脇役本

増補Web版

舞台人走馬燈 矢野誠一さんを偲んで


大上朝美文、高波淳写真「著者に会いたい 舞台人走馬燈 矢野誠一さん」(2009年11月15日付「朝日新聞」朝刊)


 2025(令和7)年5月10日、新宿南口の紀伊國屋サザンシアターで、劇団民藝公演『煮えきらない幽霊たち 蘭学事始浮説』(吉永仁郎作、丹野郁弓演出、2025年5月10~19日)の初日を観た。
 『ターヘル・アナトミア(解体新書)』を題材にした物語で、平賀源内(千葉茂則)、杉田玄白(塩田泰久)、前野良沢(横島亘)を中心にドラマは展開する。学問と江戸のジェンダー、老いと死、『解体新書』をめぐる人間模様を、おおいに楽しんだ。


『民藝の仲間』第433号「煮えきらない幽霊たち 蘭学事始浮説」(劇団民藝、2025年5月)、劇団民藝公演『煮えきらない幽霊たち 蘭学事始浮説』(吉永仁郎作、丹野郁弓演出、2025年5月10~19日、紀伊國屋サザンシアター)チラシ

 終演後、劇場ロビーで余韻にひたっていると、見覚えのあるうしろ姿が……。あれは、矢野さんでは? 藝能評論家の矢野誠一(やの・せいいち/1935~2025)である。「ささやかに初日の乾杯を」と劇団民藝の方に誘われ、廊下の奥へ消えていった。
 確証はない。でも、あのうしろ姿は矢野さんだったはず。この公演であれば、初日に観てもおかしくはない。作者の吉永仁郎は、矢野さんと同じ東京生まれ。初演(文学座、1988年11月29日~12月10日、新宿紀伊國屋ホール)を演出したのは、ともに「東京やなぎ句会」同人で、“悪友”と呼ぶべき加藤武だった。矢野さん好みの芝居、ではあるまいか。
 それから2か月後の7月23日、矢野誠一逝去、享年90。
 

 矢野さんとの面識は、ほぼない。拙著『脇役本 ふるほんに読むバイプレーヤーたち』(右文書院、2005年7月)をお送りして、お礼状をいただいたくらいである。一度だけ、とある席で、ごあいさつしたことがある。「滝沢修が大好きで」と話すと、「『十三階段』(劇団民芸、1952年10月21日~11月9日、三越劇場)って芝居が、つまらなくてねえ」と苦笑した。『炎の人』のゴッホや『セールスマンの死』のウィリイ・ローマンではなく、“つまらなかった滝沢修”について言うあたり、矢野さんらしいな、と思った。
 劇場やトークイベントでは、お見かけすることがたびたびあり、一方的に親近感を覚えていた。それも、サザンシアターでのうしろ姿が、最後となってしまった。


筆者宛て、矢野誠一はがき(2005年8月2日消印)。《脇役本の御投恵(ママ)にあずかり厚く御礼申しあげます。目次をながめただけで、なんともなつかしい名前のオンパレードで、読むのが楽しみです。とりわけ中村伸郎、龍岡晋、宮口精二の諸氏は、個人的に親しくさせて頂いていただけに、格別興味があります。暑さのみぎり、御身体大切のほどくれぐれも。取急ぎまずは一筆まで。誠[落款]》

 2025年8月は、戦後80年にあたる。
 矢野さんが編集顧問をつとめる『悲劇喜劇』(早川書房)9月号(8月発売)では、小特集「戦後80年と演劇」を組んだ。古川健(劇作家、俳優)による「もう祈ってばかりではいられない」、内田洋一(演劇ジャーナリスト)が綴る「仲代達矢、九十二歳の肝っ玉」、そして、矢野誠一の「ひとつの記憶」。


矢野誠一「ひとつの記憶」『悲劇喜劇』2025年9月号(早川書房、2025年9月)

 ひとつの記憶。それは、1960(昭和35)年の安保反対デモのこと。かれこれもう、65年前のむかし。その記憶に、滝沢修(1906~2000)が出てくる。

 五八〇万人が参加した六月一五日、国会前で全学連主流派と警官隊が衝突、東大生樺美智子が死亡したのを機に急速に引いていった。この日新劇人会議のデモ隊も右翼の維新行動隊の襲撃を受け何人かの怪我人を出しているが、木下順二に庇われた山本安英は難を逃がれている。
 青山にあった劇団民藝の稽古場で開かれていた新劇人会議の拡大委員会の席にこの報が伝わると、充奮した何人かがすぐにも現場に駈けつけるべく立ちあがったのを、
「まあまあ、落ちついて落ちついて」
 となだめにかかったのが滝沢修で、「我々はこれまで何度となくこうした目に遇ってきた」と、築地小劇場時代の弾圧の歴史を懇懇と語った。三〇分ばかしかけた名演説だった。
矢野誠一「ひとつの記憶」『悲劇喜劇』2025年8月号小特集「戦後80年と演劇」(早川書房、2025年9月)


木下順二作、東山誠演出『放送劇 雨と血と花と』(ラジオ東京、1960年7月19日放送)スタジオ風景。左より、小野泰次郎、永田靖、滝沢修、山本安英、北村和夫、真山美保、木下順二(山本安英『女優という仕事』岩波新書、1992年12月)

 後半のエピソード、いかにも“滝沢調”で“矢野節”だな、と思う。なにげない一挙手一投足から、人となりを掬いあげ、洒脱なエッセイに仕立てるのがうまい書き手だった。もう、こういう文章は読めないのか。そう考えるとさびしい。
 矢野誠一著『舞台人走馬燈』(早川書房、2009年8月)には、滝沢修の別のエピソードがある。

 まだ劇団民藝の稽古場が青山にあった三十年以上も前のことだが、ちょっとした用事があって民藝を訪ね、玄関に足を踏み入れたちょうどそのとき、稽古場に通じる正面の階段を瀧澤修がおりてきた。背筋をぴんとのばした優雅きわまりない足取りで、舞台からそのまま抜け出したようなその姿に、思わずたじろいだものである。軽い会釈をくれながら玄関わきの事務所に姿を消し、こちらは久保榮、岡倉士朗、伊達信、菅原卓などの遺影のかざられた応接室に通されたのだが、事務所のひとに「いまいらしたお客さん、誰だったかしら」とたしかめたのにちがいないタイミングで応接室の扉があくと、満面に笑みをうかべた瀧澤修が、「やあ矢野さん、いつもいろいろお世話になってます」と頭を下げ、きびすを返すとさっと出て行った。名優の演技をひとりじめしたような気分があって、悪いものじゃなかった。
矢野誠一「瀧澤修」(『舞台人走馬燈』早川書房、2009年8月)

 この「やあ矢野さん」の話、よほど忘れられなかったとみえて、ほかのエッセイにも書かれている。ちょうど25年前、滝沢修が93歳で世を去ったときも、追悼文にこのエピソードを紹介していた。


滝沢修(渡部雄吉撮影、コンタクトプリント、1983年)

 観客あるいは評論家の立場で“戦後新劇”に接した人たちは、ずいぶんと少なくなった。こうして“活字”で記憶を刻むことの尊さを、あらためて想う。

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 熱心な読者ではなかったけれど、それでも何冊か、矢野さんの著書が棚にある。ひとつ選ぶとなると、先に書いた『舞台人走馬燈』を挙げたい。
 縁のあった73の亡き舞台人、そのメモアールである。財団法人都民劇場の会員向け月報『都民劇場』の2001(平成13)年3月号から2008(平成20)年5月号まで、73回連載したものをまとめた。口上書きを意味する「舌代(ぜつだい)」が冒頭にある。

 いつのまにか半世紀をこえる時間を、いろいろな舞台といっしょに過ごしてきた。たくさんの舞台人の仕事にふれてきて、そのひとつひとつが私の糧となり身となって、人生をゆたかにしてくれた。
 たまたまその仕事にたずさわるひとの素顔を凝視したり、垣間見る機会を与えられることもあって、本業からは見えてこない別の貌に、えも言われぬ親しみを感じたり、思わずたじろいたりもした。こんな刺戟を受けることもまた、舞台に親しんできた者ならではの機微であり、醍醐味なのだ。
 そんな思いの一端をつづった、恣意にゆだねたところの少なくない走馬燈の影におつきあいくだされば、仕合せこの上もない。
「舌代」(『舞台人走馬燈』)



矢野誠一著『舞台人走馬燈』(早川書房、2009年8月)、カバー裏帯(部分拡大)

 小林真理の装幀と装画が美しく、登場する73人の顔写真とプロフィール、さらには索引と、編集もていねいだった。担当者の愛着が見え隠れする。新刊書店で見つけて、即買いしたことを覚えている。
 『舞台人走馬燈』に登場するのは、劇作家、演出家、プロデューサー、俳優、落語家、作曲家、評論家とさまざま。金子信雄、宮阪将嘉、須賀不二男、小夜福子、井上孝雄、高原駿雄、岸田今日子、仲谷昇、小鹿番、中村伸郎……。『脇役本』の著者としては、買わずにはいられない名もならぶ。そのなかから、幾人かの“走馬燈”を紹介したい。

 宮口精二(1913~1985)は、戦前から戦後は文学座、昭和40年代以降は東宝の舞台に立った。新宿区荒木町に自宅があり、そこで個人誌『俳優館』を出し続けた。『俳優館』のことは、本ブログ「夏の影。昼のラヂオ」に書いた。https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/20200815
 荒木町の宮口邸のほど近く、四谷に「F」というバーがあった。気ごころの知れた、矢野さんの行きつけである。

 十年ほど前に店を閉じたが、四十年間夫婦でやっていたカウンターバーが四谷にあって、夜な夜な演劇人があつまって、侃侃諤諤やっていた。常連客のひとりだった戸板康二は、しばしばこの店のことをエッセイに書いていたが、「F(イニシアルでなく、これが店名)」と紹介するのがつねだった。
 そのFに、ほんとうに「ひょっこり」という感じで宮口精二が顔を出すことが、そう、あれで年に二回か三回あっただろうか。四谷に住んでいたから言わば地元で、
「悪漢どものパトロールにやってきた」
 というのが、扉をあけてはいってくるときのきまり文句だった。
 若いその悪漢ども相手に何杯かの水割を口にして、あとはメンバーをつのって近くの麻雀屋に席をうつすのがこれまたきまりで、結果はたいてい悪漢どもにかもられていたように思う。
「宮口精二」(前掲書)

 宮口はFのカウンターで、矢野さんに、『俳優館』の原稿を頼んだ。「原稿料が出せないが」と条件つきで……。《まだ嘴の黄色いくせにプロの物書きを気取っていた》矢野さんは、丁重にお断りした。文章の最後に、こうある。《無論、いまは断ったことを後悔している》。


宮口精二、荒木町の自宅にて(『俳優館』第41号「宮口精二追悼特集 最終号」俳優館、1986年4月)

 宮口精二は文学座を離れ、東宝演劇部の人となったが、龍岡晋(1904~1983)は、亡くなるまで文学座にいた。
 俳優としてだけではなく、劇団総務の立場でも重責を担った。俳人でもあり、師と仰いだ久保田万太郎のことを、親身になって支えた人でもある(師の没後、久保田作品の演出や研究を手がけたことでも知られる)。
 俳人だった縁で、矢野さんが同人の「東京やなぎ句会」の集まりに、龍岡をゲストに迎えたことがあった。この句会には、文学座の加藤武も同人として参加している。

 初めて出席されたとき投句された、
  石鹸玉(しゃぼんだま)浅草学校裏の裏
 という句を誰ひとり抜かなかった。披講でこれが晋の句であることがわかったとたん、「うまいねェ」「さすが商売人の句だ」などとしらじらしく囃す始末で、「それならなぜ採らなかったの」と誰かに問いつめられた柳家小三治の、「だって裏の裏というから、表かと思って」との言訳をきいて、呵呵大笑されたものである。
 じつを申すとそれから何度か出席された句会をふくめて、龍岡晋が哄笑したのはこのとき限りだった。哄笑どころか、ほとんど口を開こうとしなかった。それでいながら、私たちのばかばなしを楽しまれてる風情があって、劇団で顔をあわせた加藤武に、それとなく「また招んでほしい」そぶりなど見せたそうだ。
「龍岡晋」(前掲書)

 龍岡が没して42年、ずいぶんと月日が経つ。矢野さんが逝き、「東京やなぎ句会」の創設メンバーも、みな故人となった。


「CLOSE-UP 龍岡晋」『テアトロ』1982年9月号(カモミール社、1982年9月)

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 矢野誠一、1935(昭和10)年3月18日、東京は代々木八幡の生まれ。《麻布中学時代から、芝居、映画、寄席、能楽、ジャズにいたる劇場文化にひろく関心をもつ》と『舞台人走馬燈』カバー袖の略歴にはある。
 出身地と育った文化もあってか、「東京言葉」に惹かれた。日比谷にあった芸術座(1957~2005年)をはじめ、東宝の商業演劇で活躍した一の宮あつ子(1913~1991)は、そんな「東京言葉」のうまい人だった。神田旅籠町の生まれで、生粋の江戸っ子。高等女学校時代は、陸上選手としてならした。

 東宝に入った頃から同じ場所にあったという喫茶店のカティで、珈琲を前に戦前のオリンピック選手人見絹江とハイハードルをやっていたスポーツウーマン時代のはなしをきいたとき、芝神明の境内にあった江戸時代からつづく菓子屋太太餅の生まれと知って、歯切れのいい東京言葉を自在にあやつる秘密にふれたような気がした。老舗としての誇りが、職人なども東京のひとしかやとわなかったそうだ。
 私たちが子供の頃耳にした東京言葉が、暮しのなかでは無論のこと、舞台の上からも消えてしまって、すでに久しい。
「一の宮あつ子」(前掲書)

 矢野さんは、《「品位」というものが、しっかりとした背骨のように一の宮あつ子の芝居を支えていた》と説く。映画やテレビドラマで見せる、着物の着こなしも粋だった。
 一の宮のホームグラウンドだった芸術座は、2000年代に入って消えた。戦前の東京宝塚劇場の建築も、姿を変えて久しい。


東宝現代劇特別公演『あかさたな』(小幡欣治原作、菊田一夫・小幡欣治演出、1973年5月1日~6月30日、芸術座)。一の宮あつ子のきよ(同公演パンフレット)

 『舞台人走馬燈』では、73人の舞台人それぞれの素顔が明かされる。文野朋子(1923~1987)のエピソードは、微笑ましく読んだもののひとつ。
 戦前の映画界に入り、戦後は文学座の舞台に立った文野は、そこで神山繁と出会う。1963(昭和38)年、夫婦そろって文学座を脱退、福田恆存ひきいる劇団雲の創立に参加した。

 おつきあいができたのは、一九七六年に現代演劇協会を出て、芥川比呂志、神山繁、岸田今日子などと演劇集団円を結成してからである。趣味のいい家具にかこまれた赤坂のマンションの一室にしばしばよばれて、麻雀を楽しんだものだが、このときご馳走になる文野朋子手づくりのカレーは、ほんとうに絶品だった。珍しいスパイスを求めて、食通の神山繁と本場のインドまで出かけるのだそうだ。結婚した頃はご飯も炊けなかったというのは、お嬢さん育ちだったからだろうが、もともと料理のセンスは良かったにちがいない。ビールのつまみなど、じつに気がきいていたのをなつかしく思い出す。
「文野朋子」(前掲書)

 文野の出演作では、ドラマ『京都かるがも病院』(テレビ朝日、1986年10月7日~87年2月24日放送)をよく覚えている。京都の山奥で診療所を営む医師の役で、急病の患者を救おうと奔走する。
 なぜ覚えているのか。このドラマからまもなく、舞台の本番中に倒れ、急逝したからだ。その劇的な最期は、師杉村春子との決別という大きな影を交え、矢野さんも印象的に綴っていた。


文野朋子(小山内薫三十周年記念公演『寂しき人々』 [G・ハウプトマン作、森鴎外訳、土方与志演出、1957年12月25日~58年2月2日、俳優座劇場] パンフレット)

 矢野さんは、『舞台人走馬燈』の「舌代」に、《走馬燈の影》と記した。そこには、愛してやまない舞台人の死、幕引きへの目線がある。先の文野朋子の一編しかり、生涯の師とした演劇評論家、戸板康二の回想しかり(連載の最終回が戸板だった)。
 以下は俳優座の大ベテラン、東野英治郎(1907~1994)、その晩年の風景である。

 中村伸郎が逝ってしまったときだから一九九一年七月五日の夜だった。原宿のマンションに、もうひとり歩きもままならなかった東野英治郎が、夫人につきそわれ弔間にあらわれた。別役実の本と、好きだったマイルドセブンが何箱か枕もとに置かれた遺体の横たわるベッドの前に用意された椅子に、やっとの思いで腰をおろした東野英治郎は、ステッキに両手をささえたまま、じっと眠りつづける中村伸郎に見入っていた。やがて口をひらいた東野英治郎は、しきりになにか語りかけるのだが、ほとんど言葉になっていない。
 思いがけず老優ふたりの別れに立会ったわけだが、身のひきしまる思いがした。
「東野英治郎」(前掲書)

 中村伸郎との別れから3年後、東野英治郎も逝く。“戦前の築地”を知る明治生まれの新劇人が、あいついで退場する季節だった。


東野英治郎(東野英治郎著『漫遊無限 「水戸黄門」とともに14年』講談社、1982年10月)


中村伸郎(『ドン・キホーテより 諸国を遍歴する二人の騎士の物語』[別役実作、岸田良二演出、1987年10月8日~18日、PARCO SPACE PART3]パンフレット)

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 戦後まもない高校時代、矢野さんは、たくさんの新劇の舞台に接している。なかでも、1950(昭和25)年創立の劇団民芸(第二次民芸、現在の劇団民藝)がひいきだった。その数々の公演、名舞台に、清水将夫(1908~1975)がいた。
 矢野さんが民芸の芝居にハマる少し前、中学生のとき、黒澤明の映画に出ていた清水に惹かれた。そのあと、民芸のいくつかの舞台で、その姿を接することになる。そんなある日――

 受けた大学のすべてに落ちて、発表のあてなどまるでない映画作家論など書きなぐりながら、無為な日日をすごしていたある日の昼さがり。代々木八幡から乗った小田急線の空いた車内に、清水將夫が腰をかけ、ひろげた台本に目を通していた。若かったと、いま思い出しても顔がほてるが、思わず声をかけ第一生命ホールで観たばかりの『日本の気象』について、生意気で青くさい意見を述べた。舞台の温顔そのままに、叮嚀に受け答えしてくれて、別れに際し、たしか『あっぱれクライトン』だったと思うが、チラシ一枚手渡された。新宿まで十分足らずの、熱い時間だった。
「清水將夫」(前掲書)


清水将夫(『民芸の仲間』第4号「巌頭の女」特集、劇団民芸、1952年4月)

 う~ん、目に浮かぶような素敵な逸話だ。女学生時代の渡辺美佐子は、井の頭線の車内で憧れだった信欣三を見かけ、六本木の俳優座まで尾行した。そのエピソードに匹敵する“ちょっといい話”ではないか。
 劇団民芸公演『日本の気象』(久保栄作・演出、1953年5月21日~6月8日、第一生命ホール)は、戦後まもなくの気象台が舞台。清水は理学博士で、国政選挙に立候補する八十島台長を演じた。


劇団民芸公演『日本の気象』(久保栄作・演出、1953年5月21日~6月8日、第一生命ホール)。左より、宇野重吉の中尾敬吾、滝沢修の田代義孝、伊達信の矢吹予報部長、山内明の津久井技師、清水将夫の八十島台長(『劇団民芸の記録 1947~1960』劇団民芸、1960年9月)

 ところで、《生意気で青くさい意見を述べた》との一文が気になる。清水に対し、どんな“青くさい意見”をしたのか。『舞台人走馬燈』には、明かされていない。
 『舞台の記憶――忘れがたき昭和の名演名人藝』(岩波書店、2015年12月)に、そのヒントがある。観たのは千穐楽(1953年6月8日)で、カーテンコールのさい、作・演出の久保栄があいさつに立った。そして、《「新劇の実力を築地小劇場時代にまで高めることです」》(「日本の気象」『舞台の記憶』)と言った。


久保栄(『民藝の仲間』第9号「日本の気象」劇団民芸、1953年5月)

 久保のこの言葉に矢野青年、カチンときた。《團十郎爺ィじゃないかと、高校出たての生意気盛りといたしましては、ほんとうにそう思った》(前掲書)。小田急線の車内で、清水将夫にその不満をぶつけたのではないか。
 もっともこの話には、矢野さんらしい“オチ”がつく。

 いつの間にかあのときの久保榮の年齢を二〇もこえて、五〇年前に胸おどらせた芝居のあれこれを思いかえすと、なんだか久保榮と同じようなことを口ばしりそうな気がしてくるのだ。
「日本の気象」(『舞台の記憶』)

 清水将夫は、趣味で絵を描いた。その話は、以前の本ブログ「マーちゃんの酒」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/12/29/211933にちょっと触れた。
 昭和50(1975)年10月5日、清水将夫は67歳で亡くなる。劇団民藝の劇団葬(10月8日、青山葬儀所)に、矢野さんも参列したらしい。

 会葬御礼にいただいた、ゴーギャンに扮した自画像を大切にしている。
「清水將夫」(『舞台人走馬燈』)

 滝沢修のゴッホで当たり狂言となった三好十郎作『炎の人』で、清水はポール・ゴーギャンを持ち役とした。文中の《ゴーギャンに扮した自画像》は、ゴーギャンに扮した自画像のポストカードのことである。
 それと同じものが、手もとにある。「ブログに、清水さんのことを書かれていたので」と小杉勇のご家族から、ご厚意で頂戴した。清水将夫と小杉勇は、戦後の日活時代に親交がある。「生前、部屋に飾っていた」とご家族からの手紙にはあった。思えば、小杉勇も絵を描く俳優だった。
 矢野さんが大切にしたものと同じ、清水将夫のポストカード。とりたててつながりのなかった方だけに、そのことがちょっとうれしい。


劇団民藝公演『炎の人』「ゴーガンに扮する自画像・清水将夫画」ポストカート、挨拶状(劇団民藝/清水松子、1975年11月)[小杉勇旧蔵]


*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料。