脇役本

増補Web版

随想銀幕劇場 中村翫右衛門

 フィルムが失われていたり、権利関係が複雑な作品は別として、「観たい」と念じてさえいれば、映画はいずれ自分の前にあらわれる。名画座にしろ、BS・CS放送にしろ、DVDにしろ……。
 『劇映画 沖縄』(『沖縄』製作上映委員会、1970年)がそうだった。第1部「一坪たりともわたすまい」、第2部「怒りの島」からなる3時間15分の大作で、本土復帰前の沖縄を舞台にした群像劇である。過去にVHSビデオが発売され、各地での自主上映会もあるものの、なかなか観る機会に恵まれなかった。
 観たい。なぜか。三代目中村翫右衛門(なかむら・かんえもん 1901~1982)が出ているから。明治34(1901)年、東京・下谷の生まれ。父は柳盛座の座頭だった初代中村梅雀(二代目翫右衛門)で、三代目翫右衛門を継いだのは大正9(1920)年、19歳のときだった。
 そののち、春秋座の結成と挫折をへて、昭和6(1931)年に劇団前進座の創立に参加する。前進座の看板役者にして、昭和の演劇界を代表する名優のひとりである。山中貞雄不朽の名作『人情紙風船』(P.C.L.=前進座提携、1937年)をはじめ、主演格で出た映画も少なくない。
 晩年は、映画やテレビドラマの“脇の抑え”で存在感を光らせた。“渋い”という言葉では物足りない。ものがたりの要に出てくるだけで“幸せ”な気持ちになる。
 『劇映画 沖縄』には、そんな翫右衛門が登場する。だから、観たい。そう念じていたら、なかのZEROホール(2017年11月)、ラピュタ阿佐ヶ谷(2018年8~9月)、ポレポレ東中野(2019年6月)と近年相次いで上映された。なかのとラピュタで2度、この大作を味わうことができた。


『劇映画 沖縄』(『沖縄』製作上映委員会、1970年)リバイバル上映チラシ(2017、19年)

 加藤嘉、飯田蝶子、花沢徳衛、吉田義夫、鶴丸睦彦、戸浦六宏、鈴木瑞穂と好きな役者がいろいろと出てくる。お目当ては翫右衛門、である。演じるのは、米軍の土地強制接収に抗う反対派のリーダー、古堅秀定。反対運動を主導した阿波根昌鴻がモデルで、期待した以上の名演であった。
 秀定は、前半の要となる存在である。測量に来た米軍関係者を前に、土地を奪われる農民たちの怒りが昂る。一触即発、秀定は平和的な対話を農民たちに説く。ところが、米軍の暴挙が度を越したとき、秀定の堪忍袋の緒が切れた。米軍兵士に銃を突きつけられても動じない、翫右衛門憤怒の芸の幕があく。その見事さたるや!


『劇映画 沖縄』第1部「一坪たりともわたすまい」。手前左より鶴丸睦彦、中村翫右衛門、戸田春子、加藤嘉

 第1部の終盤、愛すべき沖縄のおばば(飯田蝶子がセリフなしで好演)が、米軍演習の巻き添えで命を落とす。秀定は、おばばの孫(佐々木愛)や集落の民の先頭に立ち、おばばの棺とともに、米軍に奪われた土地を歩む。「一坪たりともわたすまい!」。凛とした翫右衛門の佇まいに震えた。


『劇映画 沖縄』第1部。中央が中村翫右衛門、左が佐々木愛
 
 翫右衛門には、多くの著書がある。『愛人の記』『演技自伝』『人生の半分』『芸話 おもちゃ箱』『劇団五十年 わたしの前進座史』『歌舞伎の演技』……自伝、芸談、プライベートな秘め事まで多彩である。
 映画俳優としての翫右衛門を知るのなら、『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』(前進座宣伝部、1987年8月)という好冊子がある。昭和62(1987)年8月13日から23日まで、今はなき前進座劇場(東京・吉祥寺)で開かれた「前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯」の公式パンフレットである。
 この特集上映では、翫右衛門が出演した『人情紙風船』、『逢魔の辻』(東宝=前進座提携、1938年)、『怪談』(にんじんくらぶ=東宝配給、1964年)、『風林火山』(三船プロ=東宝、1969年)、『天狗党』(大映京都、1969年)、『劇映画 沖縄』、『いのちぼうにふろう』(俳優座映画放送=東宝配給、1971年)、『軍旗はためく下に』(東宝=新星映画社提携、1972年)が上映された。


『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレット(前進座宣伝部、1987年8月)


「前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯」チラシ

 このパンフレットには、翫右衛門の文章がいくつか再録されている。『劇映画 沖縄』上映パンフに寄稿した、こんなエッセイがある。

 前進座映画『どっこい生きてる』以来、二十年ぶりで、また飯田蝶子さんと一緒に映画をつくれることは、私のよろこびの一つでした。飯田さんとは若い若いころからお友達でしたから……。
 徳之島のロケ先で、ひさしぶりで飯田さんと対面、お互いの元気をよろこびあいました。
(中村翫右衛門「『沖縄』出演のよろこび」『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』/初出は『劇映画 沖縄』パンフレット、1970年1月)

  中村翫右衛門と飯田蝶子、二名優の再会と語らいは、どんな光景であったのか。お互いの元気をよろこびあったものの、飯田は昭和47(1972)年12月に亡くなった。
 
 昭和8(1933)年公開の『段七しぐれ』(大日本自由映画プロダクション=新興キネマ配給)で、翫右衛門は映画に初出演する。それから40年ほどのあいだに、26本の作品に出演した。この特集上映は8作品なので、集大成と呼べる規模ではない。
 ただし、パンフレットはよくできている。A4判・全28ページ。上映作品データ、スチールや撮影風景、台本・ポスター・チラシ・パンフレットなどの図版、雑誌・パンフレットからの関連記事抜粋と、マニアックな翫右衛門愛にあふれている。
 読み物と資料も充実している。中村梅之助、深作欣二、栗原小巻がそれぞれ翫右衛門の人となりを綴り、演劇評論家の尾崎宏次が論考「映画のなかの翫右衛門」を寄せ、精緻きわまる「翫右衛門と前進座映画年表 1901⇒1982」を巻末に収めた。とりあえずこの一冊があれば、映画俳優・中村翫右衛門の仕事は、人前で語ることができる。


『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレット

 パンフレットの奥付を見て、気合いの入った内容に納得した。編集・レイアウト・タイトルデザインのすべてを、日本映画史家・日本映画文献史研究家の本地陽彦が手がけているのだ(本地は前進座宣伝部にいた時期がある)。
 翫右衛門ファンとしては、飯田蝶子との再会だけでなく、そのつど反応したくなる記事がほかにもある。稲垣浩監督『風林火山』では、武田家の名将・板垣信方を演じた。福島県相馬原ノ町での合戦ロケでは、山本勘助役の三船敏郎と現場が同じだった。

 三船さんとは初対面だが、私が衣裳をつけるのに手伝って鎧を着せてくれる心からの親切さと謙虚な態度に、こちらが恐縮して頭が下がる想いであった。
(中村翫右衛門「新・おもちゃ箱」前掲書/初出は『月刊前進座』1968年12月号)

 三船にとって翫右衛門は、映画俳優として大先輩にあたる。その心づかい、しみるなあ。このうるわしき光景を、息子の梅之助が見ていた。

 ロケ現場に到着しますと、ありがたいことに三船敏郎氏が自ら翫右衛門の鎧を着ける手助けをして下さいました。そして、まだ早いと言うのに兜まで着け、二時間も床几(しょうぎ)にかけて出番を待ちます。「呼ばれて待たせるのは失礼だ」、というわけです。現場では全く台本を見ない、というのもいつものことでした。
(中村梅之助「映画俳優としての父・翫右衛門」前掲書)


『風林火山』(三船プロ=東宝、1969年)ロケスナップ。左が中村翫右衛門、右が三船敏郎

 翫右衛門にとって、深作欣二監督『軍旗はためく下に』が、最後の映画出演となった。この映画は数年前、池袋・新文芸坐の夏の戦争と平和特集で観た。
 本作の役どころは、『劇映画 沖縄』とはうってかわり、老獪な人物だった。太平洋戦争末期のニューギニア、謎につつまれた理由で後藤軍曹(丹波哲郎)が処刑される。遺された妻のサキエ(左幸子)は戦後、関係者を訪ね歩き、執念で真相を暴いていく。夫の上官だった千田参謀(翫右衛門)は罪を逃れ、悠々自適の老後をおくっている。サキエの追及に動じず、のらりくらりとはぐらかす千田のしたたかさ。うまい!


『軍旗はためく下に』(東宝=新星映画社提携、1972年)。右が中村翫右衛門、左が岡本征男

 『前進座名作映画劇場―中村翫右衛門特輯』パンフレットに、深作欣二のエッセイがある。翫右衛門への愛が、ひしと伝わる。

 当時、私はまだ青臭い若手監督のひとりでした。血気にはやり、性急で舌足らずな注文も多かった筈で、今思い出せば汗顔の至りなのですが、翫右衛門さんはいつもていねいな熱心さで、私の注文を受けて下さいました。そういえば翫右衛門さんは、末端のスタッフや無名の俳優さんに対する時でも、そのていねいな物腰を崩すことはありませんでした。映画界に入って以来、スタアと呼ばれる連中の馬鹿げた我侭ぶりに、ほとほと愛想をつかしていた私としては、本当に心洗われる思いの仕事ぶりでした。
 思えば私は、映画に志した頃から翫右衛門さんのファンだったのです。『戦国群盗伝』『人情紙風船』『元禄忠臣蔵』等の戦前の作品から、戦後の『箱根風雲録』『怪談』『いのちぼうにふろう』等の時代劇に於ける格調ある演技は、他の追随を許さず、今なお私の記憶の中に鮮明に残っています。
 『軍旗はためく下に』の時には、撮影現場だけの短かいおつき合いだったので、そういう私の思いをお伝えする機会もありませんでした。せめてもう一度、時代劇でご一緒していれば、いろいろ教えていただく事も多かったろうにと、本当に残念でなりません。
 偉大な俳優さんでした。改めて合掌。
(深作欣二「中村翫右衛門の想い出」前掲書)


『軍旗はためく下に』製作発表の日。左より丹波哲郎、深作欣二、左幸子、中村翫右衛門、市川祥之助、江原真二郎
 
 翫右衛門の映画出演が、『軍旗はためく下に』で終わったことが惜しまれる。幸いなことに、前進座公演や他劇団への客演のかたわら、テレビドラマには数多く出た。
 『座頭市物語』第1話「のるかそるかの正念場」(フジテレビ、1974年10月3日)では、市(勝新太郎)も一目おく、情と凄みを兼ね備えた渡世人。『横溝正史シリーズ 獄門島』(毎日放送、1977年7~8月)では、旧家の三姉妹連続殺人の鍵をにぎる住職・了然。『松本清張シリーズ 天城越え』(NHK、1978年10月7日)では、時効を迎えた殺人事件の顛末を真犯人(宇野重吉)に語る元刑事。『修羅の旅して』(NHK、1979年10月28日)では、主人公(岸恵子)の父で、病床の妻(長岡輝子)に寄り添う老いた夫。挙げればキリがない。


『座頭市物語』第1話「のるかそるかの正念場」(フジテレビ、1974年10月3日)左が勝新太郎、右が中村翫右衛門

 姿と形が見えなくても、声だけの翫右衛門もすばらしかった。ラジオ小説「私の文庫本」第79回『巷談本牧亭』(文化放送、1979年4月6日)では、舞台で当たり役とした講釈師・桃川燕雄を口演した。舞台で絶賛された見事な語り芸は、ラジオでも変わらない。
 昭和57(1982)年9月21日没、享年81。生前の舞台には、間に合わなかった。でも、たくさんの映画、テレビ、ラジオ、そして、語りのレコードを残してくれた。没後37年、その芸と人は、色褪せることがない。