彩、デッサン、カット、書簡、紀行文、メモなどがおさめられた。
 編集した伸郎は、「僕の芝居と丙ちやん」と題した一文を、この本に寄せた。

 僕が芝居を始めてからは殆んど彼は不健康だつた。それもごく初めの頃、科白(セリフ)も一言か二言の頃はよく見に來た。僕の得意の「おふくろ」はとうとう見ずだつた。ラヂオは一つも逃さず聞いてゐた。「おふくろ」も聞いたし、其の他僕がだんだん大きな役をする様になつたのもラヂオを通してその聲だけは聞いてゐた。
(中村伸郎「僕の芝居と丙ちやん」『「丙午郎」遺稿』)

 「おふくろ」とは、築地座公演『おふくろ』全1幕(1933年6月、飛行館)のこと。田中千禾夫作、川口一郎演出で、母親の坂(田村秋子)の息子・英一郎を演じた。母と子のすれ違い、情の通いあいを見せた伸郎は、好評を博した。


築地座公演『おふくろ』(1933年6月、飛行館)。左より、田村秋子の坂、堀越節子の峰子、中村伸郎の英一郎(『悲劇喜劇』1983年5月号「特集・中村伸郎」早川書房)


同プログラム(『築地座』第15号、築地座、1933年6月)

 小寺丙午郎は、「夭折の天才画家」と伝説化されるほどの画家ではない。これまでに大規模な回顧展が開かれたり、画集が出たわけでもない。画家としては道半ばで、未完成であった。そのことは、伸郎もわかっている。しかし――

 彼の繪はまれ(、、)に見る純粹な美しい繪だと僕は確信してゐる。勿論中途のことであるから未完成だし、その未完成が本當な處なのだが、それにしてもかなりいゝものだと思つて居る。一緒に繪を描いて居乍ら、一緒に展覧會を見、同じ畫集を繙いて居乍ら、僕の繪などは彼のそれに比ぶべくもないし、僕自身見るのも嫌である。今更乍ら、どうして彼があんなに純粹だつたのか、周圍に特にそんな雰圍氣があつたのでもないのに……、彼の素質を考へ、彼の日頃を想ひ、やはり短い間ではあつたけれ共、努力して殘した仕事なのだ、と思ふのである。
(「僕の芝居と丙ちやん」)

 『丙午郎』には、故人の遺した作品が数多く掲載されている。画家としては中途で、作風が未完成だったかはさておき、奇をてらわない魅力がある。たとえば「神田駿河臺」(1931年作)と題した15号の油彩がある。


小寺丙午郎 画「神田駿河臺」(『「丙午郎」遺稿』)

 この作品について版画家で洋画家の石井柏亭は、こう指摘した。《君の繪はいつもこゝ迄しか描かない この先きの仕事をやつて行くことを考へなくちやいけない》(『「丙午郎」遺稿』)。伸郎は、この「神田駿河臺」を、カラー図版(三色刷)で掲げた。 
 丙午郎もまた、ふたつ下の伸郎に、画家として信頼を置く。養父の中村税が、こうふりかえる。

 よく丙午が伸郎の處へ自分の油繪を持つて來て批評を聞いて居たが、伸の批評を熱心に傾聴して感心して居た様であつた。
(中村税「丙午(ヘコ)、思ひ出のまゝ」『「丙午郎」遺稿』)

 『「丙午郎」遺稿』を手にすると、伸郎が愛情をこめ、ていねいにこしらえたことが、よくわかる。手元にあるのは裸本で、カバーや函の有無はわからないけれど、本としての佇まいが美しい。丙午郎の作品および写真のグラビアの前には必ず、和紙が挟み込まれている(下記画像参照)。


『「丙午郎」遺稿』

 丙午郎の遺稿を編んだのは、文学座の創立に参加したころだった。解散した築地座の流れをくむ文学座には、龍岡晋や宮口精二も行動をともにした。新劇の道を歩む伸郎にとって、文学座が新たなスタートとなる。
 それもあってか、『「丙午郎」遺稿』に寄せた文章では、みずからの俳優業にも言及した。

 僕自身仕事に生き甲斐を感じ、そしてフト彼の挫折した仕事の上を、又、彼の早逝を想ふ時、どうしてもセンチにならざるを得ないが、若し僕に、ものの眞實の姿を見、純粹な考へ方をする雰圍氣を、僕の周圍に僕自身感じる事が出來たとすれば、それは彼から承けたものである。この承けた(、、、)ものを僕自身の内に生かさうとすることによつて、僕は彼の中途の仕事を、早逝を悲しむ僕のセンチメンタルを、幾分消す事が出來る様な氣がしてるのである。
(「僕の芝居と丙ちやん」)

 創立直後の文学座には、東山千栄子や徳川夢声ら大物が名を連ねていた。そのなかで伸郎は、キャリアを重ねていく。戦争が激しくなるなかで、文学座の芝居は続く。伸郎は、ラジオにも出て、詩の朗読放送を得意とした。
 戦後は、福田恆存、矢代静一、三島由紀夫ら新たな作家を得て、作品にも、役にもめぐまれた。1964(昭和39)年12月に退座するまで、文学座のひとであった。


久保田万太郎作・演出『釣堀にて』(1938年12月、有楽座)。左より徳川夢声の直七、中村伸郎の信夫(『文學座』文学座、1939年2月)

 伸郎の随筆やインタビュー記事は、たくさんある。そのなかで、兄の丙午郎について深く言及したものは少ない。随筆集『おれのことなら放つといて』と『永くもがなの酒びたり』にも、丙午郎のエピソードは出てこない。如月小春著『俳優の領分 中村伸郎と昭和の劇作家たち』(新宿書房、2006年12月)は、伸郎のロングインタビューをもとにした名著だが、丙午郎の話題は出てこない。
 晩年になって、若いころ交友のあった画家、三岸好太郎についてのインタビューを受けた。そこで、亡き兄の名を口にしている。

一番下の僕を入れれば10人兄弟の中から3人の絵描きが生まれるはずだったのです。僕が演劇の世界へ転向し、丙午郎もまもなく肺病で死にましたから、これは実現しませんでしたが、アトリエでいっしょに描いていた丙午郎は純粋ないい絵を描いていて、とてもほれ込んだ三岸さんが節子夫人にも見せたいと言って連れて来たこともあります。
(中村伸郎[談]「三岸さんを回想して」『北海道立三岸好太郎美術館報』第8号、1982年3月)

 画家の三岸節子もまた、丙午郎や伸郎と親しくした。『「丙午郎」遺稿』には、節子の追悼文「小寺丙午郎氏に就て」がある。
 三岸好太郎美術館のインタビューで、《純粋ないい絵を描いていて》と伸郎を語った。『「丙午郎」遺稿』に寄せた一文にも、《まれに見る純粹な美しい繪》と綴っている。「純粋」というのが、変わらぬ兄への評価だったのだろう。

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 1991(平成3)年7月5日、中村伸郎死去。享年82。
 冒頭で紹介した『ユリイカ』の「別役実の世界」には、中村伸郎の名前と思い出がたびたび登場する。来年で没後30年。その名は、これからも残っていくと思う。
 兄の小寺丙午郎が「夭折の天才画家」として、もてはやされることは、多分ない。『「丙午郎」遺稿』がなければ、ぼく自身、気にとめることのない画家だった。特筆したい“名脇役本”である。


小寺丙午郎 画「自画像」(『「丙午郎」遺稿』)