脇役本

増補Web版

借金催促の名人芸 山茶花究

 

 「映画文献資料専門 稲垣書店」(東京都荒川区)のご主人、中山信行(信如)さんは、エッセイストでもある。著書『古本屋おやじ 観た、読んだ、書いた』(ちくま文庫、2002年)に、こんな文章がある。《まったく古本商売、〈売れずがっかり売れてがっかり〉とは、よく言ったもんだ》。
 これを読んで、「まったく古本蒐集、〈買ってがっかり買わずにがっかり〉」と頭に浮かんだ。買ってより買わずに、のほうがダメージは大きい。


 もう10年くらい前のこと。帝劇だったか、東京宝塚劇場だったか、東宝のミュージカル公演のパンフレットが古書目録に出た。
 公演名は忘れたが、昭和45(1970)年頃のもので、古書価はたしか6000円だった。相場より、かなり高い。その理由は 、病気療養中の山茶花究(さざんか・きゅう 1914‐1971)を励ますべく、同公演の出演者が寄せ書きをしていたから。
 山茶花究は、大正3(1914)年、大阪・船場に生まれた。実家はお米屋さん。浅草の「カジノ・フォーリー」や「古川ロッパ一座」などをへて、戦前は坊屋三郎、芝利英、益田喜頓とともに「(第2次)あきれたぼういず」で人気を博した。
 映画には戦前から出ていたけれど、旧作邦画ファンにおなじみなのは、1950年代以降のキャリア。アクのつよい性格俳優として、映画に、テレビに、舞台に、と引っぱりだことなる。
 菊田一夫や森繁久彌に乞われたことで、「森繁劇団」の公演や東宝系の舞台にけっこう出た。舞台での当たり役に、『マイ・フェア・レディ』のゾルタン・カーパシーがある。山茶花は、昭和38(1963)年の初演で、毎日芸術賞を受けた。以来、ハンガリーのあやしい言語学者カーパシーを、持ち役とした。
 江利チエミ、高島忠夫主演の舞台版『マイ・フェア・レディ』は、昭和45(1970)年にキャストを一新して再演された。古書目録に出たパンフレットは、『マイ・フェア・レディ』だったかもしれない。後悔先に立たず。ああ、注文しておけばよかった。


 寄せ書きをした役者仲間の願いもむなしく、まもなく山茶花は世を去る。享年57。その死を悼んだひとりに、宮口精二がいる。みずから発行人になった個人誌『俳優館』第3号(1971年4月1日)の編集後記「着到板」に、こう書いた。

この号の締切間際に山茶花究氏の訃報を新聞紙上で知らされた。生前の氏とは御一緒に仕事をする機会に恵まれなかったが、私にとって矢張り「心惹かれる人」の一人であった。実に惜しい人を又一人失って終った。出来れば次号に「山茶花究を偲ぶ」特集をしたいと思っています。故人と交際のあられた方々の御寄稿を頂ければまことに辱いと思います。

 宮口精二と山茶花究は、共演していなかったのか。意外に思う。
 『俳優館』は昭和45(1970)年から、宮口が亡くなる昭和60(1985)年まで、40冊発行された。宮口が世を去った翌年、遺族や関係者の手で「最終号・宮口精二追悼特集」が編まれ、このユニークな“俳優の雑誌”は幕となる(『俳優館』の詳細は『脇役本 増補文庫版』をお読みいただけると幸いです)。
 『俳優館』には毎号のように、俳優の追悼特集や追悼記事が掲載された。宮口編集長は、それが使命だと考えたのだろう。
 宮口の言葉どおり、 第4号(1971年7月1日)では特集「山茶花究を偲ぶ」が組まれた。特集は全12ページで、決して多くはないけれど、“山茶花究文献”の一冊として愛蔵している。

『俳優館』第4号(題字 東山千栄子、表紙絵 清水将夫)

 本特集は、山茶花の略歴と、舞台で当たり役としたゾルタン・カーパシーの写真にはじまる。そのあと、菊田一夫「弔辞」がきて、3編の追悼エッセイ(益田喜頓「山茶花究のこと」、加東大介「究さんのことども」、森繁久彌「山茶花究のこと」)がつづく。まことにベストな人選である。ゴルフプレー中の山茶花など、めずらしい写真もあり、編集長の愛情を感じる。

 菊田は、ロッパ一座での思い出をもとに、山茶花の「静」の演技を憶う。益田は、ユーモラスな味わいをもって、故人の負けずぎらいな一面を紹介する(喜頓いわく、ゴルフは下手くそだったそう)。森繁は、哀感のこもった友を送る調べで、《友達やら、友情やら、いろんなことを、物めずらしい程、始めてのように考えるのである》としめくくる。森繁は、山茶花のことをたびたびエッセイにするほど、山茶花愛のつよい人だった。
 いずれも心に沁みる名文なれど、加東が寄せた「究さんのことども」に惹かれた。千葉泰樹の『狐と狸』(東宝、1959年)、黒澤明の『用心棒』(東宝、1961年)など、ふたりには印象的な映画共演がいくつかある。

東宝映画『用心棒』。左より志村喬、仲代達矢、山茶花究、加東大介

私は究さんの、あのカミソリのような鋭い演技が好きだったが、中でも『花のれん』の借金の催促に来る商人は圧巻だった。出された座布とんを尻目に、言い訳する細君に、ポツリポツリとしゃべりながら喰いさがって行くうまさ…商売に命をかけた上方商人の姿がうきぼりにされて、名人芸ともいえるほどだった。究さんにそのこといったら「俳優同志で、本心からよかったとはなかなかいわないもの、ありがたく礼をいいます」とキチンといわれて照れたことがある。(加東大介「究さんのことども」)

 豊田四郎監督『花のれん』(宝塚映画、1959年)はだいぶ前、東京・京橋のフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)で観た。夫(森繁久彌)は放蕩ざんまいで、借金で稼業の呉服屋がまわらなくなり、妻(淡島千景)が頭をかかえる。そこへ、同業者の山茶花がやって来て、「金、返せ」とせめたてる。たしか、冒頭のワンシーンだけで、強烈な印象をのこして退場していった。 
 加東は山茶花の3歳年上、同世代にあたる。『花のれん』の演技がそうとう刺激になったのか、おなじことを『俳優館』でふたたび話題にしている。第9号(1972年10月1日)掲載の座談会「安楽椅子 加東大介・内山恵司・宮口精二」より引用する。

彼にはいろんな傑作があるだろうけど、それが一番印象に残っている。これはやっぱり役者が観たからだろうね。で、何かの時に、その話を究さんにしたのよ。そしたら「加東さん、いい事言うてくれた。それは役者でなければ判らない芝居だ」というの。「俺もあそこだけしきゃ出ないんだけど、あれには一所懸命賭けた、それを判ってくれるのはやっぱり役者だ」って言ってたけどね、そういうのあるね。

 いい話だな、しみじみする。ライバルでもある同業の仲間がほめ、素直にそれを受けとめる。自分ごとにおきかえても、こうした経験はまったくない。
 前進座出身の加東は、中村翫右衛門を終生の師として崇めた。山茶花もまた、翫右衛門を崇拝し、前進座の公演によく出かけた。山茶花の翫右衛門崇拝は、矢野誠一が著書『さらば愛しき藝人たち』(文藝春秋、1985年)に書いている。加東と、山茶花の、《役者でなければ判らない芝居》が、翫右衛門を通してつながる。
 

 先の座談会における山茶花賛には、前段がある。加東が、同席する宮口に言ったコメントが、話題のきっかけとなった。

僕は宮口ちゃんのを観ていて好きなのがあるけど、『にごりえ』の時の『源七』と成瀬先生の、僕も一緒に出たけど徳田秋声の本の植木屋の役。あれもいいなあと思った。役者が観てね、良いなあといつまでも印象に残るのはいいね。

 ここから、山茶花の話につながり、『花のれん』の名人芸の話題になっていく。
 宮口と加東も、いろいろと共演している(加東の言う植木屋は、成瀬巳喜男の『あらくれ』だろう)。「いいなあ」「良いなあ」と目の前で言われて、宮口がどんな反応を示したか。この記事には書かれていない。ただ、こうしてきちんと活字で残ったことは、よろこばしい。
 

 それから3年ののち、加東は64歳で亡くなる。
 宮口は、ひとりの俳優に追悼文を依頼した。中村翫右衛門。《楽屋に届く加東君からの花は、他の花は枯れてもいつも千秋楽までもち続けるのです》。『俳優館』第20号(1976年1月15日)に翫右衛門が寄せた、「惜しい人 加東大介君」の一文である。