脇役本

増補Web版

夜雄と悪平 内田良平

 前回のブログ(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/06/09/203130)で、内田良平(うちだ・りょうへい 1924~1984)のことに少しふれた。若いころは松竹で、その後は日活ニューアクション、東映やくざ映画、テレビ時代劇や刑事ドラマで、冷たく、凄みのある役を得意とした。
 コミカルな、間の抜けたキャラクターもうまい。『大盗賊』(フジテレビ、1974年)で演じた、盗賊団(頭目は丹波哲郎)を追っかけまわす同心は面白かった。『西遊記』(日本テレビ、1978~79年)でやった妖怪金角は、妻の銀角(三条泰子)と迎える哀愁のあるラストが泣けた。
 大正13(1924)年、千葉県銚子市生まれ。母親が読み聞かせしてくれた童謡集がきっかけで、子どものころから童謡や詩に親しむ。昭和24(1949)年創刊の同人誌『浪曼群盗』を発表の場とし、同郷の岡田英次を頼って新劇俳優を志してからも、詩や童謡を作り続ける。虫や小動物、かよわき草花、生きとし生けるものへの細やかで、切ない愛情に満ちていた。


内田良平の詩集

 昭和59(1984)年6月15日、大阪難波の新歌舞伎座。「杉良太郎特別公演」(6~7月連続公演)に出演中の内田は、開演前に倒れ、救急車で病院に運ばれた。心筋梗塞だった。
 その夜、内田は逝った。遺体は、新歌舞伎座にほど近い和光寺(西区北堀江)に安置され、共演者が永久の別れをした。座長の杉良太郎は、沈痛な面持ちで唇を噛む。青木義朗は、肩を落とす。田口計は、崩れそうな身を必死に支える。内田が「英タン」と慕った岡田英次は、「良平」とだけ口にした。

 没後、友人たちの手で『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』(作品社、1984年11月)が編まれている。79編の内田の詩と童謡、チェーホフへのオマージュをこめた戯曲『カメレオン』とともに、杉良太郎、青木義朗、田口計、内田朝雄、夏木勲(夏八木勲)、高品格、舟木一夫、美輪明宏、田村隆一など、友人や仕事仲間による14編の追悼文がおさめられた。
 役者仲間の名文に酔いしれた。それぞれに、沁みる。内田に魅力があったんだな、と思う。そのいくつかを紹介したい(引用文はすべて『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』より)


『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』(作品社、1984年11月)

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 青木義朗は、内田との出会いをふりかえる。小林正樹監督『人間の條件 第三部 望郷篇』(松竹、1959年)に、ふたりは出演することになる。青木は当時、若手の新劇俳優だった。
 北海道の果てで行われる極寒のロケーション。スタッフとキャストは、上野発の夜行列車に乗り合わせ、ロケへと旅立つ。誰が、どこに座るのか、席は決められていた。ところが、青木の隣りの席だけ、ひとつ空いている。「またか」、とスタッフは呆れている。いつも自由気ままで、周りを困らせる人らしい。それが誰なのか、青木は知らない。 

 間もなく列車は宇都宮に着いた。もうあたりはすっかり暮れて秋の夜である。しばらくすると、くたびれた鳥打帽にフダン着でサンダルをつっかけた男が小さな紙袋を一つブラ下げ、「ここあいているか」と言いながら、隣りの席に腰をおろした。相手の返事など全く無視したゆうゆうたる態度である。どう見ても長距離列車に乗るには不都合な恰好である。
 男は坐ると紙袋の中からゴソゴソとサンドイッチを取り出し、「これ、どうだ」と言いながら私のヒザの上に置いた。あっけにとられた私を尻目に、男は鳥打帽を目の下迄下げると「ホウ」と一つ溜息をついて眠り始めた。
 この人が良平さんであった。
(青木義朗「内田良平さんのこと」)

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 夏木勲(夏八木勲)もまた、内田との出会いを綴った。
 五社英雄監督『牙狼之介』(東映京都、1966年)は、夏木の映画デビュー作である。共演する大先輩の内田に対して、尊敬と親しみをこめて「良平さん」と呼んだ。先輩への呼び方など、ちっとも気にしないような内田の鷹揚さに、その心は和らいだ。 
 2年ほどのち、『戦国無宿』(よみうりテレビ、1967~68年)の仕事で、ふたたび共演する。所は同じく東映の京都撮影所で、撮影の合間に語らいのときがおとずれる。京を彩る四季のうつろい、隠れた名所、印象に残った外国映画や本のはなし、旅の思い出……。仕事のこと、プライベートのことは口にしない。広がりと、語りがいと、夢のあることを、撮影所や居酒屋で語り合った。

 半年余りの京都での仕事中、「良平さん」は仕事のロケ先に絶えずノートを持ち歩き、虫達のこと、草や花のこと、風のこと、雲のこと、石ころのこと、その他あらゆる事象が「良平さん」の眼を通してノートに語られ、僕もそれをよく読ませてもらった。(中略)
 学生の様に本とノートを小脇に抱えて、「良平さん」は旨いコーヒーと音楽を求めて京都の街を歩き廻っていた。全く「良平さん」は学生だ。好奇心に満ちた率直で温かい眼差しを持ち、熱っぽくて又青っぽくて、そしてなによりも詩人だった。自由人だった。
(夏木勲「良平さん」)


『牙狼之介』(東映京都、1966年)。内田良平(左)と夏八木勲(右)

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 日活映画で共演した高品格のことを、内田はこう呼んだ。「格さアァン」「班長オォ」。けだるいような、少し甘えたような調子に、高品がつられて応える。「良平さアァン」。高品は書く。《それだけで、心が安らぎ、お互いの胸に温かいものを感じていた》。
 映画全盛のころのように、ともに仕事をする機会は減った。けれども、内田が関わっていた小劇団の公演に顔を出すなど、交友は変わらなかった。昭和57(1982)年、内田が脳出血で倒れ、闘病しながら仕事を続けていることを、高品は知っている。そのふたりが、ひさしぶりに会った。東映の京都撮影所で。

 今度、また、俺の詩集が出来たから、東京へ帰ったら、直ぐ送るからね、読んでくれよなア。それからね、格さん、体だけは大事にしてくれよ、俺みたいになっちまったらお仕舞だからね……と叫ぶ様に言って、不自由な足を杖で引きずりながら、ステージの方へ歩いていった……返す言葉もなく、後姿を見ているのが辛かった。
 だが……まさか、暫くして約束の詩集『みんな笑ってる』が私の手もとに届き、その一週間後、彼は帰らぬ人となってしまった。
 あの最後の言葉に、どんな思いが込められていたのだろうか……。それを聞く事は、もう出来ない。
(高品格「リンドウや、われもこうに囲まれて」)


『内田良平詩集 みんな笑ってる』河出文庫、1984年4月)

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 田口計と内田良平は、杉良太郎の公演で、ともに舞台に立つ仲である。悪役を得意とする者どうし、気があった。公演中の食事に魚が出ると、信州生まれの田口に、銚子生まれの内田が、料理方法や食べ方を教えた。
 大阪・新歌舞伎座の楽屋は、同じだった。差し入れられた花を愛で、生き急ぐかのように田口に話しかける姿を、追悼文で明かす。ひらがなをほとんど用いない「漢字カタカナ交じり文」にしたのは、テレ隠しか、深い悲しみか。

良平サンハ、ソノ間ニ、何カニ追イタテラレルヨウニ性急ニ、イロイロナ話ヲ僕ニシタノダッタ。文学ヤ詩、芝居ヤ演技ノコト、女ノコト、人生ノコトナド、ソレハ、当タルヲ幸イナギ倒ス、トイウタチノモノデ、反すのびずむ、反権力、反体制、既成ノ概念ヤ秩序ニ反逆シ、トキニハ宇宙ノ運行ソノモノニモ異ヲトナエルトイッタテイノモノデ、カナリ過激デアル筈ノ僕ヲモ、ドギマギサセタリシ、ソノ合間ニ詩ヲ書キ、推敲ヲ重ネ、漢詩ヲ読ミ、「艱難苦だ恨む繁霜の鬢、潦倒新たに停む濁酒の盃」ト杜甫ノ詩ノ一節ヲ示シ、コレガ今ノ俺サトイイナガラモ(以下略)
(田口計「『人生足別離』……か」)

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 宮沢賢治の研究者でもある内田朝雄には、物書きの血が流れている。内田良平の詩を、もうひとりの内田は読んでいる。その内田のエッセイを、もうひとりの内田も読んでいる。文学者どうし、ふたりの内田はリスペクトしあう。
 内田が急逝する前の月、ふたりは名古屋の御園座で共演した。病の後遺症で、右手と右足が思うように動かない内田の肩を、内田が抱いて、楽屋へ戻った。

 あんたが「お先きに」、おれが「いいよ」、そんなことを言いあっていた或る一夕、おれに「一緒に飯くおうや」と言ってくれたが、おれは先約があったので、次の機会にということで、その後とうとう、あんたとの会食の機を失ってしまった。
 あのとき「二人の内田で詩の話がしたかった」と言っていたとあとで聞いて、おれは自分の頬を叩きたいほど口惜しかったよ。(中略)
 あんたは、おれのことを朝雄じゃない夜雄だとからかい、おれは、あんたのことを良平じゃない悪平だと他愛もない話で終始していたが、このあいだの五月、おれと詩の話がしたいと、あんたは言って、そして死んだ。
 誰でもみんな、ほんとはすれ違ってばかりいるのだね。
(内田朝雄「母と、あしたと望郷と」)


 内田良平を失った「杉良太郎特別公演」は、内田朝雄が代役をつとめた。内田が着るはずだった衣裳の袖に手を通しながら、こう呟いた。《「良平さんよ、おれの肩に乗れ、両内田でやるか」》。
 ふたりの内田で、詩の話をさせてあげたかった。

 


銚子の海岸で(『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』)

ホセの交遊録 小松方正

 好きな俳優の本でうれしいのは、役者仲間の逸話を読むこと。演技からは伺い知れない人物点描が興味ぶかい。
 『脇役本』で取り上げた『内田良平のやさぐれ交遊録』(ちはら書房、1979年2月)は、まさにそんな本。苦みしばった俳優で、詩人でもあった内田良平が、さまざまなスター、役者仲間のことを書く。そのひとりに、若いころ同じ劇団(新演劇研究所)にいた小松方正(こまつ・ほうせい 1926-2003)がいる。
 内田が綴った小松ばなしは、他愛のないものだ。仕事の旅からひさしぶりに戻ってきた内田が、恋人の部屋を訪ねた。電気はついているのに、鍵はかかっている。ドアを叩いても返事がない。しばらくすると電気が消え、恋人が出てきた――。

 オレはまだ何の不安も抱かなかった。だが電気をつけ、畳の上にぬれたボストンバッグを置こうとした時、窓際に、わが友、小松方正が坐っているではないか。アリャ、どういうわけだ。何でここにホセがいる? だが間抜けなことに、まだ二人が出来てるとは考えつかない。オレがやっと、ことの次第がのみ込めた時は、ホセはもはや堂々と「良平、君の留守に来て悪かった」。
(内田良平『内田良平のやさぐれ交遊録』)


内田良平『内田良平のやさぐれ交遊録』(ちはら書房、1979年2月)

 「ホセ」とは、小松のこと。内田はこうも書く。《唇の異様に赤いのが印象的だった》(前掲書)。ちょっとした言いまわしが、詩人らしい。
 その意趣返し、というわけでもなかろうが、小松は自著『悪役やぶれかぶれ』(文化出版局、1983年3月)に内田のプレイボーイぶりを明かした。

 女の子は、背後から斜めから、男の熱い視線を感じて、しだいに相手を意識しはじめる。やがて別れぎわに、彼は店に置いてある伝票やメモ用紙の裏にサラサラと短いロマンチックな文章を書いて、その女の子に渡してやる。
「君の着ているグレーのセーター、今の僕の心の色だ」といった具合にである。まあ、そこのところは言葉は便利なもの。真紅のセーターだったら、真紅は僕の心の色と書けばよい。こうして、相手の夢を刺激しておいて、糸口ができたとなると、あとは一気に攻め立てるのが内田良平の口説き方だ。
 私は、かつて、つい今しがたまでたくましい男性に寄りそって、陶然としていた美少女が、この手であっという間に内田に奪い去られた光景を目撃したことがある。
(小松方正『悪役やぶれかぶれ』)


小松方正『悪役やぶれかぶれ』(文化出版局、1983年3月)カバー、扉(イラスト 黒鉄ヒロシ)

 『悪役やぶれかぶれ』は、「こんな人あんな人」「いつも女がそばにいた」「撮影の合間に」「役者人足の唄」の全4幕から成る。
 第1幕「こんな人あんな人」の「立ちまわりの影武者」では、新国劇の名脇役だった清水彰のことを書いた。痔に悩む辰巳柳太郎が、当たり役の月形半平太の立ちまわりのさい、清水に影武者を頼んだのが、見出しの由来である。
 スターや歌手の座長公演によく出た小松は、清水彰と共演している。悪役のイメージの強い人だが、ファンは多かった。母親と大学生の娘、酒場のマダム、会社社長、新聞記者、司法書士、女優、老歯科医……入れ替わり立ち替わり、楽屋の清水を訪ねてくる。小松は、差し入れや接待の相伴にあずかった。

 「何かお礼をしなければ」と、清水さんに相談を持ちかけると、「関西の演劇ファンは芝居も好きだが、役者が本当に好きなんだねえ。気持ちよく好意をいただいて、あとは立派な舞台をお見せすれば、それでいいんです」と、ヘボ将棋の清水さんは盤に駒を並べて新聞将棋の研究に余念がない。
 だが私は知っている。日ごろファンに文通を欠かさず、出番間近のどんなに忙しいときも、ファンに温かい言葉をかけてくつろがせる清水彰という役者の人柄を。
(前掲書)


『国定忠治』(日活、1954年)。辰巳柳太郎(左)と清水彰(右)

 「立ちまわりの影武者」の次にある「相つぎ他界の敵役」もいい。《役者である私自身が演技も人柄も人一倍高く買っていた、魅力的な敵役者が相ついで他界した》と前置きし、3人の名悪役、中台祥浩、山本麟一、天津敏の思い出を寄せた。
 中台祥浩は、劇団青年座の創立メンバーで、おもに日活映画に出演。東映東京の作品で活躍した山本麟一は、本ブログの第2回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/04/28/204317)で取り上げた。天津敏は、多くの東映任侠映画、やくざ映画、テレビ時代劇に出演した。
 中台、山本の秘話もさることながら、天津とのくだりが好きなので、引用する。

 ある時、三浦半島の海岸で私一人、ロケバスに置いてきぼりをくって困り果てていると、どこからともなく車を駆って現れた敏さんが、逗子の駅まで私を運んでくれたのである。おかげで私は東京のテレビ局のなま本番に滑りこみセーフで間に合ったことがあった。そのとき敏さんは役者のアルバイトに水道の工事屋をやっていたが、仕事を終えた帰り道に景色のいい海岸で一服しようと立ち寄ったところ、偶然にも私がいたということであった。
 敏さんはたしか私より一つ年上。頑丈だが長身のスマートな体つきで、苦みばしった彫りの深いマスクは、お世辞ぬきの男らしさそのものだった。
(前掲書)

 どうということのないエピソードだが、想像すると味のある光景だ。


『不良街』(東映東京、1972年)予告編

 小松方正は、大正15(1926)年、長野県松本に生まれた。本名、小松豊松。
 満鉄勤務をへて、終戦直前に海軍入り。戦後は大蔵省に勤めつつ、中央大学専門部法科を卒業。職場の演劇サークルで役者に目覚め、退職。昭和27(1952)年、新演劇研究所に入る。ここで“小松方正”となり、内田良平や杉浦直樹と出会う。
 新演劇研究所時代の小松は、そのマジメさが祟って、不器用な俳優だった。本番中に小道具のヒゲがとれる、出番を間違えてずっこける、熱演しすぎて舞台で倒れる……。
 小松の舞台稽古を見た木下順二は、こう忠告した。

「君に役者は無理だ。演劇の世界には劇作も演出部門もあるから、そちらに変わってはどうかね」
(前掲書)

 有名劇作家からの忠告で、俳優としての自信をうしなった。そんな小松を、戦前から活躍するひとりの大女優が救う。

 死刑の宣告を受けたも同然の暗い気持ちでいたら、劇団後援会の山田五十鈴さんに嘱目されていた杉浦直樹が「山田さんは、役者をやった方がいいと言われた」という。
 それじゃ懸命に一年間努力してみて、それでやっぱりダメだとわかったら役者をやめよう、一年たって、なおもやる気だったら更に一年間努力しようと心をきめた。かくて、一年また一年と過ごすうちに、いつしか役者生活三十年がたってしまった。
(前掲書)

 この話は、小松にとって忘れがたいものとなる。インタビュー本『シネマ個性派ランド』(キネマ旬報社、1981年7月)でも、《山田さんが、そういう風に言われるんなら、一年だけね、死んだつもりでやってみよう》と語っている。


キネマ旬報社編『シネマ個性派ランド』(キネマ旬報社、1981年7月)

 平成4(1992)年、東宝9月特別公演『日本美女絵巻 愛染め高尾』(東京宝塚劇場)で、小松は山田と共演する(同年11月の京都・南座公演でも共演)。落語や浪曲でおなじみの「紺屋高尾」を題材にした、榎本滋民の作である(「日本美女絵巻」は榎本作、山田主演のシリーズ)。
 新吉原の花魁・高尾太夫に山田五十鈴、三浦屋の亭主・四郎左衛門に小松方正、高尾と結ばれる紺屋(染め物屋)職人に江原真二郎、ほかに新珠三千代、二代目中村又五郎、土田早苗、三浦布美子、上村香子らが出演した。


東宝9月特別公演『日本美女絵巻 愛染め高尾』広告(『演劇界』1992年9月号)



『日本美女絵巻 愛染め高尾』公演パンフレット

 この公演は小松にとって、感無量だったと思う。「役者をやった方がいい」という山田の言葉がなければ(それを杉浦直樹が伝えなければ)、こうして同じ舞台に立つことはおそらくなかった。
 なによりもその言葉なくして、その後の小松方正は存在したかどうか。大島渚作品の仕事も、東映やくざ映画の怪演も、『白い巨塔』(フジテレビ、1978年)の野坂教授も、ドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(日本テレビ、1963年)のナレーションもなかったかもしれない。


『白い巨塔』(フジテレビ、1978年)

 小松は亡くなるまで、山田五十鈴を慕った。郷里松本で発行された聞き書き『私の半生 第11号』(松本タウン情報社、2003年3月)には、島田正吾と山田、ふたりの名前を挙げて、こう続けた。

 私の理想とする方たちだ。水が流れるように自然体で生きていかれたら、これ、最高であり、私もそのように生きていきたい。
 民草がひょうひょうと泣く初景色  方正
(『私の半生 第11号』)

 小松方正の名を聞くと、思い浮かぶ役柄と声は、ひとつやふたつではない。いい役者の証、である。