脇役本

増補Web版

道化の顔 三谷昇


『ドン・キホーテより 諸国を遍歴する二人の騎士の物語』パンフレット(パルコ、1987年10月)

 昨年末から先月にかけて、映画、テレビ、舞台で活躍したベテラン俳優の訃報が相次いだ。2022(令和4)年12月26日に絵沢萠子が87歳で、年明けの2023(令和5)年1月1日に長谷川哲夫が84歳で、1月15日に三谷昇が90歳で、1月22日に上野山功一が89歳で、この世を去った。
 4人には、それぞれ共通点がある。1930年代に生まれ、戦後の新劇からそのキャリアをスタートさせ、活躍の場を映像の世界へと広げていった。
 絵沢萠子は毛利菊枝や北村英三が中心にいた劇団くるみ座、長谷川哲夫は劇団俳優座、三谷昇は文学座、上野山功一は八田尚之・宝生あやこ夫妻が主宰した劇団手織座の出身である。舞台と映像が地続きで、新劇界が多くのバイプレーヤーを輩出したことにあらためて気づかされる。


絵沢萠子。『非情のライセンス』第2シリーズ第82回「兇悪の接吻」(NET、1976年5月13日放送)より中田キヨ役


長谷川哲夫。『江戸を斬る 梓右近隠密帳』第2回「将軍の密使」(TBS、1973年10月1日放送)より徳川家光役


三谷昇(左)。『鉄道公安官』第24回「少年に太陽を・眼球を探せ!」(テレビ朝日、1979年10月29日放送)より黒崎役(右は瀬川浩三役の三橋達也)


上野山功一。『五番目の刑事』第1回「真昼のアスファルト」(NET、1969年10月2日放送)より半田役

 四優四様、さまざまな出演作を思い返すことができる。その思い入れに多少の濃淡が出てしまうのは致し方あるまい。この4人のなかでは、三谷昇(みたに・のぼる/1932~2023)の旅立ちに一抹のさびしさを覚え、ブログに書いておきたいと思った。
 舞台で最後に接したのは、2015(平成27)年8月19日、東京・代々木八幡にある青年座劇場でのこと。この夜、上演された「別役実フェスティバル 交流プロジェクトvol.1『別役実を読む、聞く、語る』」の第2部「円熟俳優(レジェンド)たちによるリーディング」に三谷昇は出演した(演出は文学座の鵜山仁)。
 作品は、別役実童話集より『淋しいおさかな』。フリーの三谷昇、劇団銅鑼団友の鈴木瑞穂、文学座の金内喜久夫、青年座の久松夕子、俳優座の川口敦子と劇団の枠をこえて“レジェンド”が一堂に会した。
 三谷は白の襟シャツ姿で、ステージの上手にちょこんと座る。その飄々とした佇まいと語り口がチャーミングで、健在ぶりがうれしくなった。
 翌2016(平成28)年、三谷は竹馬靖具監督・脚本・編集の映画『蜃気楼の舟』(chiyuwfilm、2016年1月30日公開)に出演した。「囲い屋」と呼ばれる貧困ビジネスをテーマにした作品で、役どころは若者たちの「囲い者」にされるホームレスだった。


竹馬靖具監督『蜃気楼の舟』(chiyuwfilm、2016年1月30日公開)。老人役の三谷昇(クラウドファンディングプロジェクトページより)

 2016年は、前年の「別役実フェスティバル」に続いて、舞台にも立った。7月には山の羊舎第5回公演『窓から外を見ている』(別役実作、山下悟演出、下北沢・小劇場B1)に出演し、愛してやまない別役戯曲にふたたび挑んだ。
 12月には、劇舎カナリアの公演に文学座の川辺久造と参加。加藤道夫の『挿話(エピソオド)』(山本健翔演出、両国・シアターX)に出ている。この年をもって第一線から退いたようで、この公演が三谷のラストステージとなったらしい。

 最晩年まで第一線にいた人だけれど、一般には舞台より映像の仕事になじみがある。Twitterでの呟きを読むと映画、テレビの思い出を挙げる人が少なくない。
 朴訥とした庶民、根っからの好人物、わけありの苦労人、ずるがしこい小悪党、ミステリアスな怪人物……。善悪とわず多彩なキャラクターを演じ、「怪優」と呼ばれることが多かった。たとえ僅かなシーンでもインパクトがあって、記憶にとどめる演じ手となる。


深作欣二監督『仁義の墓場』(東映東京、1975年2月15日公開)。石川力夫役の渡哲也(左)、石工役の三谷昇(右)

 リアルタイムで見て、「うまいなあ」と感じたのが、「土曜ワイド劇場」の人気シリーズ『家政婦は見た!』。第16作「名門ファッションデザイナー家族の乱れた秘密  ブランド相続を狙う女たちの華やかな争い」(テレビ朝日、1997年7月5日放送)で、縫製会社を営む実業家・牧田守利を演じた。
 牧田は、人気モデルの長女(松宮千香子)と、大物ファッションデザイナー(江守徹)の長男(倉田てつを)を結婚させ、新会社を設立、赤字の縫製事業を立て直そうと目論む。その跡目問題に、おなじみの石崎秋子(市原悦子)が首を突っ込み、騒動になる。


『土曜ワイド劇場 家政婦は見た!名門ファッションデザイナー家族の乱れた秘密  ブランド相続を狙う女たちの華やかな争い」(テレビ朝日、1997年7月5日放送)。牧田守利役の三谷昇

 牧田の事業欲はほどほどで、エキセントリックな野心家、腹黒な悪党というほどではない。町工場を少し大きくしたていどの経営者で、精いっぱいの身なりを整え、ファッションデザイナー一族(君島ファミリーがモデル)に取り入ろうと躍起になる。
 三谷の着こなしがおしゃれで、ダンディーなだけに、そこはかとなく哀れみを誘う。膨大にある出演作のなかで、我が愛すべき一本に挙げたい。


『家政婦は見た!』(同上)

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 三谷昇は1932(昭和7)年4月9日、広島県福山市の生まれ。本人いわく、絵の上手なガキ大将で、コンクールに入賞することもしばしばだった。
 思春期は戦争のころ。中学時代は、軍需工場に駆り出された。1945(昭和20)年8月8日、広島への原爆投下の2日後、ちいさな城下町は猛暑だった。夜、勤労奉仕で疲れ切った“昇少年”は、遠く連隊兵舎から聞こえる消燈ラッパを耳に、眠りにつく。

(前略)〈ご・ごう、ご・ごう〉聞きなれない轟音が耳を打った。それは空からというより地の底から呻き声のように聞こえた。窓はまっ赤に染っていた。その窓を開けると熱風が顔を舐めた。黒い影がメガホンで叫んでいる。「消火をやめて早く避難して下さい」。兄と私の貴重品のリュックサックを持ち出す余裕もなく、ランニングシャツとパンツだけの姿でとび出した。しゅう・どーんと近くで大きな音がした。反射的に地面に伏せた。地面が熱い。手足が熱い。私は裸足だった。わが家の方を見れば、火炎が渦巻いている。反転して暗闇の多い方向に私はつっ走った。(後略)
(三谷昇「広島――もう一つの夏」『悲劇喜劇』1990年7月号、早川書房)

 300名以上の犠牲者を出した「福山大空襲」。ふるさとの城下町は、焦土と化した。その1週間後に敗戦――。
 戦後、福山の高校に進んだ三谷は、学生演劇に没頭する。ただし、夢を抱いたのは俳優ではなく、画家だった。
 卒業後上京し、東京藝術大学を受験するものの、桜散る結果に。ふるさとに戻るに戻れず、先輩で福山出身の劇作家・小山祐士のもとを訪ねた。1951(昭和26)年のことである。
 この年の4月、文学座が演出部の裏方を育成する「文学座舞台技術研究室」を開設した。月謝は500円(けっこう高い)、200余名が応募して40名が合格、そのひとりに三谷がいた。
 東京・信濃町にいまもある文学座アトリエで、三谷は演技実習を受けつつ、裏方の日々を送る。徹夜で大道具、小道具をこしらえ、ポスターやチラシをデザインし、舞台装置のプランを練った。


文学座アトリエ(文学座8月公演『シラノ・ド・ベルジュラック』パンフレット、三越芸能部、1951年8月)

 『文学座五十年史』(文学座、1987年4月)所載の「年表」を開いてみる。三谷昇の名が最初に登場するのは1952(昭和27)年2月。文学座アトリエ公演『卒塔婆小町』(三島由紀夫作、長岡輝子演出)のスタッフとして《装置 小原久雄 木村数子 三谷昇》とある。
 同年4月、アトリエ公演『ロメオとジャネット』(ジャン・アヌイ作、鬼頭哲人訳、松浦竹夫演出)に《効果 三谷昇 平井万沙子》とその名がある。
 翌5月から6月にかけての文学座公演『祖国喪失』(堀田善衛原作、加藤道夫脚色・演出)にも、三谷の名がある。ここではスタッフでなく、俳優として「大華報社員」を演じ、三越劇場(東京・日本橋)のステージに立った。
 文学座には当時、三幹事のひとり岩田豊雄(獅子文六)の考えで、俳優と裏方のあいだに垣根がなかった。俳優がスタッフもやるし、スタッフが舞台にも立つ。長岡輝子や劇作家の飯沢匡に可愛がられ、三谷は装置や効果の仕事をしながら、舞台に立つようになる。
 文学座取締役(当時)の戌井市郎は、こうふりかえる。《三谷は絵心もあり、美術の素質はあったのだが、やはり本音は役者志望だった》(『芝居の道 文学座とともに六十年』芸団協出版部、1999年5月)。
 舞台に立つといっても、大きな役ではない。パンフレットに顔写真が載るわけではなく、セリフのない役もある。文学座創立20周年(1956年)の時点では、岸田今日子、加藤武、小池朝雄、神山繁、倉田マユミ、本山可久子らとともに「演技部準座員」だった。


文学座アトリエ公演『守銭奴』パンフレット(文学座、1957年11月)

 下積みではあったけれど、よき先輩と同世代の仲間に囲まれ、俳優の色へと染まっていく。1958(昭和33)年からは裏方を離れ、俳優に専念するようになった(そののち装置を手がけたこともある)。

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 画家をこころざし、文学座で装置を担った三谷は、芸術家肌だった。後述するが、ピエロなどの道化師(クラウン)の絵を描き、「道化石」と名づけたストーンアートや仮面、粘土の人形を好んでこしらえた。


三谷昇 カット(『俳優館』第2号、俳優館、1970年12月)

 文才にも長け、軽妙しゃだつなエッセイを、公演パンフレットや演劇雑誌『悲劇喜劇』(早川書房)に寄せた。一冊にまとまっていれば、師とあおぐ中村伸郎の『おれのことなら放つといて』(早川書房、1986年2月)のような“名脇役本”が生まれたはずで、著書が出なかったことが惜しまれる。
 文学座にいたころの思い出も、たびたび書いた。貧しくも、新劇に活気のあった時代。ジャムをはさんだコッペパン1個で1日済ませることがあれば、居酒屋で先輩におごってもらい、つまみが夜食になる日もあった。文学座時代の回想録を読むと、そこに豊かな青春の日々があったことが伝わってくる。


文学座時代の三谷昇(『文学座』第15号、1960年8月)

 俳優に専念しはじめてまもない1959(昭和34)年6月、機関紙『文学座』(文学座編集室)が創刊された。毎月1日、劇団の支持会員向けに発行されたB5判8ないし12ページの冊子で、公演情報や座員のエッセイを掲載した。
 創刊号には〈ア〉の筆名で、《機関紙というより手紙です。ふだん着の訪問、五分間のおしゃべりです》とある。創刊当初に編集を手がけた、芥川比呂志の文章と思われる。
 バックナンバーを通読すると、いろんな俳優が寄稿していて、座員の素の表情に接することができる。同紙は第35号(1962年4月)から『文学座通信』に改題され、現在までかたちを変えながら発行が続いている。


『文学座』第4号(1959年9月)、第10号(1960年3月)

 機関紙『文学座』(『文学座通信』)からは、若き日の三谷昇の素顔を知ることができる。初めて寄稿したのは第2号(1959年7月)で、コラム欄「える・てい」に短い文章がある。

 一日の芝居の稽古が終り、その熱気もさめぬアトリエが文字通り日曜画家ならぬ火曜画家の天狗どものアトリエに変ります。毎週火曜日午後6時より9時まで。ドラマをはなれて光と影と色のココロを追うわけです。指導は伊原通夫先生。自称ピカソの卵、宗達の卵、山下清のヒナ連が裸婦を前にカルトンにコンテ、木炭をたずさえ、なごやかな雰囲気、心良き疲労のひとときです。
「国際美術展のヘンリー・ムーア。アレネ……。」(オナマイキナ)やっと一枚描いた彼、「ね。皆、作品展をやろうよ」(虫がよすぎます)アトリエの二階にできた気まぐれ食堂のマダム・宮口に「作品、食堂に飾りますよ」マダム曰く「食欲不振で下痢しないかしら……」我等の技量は目下そんな所。ともかくも自称一日天才画家と三時間閨秀画家は今後もアトリエに集って裸女とにらめっこです。<三谷昇>
(える・てい「絵の会から」『文学座』第2号、文学座編集室、1959年7月)

 当時の文学座は、座内のサークル活動が盛んで、三谷は「絵の会」に属していた。画家の夢はやぶれたものの、絵に対する愛着は変わらない。
 400字に満たないコラムからは、ユーモリストらしい文才がうかがえる。三谷のキャラクターからしてインドアの人かと思いきや、そうではない。文学座の「野球部」にも所属していた。
 第6号(1959年11月)には、「文学座vs毎日新聞事業部」の試合に、投手として登板したことが紹介されている。文学座と親交のあった大毎オリオンズの山内一弘選手(当時)が打席に立ち、投手三谷は「三ゴロ」に打ち取った(試合は3対3で引き分け)。


文学座野球部投手の三谷昇(『文学座』第6号、1959年11月)

 試合後に三谷は、《大毎から勧誘に来ると困るな。だってそうなると役者をやめなきやあならないものね》(第6号)とコメントした。当時の新劇界では、アマチュア野球がけっこう流行っていた。文学座、俳優座、劇団民芸がそれぞれ野球部をもち、後楽園球場で三劇団野球リーグ戦が催されたこともある。
 絵と野球、三谷のサークル活動はこれだけではない。第9号(1960年2月)には、座の仲間と浅間山麓に出かけ、年末年始を過ごしたことを書いた。文中の《小池先輩》は小池朝雄、《仲谷北村夫妻》は仲谷昇と岸田今日子、北村和夫と佐野タダ枝の両夫妻である。

 今年もまた暮より正月を雪の中で迎えました。真白に化粧した浅間山麓です。毎朝五時半、小池先輩が皆のフトンをはねのける。仲谷北村夫妻がのそのそ起きだす。まずは全員アイスホッケーの稽古。全員ステックを持ってジグザグの滑走も珍ならず。九時ごろとなれば汗びっしょり。その後の朝食のうまさったらないです。午後は裏山でスキーとソリ。四人乗りの大回転か大転倒か、立乗り、尻餅つきはまた秀逸。(後略)
(「アトリエ通信」『文学座』第9号、1960年2月)

 運動神経のよかった小池朝雄と仲谷昇はアイスホッケーにハマり、文学座内に「アイスホッケー部」を結成した。三谷も所属したのか、第10号(1960年3月)に掲載された写真は不鮮明で、はっきりとわからない。


文学座アイスホッケー部(『文学座』第10号、1960年3月)

 サークル活動が盛んとはいえ、あくまで仕事は俳優である。昭和30年代は、新劇の輝かしきころ。劇団の公演はもちろん、映画、テレビ、ラジオ出演で忙しい仲間は少なくない。「60年安保」の反対運動が高まった時代でもある。
 裏方から俳優になった三谷だが、小池朝雄、仲谷昇、神山繁、北村和夫、加藤武らに比べると、役に恵まれたわけではなかった。俳優としての道に、焦りや不安があったのか。第15号(1960年8月)では、こんな心境を綴っている。

 暑いから頭にきたんじゃねえや。良識が詭弁で断定したり、個人主義が利己主義と同義語だったりよ。短所や欠点が、ユニークとか個性的とか、いやだね全く。純粋は無智じゃ勿論ねえや。無関心、それをまた装ってよ、実際はナッシング。困るよね。神様は皮肉なもんよ。人間って奴、喰って糞ひって、乳くりあって、それだけだって並の人間の顔(ツラ)してらあ。そいつがガツガツ集って、お芸術だとくらあ。可愛いもんよ。仏頂面もしたくならあ!
(「アトリエ通信」『文学座』第15号、1960年8月)

 それでも俳優に専念したことで、舞台に立つ機会が増えていく。モリエールの『守銭奴』、三島由紀夫の『鹿鳴館』、矢代静一の『黄色と桃色の夕方』、シェイクスピアの『マクベス』、シモン・ギャンチョンの『マヤ』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などなど。本公演、アトリエ公演、学校公演の「童話劇」と忙しくも充実した日々が想像できる。

 1960(昭和35)年9月、三十代を間近に控えた三谷に、大きな試練がおとずれる。小池朝雄といっしょに自動車事故に遭った。第17号(1960年10月)に、この事故の続報が載った。
 それによると小池は先に退院し、三谷も快方に向かう。第17号には《「外科はなんでも食べられていいや」と、すっかり元気を回復しています》と三谷の状況が記されている。
 しかし、実際には重傷だった。この事故で三谷は、左目の視力をうしなってしまう。入院は9月から12月までの4か月におよび、公演もしばらく休むことになった。
 事故の翌年、第24号(1961年5月)のエッセイコーナー「楽屋口」に、傷心の想いと再起への誓いを綴った。そこには、病床で空白の手帖を見た心境が切々と明かされている。

(前略)人生において、たしかに1+1=3にも5にもなるでしょうし、100+100=0にもなるでしょう。汚れた手帖、その過ぎし日の空白に新しい生活の文字を書き入れ、書き代える事は決して出来ないし、その空白の頁をポケットにある1961年の手帖に埋める事も出来ません。新しい手帖の明日からの空白の頁は、新しい生活の文字で一頁一頁埋めて行かねばなりません。一冊のメモ帳が一年の終りで無用なれば、人生という一冊の手帖を最後の「死」という頁を閉じるまで、10+10=0、10-10=10と繰返し書き続けねばなりません。そこで僕は、その汚れた手帖をクズ籠にポンと投げ捨てました。
(「楽屋口」三谷昇「汚れた手帳」『文学座』第24号、1961年5月)


三谷昇「汚れた手帳」(『文学座』第24号、1961年5月)

 後年、たくさんのエッセイとインタビューを残した三谷だが、このときの事故について書いたり、語ったりすることは、少なかったように思う。
 エッセイ「汚れた手帳」の3か月後、第27号(1962年8月)にも文章を寄せた。のちにライフワークとなる別役実の世界を思わせる内容である。文中の《「犀」》は、1960(昭和35)年10月のアトリエ公演『犀』(イヨネスコ作、加藤新吉訳、荒川哲生演出)で当時話題になった。

 僕、ノミです。
 ノミがどんな笑声か泣声をするかご存知ないでしょう。それこそあの「犀」や象が街の中を突っ走らない限り、みなさんは驚かないでしょう。ビロウな話ですが、僕の屁を論文にして博士になった人がいます。戦争があっても、家族が生活に困ってもずっとそれを研究したそうです。軽蔑しないで下さい。あなたにとって真実だと思った行為が、深い孤独に沈んだ悲しみが、かりにも幸福だと思った想い出も、すべての人生模様は、宇宙からみれば屁みたいなものです。やがて人間の指の中で真赤に死痕を染めて死ぬんです。しかし生きてるってことはノミにとっても素晴らしいことなんです。ノミの屁のような小さなある何かのために、大きな愚忙と徒労をも合せて生きるんです。でも昔はノミの歌をよく謳ってくれたけど、今の若い人は白痴の歌しか謳ってくれません。悲しいです。
(「アトリエ通信」『文学座』第27号、1961年8月)

 俳優として復帰したのは、1961(昭和36)年9月。『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピア作、福田恆存訳・演出)で詩人シナを演じ、9月から10月にかけて、東京、横浜、京都、大阪、名古屋、静岡をまわった。
 翌1962(昭和37)年も、『守銭奴』の再演(鈴木力衛訳、岩田豊雄・戌井市郎演出、1962年10~12月)など、出演を重ねていく。この年、三谷は結婚した。


文学座公演『守銭奴』(1962年10~12月)。左より、書記の三谷昇、ブランダヴォワーヌの草野大悟、アルパゴンの三津田健、アンセルムの神山繁、ヴァレールの仲谷昇、エリーズの稲野和子、マリアーヌの伊藤幸子、クレアントの高橋昌也(『文学座五十年史』文学座、1987年4月)

 機関紙『文学座』(『文学座通信』)は、座員の素顔を伝える「アトリエ通信」のほかにも、魅力ある連載があった。エッセイ「楽屋口」「私の視点」、持ちまわりで自由に誌面を編集する「1号編集長」、プライベートな趣味を紹介する「余技談義」、「俳優による俳優論」など、どれも読みごたえがある。
 第40号(1962年9月)では、三谷が「俳優による俳優論」の書き手となった。題して「道化の顔―画家と絵と演技―」。ピカソ、モジリアニ、シャガール、ビュッフェそれぞれの作品と芸術観を通して、俳優としての自戒を文章に込めた。

 20世紀の証人、ビュッフェの「クラウンの顔」をはじめルオー、ピカソ、レジェ等、道化、ピエロ、アルルカンの作品は数多い。きらびやかな化粧のマスクの人間。それは真実をかくす偽りのヴェール、派手な衣裳は己を瞞くタキシード。哀愁も感傷も孤独の影もない。鋭い線と灰色の非情なトーン。漫画的でさえある。苦い季節の現代の断面がそこにある。悲劇と喜劇が同居し、また不滅の名優であります。彼は決して埋葬されない。多くの演劇論より、はるかにドラマを教えてくれる。
(「俳優による俳優論」三谷昇「道化の顔―画家と絵と演技―」『文学座通信』第40号、1962年9月)


三谷昇「道化の顔―画家と絵と演技―」(『文学座通信』第40号、1962年9月)

 「役者は道化である」とみずから律し、道化師(クラウン)を描き続けた人らしい文章である。機関紙への三谷の寄稿は、この第40号が最後となった。
 「道化の顔」から4か月後の1963(昭和38)年1月、文学座で最初の分裂事件が起きる。芥川比呂志、岸田今日子、小池朝雄、仲谷昇、神山繁ら中堅・若手を中心に29名の座員が脱退、福田恆存を盟主とする「劇団雲」(「現代演劇協会」附属劇団)を旗揚げした。このなかに三谷もいた。


文学座退座届(一部)(北見治一『回想の文学座』中公新書、1987年8月)

 文学座の分裂については、多くの文章と証言が残る。文学座と劇団雲、それぞれの側に言い分もある。
 三谷に関していえば、脱退を誘われた側にいて、積極的に脱退にくみし、首謀したわけではない。後年のインタビューで、みずからこう語っている。

「文学座の時代は、役者として、てんで実績なかったし、あいつは、裏方もできるからというんで誘われたんじゃないでしょうか。北村和夫さんからも、反対されたし、女房が“いったい、あなた、だれと一緒に芝居したいの?”という、ひとことで決めちゃったようなもんです」
(インタビュー「三谷昇」『悲劇喜劇』1989年2月号)

 文学座での出演歴をみると、杉村春子より芥川比呂志の存在の大きさがうかがえる。《いったい、あなた、だれと一緒に芝居したいの?》という三谷夫人の問いは鋭い。三谷の脳裏にはおそらく、芥川の顔が浮かんだのではないか。


文学座アトリエ公演『守銭奴』(1957年11月)。アルパゴン役の芥川比呂志(公演パンフレット)

 その点、杉村春子に傾倒し、文学座に残った加藤武や北村和夫の選んだ道とは異なる。脱退する側についたことは、必然でもあった。文学座から劇団雲へ。三谷昇のキャリアは“いい意味”で、大きな節目を迎えた。

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 文学座から脱退したメンバーは、脱退翌月の1963(昭和38)年2月、福田恆存と劇団雲を結成した。
 翌3月から5月にかけて、東京、横浜、京都、大阪、名古屋、神戸などで第1回公演『夏の夜の夢』(シェイクスピア作、福田恆存訳・演出)を上演した。この記念すべき舞台で、三谷昇は指物師のスナッグを演じた。


劇団雲公演『夏の夜の夢』チラシ(1963年3~5月)

 芥川比呂志を慕い、劇団雲の人となった三谷は、文学座時代に増して役に恵まれていく。雲時代の出演歴は「現代演劇協会 デジタルアーカイブ」https://onceuponatimedarts.com/に詳しい。


劇団雲公演『聖女ジャンヌ・ダーク』チラシ(1963年11月~64年1月)

 雲の時代から少しずつ、映画、テレビ、ラジオの仕事が増えていく。1960年代の出演作を見ると、チョイ役にしてはけっこう目立っている。
 フジテレビの人気ドラマを映画化した森川時久監督『若者はゆく―続若者たち―』(俳優座映画放送、1969年5月10日公開)では、「ご注文は?」としか言わないバーテンの役。ワンシーンで、アップにもならないけれど、「あ、三谷昇だ」と初見で気づく。


森川時久監督『若者はゆく―続若者たち―』(俳優座映画放送、1969年5月10日公開)。佐藤次郎役の橋本功(中央)、バーテン役の三谷昇(右)

 このころ出たラジオドラマでは、寺山修司が脚本を手がけた『放送劇 大礼服』(中部日本放送、1965年11月28日放送)がある。町を混乱に陥れる大礼服の男(芥川比呂志)以下、劇団雲の俳優が総出演し、三谷は「町の人6」を演じた。この作品は2005(平成17)年12月に『寺山修司ラジオ・ドラマ集』(キングレコード)としてCD化され、三谷の“声のキャリア”に僅かながら接することできる。
 劇団雲の旗揚げから4年後の1967 (昭和42)年12月、三谷はひとつの役に出会う。劇団雲と日生劇場(東京・日比谷)の提携公演『リア王』(シェイクスピア作、福田恆存訳・演出)で、「道化」役がきた。文学座をやめる少し前、俳優論「道化の顔」を書いた身に期せずしておとずれた役である。


日生劇場・劇団雲提携公演『リア王』(1967年12月)新聞広告(「讀賣新聞」1967年11月1日付夕刊)

 リア王に従う道化は、王の深層心理を突くようなことばかり口にする。三谷は道化を演じるにあたって、リア王役の芥川比呂志から励まされた。《「三谷、俺はな、シェークスピア劇では『リア王』に登場する道化がいちばん好きなんだ、頑張れよ」》(「インタビュー三谷昇」『映画秘宝』2013年9月号、洋泉社)。
 それからもたびたび、道化の役を演じていく。とくに知られているのが、『帰ってきたウルトラマン』第22回「この怪獣は俺が殺る」(TBS、1971年9月3日放送)である。ふんしたのは、東京・夢の島のゴミ処理場で怪獣を目撃し、行方不明になってしまうピエロ姿のサンドイッチマン。なんとも不可思議な設定(市川森一脚本)だ。


『帰ってきたウルトラマン』第22回「この怪獣は俺が殺る」(TBS、1971年9月3日放送)。サンドイッチマン役の三谷昇(『キャラクター大全 帰ってきたウルトラマン』講談社、2015年10月)

 三谷は後年のインタビューで『帰ってきたウルトラマン』に触れ、こう語った。《真の道化役との出会いになりましたね。どんなにツラい境遇のときでも道化は笑顔を絶やさない。その笑いとペーソスの二面性に惹かれるんです》(『映画秘宝』2013年9月号)。
 このころから、ピエロをはじめ道化師を好んで描くようになる。文学座の大先輩である宮口精二が編集兼発行人の雑誌『俳優館』(俳優館)は、そのひとつ。
 第2号(1970年12月)では、道化師やピエロのカットを5点描いた。第19号(1975年10月)では、「面」と題した仮面が誌面を飾った。



【上】三谷昇 カット(『俳優館』第2号、1970年12月)
【下】三谷昇 作「面」(『俳優館』第19号、1975年10月)

 1970年代に入ると、雲の公演のかたわら、映画とテレビの仕事がさらに増える。バイプレーヤーとして花を咲かせることができたのは、黒澤明、市川崑、伊丹十三もさることながら、深作欣二との出会いが大きかった。
 深作欣二監督『人斬り与太 狂犬三兄弟』(東映東京、1972年10月25日公開)では、菅原文太、田中邦衛とともに「狂犬三兄弟」のひとり、蛇を愛でる賭場荒らしのチンピラ・谷を怪演。三谷にとって、映画での代表作となる。


深作欣二監督『人斬り与太 狂犬三兄弟』(東映東京、1972年10月25日公開)。谷役の三谷昇

 1975(昭和50)年8月、芥川比呂志ら39名の俳優が現代演劇協会を脱会し、あらたに「演劇集団 円」を結成した。福田恆存ではなく、芥川についた三谷は、円の旗揚げに加わった(福田は、現代演劇協会附属の劇団雲と劇団欅を統合し、劇団昴をあらたに結成)。
 それから30年以上、77歳でフリーになるまで、三谷は円の所属として舞台に立つ。多くの別役実作品に向き合ったのも、円の時代である。


演劇集団 円〈円・こどもステージNO.17〉『帰ってきたピノッキオ』(1998年12月、両国・シアターX)。男1役の三谷昇(『別冊太陽 川本喜八郎 人形――この命あるもの』平凡社、2007年9月)

 舞台のあいまをぬって、映画、テレビ、ラジオ出演をこなした。声優、吹き替え、ドキュメンタリーのナレーションの仕事も少なくない。
 絵を愛した三谷らしい役もある。『土曜ドラマ 松本清張シリーズ 天才画の女』(NHK総合、1980年4月5日~19日放送)では、主人公の画家・降田良子(竹下景子)に影響を与える名もなき放浪画家を演じ、印象に残る。


『土曜ドラマ 松本清張シリーズ 天才画の女』第1回(NHK総合、1980年4月5日放送)。画家役の三谷昇

 俳優業のかたわら、ライフワークとして道化師をずっと描き続けた。円を離れ、フリーになった2008(平成20)年からおよそ3年間、作品の数々が『悲劇喜劇』の表紙を飾った。


三谷昇 画「道化師」(『悲劇喜劇』2009年1月号、早川書房)

 道化は三谷の自画像であり、分身であった。「気分がよくないと暗い顔になっちゃう」とインタビューで語ったこともある。『悲劇喜劇』に、自画像とそれをテーマにエッセイを寄せたことがある。

(前略)素顔を強引に仮面におしこんだり、時たま、仮面が素顔に近づこうとする時、気がつかなかったり、いつも透き間風がひゅうひゅう吹いている。仮面が高くもない鼻に引っ掛り、ゆらゆら揺れている。いつの日か、仮面と素顔がぴったり合体したら、その時こそ、カンバスに〈自画像〉を描きましょう。(中略)「眼を閉じた道化」このへんが今の私の心象風景。「自画像」と申せましょうか。
 ――智恵のない奴は、狂わぬうちに、運と諦め呑気に暮せ――〈リア王〉道化より――
(「自画像3」三谷昇「仮面と素顔の反省記」『悲劇喜劇』1988年6月号)


三谷昇 画「道化師」(『悲劇喜劇』2011年3月号)

 三谷が描く「道化の顔」に、こころ惹かれた人は多い。それは表情の魅力やにじむ哀歓もさることながら、三谷が描いてはたくさんの人に贈ったからでもある。
 河原で石を拾っては、絵の具でピエロの顔を描き、出会った人たちにプレゼントした。名づけて「道化石」。舞台で共演したスタッフ、キャストだけではなく、感銘を受けた芝居の関係者にも、「道化石」を贈った。
 公演にかかわる全員となれば、相当な数と重さになる。三谷は、キャリーバッグに「道化石」をつめ、自宅から劇場まで引っぱり、贈る相手の名前を書いたうえで、手渡した。その心づかいに励まされた後輩や若い俳優は、ひとりやふたりではない。
 「道化石」は『悲劇喜劇』の背表紙にも採用された。俳優を引退する2016(平成28)年秋まで、背表紙でちいさく、ひっそり息づいていた。


三谷昇 作「道化石」(『悲劇喜劇』2015年11月号)

 作者は亡くなったけれど、分身である道化の絵と「道化石」はあちこちに散った。いまでも大切に、手元におく人は多い。しかし、それがすべてではない。
 贈られた側の暮らしの変化、持ち主の事情により、手放し、処分されたものもある。手元にある道化師のパステル画は、三谷が某氏の結婚祝いに描き、額装して贈ったもの。それが流れ流れて、筆者のところへきた。


三谷昇 画「道化師」(1988年11月作)

 人知れず捨てられたり、別の人の手にわたった道化の顔、顔、顔。笑いとペーソスの二面性。「さもありなん」と笑う、三谷の顔が目に浮かぶ。


三谷昇 カット(『俳優館』第2号、1970年12月)

 

*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料

隅田川慕情 河原侃二


佐川唯天「著者(河原侃二)像」(河原侃二著『ヴェス単作画の実技』光大社、1936年4月)

 年賀状の季節である。自分の身に置きかえると、出す枚数と届く枚数、ともにずいぶん減ってしまった。年輩の方から、「年賀状じまい」が届くこともある。すたれゆく文化なのだろう。
 年賀状に、こころ惹かれるときもある。いまは亡き名優、名脇役が遺したものは、眺めているだけでたのしい。往年のバイプレーヤーの年賀状が手元にある。差出人は河原侃二(かわら・かんじ/1897~1974)。戦前は松竹蒲田と松竹大船作品に、戦後は大映東京の作品に数多く出演した。


河原侃二年賀状(木版、左より1952年、63年、64年)

 “脇役本”ならぬ“脇役年賀状”として、この人のものがいちばん古本市場に流れている気がする。手元にあるのは、1952(昭和27)年、1955(昭和30)年、1961(昭和36)年~70(昭和45)年、1972(昭和47)年、1973(昭和48)年の計14通。それとは別に、喪中はがき(1971年1月)が1通ある。
 1952年版は漫画家の宮尾しげを、1955年版は版画家の稲垣知雄に宛てたもの。ほかはすべて、版画家の小林松雄に宛てた年賀状である。


河原侃二年賀状(木版、左より1952年、55年、62年/一部加工)

 詩人、編集者、新劇俳優、映画俳優、写真家、版画家。多芸多才な河原には、いくつもの顔があった。手元にある年賀状は木版刷りで、本人としては腕の見せどころだった。
 干支や自画像を図柄にしたものや、凧、梅、鯛、城址、民家などバリエーションに富む。童画家の武井武雄が主宰した版画年賀状の交換会「榛の会」の会員であり、河原から届く年賀状を楽しみにした版画家仲間は多かったと思う。


河原侃二年賀状(木版、左上より右へ1955年、61年、62年、65年、66年、67年、68年、69年、70年)

 俳優としての河原侃二は、どちらかといえばマイナーである。版画家としても、とくに著名なわけではなく、作品が高値で取引されることは少ない。とはいえ、アマチュアの版画家ではない。版画家の前川千帆に師事し、日本版画研究会で3年間学んだ。
 河原版画の回顧展が開かれることもなく、いまでは現物の刷りを目にする機会はほとんどない。仲間が大切に保存した年賀状は、版画家としてのキャリアを伝える、ひとつの証になった。

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 河原侃二は、1897(明治30)年4月16日、兵庫県赤穂町に生まれた(1899年、群馬生まれとする文献もある)。「侃二」と命名したのは、漢学者の父だった。
 群馬県前橋で青春時代を過ごし、萩原朔太郎らと詩誌の発行に携わる。そののち画家を夢みて上京。本郷洋画研究所で学んだのち、女子文壇社や報知新聞社の記者をへて、新劇の世界に入った。
 築地小劇場をはじめ、劇団を転々としたすえ、大正時代末に映画俳優に転身。タカマツ・アズマプロダクションのスターとして活躍したのち、昭和に入り松竹蒲田の専属となった。
 小津安二郎の監督デビュー作『懺悔の刃』(松竹蒲田、1927年10月14日公開)のほか、松竹蒲田から松竹大船へと数多くの作品に出演。戦前の松竹現代劇に欠かせない存在となる。


吉村公三郎監督『暖流』(松竹大船、1939年12月1日公開)。田所博士役の河原侃二

 個性ゆたかなバイプレーヤーがあまたいる映画界にあって、河原侃二は地味で淡泊、枯れた佇まいの俳優だった。とくに戦後の大映東京時代は、百本超の映画に出ていながら、主役の向こうを張るような代表作が思い浮かばない。老父、医師、博士、議員、自治体の首長、校長、会社重役、親分、無名の一般人……。老け役ばかりの印象があり、それはそれで味があった。

 ポスターに名前が載らない作品、台詞のないチョイ役もある。『日本映画戦後黄金時代』第20巻「東映・大映の脇役」(日本ブックライブラリー、1978年1月)には、「大映の脇役〈男優篇〉」として33人の俳優が紹介されているが、河原侃二の名はない。出演作は多いけれど、役に恵まれたとは言いづらい。


木村恵吾監督『乾杯!東京娘』(大映東京、1952年12月17日公開)。薬局さん役の河原侃二


島耕二監督『宇宙人東京に現わる』(大映東京、1956年1月29日公開)。左3人目より磯辺徹役の川崎敬三、小林芳雄役の見明凡太朗、高島博士役の河原侃二、松田英輔役の山形勲

 昨年、大映創立80年を記念して、「ラピュタ阿佐ヶ谷」で特集「大映映画を支えたバイプレーヤーたち」(2022年10月16日~12月17日)が開催された。ユニークなこの特集上映では、映画俳優・河原侃二の戦後のキャリアを垣間見ることができた。
 増村保造監督『ぐれん隊純情派』(大映東京、1963年7月27日公開)を皮切りに、吉村公三郎監督『一粒の麦』(同、1958年9月16日公開)、島耕二監督『無茶な奴』(同、1964年7月4日公開)など、出演作が何本か上映された。“大映映画を支えたバイプレーヤー”のひとりに数えていい。


島耕二監督『無茶な奴』(大映東京、1964年7月4日公開)。左よりジャリ組合幹部役の宮島健一、河原侃二、谷謙一

 この特集では、最終週に上映された弓削太郎監督『高校生芸者』(大映東京、1968年9月21日公開)が印象ぶかい。河原侃二の出演作としては、最晩年の仕事にあたる。
 演じたのは、ヒロインのたみ子(水木正子)が通う高校の校長(役名は「沼田老校長」)。富田仲次郎の教頭、小笠原良智の教師、山茶花究のPTA会長に比べると見せ場に乏しく、顔のアップもない。それでも、芸者と高校生を両立させるヒロインを苦々しく思う、いかにも実直な校長先生の雰囲気はよく出ていた。


弓削太郎監督『高校生芸者』(大映東京、1968年9月21日公開)プレスシート(部分拡大)。左から2人目に河原侃二の名がある(ラピュタ阿佐ヶ谷、2022年12月)

 1971(昭和46)年12月、大映は倒産する。専属俳優(契約男優)の河原が、具体的にいつまで俳優を続けたのか、よくわからない。『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』(キネマ旬報社、1996年10月)に「河原侃二」の項目はあるものの、顔写真や没年月日(詳しくは後述)の掲載はない。
 河原侃二は、前々から気になる俳優で、『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)にすこし触れた。取り上げた“脇役本”は、河原侃二著『ヴェス単作画の実技(奥付は『ヴエス單作畫の實技』)』(光大社、1936年4月)。


河原侃二著『ヴェス単作画の実技』(光大社、1936年4月)函と総扉

 「ヴェス単(ベス単)」は、アメリカの小型カメラ「ヴェスト・ポケット・コダック」(Vest Pocket Kodak)のことで、単玉レンズに由来して呼ばれた。「ライカ」にくらべると安く、大衆向けのカメラとして人気を得た。
 『ヴェス単作画の実技』は愛好家に向けた撮影と引き伸ばしの技術書で、当時の「ヴェス単」人気を受けて刊行された。450ページを超える労作で、参考図版として河原の作品がいくつかおさめられている。写真家としてのキャリアを知る、得がたい一冊である。



【上】河原侃二「雪のアパート」(『ヴェス単作画の実技』)
【下】同「豆ランプの静物」(同)

 河原は「ヴェス単の名手」であり、撮影と引き伸ばしの達人として、愛好家のあいだでよく知られていた。松竹の専属俳優のかたわら、東京でヴェス単の会を主宰し、『カメラ』『フオトタイムス』『藝術寫眞研究』といった専門誌に作品を寄せ、撮影・引き伸ばし術を寄稿した。当時のヴェス単仲間は、こうふりかえる。

(前略)築地小劇場を経て、松竹の蒲田撮影所に入所され、当時の人気俳優、鈴木伝明の名脇役として名声を博しました。このため、その頃河原さんと撮影旅行に赴きますと、車中や路上で「あ、河原だ、松竹の人だ」と囁くのが聞かれました。写真歴に就いては、余りにも知り尽くされておりますから、割愛しますが、河原さんが写壇に頭角を現わし始めたのも、確かこの頃かと記憶しております。(後略)
(元橋源三郎「河原さんを憶う」写真集『光大』第3巻第1号、渡辺淳、1974年4月)

 部屋の本棚から『フオトタイムス』(フオトタイムス社)1934(昭和9)年2月号を引っぱり出すと、目次に河原侃二の名が2か所あった(五所平之助の名もある)。この号を読むだけで、当時の写真界での河原の立ち位置がわかる。


『フオトタイムス』(フオトタイムス社)1934(昭和9)年2月号目次(部分拡大)

 ひとつはグラビアの「口繪寫眞」で、タイトルは「敷島村」。上越線の敷島駅(群馬県渋川市)に続く坂道をくだる竹馬の少年ともうひとりを捉えた。左手前に自転車、駅には国旗が掲げられ、左奥には榛名山が見える。


河原侃二「敷島村」(『フオトタイムス』1934年2月号)

 もうひとつは「特輯 趣味と實際」のページで、8ページに及ぶ論考「ブロマイド印畫部分減力」を寄せた。その参考図版(無題)として、河原が撮影した風景が載る。水道橋と御茶ノ水のあいだ、省線沿いの坂道(さいかち坂)を写したもので、少年と子守りの女性がいる。モダンな都市風景を切り取っても、そこはかとなく哀愁をおびる。


河原侃二「無題」(『フオトタイムス』1934年2月号)


神田駿河台「さいかち坂」(東京都千代田区、2023年1月)

 今回のブログで河原侃二を取り上げたのには、わけがある。昨年12月、都内で開かれた写真展で、写真家としての河原に偶然出会ったからだ。本間鉄雄作品展「情趣とモダン」(JCIIフォトサロン+JCIIクラブ25、2022年11月29日~12月25日)がそれである。


本間鉄雄作品展「情趣とモダン」会場外(日本カメラ博物館、2022年12月)

 本間鉄雄(ほんま・かねお/1908~1990)は、自然や都市風景、静物をモチーフにした作品を得意とした。20代から最晩年まで、写真家として精力的に活動した。
 作品展「情趣とモダン」で展示されたのは「故河原侃二氏」。1941(昭和16)年9月16日から20日まで、日本橋室町の「小西六ギャラリー」で開かれた「ヴェス単展」での一枚(オリジナルプリント)である。本間は戦前、小西六本店(現・コニカミノルタ)に勤めていた。
 名画座で見かけても驚かないけれど、何気なく出かけた写真展で河原の肖像が、それも大きく飾られているのを見て驚いた。なにより、うれしかった。物思いにふけった表情がまたいい。


本間鉄雄「故河原侃二氏」(本間鉄雄作品展「情趣とモダン」図録)と同展DM

 本間は若いころ、身近な被写体を扱う河原の写真に刺激を受け、写真家としての学びにした。それが縁でふたりは、親交を深めていく。その交友は終生のものとなり、本間は河原の死を見届けることになる。

(前略)本職の映画俳優としてよりも写真家としての方が人気が高かったくらいで、ベス単写真全盛時代が河原さんの人生の全盛期でもあったと思います。
 アレコレ考えてみると、河原さんはベス単作画の歴史と共に生きた人だといえるでしょう。演劇、文学、写真、版画と趣味のレパートリーも広く、私たちの仲間としては又とないユニークな存在でした。酒はきらいで甘いものと煙草が大好き、野良猫を愛していつも十匹ぐらい飼っていたのも彼の人柄を物語る特徴でした。(後略)
(本間鉄雄「春を待たずに逝く」『光大』第3巻第1号)

 河原侃二と本間鉄雄が参加した雑誌に、『藝術寫眞研究』がある。発行元や発行形態は何度か変わったものの、1920年代から半世紀以上続いた、歴史ある同人写真雑誌である。


『藝術寫眞研究』(光大社)1964(昭和39)年10月号(表紙 石井鶴三)

 手元にある『藝術寫眞研究』(光大社)1964(昭和39)年10月号では、本間がフォトエッセイ「北郊の今昔 東上線成増赤塚附近の風物」を寄せた。河原は埼玉県柳瀬川畔の風景(1962年11月撮影)を一点載せ、「午後のすすき野」と題した。
 版画と写真、それぞれ魅力的な作品を残した河原だが、文章もいい。学生時代、群馬で萩原朔太郎らと詩誌を出した文学青年である。「午後のすすき野」のみじかい解説からも、その文才がうかがえる。


河原侃二「午後のすすき野」(『藝術寫眞研究』1964年10月号

芒原の小径を子供達が一列に、笑いさざめきながらゆくとゆう、何の変哲もない作品だが、この子供達の中に、自分の少年時代の郷愁を見出すと共に、前景の畑を照らした斜陽の、夕方近い弱い光にも惹かれ、思わずシヤツターを切つた。(後略)
河原侃二「午後のすすき野」

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 『脇役本 増補文庫版』を出したあとに手に入れた、“河原侃二本”がある。木下謙吉著『歌集 うつし繪』(白玉書房、1964年1月)。河原の著書ではないけれど、版画と写真と文章、それぞれの作風と人となりがわかる“脇役本”の逸品である。


木下謙吉著『歌集 うつし繪』(白玉書房、1964年1月)

 歌人の木下謙吉と河原侃二の関係は古い。ふたりの出会いは大正の初め、萩原朔太郎が顧問格となった同人誌『侏儒』が前橋で創刊される少し前のこと。
 それからおよそ半世紀後、木下が歌集を出すことになり、久しぶりに河原のもとを訪ねた。河原は、木下の歌にあわせた風景写真を本書のために撮影(8点掲載)し、跋文を寄せた。『歌集 うつし繪』の「あとがき」に、その経緯が明かされている。

(前略)歌はれた情景とマッチし、歌からうけるイメージをより強くしてくれる繪畫、或は寫眞を挿入して一冊にまとめたらと思ひついたのである、幸にして私の初期の友人河原侃二氏が、繪畫から版畫、寫眞と永年研究をつづけて居られ、現在日本版畫協會々員であり、「藝術寫眞研究」の同人であることを知り、一日同氏をたづねて歌集上梓についての協力を願つたところ快諾して下さつた、河原氏の業績はかねてから知つてゐたので、約五十年ぶりで逢つた人とは思へぬ親しさて、舊交をあたためることになつた。(後略)
(木下謙吉「あとがき」『歌集 うつし繪』白玉書房、1964年1月)


河原侃二「相生橋々畔」。中央は木下謙吉(1963年11月、『歌集 うつし繪』)

 歌と写真のコラボレーション。一例を挙げると、こんな感じである。

しみじみと洲崎の土手に汐風の音をきき居ればさびしもよ君
(前掲書)


河原侃二「南海橋」(1963年11月、前掲書)

 河原が撮影した「南海橋」は、汐浜運河にかかる「南開橋」(東京都江東区)のこと。洲崎弁天町から埋立地の汐崎町へ通じる橋で、当時の橋は架け替えられたものの、写真右側に写る「南開橋第一児童遊園」はいまも変わらない。


南開橋と南開橋第一児童遊園(東京都江東区、2022年12月)

 『歌集 うつし繪』には写真とともにもうひとつ、ぜいたくな趣向がある。総扉うしろに貼り込んだオリジナルの木版画である。印刷ではなく、河原がみずから摺った創作版画(自画自刻自摺)で、一冊ずつていねいに貼られている。初版数千部の商業出版ではなく、数百冊の少部数だったため実現できた。


河原侃二「前橋市小出河原」(木版、1963年、『歌集 うつし繪』)

 版画のキャプションには、《前橋市小出河原(現在敷島公園)から赤城山を見る》とある。この歌集のため河原は、木下らと赤城山へ撮影に出かけた。同行した川浦三四郎(詩誌『果實』同人)が、「手摺り版画を一枚入れて貰いなさい。和紙手摺りの版画はなかなかいいものだ」と木下に提案した。
 木下はすぐ乗り気になり、河原の手摺り版画が歌集の冒頭を飾ることになる。写真だけではなく、版画まで頼まれた河原は、跋文でこう明かす。

(前略)――勿論歌集に版畫挿入は悪くないだらうが、黒白小版畫には自信がない。黒白だけでサイズが小さいから簡單だと考へるのは門外漢で、版畫の極致は黒白版畫といはれるくらゐ、單純ゆゑに六ケしいのである。殊に小版畫に纏めようとするに於てをやである。(中略)
展覧會出品の大きなサイズの多色摺りばかりやつてゐたのでこの小版畫製作には些か参つた。殊に數百枚の手摺りと來ては摺師が専門でないから、まさに重勞働だつた。作品の巧拙は二の次にして この努力だけは買つていただきたい。
(河原侃二「跋」前掲書)


河原侃二「跋」(『歌集 うつし繪』)

 取材中の思いつきとはいえ、版画家としては中途半端な作品は作れない。その出来栄えは魅力ある版画風景であり、額装して自宅に飾りたくなる。
 著者の木下は、愛情のこもった河原の版画を誰よりも喜んだ。「あとがき」には、《河原氏手ずりの版畫をもつてこの集をかざり得たことは、歌集としても一異彩を放つもので、同氏のなみなみならぬご厚意に深く感謝の意を表する》とある。
 河原は、ほうぼうを出歩き、出会った風景を写真と版画にすることを愛した。俳優稼業にどれほどやりがいを感じていたかわからないけれど、写真と版画に関しては晩年まで熱心に創作を続けた。


河原侃二「深川佐賀町」(1963年1月、『歌集 うつし繪』)

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 河原侃二は大映の専属俳優(契約男優)として、1960年代末まで大映東京作品に出演した。そのキャリアは、1970年代に入ると途絶えてしまう。


1960年代の河原侃二(『第30回版画展』日本版画協会、1962年)

 1971(昭和46)年12月に大映が倒産したのち、別の映画会社やプロダクションに所属し、映画やテレビドラマに出た形跡はない。すでに高齢だったこともあり、大映の終焉とともに俳優を引退したと思われる。
 大映の倒産と日本映画の斜陽は、大正末期からのべテランにとって、さびしかったはずである。それ以上に切実だったのは、妻の死だったかもしれない。
 1970(昭和45)年、大映倒産の前年に、河原は妻を亡くす。子どもはいなかったようで、新中野(東京都中野区)の路地裏にあった自宅で、大好きな猫とともにひとり暮らした。


手前右が河原侃二自宅跡(東京都中野区、2022年12月)

 版画家の小林松雄と続けた年賀状のやりとりも、1971(昭和46)年は欠礼し、1月13日に直筆の喪中はがきを出した。受け取った小林は、年賀状とともに、そのはがきを大事に保存した。

喪中なので賀状遠慮させていたゞきました。
去年中に喪中挨拶を出して置かなかったため沢山の賀状をいただき、今頃になって少しずつ弁解の御挨拶を出しているような始末、葬式の続きのようなあわたゞしい毎日を送っています。早く落着ける日が来て版画制作に精進したいと思います。
右おそまき乍ら お詫びまで、  草々


小林松雄宛て河原侃二はがき(1971年1月)

 妻を弔い、俳優を引退し、猫とともにひとり余生を送る。役にあまり恵まれなかった老優のわびしさ、と書けなくもない。
 ただ、河原には写真と版画があり、ともに語らえる仲間がいた。小林松雄に宛てたはがきには、《早く落着ける日が来て版画制作に精進したい》と書いている。
 1972(昭和47)年春には、東京都美術館で開かれる恒例の版画展(第40回 日本版画協会版画展)に出品した。同展の出品目録によると『禱りの絵馬』という題で、作品の前に立つ河原の姿が写真に残る。


第40回 日本版画協会版画展会場での河原侃二(写真集『光大』第3巻第1号、渡辺淳、1974年4月)

 木版の年賀状も出した。小林松雄に宛てた、1972(昭和47)年と73(昭和48)年のものが残る。どちらも色あざやかな図柄で、版画家としての創作意欲を失っていないことがわかる。


河原侃二年賀状(木版、左より1972年、73年)

 河原侃二の年賀状は、1973(昭和48)年が最後となった。この年、持病が再発し半身不随となる。暮れには、写真家仲間が自宅に引き取り、看病することもあった。
 河原の最期は、決して孤独で、さびしいものではなかった。渋谷区松濤のセントラル病院に入院できたのは、写真家仲間の奔走があったからである。亡くなる3日前には、本間鉄雄ら3人の写真家が病床を見舞った。3人は河原の名を呼び、意識がもうろうとするその人の手を握った。
 1974(昭和49)年1月26日の早朝、河原侃二はセントラル病院で息を引き取った。翌27日、荼毘に付され、2月2日、新中野の自宅で告別式が営まれた。

 河原侃二と本間鉄雄は、『藝術寫眞研究』の流れをくむ「桐畑会」に属し、同会が発行した写真集『光大』の同人となった(編集兼発行者は渡辺淳)。
 その第3巻第1号(1974年4月1日発行)にて「追悼・河原侃二氏」が組まれた。本間ら4人の同人が追悼文を寄せ、同人の山本美峯が歌を捧げた。

 残雪
残雪の露地に巨体の棺着く
猫の居て枇杷の芽どきの葬かなし
且つて師の座れるところ雪残る
冷えし脚読経に合せ踏み続く
今年獲る枇杷は何処に贈わらん
枇杷の芽や旧友集い葬半ば
霜置きしひげの真中は茶に染みし
(山本美峯「憶 河原先輩」『光大』第3巻第1号)


写真集『光大』第3巻第1号(1974年4月1日発行)

 河原が息を引き取る数日前、東京に雪が積もった。路地裏にあった自宅には雪が残り、枇杷が芽吹いていた。河原を慕い続けた本間鉄雄は、故人との別れを綴った。

(前略)河原さんの遺体と最後の対面をした時、彼の顔はやや桜色を帯びて透きとおるように美しい肌色で、幼な子がスヤスヤ眠っているような穏やかな表情でした。伸びかけた不精ヒゲも思いなしか、彼が日ごろ可愛がった猫の毛のようにやわらかく暖かそうな感じだったのも印象的でした。そばにいた雑賀さん(桐畑会同人の雑賀進)が「さすが俳優だネ、死んでもキレイな顔だナ」とだれにともなくいいました。河原さんについての生前のいろいろな思い出と、あのキレイな死に顔を私も終生忘れることができないだろうと思います。
(本間鉄雄「春を待たずに逝く」前掲書)

 『光大』の「追悼・河原侃二氏」は、5ページに満たない小特集ながら、心のこもった誌面となった。
 いっぽうで映画界やメディアは、ひとりの老優の死を取り上げなかった。先述したキネマ旬報社の『日本映画人名事典 男優篇』では、消息不明の扱いを受けている。『光大』の追悼特集は、河原の最期のときを伝える数少ない文献となった。

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 先述した木下謙吉の『歌集 うつし繪』の跋文に、河原侃二は《展覧會出品の大きなサイズの多色摺りばかりやつてゐた》と書いた。そんな河原の木版画を、一枚だけ持っている。
 題は『隅田川雨情』。1962(昭和37)年6月の作品で、サイズは26.5cm×42.2cm、額装するとけっこう大きい。好きでときどき通っていた創作版画専門店「輝開」(東京・赤坂)が閉店することになり、お別れにこの版画を買い求めた。


河原侃二『隅田川雨情』(木版、1962年6月)

 『隅田川雨情』は、日本橋浜町と深川をつなぐ「新大橋」(東京都江東区)を描いたもの。河原は、1912(明治45)年に架橋された新大橋を訪れ、清洲橋側の風景をスケッチしたのだろう。雨模様の隅田川はさびしげで、でも、見る人を冷たくさせない。
 日本版画協会の第30回「版画展」(東京都美術館、1962年4月1~19日)に河原は、『隅田川雨情』と同じモチーフの木版『隅田川』を出品している。同展の図録に、モノクロではあるが図版が掲載されている。


河原侃二『隅田川』(木版、1962年/『第30回版画展』日本版画協会、1962年)

 新大橋は、河原が亡くなる1974(昭和49)年に役目を終え、3年後に現在の橋に架け替えられた。橋のたもとの「新大橋東詰公園」には旧橋の親柱が保存され、河原が描いた柵の一部が公園の柵となり、第二の人生を送っている。


新大橋東詰公園(江東区)。旧新大橋の親柱と柵(2022年12月)

 

*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料