脇役本

増補Web版

わが女神 小林トシ子

 BS12(トゥエルビ)で今年の4月から、銀河テレビ小説『まんが道』(NHK総合、1986年11月~12月放送)が再放送されている。藤子不二雄Aの同名自伝漫画のドラマ化で、小学生のころに見て以来で懐かしい。
 その第12回、立山新聞社学芸部の虎口部長(蟹江敬三、好演!)の指示で、記者の満賀道雄(竹本孝之)と竹葉美子(五代眞弓)が、木下恵介の『カルメン故郷に帰る』(松竹大船、1951年)を観に行くシーンがある。「初の総天然色映画だから、仕事だよ」と言うものの、道雄と美子が想いあっていることを、虎口はちゃんと知っている。 
 スクリーンには、ストリッパーのマヤ・朱実(小林トシ子)が、浅間山麓で脱ぎ出すシーンが映し出される。「き、きれいですね」と道雄。「ええ、とっても素敵」と美子。ともに赤面しながらも、幸せそうなふたり……。



銀河テレビ小説『まんが道』第12回。竹本孝之(左)と五代眞弓(右)

 小林トシ子(こばやし・としこ 1932~2016)は、エキゾチックな美貌と雰囲気で、戦後の松竹映画でおなじみだった。木下恵介は、『破れ太鼓』(松竹京都、1949年)の長女役を探していたとき、映画・演劇人のたまり場だった喫茶店「蟻屋」(東京・新橋)で、日劇ダンシングチームの踊り子だった小林のことを知り、白羽の矢を立てる。
 木下は、映画女優としてはド素人の小林を、千田是也を介して、俳優座養成所にあずけた。それからは、木下作品になくてはならない存在となる。『破れ太鼓』を皮切りに、『善魔』『カルメン故郷に帰る』『少年期』『海の花火』『カルメン純情す』『二十四の瞳』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』…わずか6年で、これだけの木下作品に出ている。
 昭和7(1932)年、東京生まれ。「松竹の看板女優」とは呼びにくいけれど、「脇役」と書くのもしのびない。同い年に岸恵子、有馬稲子、渡辺美佐子、岩崎加根子、ひとつ年上に香川京子、ひとつ年下に草笛光子がいる。この女優たちの仕事を考えると、小林の映画での活躍はもっとあってもよかった。
 昭和31(1956)年には、草月流の勅使河原宏と結婚し、“勅使河原トシ子”となった。華道家の妻となり、3人の子どもの母親になったこともあり、1960年代に入ると映画出演の機会が少なくなる(それと前後して、夫の宏が映画の仕事にのめりこんでいくのは皮肉である)。
 そんな彼女を“女神”と敬い続けたファンがいた。広告会社の図書館につとめる後藤光明である。後藤は、『カルメン故郷に帰る』で小林の虜となった。『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』(私家版、1977年11月)は、みずから蒐集した小林の写真や関連記事をもとに、後藤が編集・デザイン・発行した、非売品のスクラップブックである。

 小林さんを評してこれ迄にも、たびたび使われている言葉だが、日本人ばなれしたその容姿、どちらかといえば甘さのない容貌は、私の瞼から離れなくなってしまった。「カルメン」でみせた、あのカラッとしたエロティシズムは他の日本の女優の持ちあわせていないものである。地味な響きをもったその声も私の耳には、いつ思い出しても心地よい響なのである。
(後藤光明「序・あこがれはいまも少年の如く」『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』)

 


『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』(私家版、1977年11月)

 A4判、170ページ。映画広告、ブロマイド、映画雑誌、月刊誌、週刊誌、新聞、初公開時のプログラム、名画座のパンフレットなど、写真と記事がところせましと並ぶ。家庭の人になってからの婦人雑誌の記事までおさめ、頭から尻尾までトシ子、トシ子、トシ子、である。
 ファンならつい書きたくなる、評伝や演技評、映画評の類いはまったくない。潔いほど資料本に徹している。惜しむらくは、書誌データがどこにも明記されていないこと。せっかく興味ぶかい記事があっても、どの媒体の、いつの発行号なのか、まったくわからない。



『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』

 1960年代に映画界(松竹)から離れた小林だが、女優をやめたわけではない。テレビドラマや新劇の舞台には、けっこう出演している。昭和40年代に入ると、グループNLTや浪曼劇場の公演に参加、中村伸郎、南美江、村松英子らと共演した。
 昭和44(1969)年10月の浪曼劇場公演『皇女フェドラ』(紀伊國屋ホール)では、主人公のフェドラを演じ、木下恵介が餞のことばを寄せた。その記事が、『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』にある。 

 彼女が家庭の人となり、良き母となり、子供達も手がかからなくなって、今やっと昔止切れた糸を現在に結んで、中断していた女優生活に再生の第一歩を踏み出した時、私は、恐らく誰より嬉しく思っていたし、今度彼女が『皇女フェドラ』で主役をすると聞いて、期待も大きく、体当たりでぶつかって行くであろう彼女を想像すると、親父のような微笑が湧いてくるのである。成功を祈る。
(木下恵介「小林トシ子讃」初出誌不明)

 あたたかい文章だな、と思う。家庭に入り、松竹を離れ、女優としてテレビや舞台に出演する小林に、木下は複雑な思いを抱いたかもしれない。それでも、女優としての新たなスタートにエールを惜しまなかった。
 あこがれの人が舞台に立つことは、後藤にとっても望外の喜びとなる。銀幕の人、家庭の人であれば、遠くから見守ることしかできない。舞台は違う。すぐ目の前に“女神”がいる。
 昭和43(1968)年12月、蝎座プロデュース公演『ラスビークの夕食』に小林は出演する。蝎座は、映画館「新宿文化」の地下にあった小さな劇場で、後藤はその一番前の席に座った。

 この時とばかり一大決心をして、終演後バラの小さな花束を差しだし、内心の胸のふるえを押えながら、恐る恐る話しかけたのである。そして、蝎座近くの「ロールスロイス」という喫茶店で、私のファンになってからのいきさつを簡単にお話した。画面やステージから受けるクールな印象とは異なり、そこには、飾り気のないとても気の良い女性だなというパーソナリティを感じ、私の女神は遠のかず、むしろ身近な女神となったのである。
(後藤光明「序・あこがれはいまも少年の如く」前掲書)

 これが縁となり、ふたりは親交を深めていく。その関係は、昭和52(1977)年11月、「第1回 小林トシ子リサイタル」(紀伊國屋ホール)として結実する。後藤が企画したこのリサイタルでは、『レトナ通りにて・ある女と男の…』が上演され、小林が主人公の「女」にふんした。
 『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』は、このリサイタルにあわせてつくられたものだった。“女神”へのプレゼント、という意味合いもある。そんな後藤の気持ちを、小林は素直に受けとめた。

 ひっこみ思案のわたくしは、今日まで女優の道を手さぐりで、おぼつかなく歩きつづけて参りました。
 妻として、母として、わたくしなりにつとめてきましたが、四十すぎた今、新しく、女の哀しみや、よろこびを、この本との出会いによって表現してみたいとねがっておりました。わたくしの映画時代からのファンの方に、この気持を、お話しいたしましたところ、その方、後藤光明氏が、企画者として、積極的に先輩、友人諸氏の御協力をおまとめ下さり、小林トシ子リサイタルを、実現するはこびとなりました。ただ、ありがたい気持で一杯でございます。(以下略)
(小林トシ子「勇気をもって、今」前掲書)

 


「第1回 小林トシ子リサイタル」、左は大月ウルフ(『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』より)

 後藤は、この『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』だけでは満足しなかった。3年後にはなんと、レコードまでこしらえた。昭和55(1980)年に出した、非売品の豪華LP2枚組『Close-up TOSHIKO KOBAYASHI』(私家版)である。
 ジャケットデザインのセンスが抜群にいい。それもそのはず、グラフィックデザイナーの佐藤晃一が、アートディレクションを手がけている。



『Close-up TOSHIKO KOBAYASHI』(私家版、1980年)

 「Close-up」と銘打つように、出演映画の名場面(『カルメン故郷に帰る』『カルメン純情す』『現代人』『野菊の如き君なりき』『風前の灯』『亡命記』『集金旅行』『遠い雲』『破れ太鼓』)をダイジェストで収録。ボーナストラックとして、小林本人とその家族、小林の友人である奈良岡朋子のインタビューをおさめた。
 小林本人のインタビューでは、『破れ太鼓』の京都での撮影エピソードがいい。初めての映画出演で心細さがあったのか、自分で理由もわからず、撮影所の結髪室でひとり泣き出す小林。そんな彼女を、そばにいた共演者の沢村貞子が慰めてくれた。

 そのときにね、忘れもしないわ、撮影が終わって、帰りにね、四条のほうへ連れていってくれて、あんみつをね、食べさせてもらったの。それはなんかね、もう、沢村さんをテレビで拝見したり、それからあの方は御本を書いたりなさっているけれど、沢村さんというと、「あ、あんみつ」と思い出すのね。
(小林トシ子インタビュー『Close-up TOSHIKO KOBAYASHI』)

 この“脇役盤”がユニークなのは、後藤光明本人の肉声が入っていること。このなかで後藤は、“女神”との出会いと魅力を語り、《気さくにはまあ、お話はしていますけども、心の底にはやっぱりそういう、ひとつの敬いというのかな、そういうものは忘れられませんね》と言った。「敬い」という言葉からは、ファンと女優との適度な距離感、古き良き“憧れびと”との月日を感じさせる。

 小林トシ子は、1980年代末までテレビドラマに出演し、その後は女優を引退。平成28(2016)年の師走に亡くなった。草月流の家元は現在、次女の勅使河原茜が継承(第四代)している。
 ひとりの女優を“女神”と敬い続けた後藤光明は今、どうされているのか。ご健在であれば、いい年のおじいちゃんになっているはずである。

編集長は名悪役 江見俊太郎

 

 


 本ブログ第1回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/20190415)で紹介した、荒川区三河島の稲垣書店。「映画文献資料専門」と銘打つだけあって、店主の中山信行(信如)さんは、いろいろとマニアックな役者本(脇役本)を出してきてくれる。
 2年ほど前にお邪魔したとき、「これ、いる?」と見せてくれたのが、未知・未見の冊子『三十年のあゆみ』(東京芸能人国民健康保険組合、1981年8月)だった。び、微妙……。表紙デザインからして、病院の待合室に置いてあるものにしか見えない。


『三十年のあゆみ』(東京芸能人国民健康保険組合、1981年8月)

 冊子の内容は、東京芸能人国民健康保険組合の“三十年のあゆみ”以上でも、以下でもない。怪訝な顔をすると、「初代理事長が夢声なのよ」と中山さん。徳川夢声好きを知って、取っておいてくれたらしい。
 同冊子には、夢声の顔写真が一枚あるだけで、夢声のエッセイがあるわけでもない。「別にいらないなぁ」と心のなかで呟きつつ、パラパラめくっていると、奥付に《編集責任者 江見俊太郎》の文字が! 冊子の小史「組合はこうして生まれた」の署名には、《三十周年記念事業準備委員長 理事 江見俊太郎》とある。
 悪役で名高い江見俊太郎(えみ・しゅんたろう 1923~2003)が、こんな冊子をつくっていたとは知らなかった。 500円だったか、1,000円だったか、古書価は忘れたけれど、大喜びしたことをよく覚えている。
 江見俊太郎といえば、旧作邦画好きには新東宝映画の二枚目&色魔(当時は江見渉)、テレビ時代劇好きには『水戸黄門』(TBS)や『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)をはじめ、悪役でおなじみである。


『人間模様』(新東宝、1949年)。江見俊太郎[江見渉]と(左)と三原純(右)

 大正12(1923)年、東京都生まれ。早稲田大学専門部政経科を卒業後、学徒出陣となり、海軍航空隊少尉の特攻隊員となる。出撃の一歩手前で終戦をむかえ、今井正監督『民衆の敵』(東宝、1946年4月)で映画デビュー。新東宝を活躍の場としたのち、舞台、テレビへと仕事の場を広げた。『眠狂四郎無頼控』(日本テレビ、1957年)や『新吾十番勝負』(日本テレビ、1958~60年)に主演するなど、テレビ草創期は“二の線”で売った。
 江見俊太郎がなぜ、東京芸能人国民健康保険組合の30年史の編集責任者となったのか。その理由は、江見の晩年の肩書きと受賞歴を知れば、納得がゆく。協同組合日本俳優連合副理事長、社団法人日本芸能実演家団体協議会顧問、東京芸能人国民健康保険組合理事長、NPO東京芸能人フリー会常任理事、東京都功労者表彰(1996年)、文部大臣賞(1997年)。
 平成2(1990)年放送のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く 第1部幕末編』で江見は、薩摩藩第27代藩主・島津斉興を演じた。その役づくりについて、こう語っている。

 文化を大切にしないと、人間行き詰まっちゃうような気がするんです。芸能人って、ほんとうの意味での市民権を得てないんじゃないかな。
 あのね、芸能は一種の祈りなんですよ。つねにそこへ帰っていかなきゃいけない。それと愛情ですね。どんな作品も、自然や人間に対する愛情でつくられるべきなんだ。それさえあれば、科学も教育も経済も、まちがうはずないんです。そんな気持で斉興にも取り組みますよ。
(『翔ぶが如く NHK大河ドラマ・ストーリー』日本放送協会、1990年1月)


江見俊太郎の島津斉興(『翔ぶが如く 第1部幕末編』NHK、1990年1月)

 斉興の役づくりとしてはわかりにくいが、江見の人となりは伝わってくる。芸能人の人権について、つねに問題意識を抱く“名悪役”であった。
 そもそも、昭和27(1952)年11月に創立された東京芸能人国民健康保険組合は、ひとりの“名悪役”が病に倒れたのがきっかけだった。江見は、こうふりかえる。

 昭和26年のこと、名優山本礼三郎さんは肺病で倒れられた。
 当時、世田谷に三軒茶屋診療所という病院があり、所長の池内達郎先生(元日赤本社病院外科部長)の姉上が、俳優の故永田靖さんの奥さんであられた関係で、世田谷区在住の芸能人多数がお世話になっていた。その中には既に故人となられた山本嘉次郎監督や河野秋武さんらも居られた。
(江見俊太郎「組合はこうして生まれた」『三十年のあゆみ』)


山本礼三郎(『総会屋錦城 勝負師とその娘』大映、1959年)

 病床の山本礼三郎を見舞ったひとりの女優が、このとき声をあげた。山田五十鈴。「芸能人のための病院、療養施設を日本につくりたい」。山田の呼びかけに、笠置シヅ子、西崎緑、徳川夢声、山本嘉次郎、山田耕筰、石井漠と賛同の輪が広がっていく。
 とはいえ、ゼロから病院を建設するのは難しく、「健康保険組合なら」という話に落ち着いた。徳川夢声が理事長となり、創立発起人にはイロハ順に飯田蝶子から寿々木米若まで、錚々たる名優、名人ら72名が名を連ねる。
 当時は、今のような国民皆保険制度はなかった。そのため、同じ職業の人たちが1000人以上同意しないと、国の助成を受ける国民健康保険組合の認可は下りなかった。警察、消防署、土建業、理容業、派出看護婦の5つしか国保組合が存在しない時代、芸能人に特化した国保組合の誕生は、画期的であった。
 表紙からしてオーラのない『三十年のあゆみ』は、本体32ページ、それとは別に別刷・折り込み(4ページ)がつく。それでも、読み応えはある。たとえば、千秋実がエッセイ「創立三十周年によせて」を寄稿している。千秋と病との縁は、本ブログ第4回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/05/26/215053)で取り上げた。

 テレビ局も、利潤をあげることだけを追求せずに、芸能人を使ってもうけた金の一部は芸能人の福祉のために使ってほしいと思います。制作現場の条件を良くすることと、局の人間であれ、そのときどきの契約で働く人間であれ、番組のために働く総ての人間の健康と福祉のためにもう少し投資してもバチは当るまいと思うのです。
(千秋実「創立三十周年によせて」前掲書)

 この文章は、現在にもじゅうぶん通じる、放送業界への問題提起だろう。
 編集責任者の江見俊太郎としては、想いのこもった千秋実のエッセイだけで充分だったはずである。ところがもうひとり、東京芸能人国民健康保険組合を語るうえで最重要人物から原稿、いや“玉稿”が届いた。生みの親というべき山田五十鈴から、原稿がきたのだ。

 うっかり病気だと発表したばかりに仕事の声がかからなくなっては困ると考えて、胃のあたりを秘かに圧えながら、或いは神経痛やケガの痛みを隠しながら、さも元気そうな顔をしてお仕事を続けていらっしゃる俳優さんのなんと多いことでしょうか。
 ましてお芝居の場合は、明らかにお客様に迷惑がかかる……そう思って私自身も胃潰瘍をかくして5月の舞台を頑張り通してしまいました。 
 その結果がよくないのは当然です。
 私の胃潰瘍はその1ヶ月間で倍の大きさに拡がってしまい、よく吐血しなかったものだと医者に云われました。
(山田五十鈴「創立三十周年によせて」前掲書)

 5月の舞台とは、山田が主演する『笠森お仙』(帝国劇場)のこと。本人が明かした事情で、6月の舞台は降板せざるを得なくなった。山田がこの原稿を書いたのは(口述筆記かもしれず)、それから間もない8月のことである。
 山田の原稿は、冊子の印刷・製本に間に合わない。でも、その原稿が加わることで冊子にはハクがつく。編集責任者の江見が考えたのは、別刷り・折り込みというアイデア。冊子と同じ体裁で印刷だけして、手作業で折り込むのである。

 急遽、ご無理をお願いして原稿を頂いたので、ついに製本には間に合わず、折込みの形になってしまいました。
 お詫び申し上げます。
 千秋実さんのお話と合わせてお読み頂ければ幸いです。
(江見俊太郎「お詫び」前掲書)


『三十年のあゆみ』別刷り・折り込み

 紙媒体の世界で、別刷り・折り込みというのは、名誉なことではない。編集担当者が、進行管理できていないことの証となってしまう。原稿が締切後に届き、印刷・製本に間に合わないときは、仕方がなくボツにするケースが多い。
 そのなかで江見は、山田の原稿を大切に扱う。別刷り・折り込みにして、みずからお詫び文をつけた。名悪役は、誠意ある編集長であった。