脇役本

増補Web版

かもめは7羽 中条静夫 嶋田親一の証言と資料に拠る⑤


『土曜劇場 6羽のかもめ』より清水部長役の中条静夫(『サンデー毎日』1975年2月16日号、毎日新聞社)


 前回のブログ「花嫁の父 有島一郎」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/11/06/202318に、有島が出演したフジテレビドラマ『土曜劇場 6羽のかもめ』第10回「花嫁の父」(1974年12月7日放送)のエピソードを書いた(倉本聰脚本、大野三郎演出)。
 黒岩伸吉(郷鍈治)と松平冬子(泉晶子)、人気スターどうしの婚約が、マスコミの大きな話題となる。ところが、冬子の父・松平公介(有島一郎)の猛反対で破談に。婚約発表記事の写真に、「黒岩伸吉、一人おいて松平冬子」と書かれたのが原因だった。
 公介はある夜、劇団「かもめ座」マネージャーの川南弁三(加東大介)に、「一人おいて」と書かれたつらい胸の内を語る。有島一郎と加東大介、名優ふたりのやりとりがユーモラスにして哀しい。


大野三郎演出『6羽のかもめ』第10回「花嫁の父」(フジテレビ、1974年12月7日放送)。左より松平公介役の有島一郎、川南弁三役の加東大介

 シーンはここで変わる。ところは東洋テレビ編成局第2制作部。弁三(加東)から、事の真相を聞かされた面々がそこに居並ぶ。第2制作部の清水正義部長(中条静夫)、課長の矢口(矢田稔)、プロデューサーの日高(斎藤晴彦)、ディレクターの大木(北浦昭義)、黒岩伸吉のマネージャー木田(柳生博)。
 「一人おいて」と写真に書かれた公介に、清水部長は深い同情を寄せる。歌謡協会賞の受賞式に出席したさい、まったくおなじ扱いを受けたからだ。以下は、倉本聰のシナリオからの引用である(「八代さん」は八代亜紀のこと)。

部長「ほかの写真はまだ許せるよ君!
許せないのは毎朝スポーツだよ!」
課長「何か」
部長「(手で空に図解)右はじの八代さん写ってなくてキミ、一番右が僕、その左が百恵ちゃん。その左が中条きよし。ネッ」
課長「ハア」
部長「“写真左から中条きよし、山口百恵”こうかかれるならわかりますよ」
一同「ハイ」
部長「それをあろうことかあるまいことか、“写真! 右から一人おいて山口百恵、中条きよし”」
一同。
部長「これはないでしょう!? そう思わない?」
一同「――ハア(それはひどい!)」
部長「だったらもともとトリミングして、僕のとこ入れなきゃいいじゃないの!」
一同「ハア」
部長「何でわざわざ入れといてから、その上で右から一人おくのよォ!」
一同「ハア」
部長「僕にだって立場ってものがあるでしょう。ねえ!!」
一同「ハイ!!」
間。
部長「わかるんだなァ。松平さんのおやじさんの気持!!」
(倉本聰「花嫁の父」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』理論社、1983年1月)


『6羽のかもめ』「花嫁の父」。左より清水部長役の中条静夫、矢口課長役の矢田稔
 
 ひとり息巻く清水を、カメラは中条静夫の連続アップで捉える。3人の部下と2人のマネージャーはうまく調子を合わせている。とぼけた芝居で見せる、組織の上下関係がおかしい。
 ストーリーはこのあと、清水の思いつきで、もうひと波乱起こる。「花嫁の父」である公介を、さらに哀しく追い込んでしまう。二段落ち、三段落ちの展開を用意する倉本聰のシナリオ、さすがである。

 

   2022(令和4)年7月9日、90歳で亡くなられた演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さん。今回も、13回に及ぶオーラルヒストリーと旧蔵資料を通して、ともに仕事をした俳優のあれこれを紹介する。
 佐々木孝丸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25、市村俊幸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11、河内桃子https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/10/02、有島一郎に続く5人目は、中条静夫(ちゅうじょう・しずお/1926~1994)を取り上げたい。
 嶋田親一と中条静夫といえば、先に述べた『6羽のかもめ』に尽きる。プロデューサーをつとめた嶋田さんの代表作にして、1970年代の名作ドラマである。


『6羽のかもめ』タイトルバック

 映像が失われた当時のスタジオドラマも多いなか、『6羽のかもめ』は幸運なケースをたどる。全26話すべての映像が残り、2009(平成21)年2月には、フジテレビ開局50周年記念でDVD化された。原案と脚本を手がけた倉本聰のシナリオは単行本化され、いまでも読める。


左より倉本聰著『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』(理論社、1983年1月)、同『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』(ペップ出版、1978年7月)、『6羽のかもめ』DVDボックス(ポニーキャニオン、2009年2月)
 
 嶋田さん自身、「6羽」を終生愛した。聞き取りの席でもよく話題に出たけれど、その中心にいるのは、倉本聰と中条静夫のふたりだった。
 嶋田さんから生前お預かりした資料のなかに、『6羽のかもめ』に関するスクラップブックがある。主演の淡島千景や高橋英樹より、中条の関連記事のほうが多いことに驚いた。
 

嶋田親一旧蔵『6羽のかもめ』スクラップブック(1975年頃)
 
 映画、テレビの一バイプレーヤーに過ぎなかった中条は、『6羽のかもめ』でブレイクする。それを裏づける放送史文献がある。

●6羽のかもめ
(前略)一時は数百人も団員がいた劇団「かもめ座」は、いまは座長も含めわずか6人。この6人の純粋さと、生活の無知から生まれる現実とのギャップ、笑いとペーソスをテレビ界の内幕を交えながら描く。原案・倉本聰。演出・富永卓二。出演・淡島千景、高橋英樹、加東大介、長門裕之、中条静夫ほか。これまで鳴かず飛ばずだった中条の、きまじめな中に何ともいえないユーモアを感じさせる演技が注目された。(後略)
(南利明編『放送史事典』学友会センター、1992年4月)

 「6羽」の夏純子と栗田ひろみが「ほか」とされ、中条静夫が入っている。同事典を読むかぎり、あと12文字余白があるので、長門裕之の後ろを《、夏純子、栗田ひろみ、中条静夫》にすればよかったのに。これでは「二人おいて、中条静夫」である。

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 中条静夫(本名・静雄)は、1926(大正15)年3月30日、静岡で生まれた。東京・八王子に移ったのち、戦時下と学生時代が重なり、1943(昭和18)年、東京府立第二商業高等学校を繰り上げ卒業する。
 陸軍に召集(二等兵)され、敗戦後まもなく神戸製鋼に入社する。しかしサラリーマンに飽き足らず、「スターになって、金もうけがしたい」と会社を辞めた。1948(昭和23)年、大映のニューフェイス第4期生として、大映東京撮影所に入った。
 昭和20~30年代の日本映画全盛期、脇役・端役として数多くの大映現代劇に出た。昭和50年代の『キネマ旬報』の人気連載「ニッポン個性派時代」に登場し、当時の思い出を語っている(インタビュアーは藤田真男)。

「いつでも申し上げるんですが、ぼくは通行人やっていても、辛いとか寂しいとか焦りとかは、ちっともなかったですよ。やっぱり楽しい時代でしたよ。実際にはスターになれなかったけれども、セットの隅では女優さんを集めてコメディ・スターでしたから。はっは」
(「ニッポン個性派時代22 中条静夫」『キネマ旬報』1978年8月下旬号、キネマ旬報社)


中条静夫(「ニッポン個性派時代22 中条静夫」『キネマ旬報』1978年8月下旬号、キネマ旬報社)

 中条は、みずからの大映時代をふりかえるさい、好んで「通行人」と称した。そこには多少のテレが込められている。昭和20年代は通行人のような端役もこなしたものの、昭和30年代の出演作には見せ場のある役柄も少なくない。


市川崑監督『野火』(大映東京、1959年11月3日公開)。左より星ひかる、中条静夫、船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス、佐野浅夫

 小西康陽責任編集『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。 大映映画スチール写真集』(DU BOOKS、2018年7月)に、井上梅次監督『黒蜥蜴』(大映東京、1962年3月14日公開)のスチールがある。京マチ子、川口浩、叶順子、大木実、杉田康、緋桜陽子とともに、松吉役の中条の顔が印象的に写っている。大映映画を代表する、バイプレーヤーのひとりだった。


井上梅次監督『黒蜥蜴』(大映東京、1962年3月14日公開)スチール。写真上左より緋桜陽子、杉田康、川口浩、大木実、叶順子、中条静夫、下に京マチ子(『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。 大映映画スチール写真集』DU BOOKS、2018年7月)

 昭和40年代に入ると、銀幕からブラウン管へと活躍の場を移していく。大映テレビ室制作の『ザ・ガードマン』(TBS、1965年4月9日~71年12月24日放送)では、「東京パトロール」の小森隊員役で初回(シリーズ初期は『東京警備指令 ザ・ガードマン』)から最終回まで出演した。宇津井健、神山繁、稲葉義男、川津祐介、倉石功、藤巻潤とともに7人のメインキャストのひとりとして、お茶の間に知られる顔となった。


TBSテレビ『ザ・ガードマン』オープニングより小森隊員役の中条静夫(1966年)

 『ザ・ガードマン』で演じた小森隊員は、喜怒哀楽に乏しく、どちらかといえば無口なキャラクターである。束ね役の高倉キャップ(宇津井)や片腕の榊隊員(神山)、フレッシュ枠の清水隊員(藤巻)や杉井隊員(倉石)にくらべると印象は薄い。それでも、ユーモラスでとぼけた一面をのぞかせ、小森隊員が活躍するエピソードは少なくない。


『ザ・ガードマン』第57回「危険を買う男」(TBS、1966年5月6日放送)。左より宇津井健、中条静夫、倉石功、藤巻潤、神山繁

 映画に愛着のあった中条は、テレビ映画『ザ・ガードマン』のオファーに当初、がっかりした。根っからの“映画人”としては、それが素直な気持ちだった。「ニッポン個性派時代」に、その話が出てくる。

「ガードマンで役がついたわけでしょ。でも、TVに出てくれといわれた時にはね、映画俳優としてはもうダメなのかなァ、とガッカリしましたよ。通行人ばかりやっていながらですよ。それが大当りに当りましてねェ。やる気になりますわね。単純なんですよ。まァ、私に青春という時代があるとすれば、その時代でしょうな。あんまり若い青春じゃないけど」
(「ニッポン個性派時代22 中条静夫」)

 1971(昭和46)年に大映が倒産し、『ザ・ガードマン』もこの年、放送350回を節目に終了した。大映ひとすじの役者人生は、ここからセカンドステージを迎える。
 中条は、大映テレビ室のプロデューサー・野添和子(野添ひとみと姉妹)の口利きで、福田恆存ひきいる「劇団欅」に入団する。1973(昭和48)年6~7月には、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』(福田恆存訳・演出)が上演され、中条がヴェニス王を演じた。


劇団欅 第9回公演『ヴェニスの商人』広告(『悲劇喜劇』1973年6月号、早川書房)

 この舞台の初日、観客のひとりが「ザ・ガードマンだ!」と声を出し、耳にした中条は動揺してしまう。出来すぎた話に思えるけれど、「キネ旬」の連載で中条本人がそう語っている。
 それからしばらくは、劇団欅に所属しながらテレビの仕事を増やしていく。現代劇から時代劇、ホームドラマから刑事ドラマ、特撮ヒーローモノから時代劇、悪役から善人、一般庶民から社会的地位の高い人物まで、いろいろな役をやった。


『非情のライセンス』第1シリーズ第26回「兇悪の番外地」(NET、1973年9月27日放送)。左より矢部警視役の山村聰、大曽根役の中条静夫

 『6羽のかもめ』がスタートしたのは、ちょうどこのころ。劇団欅の『ヴェニスの商人』の翌年、1974(昭和49)年10月である。
 この時期まで、嶋田親一と中条静夫のあいだに接点はない。そもそも嶋田さんは、『ザ・ガードマン』を見ておらず、「中条静夫」という俳優を意識していなかった。

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 1959(昭和34)年3月のフジテレビ開局時から、嶋田さんはプロデューサー兼ディレクターとして、たくさんのスタジオドラマを演出した(前回ブログ「花嫁の父 有島一郎」参照)。
 1967(昭和42)年8月、人事異動で編成局編成部勤務を命じられ、特別職(副部長待遇)となる。ここでテレビドラマの演出に別れを告げ、プロデューサーとして番組の企画・編成に携わるようになる。
 1971(昭和46)年、フジテレビが制作部門の切り離し(外部プロダクション化)を断行する。「フジ・ポニー」「ワイドプロモーション」「フジプロダクション」「新制作」の4つの新会社が生まれ、嶋田さんは新制作のトップとなる。
 新制作では、ドキュメンタリーやトーク番組の企画・制作が主となり、ドラマづくりの現場からしばらく離れた。そして3年後、脚本家の倉本聰を迎えたスタジオドラマの企画が持ちあがる。
 1974(昭和49)年の『大河ドラマ 勝海舟』(NHK総合、1974年1月6日~12月29日放送)の脚本を手がけた倉本聰は、制作サイドとトラブルになり降板する。傷心の倉本が東京を離れ、北海道に姿を消したことは、よく知られている。


倉本聰(倉本聰著『さらば、テレビジョン』冬樹社、1978年7月)

 倉本の立場を慮った嶋田さんは、新制作の金庫から50万円を用立てた。その50万円を部下の中村敏夫(のちに『北の国から』をプロデュース)が、北海道まで倉本に届けた。その旅に同行したのが、淡島千景や高橋英樹のマネジメントをする垣内健二で、2人の北海道行きが、倉本ドラマの企画へとつながる。これが、『6羽のかもめ』の誕生秘話である。
 この前後のいきさつは、倉本聰があちこちで語り、また書き残している。嶋田さんいわく、そこには“脚色”が施されているそうだが、中条静夫の話からそれるので、ここでは触れない。
 嶋田さんの旧蔵資料のなかに、『企画書 土曜劇場 かもめ座物語(仮)』がある。「49.7.18」(1974年7月18日)と印刷され、この時点で倉本は『勝海舟』の脚本を降りていなかったと思われる。垣内健二は、早い段階から淡島千景と高橋英樹出演の倉本ドラマを考えていたのだろう。すでに倉本はフジテレビで、高橋主演の『ぶらり信兵衛道場破り』(1973年10月4日~74年9月26日放送)の脚本を手がけていた。


『企画書 土曜劇場 かもめ座物語(仮)』(フジテレビ、1974年7月18日)

 嶋田さんの当時のスケジュール帳には、1974(昭和49)7月12日の夜、《垣内、白川、富永、倉本聰 『私はかもめ』打合せ(幸本)》とメモが残されている。白川はフジテレビ編成部の白川文造で、『ぶらり信兵衛道場破り』のプロデューサーをつとめた。「幸本」は会合場所で、東京・神楽坂にあった料亭である。
 制作サイドと倉本聰は、どういうドラマを目ざしたのか。放送枠は毎週土曜日22時から22時55分までの「土曜劇場」で、企画書『かもめ座物語(仮)』には、「企画意図」としてこう述べられている。

 広い意味のコメディと言えるかも分りません。つまり、ドタバタコメディではなくて、ビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』や、ウイリアム・ワイラーの『ローマの休日』をコメディと称する範囲内でのコメディを狙いたいということです。
 土曜の夜10時、という時間で、大人の観客が感じる面白さは、ドタバタやオーバーな演技や脚本から生れるのではなく、シリアスな演技、真面目で真剣な演技と、それを計算した脚本から生れるのだと、我々は考えています。そのような制作意図を本造り、演出、演技のすべてに貫徹させたいと思います。
(『企画書 土曜劇場 かもめ座物語(仮)』)

 倉本聰の起用については、《彼はここ数年間、物の怪につかれたように、傑作を書きつづけています。現在NHKで放映中の『勝海舟』はご存知のように快調ですし》(前掲書)とある。こうして生まれた新ドラマの企画に、“ドラマ屋・嶋田親一”の血は沸き立つ。

倉本から「かもめ座」のプロットがあがってきたときは感動しましたね。最初は「芸能界を舞台にしたホームドラマ」という話で、「ちょっと弱いな。かったるいな」と感じていたんです。それがいつの間にか、『6羽のかもめ』の話になっていく。だんだんホンが出来上がってきて、こちらも肚をくくりました。自分のいるテレビ業界の話をやるのは、神経を使いますから。
(嶋田親一第11回聞き取り)

 『6羽のかもめ』の制作著作はフジテレビ、制作協力は新制作(両社ともタイトルバックにクレジットなし)。原案が倉本聰、プロデューサーが嶋田親一と垣内健二、演出は新制作の富永卓二と大野三郎が交代で担う。音楽は深町純、主題歌の『かもめ挽歌』は、倉本聰の原案をもとにした加藤登紀子のオリジナル(作詞・作曲・唄)である。


加藤登紀子『かもめ挽歌』(ポリドールレコード、1974年)

 1983(昭和58)年1月に刊行された『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』(理論社)の冒頭に、倉本みずから物語の設定を綴った。

 劇団かもめ座は分裂を続けた。
 かつて二百人の劇団員を誇った新劇団の雄かもめ座は、女王犬山モエ子に対する造反につぐ造反の結果、遂に六人になってしまった。
 女王たる大女優犬山モエ子。
 若い二枚目俳優田所大介。
 文芸部員桜田英夫。
 その妻である女優水木かおり。
 新人女優西条ひろみ。
 そして彼らの生活の為に自ら役者を退役してマネージャーとなった、老優川南弁三。
 分裂以来六人は、それまで忌避していたテレビジョンの世界に身を売ることでまず生活を安定させんとし、かもめマンションに共同生活を営みながらテレビにあけくれる生活を始めた。そうして今や田所大介は、お子様向けの劇画アクション『ウルトラ・ボニータ』の主役スターとして哀しい人気者となってきたのである。
 ドラマは六人の住む「かもめマンション」と、その一階にある一同のたまり場、喫茶店「ミネ」を舞台としてスタートする。
(「はじめに」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)

 配役は、犬山モエ子に淡島千景、田所大介に高橋英樹、桜田英夫に長門裕之(企画書では財津一郎)、水木かおりに夏純子(企画書では倍賞美津子)、西条ひろみに栗田ひろみ、川南弁三に加東大介、「ミネ」のマスター・ミネにディック・ミネ、という顔ぶれ。
 加東大介は、東宝映画で共演した淡島千景の大ファンだった。加東は、「お景ちゃんといっしょにできるなんて。彼女は僕のあこがれの人なんです」と倉本に言った。その間柄は、劇中のモエ子と弁三の関係にも投影されている。


『6羽のかもめ』撮影風景。前列左より淡島千景(犬山モエ子)、高橋英樹(田所大介)、長門裕之(桜田英夫)。後列左より喜多岡輝代(エリ子)、下之坊正道(牛山)、加東大介(川南弁三)、ディック・ミネ(ミネ)、栗田ひろみ(西条ひろみ)、夏純子(水木かおり)

 撮影は、1974(昭和49)年8月30日にスタート。9月2日には河田町のフジテレビ本社で、『6羽のかもめ』の制作発表がおこなわれた。会場には「劇団『かもめ座』結成」の看板を掲げ、淡島千景、高橋英樹、長門裕之、夏純子、栗田ひろみ、加東大介の「6羽」が勢ぞろいした。
 高橋は、「“かもめのジョナサン”にあやかって、うまく飛べますように」とあいさつ。時代劇のイメージが当時強かった高橋が、コミカルな現代劇に出演するとあって、スポーツ紙が紙面を割いた。これらの記事に、中条静夫の名はまだない。


『6羽のかもめ』制作発表。左より夏純子、長門裕之、淡島千景、高橋英樹、栗田ひろみ、加東大介(1974年9月3日付「スポーツニッポン」)

 1974(昭和49)年10月5日夜、『6羽のかもめ』第1回「6羽目」(富永卓二演出)が放送された。「原案 倉本聰、脚本 石川俊子」とクレジットされているが、「石川俊子」は倉本の偽名で、渡哲也夫人の旧姓を使った。大河ドラマ『勝海舟』の脚本家降板に起因する処置だが、渡哲也夫人が脚本を書くはずもなく、見る人が見れば倉本聰その人だとわかる(第8回「大問題」以降は、「原案・脚本 倉本聰」とクレジットされる)。


『6羽のかもめ』広告。前列左より高橋英樹、淡島千景。中列左より長門裕之、夏純子、加東大介。後列に栗田ひろみ(『週刊TVガイド』1974年10月4日特大号、東京ニュース通信社)


『6羽のかもめ』放送リスト(筆者作成)

 第1回「6羽目」は、西条ひろみ(栗田ひろみ)が、5人だけの劇団「かもめ座」に入るまでのストーリー。そのエピソードと並行して、かもめ座の歴史と「6羽」それぞれの人となりを描いた。
 第1回から第5回まで演出した富永卓二は、自身の演出論に《倉本聰の脚本は面白すぎるぐらい面白く私たちを大いに触発してくれ》としたうえで、こう続ける。

 第一話の脚本を渡されたものの、分裂に分裂を重ねた貧乏劇団で生きている人びとの状況説明が多く、ドラマとしてとらえようがなかったというのが本当のところでした。
(富永卓二「テレビドラマ“6羽のかもめ”をおえて――テレビ演出論・Ⅰ」『テレビ映像研究』1975年9月創刊号、ナカ・プランニング・デスク)


『テレビ映像研究』1975(昭和50)年9月創刊号(ナカ・プランニング・デスク)

 富永卓二が書くように、第1回はレギュラー6人の自己紹介で、ドラマチックな展開はない。公刊された倉本のシナリオ集にも、おさめられていない(倉本のシナリオと実際のドラマとは、台詞が微妙に異なっている)。
 問題は、第2回「秋刀魚」(1974年10月12日放送/石川俊子脚本、富永卓二演出)である。『6羽のかもめ』最初の問題作として、シナリオ集にも収録された。富永は先の演出論でこう続ける。

 しかし第二回放送の「秋刀魚」の脚本を読んだ時、やっと何かがつかめた感じでした。
 サンマの頭をどちら向きに皿へ盛るのが正しいか、というハナシだけで一時間ドラマが成立するという不可思議さに驚嘆し、作家倉本聰の実力をまざまざと見せつけられました。
 (前掲書)

 第2回「秋刀魚」は、こんな話である。
 田所大介(高橋英樹)が、東洋テレビの生番組『スター料理教室』に出ることになった。番組で披露するのは、犬山モエ子(淡島千景)の得意料理「サンマのフライ タルタルソース」。「サンマをフライに?」という視聴者のツッコミをよそに、ドラマは進行する。
 迎えた生放送(本番)の日。大介は「サンマのフライ タルタルソース」をうまく仕上げ、母・正子(村瀬幸子)の習慣をまねて、サンマの頭を右にして盛り付ける。試食コーナーで「魚の頭は左では?」と訊く司会者(小林大輔、丹羽節子)に、「それは正式じゃないです」と得意げに答える(天真らんまんな高橋英樹がうまい)。



富永卓二演出『6羽のかもめ』第2回「秋刀魚」(1974年10月12日放送)。左より司会者役の小林大輔、丹羽節子、高橋英樹

 生放送のため、局には電話でクレームが殺到する。ふてくされる大介の前で、担当プロデューサー(小沢幹雄)が「馬鹿なおふくろ」と暴言を吐く。キレた大介に殴られ、プロデューサーは意識を失う。事態を収拾すべく、マネージャーの弁三(加東)は第2制作部を訪れ、制作部長の清水に頭を下げた。ここでいよいよ、中条静夫の初お目見えである。

長い間。
部長。
髪の毛をくしゃくしゃとかく。
部長「困っちゃうンだよねえ、こういうのは本当に」
弁三「まことに何とも申し訳ありません」
部長「暴力はいけませんよ暴力は君」
弁三「まったくおっしゃるとおりであります」
部長「うン」
うなだれている弁三。
電話鳴る。
課長「(とって)はい、部長席――あ、少々お待ちください。――部長、平井君」
部長、立ちあがってゆっくり席へ行く。
行きつつ。
部長「(弁三に)おたがい君いいとししてやってるンだ。まァ、お母さんを冒瀆されて怒った、田所君の気持はよくわかるけど、テレビ局ってとこは君、何てったってインテリの職場なンだから」
弁三「は」
部長「(電話に)ああ私。見たよ第一話。ありゃ君だめだよ。あれじゃ全然視聴率上がンないよ? もっとアクションをとり入れてだな。ガンガン殴るとか、ぶっとばすとか。――殺しちゃいなさいよォもっとバリバリ」
うつむいている弁三。
部長の声「だめだよ、そんなのオ――あすこだってあんた、もっと派手にさ、どういうかグイグイ、エグッちゃうとかさァ」
(「秋刀魚」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)


『6羽のかもめ』「秋刀魚」。左より矢田稔、中条静夫

 嶋田さんの旧蔵資料のなかに、手書きの原稿用紙があった。題して『プロデューサーから演出家への書簡――『6羽のかもめ』とともに――(1974.9.8~)』。この作品に対するプロデューサーとしての意見と視点をしたためた、原稿用紙16枚からなる名文だ。


嶋田親一『プロデューサーから演出家への書簡――『6羽のかもめ』とともに――』(1974年9月)

 その14枚目に「第1話から第5話までのゲスト評」がある。《中條静夫―抜群。制作部長に実在感をいだかせた。キャスティングのヒット。98点》。この役に中条静夫を配したのは、誰のアイデアだったのか。

演出の富永卓二ですよ。富永に「いかにもテレビ局にいる中間管理職で、もっともらしい顔をしている役者を探せ」と言ったんです。そこで富永が推薦したのが中条静夫。大映のドラマで、ずらっと男優の並ぶ作品があったでしょう。そのひとりが中条静夫で、そこに富永が目をとめた。僕は会ったことがなくて、「なかじょう・しずお」だと思っていたくらい。テレビの世界では、まだあまり知られた顔ではなかったと思います。調べたら、けっこうなキャリアの持ち主で、下積み時代は夫婦で苦労していたらしいです。
(第11回聞き取り)

 脚本へのこだわりが強い倉本聰は、本読み(読み合わせ)に同席し、プロデューサーや演出家以上にダメ出しすることで有名だった。主役や主要な登場人物はもちろん、脇にいたるまでキャスティングの良し悪しがここで試される。


由原木七郎 絵・文「0(ゼロ)チャンネルを往く!」(1974年11月30日付「夕刊フジ」)

 「清水部長=中条静夫」は、倉本も納得のキャスティングとなった。当時の現場の雰囲気を、嶋田さんがうれしそうにふりかえる。

配役が決まって、中条静夫と初めて会いました。古武士のような佇まいなのに、あの調子じゃない(笑)。あんなにコミカルな人とは、誰も知らなかった。本人もえらく役にノッて、最初の本読みからホントに面白かった。「困っちゃうンだよねえ」というところ、みんなで大笑い。「こういう言い方もあるんだ」と思った。倉本とパッと顔を見合わせて、ニヤッと笑ってね。いまでも、その光景を思い出します。「これで、このドラマはいける」と僕も倉本も思えた。そしたら急に、部長の役が大きくなっていった。こんなにいい役になるとは、誰も考えてなかった。局の制作部長として、ちょっと出るだけの予定でしたから。
(第11回聞き取り)

 生みの親である倉本自身、配役の妙と中条静夫のうまさに舌を巻く。当時の雑誌インタビューでこう答えた。《「初め、清水部長はなにげなく書いちゃったんですけど、中条さんがやるとやたらおかしくって、実感があって、どんどんイメージがふくらんできたんです」》(『サンデー毎日』1975年2月16日号)。
 現役時代の嶋田さんのことは、写真でしか知らない。ただなんとなく、中条静夫の清水部長に雰囲気が似ている。聞き取りの席で、「似てますね」と言ったら、笑いながらこう応えた。

中条さんは、僕より年上の大正生まれなのに、「兄(あに)さん」と呼ぶ。「僕は昭和6年です」と言ったら、「年じゃないんです」と。しかも清水部長はいつも、スーツの上着を脱いでベスト姿でしょう。あれは僕をマネしたんですよ(笑)。衣装合わせのとき、「どうですか」とやってきて、驚いた。僕のかっこう、そのまんまだもん。「そりゃあ、マネしますよ」と中条静夫が(笑)。周りのスタッフも面白がって、清水部長が座る制作部のソファは、僕が新制作で使っている部屋をセットで再現しています。「あの部長は嶋田がモデルだ」と言った人もいたくらい。
(第12回聞き取り)

 中条静夫といえば、メガネをかけているイメージがあるけれど、役づくりのためか、清水部長がメガネをかけることは、劇中で一度もない。
 役名については、第2回「秋刀魚」のタイトルバックでは「部長」としかクレジットされていない。「清水部長」と出るのは、後述する第9回「乾燥機」からである。


『6羽のかもめ』「秋刀魚」タイトルバック

 倉本聰のインタビューを碓井広義が構成した『ドラマへの遺言』(新潮新書、2019年2月)に、『6羽のかもめ』の話が出てくる。劇中で倉本は、ニッポン放送時代の上司をモデルにしたと語る。その元上司は、ニッポン放送の温泉慰安旅行に自分の愛人を連れこむような人物だった。
 そのモデルが、清水部長だったのか。『ドラマへの遺言』を読むと、そうとも受け取れるけれど、どうもしっくりこない。清水部長は、そこまで無分別なキャラクターではない。Web版「日刊ゲンダイ」にある見出し《中条静夫が演じる制作部長は納会に愛人を連れてきた元上司》も誤解のような気がする。https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/225107

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 『6羽のかもめ』は、演劇界の話ではない。「かもめ座」は新劇の劇団だけれど、座員が6人まで減ってしまったため公演がうてない。「6羽」はそれぞれ、舞台への夢を抱きながら、テレビの世界で悪戦苦闘する。
 ドラマも、劇団の拠点「かもめマンション」、たまり場の喫茶店「ミネ」、「東洋テレビ」局内、局前の喫茶店「ドン」を中心に展開する。東洋テレビは河田町の旧フジテレビ社屋とスタジオが使われ、ロケが必要なシーンも河田町のかいわいで全て撮影された。
 東洋テレビ局内のシーンが多いので、清水部長の出番は増やしやすい。第2回「秋刀魚」で手ごたえを感じた倉本は、清水のシーンをどんどん増やしていく
 第5回「花三輪」(1974年11月2日放送/石川俊子脚本、富永卓二演出)では、モエ子(淡島)、宮本みな子(久慈あさみ)、中山咲子(福田公子)の3人のベテラン女優が、若手人気スター・中川(伊藤幸雄)とプロデューサーの井上(柳瀬志朗)の態度に立腹し、撮影をボイコットする。現場のトラブルで、せっかくの自分の誕生パーティーを台無しにされ、清水はつむじを曲げてしまう。


富永卓二演出『6羽のかもめ』第5回「花三輪」(1974年11月2日放送)。左より中条静夫、矢田稔

 第7回「ギックリ・カメラです」(1974年11月16日放送/石川俊子・高際和雄脚本、大野三郎演出)では、俗悪ワースト番組『ギックリ・カメラ』に嫌気がさした大介(高橋)が、ドッキリ企画の仕掛け役を降板。責任の所在をめぐって清水部長と担当プロデューサーの中原(蜷川幸雄)が対立し、清水は中原を北海道の系列局に異動させようと画策する。


大野三郎演出『6羽のかもめ』第7回「ギックリ・カメラです」(1974年11月16日放送)。左より中原プロデューサー役の蜷川幸雄、中条静夫

 ステレオタイプな悪役中間管理職に思えるけれど、そうとは言い切れない。スポンサーと視聴率と上層部と組合をつねに意識し、部下に八つ当たりして、「困っちゃうンだよなあ」と頭を抱える姿は愛嬌がある。部長のそばで一喜一憂する制作課長の矢口がまたコミカルで、演じる矢田稔のうまさが光る。
 中条は当時のインタビューでこう答えた。《倉本さんの脚本がしっかりしてるんでなぞってるにすぎませんが、私の性格の中に清水正義にスッとはいっていけるものがあるようです》(『サンデー毎日』1975年2月16日号)。
 配役のうまさについて、嶋田さんはふりかえる。

『6羽のかもめ』というドラマの世界が浮かび上がってくる意味では、中条静夫の存在は大きかった。倉本がイメージした以上の部長の役に、中条さんがしたわけです。中条さんは計算づくで演じていませんし、倉本も俳優にあてがきしていません。中条さんの俳優としての個性と、倉本の書いた役がうまくマッチした。「中条でいける」と考えた倉本は、清水部長に焦点を合わせて話を書き始めた。演者に焦点を合わせて役を書く天才ですから、倉本は。
(第11回聞き取り)

 清水部長のキャラクターに手ごたえを感じた倉本は、その人物設定を細かく決めた。早稲田大学仏文科卒で、卒論はサルトル、妻と息子と双子の姉妹の5人家族。現場でさぞ盛り上がったのだろう。清水を主人公に、エピソードを用意することも決まった。第9回「乾燥機」(1974年11月30日放送/倉本聰脚本、大野三郎演出)である。
 東洋テレビと関係プロダクションの主催で、番組合同ゴルフコンペが開催される。スポンサー提供の豪華目玉賞品は、家庭用電気乾燥機。この電気乾燥機に、清水部長がえらくご執心である。しかも東洋テレビの改革人事で、清水の制作本部長昇進が噂される。
 コンペの幹事である3人のマネージャー、弁三(加東)、木田(柳生)、守永(五藤雅博)は、キャスティングの権限を握るであろう清水に恩をうっておきたい。そこで、清水が何位になっても電気乾燥機を受け取れるように画策する。
 コンペの当日、清水はご機嫌である(ばっちりドピンクのゴルフウェア)。スタート1時間前にはコースへ出て、ひたすら練習に励む。本番のスコアもよく、調子に乗って「乾燥機は君、僕のもんよ」と嫌味を言う始末だ。


中条静夫(大野三郎演出『6羽のかもめ』第9回「乾燥機」1974年11月30日放送)

 ところが、清水のボールがバンカーに落ち、何回叩いても砂から出てこない。4打目、ついにボールがグリーンに転がる。その一部始終を目撃した矢口課長(矢田)、中原プロデューサー(蜷川)、桜田英夫(長門)、タクシー運転手の伴(小鹿番)たちが、コースにいなかった面々に状況を説明する。

課長「ただその、出てきたボールがですねえ」
弁三。守永。木田。大木。
一同、課長を凝視している。
長い間。
課長、突然クシャクシャと頭をかきむしる。
課長「困ッチャウンダヨナァ」
井上「どうしたンです」
中原「紙はがしてなかったんだよ、まわりの紙」
弁三「紙?」
中原「包み紙、包み紙!」
桜田「ニューボール、まわりをホラ、パラフィン紙みたいなのできちんと包んであるでしょう」
伴「黒いやつ」
課長「ホラ、こういうふうに」
課長、尻のポケットから黒い紙で包まれたままのニューボールを出してみせる。
(「乾燥機」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)


『6羽のかもめ』「乾燥機」。前列左より加東大介、長門裕之、小鹿番(伴)、五藤雅博(守永)、蜷川幸雄、柳生博(木田)、矢田稔。後列左より北浦昭義(大木ディレクター)、柳瀬志朗(井上プロデューサー)、斎藤晴彦(日高ディレクター)、夏純子

 清水は、尻のポケットにしのばせたニューボールを、包み紙をはがさないままグリーンに投げた。そのために、イカサマが白日のもとにさらされた。
  『6羽のかもめ』はスタジオ撮りである。ゴルフ場のセットを組むのも、郊外のゴルフ場でロケするのも、お金がかかる。台詞だけで説明させる苦肉の策ながら、演じる俳優がみんなうまくて、抱腹絶倒のシーンとなった(水木かおり役の夏純子は“素”で笑っている)。

倉本が書いたほど、あからさまな話はないにしろ、あの時代は似たようなことが相当ありましたよ。特定の人に賞品がいくように、出来レースにしたり。部長がゴルフでイカサマをするでしょ。今でもドラマを見た人が「あのシーン、面白かった」と言うんです。でも、ゴルフのシーンはどこにもない。矢田稔の課長が、状況説明するだけ。そこが演出のミソでね。よほど面白かったのか、印象深いシーンになりました。
(第11回聞き取り)

 さて、自業自得で赤っ恥をかいた清水部長である。部長はあくまで“権力者”なので、イカサマを責める参加者はいない。なんとか場をおさめようと、イカサマを「珍プレー」と称し、「ユーモア賞」の名目で、清水に電気乾燥機を贈呈した。受賞パーティーで憮然としつつ、ちゃっかり目録を受け取る中条静夫がおかしい。
 


『6羽のかもめ』「乾燥機」。左より中条静夫、夏純子(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』)

 このあと銀座の高級クラブで二次会が開かれ、清水のご機嫌をなおさそうと一同は苦心する。にぎやかにカラオケが繰り広げられるなか、清水が十八番であるちあきなおみの『喝采』をしぶしぶ歌う。
 倉本聰のシナリオでは、高倉健の『網走番外地』になっている。なぜ、曲が変わってしまったのか。

あの場面は、清水部長にうまく歌ってもらうことが大事なんです。ヘタだと逆に面白くないでしょう。読み合わせのとき、「中条さん、何が歌えますか?」という話になって、『喝采』になったんじゃないかな。
(第13回聞き取り)


中条静夫(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 気分を入れ替え、『喝采』を熱唱する清水。そこに、酔っぱらったプロデューサーの中原が、大向こうをかける。「いよッ、家庭用電気乾燥機ッ!」。清水はすぐさまマイクを置き、店からひとり出ていってしまう。


蜷川幸雄(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 新潮新書『ドラマへの遺言』のなかで倉本聰は、《「実はね、この回で書いたのは本当の話だったんです」》と語っている。真偽のほどは、わからない。ちなみに蜷川幸雄がイヤミたっぷりに演じた東大卒のプロデューサー中原は、久世光彦がモデル、らしい。
 その夜、清水はひとり、弁三のもとを訪れる。深夜のスナックで、水割りをかたむけるふたり。清水は、みずからの行状を詫び、賞品の電気乾燥機を返上し、「ゴルフもやめる」と弁三にゴルフセットを進呈した。そして、電気乾燥機に執着した理由、妻への愛、部下の中原へのコンプレックスを訥々と弁三に語る。

部長「亭主は四十五、先が見えてる。一応テレビ局の部長じゃあるが、作詞家になる能力もないし、汚職するほどの度胸もない。その女房が――」
弁三「―――」
部長「山脇を出て、二十歳で嫁いで、子どもを二人産んで黙々と育てて、四十二になった一人の女が――たとえば亭主や子どもを送り出し、一人になって見る夢なンてもンは――ユーティリティなんて洒落たもンはいらない。風呂場の片隅の洗濯機の上に、電気乾燥機が厳然とあって、その窓の中に自分のパンティが――それもビキニの、花柄のやつが、クルクルフワフワ回転してる」
間。
部長「――それは時々、亭主や子どものと――(手つき)――こう――妙に隠微に触ったりして――そのようすは、何かこう――変に家庭的で――変にエロチックで――そうして、変に悲しくて――」
弁三「―――」
部長「それが、二十歳から二十二年間――あたしに尽くしてきた女房の夢なら――せめてそれくらいかなわせてやりたい」
弁三「―――」
部長「電気乾燥機を――取ってきてやりたい――」
音楽――ゆっくりとたかまって以下につづく。
(「乾燥機」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)


左より中条静夫、加東大介(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 ラスト、電器店のショーウインドーに飾られた電気乾燥機を、清水が哀しげに見つめている。街頭で踏みつけられ、風に舞い、雨に濡れ、雪に埋もれたボロボロのスコアカードが大写しになる。そこに加藤登紀子の『かもめ挽歌』が、エンディングで流れる。


中条静夫(『6羽のかもめ』「乾燥機」)

 以上が「乾燥機」の顛末である。冷静に考えて、清水部長に思慮分別がなさすぎる(名前を“正義”にしたのは倉本の遊びごころか)。けれども、当時なぜか受けた。新聞のテレビ評に、こんな記事が出た。

 今回は思いきったテレビ局の内情暴露ものだ。それもテレビドラマを製作する直接の責任者である製作部長(中条静夫)が主役で、ちょっとした汚職もどきの事件を起こし、いま話題の悪徳プロデューサーまで登場する。よくここまでテレビが内部を告発したものだと感心するし、出来もいい。(中略)
 終了後の二次会で酔った部下のプロデューサーに「恥をかいても乾燥機をほしがる」とさんざんからまれる。
 ここの部長の描写がいい。部下の悪たれにじっと耐え、不正をやった自責の念で顔がゆがむ。妻のためにと乾燥機にこだわった反省もある。それでも耐えて生きていくんだという中年男、中間管理職の悲哀がじーんと伝わってくる。
(「讀賣新聞」1974年11月30日付「試写室」)

 『キネマ旬報』連載「ニッポン個性派時代」で、中条静夫をインタビューした藤田真男は、「乾燥機」の感動を綴っている。

『乾燥機』というエピソードでは、ほとんど全篇を無言で演じ、ラストに至って、それまで頑なに押し殺していた心の内をトツトツと語る。加東大介がひとり、彼の言葉に耳を傾けている。小津安二郎『秋刀魚の味』で、笠智衆が加東大介と語るシーンとは好対照の、哀感あふるる饒舌だった。
 中条さんもびっくりしただろうが、TVをみていたぼくは、もっとびっくりした。中条さん自身が、それまでじっと貯えていた言葉が、一挙に爆発したように思えた。ドラマそのものよりも、俳優・中条静夫に、ばくは感動した。
(「ニッポン個性派時代」)


小津安二郎監督『秋刀魚の味』(松竹大船、1962年11月18日公開)。左より平山周平役の笠智衆、坂本役の加東大介

 『6羽のかもめ』の視聴率は、平均7%前後と決して良くなかった(むしろ悪い)。そのかわり、清水部長は「乾燥機」でブレイクする。メインの「6羽」に勝る人気者となり、フジテレビには「清水部長をもっと出して」と電話や投書が相次いだ。
 新聞・雑誌は、清水部長を話題の人として取り上げ、演じた中条静夫にも注目が集まる。嶋田さん旧蔵の『6羽のかもめ』スクラップブックに、『サンデー毎日』の特集記事がある。そこに、都内電機会社勤務の課長(35歳)のコメントが紹介されている。

「ハイ、ファンです。特に清水部長の気持がよくわかるんだなあ。妻の願いの電気乾燥機欲しさに、部長がゴルフでいかさまやった話なんか、感動しましたね。妻のためという気持、ばれたあとの自己嫌悪、職場での部下のうわさを思いわずらいながらの酒……本当によくわかるんだなあ。作者の部長を見る目がやさしいんだなあ」
(「この中間管理職の悩み 部長サンに寄せる困っちゃうほどの共感」『サンデー毎日』1975年2月16日号)


『サンデー毎日』1975(昭和50)年2月16日号

 清水部長に注目が集まるなか、『6羽のかもめ』をこっそり楽しむテレビ関係者も少なくなかった。この状況を誰よりも驚き、喜んだのが、演じる中条静夫本人だった。『ザ・ガードマン』の放送が終わって3年、この役との出会いを、藤田真男のインタビューで語っている。

――『6羽のかもめ』も、やはりひとつの転機になりましたか?
「あれはもう、何といってもガードマンのイメージをなくす第一作ですから。初めてですよ、あんな大役は。俳優・中条静夫は、倉本聰さんとの出会いによって作り上げていただいた、ということでしょうね。しかも、ぼくのを二本書いていただいた」
――『乾燥機』ですね?
「ええ、あれが、ぼくの代表作ですよ。完全主役で、まァ、セリフの長いこと長いこと。ラストの深夜のスナックなんて、しゃべってるのはぼくだけですからね。いやァ、あの台本もらった時はもう、びっくりしちやって」
(「ニッポン個性派時代」)

 『6羽のかもめ』は一話完結にして、そのときどきで連続性をもたせた。倉本聰が脚本で関わったのは、全26回のうち15回分。残りの11回を、高際和雄、斎藤憐、宮川一郎、土橋成男、野波静雄が書いた(前掲の放映リスト参照)。

倉本が忙しくて、「全部は書けない」と言う。書かない回をどうするか、倉本や演出の富永、大野の意見を聞きつつ、作家を決めるのに苦労しました。倉本の考えた人物設定を生かしながら、ちょっとひねったものを頼まないといけない。頼まれたほうも、やりづらかったと思いますね。僕と面識のあった宮川一郎は、倉本と同じ東大なんです。倉本に一目置いていたようで、「しょうがねえなあ」と2本書いてくれました。
(第11回聞き取り)

 「乾燥機」のあとも、倉本脚本回を中心に清水部長の出番が増えていく。第13回「切符屋の熊」(1974年12月28日放送/倉本聰脚本、富永卓二演出)では、指定席券予約の名人である庶務課員・小熊(藤岡琢也)を都合のいいように利用し、中間管理職のエゴと傲慢さを示した。


富永卓二演出『6羽のかもめ』第13回「切符屋の熊」(1974年12月28日放送)。小熊役の藤岡琢也

 第20回「個人的事情」(1975年2月15日放送/倉本脚本、大野三郎演出)では、大介(高橋)の兄・正一(大滝秀治)が、清水の小学校の同級生だとわかり、再会を祝う。倉本ドラマの常連である大滝秀治と中条静夫、息のあった芝居が愉しい。


大野三郎演出『6羽のかもめ』第20回「個人的事情」(1975年2月15日放送)。左より田所正一役の大滝秀治、中条静夫

 第25回「死んで戴きます」(1975年3月22日放送/倉本脚本、大野演出)では、スポンサーのクレームを神妙な面持ちで聞きながら、部下に責任転嫁する器の小ささをにじませた(スポンサー責任者を、テレビ時代劇の名悪役・川合伸旺が演じる配役の妙)。ゲストで出た黒柳徹子(敏腕マネージャー役)に、清水が徹底的にやりこめられるシーンも面白かった。



大野三郎演出『6羽のかもめ』第25回「死んで戴きます」(1975年3月22日放送)。(写真上)スポンサー役の川合伸旺、(写真下)中条静夫

ドラマは生き物だと感じましたね。俳優が役を作り上げ、そこに息吹が入って動き出す。中条静夫が「7羽目のかもめ」と呼ばれたくらいです。こうして脇役が話題になると、やきもちを焼く共演者はいたと思います。ただ6人だけだと、このドラマはちょっと弱くて、脇筋が膨らんでいった。狂言回しというか、周りが良くないとドラマは面白くならないんです。ディック・ミネさんも、少し出る役のはずが、人気が出て場面が増えました。そもそも「6羽」がもっと引き立つためには、たとえば栗田ひろみの役は、もっと面白くないといけなかった。
(第11回聞き取り)

 『6羽のかもめ』は、1975(昭和50)年3月29日放送の「さらばテレビジョン」(倉本聰脚本、富永卓二演出)で最終回(第26回)を迎えた。こんなストーリーである。
 東洋テレビで、スペシャルドラマの制作が決まる。俗悪番組を憂う政府が「テレビ禁止令」を発令する設定の、近未来SFドラマだ。タイトルは『さらばテレビジョン』。そんなセンシティブな題材のドラマが、本当に放送できるのか。弁三(加東)の深い苦悩と決意を交えつつ、現場の人間模様を描く。


富永卓二演出『6羽のかもめ』最終回「さらばテレビジョン」(1975年3月29日放送)台本

 『6羽のかもめ』の撮影が終盤にさしかかるころ、弁三役の加東大介が病に倒れた。加東は、入院先からスタジオに通って収録に臨んだ。弁三は、ラストエピソード「さらばテレビジョン」の要であり、加東は一世一代の名演で有終の美を飾った。

 
加東大介(『6羽のかもめ』「さらばテレビジョン」)

 嶋田家の書斎には、『6羽のかもめ』の写真が2枚残っていた。そのうち1枚は、最終回のVTR収録日(1975年3月10日)にスタジオで撮影された完成記念(クランクアップ)である。この記念撮影は、「さらばテレビジョン」のエンディングでも映像が流れた。


『6羽のかもめ』完成記念。前2列左より栗田ひろみ、夏純子、長門裕之、高橋英樹、加東大介、淡島千景、ディック・ミネ、桜むつ子、下之坊正道。3列右5人目より矢田稔、中条静夫、喜多岡輝代、原洋子。同列左3人目より北浦昭義、本郷あきら、嶋田親一、柳瀬志朗、倉本聰(1975年3月10日、フジテレビスタジオ)

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 1975(昭和50)年7月31日、加東大介が亡くなった。享年64。『6羽のかもめ』撮影中は、すでにがんが進行していて、最終回から5か月後の悲報だった。

「弁ちゃん」が主人公のようにして常にいたから、いろんなキャラクターが際立った。川南弁三なくして「6羽」は語れないし、加東大介という俳優なくして、このドラマもない。マネージャーさんから「具合が悪い」と聞いて、どうしようか悩みました。でも加東さんが「この役だけは、なんとしてもやりたい」と言ってくれたので、病院から撮影に通ってもらいました。最後まで役をまっとうしたんです、加東さんは。
(第11回聞き取り)

 劇中でも、愛すべきキャラクターとして描かれた「弁ちゃん」なくして、「6羽」はない。『テレビ映像研究』1975年9月創刊号「テレビドラマ“6羽のかもめ”をおえて」の追記にはこうある。《「6羽」に再び挑戦しようとした私たちは、いま虚しい。加東大介演ずる弁ちゃんなくして『6羽のかもめ』は考えられないからである。嗚呼》。
 劇団「かもめ座」の歴史は、幕を下ろした。そのかわり、「6羽の夢よ、もういちど」とばかりに制作されたテレビドラマがある。『6羽のかもめ』と同じ「土曜劇場」の枠で放送された『あなただけ今晩は』(フジテレビ、1975年7月26日~9月27日放送)である。連続10回で、原案・脚本は倉本聰、プロデューサーが嶋田親一と中村敏夫、演出を大野木直之が手がけた。


『土曜劇場 あなただけ今晩は』広告(1975年7月26日付「讀賣新聞」朝刊)

「若尾文子主演」で始まった企画です。若尾さんと仕事をするのは、僕は初めてでした。相手役の藤田まことさんは、どうして決めたんだろう。たしか、倉本と僕が興味を持って、「一度やってみましょう」となったのかな。演出はフジテレビの大野木直之でした。
(第11回聞き取り)

 主人公の夕子(若尾文子)は、夫の三上六助(藤田まこと)を残したまま、あの世へと旅立つ。ところが、あの世へ行く列車に乗る前、かつて使用人だった茂吉(六代目瀬川菊之丞)と再会し、四十九日間有効の‟切符”を手に入れる。
 夕子は、同じ境遇の秋子(岸田今日子)にけしかけられ、夫の六助恋しさに現世へ戻る。六助は、会社の同僚である田辺幸子(仁科明子)に関心を寄せていて、夕子はあの手この手で六助の気を引こうとする。

 
左より岸田今日子、若尾文子(『週刊TVガイド』1975年7月18日号)

幽霊が主人公で、四十九日に成仏するまでの物語です。倉本の好きなSFの世界ですよ。のちに僕と(岡本)喜八さんとやった『ブルークリスマス』もそうでしょう。設定はいいんだけど、「6羽」にくらべると凡作でした。そう何度もヒット作は出せません。「6羽」に全精力を傾けたあとの作品ですから。
(第11回聞き取り)

 『6羽のかもめ』と若尾文子には少しつながりがある。「6羽」がスタートする1974(昭和49)年10月5日、平岩弓枝原作・脚本、大野木直之演出、若尾主演の連続ドラマ『女の気持』がフジテレビで始まった(1975年1月25日まで)。「女の」が午後9時から、「6羽」が午後10時からの放送だった。


フジテレビ番組広告(1974年10月5日付「讀賣新聞」朝刊)

 『女の気持』には若尾文子のほかに、仁科明子が出ている。『あなただけ今晩は』は、『女の気持』と『6羽のかもめ』を組み合わせたスタッフ、キャストである(仁科は、倉本聰のお気に入りでもあった)。
 このドラマに加わるのが、『6羽のかもめ』でブレイクした中条静夫である。ヒロインの夕子(若尾)は、幽霊なのでこの世では姿が見えない。ところが、六助(藤田)の兄で銀行員の一平だけは夕子の姿が見える(夢枕に立つ設定)。この一平を、中条が演じた。
 一平は、義理の妹である夕子の話し相手となり、ときには騒動に巻き込まれる。単行本化された倉本聰のシナリオを読むと、夕子と一平のコミカルなやりとりが、このドラマの見せ場になっている。

若尾文子主演で始まったはずの企画が、いつの間にか中条静夫ありきの企画になってしまった。「6羽」の人気と話題を、倉本も僕も引きずっていたんです。若尾さんとしては、もうちょっとやりがいのある役にできなかったのか、それが申し訳なくて。そのあと若尾さんとお仕事する機会もなくて、残念でした。
(第11回聞き取り)


若尾文子の名刺(1975年)

 『あなただけ今晩は』の映像は、少なくとも第1回は残っているらしい。ただ、筆者は見たことがない。『6羽のかもめ』のようにDVD化されることもなく、嶋田さんも本放送のあと、見る機会はなかったそうである。
 いっぽうの中条静夫は、著名なバイプレーヤーへと躍り出る。「6羽」のあと話題になったのが、『連続テレビ小説 雲のじゅうたん』(NHK総合、1976年4月5日~10月2日放送)で演じたヒロイン(浅茅陽子)のガンコおやじである。同じ年、『赤い衝撃』(TBS、1976年11月5日 ~77年5月27日放送)でも、ヒロイン(山口百恵)の父親役をやった。
 『6羽のかもめ』『あなただけ今晩は』のあと、倉本聰と嶋田親一と中条静夫が組んだ仕事が、もう一本ある。倉本脚本、岡本喜八監督の『ブルークリスマス』(東宝映画、1978年11月23日公開)である。製作には、嶋田親一、垣内健二、森岡道夫の3人が名を連ねた。


岡本喜八監督『ブルークリスマス』(東宝映画、1978年11月23日公開)チラシ

 『ブルークリスマス』で中条は、日本国営放送(JBC)の沼田報道部長を演じた。UFOを題材にした血なまぐさい物語ではあるものの、自宅から電話で買い物を頼まれるなど、中条の芝居は「6羽」の清水部長をほうふつとさせる。
 JBC局内のシーンは、河田町のフジテレビでロケされた。しかも楽屋オチで、嶋田さんがJBCの制作部長役でカメオ出演している。


『ブルークリスマス』。左より南一矢役の仲代達矢、沼田報道部長役の中条静夫


『ブルークリスマス』。制作部長役の嶋田親一
 

 『ブルークリスマス』を最後に、嶋田さんと中条静夫の仕事はなくなる。ただ、「中条さんは6羽のあと、ほうぼうの局に出て、大活躍しましたよね」(第11回聞き取り)とうれしそうに言っていた。プロデューサー冥利に尽きる、ということか。
 昭和50~60年代の中条静夫の活躍は、ここで触れるまでもない。気まぐれ本格派、Yの悲劇、鉄道公安官、夢千代日記、花へんろ、茜さんのお弁当、間違いだらけの夫選び、不良少女とよばれて、ヤヌスの鏡、刑事物語'85、プロゴルファー祈子、あぶない刑事、四捨五入殺人事件、京ふたり、ビートたけしの浅草キッド、勝手にしやがれヘイ!ブラザー……。出演ドラマを列挙するだけで、あんな中条、こんな静夫が次々と思い浮かぶ。

 
日本テレビ『あぶない刑事』(1986年10月5日~87年9月27日放送)オープニングより、近藤課長役の中条静夫

 数多くのドラマに出演するなか、中条本人が感慨ぶかくオファーを受けた作品がある。『銀河テレビ小説 あるときは妻』(NHK総合、1989年1月30日~2月17日放送)。佐藤繁子(松平繁子)のオリジナル作による、夜の連続ドラマである。


左より佐藤繁子、中条静夫、京マチ子(佐藤繁子著『あるとき妻は』プラネット出版、1990年4月)

 定年を迎え、覇気のない生活を送る勝利(中条静夫)を横目に、妻の陽子(京マチ子)はアクティブに日々を謳歌する。陽子は、挿絵画家の涌井(森本レオ)と“いい関係”になり、陽子の朝帰り、家出、ついには離婚騒動へと発展する。熟年夫婦を中心に、その家族と周囲の人たちの姿を描く、コミカルかつ辛口のホームドラマである。


『銀河テレビ小説 あるときは妻』。左より京マチ子、結城美栄子、大谷直子、土家里織、中条静夫(『あるとき妻は』カバー帯)

 中条静夫と京マチ子が夫婦になる。中条は、このキャスティングを誰よりも喜び、「感慨ひとしお」とNHKのスタッフに言った。京は当時、映画から舞台・テレビに活躍の場を移していたが、中条からすれば、仰ぎ見る大女優である。

 晩年の中条は、根っからの悪人を演じることがなくなった。企業のトップを演じても、どこか憎めないキャラクターだった。
 

 1994(平成6)年10月5日、中条静夫死去、享年68。大手ビール会社の社長を演じ、途中降板した『東芝日曜劇場 オトコの居場所』(TBS、1994年7月3日~9月25日)が遺作となった。
 亡くなるまで、ドラマのレギュラーがとだえなかった印象がある。60代、現在の感覚からすれば、まだまだ働きざかり。“遅咲きの花”は、散りぎわも早かった。

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 最後に、『6羽のかもめ』第24回「青春賛歌」(1975年3月15日放送)より、清水部長(中条)の台詞を紹介したい。
 ある夜、街で偶然出会った犬山モエ子(淡島)を、清水が飲みに誘う。バーのカウンターで、身の上ばなしを始める清水。「乾燥機」の弁三(加東)と同じように、モエ子は聞き役に徹する。土橋成男脚本、富永卓二演出で、以下はドラマの画面より筆者が文字に起こした。

ようやく卒業して、就職したテレビ局が開局早々だ。朝から夜中まで真っ黒になって働いて――結婚して、子どもつくって、今は――今は制作部長。部長たって、たいした権限があるわけじゃない、もう先は見えてるんだ。――ねえ、犬山さん、私はときどき考えるんですがね、いったい私たちの青春というのは何だったのか。私はね、地下鉄で通ってましてね。中原は車ですよ、そう、マイカー。私は地下鉄。その地下鉄に乗ってますとね、いるんだよなあ、私と同じ年ごろの連中が。ちょっとばかりくたびれて、でもきちんとネクタイして、さぁやろうって健気な顔をしてね。私は、そういう連中を見ると言ってやりたいんだなあ。君たちにとって青春というのは何だったんだ、いやそもそも青春なんてあったのかってね。
(『6羽のかもめ』「青春賛歌」)


富永卓二演出『6羽のかもめ』第24回「青春賛歌」(1975年3月15日放送)。左より中条静夫、淡島千景

 嶋田さんも、地下鉄で、あるいは都電やバスで、フジテレビに通ったのだろう。いつだったか、雑談でその話になった。「僕が、どうやって河田町に通っていたのか。そんな話、おもしろいかい?」。お好きだったビールを手に、そう笑っていたことを思い出す。
 嶋田さんが手がけたテレビドラマの多くは、映像がうしなわれ、残っていても容易に視聴はかなわない。フジテレビの社屋も、1997(平成9)年に河田町からお台場に移り、当時の面影はない。『6羽のかもめ』が満足のいくかたちで残ったことは、せめてもの救いである。


『6羽のかもめ』タイトルバック

 佐々木孝丸、市村俊幸、河内桃子、有島一郎、中条静夫。嶋田親一さんが、ともに仕事をした俳優のあれこれを、5回にわたって書いてきた。
 ほかにも、新国劇の島田正吾と辰巳柳太郎をはじめ、さまざまな俳優の思い出、ドラマ作りの現場の息吹、ドラマ制作と映画プロデュースの裏側、フジテレビと新国劇の内幕、ご自身の演出論など、いろいろな話を聞かせていただいた。どこかでまとめる機会があれば、と願っている。
 嶋田さんが専務理事を務めたNPO法人 放送批評懇談会の雑誌『GALAC』2022(令和4)年10月号にて、特別号「ありがとう! 嶋田親一さん」(同号付録「ほうこん」)が発行された。生前のお人柄が伝わる、心のこもった追悼特集で、PDFで公開されている。https://houkon.jp/wp-content/uploads/2022/09/houkon202210.pdf
 追悼文を読ませてもらうと、放送批評懇談会で親しかった方たちも、コロナのあとは嶋田さんと会う機会がなかったという。2020(令和2)年9月に初めてお会いして、それから13回におよぶオーラルヒストリー。「人と会えなくなっても、この取材は続けたい」と毎月時間を割いてくださったことが、いまさらながら身に沁みる。

 あらためて、ご生前のご厚情に深く感謝するとともに、心より嶋田親一さんのご冥福をお祈り申し上げます。


フジテレビドラマの撮影現場にて(1961~62年頃)。左より渡辺篤史、1人おいて、嶋田親一(島田親一)

印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者資料及び撮影
(無断転載はご遠慮ください)

花嫁の父 有島一郎 嶋田親一の証言と資料に拠る④


『ありちゃんのパパ先生』(フジテレビ、1959~60年)本読み中の有島一郎(新宿区河田町のフジテレビにて)

 2022(令和4)年7月9日、90歳で亡くなられた演出家・テレビプロデューサーの嶋田親一(しまだ・しんいち/1931~2022)さん。今回も、入院される直前までおこなったオーラルヒストリーと旧蔵資料を通して、ともに仕事をした俳優の素顔をさぐっていく。
 佐々木孝丸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25、市村俊幸https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11、河内桃子https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/10/02に続いて、4人目は有島一郎(ありしま・いちろう/1916~1987)のことを書く。有島主演の30分ドラマ『ありちゃんのパパ先生』(フジテレビ、1959年3月3日~60年2月23日放送)は、嶋田さんにとって最初の連続ドラマ演出となった。


島田親一(嶋田親一)演出『ありちゃんのパパ先生』。左より有島一郎、野上優子、家田佳子、若山セツ子

 嶋田さんには、終生慕った師匠がいた。ひとりが本ブログで書いた佐々木孝丸、いまひとりが新国劇文芸部時代に演出助手としてついた劇作家で演出家の北條秀司である。
 有島一郎もまた、演出家・嶋田親一にとっての師匠である。著書『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』(清流出版、2008年4月)にこうある。《「あなたのテレビ演出の師匠は?」と、もし問われたら私はためらわず「ありちゃん、有島一郎!」と答えるだろう》。


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景。左端に若山セツ子、中央に嶋田親一、右端に有島一郎(嶋田親一『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)

 有島一郎のことは、筆者も『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)で触れた。愛嬌のある芝居、哀歓のにじむ佇まい、したたかな中間管理職から凄みのある悪役まで、さまざまな役どころで魅せる往年の名脇役だ。
 そんな有島の素顔を、嶋田さんからいろいろと伺った。映像が残らず、いまや幻となってしまった生放送ドラマのエピソード、現場の匂い、人の息づかい。すてきな思い出を聞かせてもらい、感謝の気持ちでいっぱいである。
 
 有島一郎が亡くなったのは、1987(昭和62)年7月20日。享年71。その4日前(7月16日)にはトニー谷が、3日前(7月17日)には石原裕次郎が、それぞれ亡くなった。ワイドショーや芸能メディアは裕次郎の死でもちきりとなり、トニー谷と有島一郎の死は、その陰にかくれてしまった。
 有島の死から35年。その印象がいまなお薄れないのは、名画座でかかる旧作邦画によく顔を出すことと、地上波・BS・CS問わず再放送される『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)の印象があるからだろう。
 有島一郎ふんする「爺」こと加納五郎左衛門は、徳川吉宗(松平健)の守り役(御側御用取次)である。登場したのは初期の『吉宗評判記 暴れん坊将軍』(1978年1月7日~82年5月1日放送)と『暴れん坊将軍Ⅱ』(1983年3月5日~87年3月7日放送)に過ぎないが、それでも400話以上ある。


『暴れん坊将軍Ⅱ』より加納五郎左衛門役の有島一郎(第89回「八丁堀師走の恋唄」テレビ朝日、1984年12月29日放送)

 いまでも有島一郎といえば、「上様!」と吉宗を追いかけまわす、硬骨の老臣にして可愛げのある「爺」を挙げる人が多い。演じた本人にとっても、愛着のある役柄となる。『脇役本』でも紹介したユニークな自叙伝『ピエロの素顔』(レオ企画、1985年4月)に、有島はこう書く(有島は自分のことを「彼」と三人称にしている)。

 現在の彼は、テレビ朝日の『暴れん坊将軍』の仕事で、十日に一ぺんは京都の東映撮影所と東京を往復する生活を送っている。どうせ半年ぐらいで終わるだろうと思っていた仕事だったのだが、早いもので七年も続いている長寿番組となった。
 主役の松平健さんと彼は、この仕事ではじめて知り合った。長いつき合いの間に、娘ばかりで息子のいない彼は、息子を見守るような気持ちで健さんの成長を楽しんでいる。
(有島一郎『ピエロの素顔』レオ企画、1985年4月)


有島一郎『ピエロの素顔』(レオ企画、1985年4月)

 1986(昭和61)年11月24日、嶋田さんは、大阪・新歌舞伎座の楽屋を訪ね、有島と会っている。「松平健特別公演」(11月1日初日、28日千秋楽)夜の部『吉宗評判記 暴れん坊将軍―二人吉宗・望郷の唄―』(土橋成男脚本・演出)に、有島は特別出演した。演じるのはもちろん、「爺」こと加納五郎左衛門である。


大阪・新歌舞伎座「松平健特別公演」広告(『演劇界』1986年11月号、演劇出版社)

 体調は思わしくなかったものの、有島は「爺」の役をライフワークと決め、『暴れん坊将軍』の仕事だけは続けた。嶋田さんの著書『人と会うは幸せ!』に、面会時の様子が書かれている。

(前略)テレビでの持ち役、爺ィに病をおして出演していた。体に器具をつけ、歩行も困難だったらしい。
 楽屋で待ちかねていた有島一郎は、ほんとうに嬉しそうに、前の晩から栗しみにしていたと語ってくれた。そして、スクッと立ち上がって「ホレ見てよ!」と、あの、足芸をやってみせた。周囲の人が呆気にとられた。
「ホラ、まだやれるでしょ。もう一度やろうよ、シマダさん!」と言って楽しそうに大声で笑った。これが最後になった。(後略)
(嶋田親一『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)

 有島一郎が71歳で亡くなったのは、翌年の7月。『暴れん坊将軍Ⅱ』の放送が終わって、4か月後のことである。筆者の大学の同級生は、「有島一郎が亡くなってから(『暴れん坊将軍』を)見なくなった」と言っていた。

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 有島一郎は著書『ピエロの素顔』の「序」に、こう記している。

大正初期に生まれ
昭和にかけて第二次大戦の戦前、戦中、戦後を生きてきた彼は
今だに光輝いているスターではなく
まるでスターダストのように細々と光っている六十代になった老優である。
(『ピエロの素顔』)

  1916(大正5)年3月1日、名古屋の生まれ。病弱な母親に連れられ、幼いころから映画と芝居に親しむ。それが、ごくごくわずかな、母と過ごした思い出となった。
 1933(昭和8)年、中学校の先輩で俳優の田村邦男へ弟子入り。京都で暮らし、師匠のお供で日活の撮影所に出入りし、大河内傳次郎をはじめ、多くのスターと接した。
 まもなく田村邦男のもとから去り、軽演劇の世界に身を投じる。それからのキャリアは多彩だ。笑の十字軍、名古屋劇場、ムーラン・ルージュ新宿座、有島一郎一座、新進劇団、劇団新生家族、劇団たんぽぽ、空気座、松竹、東宝ミュージカル、東宝現代劇……。戦前、戦中、戦後とさまざまな役をこなし、舞台、映画、ラジオとジャンルは問わない。


「劇団たんぽぽ」のころ。左より堺駿二、水の江瀧子、有島一郎(『ピエロの素顔』)


川島雄三監督『花影』(東京映画、1961年 12月9日公開)。左に有島一郎、右に池内淳子
 
 1953(昭和28)年2月の本放送開始時から、テレビにも多く出た。NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現・TBS)、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)に続いてフジテレビが開局(1959年3月1日)したころ、有島はテレビの売れっ子だった。
 映画では脇にまわることが多かったものの、テレビでは堂々たる主演スターである。有島左内役で主演した『ありちゃんのおかっぱ侍』(ラジオ東京テレビ、1957年1月8日~59年2月25日放送)は、テレビ草創期の人気作となり、主題歌はレコード発売された。

 まだ、ビデオテープなどという便利なものもなかったため、スタジオで芝居をしている同時刻に、そのまま各家庭の受像機に送られる“生放送”で、どんなミスも許されなかった。そのため三十分番組だった『ありちゃんのおかっぱ侍』は、三十分の枠内できっちり終わらなくてはならないなど、いろいろと拘束条件も多く、芝居の間は緊張の連続であった。とはいえ、無事に終了した後の喜びと充実感はまた格別で、今のテレビの仕事では到底味わうことのできないものだった。
(『ピエロの素顔』)


『ありちゃんのおかっぱ侍』(ラジオ東京テレビ、1957~59年)の有島一郎(『ピエロの素顔』)

 『ありちゃんのおかっぱ侍』が終了して1週間後、開局したばかりのフジテレビで、『ありちゃんのパパ先生』がスタートする。毎週火曜日、22時15分(のちに22時開始に変更)からの30分ドラマで、『ありちゃんのおかっぱ侍』と同じくぶっつけ本番の生放送だった。
 担当(プロデューサー兼ディレクター)として演出を任されたのが、当時28歳の嶋田親一(当時は「島田親一」名義)である。有島一郎は43歳、ひとまわり以上離れた先輩との初仕事となる。


『ありちゃんのパパ先生』。左より若山セツ子、有島一郎、清川虹子

『ありちゃんのパパ先生』が、プロデューサー兼ディレクターのデビュー作になるのかな。有島さんとは、ニッポン放送時代に一度お目にかかったくらいの関係です。「パパ先生」は、僕の企画でもなんでもないんです。「有島一郎主演のドラマを東宝とやることになった。君に演出してもらいたい」と。
(第4回聞き取り)

 『ありちゃんのパパ先生』は、男やもめの開業医(有島一郎)と3人の娘(若山セツ子、家田佳子、野上優子)が織りなすホームドラマ。新宿区河田町に落成したフジテレビスタジオからの生放送で、サンウエーブ工業株式会社の一社提供だった。音楽は、『ありちゃんのおかっぱ侍』から引き続き、宇野誠一郎が担当した(嶋田さんの日記によれば、主題歌もあったらしい)。
 脚本を手がけたひとり、小野田勇の旧蔵台本には「8 JOCX-TV」のロゴとともに「製作 東宝株式会社テレビ部」の判が押されている。台本は現在、一般社団法人「日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム」が管理している(現時点で閲覧できないため、登場人物の名前は不明)。

お母さんがいなくて、3人の娘のお父さんが有島さん。「パパ」だけど「先生」、お医者さんというわけ。脇まで配役はすべて決まっていました。「ぜんぶ決まっているんですか」と上司にぼやいたら、「東宝はフジテレビの株主だし、開局すぐのドラマだから、キャスティングそのほかは東宝のチカラを借りたほうがいい。でも演出は君だ。このドラマは、有島さんとうまくいかないとできない。君はニッポン放送での経験があるし、(有島一郎の俳優仲間である)千葉信男や市村俊幸とも親しいし、きっとうまくいくよ」。そうおだてられて、説得されたんです。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』。左より家田佳子、野上優子、若山セツ子、有島一郎

 「電気紙芝居」とテレビを揶揄する声もあるなか、嶋田さんはテレビに夢と希望を抱いた。ニッポン放送から、開局前のフジテレビに異動が決まったとき、「音だけのラジオから、画面のあるテレビへ」と前向きだった。ただ、有島一郎主演ドラマの演出は、どちらかといえば気乗りがしなかった。聞き取りの席でも、「最初のスタートがお仕着せの番組というのはアレだけど」と言っていた。
 嶋田さんにとってテレビドラマの演出は、『ありちゃんのパパ先生』が初めてではない。フジテレビの開局前、『警察日記』(1959年1月12日試験放送)、『フジ劇場 執刀』(1959年2月9日試験放送)を演出した(台本には《P・D 島田親一》とある)。いずれも30分ドラマ(18時15分開始)で、開局前の試験放送(試験電波)のため、一般家庭の受像機には流れていない。
 『警察日記』は、日活で映画化(1955年2月3日公開)された伊藤永之介の原作で、高橋辰雄が脚色、ベテランの村田正雄と浮田左武郎のほか、新人の三田佳子が出演している。美術を妹尾河童、音楽をアーコディオン奏者の横森良造が担った。嶋田家の書斎に演出台本が残されていたが、テレビドラマ史にまったく記録されていない、幻の作品である。


島田親一演出『警察日記』(フジテレビ、1959年1月12日試験放送)台本

 続く『フジ劇場 執刀』は、山本雪夫のオリジナルで、夫婦にして同僚の外科医の葛藤を描く異色の医療ドラマである。主人公の外科医夫婦を、俳優座の滝田裕介と大塚道子が演じた。フジテレビの隣に東京女子医大病院がある関係で、同医大の榊原外科(心臓外科医の榊原仟)が監修、スタジオに手術室のセットを組むなど本格的な作品となる。


島田親一演出『フジ劇場 執刀』(フジテレビ、1959年2月9日試験放送)台本表紙

 『執刀』は、洋画の字幕を真似て「スーパーインポーズ」を使うなど、演出も意欲的だった。嶋田さんが生前、国立国会図書館に寄贈した台本を読むと、テンポがよく、ドラマチックな展開で本当に面白い。のちにアメリカの人気テレビドラマとなる『ベン・ケーシー』(ABC、1961年10月~66年3月放送)を彷彿とさせる。これだけの力作が、電波にのらなかったとは……。
 嶋田さんにとっても、『執刀』は忘れがたい作品となる。企画、配役、演出のすべてを手がけ、聞き取りの席でもエピソードを聞かせてもらった。国会図書館で台本を読んだことを告げると、とても喜んでくれた。

僕にとってテレビは、限りなく映画に挑戦する気持ちでやっていました。たとえば、滝田裕介と大塚道子がそれぞれドイツ語を話すと、そこに日本語の字幕が出る。夫婦で言いにくいことを、ドイツ語でごまかして言い合う。そこに「スーパーインポーズ」をいれる。そういうのって、映画しかできないじゃないですか。いかに映画に憧れていたか、なんです。あらためて(台本を)読むと、よくできたホンだと思いますね。
(第4回聞き取り)



『フジ劇場 執刀』テロップと同・台本の部分拡大(嶋田親一寄贈、国立国会図書館蔵)

 さらにもう1本、スタジオドラマではなく、16㎜フィルムによる30分のテレビ映画『恋と御同席』を演出した。盟友である松木ひろしのオリジナルで、残された台本には島田親一、森川時久、丹羽茂久の3人の名が演出としてならぶ。建築デザイナー(沼田曜一)と洋装店の店員(松田敦子、今井和子、翠潤子)が織りなす、しゃれたラブコメディである。
 嶋田さんの証言によれば、杉並区荻窪でロケがおこなわれ、「こういう映画は苦手」と森川から演出を押しつけられた。『恋と御同席』は、内部研修用のパイロットドラマだが、1959(昭和34)年4月11日に放送されている。


島田親一、森川時久、丹羽茂久演出『恋は御同席』(フジテレビ、1959年4月11日放送)台本

 嶋田さんにとって『ありちゃんのパパ先生』は、『警察日記』『執刀』『恋と御同席』に続くもので、本放送として最初のドラマ演出となった。演出家として記念すべき作品であり、『執刀』のように企画から配役まで、自分のカラーを出したかった。局から、すべてお膳立てができていることを告げられ、その心中は穏やかではなかった。
 ところがやってみると、『ありちゃんのパパ先生』も忘れ得ぬ仕事となる。嶋田家の書斎には、このドラマの写真(スチールとリハーサル風景)が70枚以上残されていて、深い愛着がうかがえる。そのいちばんの理由は、主演であり現場の要となった有島一郎の存在にある。

有島さんとの最初の顔合わせで、「すごい人だな」と感じました。開口一番、「東宝がお膳立てしたけど、作るのはあなたです。ひとつ、いっしょにやりましょう」と。「恐縮です。僕は舞台出身ですが、テレビドラマを生で演出するのは初めてです。ご指導をお願いします」と言いました。有島さんは早くから、テレビドラマに出られていましたから。それから本当によくしていただいたし、仲良くなりました。謙虚な方なんですよ。出会ってから亡くなるまで、ずっと「シマダさん」と「さん」づけでしたし。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』メイク中の有島一郎(フジテレビメーキャップ室、1959~60年)

 当時の生ドラマはどのように作られ、電波にのったのか。『執刀』の演出台本によると、「ロケハン」「音楽録音」「本読み」「立ち稽古」「スタッフ会議」「ドライリハーサル」「カメラリハーサル」「本番(放送)」の流れで、ロケハンから本番まで6日かけている。当時の生ドラマはだいたい、この流れで放送されていた。
 嶋田さんは生前、『ありちゃんのパパ先生』第26回「おふくろ台風」(小野田勇脚本、1959年8月25日放送)の演出コンテ台本を寄贈している(日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムが管理)。同台本の表紙には「71カット」とあるが、残念ながら内容は閲覧できない。
 『ありちゃんのパパ先生』の演出は、フジテレビ芸能部第4班のプロデューサー(ディレクター)島田親一である。有島一郎は、その現場のまとめ役となり、(いい意味で)演出に口をはさむ。残された写真を見ると、現場での存在感がわかる。


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景。左より3人目に有島一郎

演出コンテ台本をもとに、立ち稽古をします。この場面はアップで撮る、という決め事はしておく。ただし、有島さんのようにキャリアのある方は、いろんな発想をお持ちだし、あんまりこちらで決めてしまうとおもしろくない。立ち稽古のとき、「ここ、もらえる?」と有島さんが僕に言う。「自分をアップで撮ってほしい」というわけ。演出に問題がなければ、「有島アップ」と台本に書き込む。そして本番、ゆがめたり、笑ったり、顔で芝居をする。有島芸ですよ。そうした現場でのあ・うんの呼吸は楽しかったし、名優だと思いました。
(第4回聞き取り)

 有島ほどのキャリアの持ち主が、現場で口を出すことに、嶋田さんは違和感を覚えなかった。むしろそこに、演出のキモを見いだしていく(有島はアドリブを入れるとき、嶋田さんにきちんと許可をとったそうである)。有島一郎や新国劇文芸部時代に接した島田正吾、辰巳柳太郎について、「あのクラスになると演出家以上」とふりかえる。

島田と辰巳は、舞台稽古で演出が気に入らないと、舞台上で動かないんです。僕が演出助手でついた中野実さんの芝居(1954年上演『叛乱』)では、演出の中野さんと大喧嘩でした。島田も、辰巳も、客席から自分がどう見えるのか、ちゃんとわかっている。自分を客観視することができて、そこに俳優としての筋が通っている。有島さんもそうでした。ご自分で演出はしなかったけれど、演出家以上の注文をこちらにぶつけてくる。僕も演出のことを、そこから学びました。芸を盗むのではなく、こちらに伝わってくる。自然とどこかで会得していました。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景。手前左に有島一郎、右奥に殿山泰司

 『ありちゃんのパパ先生』の原案は、ムーラン・ルージュ新宿座で活躍した劇作家の小崎政房(松山宗三郎の名で俳優としても活動)によるもの。ただし、ドラマの基本フォーマットは、有島一郎の意向を反映している。コメディの『ありちゃんのおかっぱ侍』とは路線を変え、有島はしっとりとしたホームドラマを目ざした。嶋田さんは著書にこう書き残す。

 喜劇人としての地位を作り上げていた有島一郎は、「笑わせる」という意識を捨てて、リアルな日常生活を描き、その中で父娘の愛情を表現したい――企画の意図は彼の理想を反映させたものだった。この日常生活を丹念に描くというのは、茶の間にじかに入っていくテレビという媒体に合っていた。
(『人と会うは幸せ!』)

 演劇評論家の戸板康二は、家族連れで日比谷を歩く有島の姿を見かけて、こう書いた。《子供をつれて散歩をしている彼は、日曜日のサラリーマンのように、あかるい表情の一市民だ(略)短い時間、ほんのりと、ぼくを楽しませてくれる役者なのだろう》(『百人の舞台俳優』淡交社、1969年5月)。
 ごくごくまじめな小市民、年ごろの娘を3人もつ父親、男やもめの哀歓とペーソス。「パパ先生」のキャラクターは、有島一郎の人となり、芸と持ち味にうってつけである。しかも有島自身、3人の娘をもつ父親だった。


有島一郎・まさ子夫妻(中央)と娘たち(NETテレビ『夫と妻の記録』1961年9月22日放送)

 1959(昭和34)年2月28日、嶋田さんは『フジテレビ開局前夜祭(コマ劇場の部)第一部』の演出を担当する(新宿コマ劇場からの生中継)。翌3月1日にフジテレビが開局し、2日後の3月3日22時15分から、『ありちゃんのパパ先生』第1回「先ずはお目見得の巻」が放送された。
 テレビの本放送開始からおよそ7年、皇太子の成婚を翌月(4月10日)に控え、一般家庭へのテレビ受像機の普及は進んでいた(1959年末のNHK受信契約数は346万世帯)。しかし、当時はまだラジオがお茶の間の中心にあった。新聞の放送欄もラジオは上段、テレビは下段に掲載されている。『ありちゃんのパパ先生』も、新番組の紹介記事や広告はなく、夜の遅い帯ドラマとして、ごくひっそりとタイトルがある。


1959年3月3日付け「毎日新聞」朝刊のテレビ欄(フジテレビ部分を部分拡大)

『ありちゃんのパパ先生』のサブタイトル、放送日、脚本家は以下の通りである(表記は各紙新聞縮刷版のテレビ欄に準拠。無記名は脚本家不明)。

◎先ずはお目見得の巻(1959年3月3日)
◎先きんずればの巻(3月10日)
◎春のためいきの巻(3月17日)
◎智恵子の卒業式の巻(3月24日)
◎昔の部下の巻・前編(3月31日)
◎昔の部下の巻・後編(4月7日)
◎辛い日曜日の巻(4月14日)
◎親馬鹿の巻(4月21日)
◎晩春の巻(4月28日)
◎緑の雨の巻(5月5日)
◎夫婦喧嘩の味の巻(5月12日)
◎お早くどうぞの巻(5月19日)
◎邪魔ですの巻(5月26日)
◎青春ふたたびの巻(6月2日/小野田勇)
◎本日開業の巻(6月9日/小野田勇)
◎狼なんか怖くないの巻(6月16日)
◎奇妙なお見合の巻(6月23日/小野田勇)
◎風と花と聴診器の巻(6月30日/小野田勇)
◎今夜はラッキーセブンの巻(7月7日/小野田勇)
◎祇園まつりの巻(7月14日/小野田勇)
◎奥さま飼育法の巻(7月21日/小野田勇)
◎箱入娘冒険旅行の巻(7月28日/小野田勇)
◎ラブレター第一号の巻(8月4日/小野田勇)
◎雷雨もたのしの巻(8月11日/小野田勇)
◎なぐられたラッキーボーイの巻(8月18日/小野田勇)
◎おふくろ台風の巻(8月25日/小野田勇)
◎風が九月を持ってきたの巻(9月1日/小野田勇)
◎まごころありての巻(9月8日)
◎招かざるお客の巻(9月15日)
◎お月様はレモン色の巻(9月22日/小野田勇)
◎秋風たちての巻(9月29日)
◎困った病人の巻(10月6日)
◎わが家の禁句の巻(10月13日/須崎勝弥)
◎大阪よいとこの巻(10月20日/小野田勇)
◎智恵子の特ダネの巻(10月27日/小野田勇)
◎菊咲きみだれての巻(11月3日/須崎勝弥)
◎花束は誰に贈られたの巻(11月10日)
◎落葉の贈りものの巻(11月17日/小野田勇)
◎吾娘よ美しくあれの巻(11月24日/須崎勝弥)
◎何でも大当りの巻(12月1日)
◎師走のバラードの巻(12月8日/小野田勇)
◎捕らぬ狸の何とやらの巻(12月15日/須崎勝弥)
◎今宵楽しくの巻(12月22日)
◎鬼が笑いますの巻(12月29日)
◎華やかな招待の巻(1960年1月5日/小野田勇)
◎白梅の宿の巻(1月12日)
◎商売がたきの巻(1月19日/須崎勝弥)
◎みぞれ後ゆきの巻(1月26日/小野田勇)
◎ある夜の出来事の巻(2月2日)
◎看板に偽りなしの巻(2月9日/須崎勝弥)
◎結婚準備完了の巻(2月16日/小野田勇)
◎ハッピーエンドの巻(2月23日)

 各回のストーリーはわからないものの、季節感や年中行事をいかしつつ、一家4人の日常と人間模様を描いていることが想像できる。3人の娘の話だけでなく、男やもめである「パパ先生」の恋ごころも、そのときどきで描かれたらしい。


『ありちゃんのパパ先生』。左より家田佳子、野上優子、有島一郎、若山セツ子

 メインライターのひとり小野田勇は、三木鶏郎とともに仕事をした劇作家で、『ありちゃんのおかっぱ侍』の脚本も手がけた。ニッポン放送時代に嶋田さんが胸をときめかせた、「虻蜂座」(前々回ブログ参照)の同人でもある。須崎勝弥は当時、東宝と契約する脚本家で、数多くの映画・テレビドラマのシナリオを手がけた。

「パパ先生」の原案は、小崎政房さんでした。ムールン・ルージュ新宿座の舞台で知られた方で、僕は新国劇でごいっしょ(1953年上演『平手造酒』)したことがあります。小崎さんは最初のほうで脚本を降り、そのあとは小野田勇さんが中心となります。テレビドラマは、お茶の間にスッと入っていかなければならない。とくにこの作品は、「ありちゃんの」と役者の名前が頭についています。一話完結の人情モノ、いわゆる父モノのホームドラマで、テレビ的だったと思いますね。ストーリーも、長くても前後編で完結するかたちにしました。
(第4回聞き取り)


左に小野田勇、右に小崎政房(「ありちゃんのパパ先生・完結記念」部分拡大、1960年2月23日)
 
 嶋田さんは、生ドラマのハプニングを、おもしろおかしく語る人ではなかった。そこに、プロとしての矜持があったように感じる。生ドラマの現場は過酷で、とくに小野田勇の脚本はなかなか上がらず、ホテルに缶詰になって仕上げていた。ホンは遅いが、出来はうまい。小野田と有島、それぞれの持ち味を生かしたシナリオに、嶋田さんは舌を巻く。
 『ありちゃんのパパ先生』のメインキャストは、有島一郎の主人公と若山セツ子、家田佳子、野上優子の3人娘、くわえて島田妙子(お手伝いさん役か?)がレギュラー出演した。第26回「おふくろ台風」の演出コンテ台本によると、ほかに舟橋元、武智豊子、小田切みき、村田正雄などが出演している。
 東宝が制作にかかわった関係で、多彩で豪華な俳優がゲスト出演した。越路吹雪、三木のり平、久慈あさみ、市川春代、高杉妙子、高島忠夫、安西郷子、花井蘭子、田代百合子、三条美紀、清川虹子、殿山泰司、中村是好、嶋田さんの師である佐々木孝丸も出た。


『ありちゃんのパパ先生』。左に三木のり平、中央に有島一郎
 
 なかでも異色回は、第34回「大阪よいとこの巻」である。系列の関西テレビ放送スタジオで収録され、松竹新喜劇の曽我廼家五郎八がゲスト出演した(フジテレビでは当時『松竹新喜劇アワー』を放送していた)。その収録の帰り、東海道本線の急行「あかつき」の車内で撮られたスナップが、嶋田さんの旧蔵写真のなかにあった。


『ありちゃんのパパ先生』収録帰り、急行「あかつき」車内にて。右より2人目に嶋田親一(1959年10月19日、松下朗撮影)

有島さんだけではなく、東宝の担当者もなかなかいい人で、うまくいっしょに仕事ができました。ゲスト出演者はこちらでも考えて、佐々木のおやじ(佐々木孝丸)にも出てもらった気がするなあ。たった一度とはいえ、越路吹雪さんを演出(第45回「華やかな招待の巻」)できたのは、いまから考えるとありがたいです。感じのいい人だった記憶があります。
(第4回聞き取り)

『ありちゃんのパパ先生』。左に佐々木孝丸、中央に島田妙子

 有島一郎と若山セツ子は、お茶の間で知られた東宝のスターである。ただ『ありちゃんのパパ先生』は、テレビドラマ史にその名を刻む名作、人気作、話題作ではない。毎週火曜の夜、子どもが寝静まるころに放送された、ささやかなホームドラマである。
 フジテレビではすでに、連続・単発問わず週に何本ものドラマが放送されていた。嶋田さんも『ありちゃんのパパ先生』だけでなく、単発枠の『東芝土曜劇場』や角田喜久雄原作の『風雲さそり谷』(1959年8月30日~60年2月28日放送)を演出している。


島田親一演出『東芝土曜劇場 私は死んでいる』(フジテレビ、1959年8月15日放送)リハーサル風景。左より多岐川恭、垂水悟郎、岸田今日子、島田正吾

 メディアの注目を集めることなく、ひっそりと回を重ねていく『ありちゃんのパパ先生』。それでも、熱心な視聴者はいた。番組のファンだった小学1年の男の子が、ひとつの逸話を残す。きっかけは、フジテレビに届いた母親からの手紙だった。

有島さんのパパ先生が、その男の子の亡くなったお父さんにそっくりだったそうです。ブラウン管を見て、いつも「パパ、パパ」と話しかけている。そういう投書が、お母さんからありました。その話を有島さんに伝えたら、「いやあ、それは感激だね」と喜んで、激励の手紙(寄せ書き)をみんなでプレゼントしたんです。
(第4回聞き取り)

 このエピソードは、マスコミの知るところとなる。1960(昭和35)年1月22日付け「東京新聞」に、「少年ファンへ寄せ書き 有島一郎たちが感謝して」の見出しで記事となり、嶋田さん旧蔵のスクラップブックに貼られていた。

(前略)中森さん一家は大変な有島一郎ファン、それというのも中森さんの夫が有島そっくりで近所でも評判の人。夫婦には小学一年生の男の子があるが、夫の帰りが遅いと「アリちゃんのパパ先生」を見て「お父さんだ」と、一時のさびしさをまぎらしてきたという。ところが昨年十月十五日、突然その父親が他界してしまった。それ以来というもの、一年生の子供は毎週土曜(ママ)日夜「もう遅いから」という母親の言葉も聞かずにテレビの「アリちゃん」にかじりついて離れない。亡き父をしのぶ子供心の哀れさにたまりかねた中森さんが、子供にかわって「有島一郎さんがんばって」と手紙を書いたもの。感激した有島一郎や島田親一プロデューサーが、早速記念品を贈ろうと協議した末、とりあえず出演者一同の寄せ書きで「力を落とさず明るく暮らして下さい」と激励することになった(中略)
(有島一郎の話)ボクにも三人の子供があるが、投書を読んで胸をえぐられる気持ちがしました。俳優生活で初めての経験ですし、こういうファンのためにもシッカリやらなければならないことを痛感しました。
(1960年1月22日付け「東京新聞」)


左より家田佳子、野上優子、島田妙子、有島一郎、若山セツ子。フジテレビのメーキャップ室にて(1960年1月22日付け「東京新聞」、嶋田親一旧蔵スクラップブックより)
 
 この話は、著書『人と会うは幸せ!』にも書かれている。嶋田さんの長い放送人生のなかでも、忘れられない出来事となった。

当時のテレビは、お茶の間にストレートに入っていくものでした。男の子の話もそうですが、生放送だからこそ、見ている人や子どもたちにスッと伝わったと思いますね。「パパ先生」は、視聴率も安定していたように記憶しています。テレビのよき時代だったという気がします。
(第4回聞き取り)


『ありちゃんのパパ先生』。右から2人目に有島一郎
 
 そんな愛すべき「パパ先生」一家とも、別れのときが訪れる。スポンサーであるサンウエーブ工業の都合で、放送1年をもって終了が決まった。それを知ったファンの男の子は、さぞかし嘆き悲しんだことだろう。
 『週刊明星』(集英社)1960年2月28日号に「有ちゃん一家の別れ話」の見出しで、有島一郎、若山セツ子、家田佳子、野上優子の4人がそれぞれコメントを寄せた。

有島 お前たち、みんな仲良くやれよ。
家田 お姉さま(若山)の縁談だけはハッピー・エンドにしてもらおうね。
野上 パパにも、ナイト・クラブや、あっちこっちにつれて行ってもらって、ほんとに楽しかった。
若山 パパも、この一年間、久慈あさみさん、市川春代さん、髙杉妙子さん、ずいぶん、ヨロめいたわネ、でも、いいパパだった。
 こんどは、あたし達でお金をかけてでも、一家を再建?したいわネ……
(『週刊明星』1960年2月28日号、集英社)

 この記事によれば、有島やスタッフは2~3年は番組を続けるつもりだった。三姉妹役の若山セツ子、家田佳子、野上優子も、プライベートで親しくなった。撮影現場では文字どおり、有島が「パパ先生」となり、アットホームな雰囲気に包まれていた。そのことは、残された写真から伝わってくる。
 色川武大は著書『なつかしい芸人たち』(新潮文庫、1993年6月)のなかで、有島の素顔を綴っている。気むずかしく、孤立癖があり、不機嫌な気配をただよわせ、楽屋で人を寄せつけない。そういう一面はあったにしろ、「パパ先生」の現場での有島は、色川のエッセイを読んで受けた印象とはだいぶ違う。


『ありちゃんのパパ先生』本読み風景。右端に有島一郎
 
 1960(昭和35)年2月23日、『ありちゃんのパパ先生』の最終回「ハッピーエンドの巻」が放送された。サブタイトルと写真から推測して、長女(若山セツ子)の結婚が描かれたようである。有島のパパ先生は「花嫁の父」となり、有終の美を飾った(映画やテレビでも「花嫁の父」が得意な俳優だった)。放送当日の新聞テレビ欄の扱いはふだんと変わらず、ドラマはひっそり幕をとじた。


『ありちゃんのパパ先生』最終回「ハッピーエンドの巻」(1960年2月23日放送)。左に有島一郎、右に若山セツ子
 
 最終回の当日、フジテレビのスタジオでは、スタッフと出演者が勢ぞろいし、記念撮影がおこなわれた。生みの親というべき小崎政房や小野田勇、主演の有島一郎らと並んで、嶋田さんの姿もある。これだけ多くのスタッフと出演者の手で作られ、お茶の間へと送られていた。


「ありちゃんのパパ先生・完結記念」(フジテレビスタジオ、1960年2月23日)。前列右3人目より家田佳子、若山セツ子、有島一郎、野上優子、小崎政房、小野田勇。野上の後ろに嶋田親一
 
 有島の著書『ピエロの素顔』に、『ありちゃんのパパ先生』についての記述はない。そのかわり、本にしていない原稿を、有島はたくさん抱えていた。有島と親交のあった芳賀綏さん(東京工業大学名誉教授、故人)から直接、その話を聞いたことがある。日の目を見なかった原稿に、「パパ先生」の思い出を綴っていた可能性はある。
 映像が霧散霧消した30分の生ドラマ。『ありちゃんのパパ先生』の関係者の多くが、この世の人ではない。嶋田さんが亡くなったことで、懐かしく思い出を語る人もいなくなってしまった。若山セツ子のことなど、もっといろいろ聞きたかった……。


『ありちゃんのパパ先生』リハーサル風景

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 有島一郎と嶋田親一、ふたりの仕事は『ありちゃんのパパ先生』のあとも続く。
 番組を終えた半年後の1960(昭和35)年8月6日、『東芝土曜劇場』の枠で、松木ひろし作、有島一郎主演の1時間ドラマ『墓場はバラ色』が放送された。『ありちゃんのパパ先生』とはうってかわり、今回はスリラー仕立ての風刺喜劇である。
 パリに憧れるコックの伴六平(有島一郎)はある日、フランス帰りの犬丸かおり(鳳八千代)と知り合う。かおりの希望で、ふたりは偽装夫婦となる。フランスにいるかおりの夫の財産を、夫のいとこ夫婦(高橋昌也、加代キミ子)が狙っていたからだ。殺し屋(植村謙二郎)が暗躍し、金と欲をめぐるトラブルに六平は巻き込まれていく。


島田親一演出『東芝土曜劇場 墓場はバラ色』(フジテレビ、1960年8月6日放送)リハーサル風景。左より鳳八千代、植村謙二郎、有島一郎、加代キミ子、高橋昌也

 前々回のブログ「ブーチャン葬送曲 市村俊幸」で触れたけれど、松木ひろしと嶋田さんは劇団「現代劇場」を旗揚げし、しゃれた喜劇をいくつも上演した。『墓場はバラ色』は、そこに有島一郎を加えた意欲作で、舞台仕立てのユニークなテレビドラマを狙った。

このドラマは覚えています。セットを横につないで、その前を登場人物に歩かせ、カメラが移動する実験的な演出にしました。僕とずっとコンビを組んだ松下朗が美術で、壁面だけのセットを組んだんです。カメラが横に移動して、カットをそこで切り替えると、ぜんぜん違う画面がそこに映る。エンドマークもフランス語で出して、しゃれたつもりでした。
(第4回聞き取り)


『墓場はバラ色』リハーサル風景。中央に有島一郎
 
 松木ひろし、島田親一、有島一郎の組み合わせで、さぞかし愉快な作品だったと思う。残されたリハーサル写真を見るだけでも、こころが躍る。ところが聞き取りの席では嶋田さんは、こう苦笑した。

『ありちゃんのパパ先生』でいい気になって、有島さんに出てもらって、松木といっしょにやったわけです。これが失敗作でね。映画評論家の飯島正さんに、ばっさりやられました。もう、めったぎりに。決していい作品ではなかったけれど、思い出ですね。
(第4回聞き取り)

 映画評論で名をなす飯島正は、テレビドラマにも注目していた。嶋田さんの言うばっさり、めったぎりにされた作品評が、当時のテレビ情報誌に掲載された(嶋田さんは辛辣な作品評もすべて、スクラップブックに貼っていた)。

 作者松木ひろしと演出の島田総一(ママ)については、何も知らない。新聞記事によると「やたら理窟の多い新劇作品の中で、しゃれたタッチとチョッピリ風刺もきかせ、ムーランの再現として評判をとった」のだそうである。もっともそれは新劇の場合で、テレピはこれがはじめだとのこと。
 ぼくもずいぶん、好奇心の強い方で、そういうふれこみならばぜひ一見をと、かたずをのんで拝見したわけだが、どうも作中の有島一郎もいっているように、これでは「なにがなんだかちっともわからない。」「しゃれたタッチ」も「チョッピリ風刺」も「ムーランの再現」も感じられなかった。いや、それらしいものをだそうとする意図の片鱗は見えないこともないのだが、それはムーラン・ルージュのような小舞台で、むしろチャチにやってこそ生きるのでテレビには無理である。これを東京宝塚劇場の大舞台でやるそうだが、その点ぼくには疑念がある。(後略)
(飯島正「テレビでは無理」『週刊テレビ時代』1960年8月第2週号、旺文社)

 この作品評で飯島は、《これを東京宝塚劇場の大舞台でやるそうだが》と書く。『墓場はバラ色』は、テレビと舞台によるメディアミックスとして企画され、放送ならびに上演された。
 ドラマ放送の翌月、日比谷の東京宝塚劇場で「秋の東宝特別公演」(9月1日初日、28日千秋楽)が上演された。3本の演目のうち、最初に上演された『夜の道化師』(4場)が、『墓場はバラ色』の舞台版である。テレビ版と変わらず有島一郎が主演し、菊田一夫が演出した。ヒロインに越路吹雪、財産を狙う夫婦に八波むと志と加代キミ子、殺し屋が三木のり平だった。


東京宝塚劇場「秋の東宝特別公演」広告(1960年8月31日付け「讀賣新聞」夕刊)


菊田一夫演出『夜の道化師』。左に堀越正太役の有島一郎、右にさつき役の越路吹雪

 先のドラマ評で飯島正は、大劇場での上演に疑念を抱いた。当時の劇評を読むかぎり、『夜の道化師』の評判はあまり良くない。舞台版について嶋田さんに訊いたところ、「舞台になったことは覚えていない」とのことだった。
 菊田一夫のキャリアのなかでも、この舞台のことは論じられることが少ない。フジテレビと東京宝塚劇場がコラボしたメディアミックスは、話題にならず終わったようである。

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 有島一郎主演の『ありちゃんのパパ先生』と『墓場はバラ色』の映像が、フジテレビに残されているとは考えられない。残された写真で、想像するしかない。
 嶋田さんの演出ではほかに、小林桂樹主演の『シオノギテレビ劇場 ピーターと狸』(フジテレビ、1967年7月27日~8月17日放送)に有島が出演している。この作品は嶋田さんにとって、最後のテレビドラマ演出となった(その後はプロデューサーとして活動)。2010(平成22)年9月16日に小林が亡くなったとき、ワイドショーで『ピーターと狸』の映像が流れた記憶があるものの、全編を視聴することは叶わない。
 さいわいにも1本だけ、嶋田親一プロデュースによる有島一郎出演ドラマを見た。倉本聰原案の『土曜劇場 6羽のかもめ』(フジテレビ、1974年10月5日~75年3月29日)である。
 メンバーが6人に減ってしまった新劇の劇団「かもめ座」の座員(淡島千景、加東大介、高橋英樹、長門裕之、夏純子、栗田ひろみ)が、テレビ業界で奮闘する姿をユーモラスかつ哀しみをこめて描く。嶋田親一と垣内健二(淡島千景のマネージャー)がプロデューサーをつとめ、富永卓二と大野三郎が交代で演出を手がけた。


『土曜劇場 6羽のかもめ』。前列左より高橋英樹、淡島千景、中列左より長門裕之、夏純子、加東大介、後列に栗田ひろみ(DVD『6羽のかもめ』解説書)
 
 『6羽のかもめ』は、1970年代を代表する名作テレビドラマであり、嶋田さんの代表作でもある。2009(平成21)年2月には、フジテレビ開局50周年記念でDVD(ポニーキャニオン)が発売され、いまでも見ることができる。
 有島一郎は『6羽のかもめ』のゲスト出演者で、第10回「花嫁の父」(1974年12月7日放送)に登場する。演出は大野三郎、原案の倉本聰が脚本を手がけた。
 このエピソードで有島が演じたのは、文字どおり「花嫁の父」である。黒岩伸吉(郷鍈治)と松平冬子(泉晶子)、当代人気スターどうしの結婚が決まる。ところが冬子の父・松平公介(有島一郎)が突然ヘソを曲げてしまい、破談に。仲介の労をとった「かもめ座」の座長・犬山モエ子(淡島千景)を巻き込む、芸能スキャンダルへと発展してしまう。
 公介はなぜ、ヘソを曲げたのか。婚約発表を伝える記事の写真キャプションに、「黒岩伸吉、一人おいて松平冬子」と書かれたことに傷ついたのだ。


大野三郎演出『土曜劇場 6羽のかもめ』第10回「花嫁の父」(フジテレビ、1974年12月7日放送)。写真下に淡島千景、写真上左より郷鍈治、有島一郎、泉晶子

「一人おいて」のエピソードは、よく覚えています。同僚で仲の良かった岡田太郎から、「あれはおかしい」と指摘されたんです。岡田は、吉永小百合といっしょになったでしょう(岡田と吉永は1973年に結婚)。「芸能記事が花嫁の父を無視することは、あり得ないんじゃないか」と。「たとえ話なんだし」と答えるしかない(笑)。そもそも「一人おいて」は、倉本聰がどうしても書きたかった話なので、変えるわけにいきません。
(第11回聞き取り)

 岡田太郎の指摘は当時、週刊誌に取り上げられた。嶋田さんが「どうしても書きたかった」と明かすように、作者の倉本聰はこう反論した。

「そんなこといったって、週刊誌記者だって、佐久間良子や浅丘ルリ子のお父さんの顔を知らない人は多いでしょう。スターの父親というのは本質的に取り残された、寂しい存在なのだから、あれはあれでいいんですよ」
(「『6羽のかもめ』になぜかタレント達が大騒ぎ!」『週刊平凡』1975年2月27日号、平凡社)

 嶋田さんによると、『6羽のかもめ』のキャスティングは、脚本家、プロデューサー、演出家がアイデアを出し合い、倉本聰の了解を得たうえで決めた。寡黙で勤勉実直な公務員(区役所戸籍課の課長)にして、人気女優を娘にもつ公介役は、有島一郎にぴったりである(『ありちゃんのパパ先生』の最終回も「花嫁の父」だった)。
 「花嫁の父」の中盤に名シーンがある。ことを穏便に済ませようと、「かもめ座」のマネージャー・川南弁三(加東大介)が、公介の自宅を訪れる。公介は部屋にひきこもったまま、出てこない。弁三はふと、公介の妻・富子(初井言榮)に戦時中の身の上ばなしを始める。
 そこへ、ふすまごしに話を聞いていた公介が顔を出す。実は、ふたりは南方の戦地で会っていた。以下は、単行本化された倉本聰のシナリオの引用である。


『6羽のかもめ』「花嫁の父」。左より初井言榮、有島一郎、加東大介

公介「芝居やったでしょ。慰問隊つくって。――あっちこっち廻って、雪の降る芝居」

弁三「あ、あンた、ア、アノ芝居」
公介「観ましたよ。アバンで。ありゃまいった」
弁三「――!!」
公介「とにかくボルネオで――南の島で――舞台に雪が降ってきちゃうんだもん」
弁三「――!!」
公介「ありゃァまいった。――私ンちぁ新潟だし、わりと年じゅう雪があるから」
弁三。
――感激。
弁三「そうですかァ? あれを――。
あの芝居をボルネオで」
公介「――」
音楽――軍歌のメロディ、遠くしのびこむ。
(倉本聰「花嫁の父」『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』理論社、1983年1月)


『6羽のかもめ』「花嫁の父」
 
 シナリオを読んで気づいた人も多いと思うけれど、加東大介のエッセイ『南の島に雪が降る』(文藝春秋新社、1961年9月)のエピソードそのままである。作者の倉本聰は楽屋オチとして、このシーンを書いている。
 『文藝春秋』に発表された『南の島に雪が降る』はすぐ話題となり、NHKがテレビドラマ化(1961年4月30日放送)、東宝系の東京映画が久松静児監督で映画化(1961年9月29日公開)した。どちらも加東みずから主演し、映画版では博多仁輪加が得意な篠原曹長を有島が演じた。加東はもちろん、東宝の役者仲間だった有島にとっても縁のある作品である。


久松静児監督『南の島に雪が降る』(東京映画、1961年9月29日公開)。左に篠崎曹長役の有島一郎、右に加東軍曹役の加東大介


『南の島に雪が降る』広告(1961年9月25日付け「朝日新聞」夕刊)

 「花嫁の父」のシナリオでは、「!!」が多用されているけれど、実際はもっと穏やかな雰囲気で、加東の芝居もしっとりとしている。実際の映像とくらべると、微妙に台詞の言いまわしも異なっている。
 公介と弁三、つかのまのやりとりのあと、倉本聰のシナリオはこう続く。

時の経過
酒がつがれ、また返盃される。
徳利が次々と空になっていく。
無言で飲む弁三。
無言で飲む公介。
何かきく弁三。
ボソボソ答えているらしい公介。
その二人の目にウッスラとにじんでいる涙。
音楽――静かに消えていく。静寂。
(『倉本聰コレクション5 6羽のかもめ』)



『6羽のかもめ』「花嫁の父」

 しみじみとしたやりとりのあと、「一人おいて」がいかに無礼千万な仕打ちか、酔った公介が訥々と語り出す。弁三は、ただ黙ってうなずくしかない。有島の“語り芸”とともに、それを受ける加東がまた絶品である。

公介「弁ちゃん」
弁三「――ハイ」
公介「私は父親ですよ!」
弁三「――ハイ」
公介「二十四年間冬子を育ててきた――まぎれもない冬子の父親である!」
弁三「――ハイ」
公介「――無礼じゃないか!」
弁三「ハイ!」
公介「(涙)無礼でしょう弁ちゃん!?」
音楽――ゆっくりとたかまって終る。
(前掲書)



『6羽のかもめ』「花嫁の父」

 ストーリーはこのあと、公介を中心にもうひと騒動起こる。劇的ではないにしろ、展開としてはほろにがい結末となる。言葉すくない花嫁の父と、プライドを傷つけられた小市民のペーソス。不器用な中年男の佇まいは、有島一郎の独擅場である。

 嶋田さんが亡くなったとき、哀悼の意をこめて、この「花嫁の父」を見た。有島一郎、加東大介、倉本聰、大野三郎、そして、嶋田親一。みなさん、ほんとうに良きドラマを残してくれた。『6羽のかもめ』の話は、次回またあらためて――。
 
(つづく)

 

*印は嶋田親一旧蔵品、無印は筆者所蔵
(無断転載はご遠慮ください)