脇役本

増補Web版

隅田川慕情 河原侃二


佐川唯天「著者(河原侃二)像」(河原侃二著『ヴェス単作画の実技』光大社、1936年4月)

 年賀状の季節である。自分の身に置きかえると、出す枚数と届く枚数、ともにずいぶん減ってしまった。年輩の方から、「年賀状じまい」が届くこともある。すたれゆく文化なのだろう。
 年賀状に、こころ惹かれるときもある。いまは亡き名優、名脇役が遺したものは、眺めているだけでたのしい。往年のバイプレーヤーの年賀状が手元にある。差出人は河原侃二(かわら・かんじ/1897~1974)。戦前は松竹蒲田と松竹大船作品に、戦後は大映東京の作品に数多く出演した。


河原侃二年賀状(木版、左より1952年、63年、64年)

 “脇役本”ならぬ“脇役年賀状”として、この人のものがいちばん古本市場に流れている気がする。手元にあるのは、1952(昭和27)年、1955(昭和30)年、1961(昭和36)年~70(昭和45)年、1972(昭和47)年、1973(昭和48)年の計14通。それとは別に、喪中はがき(1971年1月)が1通ある。
 1952年版は漫画家の宮尾しげを、1955年版は版画家の稲垣知雄に宛てたもの。ほかはすべて、版画家の小林松雄に宛てた年賀状である。


河原侃二年賀状(木版、左より1952年、55年、62年/一部加工)

 詩人、編集者、新劇俳優、映画俳優、写真家、版画家。多芸多才な河原には、いくつもの顔があった。手元にある年賀状は木版刷りで、本人としては腕の見せどころだった。
 干支や自画像を図柄にしたものや、凧、梅、鯛、城址、民家などバリエーションに富む。童画家の武井武雄が主宰した版画年賀状の交換会「榛の会」の会員であり、河原から届く年賀状を楽しみにした版画家仲間は多かったと思う。


河原侃二年賀状(木版、左上より右へ1955年、61年、62年、65年、66年、67年、68年、69年、70年)

 俳優としての河原侃二は、どちらかといえばマイナーである。版画家としても、とくに著名なわけではなく、作品が高値で取引されることは少ない。とはいえ、アマチュアの版画家ではない。版画家の前川千帆に師事し、日本版画研究会で3年間学んだ。
 河原版画の回顧展が開かれることもなく、いまでは現物の刷りを目にする機会はほとんどない。仲間が大切に保存した年賀状は、版画家としてのキャリアを伝える、ひとつの証になった。

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 河原侃二は、1897(明治30)年4月16日、兵庫県赤穂町に生まれた(1899年、群馬生まれとする文献もある)。「侃二」と命名したのは、漢学者の父だった。
 群馬県前橋で青春時代を過ごし、萩原朔太郎らと詩誌の発行に携わる。そののち画家を夢みて上京。本郷洋画研究所で学んだのち、女子文壇社や報知新聞社の記者をへて、新劇の世界に入った。
 築地小劇場をはじめ、劇団を転々としたすえ、大正時代末に映画俳優に転身。タカマツ・アズマプロダクションのスターとして活躍したのち、昭和に入り松竹蒲田の専属となった。
 小津安二郎の監督デビュー作『懺悔の刃』(松竹蒲田、1927年10月14日公開)のほか、松竹蒲田から松竹大船へと数多くの作品に出演。戦前の松竹現代劇に欠かせない存在となる。


吉村公三郎監督『暖流』(松竹大船、1939年12月1日公開)。田所博士役の河原侃二

 個性ゆたかなバイプレーヤーがあまたいる映画界にあって、河原侃二は地味で淡泊、枯れた佇まいの俳優だった。とくに戦後の大映東京時代は、百本超の映画に出ていながら、主役の向こうを張るような代表作が思い浮かばない。老父、医師、博士、議員、自治体の首長、校長、会社重役、親分、無名の一般人……。老け役ばかりの印象があり、それはそれで味があった。

 ポスターに名前が載らない作品、台詞のないチョイ役もある。『日本映画戦後黄金時代』第20巻「東映・大映の脇役」(日本ブックライブラリー、1978年1月)には、「大映の脇役〈男優篇〉」として33人の俳優が紹介されているが、河原侃二の名はない。出演作は多いけれど、役に恵まれたとは言いづらい。


木村恵吾監督『乾杯!東京娘』(大映東京、1952年12月17日公開)。薬局さん役の河原侃二


島耕二監督『宇宙人東京に現わる』(大映東京、1956年1月29日公開)。左3人目より磯辺徹役の川崎敬三、小林芳雄役の見明凡太朗、高島博士役の河原侃二、松田英輔役の山形勲

 昨年、大映創立80年を記念して、「ラピュタ阿佐ヶ谷」で特集「大映映画を支えたバイプレーヤーたち」(2022年10月16日~12月17日)が開催された。ユニークなこの特集上映では、映画俳優・河原侃二の戦後のキャリアを垣間見ることができた。
 増村保造監督『ぐれん隊純情派』(大映東京、1963年7月27日公開)を皮切りに、吉村公三郎監督『一粒の麦』(同、1958年9月16日公開)、島耕二監督『無茶な奴』(同、1964年7月4日公開)など、出演作が何本か上映された。“大映映画を支えたバイプレーヤー”のひとりに数えていい。


島耕二監督『無茶な奴』(大映東京、1964年7月4日公開)。左よりジャリ組合幹部役の宮島健一、河原侃二、谷謙一

 この特集では、最終週に上映された弓削太郎監督『高校生芸者』(大映東京、1968年9月21日公開)が印象ぶかい。河原侃二の出演作としては、最晩年の仕事にあたる。
 演じたのは、ヒロインのたみ子(水木正子)が通う高校の校長(役名は「沼田老校長」)。富田仲次郎の教頭、小笠原良智の教師、山茶花究のPTA会長に比べると見せ場に乏しく、顔のアップもない。それでも、芸者と高校生を両立させるヒロインを苦々しく思う、いかにも実直な校長先生の雰囲気はよく出ていた。


弓削太郎監督『高校生芸者』(大映東京、1968年9月21日公開)プレスシート(部分拡大)。左から2人目に河原侃二の名がある(ラピュタ阿佐ヶ谷、2022年12月)

 1971(昭和46)年12月、大映は倒産する。専属俳優(契約男優)の河原が、具体的にいつまで俳優を続けたのか、よくわからない。『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』(キネマ旬報社、1996年10月)に「河原侃二」の項目はあるものの、顔写真や没年月日(詳しくは後述)の掲載はない。
 河原侃二は、前々から気になる俳優で、『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)にすこし触れた。取り上げた“脇役本”は、河原侃二著『ヴェス単作画の実技(奥付は『ヴエス單作畫の實技』)』(光大社、1936年4月)。


河原侃二著『ヴェス単作画の実技』(光大社、1936年4月)函と総扉

 「ヴェス単(ベス単)」は、アメリカの小型カメラ「ヴェスト・ポケット・コダック」(Vest Pocket Kodak)のことで、単玉レンズに由来して呼ばれた。「ライカ」にくらべると安く、大衆向けのカメラとして人気を得た。
 『ヴェス単作画の実技』は愛好家に向けた撮影と引き伸ばしの技術書で、当時の「ヴェス単」人気を受けて刊行された。450ページを超える労作で、参考図版として河原の作品がいくつかおさめられている。写真家としてのキャリアを知る、得がたい一冊である。



【上】河原侃二「雪のアパート」(『ヴェス単作画の実技』)
【下】同「豆ランプの静物」(同)

 河原は「ヴェス単の名手」であり、撮影と引き伸ばしの達人として、愛好家のあいだでよく知られていた。松竹の専属俳優のかたわら、東京でヴェス単の会を主宰し、『カメラ』『フオトタイムス』『藝術寫眞研究』といった専門誌に作品を寄せ、撮影・引き伸ばし術を寄稿した。当時のヴェス単仲間は、こうふりかえる。

(前略)築地小劇場を経て、松竹の蒲田撮影所に入所され、当時の人気俳優、鈴木伝明の名脇役として名声を博しました。このため、その頃河原さんと撮影旅行に赴きますと、車中や路上で「あ、河原だ、松竹の人だ」と囁くのが聞かれました。写真歴に就いては、余りにも知り尽くされておりますから、割愛しますが、河原さんが写壇に頭角を現わし始めたのも、確かこの頃かと記憶しております。(後略)
(元橋源三郎「河原さんを憶う」写真集『光大』第3巻第1号、渡辺淳、1974年4月)

 部屋の本棚から『フオトタイムス』(フオトタイムス社)1934(昭和9)年2月号を引っぱり出すと、目次に河原侃二の名が2か所あった(五所平之助の名もある)。この号を読むだけで、当時の写真界での河原の立ち位置がわかる。


『フオトタイムス』(フオトタイムス社)1934(昭和9)年2月号目次(部分拡大)

 ひとつはグラビアの「口繪寫眞」で、タイトルは「敷島村」。上越線の敷島駅(群馬県渋川市)に続く坂道をくだる竹馬の少年ともうひとりを捉えた。左手前に自転車、駅には国旗が掲げられ、左奥には榛名山が見える。


河原侃二「敷島村」(『フオトタイムス』1934年2月号)

 もうひとつは「特輯 趣味と實際」のページで、8ページに及ぶ論考「ブロマイド印畫部分減力」を寄せた。その参考図版(無題)として、河原が撮影した風景が載る。水道橋と御茶ノ水のあいだ、省線沿いの坂道(さいかち坂)を写したもので、少年と子守りの女性がいる。モダンな都市風景を切り取っても、そこはかとなく哀愁をおびる。


河原侃二「無題」(『フオトタイムス』1934年2月号)


神田駿河台「さいかち坂」(東京都千代田区、2023年1月)

 今回のブログで河原侃二を取り上げたのには、わけがある。昨年12月、都内で開かれた写真展で、写真家としての河原に偶然出会ったからだ。本間鉄雄作品展「情趣とモダン」(JCIIフォトサロン+JCIIクラブ25、2022年11月29日~12月25日)がそれである。


本間鉄雄作品展「情趣とモダン」会場外(日本カメラ博物館、2022年12月)

 本間鉄雄(ほんま・かねお/1908~1990)は、自然や都市風景、静物をモチーフにした作品を得意とした。20代から最晩年まで、写真家として精力的に活動した。
 作品展「情趣とモダン」で展示されたのは「故河原侃二氏」。1941(昭和16)年9月16日から20日まで、日本橋室町の「小西六ギャラリー」で開かれた「ヴェス単展」での一枚(オリジナルプリント)である。本間は戦前、小西六本店(現・コニカミノルタ)に勤めていた。
 名画座で見かけても驚かないけれど、何気なく出かけた写真展で河原の肖像が、それも大きく飾られているのを見て驚いた。なにより、うれしかった。物思いにふけった表情がまたいい。


本間鉄雄「故河原侃二氏」(本間鉄雄作品展「情趣とモダン」図録)と同展DM

 本間は若いころ、身近な被写体を扱う河原の写真に刺激を受け、写真家としての学びにした。それが縁でふたりは、親交を深めていく。その交友は終生のものとなり、本間は河原の死を見届けることになる。

(前略)本職の映画俳優としてよりも写真家としての方が人気が高かったくらいで、ベス単写真全盛時代が河原さんの人生の全盛期でもあったと思います。
 アレコレ考えてみると、河原さんはベス単作画の歴史と共に生きた人だといえるでしょう。演劇、文学、写真、版画と趣味のレパートリーも広く、私たちの仲間としては又とないユニークな存在でした。酒はきらいで甘いものと煙草が大好き、野良猫を愛していつも十匹ぐらい飼っていたのも彼の人柄を物語る特徴でした。(後略)
(本間鉄雄「春を待たずに逝く」『光大』第3巻第1号)

 河原侃二と本間鉄雄が参加した雑誌に、『藝術寫眞研究』がある。発行元や発行形態は何度か変わったものの、1920年代から半世紀以上続いた、歴史ある同人写真雑誌である。


『藝術寫眞研究』(光大社)1964(昭和39)年10月号(表紙 石井鶴三)

 手元にある『藝術寫眞研究』(光大社)1964(昭和39)年10月号では、本間がフォトエッセイ「北郊の今昔 東上線成増赤塚附近の風物」を寄せた。河原は埼玉県柳瀬川畔の風景(1962年11月撮影)を一点載せ、「午後のすすき野」と題した。
 版画と写真、それぞれ魅力的な作品を残した河原だが、文章もいい。学生時代、群馬で萩原朔太郎らと詩誌を出した文学青年である。「午後のすすき野」のみじかい解説からも、その文才がうかがえる。


河原侃二「午後のすすき野」(『藝術寫眞研究』1964年10月号

芒原の小径を子供達が一列に、笑いさざめきながらゆくとゆう、何の変哲もない作品だが、この子供達の中に、自分の少年時代の郷愁を見出すと共に、前景の畑を照らした斜陽の、夕方近い弱い光にも惹かれ、思わずシヤツターを切つた。(後略)
河原侃二「午後のすすき野」

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 『脇役本 増補文庫版』を出したあとに手に入れた、“河原侃二本”がある。木下謙吉著『歌集 うつし繪』(白玉書房、1964年1月)。河原の著書ではないけれど、版画と写真と文章、それぞれの作風と人となりがわかる“脇役本”の逸品である。


木下謙吉著『歌集 うつし繪』(白玉書房、1964年1月)

 歌人の木下謙吉と河原侃二の関係は古い。ふたりの出会いは大正の初め、萩原朔太郎が顧問格となった同人誌『侏儒』が前橋で創刊される少し前のこと。
 それからおよそ半世紀後、木下が歌集を出すことになり、久しぶりに河原のもとを訪ねた。河原は、木下の歌にあわせた風景写真を本書のために撮影(8点掲載)し、跋文を寄せた。『歌集 うつし繪』の「あとがき」に、その経緯が明かされている。

(前略)歌はれた情景とマッチし、歌からうけるイメージをより強くしてくれる繪畫、或は寫眞を挿入して一冊にまとめたらと思ひついたのである、幸にして私の初期の友人河原侃二氏が、繪畫から版畫、寫眞と永年研究をつづけて居られ、現在日本版畫協會々員であり、「藝術寫眞研究」の同人であることを知り、一日同氏をたづねて歌集上梓についての協力を願つたところ快諾して下さつた、河原氏の業績はかねてから知つてゐたので、約五十年ぶりで逢つた人とは思へぬ親しさて、舊交をあたためることになつた。(後略)
(木下謙吉「あとがき」『歌集 うつし繪』白玉書房、1964年1月)


河原侃二「相生橋々畔」。中央は木下謙吉(1963年11月、『歌集 うつし繪』)

 歌と写真のコラボレーション。一例を挙げると、こんな感じである。

しみじみと洲崎の土手に汐風の音をきき居ればさびしもよ君
(前掲書)


河原侃二「南海橋」(1963年11月、前掲書)

 河原が撮影した「南海橋」は、汐浜運河にかかる「南開橋」(東京都江東区)のこと。洲崎弁天町から埋立地の汐崎町へ通じる橋で、当時の橋は架け替えられたものの、写真右側に写る「南開橋第一児童遊園」はいまも変わらない。


南開橋と南開橋第一児童遊園(東京都江東区、2022年12月)

 『歌集 うつし繪』には写真とともにもうひとつ、ぜいたくな趣向がある。総扉うしろに貼り込んだオリジナルの木版画である。印刷ではなく、河原がみずから摺った創作版画(自画自刻自摺)で、一冊ずつていねいに貼られている。初版数千部の商業出版ではなく、数百冊の少部数だったため実現できた。


河原侃二「前橋市小出河原」(木版、1963年、『歌集 うつし繪』)

 版画のキャプションには、《前橋市小出河原(現在敷島公園)から赤城山を見る》とある。この歌集のため河原は、木下らと赤城山へ撮影に出かけた。同行した川浦三四郎(詩誌『果實』同人)が、「手摺り版画を一枚入れて貰いなさい。和紙手摺りの版画はなかなかいいものだ」と木下に提案した。
 木下はすぐ乗り気になり、河原の手摺り版画が歌集の冒頭を飾ることになる。写真だけではなく、版画まで頼まれた河原は、跋文でこう明かす。

(前略)――勿論歌集に版畫挿入は悪くないだらうが、黒白小版畫には自信がない。黒白だけでサイズが小さいから簡單だと考へるのは門外漢で、版畫の極致は黒白版畫といはれるくらゐ、單純ゆゑに六ケしいのである。殊に小版畫に纏めようとするに於てをやである。(中略)
展覧會出品の大きなサイズの多色摺りばかりやつてゐたのでこの小版畫製作には些か参つた。殊に數百枚の手摺りと來ては摺師が専門でないから、まさに重勞働だつた。作品の巧拙は二の次にして この努力だけは買つていただきたい。
(河原侃二「跋」前掲書)


河原侃二「跋」(『歌集 うつし繪』)

 取材中の思いつきとはいえ、版画家としては中途半端な作品は作れない。その出来栄えは魅力ある版画風景であり、額装して自宅に飾りたくなる。
 著者の木下は、愛情のこもった河原の版画を誰よりも喜んだ。「あとがき」には、《河原氏手ずりの版畫をもつてこの集をかざり得たことは、歌集としても一異彩を放つもので、同氏のなみなみならぬご厚意に深く感謝の意を表する》とある。
 河原は、ほうぼうを出歩き、出会った風景を写真と版画にすることを愛した。俳優稼業にどれほどやりがいを感じていたかわからないけれど、写真と版画に関しては晩年まで熱心に創作を続けた。


河原侃二「深川佐賀町」(1963年1月、『歌集 うつし繪』)

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 河原侃二は大映の専属俳優(契約男優)として、1960年代末まで大映東京作品に出演した。そのキャリアは、1970年代に入ると途絶えてしまう。


1960年代の河原侃二(『第30回版画展』日本版画協会、1962年)

 1971(昭和46)年12月に大映が倒産したのち、別の映画会社やプロダクションに所属し、映画やテレビドラマに出た形跡はない。すでに高齢だったこともあり、大映の終焉とともに俳優を引退したと思われる。
 大映の倒産と日本映画の斜陽は、大正末期からのべテランにとって、さびしかったはずである。それ以上に切実だったのは、妻の死だったかもしれない。
 1970(昭和45)年、大映倒産の前年に、河原は妻を亡くす。子どもはいなかったようで、新中野(東京都中野区)の路地裏にあった自宅で、大好きな猫とともにひとり暮らした。


手前右が河原侃二自宅跡(東京都中野区、2022年12月)

 版画家の小林松雄と続けた年賀状のやりとりも、1971(昭和46)年は欠礼し、1月13日に直筆の喪中はがきを出した。受け取った小林は、年賀状とともに、そのはがきを大事に保存した。

喪中なので賀状遠慮させていたゞきました。
去年中に喪中挨拶を出して置かなかったため沢山の賀状をいただき、今頃になって少しずつ弁解の御挨拶を出しているような始末、葬式の続きのようなあわたゞしい毎日を送っています。早く落着ける日が来て版画制作に精進したいと思います。
右おそまき乍ら お詫びまで、  草々


小林松雄宛て河原侃二はがき(1971年1月)

 妻を弔い、俳優を引退し、猫とともにひとり余生を送る。役にあまり恵まれなかった老優のわびしさ、と書けなくもない。
 ただ、河原には写真と版画があり、ともに語らえる仲間がいた。小林松雄に宛てたはがきには、《早く落着ける日が来て版画制作に精進したい》と書いている。
 1972(昭和47)年春には、東京都美術館で開かれる恒例の版画展(第40回 日本版画協会版画展)に出品した。同展の出品目録によると『禱りの絵馬』という題で、作品の前に立つ河原の姿が写真に残る。


第40回 日本版画協会版画展会場での河原侃二(写真集『光大』第3巻第1号、渡辺淳、1974年4月)

 木版の年賀状も出した。小林松雄に宛てた、1972(昭和47)年と73(昭和48)年のものが残る。どちらも色あざやかな図柄で、版画家としての創作意欲を失っていないことがわかる。


河原侃二年賀状(木版、左より1972年、73年)

 河原侃二の年賀状は、1973(昭和48)年が最後となった。この年、持病が再発し半身不随となる。暮れには、写真家仲間が自宅に引き取り、看病することもあった。
 河原の最期は、決して孤独で、さびしいものではなかった。渋谷区松濤のセントラル病院に入院できたのは、写真家仲間の奔走があったからである。亡くなる3日前には、本間鉄雄ら3人の写真家が病床を見舞った。3人は河原の名を呼び、意識がもうろうとするその人の手を握った。
 1974(昭和49)年1月26日の早朝、河原侃二はセントラル病院で息を引き取った。翌27日、荼毘に付され、2月2日、新中野の自宅で告別式が営まれた。

 河原侃二と本間鉄雄は、『藝術寫眞研究』の流れをくむ「桐畑会」に属し、同会が発行した写真集『光大』の同人となった(編集兼発行者は渡辺淳)。
 その第3巻第1号(1974年4月1日発行)にて「追悼・河原侃二氏」が組まれた。本間ら4人の同人が追悼文を寄せ、同人の山本美峯が歌を捧げた。

 残雪
残雪の露地に巨体の棺着く
猫の居て枇杷の芽どきの葬かなし
且つて師の座れるところ雪残る
冷えし脚読経に合せ踏み続く
今年獲る枇杷は何処に贈わらん
枇杷の芽や旧友集い葬半ば
霜置きしひげの真中は茶に染みし
(山本美峯「憶 河原先輩」『光大』第3巻第1号)


写真集『光大』第3巻第1号(1974年4月1日発行)

 河原が息を引き取る数日前、東京に雪が積もった。路地裏にあった自宅には雪が残り、枇杷が芽吹いていた。河原を慕い続けた本間鉄雄は、故人との別れを綴った。

(前略)河原さんの遺体と最後の対面をした時、彼の顔はやや桜色を帯びて透きとおるように美しい肌色で、幼な子がスヤスヤ眠っているような穏やかな表情でした。伸びかけた不精ヒゲも思いなしか、彼が日ごろ可愛がった猫の毛のようにやわらかく暖かそうな感じだったのも印象的でした。そばにいた雑賀さん(桐畑会同人の雑賀進)が「さすが俳優だネ、死んでもキレイな顔だナ」とだれにともなくいいました。河原さんについての生前のいろいろな思い出と、あのキレイな死に顔を私も終生忘れることができないだろうと思います。
(本間鉄雄「春を待たずに逝く」前掲書)

 『光大』の「追悼・河原侃二氏」は、5ページに満たない小特集ながら、心のこもった誌面となった。
 いっぽうで映画界やメディアは、ひとりの老優の死を取り上げなかった。先述したキネマ旬報社の『日本映画人名事典 男優篇』では、消息不明の扱いを受けている。『光大』の追悼特集は、河原の最期のときを伝える数少ない文献となった。

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 先述した木下謙吉の『歌集 うつし繪』の跋文に、河原侃二は《展覧會出品の大きなサイズの多色摺りばかりやつてゐた》と書いた。そんな河原の木版画を、一枚だけ持っている。
 題は『隅田川雨情』。1962(昭和37)年6月の作品で、サイズは26.5cm×42.2cm、額装するとけっこう大きい。好きでときどき通っていた創作版画専門店「輝開」(東京・赤坂)が閉店することになり、お別れにこの版画を買い求めた。


河原侃二『隅田川雨情』(木版、1962年6月)

 『隅田川雨情』は、日本橋浜町と深川をつなぐ「新大橋」(東京都江東区)を描いたもの。河原は、1912(明治45)年に架橋された新大橋を訪れ、清洲橋側の風景をスケッチしたのだろう。雨模様の隅田川はさびしげで、でも、見る人を冷たくさせない。
 日本版画協会の第30回「版画展」(東京都美術館、1962年4月1~19日)に河原は、『隅田川雨情』と同じモチーフの木版『隅田川』を出品している。同展の図録に、モノクロではあるが図版が掲載されている。


河原侃二『隅田川』(木版、1962年/『第30回版画展』日本版画協会、1962年)

 新大橋は、河原が亡くなる1974(昭和49)年に役目を終え、3年後に現在の橋に架け替えられた。橋のたもとの「新大橋東詰公園」には旧橋の親柱が保存され、河原が描いた柵の一部が公園の柵となり、第二の人生を送っている。


新大橋東詰公園(江東区)。旧新大橋の親柱と柵(2022年12月)

 

*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料