脇役本

増補Web版

馬と、かかしと 伊藤雄之助


「東宝現代劇新春特別公演『縮図』」(ヒビヤ芸術座、1967年1~2月)公演パンフレット


 あの俳優が、本を出していたら。そう思うことは、よくある。
 本ブログで取り上げた、中村竹弥、三谷昇、中条静夫、市村俊幸、伊吹聰太朗、原知佐子、北村英三、江見俊太郎、清水将夫、山茶花究、恩田清二郎、小林トシ子は、知るかぎりにおいて著書がない。自叙伝なり、エッセイ集なりが出ていたら、『脇役本』として取り上げたかった。
 あのエピソードを、書いていてくれたら。そう思うことも、よくある。著書があっても、こちらが読みたい話を過不足なく書いているものは意外とすくない。
 伊藤雄之助(いとう・ゆうのすけ/1919~1980)の著書『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年4月/わせだ書房新社、1969年9月)は、そうした一冊。演劇・映画・テレビ・芸能界へのうっぷんを、みずからの生い立ちを交えてぶつけた。




上/伊藤雄之助著『大根役者・初代文句いうの助』(右:朝日書院、1968年4月、左:わせだ書房新社、1969年9月)/中:松村達雄旧蔵本(朝日書院版)/下:朝日書院版のカバー帯

 『大根役者・初代文句いうの助』は、刊行時にメディアの注目を集め、版を重ねた。いまでも、古本屋や古書店で見かける。『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)と『俳優と戦争と活字と』(同、2020年7月)で取り上げたし、本ブログ「愛妻家の本棚 松村達雄」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/09/01/212312でも書いた。“脇役本の名著”だと思っている。
 伊藤雄之助が独立プロの中篇劇映画に主演し、みずからメガホンをとっていたら。それが日の目を見ないまま、お蔵入りになってしまったら。そのあたりの事情を、悔しさと憤りをふくめ、“文句いうの助”ならではの筆致で、一刀両断にしてほしかった。
 ところが、この本にそうした記述はない。沈黙する雄之助、その胸中やいかに。


伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』著者近影

 1957(昭和32)年の秋、オールロケーションによる一本の劇映画が完成した。伊藤雄之助監督および主演の『限りなき道』。独立プロの新東亜映画株式会社による、中篇(53分)の自主作品である。


伊藤雄之助監督『限りなき道』(新東亜映画、1957年9月完成)。左より、初井言栄(言榮)のしげ、六郷育子のふみ子、小沢直好の育男、伊藤雄之助の松山周助(「映画物語『限りなき道』」『小学五年生』1957年10月号、小学館)

 中篇の独立プロ作品とはいえ、伊藤雄之助が劇映画のメガホンをとったことは、あまり知られていない。『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』(キネマ旬報社、1996年10月)や山根貞男編『日本映画作品大事典』(三省堂、2021年6月)に、『限りなき道』のことは載っていない。
 さもあろう、完成したものの、一般公開された気配がないのだから。肝心のフィルムも行方知れずのまま、である。

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 伊藤雄之助は、1919(大正8)年8月3日、東京市浅草区東仲町、現在の台東区雷門1丁目生まれ。本名は「伊藤嘉朗」と「伊藤雄之助」の二説ある。
 祖父は「猛優」と呼ばれた歌舞伎俳優の七代目澤村訥子、父は初代澤村宗之助(伊藤三次郎)、母は帝国劇場の専属女優第1期生の鈴木徳子という俳優一家。雄之助は三兄弟の次男で、兄弟の上に姉(長女・文惠)がひとりいた。


帝国劇場の舞台より。左に三浦徳子、右に初代澤村宗之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 つまり、当時の常識からいえば、好むと好まざるとにかかわらず、俳優となるべき宿命を背負って生れたのです。
(伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』朝日書院、1967年4月)

 前回のブログ「老竹色、褪せず」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2023/03/12/210023で書いた中村竹弥は、「大部屋」「三階さん」「小芝居」と呼ばれた歌舞伎の俳優だった。竹弥のひとつ年下の雄之助は、いわゆる“いいとこ”の子である。
 ところが満4歳のとき、父の宗之助が本番中に脳出血で倒れた。1924(大正13)年4月6日に倒れ、翌7日、38歳の若さで息をひきとる。「澤村雄之助」の名で初舞台を踏んで、わずか6日目のことだった。


1924(大正13)年4月、父・宗之助の告別式での雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 一家の後ろ盾となった祖父の七代目訥子も、1926(大正15)年3月26日に亡くなる。歌舞伎界の孤児となった雄之助は、母の徳子、兄の惠之助(二代目澤村宗之助)、弟の敞之助(澤村昌之助、伊藤寿章)とともに俳優を続けた。
 1930年代に入り、一家で「兄弟プロダクション」を旗揚げした。
 兄弟プロでは、高田保監督『少年諸君』(1932年7月28日)と田中栄三監督『少年忠臣蔵』(1933年2月1日公開)を自主製作した。2本とも、当時はまだ珍しいオール・トーキー(全発声)で、フィルムがサイレント版ながら残っている。
 『少年忠臣蔵』は、「澤村宗之弼」「澤村雄之弼」「澤村昌之弼」と名をあらためた三兄弟が主演し、17歳以下の少年・少女俳優だけが出演した。


田中栄三監督『少年忠臣蔵』(兄弟プロダクション、1933年2月1日公開)広告(『キネマ旬報』第456号、キネマ旬報社、1932年12月)

 『少年忠臣蔵』は数年前、活動弁士・坂本頼光さんの説明で観たことがある。子役ばかりとはいえ、本格的な『忠臣蔵』映画だった。
 兄の宗之助が大石内蔵助と赤垣源蔵、弟の昌之助が浅野内匠頭と大石主税と岡野金右衛門、雄之助が吉良上野介と大高源吾と服部市郎左衛門と、兄弟が複数の役をこなしている。


『少年忠臣蔵』広告。上より、澤村雄之弼(伊藤雄之助)、澤村昌之弼(澤村昌之助、伊藤寿章)、澤村宗之弼(澤村宗之助)(『キネマ旬報』第456号)

 雄之助は子役時代から、兄の宗之助と弟の昌之助にくらべて「役者に向かない」と周りに言われていた。凛々しい二枚目の兄、麗しき美少年の弟のあいだで、コンプレックスにさいなまれた。
 《ふたりのあいだにはさまったわたしは、才能の芽らしいものは全く見あたらない。そのうえ、容貌とくれば、みなさんごらんのとおり憎く憎くしくヒネコビています》(『大根役者・初代文句いうの助』)とは本人の弁である。
 通っていた慶應義塾幼稚部では、成績が良かった。雄之助は俳優ではなく、学校の先生を夢みる。しかし母の徳子も、若くして亡くなってしまう。通っていた慶應義塾普通部を1年生でやめ、小林一三のはからいで、雄之助は東宝劇団に入る。
 東宝劇団、日中戦争下での兵役、戦時中の移動演劇(東宝移動文化隊)と辛苦は続く。1945(昭和20)年3月の東京大空襲で、ふるさとの浅草も焼けた。下積み時代の苦労ばなしは、『大根役者・初代文句いうの助』にくわしい。


1943(昭和18)年、雄之助24歳のとき(『大根役者・初代文句いうの助』)

 戦争が終わり、移動演劇隊は解散する。俳優たちは、それぞれの道を模索する。たとえば中村竹弥は、松竹の移動演劇隊が解散し、新劇の民衆座に移った。
 雄之助も演出家・八田元夫の研究所にいて、新劇の世界にいた。しかし、それでは暮らしが成り立たない。そこで活路を見いだしたのが映画だった。姉の夫で映画監督の佐伯清に紹介され、東宝撮影所長・森田信義を訪ねた。

 わたしは森田さんにいいました。
「あの、名前はどうしましょう……」
「そうだな。沢村雄之助じゃ、いかにも古めかしい。映画は歌舞伎とちがって、そのひとの腕一本だからね。ヘンに門閥なんか感じさせないほうがいいんだ」
「なにか、キリッとした名前を付けていただけませんか」
「キリッとした……? いや、本名のほうがいいよ、伊藤雄之助、けっこうだ。きみのその顔にピッタリだよ」
 伊藤雄之助がなぜわたしの顔にピッタリなのかはわかりませんでしたが、森田さんは、そういってしきりとうなづいていました。こうして、わたしはながいあいだ世話になった沢村雄之助とわかれをつげたのです。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 楠田清監督『命ある限り』(東宝、1946年8月1日公開)への出演が、「伊藤雄之助」としての映画デビューになる。「ゾルゲ事件」を題材にした、岡譲二主演の反戦メロドラマである。雄之助は検事の役で、ポスターやチラシに名前はないけれど、チョイ役ではない。


楠田清監督『命ある限り』(東宝、1946年8月1日公開)。左に岡譲二の木下晃、右に花井蘭子の三舟ゆり子

 撮影が終わり、弁護士役の山村聰(聡)とふたり、砧の東宝撮影所から小田急の成城学園前まで歩いて帰った。演劇の世界にいた山村もまた、映画の仕事は初めてだった。

「映画ってむずかしいな。ボクは自信喪失だよ」
「あーあ、やだやだ」
 と、歎きあいながら歩いたのを憶えています。翌日、森田さんのところへ、
「やっぱり、ダメでした」
 と報告にいくと、森田さんは笑いながら慰めてくれました。
「いや、楠田くんがいってたよ。使いものになりそうだって。だれでも、最初は勝手が違うさ。まあ、焦らずにやることだな」
 わたしも聡さんも、その言葉に力付けられ、少しずつ、映画の仕事に慣れていったのです。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 森田信義と楠田清の目に狂いはない。そのあとの伊藤雄之助と山村聰のフィルモグラフィーを見れば、一目瞭然である。
 雄之助は当時20代。二枚目のニューフェイスでなかったぶん、異色の若手俳優として重宝されていく。
 常連だった市川崑の監督作をはじめ、昭和20年代からたくさんの映画に出た。東宝、新東宝、大映、東映、独立プロと各社を渡り歩き、キャリアを重ねていく。いまでも名画座やCS放送でよく見かける、旧作邦画の代表的俳優のひとりである。


市川崑監督『恋人』(昭映プロ、1951年3月10日公開)。伊藤雄之助の洗濯屋

 そのときどきでプロダクションや映画会社と契約しながら、本放送が始まったばかりのテレビにも出た。1954(昭和29)年に製作を再開した日活や松竹の作品にも出演し、活躍の場を広げていく。


小林正樹監督『三つの愛』(松竹大船、1954年8月25日公開)。伊藤雄之助の八杉神父

 主役、脇役、準主役、善人、悪人、一般人、なんでもござれ。演劇の世界で芽は出なかったが、戦後の映画界で成功する。ただし映画界には、歌舞伎界の因習やしがらみとは異なる、いやな空気が蔓延していた。
 スター偏重の現場も気に入らない。みずから主演した『気違い部落』(松竹大船、1957年11月26日公開)にかけ、映画界を「気違い部落」と評した。
 アメリカのおさがり中古服を、流行りのようにして着る「カツドウヤ」にも反発を覚えた。雄之助は、かたくなに「ナッパ服」ばかりを着た。ついたあだ名が「関東配電」。撮影所で働き始めたばかりの警備員が、「関東配電」の集金人と勘違いしたのが由来である。

 なにかにつけて、わたしは、実によくハラを立てていました。「関東配電」の異名は、いつしか、「文句いう雄之助」にかわっていました。伊藤雄之助という名前を知らないひとたちでも、
「ほら、あの文句雄之助さ」
 といえば、
「ああ、あの朴念仁か」
 と、撮影所中にかくれもなかったものです。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 映画の合間をぬって、芝居も続けた。新東宝作品に出ていた1950年代初めには、田所千鶴子、小栗一也らと劇団二十世紀劇場に属し、第1回公演『残された藁』(寺岡実作、有司哲演出/読売ホール、1951年6月12~14日)に出演した。


劇団二十世紀劇場第1回公演『残された藁』(読売ホール、1951年6月)公演パンフレット(部分拡大)

 舞台では、1954(昭和29)年に『虹』(大阪・中座)を演出した。詳細はわからないけれど、自主公演と思われる。


1954(昭和29)年、大阪・中座で『虹』を演出中の伊藤雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 芝居やテレビに出るいっぽう、仕事の中心は映画である。「気違い部落」の映画界に無理してなじむことなく、こだわりをもって役者稼業に励む日々――。
 1955(昭和30)年から翌年にかけて、日活で久松静児監督の作品に何本か出た。そこで、こんなエピソードがあった。

 ラッシュ・フイルムがあがってきました。試写を見ると、わたしの芝居がどうにもこうにも我慢できない。そこですぐ久松さんのところへとんでいって、再撮影を頼みこんだのです。
「しかし、雄ちゃん、セットはもうこわしちゃったよ」
「ですから、建てなおしてほしいんです。費用はボクのギャランティ(出演料)を、全部だしますから費用のたしにしてください」
 確か、セット費が七十万、それに撮影部、照明部、録音部、俳優などの手当てを加算すると、百万円にちかい金額でした。
「そんな例は聞いたことがないけどなあ」
 久松さんも、あきれていましたが、わたしはがんばりぬいて、ついに撮りなおしてもらったことがあります。
(『大根役者・初代文句いうの助』)

 現場の立場で考えると、なかなか面倒くさい俳優である。それでも干されず、さまざまな作品に起用されたのは、演者として得がたい存在だったことの証だろう。


岡本喜八監督『ああ爆弾』(東宝、1964年4月18日公開)ポスター

 1946(昭和21)年から映画に出始めてからは、コンスタントに出演を重ねた。テレビ、舞台(商業演劇)の仕事もある。
 著書『大根役者・初代文句いうの助』を刊行した1968(昭和43)年には、テレビ時代劇『待っていた用心棒』(NETテレビ、1968年1月29日~7月22日放送)に主演した。
 主人公の浪人「野良犬」を好演したものの、キャラクターの設定をめぐって、製作サイドとトラブルになる。雄之助は、第18回(全26話)で降板した。


『待っていた用心棒』第1回「剣を抱いた十人の客」(NETテレビ、1968年1月29日放送)。伊藤雄之助の野良犬

 この年の6月には、「吉例中村錦之助公演」(歌舞伎座、6月2~28日)にも参加した。昭和40年代の初め、東映の労働争議で組合側についた錦之助は、東映をやめ、「中村プロダクション」を立ち上げる。その義侠心に惚れ込んだ雄之助は、錦之助とのつながりを深めていく。
 この歌舞伎座公演で雄之助は、昼の部の『酒中日記』『御存知森の石松』『かみなり』、夜の部の「明治百年」記念上演『竜馬がゆく』と昼夜すべての演目に出た。


「吉例中村錦之助公演」(歌舞伎座、1968年6月2~28日)『御存知森の石松』。左より、中村玉緒のお民、中村錦之助の森の石松、伊藤雄之助の小松村七五郎(『毎日グラフ』1968年6月30日号)

 本の出版と歌舞伎座への出演にあわせ、週刊『毎日グラフ』(毎日新聞社)の連載「行動する人間」に雄之助が登場した(1968年6月30日号)。全7ページにわたる大特集である。


(『毎日グラフ』1968年6月30日号)

 こうした多忙がたたったのか。翌1969(昭和44)年6月、歌舞伎座の「中村錦之助公演」に出演中、脳溢血で倒れた(6月9日より休演)。さいわいにも生死の境を脱し、懸命のリハビリに励み、まもなくカムバックした。
 住井すゑ原作、今井正監督の『橋のない川』(ほるぷ映画、第1部1969年2月1日公開/第2部1970年4月25日公開)で復帰、物語の要となる永井藤作をやった。被差別部落民の悲哀と憤りを演じきり、後半生の代表作になる。


今井正監督『橋のない川』第2部(ほるぷ映画、1970年4月25日公開)。左に陶隆の黒痣のある刑事、右に伊藤雄之助の永井藤作

 ちなみに、兄の二代目澤村宗之助、弟の澤村昌之助(伊藤寿章)もまた、俳優として息のながい活躍を見せた。脇役が中心であったけれど、舞台、映画、テレビ、時代劇から現代劇まで出演作は数多い。


『非情のライセンス』第2シリーズ第83回「兇悪の捜査」(NETテレビ、1976年5月20日放送)。澤村宗之助(沢村宗之助)の畑中


『大忠臣蔵』第38回「大石東下り」(NETテレビ、1971年9月21日放送)。澤村昌之助(沢村昌之助、伊藤寿章)の長山佐馬之助

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 新東亜映画の劇映画『限りなき道』を監督し、みずから主演した1957(昭和32)年も、売れっ子ぶりに変わりはない。この年の出演作をふりかえると――

渋谷実監督『正義派』(松竹大船、2月20日公開)
五所平之助監督『黄色いからす』(歌舞伎座映画、2月27日公開)
佐伯清監督『抜打ち浪人』(東映東京、5月20日公開)
福田晴一監督『赤城の血煙 国定忠治』(松竹京都、7月1日公開)
中村登監督『集金旅行』(松竹大船、10月29日公開)
伊藤雄之助監督『限りなき道』(新東亜映画、9月完成)
渋谷実監督『気違い部落』(松竹大船、11月26日公開)

 1957年に出演した『黄色いからす』と『気違い部落』の2本は、映画俳優・伊藤雄之助の代表作となった(代表作の多い俳優ではあるが)。
 五所平之助監督『黄色いからす』は、中国から復員してくる吉田一郎役。戦争の長いブランクがあるため、一郎と小学生の息子・清(設楽幸嗣)のあいだには、埋められない溝がある。妻のマチ子(淡島千景)が心を痛めても、父と子の不協和音はどうすることもできない。
 その吉田一家に、娘が生まれる。幼い妹を溺愛する父に、兄の清は疎外感を深めていく(学校の美術課題で“黄色いからす”を描くのがタイトルの由来)。
 一郎もまた、元の職場に復帰できず、イライラを募らせる。「家族愛」と呼ぶにはやるせなく、でも、救いのある佳品である。


五所平之助監督『黄色いからす』(歌舞伎座映画、2月27日公開)。左より、伊藤雄之助の吉田一郎、設楽幸嗣の清、淡島千景のマチ子

 きだみのる原作、渋谷実監督の『気違い部落』では、ふたたび淡島千景と夫婦をやった。奥多摩の部落で繰り広げられる群像劇で、因習に逆らい村八分にされる村田鉄次を、雄之助が演じた。


渋谷実監督『気違い部落』(松竹大船、11月26日公開)。左より、伊藤雄之助の村田鉄次、淡島千景のお秋、水野久美のお光

 部落を牛耳る因業機屋の野村(山形勲)と鉄次の壮絶なバトル。頑固な父と因習の板ばさみになる鉄次の娘・お光(水野久美)の悲劇。『キネマ旬報』の広告には《痛烈な諷刺と笑い!》《日本人全部に通じる皮肉とおかしみ!》とあるものの、後味はすこぶる悪い。
 いっぽうで、クセのある顔ぶれを束ねる存在感はさすがで、主演作の名に恥じない。のちに雄之助が、映画界を「気違い部落」と評したことは先述した。


『気違い部落』広告(部分拡大)(『キネマ旬報』1957年11月上旬号、キネマ旬報社)

 テレビドラマにも出た。1957(昭和32)年当時、NHKと年間15本のドラマ出演を契約している。石坂洋次郎原作『石中先生行状記』(日本テレビ、1957年4月9日~7月16日放送)に主演するなど、民放のドラマにも出た。
 この年の2月から、日中映画人交流の一環で、牛原虚彦、五所平之助らと中国を訪れた。およそ1か月にわたり、現地の映画界を視察し、首相の周恩来と会談をおこなっている。映画人たる雄之助は、この旅で大きな刺激を受けた。


1957(昭和32)年2~3月の日中映画人交流。左に周恩来、右に伊藤雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』)

 伊藤雄之助監督・主演『限りなき道』の撮影は、『黄色いからす』と中国訪問のあとにおこなわれた。田植えが終わって、初夏のシーズンである。
 『限りなき道』の原作は、松山ふみ子(茨城県下館市養蚕小学校4年生)の作文『うられていつた馬』。「全国児童・生徒作品コンクール」(1954年度)で、「総理大臣賞」を受賞した。以下はその冒頭部分である。

 八月十日私の家の馬が、とつぜん静岡県のほうにうられて行きました。それは馬車くみあいがかいさんになつてしまつて、父ちやんの仕事がひまになつてしまつたからです。
 「父ちやん、どうして馬車くみあいがなくなつたんで」
と私が聞いたら、父ちやんは
 「いまはな、ふみ子、馬車なんか時代おくれなんだ。スピード時代で馬車なんかだれもたのむ人がねえんだ。にもつは自動車と三りん車にとられてしまうんだ。まつたくふけいきな世の中だ」と教えてくれました。こんな話を家で聞いている時いえの前を、自動車が砂けむりをあげて西に走つて行きました。(後略)
(松山ふみ子『うられていつた馬』『限りなみ道』撮影台本、新東亜映画株式会社、1957年)


1954(昭和29)年度「全国児童・生徒作品コンクール」で「総理大臣賞」を受賞する松山ふみ子(左)(『小学四年生』1955年2月特別号、小学館)

 およそ2000字の作文の映画化を、「新東亜映画株式会社」が企画し、プロダクションの「第一協団」が協力した。
 新東亜映画について、『限りなき道』のプレスシートには《新しく誕生した独立プロダクシヨン》とある。製作当時の新東亜映画の代表は今田喜次郎で、くわしい素性はわからない。
 『限りなき道』の撮影台本のトップには、《企画 木村桂三 大河内一權(第一協団)》と印刷されている(今田喜次郎の名はない)。木村桂三は、古賀聖人監督の国策映画『マライの虎』(大映東京、1943年6月24日公開)の脚色を手がけている。


『限りなき道』撮影台本(1957年)

 2000字の作文を、そのまま映画の脚本にすることはできない。その脚色を、脚本家の高橋二三が担当した。タイトルは『うられていつた馬』をあらため、『限りなき道』となった。
 1948(昭和23)年、松竹大船脚本研究所を卒業した高橋は、1955(昭和30)年に大映と契約した。1957(昭和32)年当時、すでに何本かの大映作品を手がけていた。のちに『ガメラ』シリーズを手がけ、特撮ファンに広く知られる存在となる。
 『限りなき道』の脚本は、『シナリオ』(シナリオ作家協会)1957年8月号に掲載された。同年秋の映画完成前で、この脚本と後述する撮影台本の文言に違いはない。


『シナリオ』(シナリオ作家協会)1957年8月号

 高橋二三のシナリオでは、主人公は原作の松山ふみ子ではなく、父親になっている。トラック運送のあおりを受ける荷馬車屋、松山周助がその人である。
 この荷馬車屋の役を、伊藤雄之助に打診した。「ひねりがなさ過ぎる」と思いつつ、シナリオを読むと、この役は雄之助しか考えられない。俳優としての格、知名度にも申しぶんはない。
 そのオファーを雄之助は受けた。「監督もやりたい」と条件をつけて。この前後のいきさつは、著書『大根役者・初代文句いうの助』に言及されていない。
 「監督もやりたい」と本人が言ったとして、とくに不思議はない。1950年代、みずからメガホンをとった俳優は少なくない。佐分利信、山村聰、田中絹代、斎藤達雄、菅井一郎、宇野重吉、小杉勇……。
 菅井一郎監督『泥だらけの青春』(日活、1954年9月21日公開)では、シナリオライター・畑山役で賛助出演した。俳優の菅井がメガホンをとる姿を、雄之助はそばで見て知っている。


菅井一郎監督『泥だらけの青春』(日活、1954年9月21日公開)。伊藤雄之助のシナリオライター・畑山

 そもそも映画に一家言あり、中国の映画界から刺激を受けた俳優である。メガホンをとりたい気持ちを、こころに秘かに抱いていたのかもしれない。
 映画界に入って、はや11年。大手6社(松竹、大映、東宝、新東宝、東映、日活)は無理でも、独立プロなら監督のチャンスがあった。高橋二三は、映画監督としての伊藤雄之助について、こう書く。

 脚本家は計算型の人種で、演出家は情熱型が多い。計算型が一応計算の上で首尾一貫して書いた物を、情熱型が気に入つた所だけ拾い上げて撮影したら、計算が崩れて全体のつながりがアンバランスになるのは分り切つている。だから「はい高橋さんフイート数から換算された枚数の原稿をきつちり作つて、それを変えずに丹念に撮影しましよう。その方が間違いないと思います」と仰有つて下さる演出家がいるとしたら、彼は計算型の人種である。その人の名は伊藤雄之助。元来俳優さんは情熱型が多いのに、好漢伊藤氏が如何なる映画を計算的作り上げてくれるか、その成功を祈るや切――
(高橋二三「計算型と情熱型」『シナリオ』1957年8月号、シナリオ作家協会)

 高橋の文章を読むかぎり、シナリオにきちんと敬意を払っていることがわかる。撮影台本と活字化されたシナリオには、文言に違いがない。

 1957(昭和32)年の初夏、『限りなき道』の撮影がおこなわれた。原作(作文)の舞台にあわせ、茨城県袋田温泉近くでのオールロケーションである。
 ロケ隊の宿は「袋田温泉ホテル」。低予算かつ製作日数は20日ほどしかない。映画づくりの現場としては、けっこう厳しい。
 そのかわり、伊藤雄之助の初メガホンを祝って、俳優仲間が協力を惜しまなかった。ロケ地の袋田温泉は、都内から車で3時間はかかる。それでもおおぜいの俳優が、この映画のために駈けつけた。
 雄之助とは古い付き合いの沢村貞子、『黄色いからす』でも共演した多々良純、青年座の初井言栄(言榮)、第一協団の清水元、深見泰三、そして、案山子クラブの織田政雄、西村晃などなど。 
 「案山子クラブ」は、雄之助をはじめ、気ごころの知れた仲間たちの集まりである。のちに「かかしぐるーぷ」と名をかえ、つながりを深めた。
 2022(令和4)年7月に亡くなった嶋田親一さん(演出家、テレビプロデューサー)の旧蔵品に、かかしぐるーぷから嶋田さん宛ての年賀状(1961年)があった。
 新宿区四谷3丁目に事務所があり、《株式会社 かかしぐるーぷ》とある。所属俳優は、伊藤雄之助、織田政雄、西村晃、濱村純(浜村純)、加藤嘉、日高澄子、北原三枝の7人になっている。


島田親一(嶋田親一)宛て、かかしぐるーぷ年賀状(1961年1月1日消印)。嶋田親一旧蔵品

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 俳優仲間が協力して生まれた『限りなき道』は、どのように仕上がったのか。フィルムは行方知れずのため、関係者の手で残された撮影台本をもとに探ってみたい。
 手元にある台本は、傷みぐあいと書き込みから判断して、現場で使われたもの。ただ、雄之助が使ったものではおそらくない。監督の使用台本なら、もっと書き込みが多いと思う。
 表紙には《限りなき道 新東亜映画株式会社》とあり、松山ふみ子の原作『うられていつた馬』が巻頭に再録されている。とくに明記はないけれど、おそらくモノクロ作品。


『限りなき道』撮影台本

 原作の再録のあと、スタッフとキャストが印刷、ペン、えんぴつで記されている。参考までに以下に記した(*印は空欄)。

企画 木村桂三、大河内一權(第一協団)
製作 藤野武志、有馬猛
原作 松山ふみ子(總理大臣賞受賞『うられていつた馬』より)
脚本 高橋二三
撮影 広川朝次郎
監督 伊藤雄之助
美術 三島杜霧
照明 守屋惣一
録音 田中義透(理研)
音楽 田村大八(*筆者注 田村大三)
編集 辻井正則
助監督 *
撮影助手 *
製作主任 金巻博司
監督助手 渡辺成男、郭成強
撮影助手 浅岡、秋山
録音助手 *
効果 *
照明助手 市川、松原、すが
美術助手 *
小道具 *
大道具 *
特殊機械 *
記録 木下とし子
編集助手 *
演技事務 金巻博司
衣裳 大和
技髪 奥山
結髪 *
製作宣伝 *
スチール 江橋隆明
製作経理 *
進行 保田進
美術助手 辰巳実
■人物
松山周助(荷馬車屋)伊藤雄之助
しげ(その妻)初井言栄(青年座)
育男(その息子)小沢直好(すみれ)
ふみ子(その妹)六郷育子
ばくさん(馬喰)清水元
春江(居酒屋のおかみ)沢村貞子
源吉(元荷馬車屋)織田政雄
達三(その息子)杉本修
山の旦那 深見泰三
岡野秀子(小学校の先生)北原三枝
石田(組合の荷役係)西村晃
杉本(運送会社の荷役係)森健二
獣医 丘寵児
紳士(全日本愛国党の役員)多々良純
保健婦 戸田春子




『限りなき道』撮影台本

 音楽欄に書き込みのある《田村大八》は誤りで、指笛音楽家の田村大三が正しい。
 キャストについては、撮影台本とプレスシートに若干の違いがある。プレスシートでは、岡野秀子が淡京子、杉本が丘寵児、獣医が森健二、保健婦が梅野公子になっている。また、《秋葉 藤山竜一》《婆さん 木村時子》の配役が撮影台本になく、プレスシートにはある。
 『シナリオ』に掲載された高橋二三の脚本および撮影台本と、完成した作品が異なっている可能性もある。配役の変更も、映画づくりの現場では珍しくない。
 撮影台本には《脚本 高橋二三》とあるけれど、プレスシートでは《脚本 高橋二三 伊藤雄之助》と連名になっている。高橋のシナリオを尊重したはずの雄之助が、現場で手を加えたことも考えられる。
 雄之助がどんな演出をしたのか、興味がある。プレスシートには、作品の狙いと特長がみじかく書かれている。

 監督として、演技者として伊藤雄之助はこの作品を単なる教育映画に終らせず、大きな社会問題にまで発展させ、貧しき人々への愛情と祈りを静かな詩情の中で美しく謳いあげている。
(『限りなき道』プレスシート)

 初めての映画演出で、雄之助がこだわったのは音楽である。
 音楽の田村大三は、指笛音楽の第一人者として知られた。田村に『限りなき道』の劇伴を委ねたのは、雄之助のアイデア。取材を受けたさい、音楽のプランについて語っている。


田村大三(『少年』1965年11月号、光文社)

「いくら働いても食ってゆけないバクロウ一家のつらい生活の哀感を表現するにはオーケストラの伴奏ではダメで、アコーディオンやハーモニカも考えたが作品のテーマにも画調にもぴったりこない気がした。そこで口笛を全編に流そうと思っていたところ、田村さんの指笛を思い出し、全編指笛だけの伴奏をお願いすることにした」
(「映画音楽への新しい試み 指笛で哀感を 伊藤雄之助新監督」1957年8月13日付「讀賣新聞」夕刊)

 高橋二三のシナリオと完成作が、どれほど違っているのか(あるいは同じなのか)。田村大三の指笛音楽が、どんな詩情を与えたのか。映画を観ることができない以上、台本とスチールで想像するしかない。
 シーンの数にして46、上映時間53分の『限りなき道』。印象深い場面を、撮影台本から抜き出してみたい。
 シーン1。荷馬車屋の松山周助(伊藤雄之助)と一家を支える馬の「ジロー」が、街道をゆく。

[1 乾いた街道(タイトルバツク)]
(ガタガタ揺れ乍ら行く荷馬車の上から見た目で)
どこまでも続く道。
(タイトル終る)
その道へダーツと猛烈な勢いでトラツクが数台走り抜けて、街道に砂ぼこりが立ちこめる。
と、その砂ぼこりの中から現われる荷馬車屋の周助(40)何かブツブツ呟きつつ体にあびたほこりをはたき乍ら、せかせかと速ぎ足に、手綱を曳いて街道を来る。
荷物を満載したその荷車。
それを牽く汗だらけの馬。
周助は何者かに追い立てられるが如くせかせかと足を急がせる。
と、後方でけたたましい車の警笛。
周助、振り返ると、大型トラツクが道をあけろとしきりに警笛を鳴らしている。
周助、仕方なさそうに手綱を曳いて荷車を片側へ寄せる。と、街道のふちが崩れて車輪の一つがずり落ちかかる。
周助、慌てて車を停める。
その横をダーツと通りぬける大型トラツク、周助に砂ぼこりをあびせて去る。(後略)


『限りなき道』撮影台本

 これだけでもう、雄之助のハマりっぷりが目に浮かぶ。新東亜映画が、周助役にオファーした狙いがよくわかる。あてがきじゃないか、とさえ思う。
 シーン2。周助は約束の時間に遅れて、村の共同出荷所に着く(台本には《太子薪炭出荷組合》の書き込み)。案山子クラブの西村晃が、事務員の石田を演じる。


西村晃(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」キネマ旬報社、1958年6月)

[2 ○○共同出荷所(太子薪炭出荷組合)]
事務員石田(35)弁当を食い乍ら、
「……何時だと思つてるだね」
その前に困り顔で立つている周助。
背後の、表の広場に周助の荷馬車がポツンと一台、置いてある。
石田「汽車は待つてちやくれなかつぺ……(弁当箱へヤカンの水をぶつかけて、サラサラかツこみ乍ら)……仕事はこれで打ち切りだ」
周助「へえツ?!」
石田「……トラツクに頼みやきちつと時間に間に合わせツからな……こつちにだつて予定つてもんがあツでな、困るだよ、こつちの立場もな」
梅干のタネをボツと窓の外に吐き出し、傍若無人に爪楊枝を使う。
周助、何か云い返そうとするが言葉にならない。
(WIPE)

 これまた目に浮かぶやりとりだ。上から目線で周助に嫌みをぶつけるあたり、西村晃の声が聞こえてくる。ワンシーンの友情出演のため、事務員石田こと西村晃は、このあと登場しない。
 続くシーン3と4。納品に遅れ、出荷所の事務員に嫌みを言われたうえ、周助は仕事をうしなってしまう。意気消沈した周助は、ジローを連れて、行きつけの居酒屋に立ち寄る。
 居酒屋の外では、ジローが飼い葉を食べている。店ではおかみの春江が、周助の話し相手になっている。演じるのは沢村貞子。ふたりのやりとりが、物語の伏線となる。


沢村貞子(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」)

[4 同・店の内]
ポツンと周助一人、握り飯をボソボソ食べている。
おかみの春江(40)渋茶を出し乍ら、
「ここら辺で商売替えでも、するならしてみたらどうだつぺ。荷馬車なんていまどき時代遅れだよ」
子供が日掛け貯金の箱を持つて来る。
「小母チヤン」
春江「あいよ」
子供、去る。
春江、貯金箱に小金を入れ乍ら、
「川上の源さんでさえ三十年の馬車曳き辞めて馬ツコ売つたつて云うでねえか。なんでもいい田んぼ買つたとかつて、評判聞くがよ」
と、云い乍ら隣室との窓を開けて、
春江「おばさん」
隣室の婆さん、顔を出して貯金箱を受け取る。
春江「(周助に)人間て見切り時が肝心だつぺ(声をひそめて隣室に顎をしやくり)うちの婆さん、時々貯金箱からくすねツだよ。タチが悪くつて(元の声で元の話題に戻り)ひと思いに馬ツコ売つて田んぼ拡げたらどうだつぺ。そりや何商売したつて苦労はついて廻るけど、やつてみツたら、やつてみたらよかつぺ」
周助「……おらあ、親代々の馬車曳きだ。馬ツコは売れねえツ」
春江「じや、息子にも空馬車曳かせようツてのかい?」
(WIPE)

 沢村貞子と雄之助は、公私ともに親しい仲だった。雄之助の子どものころ、沢村が伊藤家で家庭教師をしていた縁に始まる。『徹子の部屋』(テレビ朝日)で放送された伊藤雄之助追悼特集(1980年3月19日放送)では、沢村が故人の思い出を語った。宮口精二の個人誌『俳優館』第33号(1980年6月)に、この放送回が誌上再録されている。
 シーン9。居酒屋をあとにした周助は、空の荷馬車とジローを連れて、駅前の運送会社を訪ねる。
 荷役係の杉本(森健二)に「おらにも仕事分けて」と頼みこむものの、追い返されてしまう。杉本はトラックで立ち去り、彼にあげたせっかくのタバコも無駄になる。
 なすすべもなく、駅前で呆然とする周助。駅前では、見知らぬ紳士が熱弁をふるっている。演じるのは多々良純。ふたりは五所平之助の『黄色いからす』にて共演しており、これも友情出演と思う。


多々良純(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」)

[9 ○○駅附近(昼)]
(前略)
[全日本愛国党 
東関東支部結成記念大会]
と、記した看板を立て、胸に大きな造花をつけた汗ぎつた紳士が、マイクを片手に、軍艦マーチの伴奏で、喋り出す。
紳士「親愛なる皆さん、今や祖国日本を救うの道は再軍備あるのみであります。今日、東西陣営が原子爆弾を所有する以上、平和を守るには、我等は武装せねばならんのであります。諸君、平和は武力より、武力は我等日本人の団結より。諸君、今こそ大和魂を武力に直結せしめよ。力は正義なり、力あればこそ身が守れ、そして一旦緩急の暁には攻撃に転じ得るのであります……」
そのかしましい人だかりの彼方に、先刻のままポツンと一人、忘れ去られたように佇んでいる周助の後ろ姿。
勇壮なるマーチにも、演説にも、行き交うバスや人の賑わいにも、無縁の如き悄然とした後ろ姿。
その肩へ、手がかかる。
周助、ゆつくり振り返つて、
「……源さん」
そこに立つている元荷馬車屋の源吉(55)
(WIPE)

 右翼団体の役員らしく、再軍備を説く多々良純。なにをかいわんや、なキャスティングである(かなり唐突に思えるので、「新東亜映画」をとりまく政治的人脈を感じさせなくもない)。
 駅前で佇む周助に声をかける荷馬車仲間の源吉を、織田政雄がやる。案山子クラブの仲間で、いかにも織田政雄らしい役で和む。ふたりのやりとりが、シーン10に続く。


織田政雄(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑」)

[10 街道]
肥料叭を二つ積んだリヤカーを曳いた源吉と空馬車を曳いた周助、並んで帰つて来る。源吉のリヤカーにはその子達三(12)が後押ししている。
源吉「周さん、一寸頼みがあツだが……」
周助、源吉を見る。
源吉「その手綱、握らせてくれねえか」
周助、立ち停つて源吉を見つめ、二人は立場を入れ替える。
それを怪訝そうに見ている達三。
源吉、手綱を曳いて歩き出し、
「……こうやつて歩くと、体がシヤンとすツぜ。懐かしいもんだ。我ながら荷馬車屋なんてバカな商売、良くまあ三十年もやつてたもんだな、ハハ……空し空車はいけねえな。空車曳いてけえつた時を思い出すと、気がめいらあ。全く、目ハシの効く人間なら、こんな稼業いつまでやつちやいられねえよ。いまどき、荷馬車屋だけは伜にやらせたくねえでな」
と、後ろを振り返る。そこに――
一心にリヤカーを押している達三。

 源吉の息子・達三(杉本修)と周助の息子・育男(小沢直好)は、仲のいい友だちどうし。大人の事情と時代の流れのあおりを、子どもたちも受けることになる。
 シーン13。周助はあきらめず、営業にまわる。源吉と別れたあと、頼りにする「山の旦那」の家を訪ねた。第一協団の俳優で、戦前から活躍するベテランの深見泰三が、山の旦那にふんする。


『限りなき道』。左に深見泰三の山の旦那、右に伊藤雄之助の周助(『小学五年生』1957年10月号)

[13 山の旦那の家の縁先]
縁側にどつしり控えた山の旦那(55)
「おう、よく来たなあ」
その前の庭先で、恐縮そうに小腰をかゞめている周助、何か云い訳じみた事を云い出そうとすると、
旦那「よしよし、分つてる」
と、大らかに周助の発言をとゞめさせ、紙入れから一万円出して、
旦那「どうだ、材木運び、三日間で一万円、やってくれるかな」
周助、喜びで口もきき得ない。
旦那「ハハ、じや、頼んだぞ」
と、一万円を差し出す。
周助、天にも昇る気持で手を出す。
と、旦那は一万円を引つこめて、
旦那「そうだそうだ、お前たしか、借金があつたな」
周助「(しゆんとして)……へえ」
旦那「幾らだつた?」
周助「六千円で……」
旦那「ふん、そうだつたな(と、六千円を紙入れに戻し)一ケ月分の利息、ニ千円(と、二千円更に戻し)まあ、しつかりやつてくれ」
と、残つた千円札二枚を渡す。
周助、両手でそれを受け取つて、複雑な表情。
(F・O)

 周助、ふんだりけったりである。シーン1から13まで、映画は淡々と、時代おくれとなった荷馬車屋の悲哀、世の冷たさを映し出していく。
 主演の伊藤雄之助を軸に、西村晃、沢村貞子、多々良純、織田政雄、深見泰三が、かわるがわる出てきては、いかにもな芝居を見せる。ぜいたくな配役である。
 周助の日常を描きながら、映画は松山家の人たちの暮らしを映し出す。周助の妻・しげ(初井言栄)は妊娠がわかって、落ち込んでいる。貧乏人の子だくさん、中絶するには時期がおそかった。
 しげ役の初井言栄は当時、劇団青年座に所属しつつ、日活映画によく出ていた。きっとそこで、雄之助や案山子クラブの面々と知り合った。独立プロではあるが、主人公の妻役は抜てきである。


『限りなき道』。左に初井言栄のしげ、右に小沢直好の育男(『小学五年生』1957年10月号)

 育男と妹のふみ子(六郷育子)は、ジローを家族として慈しんでやまない(原作者の松山ふみ子がモデル)。ジローの体調が芳しくなく、ふみ子は心配する。

[15 小学校附近]
ふみ子、写生をしている。
その辺で思い思いに写生する小学生達。
彼方に学校が見える。
岡野秀子先生(23)が一人々々見廻つている。(中略)
ふみ子の後ろに立つて、岡野先生は“アレツ?”と云うような顔をして、辺りを見廻し、またいぶかしそうにふみ子の写生を見る。それは――
画面一杯に大きく描かれた馬。
岡野先生、念を押すようにもう一度近くを見廻して、
「何処にも、馬はいないじやないの」
ふみ子、可愛く振り仰いで、
「思い出して書いてんです」
岡野「ああ、あんたの家には馬がいたのね。馬、元気?」
ふみ子「(しゆんとして)今朝は、あんまり元気じや……」
岡野「そう、それでこんな絵を書いてんの」
と、画面を見る。
その馬の画(アツプ)に、ポツンと一つ大粒の雨。
そしてまた一つ、二つ、雨粒が、描かれた馬の体に落ちて来る。
(O・L)


『限りなき道』撮影台本

 ふみ子が通う小学校の先生・岡野秀子は、シーン15にのみ登場する。撮影台本には《北原三枝》と書き込まれているが、プレスシートや先に引用した「讀賣新聞」の記事では、淡京子の名になっていた。
 北原三枝は、案山子クラブ(かかしぐるーぷ)のメンバーで、そのかたわら日活と契約していた。1957(昭和32)年当時、長門裕之や石原裕次郎の相手役で、忙しかったはずである。


井上梅次監督『勝利者』(日活、1957年5月1日公開)。左より、石原裕次郎の夫馬俊太郎、南田洋子の宮川夏子、三橋達也の山城英吉、北原三枝の白木マリ

 独立プロの作品で、伊藤雄之助への友情出演だとしても、日活がこころよく出演を許可したとは考えにくい。ワンシーンとはいえ、ロケ地の袋田温泉と東京を往復すると、1日がかりになってしまう。
 その余裕が、当時の北原三枝にあったのか、否か。北原の出演は結局ダメになり、淡京子に代ったのではないか。
 淡京子は昭和20年代から、独立プロの作品に出ていた。北原三枝ほどの人気はなかったものの、『日真名氏飛び出す』(ラジオ東京テレビ、1955年4月9日~62年7月14日放送)にレギュラー出演するなど、それなりに顔は知られていた(1958年、結婚を機に芸能界を引退)。


藤原杉雄監督『赤い自転車』(全逓従業員組合・第一映画社、1953年12月1日公開)。淡京子の加藤はる子(シナリオ文庫第14集『赤い自転車』映画タイムス社、発行日未掲載)

 話を『限りなき道』に戻す。
 シーン15でふみ子は、ジローの絵を描き、体調が悪いことを心配する。その絵に、大粒の雨が落ちてくる。この描写がシーン16につながる。
 体調のよくないジローは、悪天候のなか材木を運ぶ(シーン13の山の旦那から請けた仕事)。周助とジロー、それぞれの苦闘が、映画中盤のクライマックスとなる。

[16 山道A]
雨に降りこめられているジロー。
山のような材木を積んで、雨の中を周助の荷馬車は急ぐ。
(WIPE)
[17 坂道]
周助、雨の中でジローに鞭をあてる。
だが、車輪がスリツプして荷車は進まない。
周助、懸命に手綱を曳く。ジローは首を上下して手綱を取られるのをいやがる。
[18 山道B]
泥沼にめりこんだ車輪を、周助が体当りで押し出そうとしている。だが押せども引けども車は泥沼にめりこむばかり。
周助が片手の鞭で後ろからジローを叩いても、ジローの足はもがくばかりで、車は泥沼から出られない。降りしきる雨の中で、人も馬も泥んこで苦斗している。
(WIPE)


『限りなき道』。伊藤雄之助の周助(『小学五年生』1957年10月号)

 映画では、周助と源吉、ふたりの荷馬車屋が対照的に描かれている。源吉は、この稼業に見切りをつけて土地を買う。居酒屋のおかみ(沢村貞子)は、「なんでもいい田んぼ買ったとかって、評判聞くがよ」と周助に言う。
 かたや周助は、親代々の稼業にこだわる。頑固ではあるけれど、源吉にはない強さと反骨精神をもっている(そのぶん、馬のジローを酷使することにもなる)。
 そんな周助も、時代の流れには逆らえない。体調を崩したジローは、清とふみ子の看病もあって持ち直す。それは根本的な問題の解決、松山家の希望を見いだすことにはならない。
 妻しげの出産も、間近に迫っていた。シーン35と36では、子どもが不在の周助宅での夫婦の語らいが、やや深刻に描かれる。

[36 同・家の中]
(しげから見た目で)上りがまちに腰を下した周助が、悄然と視線を落としている。
しげ、入つて来て、周助と間隔を置いて同様上りがまちに腰を下す。
夫婦、互にあらぬ方を向いたまま、
しげ「(呟く)幾ら直つたつて、仕事がねえじや、なんにもなりやしねえ……」
周助「……」
しげ「いつそ、貸し馬に出したらどうだつぺ……幾らかでも日ゼニが入るだ」
周助「……赤ん坊は生まにやなんねえのか」
しげ「保健婦さんが、もう遅いつて」
周助「……」
しげ「……思い切つてジローを売つたらどうだツペ……商売替えすツにや、早い方がいいだ」
胴乱を握つた周助の手が微かに震えている。
しげ「田んぼ拡げて、百姓するより仕方なかつぺ。おら、二人分でも三人分でも働くだ。子供たちに、ひもじい思いだけはさせたくねえだ!(始めて周助を見て)お前さんツ、馬ツコ売つて田んぼ買つて――」
周助「うるせえ! おらア親代々の荷馬車曳きだ! 馬ツコが売れッかッ!」
と、叫んで逃れるように表へ出て行く。


『限りなき道』。左に初井言栄のしげ、右に伊藤雄之助の周助(『小学五年生』1957年10月号)

 家族として慈しみ、ともに暮らしてきたジローを売ることを、清とふみ子は納得しない。悩んだすえ、荷馬車屋を辞める決意をした周助は、馬喰のばくさん(清水元)に、ジローを売ってしまう。子どもたちには内緒で……。


『限りなき道』撮影台本

 同じころ、荷馬車屋仲間の源吉一家は、北海道の炭鉱へと旅立つ。土地を買ったものの、中途半端に肥料を撒くだけで、思うように開墾できなかったからだ。清と達三(源吉の息子)に別れがおとずれる。
 村を去る源吉と入れ替わるように、周助が土地(草原の開墾地)を買う。清とふみ子は、ジローが売られたことをついに知る。映画はここで、大詰めを迎える。

[44 新しい田んぼ(草原の開墾地)]
(前略)
周助一人、黙々と土を掘り起こす。
育男、つかつかと来て、周助に体当りするように拳固で父を打ち乍ら、
「父ちやんのバカ!」
周助、軽く育男をつき放し、あらぬ方へ視線をやり乍ら、手の甲で首筋の汗を拭く。
育男「父ちやんの嘘ツこき! 売らねえツて云つたでねえか!」
しげ、うずくまつたまま、
「しよんねえだよ。ジローはなツ、この田んぼ残して行つただ」
育男「おら、田んぼなんかいらねえ!」
しげ「バカこけ。田んぼなかつたら、なんしておまんま食うだツ」
育男「まんまなんか食わんでもいい!」
周助、いきなり育男を殴りつける。
殴られた頬を押さえて、父を睨む育男。
周助、複雑な気持で育男を見詰めて、二人の視線が合う。
その時、彼方で遠い馬のいななき。
育男、ハツと気づいて、その方へ走り出す。
ふみ子も続いて駈け出す。
[45 傍の小高い場所]
駈けて来た育男とふみ子、立ち停つて彼方を見る。
向うの道を、ばくさんに曳かれてジローが行く。
育男もふみ子も、声が出ない。
ジローはだんだん小さくなる。
ふみ子、一杯涙を浮かべて育男の手につかまる。
育男、涙の目でじつとジローを見送つている。
ジロー、だんだん遠くなる。


『限りなき道』。左に六郷育子のふみ子、右に小沢直好の育男(『小学五年生』1957年10月号)


『限りなき道』。小沢直好の育男(『小学五年生』1957年10月号)

 清とふみ子は、売られていくジローを、小高い場所からさびしく見送る。
 気持ちのもって行き場のない周助は、ただひとり、土地を耕す。そして、シーン46「新しい田んぼ」で幕となる。

[46 新しい田んぼ]
しげ、よろよろと立ち上り、
「しよんねえ、しよんねえ……」
と、呟きつつ、鍬を振り始める。
ずつと土を掘り続けていた周助、ふと手をとめて、丘の上の育男とふみ子の後ろ姿へゆくつり顔を向けて、じいつと見詰める。その顔に、押えに押えていた哀しみのカゲが一瞬浮かぶ。
その時、ゴーツと傍の道をトラツクが走り抜けて、舞い上る砂ぼこりに周助の姿が消える。
やがて、砂ぼこりが薄れると、もはや周助は前にもまして懸命に鍬を振つている。
一見やけくそとも見えるほど我武者羅に鍬を振う。
汗でシヤツがベツトリと肌にくつついたその丸まつた背中――
(完)


『限りなき道』撮影台本

 伊藤雄之助監督・主演『限りなき道』は、低予算、オールロケ、撮影日数20日と厳しい条件のなか、1957(昭和32)年9月に完成した。
 原作が「総理大臣賞」を受賞した縁で、『限りなき道』の題字は、当時首相の岸信介が書いた。完成にあたって、雄之助はコメントを寄せた。

(前略)何事に依らず第一作と云うものは大変むずかしいもので、その第一作にこの作品を選んだ事が間違つて居たか居なかつたかそんな事はとても解りません。まア出来て終つた事は致し方の無い事で、今更どう悔やんでも始まらない。この道で何十年と苦労されて居る諸先輩が一つの作品に永い歳月を費して一本一本真劔に勝負されて居る中に、映画界に入つて実績未だ七、八年程度の一俳優の私が、而も独立プロというさゝやかな経済機構の中で無い智恵を絞つて見ても全く以てはじまらない。とは解り乍らもそれでも何か創つて見度いと一生懸命にやつたのがこの仕事です。しかし撮映実数二十日間ではとてもとても……。
 常日頃、悪い状態でのみ仕事をさせられて居る先輩監督諸兄に今更の如く心から御同情申上げ度い気持です。(後略)
(伊藤雄之助「演出者の言葉」『限りなき道』プレスシート)

 謙虚にして、いささか皮肉めいた物言いである。みずから監督となり、気づいたことも多かったはず。さまざまな制約に阻まれ、監督デビュー作が思うようにいかなかった後悔が感じられる。
 作品に対する第三者の評価はどうだったのか。『昭和32年度 文部省選定教育映画等目録 年報』に概要が載っている。

限りなき道 (劇(娯))成 32.10.31
貧しい荷馬車屋の一家が、新しい運送機関の発達によって次第にとりのこされていく姿の中にこどもたちが馬にそそぐ愛情を描いたもので、やや暗い感じがないでもないが、こどもや生活の問題について考えさせることができよう。小学4年生の作文「売られていった馬」を映画化したもの。
(『昭和32年度 文部省選定教育映画等目録 年報』文部省社会教育局視聴覚教育課、1957年4月~1958年3月)

 相応の評価はされつつ、《やや暗い感じがないでもない》とある。高橋二三のシナリオを読むと、はつらつとした子どもたちのパートはともかく、大人の側の描写は切実で、コミカルな要素がほとんどない。
 雄之助ふんする松山周助も、「怒と哀」ばかりで、「喜と楽」の表情がほぼない。中川信夫監督『かあちゃん』(新東宝、1961年3月15日公開)で雄之助が好演した、ブリキ職人の”とおちゃん”のようなユーモア、明るさがあれば、また違った印象の映画になったと思う。
 作品の《暗い感じ》は、監督の《誠実さ》のあらわれでもある。雑誌『娯楽よみうり』の教育映画紹介欄では、好意的に取り上げられた。
 筆者の長江(フルネーム不明)は、周助と源吉、ふたりの荷馬車屋の姿を、《社会や時代から取残されていくもののどうにもならない悲劇》とし、こう続ける。

 演出は、技巧をさけて、まともにこの悲劇をみつめている。題材がこういうものだから、おのずと描写は暗いものにならないわけにはいかぬ。しかし伊藤雄之助の人柄なのだろう、暖かい目でこの悲劇をながめているようだ。
 ひたむきなこの人間の生き方といったものに、われわれはうたれないではおかぬ。
 たとえば、雨の土砂ぶりのどろんこ道をひいてゆく馬車のくだりの描写など、演技以上の何か切実なものが出ている。これは、演出のはりつめた精神のおのずと現われないではおかぬ何かであり、それが尊いとおもう。(中略)
 主演の伊藤雄之助が、いつものように人間的な明暗をもっと豊かに見せていたならと少し心残りでもある。しかし、この誠実な描写態度は立派なものである。
(教育映画「誠実な社会の描写『限りなき道』」『娯楽よみうり』1957年9月6日号、読売新聞社)

 独立プロの中篇劇映画とはいえ、知名度のある伊藤雄之助がメガホンをとったことは、メディアの話題となった。
 小学館の学習雑誌『小学五年生』1957年10月号には、「映画物語」として5ページにわたり、ストーリーがスチールつきで紹介された。また、同年9月27日放送の『映画の窓』(ラジオ東京テレビ[現・TBS])では、『限りなき道』が紹介され、雄之助が出演している。


1957(昭和32)年9月27日付「毎日新聞」テレビ欄(部分拡大)

 問題は、『限りなき道』がどこで、どう公開されたのか。先述の『文部省選定教育映画等目録』や『教育委員会月報』第90号(文部省初等中等教育局地方課、1958年3月)に掲載されていることから、文部省の選定は受けている。
 いっぽうで『キネマ旬報』別冊「日本映画人大鑑」(キネマ旬報社、1959年7月)の高橋二三の項には、《限りなき道(未封切)》とある。
 上映時間53分であれば、併映作として大手6社(松竹、大映、東宝、新東宝、東映、日活)のどこかが配給すればいい。その形跡が見当たらないのは、新東亜映画との調整がつかなかったからか。
 新東亜映画では、洋画配給のほか、何本かの劇映画もしくはドキュメンタリーを製作した。社名が「新東亜」で、岸信介が『限りなき道』の題字を書き、右翼団体の役員(多々良純)が再軍備を力説していることから、保守人脈の流れをくむ組織にも思える。


『限りなき道』撮影台本

 2023(令和5)年現在、「新東亜映画」に該当するプロダクションは見当たらない。『限りなき道』のフィルムは、どこへ消えたのか。雄之助の著書『大根役者・初代文句いうの助』およびエッセイ、インタビュー記事に、この映画に関する文言は見当たらない。

□□□

 主演作にして監督デビュー作『限りなき道』は、テレビ、雑誌に取り上げられたことから、試写会は実施されている。しかし、大々的に一般公開されなかった。
 作品が日の目を見ず、お蔵入りになることは珍しくない。とはいえ、主演作にして初監督作、俳優仲間の協力により完成した一本である。雄之助の胸中、察するに余りある。
 がっかりして、悲嘆にくれる余裕はない。日本映画の全盛期、出演のオファーは絶えず、売れっ子俳優として忙しい日々が待っている。
 1959(昭和34)年には、伊藤雄之助の主演作が公開された。獅子文六原作、野崎正郎監督の『広い天』(松竹大船、1959年4月14日公開)。


野崎正郎監督の『広い天』(松竹大船、1959年4月14日公開)タイトルバック

 敗戦間近の1945(昭和20)年、出征している父の田山健三(山内明)、母の春子(井川邦子)と離れ離れになった新太郎(真藤孝行)は、縁をたよって熊吉(松本克平)のもとに預けられる。その途中、新太郎は風変りな男、小杉朝雲(伊藤雄之助)と出会う。朝雲は熊吉の弟で、彫刻家であった。


『広い天』。左に伊藤雄之助の小杉朝雲、右に真藤孝行の田山新太郎

 海沿いの田舎町での疎開暮らし。都会っ子の新太郎は、疎開先で疎まれ、子どもたちからいじめに遭う。朝雲は、そんな新太郎をあたたかく見守る。新太郎もまた「馬おじさん」と呼んで、朝雲を慕う。
 戦争が終わり、朝雲は新太郎をモデルに創作に励む。作品を完成させた朝雲はひとり、東京へ向かう。そしておとずれる、ふたりの別れ。


『広い天』より伊藤雄之助と真藤孝行

 2011(平成23)年10月、ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「世紀の大怪優 FANTASTIC 伊藤雄之助 」(10月9日~12月3日)にて、『広い天』が上映された。
 上映時間79分のかくれた佳品で、旧作邦画好きのあいだでも知られていなかったと思う。「こんなすばらしい雄之助映画があったとは!」と感激したことを覚えている。
 『広い天』は、シネマヴェーラ渋谷の特集「名脇役列伝Ⅳ 伊藤雄之助生誕百年記念 怪優対決 伊藤雄之助VS西村晃」(2019年7月6日~26日)でも上映されたほか、CSの「衛星劇場」でも放送された。


ラピュタ阿佐ヶ谷「世紀の大怪優 FANTASTIC 伊藤雄之助」(2011年10~12月)、シネマヴェーラ渋谷「名脇役列伝Ⅳ 伊藤雄之助生誕百年記念 怪優対決 伊藤雄之助VS西村晃」(2019年7月)チラシ

 名画座で今後「伊藤雄之助特集」が組まれるとすれば、『広い天』は欠かせぬプログラムになるはず。『限りなき道』も、“馬おじさん”のようなハートウォーミングな作品だったかと思うと、ますます観たくなる。
 『限りなき道』の再来を思わせる、雄之助の主演作もある。大映の「温泉シリーズ」のひとつ、原田治夫監督『温泉巡査』(大映東京、1963年9月21日公開)。脚本は高橋二三のオリジナルで、『限りなき道』のコンビがふたたびタッグを組んだ。


原田治夫監督『温泉巡査』(大映東京、1963年9月21日公開)タイトルバック。伊藤雄之助の望月六郎太

 舞台は、海沿いにある温泉地。派出所のカタブツ警官・望月六郎太巡査部長(伊藤雄之助)は、風紀の乱れた温泉街を、徹底的に取り締まる。
 それをけむたく思う者たちが、あの手で、この手で、望月を温泉街から追放しようとたくらむ。望月にブタ箱に入れられた石田森松(川崎敬三)が、その急先鋒に立つ。そこに、望月の娘・マリ(姿美千子)、ストリッパーの夏子(浜田ゆう子)、望月の後輩・小泉巡査(高橋元太郎)らがからむ。


『温泉巡査』ポスター。左より、川崎敬三、浜田ゆう子、伊藤雄之助、高橋元太郎、姿美千子

 2020(令和2)年11月17日、再公開やリバイバル上映されていない大映映画を発掘上映する「KADOKAWA CINEMA DIG」で『温泉巡査』がえらばれた。この夜、東京・飯田橋のKADOKAWA富士見ビルにある「神楽座」にて、デジタル上映された。
 「KADOKAWA CINEMA DIG」の企画に関わるのむみちさん(「名画座かんぺ」発行人)に誘ってもらい、観せてもらった。67分の中篇(併映作)にして、高橋二三と伊藤雄之助のコンビ作。『限りなき道』と似てはいるけれど、作風はかなり違う。他愛のない人情コメディで、秀作と呼ぶほどの出来ではなかった。
 それでも、珍しい「雄之助映画」がよみがえるのはうれしい。喜怒哀楽、いろんな雄之助がこれ一本で愉しめた(『温泉巡査』もCSの「衛星劇場」で放送された)。

 『広い天』と『温泉巡査』のほかにも、観る機会の少ない雄之助主演作の蔵出し上映はあった。
 2014(平成26)年3月30日、「短篇映画研究会」主催の16mmフィルム上映会(千代田区立日比谷図書文化館)で、『あき巣―ある泥棒の告白―』(朝日テレビニュース[現・テレビ朝日映像]、1967年)を観た。東京防犯協会連合会の企画で、山崎大助脚本・監督による、30分のカラーPR映画である。
 あき巣の常習犯(伊藤雄之助)が、住居侵入の手口を明かしながら、防犯のヒントを見せていく。そのあき巣は、犯行を子どもに目撃され、あっけなく逮捕されてしまう。
 飄々として、ふてぶてしく、どこか愛嬌のあるあき巣の常習犯は、雄之助にぴったり。山本麟一、恩田清二郎、阿部寿美子、利根はる恵、三田登喜子ら出演者も豪華だった。


山崎大助監督『あき巣―ある泥棒の告白―』(朝日テレビニュース[現・テレビ朝日映像]、1967年)。伊藤雄之助のあき巣(短篇映画研究会「名優アンコール」チラシ、2014年3月)

 珍しい雄之助映画との出会いは、まだあった。
 2017(平成29)年7月15日、「被爆者の声をうけつぐ映画祭」(武蔵大学江古田キャンパス)で、高木一臣脚本・監督『人間であるために』(新映画協会、1974年4月24日公開)を観た。
 雄之助は「原爆裁判」訴訟を手がけた弁護士の岡本尚一を演じた。岡本は、1955(昭和30)年4月、アメリカの原爆投下が国際法違反だと訴え、原爆被害の損害賠償を国に求め、東京地裁に提訴した。


高木一臣監督『人間であるために』(新映画協会、1974年4月24日公開)。左に中野誠也の松井康浩、右に伊藤雄之助の岡本尚一(シナリオ『人間であるために』新映画協会、1974年)

 公園のブランコに腰をかけ、ともに裁判を闘う松井康浩弁護士(中野誠也)に「子どもはいいなあ」とつぶやく情味。そうかと思えば、「原爆が落ちる!原爆が落ちるぞ!」と叫び、人混みのなかを走り抜けるエキセントリックなラスト。
 岡本尚一は、裁判の決着をみないまま、1958(昭和33)年に世を去る。『人間であるために』は、独立プロによる自主映画だったけれど、雄之助は精魂こめて、亡き反骨の弁護士と向き合った。


『人間であるために』より伊藤雄之助(前掲書)

 『広い天』『温泉巡査』『あき巣――泥棒の告白』『人間であるために』。いずれも近年になって、筆者が観ることのできた、忘れえぬ雄之助主演映画である。

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 最後に、演出家としての伊藤雄之助について、触れておきたい。
 『限りなき道』以外に、雄之助が映画のメガホンをとった話は、聞いたことがない。最初で最後の監督作となり、しかも、広く公開されなかった。
 知るかぎりでは『限りなき道』のあと、テレビドラマを2本、演出した。いずれもNETテレビ(現・テレビ朝日)の仕事で、演出と出演を兼ねている。
 1本目が「ガス グランド劇場」の枠で放送された西村滋作、伊藤雄之助演出『ある断層』(1962年9月9日放送)。母(望月優子)と子(山本学)、世代に横たわる“断層”を描いた。後述する『週刊現代』の記事には、《概して、好意的なものだった》とある。
 2本目が「ポーラ名作劇場」シリーズの『西陣の蝶』(1963年4月8日放送)。水上勉原作、茂木草介脚本、伊藤雄之助演出である。雄之助は、水上勉、望月優子と3人で「三朋プロ」を結成し、このドラマが同プロ最初の作品となった(雄之助と優子といえば、『かあちゃん』を思い出す)。


1963(昭和38)年4月8日付「朝日新聞」テレビ欄(部分拡大)

 南禅寺境内の料亭の離れ座敷で、京都地検の次席検事・出水俊三(松村達雄)が殺される。事件前、座敷に呼ばれていた芸者の蝶子(乙羽信子)は、姿を消す。
 置屋の女将(中畑道子)のもとに、蝶子から手紙が届く。そこには、蝶子の父・田島与吉(加藤嘉)が無実の殺人罪で捕まり、拷問で殺されたことが書かれており――。
 演出に伊藤雄之助を起用したことについて、当時の『週刊現代』が記事にしている。

 雄之助は現在、「仕事は映画中心」主義を持しており、テレビの方は仕事厳選主義を取っているのだが、そうしたとき、NETからあるドラマへの出演交渉を受けた。
 ところが雄之助は作者の名前を見たとたん、かかる作者の台本では出演に応じかねるといい出し、果てはこういうものに出演させようとする局とはつき合いかねると強い態度を示した。
 あわてたのは局側、スポンサーを口説き落すには雄之助ほどの俳優は絶好のタレント。なんとか慰留をと努めた次第だが、そこで雄之助が交換条件? にと、二回目の演出を申し出たということだ。
(「テレビ局をあわてさせた執念 第二回ドラマ演出をする伊藤雄之助」『週刊現代』1963年3月7日号、講談社)

 この記事が本当だとすると、かなりの熱の入れようだ。しかも、かなりの大物俳優である。
 雄之助はやっぱり、演出がしたかった。『週刊現代』にも、《雄之助は機会を狙っていた訳だ》とある。ドラマの脚色を茂木草介に依頼し、みずから京都の西陣に出かけ、下調べまでおこなった。


『ポーラ名作劇場 西陣の蝶』(NETテレビ、1963年4月8日放送)リハーサル風景。左より、乙羽信子、松村達雄、伊藤雄之助(同日付「朝日新聞」)

 『西陣の蝶』については、別の証言もある。NETテレビのディレクター・若井田久は、雄之助・若井田の共同演出だったと著書『主役との遭遇』に書いている。

 雄さんが暴走しないように見張りつつ、最初は雄さんの演出プランの甘さを注意し、衣装の選択や、舞妓さんの動きを具体的に指示できずに音をあげようとしていたから、ぼくは個室で雄さんを叱った。個々の具体的な動きはなんとかなったが、演出プランに則った演技指導は苦手のようだったので、ぼくが、遠慮がちだったが雄さんの半歩ほど前に出て演出をぼくはぼくなりに考えていた。雄さんは口にこそ出さなかったが、(生放送の演出はもうコリゴリだ)という表情をしていた。当然、サブのD席にはぼくが座り、技術マンたちや音響効果などの打合せなどは全て仕切っていたのだが、雄さんはぼくの後ろに座り一言も発することはなかった。
(若井田久『主役との遭遇』中央公論事業出版、2020年10月)

 「名選手、名監督にあらず」ということか。テレビのスタジオドラマでは、映画とは異なるノウハウ、段取り、センスが問われる。草創期からテレビドラマに出た俳優とはいえ、いささか勝手が違ったはずである。
 若手ディレクターの若井田久もまた、水上文学のドラマ化に情熱をかたむけた。雄之助の主演ドラマ『署長日記』(NETテレビ、1961年4月7日~6月30日放送)を演出した縁もあり、「若さん」「雄さん」と呼び合う仲であった。


『ゴールデン劇場 死の流域』(東京12チャンネル、1964年9月14~18日放送)演出打合せ風景。左端に演出の若井田久、右端に主演の伊藤雄之助(若井田久著『主役との遭遇』中央公論事業出版、2020年10月)

 昭和30年代のスタジオドラマは、映像の多くが残っていない。伊藤雄之助が演出した2本のドラマも、視聴は叶わない。肝心のドラマを見ることができない以上、『週刊現代』の記事と若井田久の回想を、鵜のみにすることはできない。
 VTRに上書きされ、データごと消えるテレビドラマと異なり、映画はフィルムが物体として残る。そう考えると、劇映画『限りなき道』は観ることができるかもしれない。
 フィルムがネットオークションに出品されることは多いし、フィルムのレンタル会社から見つかる可能性もある。“どこかにある”証拠はあっても、“どこにもない”確証はない。

 大病を患ったのち、昭和50年代に入っても、精力的に仕事を続けた(野菜ぎらいで、肉ばかり食べていたという)。
 映画、テレビ、舞台にくわえ、草笛光子とテレビCM(「パオン トリートメントカラー」)にも出た。1977(昭和52)年2月には、『四角い函/彼岸花』(ワーナー・パイオニア)で、レコードデビューも果たす。


伊藤雄之助歌『四角い函/彼岸花』(ほむら遥作詞、原田良一作曲、小野崎孝輔編曲/ワーナー・パイオニア、1977年2月)

 1980(昭和55)年3月11日、伊藤雄之助は、療養がてら出かけた静岡県伊東で急逝する。享年60、まだまだ働きざかりだった。
 亡くなったあとに公開された映画、放送されたテレビ時代劇や2時間サスペンスもある。戦前・戦中の下積み時代はともかく、戦後のキャリアに関しては、俳優の浮き沈みが感じられない。



伊藤雄之助の死去後に放送された『鬼平犯科帳』第3回「血頭の丹兵衛」(テレビ朝日、1980年4月15日放送)。雄之助の血頭の丹兵衛/下:同オープニングクレジット

 《自分の道だと 働いたけど 結局 四角い函の中》(『四角い函』)。そう歌った俳優の幕切れは、突然おとずれた。

 伊藤雄之助のお墓は、ふるさとの浅草から少し離れた「浄土宗 東日山 西光寺」(墨田区千歳2丁目)にある。
 浄光院雄誉明徹居士。ありし日の風貌を思わせる、この人らしい戒名である。


楽屋の伊藤雄之助(『毎日グラフ』1968年6月30日号)


*本記事中に引用した『限りなき道』プレスシートは、籾山幸士氏がTwitter上にアップした画像を参考にしました。
*そのほか特記なきものは筆者撮影および所蔵資料。

老竹色、褪せず 中村竹弥


「松竹時代劇第1回公演」(東横ホール、1965年10月)パンフレット

 子どものころから“旧作テレビっ子”で、時代劇、刑事ドラマ、ホームドラマの再放送を好んで見ていた。その脇で貫禄を示すベテラン俳優が大好きで、ずいぶん顔と名前をおぼえた。
 片岡千恵蔵、大友柳太朗、東千代之介、萬屋錦之介(中村錦之助)は、晩年までテレビの脇で渋いところを見せた。いずれも往年の東映時代劇の大スターである。
 いまひとり、時代劇の再放送でなじみ深いベテランがいる。その名は中村竹弥(なかむら・たけや/1918~1990)。
 出演作は膨大にあるけれど、『大江戸捜査網』(東京12チャンネル[現・テレビ東京]、1970年10月3日~84年3月31日放送)で、11年にわたって演じた旗本寄合席・内藤勘解由がまず思い浮かぶ。
 「御前」と呼ばれる内藤は、十文字小弥太(杉良太郎)、井坂十蔵(瑳川哲朗)、伝法寺隼人(里見浩太朗)ら「隠密同心」の束ね(隠密支配)である。芝居がかったセリフまわし、立派なタラコ唇、するどい視線、風格のある殺陣と麗しき所作、一件落着後のおおらかな笑み、こぼれんばかりの色気。


『大江戸捜査網』第3シリーズ(東京12チャンネル、1974年)オープニング。左より、中村竹弥の内藤勘解由、安田道代のくれないお蝶、里見浩太朗の伝法寺隼人、瑳川哲朗の井坂十蔵、江崎英子の不知火のお吉

 筆者のもっとも愛するテレビ時代劇『編笠十兵衛』(フジテレビ、1974年10月3日~75年4月3日放送)にも、竹弥は出た。
 池波正太郎原作の忠臣蔵外伝で、赤穂浪士の討ち入りを陰で支える公儀隠密、月森十兵衛(高橋英樹)の活躍を描く。竹弥は、物語の要となる大石内蔵助にふんし、ハードボイルドなドラマをひきしめた。


『編笠十兵衛』第23回「陥穿」(フジテレビ、1975年3月13日放送)。左に高橋英樹の月森十兵衛、右に中村竹弥の大石内蔵助

 中村竹弥のキャリアは、映画で花を咲かせた片岡千恵蔵、大友柳太朗、東千代之介、萬屋錦之介とは異なる。舞台出身なのは同じだが、テレビで大成したスターであり、渋い名脇役だった。フジテレビで数多くの時代劇を手がけた能村庸一は書く。

彼こそはテレビが見出した、いわばテレビプロパーの時代劇スター第一号なのである。(中略)中村竹弥最大の功績は、テレビの成長期にあって、のちにリメークされるテレビ時代劇のほとんどのヒーロー役に先鞭をつけたことにあると言えよう。
(能村庸一「中村竹弥」『時代劇 役者昔ばなし』ちくま文庫、2016年2月)

 昭和30年代のテレビ草創期は、テレビスター・中村竹弥の全盛期と重なる。KR(ラジオ東京)テレビ、現在のTBS(東京放送)と専属契約を結び、10年間ほぼ毎週のように主役の枠をもった。
 その輝かしきキャリアは、主演作のタイトルで一目瞭然である。いずれも中村竹弥主演で、KRテレビ及びTBSがキー局となって放送された30分枠の番組である。

『江戸の影法師』(1955年10月21日~56年2月24日放送)
『隠密草紙』(1956年3月1日~4月26日放送)
『半七捕物帖』(1956年5月3日~12月27日放送)
『右門捕物帖』(1957年1月3日~58年4月12日放送)
『又四郎行状記』(1958年5月3日~ 11月22日放送)
『旗本退屈男』(1959年1月6日~60年9月27日放送)
『風流あばれ奉行』(1960年10月4日~61年10月10日放送)
『新選組始末記』(1961年10月17日 ~62年12月25日放送)
『鞍馬天狗』(1963年1月8日~9月24日放送)
『父子鷹』(1964年5月27日~9月2日放送)
『燃ゆる白虎隊』(1965年5月4日~7月27日放送)
『丹下左膳』(1965年10月6日~66年3月30日放送)

 役どころは、半七(半七捕物帖)、近藤右門(右門捕物帖)、早乙女主水之介(旗本退屈男)、遠山金四郎(風流あばれ奉行)、近藤勇(新選組始末記)、鞍馬天狗こと倉田典膳(鞍馬天狗)、勝小吉(父子鷹)、丹下左膳と大岡越前(丹下左膳)など、時代劇でおなじみのキャラクターばかりだ。


『鞍馬天狗』(TBS、1963年1月8日~9月24日放送)。中村竹弥の倉田典膳(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』サン出版社、1963年1月)

 KRテレビ及びTBSで放送された竹弥の主演作は、映像の多くが失われている。TBSに残る映像は『新選組始末記』が最古で、完全なかたちでは「鳥羽・伏見の戦い」の回(第55、56回)しか保存されていない。
 さいわいにも2023(令和5)年3月、CSの「時代劇専門チャンネル」が、現存する『燃ゆる白虎隊』と『丹下左膳』を再放送した。両作ともフィルム録りの「テレビ映画」だったため、すべてのエピソードの映像が残された(同様に『父子鷹』も現存)。
 とくに『燃ゆる白虎隊』は、ソフト化がされておらず、CSで再放送されることも珍しい。本作では、元会津藩主・松平容保と家老・日向外記の二役だった。やれうれしや、中村竹弥ファン感涙の再放送である。



『燃ゆる白虎隊』第1回「山河夢あり」(TBS、1965年5月4日放送)。中村竹弥の日向外記(上)と松平容保(下)の二役

 中村竹弥は、自叙伝や評伝の類いが1冊もないけれど、そのキャリアは昭和の演劇・放送史そのもの。歌舞伎、移動演劇、新劇、ラジオ、テレビ、映画、商業演劇と戦前から平成のはじめまで、あらゆるジャンルを渡り歩いた。 
 今年で生誕105年、71歳で亡くなって33年――。若竹、青竹、老竹と深みを増していく、その役者人生をふりかえる。

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 中村竹弥は、1918(大正7)年7月11日、東京・浅草で生まれた。
 本名を「佐藤勇」とする文献が多いいっぽう、竹弥は雑誌のインタビューで「佐藤友彦」と名乗っている。本項では、本人の発言を尊重して「友彦」名義で書いていく。
 父の佐藤重雄は、七代目市川八百蔵(七代目中車)の門下で市川百太郎、のちに松本麗五郎に改名する歌舞伎俳優だった。父の名を「麗三郎」とする文献もあるけれど、竹弥は「麗五郎」と語っている。
 友彦はひとり息子だった。小学校4年生のときに母の千代が亡くなり、父と子のふたりきりになる。


七五三のころの中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 高等小学校を卒業した友彦は、浅草の宮戸座で活躍していた中村竹三郎に弟子入りし、「中村竹弥」を名乗り、初舞台を踏む。1929(昭和4)年ないし30(昭和5)年のころである。
 師の竹三郎は、歌舞伎でも「小芝居」と呼ばれた世界の人で、晩年は六代目尾上菊五郎ひきいる「菊五郎劇団」の脇役となった。


中村竹三郎の栗山大膳(『演劇界11月号臨時増刊「三代の名優」』演劇出版社、1982年11月)

 宮戸座の舞台には、師の竹三郎とともに、父の麗五郎も立っていた。宮戸座時代の麗五郎と子役時代の竹弥を、劇作家の宇野信夫がそばで見ていた。宇野の回想エッセイに、その姿が印象的に綴られている。

 そのうちに小芝居も入りが薄くなり、一軒減り、二軒減り、とうとう宮戸座一軒になってしまった。私もその頃は学校を出て、戯曲を書きはじめていた。ある小雨のふる日、麗五郎が傘をさして、山谷の停留所に立っていた。久しぶりに見る麗五郎は、すっかり年をとっていた。おそらく、もう役者はやめているのであろう。すると、私のあとから長い袂の着物を着た子役が電車から下りて、麗五郎の傘へ入った。
 年老いた役者は、わが子の子役を傘に入れて、路地へ消えていった。私はその淋しい後姿を、感傷的な気持で見送った。
 後年、今テレビで活躍している或る俳優に、麗五郎の話をした。すると、「私はその麗五郎の息子で、その頃、宮戸座の子役をしていました」と言う。してみると、その時の長い袂の着物をきていた子役は、その俳優だったのである。(その彼も、今は金満家の後援者を得て、豪奢な邸宅に住んでいる)
(宇野信夫『むかしの空の美しく』青蛙房、1967年12月)

 情景の浮かぶ、いい文章である。それだけにラストの一文が、蛇足のような気がする。
 後述するが、竹弥なりに下積みが長かった。宇野信夫は、おそらくそれを知らない。《今テレビで活躍している或る俳優》と名を明かしていないところに、宇野が抱いたであろう違和感がうかがえる。

 中村竹弥は、歌舞伎の大名跡を継ぐ“いいとこ”の出ではない。「大部屋」「三階さん」(舞台から離れた場所に楽屋がある)と呼ばれた下積みの時代。竹弥は、そのころの思い出を好んで語ろうとしなかった。
 ゆえに、若き日のキャリアはいまひとつはっきりしない。竹三郎の縁で「菊五郎劇団」に入ったり、竹三郎と「青年歌舞伎」に出たり、若手の下積み役者を集めて研究劇団「新成座」を旗揚げするなどした。ただし、正確な舞台記録や出演リストはない。


「菊五郎劇団」時代の中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 すでにテレビ時代劇のスターになっていた1962(昭和37)年、『婦人倶楽部』(講談社)に手記「竹彌のたたきあげ記」を寄せた。わずかながらそこに、若き日のことを綴っている。

いまはすっかり太ってしまいましたが、そのころはほっそりとした姿のいい? 女形だったもので、いえ、けっして嘘は申しません。紫の矢絣の衣裳に黒じゅすの帯を立矢の字に結んで、大ぜいの仲間といっしょにずらりと舞台の下手にならび、「わが君さまにはいらせられましょう」などとやっていたのでした。
(手記 中村竹彌「竹彌のたたきあげ記」『婦人倶楽部』1962年11月特大号、講談社)

 1938(昭和13)年に上演された「青年歌舞伎」の絵本筋書を見ると、若き日のキャリアの一端がうかがえる。青年歌舞伎は、片岡我當(十三代目片岡仁左衛門)、十四代目守田勘弥が中心となった興行で、戦後歌舞伎を担う俳優たちが出演している。


「青年歌舞伎」絵本筋書(1938年4月、7月、12月)

 絵本筋書から《竹彌》の名をさがしてみる。4月の「東西合同青年歌舞伎四月興行」(新宿・第一劇場)では、昼の部『鏡山奮錦繪』で腰元青葉と夜の部『軍配曇りなし』で見物人。
 7月の「青年歌舞伎劇」(築地・東京劇場)では、『阪崎出羽守』で上野介の家来と『江戸の花和尚』で往来の男女。
 12月の「青年歌舞伎顔見世興行」(木挽町・新橋演舞場)では、『菅原傳授手習鑑』で捕人と大森彦七家来の二役、さらに戦意高揚を狙った現代劇『従軍記者最前線』で兵士を演じた。


1938年7月「青年歌舞伎劇」(築地・東京劇場)絵本筋書(部分拡大)

 腰元、見物人、家来、往来の男、捕人、兵士といった役から、当時の竹弥の置かれた立場、歌舞伎俳優の「格」がわかる。舞台姿の絵はがきが売り出されることもなく、「大部屋」「三階さん」から、なかなか抜け出せなかった。

 芽が出ないまま20代をむかえた竹弥にとって、「戦争」がひとつのチャンスとなる。日中戦争から太平洋戦争への時代、「お国のため」を掲げる移動演劇(移動劇団)が盛んとなり、そこに身を投じていく。
 1940(昭和15)年11月、「松竹国民移動劇団(松竹國民移動劇團)」が結成され、竹弥ら「新成座」の俳優が合流した。結成を伝える演劇雑誌には、《劇團員の顔触れですが、名のある俳優は一人も居ません》(「演劇の再發足 中支戰線慰問の旅 松竹國民移動劇團」『國民演劇』1941年5月号、牧野書店)とある。
 結成からまもない1941(昭和16)年1月には、松竹国民移動劇団が中国への慰問公演に旅立つ。二班体制がとられ、竹弥は第二班のひとりとなった。慰問公演を伝える『國民演劇』の記事に、《中村竹彌》の名がある。
 1941(昭和16)年1月12日、一行は東京駅を発ち、「中支皇軍慰問」の名のもと、中国へ渡った。上陸した南京で二班にわかれ、竹弥が属する第二班は長江から漢口、武昌、岳州、九江とまわった。
 出しものは、岡本綺堂作『修禅寺物語』(村崎敏郎演出)と獅子文六作『断髪女中』(伊田和一脚色、村崎敏郎演出)、そして舞踊が数番つく。
 のちに竹弥は、NHKアナウンサーの宮田輝との対談でこう語った。《むこうで兵隊さんは木頭の音、チョーンとやるだけで泣きましたね。ああいうものは、いかに日本的なものだったかということですね》(「宮田輝おしゃべりジャーナル『ゲスト 中村竹弥』」『週刊平凡』1962年8月23日号、平凡出版)。
 日本を発った翌月、1941(昭和16)年2月、九江にいた竹弥は、東京から電報を受け取る。「チチシス」。2月10日が、父・松本麗五郎の命日だった。
 たったひとりの肉親を失い、竹弥は天涯孤独の身となる。親の死に目に会えない役者稼業、「皇軍慰問」の旅となれば、すぐ帰るわけにもいかない。

 予定どおり慰問をおえて、船にのって帰ってくる途中、こんなに船脚というのはのろいものかとおもったのは、まるで広い海の上では動いていないように見えたからです。
「ああ、これでほんとに一人ぼっちになってしまったな」
 と私は甲板で、沈んでいく水平線の向こうのまっ赤な太陽を眺めながら考えさせられました。私の胸のなかには、
「やっていけるだろうか」
 という微かな不安もありましたが、
「だが、やっていかなくちゃならない」
 私は甲板の手すりにもたれて、一人で唇を?みしめました。二十一年前のことですから、私がちょうど二十三ぐらいのときだったでしょうか。そのときのエンジンの音、波の音……いまもはっきりとおぼえているような気がします。
(「竹彌のたたきあげ記」)


手記 中村竹彌「竹彌のたたきあげ記」(『婦人倶楽部』1962年11月特大号、講談社)

 1941(昭和16)年3月に帰国したのちも、松竹国民移動劇団の一員として活動した。利倉幸一の回想によれば、利倉演出の『勘平の死』に竹弥が主演したという。
 日米開戦の翌月、1942(昭和17)年1月には、日本移動演劇聯盟主催「移動演劇綜合公演」(築地・国民新劇場、1月9日~15日)が上演された。松竹国民移動劇団、東宝移動文化隊、籠寅移動演藝隊、吉本移動演劇隊による合同公演で、情報局、大政翼賛会、東京日日新聞社が後援した。


日本移動演劇聯盟主催「移動演劇綜合公演」(築地・國民新劇場、1942年1月9日~15日)チラシとプラグラム

 この公演で竹弥は、情報局賞・国民演劇入選脚本『灯消えず』(松崎博臣作、金子洋文演出)に出た。みずから戦地に赴く陸軍軍医大尉・田口龍一(浅野進治郎)の勇姿を描く大作(4幕5場)で、竹弥は同少尉・清水健一と負傷兵の二役を演じた。
 主役ではないけれど、腰元や家来をやっていた「青年歌舞伎」にくらべると、それなりに見せ場があったのではないか。


移動演劇綜合公演『灯消えず』プログラム(部分拡大)

 「菊五郎劇団」時代や青年歌舞伎の思い出を好んで口にしなかった竹弥も、戦時下の移動演劇の思い出はときどき書いたり、語ったりした。手記「竹彌のたたきあげ記」に、当時の回想が少しある。

農・山・漁村や、各地の工場、炭鉱などをまわって歩いていました。むずかしい議論は別として、一口にわかりやすくいえば、ごくすくない人数の俳優で、簡単な道具を持って移動し、工場や農村ではたらいている人たちに今日の娯楽、そして明日に生きる勇気を与えようというのがねらいで、そのころいくつもの「移動劇団」ができたものですが、私たち松竹の仲間は歌舞伎の大部屋ではたらいていたものを中心としてつくられました。
(「竹彌のたたきあげ記」)

 後述する『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』(サン出版社、1963年1月)のインタビューでは、こう答えた。

いろいろあったけど、何んといっても国民移動演劇隊にいたころの思い出がいちばんですね。そうとう苦しい思いもしたけど、いまになってみると、その一つ一つが楽しい思い出ですよ。
(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』「おたずねします/お答えします」サン出版社、1963年1月)

 家柄と門閥にしばられる都市での歌舞伎興行より、慰問で津々浦々をまわる移動演劇のほうが、性にあっていたのかもしれない。慰問公演や移動演劇に従事した多くの俳優と同じく、口をつぐむところもある。とくに日米開戦前の中国慰問について、父の死のほかは書き残していない。
 しかし、移動演劇の日々はそう長くは続かない。1945(昭和20)年8月15日のことを、のちにこうふりかえる。

郡山です。お昼前まで機銃掃射をうけて、駅前に退避していたんですが、たいへんな放送があるというので、近所の食堂へ行ったら、そこで陛下のお声を聞いたんです。それから一昼夜歩き続けて、仙台の近くまで行ったんですが、それから東京へ帰るまでがたいへんでした。
(「宮田輝おしゃべりジャーナル『ゲスト 中村竹弥』」『週刊平凡』1962年8月23日号、平凡出版)

 敗戦により、松竹国民移動劇団は解散した。草創期のテレビ時代劇で主役をはるまで、この先まだ10年の月日がある。
 占領下の日本で、名だたる時代劇スター、歌舞伎の名優でさえ、さまざまな制約を強いられた。中村竹弥の下積みは、戦後になっても変わることはない。

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 敗戦後まもなく、多くの俳優が辛苦を味わう。中村竹弥もその例外ではなく、手記にこう綴っている。

 やっぱり一番ひどかったのは戦争がすんでからで、なにしろ私たち俳優というものほど、つぶしのきかないものはありません。芝居をするということ以外は芸がないのですから。
 やがて東京に舞い戻り、みんな芝居で生きていくために、身の皮をはぐような暮らしがはじまりました。なかには夜店の商人になって芝居から離れていった人もありましたし、私たち歌舞伎出身のものは踊りの会に手つだいにいったり、そうかとおもうと田舎へいって干した椎茸を買ってきて、これを木でふやかして生椎茸のように見せかけて売って歩く、というような、苦肉の策をめぐらす人などもでてきました。
(「竹彌のたたきあげ記」)

 戦後になり、古巣の歌舞伎からは距離をおいた。1946(昭和21)年からは、和田勝一が中心となった「民衆座」に参加し、3年ほど在籍した。
 劇団の機関紙『民衆座』第1号(民衆座、1947年6月)で、劇団幹事長の池田清二はこう記す。《幼年時代から師匠の許で叩き上げられた歌舞伎出身の八雲隊の人々と、昭和五、六年以後、革命的演劇運動に参加し、その理論と実践との矛盾をつぶさに体験した私達とが結合したのである》。
 この「八雲隊」に、おそらく竹弥がいた。民衆座では「中村竹弥」ではなく、本名の「佐藤友彦」を名乗った。機関紙『民衆座』には、演技部に佐藤の名があり、《幹事會構成》の欄には《演技部長 佐藤友彦》とある。


『民衆座』第1号(民衆座、1947年6月)と「民衆座関西第1回公演」(毎日会館、6月19~29日)プログラム

 1947(昭和22)年6月、大阪の毎日会館で「民衆座関西第1回公演」(6月19~29日)が上演された。
 演目は近松門左衛門原作(『平家女護島』)より『俊寛』(1幕/菊地史郎演出)と、モリエールの『守銭奴』(4幕/土井逸雄訳、堤安彦演出)のふたつ。竹弥は佐藤友彦として、『俊寛』で丹羽少将成経を、『守銭奴』で主人公クレアント(槙村浩吉)の召使ラ・フレーシュを演じた。


『民衆座』第1号(部分拡大)

 民衆座では、座員の合議制(演技部会)により配役が決められた。その姿勢が、歌舞伎界の因習を知る竹弥には新鮮だった。前述の『民衆座』において、こう所感を述べた。

観念的にではなく、具体的な過程の中から自己を凝視し、芸術にたづさわる資格を先づつける為に既成概念から見れば暴挙とも云うべき革新的組織となつたのです。演技者としてこの組織で生きる為には、先づ何をおいても、眞裸になることから始めなくてはなりません。
(佐藤友彦「新しき組織に於ける演技者の喜び」『民衆座』第1号、民衆座、1947年6月)


『民衆座』第1号(部分拡大)

 のちに竹弥は、人気アナウンサーの高橋圭三と対談したさい、当時のことを語った。

そのこんとんとした時代に、新しい演劇を確立しようと、たいへん大きな目標をたてましてね。われわれ、多少、歌舞伎をカジった人間、それから真山美保さんのグループ、それから新劇の一部とで、モリエールの『守銭奴』みたいなもの、もう一つ日本的な近松門左衛門の『俊寛』――『俊寛』では義太夫の部分をとっちゃって、そのかわりに七五調の韻をふんだ文章をナレーターにして……。
(「圭三対談『どうもどうも』」第16回「錦を飾った“近藤勇” ゲスト 中村竹弥氏」『週刊サンケイ』1962年9月17日号、産経経済新聞社) 

 民衆座から離れたあと、「佐藤友彦」からふたたび「中村竹弥」に名を戻した。1950(昭和25)年2月のピカデリー実験劇場第4回公演『廿日鼠と人間と』(丸の内・ピカデリー劇場、2月4~27日)では、佐藤友彦ではなく、中村竹弥の名で出た。
 「ピカデリー実験劇場」は、劇作家・演出家の菅原卓らが中心となったプロデュース公演である。当時の連合国総司令部民間情報教育局の指導を受けつつ、占領下にあった「ピカデリー劇場」で上演された。


ピカデリー実験劇場第4回公演『廿日鼠と人間と』(丸の内・ピカデリー劇場、1950年2月4~27日)パンフレット

 『廿日鼠と人間と』(3幕6場)はジョン・スタインベック作、三宅大輔訳、佐久間茂高・西田實の演出で、製作・上演にあたって讀賣新聞社がバックについた。
 プロデュース公演とあって、顔ぶれは多彩である。歌舞伎から三代目市川段四郎(二代目市川猿翁の父)、二代目尾上九朗右衛門(六代目尾上菊五郎の長男)、第一協団から河津清三郎、石黒達也、清水元、ムーラン・ルージュから宮坂将嘉、新派から高橋潤、映画から高杉早苗、そこに浅野進治郎、中村竹弥をくわえた座組である。
 竹弥が演じたのは、舞台となるカリフォルニア州南部の農場で働くホイット。脇役ではあるものの、公演パンフレットには顔写真がちゃんと載っている。


『廿日鼠と人間と』パンフレット(部分拡大)

 『廿日鼠と人間と』は竹弥にとって、よき思い出の舞台となる。

当時は、みんな撮影やなんかの仕事から帰ってきちゃ、やったんです、けいこをね。いずれにしても延べ一か月はけいこしたからね、いまでもみんなと会うと、ああいうけいこをやって芝居ができたらいいがなあと、いいあうんですがね。
(「圭三対談『どうもどうも』」) 

 翻訳劇の舞台に立ったとはいえ、新劇の世界は竹弥にとって安住の地とならなかった。歌舞伎に戻ったところで、家柄と門閥にめぐまれない身では、満足のいく居場所は容易に見つからない。
 俳優だけでは食べていけず、戦後は舞台の化粧係や舞踊の仕事もこなした。結婚し、長女が生まれるなか、生活はラクではない。
 そこで身を投じたのが放送の世界、NHKラジオだった。心機一転、名も本名の「佐藤友彦」にふたたびあらためた。少しでも歌舞伎のイメージを払拭したい気持ちからだった。まさしく流転のひと、である。
 NHKでは、北村寿夫の連続放送劇『新諸国物語』に出た。第2部『笛吹童子』(NHK第一、1953年1月5日~12月31日放送)では三日月童子を、第3部『紅孔雀』(同、54年1月4日~12月31日放送)では主人を演じた。
 いずれも子どもに大ヒットしたラジオドラマで、東映が東千代之介と中村錦之助のコンビで映画化し、さらなるブームに火をつけた。元のラジオ版に出た「佐藤友彦」が、後年の「中村竹弥」と知る人は少ない。


「昭和二十八年度連続放送劇一覧」(部分拡大)『年刊ラジオ・ドラマ 1954年版』(宝文館、1954年8月)

 このころからようやく、竹弥のキャリアに光明が差し込む。幸いだったことはふたつ。
 ひとつは、1951(昭和26)年以降、民放(民間放送)各局が産声をあげたこと。もうひとつは、1953(昭和28)年にテレビの本放送が始まったこと。NHKを皮切りに、民放の日本テレビ、ラジオ東京(現在のTBS)がテレビに参入したことが、竹弥の人生を大きく好転させていく。
 すでに30代の半ば、四捨五入すれば40になる年ごろ。テレビの草創期が、遅咲きのチャンバラスターが生むことになる。

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 「電気紙芝居」と揶揄されたテレビだが、1955(昭和30)年ごろは、海のものとも、山のものともつかないメディアだった。
 テレビ局としては、映画でおなじみのスターはもちろん、著名な舞台俳優にも声はかけづらい。しかも、生放送の時代劇である。ネームバリューより、主役をこなせるだけの力量がまず問われる。
 1955(昭和30)年、開局まもないラジオ東京テレビ(KRテレビ)で、30分の時代劇枠の制作が決まった。当時演出部にいた岸井良衛とディレクターの石川甫は、主役さがしに奔走する。
 そこで見つけたのが、NHKで何本かのテレビドラマに出ていた竹弥だった(NHKではテレビにも佐藤友彦の名前で出た)。ラジオ東京の当時専務で、のちにTBSの社長となる鹿倉吉次が、竹弥起用の経緯を明かす。

 彼は、ようやく青年期も過ぎようとしていた歌舞伎の名題役者ではあったがいわゆる世間に知られた役者ではなかった。ただ彼のもつ瑞々しさと真面目そうな人間性がわれわれの眼をひいた。この二つの資質は十年後の今でも彼の大きな魅力となっているが、このとき前記の岸井君は、彼に踊りの名取の素養があることが、必ず殺陣を必要とする主役として立派に役を果すであろうという推挙の理由を述べた。これによって竹弥君の主役が決定した。
(鹿倉吉次「竹弥君のこと」(『松竹時代劇第1回公演』東横ホール、1965年10月)

 鹿倉の文章だと、岸井良衛が発見したように受け取れるが、実際に抜てきしたのは石川甫と思われる。マキノ雅弘が、石川に竹弥を紹介したとの文献(志賀信夫『映像の先駆者 125人の肖像』日本放送出版協会、2003年3月)もある。


石川甫(『キネマ旬報』第207号・臨時増刊「テレビ大鑑・一九五八年版」キネマ旬報社、1958年6月)

 主役のオファーを受けた竹弥は、即答していない。それなりに躊躇したことを、手記「竹彌のたたきあげ記」で明かしている。

 なにしろ主役をやるのははじめてのことですし、こちらにもいろいろ事情があって一月考えさせてもらいました。
 それでいろいろ考えて結局ひきうけることにきめましたが、今日こういうことになるなどとは、夢にも考えていませんでした。
 それが次第に『半七捕物帳』の半七、むっつり右門、又四郎となり、早乙女主水正、近藤勇と一歩ずつ、一歩ずつ歩いているわけです。
(「竹彌のたたきあげ記」)

 KRテレビでの主演シリーズ第1作は、白井喬二原案の『江戸の影法師』(1955年10月21日~56年2月24日放送)。生放送の時代劇であり、写真が残るのみで映像は残っていない。
 この年、師の中村竹三郎が亡くなった(1955年4月22日死去、享年76)。


『江戸の影法師』(KRテレビ、1955年10月21日~56年2月24日放送)生放送風景。右に中村竹弥、左は不明。(『週刊娯楽よみうり』1955年12月2日号、読売新聞社)

 このキャスティングに賭けたKRテレビは、竹弥と専属契約した。当時の民放テレビでは、珍しいケースとなる。
 『江戸の影法師』に出たころは、ラジオの仕事も続けている。伏見扇太郎主演の『風雲黒潮丸』(ニッポン放送、1955年5月1日~56年9月30日放送)では、佐藤友彦の名で従者の秀光をやった。
 竹弥の主演シリーズは、『隠密草紙』(1956年3月1日~4月26日放送)、『半七捕物帖』(56年5月3日~12月27日)、『右門捕物帖』(57年1月3日~58年4月12日)、『又四郎行状記』(58年5月3日~ 11月22日)と続いていく。


『隠密草紙』(KRテレビ、1956年3月1日~4月26日放送)。中村竹弥の神谷(『旬刊 ラジオ東京』1956年5月1日号、ラジオ東京)


『又四郎行状記』(KRテレビ、1958年5月3日~11月22日放送)。左に中村竹弥の笹目又四郎、右に浜田百合子(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑・一九五八年版」)

 メジャースターの扱いを受けたわけではない。けれども、『旬刊ラジオ東京』(ラジオ東京)のグラビアを飾るなど、ちょっとずつ露出の機会は増えていく。新聞や雑誌にも、竹弥の名が取り上げられるようになった。

 映画が「総天然色」「シネマスコープ」を謳った当時、竹弥は小さなブラウン管のなかでアップとなり、見得をきった。画面は小粒でも、貫禄のあるヒーローだった。


「スタジオの片隅で」(『旬刊 ラジオ東京』1956年11月11日号)。右より4人目に半七役の中村竹弥

 殺陣もうまかった。広いスタジオやロケ先で撮影できる映画と異なり、狭いテレビのスタジオでチャンバラを、それも数台のカメラの前でこなす必要がある。
 殺陣の間合いとアップの表情、そうした制約をクリアするだけの技があったし、本人なりに工夫もした。

 手が伸びなくてね、刀抜くのにしても、骨折っちゃいますよ。まともに刀を抜くと相手の額にぶっけちゃいそうで。ほんとに、ここ(目の前)にいるんだから。こうぬすんで(身を後ろにそらして)抜くとか、長年やったカンで(笑)。(中略)
 あたしの立回りの基本は、日本舞踊なんですね。よく剣道の有段者のかたに「ほんとにお前さんは段を持っているように見えるよ」といわれるんですよ。それは、芸の知恵に通ずるというか、日本舞踊の腰の入れかた、構えが、剣道の勝負の構えに通じるものがあるんじゃないですか。
(「宮田輝おしゃべりジャーナル」)

 竹弥の殺陣のうまさに注目したひとりに、殺陣師の的場達雄がいる。『旗本退屈男』での殺陣をひきあいに出し、「讀賣新聞」の取材に答えている。

カブキ畑の人だけに踊りを知っていること、刀、ヤリ、いずれも使いこなせ、足の運びが実にきれい。“からみ”と呼吸をあわせて間をとることもうまい。目の表情ひとつで左右に飛んで切り捨てるのを“目をひく”というが、竹弥の目はこまかく“からみ”をリードしている点などをあげ「刀を抜いたりサヤにおさめたりするうまさに重量感があり、あたりを制している」とベタほめだ。
(「テレビ剣豪採点表 タテ師の的場達雄さんにきく」1960年3月3日付「讀賣新聞」夕刊)

 的場が指摘する「殺陣の重量感」は、逆にいえば身軽でスピーディーな立ち廻りではない。竹弥の貫禄は、スクリーンの大きな映画より、画面の小さいテレビに向いていた。
 主演シリーズの第6作『旗本退屈男』(1959年1月6日~60年9月27日放送)は評判がよく、放送期間は1年半以上に及んだ。
 映画では市川右太衛門の十八番である早乙女主水之介は、貫禄たっぷりの竹弥の柄にもあった。竹弥自身、この役が決まったさい、京都にいる右太衛門を訪ね、指導を仰いでいる。


『旗本退屈男』(KRテレビ、1959年1月6日~60年9月27日放送)。中村竹弥の早乙女主水之介(「テレビのチャンバラ指南書(部分拡大)」『少年画報』1960年5月号、少年画報社)

 1959(昭和34)年7月には、新宿第一劇場で『旗本退屈男 南蛮寺の悪魔』が上演され、主演で舞台を踏んだ。この劇場で腰元や見物人をやった「青年歌舞伎」から、21年の月日が経っていた。

 早乙女主水之介を演じたころから、竹弥の人気はさらに高まっていく。少年雑誌をはじめ、新聞・雑誌への露出も増えていく。


1950年代の中村竹弥(『キネマ旬報』臨時増刊「テレビ大鑑・一九五八年版」)

 続く主演第7作『風流あばれ奉行』(1960年10月4日~61年10月10日放送)では、映画で片岡千恵蔵が持ち役にした遠山金四郎を演じた。

 1961(昭和36)年9月には、浅草国際劇場の「村田英雄ショウ」(9月10~16日)に特別出演した。郡司次郎正の『侍ニッポン』(淀橋太郎構成・演出)に出て、新納鶴千代(村田英雄)の父にして、わが子に討たれる井伊直弼をやっている。

 その翌月、代表作となる『新選組始末記』(1961年10月17日 ~62年12月25日放送)がスタートした。
 新橋、祇園、先斗町と東西の舞妓が席を陣取り、「タケヤ~」と黄色い声をあげた伝説の連続時代劇。菊は栄えて、葵は枯れる……新選組局長・近藤勇が、いよいよここにお目見えすることになる。

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 『江戸の影法師』から『風流あばれ奉行』まで、中村竹弥の主演シリーズはいずれも勧善懲悪、お決まりのパターンが売りの「痛快娯楽時代劇」である。
 主演第8作となる『新選組始末記』は、それまでのシリーズとは、かなり毛色が違う。娯楽時代劇には違いないものの、幕末動乱期の京が舞台の連続もので、血なまぐさい“亡びの美学”が横溢する。
 『新選組始末記』の原作は、子母沢寛の同名作で、1928(昭和3)年に萬里閣書房から出版された。小説と呼ぶより、ノンフィクションに近く、第1回「十三人の隊士」放送日の新聞各紙には《ドキュメント時代劇》と紹介されている。

 歴史の上にまともな足跡も残さず、単なるテロ集団として消滅した新選組を、近藤以下の主だった隊員の人間像をもとめながら描き出そうとする。(中略)
 演出も、たとえば立ち回りなど、真にせまった感じを出すため、刀も軽い竹光でなく本身を使ったりするそうだ。
(1961年10月17日付「朝日新聞」)


『新選組始末記』第1回「十三人の隊士」(TBS、1961年10月17日放送)。左より、森光子のお梅、中村竹弥の近藤勇、戸浦六宏の土方歳三(同日付「朝日新聞」)

 『新選組始末記』は、毎週火曜日の21時30分からの30分、当時「東京テレビ」と呼ばれたTBS(東京放送)をキーステーションに、全国18局ネットで放送された。
 『旗本退屈男』『風流あばれ奉行』から続いて、八欧電機株式会社(現・富士通ゼネラル)の一社スポンサーである(現存する映像には《提供 八欧電機 ゼネラル商事》とテロップが出る)。高嶺の花だったテレビ受像機も、1960年代に入ると契約台数が年々増えていた。
 ドラマは、子母沢寛の原作を、生田直親や太田久行(若き日の童門冬二)らが脚色、TBSの山本和夫が演出した(山本は竹弥を見いだした石川甫の部下)。音楽は舟越隆司、三橋美智也が歌う『新選組の歌(新撰組の歌)』(牧房雄作詞、舟越隆司作曲、キングレコード)が主題歌である。
 エンディングは、三橋が歌う主題歌をバックに、勇壮なナレーションが入る。この語りを、TBSアナウンサーからフリーになった芥川隆行がつとめた。のちに数多くの作品で語り手をつとめる芥川にとって、これが出世作となる。


『新選組始末記』タイトルバック

 おもな配役は、近藤勇に中村竹弥、土方歳三に戸浦六宏、沖田総司に明智十三郎、原田左之助に山岡徹也、お孝(近藤の愛妾)に喜多川千鶴、芹沢鴨に金子信雄、近藤周平に服部哲治、松原忠司に黒川弥太郎、山南敬助に土屋嘉男、佐々木愛次郎に市川団子(二代目市川猿翁)、松平容保に外山高士など。
 ほかに坂東好太郎、水島道太郎、河津清三郎、河野秋武、御木本伸介、森光子、中村梅之助、花柳小菊、長谷川待子、青山京子、花柳喜章、天津敏、織本順吉、小松方正、玉川伊佐男、清水元、小堀明男らが出演した。若手、中堅、ベテランと豪華な30分時代劇である。


『新選組始末記』。左より、山岡徹也の原田左之助、中村竹弥の近藤勇、戸浦六宏の土方歳三、明智十三郎の沖田総司(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 中盤の見せ場となる「池田屋事変」では延々30分、殺し合いを見せるなど、『新選組始末記』は生々しい殺陣(桜井美智夫)が話題となった(1962年3月13日放送「池田屋事変 その四」の映像がわずかに残っている)。
 時期としては、黒澤明監督『椿三十郎』(東宝、1962年1月1日公開)と三隅研次監督『座頭市物語』(大映京都、1962年4月18日公開)、五社英雄演出『三匹の侍』(フジテレビ、1963年10月10日~64年4月9日放送)と工藤栄一監督『十三人の刺客』(東映京都、1963年12月7日公開)の狭間にあたる。時代劇に情熱をかたむけた人たちが、あらたな殺陣を模索する時代だった。
 能村庸一の労作にして名著『実録テレビ時代劇史』(東京新聞出版局、1999年1月)では、こう評されている。

当時としては新鮮な作品だった。チャンバラは厳密に写実ではなく、そうかといって斬られても全然血の出ない歌舞伎の立ち廻りでもない。虚実をうまく取り入れ、新国劇の舞台を見るようだったという。ある所では本身を使いギョッとするような工夫も折り込まれていたのだ。
(能村庸一『実録テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年1月)

 殺陣の迫力、戸浦六宏ふんする新選組副長・土方歳三ら隊士の魅力はある。それもさることながら、視聴者に強いインパクトを与えたのが、中村竹弥の近藤勇だった。


『新選組始末記』。中村竹弥の近藤勇(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 40代も半ばにさしかかる男ざかり。殺りく集団を束ねる苦悩のリーダーは、当時の竹弥にうってつけだった。それまで近藤勇の役は、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎が演じていたが、竹弥の貫禄も申しぶんない。
 その滑舌と押し出しのよさは、TBSに残された第55回「鳥羽・伏見の戦い 前編」(1962年10月30日放送)、第56回「同・後編」(11月6日放送)を見るとよくわかる。
 重い鉄砲傷を負った近藤は、戦場に赴くことができない。大阪城(大坂城)内で、ただひたすら待つしかない。映像が残るこのエピソードでは、殺陣を見せないぶん、近藤の無念な心境がクローズアップされる。


『新選組始末記』第55回「鳥羽・伏見の戦い 前編」(1962年10月30日放送)。中村竹弥の近藤勇

 回を追うごとに、『新選組始末記』の人気は高まっていく。中村竹弥の存在が、新聞や雑誌で取り上げられることも増えていく。
 『新選組始末記』を愛したひとりに、右翼の大物にして政界の黒幕、昭和の怪人物たる児玉誉士夫がいる。児玉は、中村竹弥後援会「竹友会」の発起人をつとめた。

それまで近藤勇と云う人間はとかくあまりにも誇大に価値づけられていたからである。だが、テレビのそれはたゞ強いだけでなくあの幕末の中での一人の組織者としての苦悩を史実に忠実に描き、それをまた適格に演じられた竹弥氏に敬意を表したのでした。以後私は彼のテレビ番組の愛好者となったのでした。
(児玉誉士夫「大衆と演劇」『中村竹弥奮斗公演』新橋演舞場、1963年8月)


中村竹弥後援会「竹友会」発会式風景。左に中村竹弥(新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット、1963年8月)

 新選組は時流に逆らえず、仲間がひとり減り、ふたり減り、どんどん追い込まれていく。「判官びいき」な視聴者の琴線を刺激したのか、『新選組始末記』の人気を、竹弥みずからこう分析している。

「新選組」は負けると判っても将軍様のために戦っている。つまり、利害をはなれた行為が、日本人らしい共感を呼んだのではないでしょうか。それに、血のりをふんだんに使って、かわった殺陣をお目にかけたこと。もう一つ……(少しためらいながら)……私たち人間の中に、残酷だとか、悪の要素が少くないといわれますが、そんなことも、みなさまに親しまれた理由ではないかと思います。
(「ショートインタビュー中村竹弥」『中村竹弥2月特別公演』梅田コマ・スタジアム、1963年2月)

 『新選組始末記』のヒットを喜んだのは、スタッフとキャスト、TBSこと東京放送の関係者だけではない。なにより感激したのが、スポンサーの八欧電機である。
 「ゼネラル」と聞けば、思い出す世代が多いはず。テレビやステレオをはじめ、さまざまな電化製品で知られた大手家電メーカーである。
 こうして実現したのが、1962(昭和37)年8月の新橋演舞場における「中村竹弥奮斗公演」(8月2~26日)だった。東京放送(TBS)と八欧電機が全面的にバックアップした竹弥初の座長公演で、新派の伊志井寛が特別出演した。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」広告(1962年7月28日付「讀賣新聞」夕刊)

 新聞の公演広告には《テレビの人気番組をレギュラータレントで舞台に再現!》とある。TBSの人気ドラマが演目となり、いまでいう「メディアミックス」の様相を見せた。
 前半の演目は、伊志井寛と京塚昌子の熟年夫婦の日常を描く『東芝日曜劇場』の人気シリーズ『カミさんと私』(5場/土岐雄三原作、辻久一脚色・演出)。伊志井、京塚、長男の小山田宗徳、長女の大空真弓(眞弓)、次男の山本学(學)、いずれもテレビ版と同じ配役だった。
 後半が、本公演の目玉『新選組始末記』(3幕)である。生田直親と小松君郎の脚色、演出が村山知義。出演は中村竹弥の近藤、戸浦六宏の土方、明智十三郎の沖田、山岡徹也の原田、喜多川千鶴のお孝らテレビ版のキャストが勢ぞろい。テレビ版のファンとしては、たまらない。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」より『新選組始末記』。左に中村竹弥の近藤勇、右に戸浦六宏の土方歳三(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 演目の最後には、舞踊家のキャリアをいかした『江戸名所三代踊』(清元連中)がつく。西川鯉三郎の作で、名人の吾妻徳穂がつきあう豪華な舞踊劇となる。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」より『江戸名所三代踊』。左に吾妻徳穂、右に中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 新橋演舞場といえば、東京では歌舞伎座や明治座とならぶ大舞台だ。下積みの長かった竹弥にとって、感慨はひとしおであった。
 新橋演舞場をもつ松竹としては、興行に対する不安もあった。俗に「ニッパチ」と呼ばれるように、2月と8月は芝居公演のふるわないシーズンとされる。テレビで人気だからといって、中村竹弥の座長公演で客が入るのかどうか――。
 松竹の不安は、杞憂に終わる。初日から公演は大盛況で、客席は女性ファンでいっぱい。公演翌月に出た『週刊現代』が、そのフィーバーぶりを大きく取り上げている。

幕あけ二日目に、先斗町の舞妓さん五十人が、飛行機で京都から総見にかけつければ、反対側の桟敷には、赤坂、柳橋、芳町の姐さんが陣取り、期せずして東西の美妓が妍をきそうことになった。中旬には、先斗町に負けじとばかり祇園の舞妓が押しかけて舞台の近藤勇に黄色い声援を送った。
(「人物クローズ・アップ『中村竹弥の“唇”始末記』」『週刊現代』1962年9月9日号、講談社)


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」。京都・祇園の舞妓に囲まれる中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 東西の舞妓が新橋演舞場に押しかけたことを、竹弥本人もうれしそうに語った。

お客さまのほうでは、京都の祇園の舞妓連中が、飛行機をかりきって出てきて下さったんで、劇場のふんいきをなごやかにし、一層、芝居をもりあげていただいたこと。もう一つはみなさんがソッポをむいて知らん顔でなく、「ヨシ、応援してやろう」ということで、ひと肌もふた肌もぬいで下すった――そういう方が、数限りなくいたということですね。
(「圭三対談『どうもどうも』」)

 公演に参加していない黒川弥太郎もゲストで駆けつけ、初の「中村竹弥奮斗公演」は、8月26日に無事、千穐楽を迎えた。竹弥初の座長公演は、大成功に終わった。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」千穐楽(1962年8月26日)。左に黒川弥太郎、右に中村竹弥(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

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 『新選組始末記』は全63回と、中途半端な放送回数だった。番組のヒットを受け、当初の予定より延長したからである。
 いくら好評だからといって、新選組の話をそういつまでも伸ばすことはできない。1962(昭和37)年12月をもって完結することが決まった。
 第55回(1962年10月30日放送)と第56回(11月6日放送)では、終盤のクライマックス「鳥羽・伏見の戦い」が前後編で描かれた。火薬をふんだんに使った合戦シーンは迫力じゅうぶんで、近藤役の竹弥はもちろん、土方役の戸浦六宏の好演が光る。
“近藤竹弥”の貫禄と“戸浦歳三”の凛々しさが、化学反応を起こしたことも、人気の要因であった。


『新選組始末記』第55回「鳥羽・伏見の戦い 前編」。戸浦六宏の土方歳三

 「鳥羽・伏見の戦い」の放送に先立ち、轟夕起子が司会の教養トーク番組『あまから夫人』(TBS)に、中村竹弥が招かれた。題して「テレビに生きる・中村竹弥」(1962年10月24日放送)。
 この番組には、戸浦六宏、明智十三郎、山岡徹也ら『新選組始末記』の面々も出演した。クライマックスの「鳥羽・伏見の戦い」の番宣も兼ねている。


『あまから夫人』「テレビに生きる・中村竹弥」(TBS、1962年10月24日放送)。左に中村竹弥、右に轟夕起子(『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 1962(昭和37)年12月25日放送の「終章」をもって、『新選組始末記』はその物語に終止符をうった。
 実質的な最終回は、第62回「ああ十三人の隊士」(12月18日放送)だったらしく、最終回はエピローグにあたる。原作者の子母沢寛、脚色の生田直親、殺陣の桜井美智夫らが特別出演して、ドラマをふりかえった。

 『新選組始末記』は終わった。でも、中村竹弥フィーバーは終わらない。
 年が明けて1963(昭和38)年1月、ユニークなソノシート(フォノシート)つきの雑誌が発売された。『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』(サン出版社、1963年1月)。4枚のソノシート(33回転)と折り込みのカラーグラビアがついた全20ページで、定価は390円である。


『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』(サン出版社、1963年1月)

 『藝能フォノ・グラフ』は、1962(昭和37)年に創刊された。当時は、月刊『朝日ソノラマ』 (朝日ソノプレス社)のような、ソノシートと読み物がセットの媒体に人気があった。「ソノシート」は、朝日ソノプレス社が商標権をもち、タイトルの「フォノ・グラフ」は「フォノシート」と「グラフ」を組み合わせたものだろう。
 創刊号の「大川橋蔵・ムード集」(1962年1月)を皮切りに、三波春夫、美空ひばり、東映の青春スタア(里見浩太朗、松方弘樹、北大路欣也)、加山雄三、テレビ映画主題曲、ロシア民謡、ラテン・コーラス とラインナップが続く。その第13集に、満を持して中村竹弥が登場した。
 完結したばかりの『新選組始末記』人気に当て込んだ企画で、裏表紙には八欧電機の「ゼネラル3Dソノラシリーズ」の広告が大きく載る。同号の編集後記に、企画の経緯がある。

 愛読者のみなさん、ごきげんいかがですか。いよいよ待望の“中村竹弥・お楽しみ特集”をお手もとへおとどけいたします。八月の新橋演舞場公演から取材スタートして以来、三か月間、ほんとうにお待たせいたしました。
 さて人気番組“新選組始末記”も十二月いっぱいで完結することになりましたが、新春一月からは新番組“鞍馬天狗”がはじまります。時代劇一途に生きる竹弥さんにファンのみなさんといっしょに声援しましょう。
(青木弘「編集後記」『中村竹弥 お楽しみ特集号』)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』

 中村竹弥には、自叙伝やエッセイといった著書がない。『竹弥のチャンバラ人生』のような自伝が出ていれば、まっさきに紹介する「脇役本」になったはずだが、残念ながらない。雑誌の手記やインタビュー、座長公演のパンフレットしかない。
 その意味において、『中村竹弥 お楽しみ特集号』は貴重な「竹弥本」となった。その充実度は、ソノシートの内容と読みものページの目次を見ればよくわかる。

■ソノシート
◇シート1「シート・ドラマ『新選組始末記』」
◇シート2「たのしいミュージック・コーナー(オンリー・ユー、トゥ・ナイト)」
◇シート3「歌う中村竹弥/民謡集(木曽節、田原坂、さくらさくら)」
◇シート4「中村竹弥/名せりふ集(半七捕物帖から鞍馬天狗まで)」
■誌面目次
◇カラー口絵「中村竹弥TV名場面集」(新選組始末記、旗本退屈男、半七捕物帖)
◇特集グラフ「菊は栄えて葵は枯れる…『新選組始末記』」「竹弥の新番組/鞍馬天狗」「日本趣味」
◇よみもの「お茶の間ファンの人気スター中村竹弥さんをたずねて。」「この道ひとすじに」「おたずねします/お答えします」
◇特集グラフ「竹弥のワン・カット集/京都の一日」「竹弥の社会科見学 八欧電機・川崎本社工場をたずねて」「舞い姿」
◇「みんなで入会しましょう/中村竹弥後援会」「編集後記」

 これでもかと竹弥のてんこもり。もりだくさんの竹弥づくし。まずは4枚のソノシートから紹介したい。


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート1)

 シート1「シート・ドラマ『新選組始末記』」は、『新選組始末記』をラジオドラマ風に再現したもの。中村竹弥(近藤勇)、戸浦六宏(土方歳三)、喜多川千鶴(お孝)、芥川隆行(語り手)のオリジナルメンバーによる新たな収録である。


シート・ドラマ『新選組始末記』収録風景。左より、芥川隆行、喜多川千鶴、戸浦六宏、中村竹弥(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 シート・ドラマは6分に満たないけれど、ドラマの世界が堪能できる。参考までに、全編を活字に起こした(4人の演者の声を想像して読むと一興かと)。

語り:幕末風雲の時代、京の都に、「あれは人斬りよ、狼よ」とののしられ、恐れられた新選組。それは、ただの敗者の歴史のみであったろう。滅びゆく幕府の命運に、己を捨て、武士の意気地をつらぬいて、近藤勇の胸中を、真に涙する者、いずこにぞある。
お孝:近藤先生、今日もまた、人を斬らはったんどすか。京の町の人たちが、新選組のことをなんと言うてるか、ご存じどすか。壬生の狼、人斬りの群れ。先生、先生のお命を狙うお人が、日一日として増えていきます。こんな思いで過ごす毎日は、うちにはもう、がまんできまへん。
近藤:お孝、わたしの気持ちをいちばんよく知っているはずのお前が、なぜそんな取り乱したことを言う。なんと言われようと、大義のためには、新選組は人を斬る。明日からもまた斬り続ける。たとえ時の潮に逆らい、亡び去ろうと、それを承知で武運を尽くすのが新選組の意地なのだ。この近藤勇の意地なのだ。
お孝:けど、今日もご無事やったか、明日もご無事かと先生のお身体ばっかり心配する、うちの身にもなっておくれやす。
近藤:人を斬れば、わたしのこころも曇る。しかし、人を斬るたびに、まずはお前のところへ帰ってくるわたしの気持ちがわかるか。多くの血で曇ったわたしの胸の闇に、お前の手で、やさしいともしびを灯してほしいからだ。
お孝:先生。
土方:局長!かねて画策中の薩摩の密偵が功を奏し、ただいま上様は、大政を奉還されました!
近藤:なに、大政を奉還。そんな暴挙はたとえ上様がご承知なされようと、この近藤は承服できぬ。ただちに二条城に赴く。馬、馬ひけっ!
土方:局長!
お孝:先生!
近藤:お孝!いまのわたしの言葉を忘れるなよ!
お孝:先生!(号泣)
語り:菊は栄えて、葵は枯れる。ときに維新の黎明は目前に迫っていた。
(♪三橋美智也『新選組の歌』1番♪)
語り:京都洛外、壬生の地に、生死を誓った血盟の同志。ただひとすじの武士道に、風雲太刀風は鋭くとも、夜明けを告げる鐘の音は、やがて胸に、こころにしみわたる。時代の流れにおもてを背け、新選組は今日もゆく。
(♪三橋美智也『新選組の歌』2、3番♪)
(同シート1「シート・ドラマ『新選組始末記』」)

 シート3「歌う中村竹弥/民謡集」では、竹弥が自慢ののどを披露し、「木曽節」「田原坂」「さくらさくら」の3曲を歌った。
 シート袋の解説には、《“はじめてにしては、まんざらすてたもんでもないでしょう……”と、真剣な表情でご自慢のシブいノドを披露する竹弥さん………》とある。


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート3)

 シート4「中村竹弥/名せりふ集」では、KRテレビ時代からの主演キャラクターを再現した。半七、早乙女主水之介、遠山金四郎、近藤勇、鞍馬天狗の名文句をダイジェストでおさめている。たとえば、「さのさ」を口ずさみながら登場する半七が、粋にささやきかける。

三河町の半七でございます。今日は朝から浅草・奥山の掛け小屋で、ちょいとした殺しがありました。へい、とんだ縄張りちげぇの遠出でさ。いやねえ、まだホシはあがっちゃおりませんが、ま、あせってみたところで、仕方ありませんや。今夜はこれでひとまず、三河町ってなわけです。みなさん、ごめんなさいよ。
(同シート4「中村竹弥/名せりふ集」)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート4)

 どのシートもいいけれど、筆者の推しはシート2「たのしいミュージック・コーナー」。義太夫、長唄(杵屋勝東治の「長唄の会」に参加)、小唄が得意な竹弥は、洋楽も好きだった。ポピュラーミュージックやクラシックを愛した人でもある。
 そこでディスクジョッキーに初挑戦し、みずから2曲えらんだ。これがなかなか素敵な語りで、竹弥の人柄に触れることができる。参考までに全編を活字に起こした。

(♪『オンリー・ユー(Only You)』♪)
 みなさん、ごきげんいかがですか。わたくし、中村竹弥です。毎週ファンのみなさんとは、テレビでお目にかかっていますが、今日はちょっと趣きを変えて、みなさんといっしょにムード音楽を聴くことにしました。
 いま流れている曲は、みなさんもよくご存じの『オンリー・ユー』です。
(♪『オンリー・ユー』♪)
 続いての曲は、ミュージカル映画の代表作で、わたしのいちばん印象に残っている映画『ウエスト・サイド物語』の主題歌です。
(♪『トゥ・ナイト(Tonight)』♪)
 もう曲名を言わなくても、おわかりでしょ。そうです、『トゥ・ナイト』です。では、最後までごゆっくり、どうぞ。
(♪『トゥ・ナイト』♪)
(同シート2「たのしいミュージック・コーナー」)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』(シート2)

 豊富なビジュアル(特集グラフ)と読みもので構成される雑誌の部分もおもしろい。竹弥の足跡と素顔を伝えるもので、『平凡』や『近代映画』などが組むスター特集と、それほど大差はない。
 ただそれが、まるごと中村竹弥の特集なので、リアルタイムで主役時代を知らない身には新鮮だ。昭和30年代は掛け値なしのスターにして、堂々たる主演俳優であった。


ページの右下に中村竹弥と桜町弘子(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 素顔と人柄を感じさせる企画では、Q&Aのページ「おたずねします/お答えします」がある。悲壮感ただよう近藤局長に親しんだ視聴者からすれば、素顔に接する絶好の企画となった。

■先ず、ご自分の見た竹弥感を?
そう、第一に言えることはお世辞ひとつ言えない男だということかな。そのかわり、長くつきあっていると、なかなか味のある男ですよ(笑)。もっともこれは手前みそだけど……。
■では、お好きなタイプの人間?
どちらかというと無口でもってとぼけた味を持っている人。それと日本的な趣味を持った人。
■趣味は?
ぼくのは動的な趣味でしてね、スポーツをやったり、まあ仕事をするのなんかもそうじゃないかな?
■印籠を集めているそうですが?
ええ、もう20点ぐらいになったかなあ。よく自分の番組に小道具として使うこともあるんです。中には逸品も二、三あります。
■スポーツは?
水泳をのぞいては、まあ万能選手です。野球、ゴルフから乗馬まで何んにでも手をだしてます。(後略)
(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「おたずねします/お答えします」)


『中村竹弥 お楽しみ特集号』

 『新選組始末記』のスポンサーであり、中村竹弥を応援した八欧電機の“竹弥愛”も、「お楽しみ特集号」にはあふれている。たとえば、特集グラフ「竹弥の社会科見学 八欧電機・川崎本社工場をたずねて」。

 この日、しぶい茶色の背広姿、いかにも落着いたスタイルの竹弥さんは、本社工場に出勤し?
 さっそくコバルト色の作業服に着がえて工場内へ――。
「いちどゆっくり工場見学をしたいと思っていたところなんです。こうして家庭電化製品が完成するところを見て、大へん勉強になりますね――」(中略)
 ゼネラル・テレビ、電気洗濯機、冷蔵庫とみるみる完成してゆくオートメーションコンベアーをみながら竹弥さんは目をみはっていました。
「新型製品をみているとほしいものばかりで困っちゃうなぁー」
(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「竹弥の社会科見学 八欧電機・川崎本社工場をたずねて」)


八欧電機・川崎本社工場を見学する中村竹弥(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 「お楽しみ特集号」のページを飾るのは、川崎の本社工場で、バレーボールに興じる竹弥と従業員の姿。会社ぐるみで応援する八欧電機に対して、竹弥も精いっぱいのサービスで応えた。


八欧電機・川崎本社工場で従業員とバレーボールをする中村竹弥(『中村竹弥 お楽しみ特集号』)

 ほかにも、「東映城の三人娘」こと桜町弘子と京都でデートする竹弥、自慢のゴルフでナイスショットの竹弥、舞妓さんにかこまれる竹弥、自宅豪邸でくつろぐ和服姿の竹弥、マージャンをする竹弥、入浴中の竹弥、などなどプライベートショットが満載である。


『中村竹弥 お楽しみ特集号』

 子役時代を知る宇野信夫は、こうした竹弥の佇まいが鼻についたのかもしれない。『江戸の影法師』で主役デビューして7年、週1本の30分枠をもつ俳優にしては厚遇である。TBS、八欧電機など、相当な後押しがあったことはたしかである(TBSの鹿倉社長は後援会「竹友会」の会長だった)。
 「お楽しみ特集号」には、『新選組始末記』に続く主演第9作『鞍馬天狗』(1963年1月8日~9月24日放送)の告知も、ちゃんと載っている。原作は大佛次郎、スポンサーの八欧電機は変わらず、竹弥の快進撃はまだまだ終わらない。
 それにしても、近藤勇のあとが鞍馬天狗とは……。「天狗のおじさん」こと倉田典膳は、近藤勇にとって宿命のライバル。違和感はなかったのか。
 そう思いきや、竹弥はそれなりにわりきっている。いわく《アメリカ映画“シェーン”に負けないようなさっそうとした天狗をごらんに入れます!》(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「竹弥の新番組/鞍馬天狗」)。


TBS『鞍馬天狗』広告(新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット、1963年8月)

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 1963(昭和38)年2月、『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』が出た翌月、大阪の梅田コマ・スタジアムで、「中村竹弥2月特別公演」(2月1~25日)が上演された。
 前年の1962(昭和37)年8月に新橋演舞場で好評を博した「中村竹弥奮斗公演」を受けての大阪初公演である。同公演のチラシには、《「新選組始末記」で全国にブームをまきおこしたテレビ界最高の人気花形颯爽の登場!》とある。


梅田コマ・スタジアム「中村竹弥2月特別公演」(1963年2月1~25日)パンフレットとチラシ

 演目は『新選組始末記』(18場/生田直親脚色、山本和夫・竹内伸光演出)と、『舞踊 竹弥七変化』(12場/西川鯉三郎構成・演出、宮川寿朗作曲)のふたつ。
 『新選組始末記』は、「池田屋事件」をクライマックスにした筋立て。中村竹弥、戸浦六宏、明智十三郎、山岡徹也、喜多川千鶴らテレビ版のキャストが復活し、二代目市川小太夫が松平容保役で助演する。


梅田コマ・スタジアム「中村竹弥2月特別公演」チラシ裏

 中村竹弥後援会「竹友会」の後押しもあり、座長公演はこのあとも続いた。1963(昭和38)年8月には新橋演舞場にふたたび戻り、第2回「中村竹弥奮斗公演」(8月4~27日)が上演された(前年に引き続き、伊志井寛が特別出演)。
 この公演では『新選組始末記』をかけず、TBSで放送中の『鞍馬天狗』(3幕/大佛次郎作・演出)をかけた。それも、近藤勇との二役である。
 ほかに『旗本残酷物語 青山播磨』(4幕/南条範夫作、武智鉄二演出)で青山播磨、『吉野山』(藤間勘十郎振付)で佐藤忠信実は源九郎狐、『舞踊劇 電光石火』(林悌三作、藤間勘十郎振付)で白拍子静を、昼の部と夜の部を通してやりきった。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット(1963年8月)

 1963(昭和38)年から65(昭和40)年にかけては、活躍の場を映画へと広げた。歌舞伎、移動演劇、新劇、商業演劇、ラジオ、テレビと渡り歩いたものの、映画には縁がなかった。そこにまず、松竹が声をかけた。
 菊島隆三の原作を、内川清一郎が脚色・監督した『残酷の河』(松竹、1963年5月15日公開)で明智光秀を演じ、これが映画初出演となる。
 ポスターや広告では名前が「トメ」の位置にあり、「特出」とつく。テレビが生んだスターを、映画界が招くかっこうとなる。ただ、松竹の時代劇映画は低迷しており、そのあとが続かなかった。


内川清一郎監督『残酷の河』(松竹、1963年5月15日公開)広告。上より、園井啓介、桑野みゆき、中村竹弥(1963年5月8日付「讀賣新聞」夕刊)

 続いて声をかけたのが東映で、加藤泰監督『幕末残酷物語』(東映京都、1964年12月12日公開)に出演。持ち役の近藤勇をやった。さらに大映からもオファーがあり、安田公義監督『新鞍馬天狗』(大映京都、1965年9月18日公開)では、市川雷蔵の鞍馬天狗(倉田典膳)に対して、またもや近藤勇の役がきた。


加藤泰監督『幕末残酷物語』(東映京都、1964年12月12日公開)広告。上段右より、西村晃、中村竹弥、大友柳太朗。中段右より、内田良平、河原崎長一郎、藤純子、広告下に大川橋蔵(1964年12月10日付「讀賣新聞」夕刊)

 幕末ものが続くなか、テレビと舞台の仕事は好調である。
 主演シリーズ第9作『鞍馬天狗』のあとが、子母沢寛作『父子鷹』(1964年5月27日~9月2日放送)となる。国際放映が制作に加わり、VTR収録ではなく、16㎜フィルム撮りのテレビ映画となる。スポンサーもそれまでの八欧電機から、日野自動車とタイガー魔法瓶に変わった。
 竹弥ふんする勝小吉は、勝麟太郎(青山良彦)の豪放磊落な父として知られている。ヒーロー一辺倒だったテレビスターにとって、新境地の役柄となる。このころ眼の病を患ったけれど、それも克服した。
 主演シリーズとは別に、歴史ドラマの大作『幕末』(TBS、1964年10月25日~65年4月11日放送)にも出た。ここでは近藤勇と松平容保の二役で、いくらなんでも近藤勇のやりすぎだ。このころから、竹弥の主演企画に限界が見えてくる。
 それでも仕事は続く。舞台では中村竹弥を座長に、南原宏治、戸浦六宏、花柳小菊、江見俊太郎、中原早苗らの助演で、松竹・東横提携「松竹時代劇第1回公演」(渋谷・東横ホール、1965年10月1~23日)が上演された。


「松竹時代劇第1回公演」(東横ホール、1965年10月)パンフレット

 竹弥は、南原主演の『太鼓の鉄』(3幕7場/小幡欣治作、増見利清演出)に助演(滝川播磨守役)するとともに、『父子鷹』(4幕7場/子母沢寛原作、阿木翁助脚色、宇野信夫演出)でテレビ版と同じ勝小吉を演じた(勝麟太郎もテレビと同じで青山良彦)。


「松竹時代劇第1回公演」『父子鷹』稽古風景。左より、宇野信夫、中村竹弥、花柳小菊、南原宏治、森健二、片山豊、青山良彦、高野通子(同パンフレット)

 1965(昭和40)年には、TBSの後援で、東京の歌舞伎座に進出した。中村竹弥主宰「竹友会」第1回公演(3月26、27日)で、2日間とはいえ歌舞伎座の大舞台に立った。
 演目は『旗本奴』(4幕7場/大垣肇作・演出)と『舞踊 源九郎義経』(5場/藤間勘十郎構成・振付)。前者で水野十郎左衛門を、後者で源九郎義経にふんした。
 共演者も豪華で、「菊五郎劇団」の当時ベテランだった三代目市川左團次、市川右太衛門、藤間紫、坂東好太郎らが竹弥の晴れ舞台を祝う。


中村竹弥主宰「竹友会」第1回公演(歌舞伎座)より『舞踊 源九郎義経』。中村竹弥の源九郎義経(同公演パンフレット、1965年3月)

 父の松本麗五郎と師の中村竹三郎はすでに亡い。歌舞伎座の大舞台に立ち、その胸に去来するものはなにか。

 KRテレビの『江戸の影法師』で主役をはってから、ちょうど10年。さすがに幕末と近藤勇だけでは飽きられる。
 それでも企画に新味はなく、『父子鷹』の次が主演第11作『燃ゆる白虎隊』(1965年5月4日~7月27日放送)となる。元会津藩主・松平容保と家老・日向外記(白虎隊士中二番隊長)の二役は、竹弥のキャラクターにぴったりである。逆にぴったりすぎて、『新選組始末記』の二番煎じに思えなくもない(語りも芥川隆行)。
 予算の都合か「会津戦争」のシーンは少なく、そのぶん会津の人びとの姿をじっくり描く良作となる。いっぽうで放送された1965(昭和40)年当時、すでに古めかしい印象を与えたのではないか。
 三田明、加藤治子、佐々木孝丸、神田隆、神山繁、金田龍之介、富田仲次郎、瀬川路三郎、伊藤寿章(沢村昌之助)ら脇役陣は、筆者好みの渋さ。にしても、竹弥と孝丸のふたり芝居では、いまひとつ華やかさに欠ける。


『燃ゆる白虎隊』第2回「揺らぐ太陽」(TBS、1965年5月11日放送)。左に中村竹弥の日向外記、右に佐々木孝丸の西条頼母

 テレビ時代劇の主演スターとしては、このあたりが過渡期であった。『江戸の影法師』から続くTBSの主演シリーズは、丹下左膳と大岡越前の二役をやった『丹下左膳』(1965年10月6日~66年3月30日放送)がラストとなる。
 TBSの企画、宣弘社プロダクションの制作で、林不忘の原作を川内康範が脚色、船床定男が監督した。恰幅のいい“竹弥左膳”は、おおらかにしてアダルト、恋に奥手の好漢のヒーローで、往年の活動大写真をほうふつとさせる魅力がある。特注でみずから左膳の衣裳を誂えるなど、竹弥の力の入れ込みようも相当なものだった。
 中原早苗のお藤、菅貫太郎の柳生源三郎、光本幸子の萩乃、戸上城太郎の蒲生泰軒、花沢徳衛の愚楽老人など、左膳ものおなじみのキャラクターの配役も愉しい。竹弥の主演シリーズのなかで、この『丹下左膳』だけがDVD化(ハミング、2016年3月)されている。


『丹下左膳』(TBS、1965年10月6日~66年3月30日放送)タイトルバック。中村竹弥の丹下左膳

 1966(昭和41)年1月には、「松竹時代劇第2回公演」が東横ホールで予定(1月4~27日)されていた。竹弥を座長に、新国劇の若手(大山克巳、緒形拳、高倉典江)を加えた座組である。


「松竹時代劇第2回公演」告知(「松竹時代劇第1回公演」パンフレットより部分拡大)

 この公演に、竹弥は出演しなかった。TBSの『丹下左膳』を優先したのが原因らしく、「松竹時代劇」の公演自体、TBSの後援を受けていた。竹弥の降板はけっこう揉めたらしいが、市村竹之丞(五代目中村富十郞)が参加するかたちで、予定どおり上演された。
 50代を前にした意欲作で、新国劇とのコラボを反故にしてまで出た『丹下左膳』も、新境地をひらくには至らなかった。この番組を最後に、TBSと中村竹弥の専属契約は解消する。喧嘩わかれしたのではない。KRテレビ時代からの両者の関係は、竹弥の晩年まで変わらなかった。
 『丹下左膳』終了から4か月後の1966(昭和41)年8月、東映・明治座提携「8月特別公演 東映歌舞伎」(8月3~28日)が、東京・浜町の明治座で幕を開けた。


東映・明治座提携「8月特別公演 東映歌舞伎」(明治座、8月3~28日)広告。広告上より、市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村竹弥(1966年8月2日付「讀賣新聞」夕刊)

 市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村竹弥の「三枚看板」で、新聞広告には3人の顔が同じ大きさで載っている。この公演は、親交のある右太衛門が、竹弥を招いたことで実現した。
 その縁から舞台では、千恵蔵とではなく、右太衛門との顔合わせになる。東映時代劇で主役をはった東千代之介が脇にまわり、竹弥が重用されたことに、千恵蔵が反発を覚えたことも考えられる(千恵蔵は同公演の『新選組』で近藤勇をやっている)。
 竹弥の出番はふたつ。世話物狂言の『素町人罷り通る』(3幕/中野実作・演出)では、右太衛門の和泉屋徳兵衛と竹弥の和泉屋(分家)清三郎。『歌舞伎曼陀羅』(3幕/綾部洸二作、藤間勘十郎演出)では、右太衛門の名古屋山三郎と竹弥の石田三成で、いずれもがっぷり四つの競演となった。


「8月特別公演 東映歌舞伎」より『素町人罷り通る』。左に中村竹弥の和泉屋清三郎、右に市川右太衛門の和泉屋徳兵衛(『演劇界』1966年9月号)

 こうしてみると、まだまだ主役でいけそうである。ただ、王道のチャンバラ映画は衰退し、テレビ時代劇をとりまく環境も変わっていく。
 45分枠、1時間枠の番組が増えると、30分枠で主役をはる竹弥の居場所が逆になくなる。二代目尾上松緑や長谷川一夫のように、NHKの大河ドラマで主演するほどの格は、竹弥になかった。
 1965(昭和40)年前後の時代、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫、大川橋蔵、中村錦之助、近衛十四郎、美空ひばりなど、映画畑のスターがテレビ時代劇に続々と進出する。北大路欣也、林与一、高橋幸治、緒形拳、加藤剛、栗塚旭、田村正和ら若手が、そこに新風を吹き込む。


フジテレビ『三匹の侍』『ひばり・与一の花と剣』『銭形平次』広告(1966年9月29日付「東京新聞」)

 司馬遼太郎の原作を結束信二が脚色し、栗塚旭が土方歳三を好演した『新選組血風録』(NET、1965年7月11日~66年1月2日放送)が放送されたのも、この時期である(舟橋元演じる近藤勇は、竹弥のそれと比べるとかなりイメージが異なる)。


『新選組血風録』第2回「誠の旗」(NET、1965年7月18日放送)。左に栗塚旭の土方歳三、右に舟橋元の近藤勇

 わずかしか映像の残らない『新選組始末記』と、幾度となく再放送される『新選組血風録』を比べると、どうしても知名度に差が出てしまう。「血風録」への高い評価を聞くたびに、「始末記」の映像がすべて残っていれば、と惜しまれる。

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 1967(昭和42)年以降、中村竹弥は主役の座を譲り、引き立て役にまわる。昭和40年代から亡くなるまでのおよそ20年間、脇でその存在感を示した。
 仕事量は、旺盛かつ膨大である。50代から60代のキャリアを簡単にふりかえっておく。
 映画は、昭和40年代に時代劇が下火になったこともあり、時代劇の企画にめぐまれなかった。重量感のある殺陣を得意とした竹弥は、テレビや舞台に比べると、映画向きの人ではなかったようにも思う。
 時代劇に代わって隆盛を極めたのが、東映の任侠映画で、こちらは竹弥のニンにあった。昔かたぎの親分、貸元、兄貴分といった善玉を得意とした。勧善懲悪で主役をはったテレビ時代劇の余韻か、河津清三郎や金子信雄が担うような悪玉は不得手だった。


中島貞夫監督『男の勝負』(東映京都、1966年7月1日公開)ポスター。上段左より、中村竹弥、北島三郎、長門裕之、藤山寛美。下段左より、天知茂、高倉健、村田英雄(『写真集 天知茂五十年の光芒』臼井薫写真の店、1987年7月)

 任侠映画では、内田吐夢監督『人生劇場 飛車角と吉良常』(東映東京、1968年10月25日公開)に出ている。
 鶴田浩二の飛車角、辰巳柳太郎の吉良常、高倉健の宮川、松方弘樹の青成瓢吉で、竹弥は瓢吉の父にして侠客の青成瓢太郎を演じた。吉良常の亡き恩人で、出番は少ないものの重要な存在である。


内田吐夢監督『人生劇場 飛車角と吉良常』(東映東京、1968年10月25日公開)。左に中村竹弥の青成瓢太郎、右に辰巳柳太郎の吉良常

 竹弥はこのあと、日活の任侠・やくざ映画に顔を出した。『潮騒』(東宝、1975年4月26日公開)と『春琴抄』(東宝、1976年12月25日公開)でヒロイン(山口百恵)の父親をやったりしたが、昭和50年代以降は、活躍の場を舞台とテレビに移していく。

 舞台は、もっぱら商業演劇が中心となる。中村扇雀(四代目坂田藤十郎)、中村賀津雄(嘉葎雄)、天知茂、三波春夫、美空ひばり、林与一、北島三郎、杉良太郎、里見浩太朗、財津一郎、水前寺清子、橋幸夫、細川たかしなど、最晩年まで多くのスターの座長公演に付き合った。
 座長公演では二番手、三番手、あるいは「中トメ」「トメ前」「トメ」と呼ばれるベテラン枠に位置する。東京の明治座と新宿コマ、名古屋の御園座、大阪の新歌舞伎座と梅田コマなど、ホームグラウンドはいくつもある。


大阪・新歌舞伎座「7月納涼特別公演」(1972年7月2~26日)チラシ。左より、天知茂、野川由美子、中村竹弥、朝丘雪路(『写真集 天知茂五十年の光芒』)

 商業演劇の一例として、1973(昭和48)年の大阪・新歌舞伎座「三波春夫特別公演」(3月2~29日)ならびに東京・歌舞伎座「吉例第13回 三波春夫特別公演」(8月1~29日)への出演がある。
 演目は『元禄友情物語 立花左近』(3幕/花登筺作・演出)。歌謡浪曲『大忠臣蔵』の完成記念で、三波が立花左近と天野屋利兵衛の二役、竹弥は大石内蔵之助である。立花と大石、天野屋と大石、それぞれ両優による見せ場が用意された。


歌舞伎座「吉例第13回 三波春夫特別公演」広告(1973年7月28日付「讀賣新聞」夕刊)


歌舞伎座「吉例第13回 三波春夫特別公演」(1973年8月1~29日)より『元禄友情物語 立花左近』。左に三波春夫の立花左近、右に中村竹弥の大石内蔵之助(『歌舞伎座百年史 本文篇下巻』松竹/歌舞伎座、1998年11月)

 テレビの仕事に目を向けると、昭和40年代以降は現代劇を増やしていった。
 ホームドラマ、ラブコメディ、刑事ドラマ、スポ根もの、特撮ヒーローものと枚挙にいと間はない。頑固な父親、こだわりの職人、市井の善人、叩きあげのベテラン刑事、因習にとらわれた地方の名士、と役の幅を広げていく。


『ゴールデン・スペシャル・シリーズ』第1回「パパの青春」(TBS、1968年4月22日放送)。左より、飯田蝶子のおばあちゃん、扇千景の藤岡司寿、星由里子の鏡子、中村竹弥の俊太郎

 先に紹介した『藝能フォノ・グラフ第13集 中村竹弥 お楽しみ特集号』のインタビュー「おたずねします/お答えします」で、こんなコメントをしている。

■現代劇出演の話は?
あるにはあるんですが、いまのぼくとしては、ファンのみなさんが抱いている“チョンマゲ姿の竹弥”のイメージをあえてこわしたくないし、その時期がきたらやるつもりです。
(『中村竹弥 お楽しみ特集号』「おたずねします/お答えします」)

 《その時期がきたら》と語ったように、テレビの現代劇に出ることで、竹弥は新境地をひらいた。
 DVDやCSの再放送で見ることができる現代劇のひとつに、『五番目の刑事』(NET、1969年10月2日~70年3月26日放送)がある。東新宿署捜査課の個性ゆたかな刑事(原田芳雄、工藤堅太郎、桑山正一、常田富士男、殿山泰司)を束ねる山田部長刑事役で、頼れる“デカ長”を好演した。


『五番目の刑事』(NET、1969年10月2日~70年3月26日放送)オープニング。中村竹弥の山田部長刑事

 一貫して変わることのない仕事として、テレビ時代劇への出演も欠かさない。昭和30年代のように、主役でシリーズを背負うことはないけれど、落ち目になったわけではなかった。
 そのことは、昭和40年代に放送された作品と演じた役柄でよくわかる。放送局と放送日を省いて列挙すると、『源義経』で熊谷直実、『戦国太平記 真田幸村』で真田昌幸、『剣』で大塩平八郎、『日本剣客伝』で近藤勇、『大奥』で徳川家康、『あゝ忠臣蔵』で不破数右衛門、『丹下左膳』で大岡越前、『大坂城の女』で真田幸村、『大忠臣蔵』で多門伝八郎、『天皇の世紀』で井伊直弼、『編笠十兵衛』で大石内蔵助、といった具合である。


『天皇の世紀』第4回「地熱」(朝日放送、1971年9月25日放送)。中村竹弥の井伊直弼

 テレビ時代劇には、レギュラーとゲスト、実在の人物と架空のキャラクターをひっくるめて、ざっと数百回分は出ている。
 昭和50年代になっても、ほうぼうの局で重宝された。『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』『遠山の金さん』『桃太郎侍』『新五捕物帳』『斬り捨て御免!』『長七郎江戸日記』『鬼平犯科帳』など、おなじみのシリーズからの出演依頼も多かった。


『長七郎江戸日記スペシャル』「柳生の隠密」(日本テレビ、1984年12月25日放送)。左に里見浩太朗の松平長七郎、右に中村竹弥の高杉伊予守威晴

 1980年代になると、竹弥も老境にさしかかっていく。『大江戸捜査網』の内藤勘解由役も、通算500回を過ぎるまで演じて、1981(昭和56)年に引退した。
 晩年となり、凄みのある黒幕や悪役を演じることもあった。時代劇では『大奥』(関西テレビ、1983年4月5日~84年3月27日放送)における南光坊天海が印象に残る。三代将軍家光の治世、天海は徳川幕府ににらみをきかした黒幕で知られる。


『大奥』第13回「子連れ将軍と五人の女」(関西テレビ、1983年6月28日放送)。中村竹弥の南光坊天海

 当時はやりの2時間サスペンスにも顔を出し、渋いところを見せた。もともと二枚目なので、スーツ姿の紳士がよく似合う。
 天知茂の明智小五郎で人気を博した「土曜ワイド劇場」の「江戸川乱歩の美女シリーズ」(テレビ朝日)にも出た。シリーズ第18作『化粧台の美女 江戸川乱歩の「蜘蛛男」』(1982年4月3日放送)では、殺人と会社乗っ取りの報いを受けるレーヨン会社社長・山際大造役で、地下室に監禁され、首まで砂責めにされた。


『土曜ワイド劇場 化粧台の美女 江戸川乱歩の「蜘蛛男」』(テレビ朝日、1982年4月3日放送)。左に天知茂の明智小五郎、右に中村竹弥の山際大造


『化粧台の美女』(同上)。左に中村竹弥の山際大造、右に蜷川有紀の山際洋子

 映画では、伊丹十三監督『マルサの女2』(東宝、1988年1月15日公開)での大物代議士・漆原をよく覚えている。宗教法人を隠れ蓑にした地上げ屋の鬼沢(三國連太郎)を背後であやつり、国税局査察部に圧力をかける黒幕である。痩せていたぶん凄みが増し、「こういう悪役もやるようになったのか」と“うれしく”なった。


伊丹十三監督『マルサの女2』(東宝、1988年1月15日公開)。左より、洞口依子の奈々、小松方正の猿渡、三國連太郎の鬼沢鉄平、加藤治子の赤羽キヌ、中村竹弥の漆原、柴田美保子の受口繁子、上田耕一の猫田、不破万作のチビ政(『マルサの女2』東宝㈱出版事業室、1988年1月)


『マルサの女2』(同上)

 

 時代は、昭和から平成へ。
 1990(平成2)年1月、名古屋の御園座で「細川たかし正月特別公演」(1月2~28日)が上演された。『遠山金四郎――人情長持唄』(陣出達朗原作、土橋成男脚本・演出)と『熱唄!細川たかし』の2部構成である。


御園座「細川たかし正月特別公演」(1990年1月2~28日)チラシ。細川たかし(中央)の左に中村竹弥、その下に東千代之介

 竹弥は、遠山金四郎(細川たかし)を庇護する水野越前守で出演した。平成になるまで、ベテランの貫禄を示したことになる。
 この公演が、中村竹弥にとって最後の仕事となる。公演中に体調をくずし、やむなく舞台を降板、入院した。

 1990(平成2)年5月28日、中村竹弥死去、享年71。枯れた名脇役になってはいたけれど、元気でさえいれば、まだまだ活躍できる場はあった。
 長谷寺(港区西麻布)で営まれた通夜の席上、香典(現金197万円)と3冊の人名録が盗まれた。この事件は、浮き名を流した竹弥の私生活を含め、週刊誌が書き立てた。
 後味の悪いエピソードながら、息のながかったスターの宿命、と言えなくもない。

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 かれこれ40年以上、中村竹弥が演じたあの役、この役、ずいぶんと見てきた。
 そのかわり、その素顔に接したことはない。ワイドショーやトーク番組にも出たと思うけれど、見た記憶はない。
 唯一、横浜の放送ライブラリーで『テレビの青春 特集!TBS歌う30年』(TBS、1981年5月4日放送)を見た。人気ドラマの主題歌を通して、TBSテレビの歴史をふりかえる趣向である。
 スタジオでは、三橋美智也が『新選組始末記』の主題歌『新選組の歌』を熱唱した。そのあと、中村竹弥と芥川隆行が着物姿で顔を見せ、和室のセットで思い出を語り合った。このふたりが揃うと、話題は『新選組始末記』しかない。
 殺陣のこと、生放送のこと、三橋美智也の主題歌のこと。「菊は栄えて、葵は枯れる」の名調子を引き合いに出し、芥川の語りがドラマを盛り上げたことにも触れた。
 意外だったのは、竹弥が饒舌で、気さくなおじいちゃんだったこと。芥川隆行もおしゃべりな人だったが、動じずにしゃべる、しゃべる。ご機嫌である。

 わがこころのチャンバラスター、その魅力はこれからも色褪せない。


新橋演舞場「中村竹弥奮斗公演」パンフレット(1963年8月)


*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料