脇役本

増補Web版

あねおとうと 夏川静江(静枝)


夏川静江 友の會編『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會)


 映画、テレビドラマ、商業演劇の脇に出て、渋い存在感で魅せた人たちが、往年の大スターだったり、絶世の美青年だったり、人気女優だったり、というのはよくある。夏川静江(なつかわ・しずえ 1909~1999)は、そのひとり。昭和37(1962)年に「静枝」と改名し、それからの印象が強い人も多いと思う。
 僕がまず思い浮かぶのは、『ドラマ人間模様 夢千代日記』(NHK総合)のおスミさん。芸者の置屋「はる家」の女中で、シリーズ第1作『夢千代日記』(1981年2~3月)から、第3作『新 夢千代日記』(1984年1~3月)の途中まで出演した。おスミさんは、はる家の女将・夢千代にとって大切な存在で、夢千代を演じた吉永小百合が、夏川のことを慕っていたようにも感じる。
 三船プロの大作『大忠臣蔵』(NET、1971年1~12月)にゲスト出演し、ワンシーンだけ顔を出した小野寺丹女も印象深い。仇討への悲願を秘めた夫・十内(伴淳三郎)を支える、品のいい奥方である。夏川は、大河ドラマ『赤穂浪士』(NHK総合、1964年1~12月)でも、この役を演じた。


『大忠臣蔵』第16回「柳生の隠密」(NET、1971年4月20日放送)

 映画の脇に出る夏川もいい。「あえてひとつ」と問われると、田坂具隆監督『ちいさこべ』(東映京都、1962年)を挙げたい。大工の棟梁・茂次(中村錦之助)の母親で、劇中ではすでにこの世の人ではない。茂次の回想シーンに、やさしげに、おぼろげに、わずかなシーンで登場する。同じくこの世の人ではない茂次の父が山本礼三郎で、田坂具隆こだわりのキャスティングがすばらしい。


『ちいさこべ』(東映京都、1962年)。左は中村錦之助

 最晩年まで美しい人だったが、昭和ヒトケタ時代の写真を見たときは、驚いた。かわいい。お年を召してからの品が、わかるような気がする。
 当時の人気が物語るように、本も出た。戦前の夏川静江本では、全4巻からなる自叙伝『私のスタヂオ生活』(1928~33年)と『誠文堂十銭文庫95 映画女優になるには』(誠文堂、1930年12月)がある。
 ここで紹介する夏川静江 友の會編『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會、1934年5月)は、昭和9(1934)年5月1日、大阪・朝日会舘で催された「夏川静江を舞台へ送る會」のパンフレットである。当時のスター人気を思うと、“脇役本”とは書きづらい。


『夏川静江を舞臺へ送る』(夏川静江 友の會、1934年5月)

 明治42(1909)年9月、東京・芝の生まれ。7歳のとき、上山草人が主宰する近代劇協会の公演『銀笛』でデビューする。大正8(1919)年には、メーテルリンクの『青い鳥』に出演、初代水谷八重子がチルチルを、夏川がミチルに扮した。この舞台は、往年の夏川ファンのなかで語り草となる。
 昭和2(1927)年には日活入りして、本格的に映画に出始める。それに先立つ大正14(1925)年からは、本放送が始まったばかりのラジオに進出、ドラマ(放送劇)に、物語に、と活躍の場を広げた。モダンで先駆的な、気鋭の女優であった。


物語放送中の夏川静江(前掲書)

 夏川は、ひとつのところに安住することを好まない。昭和9(1934)年には日活を離れ、東宝へ移籍する。その節目に催されたのが「夏川静江を舞台へ送る會」と銘打つ一大イベントであった。
 とにかく豪華だ。「夏川静江 友の會」発起人に名を連ねるのが、大佛次郎、吉屋信子、谷崎潤一郎、久米正雄、山田耕筰、西條八十、岸田國士、メイ牛山ら総勢26人、そうそうたる顔ぶれ。
 当日のプログラムが、これまたゴージャスである。市川春代の「開会のことば」で第1部の幕をあけ、西條八十の「お話『しいちゃん今昔』」、日活総務・永田雅一のスピーチ「夏川君を送る」、夏川主演映画の主題歌コンサート(唄が松平晃と渡邊光子、踊りが川口秀子)とつづく。
 第2部は、口上から始まる。司会が松井翠声で、夏川、市川、鈴木傳明、小杉勇、高田稔、山本嘉一、入江たか子、伊達里子、飯塚敏子、片岡千恵蔵、林長二郎、阪東好太郎、中野英治、花井蘭子、山路ふみ子、杉山昌三九ら総勢19名、豪華スターが綺羅星のごとくズラり。当日は、撮影や都合で来れなかったスターがいるにしろ、すごいメンツである(プログラムにあるのは、出演を承諾した人たち)。
 口上のあとは、横山エンタツ・花菱アチャコの二人漫談(漫才に非ず)「夏川静江と結婚した話」、静江による「愛弟(夏川大二郎)紹介」、そして、市川春代・夏川大二郎主演のトーキー作品『さくら音頭』(日活太秦)でお開きとなる。


『夏川静江を舞臺へ送る』

 当日のパンフレットも、贅を尽くしたもの。菊判・全36ページ、すべてグラビア印刷である。
 吉屋信子の詩と大佛次郎のエッセイ(『私のスタヂオ生活』からの再録)、エンタツ・アチャコ「夏川静江と結婚した話」誌上再録、夏川のエッセイ3編(「スクリーンよりステージへ」「大二郎をどうぞよろしく」「わが二十六年史」)、夏川の出演リスト(舞台、映画、ラジオ)と盛りだくさん。サントリー角瓶、山葉ピアノ、コロムビア、ポリドール、宝塚少女歌劇、大阪ガスビルなど、当時の広告がまた楽しい。
 パンフレットにおさめられた3編のエッセイは、いずれも読ませる。たとえば、こんな赤裸々な文章がある。

 私が映畫から舞臺へ轉向を思ひ立ちました時、松竹のお世話になるべきか、東寶へ入るべきかと餘程迷ひましたが實を申しますと、私自身としては、どちらかと申せば、松竹の方へ心が傾いてゐたので御座います。それと申しますのは、松竹には、私の師事すべき先輩の方々がゐられるからであります。私の様な未熟者は、月が太陽に照らされて光つて見えます様に、はたの藝の光をあびて、始めて光つて見えるのです。で自力を養ふに、先づ他力にすがつて勉強いたしたいものと、松竹行きを考へたのでありますが、しかしこれは自分だけの立場から考へたことで、いよいよ自分の針路を決める段になると、やはり私の家庭の人々が在来の芝居國の慣習に踉(つ)いてゆけるものかどうかといふような點も考へねばならず(後略)
(夏川静江「スクリーンよりステージへ」前掲書)


『夏川静江を舞臺へ送る』

 世に、移籍のゴタゴタはつきものだ。この3年後には、松竹から東宝への移籍をめぐって、林長二郎こと長谷川一夫の顔斬り事件が起きた。夏川の東宝移籍は、血の雨こそ降らなかったものの、さまざまな大人の事情があったことは想像できる。
 当時の日活総務が永田雅一、のちの大映“永田ラッパ”で、東宝には小林一三がいる。日活が夏川を手放すと決めたとき、東宝とどういう手打ちをしたのか。本音では松竹に行きたかった夏川は、そのかけひきを知っていたはずである。この移籍ののち、夏川は東宝劇団(第一次)に参加する。
 それにしても、率直に書いたものだ。先のエッセイには、《一時沈鬱になつてをりました私》との言葉もある。舞台、映画、ラジオと場数を踏んだとはいえ、当時はまだ20代半ばの女性である。
 夏川が、このお祭り騒ぎな会を快諾した理由は、友の会の後押しや移籍をめぐる大人の事情だけではない。日活でデビューしてまもない弟・大二郎(当時22歳)を世に出す意味あいもあった。会のしめくくりを、大二郎主演映画の上映にあてたことからも、それがわかる。


夏川静江と夏川大二郎(前掲書)

 果して大二郎にどれだけの天分があるものか、ないものか、私にはちつともわかりませんが、映畫の議論をすると、きつと私が凹まされます。そりや全くゑらさうなことをいふのです。そして大の岡田嘉子さんびいきで、ぜひ岡田さんと『椿姫』が撮りたいなんて、一人前のスターででもあるやうなことをいふのです。しかし、やつぱり子供です。私のお知合に紹介してやらうと思つても、人一倍大きな體をしながら、すぐ顔を赤くしてしまつて、禄すつぽ挨拶もできない始末です。
 幸ひ日活の皆さんが、争ふようにして可愛がつて下さるので、この分ならどうにか道を變へずに進み得るかと、漸(や)つとのことに胸を撫で下ろしましたものの、何分にもまだ一人歩きのできないものを、獨りぼつちにして、舞臺へ立去る私です。實のところ心配でなりません。この上はただ皆さんの御鞭撻にお縋りするばかりです。
 こないだうちは撮影がたてこんで大二郎も徹夜撮影を重ねましたが、入社早々の仕事だけにかなり苦しかつた様です。でもそんな修業は皆さんも私もして来たことです。大二郎よ、あなたが燦然と第一線のスターになる日を私は心で祈つています。
(夏川静江「大二郎をどうぞよろしく」前掲書)

 愛弟を銀幕へ送り出す姉ごころ、胸をうつ。なんて素敵なお姉さんなのだろう。そうはいっても22歳、立派な大人だし、ちと甘やかし過ぎでは、と思わなくもない。松竹移籍への未練を書き綴ったこと、弟への愛情を照れ隠しにしなかったこと……正直な女優、人である。
 姉と弟、ともに戦前、戦後と息のながい活躍をした。戦後は静江(静枝)が脇にまわったように、大二郎もバイプレーヤーとなる。貫禄のある役者だったが、山形勲や佐々木孝丸のように、巨悪をこなすスケールには欠けた。『夢千代日記』で姉が当たり役とした、おスミさんのような作品にも恵まれなかった。
 それでも、ドラマ版『華麗なる一族』(毎日放送、1974年10月~75年3月)で演じた松平日銀総裁(映画版では中村伸郎が演じた)のように、記憶したい晩年の仕事はある。姉ゆずりの品と銀行家らしい冷徹さを併せ持つ、まさに適役だった。


『華麗なる一族』第22回(毎日放送、1975年2月25日放送)

 晩年の大二郎は体調を崩しがちで、1970年代末に第一線を退いた。ベテラン三女優の鼎談本『女優事始め 栗島すみ子/岡田嘉子/夏川静枝』(平凡社、1986年12月)で、岡田嘉子から《お元気なんでしょ?》と訊かれたときは、《いえ、この前も入院してたんですよ。もう、いまは体が……、年はまだそんなじゃないんですけどね》と答えている。大二郎が亡くなったのは昭和62(1987)年で、そのころはもう女優を引退している。
 夏川静枝の自宅は杉並区永福町にあり、夫(作曲家の飯田信夫)に先立たれたあとは、ひとり暮らし。近所の人と語らい、庭の花や鳥を愛で、3時のおやつも欠かさなかったらしい。雑誌のインタビューには最晩年まで応じ、訪れる人たちを変わらぬ品と美しさでもてなした。


夏川静枝(『ノーサイド』1995年9月号「総特集・キネマの美女」文藝春秋)