新協劇団公演『どん底』(1936年9月初演)より、赤木蘭子のナターシャ(『民芸の仲間 第24号 愛は死をこえて』劇団民芸、1955年11月)
戦後79年の夏。今年も、舞台、映画、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍、インターネット、SNSとあちこちで「戦争」の二文字に接した。
「原爆の図 丸木美術館」(埼玉県東村山市)は、8月2日から31日までの期間限定で、ドキュメンタリー映画『原爆の図』(新星映画社、1953年公開)をYouTubeチャンネルで特別公開した。丸木位里、赤松俊子(丸木俊)作「原爆の図」の制作風景、および、巡回展の様子を伝えた17分の短篇である。戦後の独立プロ映画をけん引した岩崎昶の製作、今井正と青山通春が監督している。
この映画の解説を、今年で生誕110年になる赤木蘭子(あかぎ・らんこ/1914~1973)が担当した。淡々と、もの悲しいその語り口は、赤松俊子のモノローグのようでもある。映画は冒頭、閃光をあびる前の広島の町と、見わたすかぎりの焦土を映す(音楽は大木正夫)。
広島。澄みきった水をたたえて、町を流れる7つの川。美しい木々の緑。それは幼い日の思い出にあふれた、私たちのふるさとでした。
しかし、あの運命の日の一瞬。
それは生命のひとかけらさえ見当たらぬ廃墟に、変わり果ててしまったのです。
(『原爆の図』より筆者が活字化)
赤木は当時39歳。舞台、映画、ラジオで活躍する新劇俳優で、『原爆の図』のころは俳優座にいた。夫の信欣三も俳優座にいて、夫婦役で舞台に立ったこともある。
信欣三をふくむ多くの新劇俳優がそうだったように、赤木蘭子も戦前から、P.C.L.、東宝、南旺、松竹大船とたくさんの映画に出た。信と結婚したのちは、信千代の名で出演した時期もある。フィルムの残された作品がいろいろとあり、いまでも映画俳優の仕事に接することができる。
『綴方教室』(東宝、1938年8月21日公開)より、赤木蘭子の大木先生(滝沢修)の奥さん
舞台、映画のキャリアは、戦後もまた変わらない。新築地劇団で初舞台を踏み、新協劇団、東京芸術劇場、俳優座、劇団民芸(現・劇団民藝)という経歴をみても、新劇人としてめぐまれたキャリアの持ち主だった。
ただ、おなじ時代を生きた新劇の女優、たとえば3つ年上の北林谷栄にくらべると、その印象が薄らぐ。ふたりの芸風の違いもさることながら、赤木はこなした映像の仕事が北林ほど多くないし、俳優として活躍した期間もかぎられる。
その人生は数奇なもので、そこには戦争中に受けた傷が大きく影を落としている。前々から書いておきたい俳優のひとりだった。この夏、『原爆の図』が配信されたのも縁かな、と思う。
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赤木蘭子は、1914(大正3)年1月17日、東京の神田で生まれた。本名は、筒井千代。姪で脚本家・小説家の筒井ともみによると、貧しい建具職人の娘だった。生粋の江戸っ子である。
女学校を中退し、デパートで働いたのち、演劇の道へ。1929(昭和4)年、築地小劇場の分裂により生まれた新築地劇団に入り、俳優のキャリアをスタートさせた。入団してまもなく「赤木蘭子」を名乗っている。
新築地劇団には当時、山本安英、細川ちか子、高橋豊子(高橋とよ)、原泉子(原泉)といった先輩の女優がいた。主役に抜てきされることはなかったものの、新築地のさまざまな舞台で経験を積んでいく。
新築地劇団公演『不在地主』(1930年10月初演)。左より1人おいて、浮田左武郎、小野宮吉、原泉子(原泉)、高橋豊子(高橋とよ)、沢村貞子、九ノ川静子、三好久子、赤木蘭子(『山本安英舞台写真集 写真篇』未來社、1960年9月)
新劇俳優として頭角をあらわすのは、1934(昭和9)年9月結成の新協劇団の創立メンバーになってからだ。
旗揚げ公演は島崎藤村の『夜明け前 第一部』(築地小劇場、1934年11月10~30日)で、赤木は青山半蔵(滝沢修)の妻・お民を演じた。村山知義の脚色、久保栄の演出で、20歳の赤木にとっては、大きな抜てきである。この戯曲は第一部、第二部、第一・二部再編と上演を重ね、お民は持ち役となった。
新協劇団公演『夜明け前 第二部』(1936年3月初演)。左より、堀越節子のお粂、赤木蘭子のお民、滝沢修の青山半蔵。坂本万七 撮影(『ステーヂ』第2号、ステーヂ社、1936年6月)
新協劇団公演『夜明け前 第一部』(大阪・朝日会館、1936年4月)のポスター(美川浩 画)。出演俳優として、藤ノ木七郎(信欣三)、赤木蘭子の名がある
中村篤九「稽古場を歩く―新協と新築地―」(『観客』1936年5月号、築地小劇場後援会)。左より、『夜明け前』稽古中の久保栄、赤木蘭子、滝沢修
新協劇団ではほかにも、『どん底』のナターシャ、『朝鮮古譚 春香傳』の夢龍、『北東の風』の古谷トミ、『花嫁学校』の水島笛子、『初恋』のすみ、『火山灰地』の照子など、新協の中堅女優として舞台に立つ。新協は当時の朝鮮でも公演し、その旅公演にも参加した。
新協劇団にいた村山知義の追悼文によると、赤木は薄田研二の弟と称する人物と結婚したのち、離婚。母、妹と3人で間借り生活していた。新協時代の印象を、村山はこう書く。
どこか心の底に冷えたものがたたえられているような芸風であった。その大きな美しい瞳は、私などはいつも一種な威圧を感じたものだった。
(村山知義「新協時代の彼女」(『悲劇喜劇』1973年10月号、早川書房)
新協劇団公演『朝鮮古譚 春香傳』(1938年3月初演)より、赤木蘭子の夢龍。坂本万七 撮影(『坂本万七 新劇写真展』早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2008年3月)
新協劇団でいっしょだった北林谷栄とは、おなじ東京生まれだったこともあり、仲がよかった。赤木が信欣三と夫婦で劇団民芸に入ったとき、新協時代の思い出とその素顔を、公演パンフレットに寄せた。
信千代さんは色の白い初々しい娘さんで赤木蘭子という、いかにもそうしたグループの花形らしい華やかな名前であつた。紫の絣銘仙を着た赤木さんは姿かたちは抒情詩のような風情があつたが、内容(なかみ)は利かん気で活きのよい下町つ子だつた。プロット出身の気の強い女優さんたちを向うにまわしてやりあつた揚句、よくその大きな眼から、ポロリンポロリンと口惜し涙を落して泣いた。
(北林谷栄「赤木蘭子さん」『民芸の仲間 第24号 愛は死をこえて』劇団民芸、1955年11月)
新協劇団公演『花嫁学校』(1935年4月初演)。左より、赤木蘭子の水島笛子、梅園龍子の野井登子(『ステーヂ』創刊号、ステーヂ社、1935年8月)
新協劇団と提携した関係から、P.C.L.映画、それに続く東宝映画に出演。「銀幕の人」としても、知られるようになる。
たとえば、成瀬巳喜男作・演出『朝(あした)の並木路』(P.C.L.、1936年11月1日公開)。赤木は、オフィスガールの夢やぶれ、カフェーの女給として働く久子(茂代)役で助演した。愁いのある佇まいながら、しなやかに生きる女性で、ヒロインの千葉早智子を引き立てる。大きな瞳が印象的で、和装はもちろん、洋装のモダンガールもよく似合う。
『朝(あした)の並木路』(P.C.L.、1936年11月1日公開)より、赤木蘭子の久子(茂代)。下のスチールは、左に千葉早智子の千代、右に赤木
赤木は、新協劇団で藤ノ木七郎を名乗っていた信欣三と親しくなる。1939(昭和14)年3月13日、東京・京橋にあった「冨士アイス」で、ふたりの結婚の宴が催された。筒井千代は、信千代になった。
いつの時代が幸せだったのか、それは本人にしかわからない。ただ、新協劇団旗揚げから信欣三との結婚をへて、劇団が強制解散を余儀なくされるまでの7年は、新劇俳優として役にめぐまれている。
1940(昭和15)年8月1日、五所平之助監督『木石』(松竹大船)が封切られた。伝染病研究所を舞台にした舟橋聖一の原作を、伏見晃が脚色。赤木がドラマの中心となる追川初を、木暮実千代がなさぬ仲の娘・襟子を演じた。想いびとにただただ尽くす、複雑な女ごころを滲ませ、数ある赤木の出演映画のなかでも秀作となった。
『木石』(松竹大船、1940年8月1日公開)。左より、木暮実千代の襟子、赤木蘭子の追川初。画像下は『キネマ旬報』折り込み広告
『木石』の公開からまもない8月19日、治安維持法違反の名目で100余人の新劇関係者が検挙された。そこに、赤木蘭子の名もある。
同23日、新築地劇団および新協劇団は解散する。同24日付「東京朝日新聞」には、《當局の勧告で自發的に》《基調は“赤”の思想》《“國民的演劇”樹立へ》と見出しにあり、千田是也、滝沢修、小沢栄(小沢栄太郎)、細川ちか子らとともに赤木の顔写真が載った。《自發的》とあるけれど、実際は強制解散にほかならない。
1940(昭和15)年8月24日付「東京朝日新聞」。左上に赤木蘭子の写真が
事実上、それまでの新劇活動ができなくなるなか、赤木は信千代の名で松竹大船の作品に出演した。また、夫の信欣三が中国に出征したため、信が属していた移動演劇「瑞穂劇団」(農山漁村文化協会)の公演に客演している。
1942(昭和17)年4月3日付「都新聞」(「村上冬樹スクラップブック一九四〇~一九四二」松本克平旧蔵)
1944(昭和19)年の瑞穂劇団年賀状(部分拡大)。左端に(客演)として信千代、右から3番目に出征中の信欣三の名がある
戦中・戦後の信欣三については、4年前の夏に出した『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)にページを割いた。妻の信千代、赤木蘭子についても書くべきだった、といまさらながら後悔している。信欣三が戦争の傷をずっと引きずったように、赤木もまた戦争の傷が残った。
赤木は、『私は結核をのり越えた』(婦人画報社、1951年11月)に、「私と病気」と題した闘病記を寄せている。18歳のとき、急性の左肋膜炎を患い、右肋膜炎、腹膜炎、結核性盲腸炎とつぎつぎに病に襲われた。
赤木蘭子「私と病気」『私は結核をのり越えた』所載(婦人画報社、1951年11月)
病と向き合いつつ、仕事を続け、主婦として家事もこなした。しかし、新協劇団は解散に追い込まれ、日本は対米戦争の泥沼にはまっていく。闘病記「私と病気」には、当時の生々しい日々が綴られている。
私は留置場にいる間に――それは四十日位のものですが――、下痢は一層はげしくなつて来ました。何と云つても、不衛生な所ですし、一切の自由は奪われているのですから、体の具合が悪い私は、ただいらいらするばかりでした。釈放された時、すべてが奪われてしまつた後でした。仕事も、生活も、そして肉体も……。(中略)
あの頃の日記を出してみますと、本当にぞーとする毎日でした。一日も早く、人間が犬の様な生活でなしに、生きている事を心から美しいと自分にいえる日が来る様に、と私の日記は祈つています。侵略の為の戦争は勝つても負けても、苦しむのは、国民だけではないのでしようか。私の、物質的にも、精神的にも、完全におさえこまれた、苦痛の日々は、悪くなればとて、少しも良くはならない病状でした。
(赤木蘭子「私と病気」)
戦争が激しくなるなか、赤木は知人のつてで、福島県の熱塩(現・喜多方市熱塩加納町)に疎開した。夫は出征し、満足のゆく仕事もできない。金銭的にも苦しい生活を送り、健康を損なっていく。
それでも、新劇への想いは断ちがたい。1944(昭和19)年2月、俳優座の同人に、信千代として名をつらねている。
1945(昭和20)年8月15日、敗戦。まもなく新劇は息を吹きかえし、東宝の後援により東京芸術劇場が生まれた。
東京芸術劇場第1回公演『人形の家』(有楽座、1946年12月1~17日)は、ヘンリック・イプセン作、島村抱月訳、土方与志の演出である。赤木は、主人公のノラを演じた。公演パンフレットには信千代の名で、《東京藝術劇場創立に當り、再び演劇の演れる喜びを以て入團》と紹介されている。
東京芸術劇場第1回公演『人形の家』(有楽座、1946年12月1~17日)公演パンフレットと東京芸術劇場時代の赤木蘭子
敗戦ののち、ふたたび舞台に立てる喜びを、赤木は闘病記にこう綴った。
やがて終戦の声を聞くと、解放された演劇が津波の様に運動を開始しました。たとえ、それが、今思えば一時的な解放であつたにせよ、私の胸は躍動し、打開き、光明は天から私達の上に降りそそぎました。
私は東京で芝居をする為に、一人リュックを背負つて、三十分程の山道を歩き、満員の東京行きの列車に乗り、立ちん坊で九時間の混雑、混乱と闘い、全く体の事は、健康の事は、頭の隅でしか考える事が出来なかつたのです。それ程、解放された演劇の魅力は私をとらえました。
(「私と病気」)
敗戦まもない『人形の家』に感銘を受けた人は、少なくない。若き日の菅井きんは、そのひとり。菅井は、公演プログラムの最後に載った「『東藝』附属演劇研究所生徒募集」の広告を目にし、その世界に身を投じた。《私にとって今の生活を脱け出す方法はこれしかないと思い込んでしまったのです。まるで、舞踏会の衣装をかなぐり捨てたノラのように》(菅井きん「『人形の家』と私」『潮』1991年3月号、潮出版社)。
『人形の家』が上演された年、夫の信欣三が中国から帰還した。信は、1946(昭和21)年5月に俳優座に入り、赤木も同座の人となる(東京芸術劇場は戦後まもなく解散)。
ふたたび映画にも出た。衣笠貞之助監督『女優』(東宝、1947年12月29日公開)では、夫の島村抱月(土方与志)を松井須磨子(山田五十鈴)に奪われる、妻の伊都子を演じた。未曾有の労働争議となった「東宝争議」(1946~48年)にも参加し、「来なかったのは軍艦だけ」の名言を流布した、との逸話が残る。
『女優』(東宝、1947年12月29日公開)より、赤木蘭子の島村伊都子。左は山田五十鈴の松井須磨子、中央は土方与志の島村抱月
夫婦ふたりで、新劇俳優として再スタートを切るはずだった。先述した「私と病気」にも、完治ではないものの、病を克服したことが書かれている。
しかし、そうはならなかった。病は身体だけでなく、こころも蝕んでいく。姪にあたる筒井ともみが、“こわれゆく”伯母の姿をすぐそばで見ていた。
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赤木蘭子は、創作劇研究会第6回『雑木林』(内村直也作、青山杉作演出、毎日ホール、1949年7月7~10日)より、俳優座の舞台に立った。本多徳子役の赤木と九郎役の信欣三、夫婦が夫婦を演じている。
俳優座創作劇研究会第6回『雑木林』(毎日ホール、1949年7月7~10日)。左より、信欣三の本多九郎、赤木蘭子の本多徳子(『俳優座・十年の歩み』俳優座、1954年4月)
それから1年ほどかけて、『ほたるの歌』のすずこ、『文化議員』の羽野仙子、『女房学校』のジョルジェット、『白鳥姫』の継母(以上俳優座)、『ヘッダ・ガブラー』のエルヴステッド夫人(ピカデリー実験劇場)と精力的に仕事を続けた。
とはいえ、病み上がりである。万全の体調でないまま東京公演、地方公演をこなし、その無理がたたり、倒れてしまう。そのうえ、心身のバランスも失っていく。
俳優座公演『女房学校』(三越劇場、1950年4月6~29日)。左より、土方弘のアラン、千田是也のアルノルフ、赤木蘭子のジョルジェット(『俳優座・十年の歩み』)
『俳優座―最初の五年間―』(俳優座、1949年2月)。左より、赤木蘭子、岸輝子、村瀬幸子、東山千栄子、青山杉作のサイン(文字が消えかかっているが右上に小沢栄のサインもある)
赤木蘭子には、自叙伝やそれに類するエッセイ集、まとまった聞き書きがない。夫の信欣三も、妻のことをほとんど語っていないし、書いてもいない(信にも著書はない)。
素顔と芸、人となりについては、姪にあたる脚本家・小説家の筒井ともみが書いている。筒井は、1948(昭和23)年生まれ。生まれ育った家は、東京都世田谷区の祖師谷にあった。父はおらず(離婚)、母、伯母の赤木(母の姉)、伯父の信の4人暮らしだった。
小説『女優』(文藝春秋、1998年10月)の主人公・篠井奈三子と、伯母で元女優の叶紅子は、筒井と赤木がモデルである。エッセイでは、食の思い出を綴った『舌の記憶』(スイッチ・パブリッシング、2000年9月)に、赤木のエピソードがいろいろと出てくる。
筒井ともみ著『女優』(文藝春秋、1998年10月)、同『舌の記憶』(スイッチ・パブリッシング、2000年9月)
どちらの本も愛読したけれど、本ブログでは『もういちど、あなたと食べたい』(新潮社、2021年12月)におさめられた「マイ・ディア・ファミリーと『母の作った朝鮮漬け』」(初出は『小説新潮』2021年3月号)を紹介したい。
単行本にして13ページの短篇ながら、赤木の実像がおぼろげに、そして、リアルに浮かんでくる。母、娘、伯母、伯父の不思議な同居生活についても、つまびらかにした。
赤木蘭子の顔と名は、昭和の新劇好き、旧作邦画ファンにはお馴染みだが、昨今は知る人とて少なくなった。令和のいま、その名が姪の手で綴られることの縁の深さ、尊さを思う。
筒井ともみ著『もういちど、あなたと食べたい』(新潮社、2021年12月)
私が三歳になったころから、伯母は神経の薄闇に沈み始めて、だんだん狂いの気配を深くしていった。何が理由(きっかけ)なのか、伯父にも母にも、もちろん幼い私に分かるはずもなく、伯母は突然のように、いつもの伯母ではなくなる。狂い始めるのだ。繊細なガラス細工か砕け散るように。押し入れにこもって泣きつづけたり、眠ることさえ許さず伯父をしつこく問い詰めたり、母に荒々しく当たったり。私はまだ幼いから、伯母のターゲットにはならなかったけれど、同じ屋根の下で息をつめ、とにかく泣かないでいようと頑張った。私が泣いたりしたら、この家は壊れてしまう。小さな胸でそう感じていた。
(筒井ともみ「マイ・ディア・ファミリーと『母の作った朝鮮漬け』」)
同居する姪が、伯母の病を目の当たりにするのは、1950年代になってから。夫(伯父)の信欣三とともに俳優座を離れ、劇団民芸に移るころだった。ドキュメンタリー映画『原爆の図』の解説は、その時期にあたる。
無理がたたって体調をくずし、俳優座の公演に立てなくなってからは、仕事を減らした。祖師谷の家では、病の色を濃くしていった。
夫の信欣三は、舞台、映画、ラジオ、テレビと仕事をこなし、それが一家の生計を支えた。宇野重吉監督『病妻物語 あやに愛(かな)しき』(劇団民芸、1956年9月7日公開)では、精神病院で暮らす妻(田中絹代)を献身的に支える作家の夫(上林暁がモデル)で主演した。
『病妻物語 あやに愛(かな)しき』(劇団民芸、1956年9月7日公開)。左より、田中絹代の小早川徳子、信欣三の小早川武吉(同映画パンフレット)
伯母は女優の仕事を休んで、家に居ることが多くなった。恐かった。私は全身の細胞を研ぎ澄ませて、伯母の気配を窺っていた。家に居るときの伯母は、いつも火鉢のそばに坐って煙草をふかしながら緑茶を飲み、ぼんやりと「無」の気配をまとっていた。気が向くと、しつこいくらいにいつまでも本を読んでくれた。朗読が上手な女優だったから聴き応えがあった。「西遊記」かいちばんスリリングで、登場するキャラ(魔物や妖怪たち)を声色で演じ分けてくれるから、私は陶酔して、くり返し読んでもらった。
「おはじき」を一緒にしたこともある。伯母が卓猷台に広げるのはガラス玉のおはじきではなくて、色とりどりの薬だった。ビタミンA、B1、B2、C、鉄分や胃腸薬や鎮痛剤もあった。伯母は薬マニアでもあったから、体の弱い私のためにいろんな薬を買いためていた。その薬を指先ではじいて「おはじき」をする。今にして思えばシュールな遊戯だった。
(「マイ・ディア・ファミリーと『母の作った朝鮮漬け』」)
筒井の筆致は、伯母に同情するものでも、憐れむものでも、もちろん、責め立てるものでもない。抑制のきいた文章に、伯母からの呪縛を交えつつ、故人への慕情を込めた。赤木もまた、彼女なりに姪を可愛がっていたことが、エッセイを読むとわかる。
1954(昭和29)年3月、赤木は信とともに俳優座を去る。翌年(1955年)の5月、ふたりは劇団民芸に入る。新協劇団で仲間だった北林谷栄、細川ちか子、滝沢修、宇野重吉らと、ふたたび芝居をすることになった。
民芸に入った年の秋、赤木に大きな役がきた。レオン・クルツコフスキイ作、鈴木力衛・安堂信也訳、松尾哲次演出の『愛は死をこえて』である。1955(昭和30)年10月20日初日の東京・飛行館を皮切りに、京都、大阪、東京、名古屋と巡演し、12月2日の滋賀会館で千穐楽を迎えた。
『民芸の仲間 第24号 愛は死をこえて』(劇団民芸、1955年11月)
本作は、1950(昭和25)年にアメリカで起きた「ローゼンバーグ事件」を舞台化したもの。ユダヤ系アメリカ人で電気技師のジュリアス・ローゼンバーグが、ソ連に原子力の機密を漏洩したスパイ容疑で逮捕される。妻のエセルも、獄につながれた。ふたりは無罪を訴えたが(事実冤罪とされている)、ニューヨーク州連邦裁判所は死刑を宣告。1953(昭和28)年6月、ローゼンバーグはエセルとともに、電気椅子で処刑された。
舞台では滝沢修がジュリアスを、赤木がエセルを、夫婦に死刑を宣告するウェイン検事を信欣三がやった。
劇団民芸公演『愛は死をこえて』(1955年10月初演)。左より、滝沢修のジュリアス、赤木蘭子のエセル(『劇団民芸の記録1947-1960』劇団民芸、1960年9月)
同上。左より、山内明のダヴィッド・グリーングラス、信欣三のウェイン検事、清水将夫のアーヴィング判事(『民芸の仲間 第24号 愛は死をこえて』)
俳優座を離れてから久しぶりの舞台、しかも、新協劇団の『夜明け前』で夫婦を演じた滝沢修との共演であり、夫の信欣三も出る。赤木は、公演パンフに載った滝沢との対談で、エセル役への意気ごみを語った。
赤木 わたしなんか今度無我夢中よ。……まあ言つてみればね、役者が人間を作り出すというのは、宇宙が初めに混沌としているといつたようなことで、それが収まつたとき、あれは太陽であり月であり火星であり金星であるといつたようなものですね。
滝沢 本当にそうよ。今まさに混沌としている最中だからね。
赤木 だからそういう混沌としている混沌状態を久し振りで味わつているの。
(「『愛は死をこえて』上演にあたつて 対談・滝沢修、赤木蘭子」『民芸の仲間 第24号』)
左に赤木蘭子、右に滝沢修(『民芸の仲間 第24号 愛は死をこえて』)
赤木の民芸入りを、盟友の北林谷栄はよろこんだ。《まことに月日は流れ、私は残る――そして昔というのは向き合つてみれば昨日である。この友を身近に迎えて私は本当にうれしい。千代ちやん一緒に仕事を続けましよう》(「赤木蘭子さん」『民芸の仲間 第24号』)。
しかし、大役にいどむ赤木は満身創痍だった。筒井ともみは書く。
穏やかな伯母と砕け散る伯母と。その行き来が激しくなり、私が小学一年生になる春、伯母は精神科の病院へ入院した。ぎりぎりまで女優の仕事はやっていて、「劇団民藝」の公演「愛は死をこえて――ローゼンバーグの手紙」には伯父も一緒に出演していた。最終日の幕が降り、伯母は舞台袖で待っていた医師と一緒に車に乗せられて、そのまま病院へいった。まるでテネシー・ウィリアムズの戯曲のようだけれども、本当にそうだった。四年後、伯母が退院してくるまで、私は一度も伯母に会えなかった。
(「マイ・ディア・ファミリーと『母の作った朝鮮漬け』」)
『愛は死をこえて』。左より、滝沢修のジュリアス、赤木蘭子のエセル(『民芸の仲間 第24号 愛は死をこえて』)
この舞台を、筒井が観たかどうか、よくわからない。7歳の子どもなので、観たとしても、印象に残らなかったかもしれない。
このあと赤木は、民芸の『アンネの日記』に出演し、アンネ・フランク(三井美奈、吉行和子)の母であるエディス・フランクを演じる予定だった(夫のオットー・フランクは信欣三)。しかし、その配役はまぼろしとなってしまう。同公演のパンフには、《配役変更 エディス・フランクは赤木蘭子の予定で稽古を進めていましたが、稽古中に「気管支炎」と「低血圧」のため出演不可能となり北林谷栄に変更しました》(『民芸の仲間』第29号、1956年9月)と断り書きがある。
ずっと後年、筒井が脚本を手がけたドラマに吉行和子が出た(NHK銀河テレビ小説『まんだら家の良太』か?)。当時は民芸の新人で、『アンネの日記』で赤木と共演するはずだった吉行は、当時の思い出を筒井に伝えた。
最後の舞台の千秋楽に近いある日、和子さんは伯母に呼ばれ、いろんな薬をいっぱい入れた包みを渡された。「和子さん、あなたは体が弱いんだからこれを飲みなさい。私にはもう要らなくなるんだから」伯母はそう言った。「私、あんなにたくさん薬もらっちゃって、困ったわ」。ちょっとしゃがれたような声で言う和子さんの白い顔を見ながら、私はなんだか温かいものが胸の奥に染みていくのを感じていた。
伯母は自分が病院へつれていかれるのを感知していたのだ。そのときになっても伯母の中にはまだ、大事な薬を可愛いと思った女優の卵に残していくだけの優しさがあったのだ。そんな伯母の行為を神経がおかしくなった女優の奇行という人もいるだろうけれど、私はそうとだけとは思わない。伯母にとって薬はそれくらい真摯で大切なものだったのだから。
(「甘いクスリ」『舌の記憶』)
劇団民芸公演『アンネの日記』舞台稽古。左より、デュッセル役の下條正巳、アンネ・フランク役の三井美奈、同・吉行和子、エディス・フランク役(降板)の赤木蘭子(『週刊東京』1956年10月13日号、東京新聞社)
筒井は『愛は死をこえて』を、民芸時代の「最後の舞台」と書いている。実際には、民芸公演『オットーと呼ばれる日本人』(1962年6月5日~7月19日、大阪・神戸・京都・名古屋・東京巡演)でカムバックした。尾崎秀実の「ゾルゲ事件」を題材に木下順二が書き下ろし、宇野重吉が演出した。尾崎がモデルの「オットーと呼ばれる日本人」を滝沢修が演じ、その妻が赤木だった。
劇団民芸公演『オットーと呼ばれる日本人』(1962年6月初演)。左より、滝沢修のオットーと呼ばれる日本人、赤木蘭子のその妻(『民芸の仲間60 オットーと呼ばれる日本人』劇団民芸、1962年)
民芸時代には、劇団がユニットで関わった映画にもいくつか出演した。宇野重吉監督『われは海の子』(劇団民芸/教育映画配給社、1956年10月31日公開)では、漁師の夫(宇野重吉)を海で亡くし、行商をしながらひとり息子の一郎(相良和文)を育てる中川マキ役で主演した。マキは、夫を奪った海を憎しみ、一郎が海に近づくことを許さない。そんな母の願いを知りつつ、一郎は大海原へのあこがれを募らせていく。房総の海岸でロケをおこない、貴重な赤木の主演作となった。上映、放映、ソフト化の機会がないことは惜しまれる(筆者も末見)。
『われは海の子』(劇団民芸/教育映画配給社、1956年10月31日公開)。左より、赤木蘭子の中川マキ、相良和文の中川一郎(『劇団民芸の記録1947-1960』)
『オットーと呼ばれる日本人』の翌年、1963(昭和38)年に赤木は、劇団民芸を退団した。劇団が変わっても、心身が癒えることはなかった。夫の信欣三は、そのあとも民芸に属し、1966(昭和41)年に退団している。
赤木が心身を病んでいたことは、新劇界では知られた話だった。その病に、戦争の記憶が大きく横たわっていることを、筒井は明かす。戦時下の夏、治安維持法違反による検挙、そして、投獄。その傷を、赤木はずっと引きずった。
伯母はそのときの記憶が戦後になってもフラッシュバックしていたらしく 「アタシがヘンになったのは、あん時のせいもあったのよ」と、ずいぶん後になって聞いたことがある。精神科に入院したてのころもフラッシュバックが起きて、逃げようと窓から飛び降りたが二階だったので首を捻挫しただけだったと、他人事のように話してくれた。
(「マイ・ディア・ファミリーと『母の作った朝鮮漬け』」)
筒井の母は、娘とのふたり暮らしを望んだ。娘のともみもまた母を愛したが、伯母の存在が重くのしかかる。赤木が退院したあとも、4人の暮らしは変わらなかった。
民芸を退団し、赤木は舞台から距離をおく。それでも、女優をやめなかった。心身のバランスをとりながら、映画とテレビドラマには出ている。テレビの仕事は、その多くが映像として残っていない。幸いにも映画の仕事は、いまでも接することができる。
今村昌平監督『赤い殺意』(日活、1964年6月28日公開)では、主人公の貞子(春川ますみ)を虐げる姑を。増村保造監督『赤い天使』(大映東京、1966年10月1日公開)では、日中戦争下で従軍看護婦を束ね、入院する兵士にも毅然とした態度をとる婦長を。いずれも品と凄みを兼ね備え、凛とした演技で記憶に残る(このころは「赤木欄子」を名乗っている)。
『赤い殺意』(日活、1964年6月28日公開)スチール。左より、西村晃の高橋吏一、赤木蘭子の吏一の母・忠江、春川ますみの吏一の妻・貞子
晩年の出演作では、信欣三と夫婦役で共演した篠田正浩監督『あかね雲』(表現社、1967年9月30日公開)がよかった。戦前の能登を舞台に、軍を脱走した男(山崎努、現・山﨑努)への愛に殉じる二木まつの(岩下志麻)の姿を描く。
ふるさとで貧しく暮らす父の角三郎(信欣三)、母のぎん(赤木蘭子)のために、まつのは身体を売る。傷心のまま、なつかしく帰省する娘を、両親はあたたかく迎え入れる。信と赤木の夫婦共演は、出番こそわずかながら、篠田の演者に対する敬いを感じた。
『あかね雲』(表現社、1967年9月30日公開)プレスシート。キャスト表に信欽三(信欣三)と赤木蘭子の名がある
1969(昭和44)年の秋、赤木はふたたび舞台に立った。それまでの新劇の大舞台ではなく、新宿の地下劇場で上演された「アングラ演劇」である。
アンダーグラウンド演劇公演No.9、蝎座プロデュースNo.8『一時間の恋』(1969年10月1~31日)。同年、チェコのプラハで初演されたヨゼフ・トボルの戯曲(1幕)を、村井志摩子が訳・演出した。会場の「アンダーグラウンド蝎座」は、「アートシアター新宿文化」の地下にあった小劇場で、アングラ文化の発信地として支持を集めた。
アンダーグラウンド演劇公演No.9、蝎座プロデュースNo.8『一時間の恋』(アンダーグラウンド蝎座、1969年10月1~31日)チケットの半券
エラ(楠侑子)は、若い船乗りの男・エル(北村総一郎、現・北村総一朗)とふと知り合う。船が出るまでの1時間、ふたりは夢を語り、愛を確かめあう。そこに、エラの叔母(赤木蘭子)があらわれ、ふたりの恋を妨げる。5分、10分と、別れのときが刻々と近づく。
暗く、狭い地下の劇場で繰り広げられる、楠、北村、赤木の3人芝居。新協劇団と俳優座でいっしょだった小沢栄太郎が、パンフレットに一文「古き友に」を寄せ、エールを送った。この舞台は、筒井ともみも観ていた(暗くて、よくわからなかったらしいが……)。
アートシアター新宿文化の総支配人で、演劇プロデューサーの葛井欣士郎は、若いころから赤木に惹かれていた。葛井は、戦前からのベテランが、病をおして舞台に立つことに深い感銘を受ける。
病気がちのこの女優の活躍を陰ながら祈っていたものである。久々の舞台であり、恐らくはじめてのこの狭い小劇場であったろうが、彼女はやはり素晴しい女優で、魅力的な声、節度ある態度、計算されたセリフの間、静かな物腰、大女優の風格にあふれていた。今は亡き赤木蘭子さん、私は感激にふるえながらこの人の稽古を見守っていたのを今も憶い出す。
(葛井欣士郎「激動の中の小劇場師 アンダーグラウンド演劇公演(承前)」『新劇』1976年2月号、白水社)
『あかね雲』が映画の、『一時間の恋』が舞台の、それぞれ最後の仕事となった。かずかずの病を患い、こころにも傷を負った新劇女優は、それでも演じることをつらぬいた。
1973(昭和48)年7月23日、赤木蘭子は肺ガンにより、世田谷区祖師谷の自宅で亡くなった。享年59。姪の筒井ともみは、25歳になっていた。
夫の信欣三は、舞台、映画、テレビ、ラジオと仕事をこなし、一家を支えた。そのかたわら、妻とは別に女性がいた。筒井と母は、信からお金を借り、家を出た。借りた20万円は、筒井がアルバイトをし、母が内職をして、半年ほどで返した。
赤木の死の2年後、信は、友人である小沢栄太郎夫妻の仲立ちで再婚した。信欣三にも、事情があってのこと。「ひどい男!」と外野がとやかく口にすることではない。
筒井ともみがなぜ、脚本家をこころざすようになったのか。そこに、伯母である赤木蘭子がどう存在していたのか。そのいきさつは、エッセイ「マイ・ディア・ファミリーと『母の作った朝鮮漬け』」にも綴られている。女優と脚本家をめぐる深層心理に迫った小説『女優』も、読みごたえがある。
南伸坊 画「赤木蘭子」(『もういちど、あなたと食べたい』カバー)
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東京の練馬区石神井町に、石神井書林という古本屋がある。戦前の詩集、歌集、モダニズム文献を中心とした品ぞろえで定評がある。昨年の春に届いた『石神井書林 古書目録110号』(2023年4月)をめくっていて、あるページで釘づけになった。
《「信欣三・赤木蘭子」芳名帖 79名筆 13,200》。すぐメールで注文したところ、「ご注文の品はお取りできました」と店主の内堀弘さんから返事がきた。
無題の芳名帖は、1939(昭和14)年3月13日、東京・京橋の「冨士アイス」で催された結婚の宴のときのもの。冒頭に信欣三、赤木蘭子の毛筆連名、最後のページには《東京 京橋交サ点 冨士アイス 一九三九年三月十三日夕》とある。
署名欄には、中野重治、秋田雨雀、山田肇、久保栄、小沢栄(小沢栄太郎)、三島雅夫、松本克平、鶴丸睦彦、下條正巳、大町文夫、関志保子、島田友三郎、本田延三郎、倉林誠一郎など、おもに新協劇団関係者の署名がならぶ。新協の滝沢修、宇野重吉、細川ちか子、北林谷栄、原泉子(原泉)の名は、見当たらない。旅公演で不在だったのか、欠席したのか。よくわからない。
そもそもこの芳名帖、誰の旧蔵品なんだろう。信欣三の縁につながる人か。筒井ともみか。血縁ではない人、もしくは新劇関係者か。
いずれにせよ縁あって、いまは、わが手元にある。
*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料。