脇役本

増補Web版

ホセの交遊録 小松方正

 好きな俳優の本でうれしいのは、役者仲間の逸話を読むこと。演技からは伺い知れない人物点描が興味ぶかい。
 『脇役本』で取り上げた『内田良平のやさぐれ交遊録』(ちはら書房、1979年2月)は、まさにそんな本。苦みしばった俳優で、詩人でもあった内田良平が、さまざまなスター、役者仲間のことを書く。そのひとりに、若いころ同じ劇団(新演劇研究所)にいた小松方正(こまつ・ほうせい 1926-2003)がいる。
 内田が綴った小松ばなしは、他愛のないものだ。仕事の旅からひさしぶりに戻ってきた内田が、恋人の部屋を訪ねた。電気はついているのに、鍵はかかっている。ドアを叩いても返事がない。しばらくすると電気が消え、恋人が出てきた――。

 オレはまだ何の不安も抱かなかった。だが電気をつけ、畳の上にぬれたボストンバッグを置こうとした時、窓際に、わが友、小松方正が坐っているではないか。アリャ、どういうわけだ。何でここにホセがいる? だが間抜けなことに、まだ二人が出来てるとは考えつかない。オレがやっと、ことの次第がのみ込めた時は、ホセはもはや堂々と「良平、君の留守に来て悪かった」。
(内田良平『内田良平のやさぐれ交遊録』)


内田良平『内田良平のやさぐれ交遊録』(ちはら書房、1979年2月)

 「ホセ」とは、小松のこと。内田はこうも書く。《唇の異様に赤いのが印象的だった》(前掲書)。ちょっとした言いまわしが、詩人らしい。
 その意趣返し、というわけでもなかろうが、小松は自著『悪役やぶれかぶれ』(文化出版局、1983年3月)に内田のプレイボーイぶりを明かした。

 女の子は、背後から斜めから、男の熱い視線を感じて、しだいに相手を意識しはじめる。やがて別れぎわに、彼は店に置いてある伝票やメモ用紙の裏にサラサラと短いロマンチックな文章を書いて、その女の子に渡してやる。
「君の着ているグレーのセーター、今の僕の心の色だ」といった具合にである。まあ、そこのところは言葉は便利なもの。真紅のセーターだったら、真紅は僕の心の色と書けばよい。こうして、相手の夢を刺激しておいて、糸口ができたとなると、あとは一気に攻め立てるのが内田良平の口説き方だ。
 私は、かつて、つい今しがたまでたくましい男性に寄りそって、陶然としていた美少女が、この手であっという間に内田に奪い去られた光景を目撃したことがある。
(小松方正『悪役やぶれかぶれ』)


小松方正『悪役やぶれかぶれ』(文化出版局、1983年3月)カバー、扉(イラスト 黒鉄ヒロシ)

 『悪役やぶれかぶれ』は、「こんな人あんな人」「いつも女がそばにいた」「撮影の合間に」「役者人足の唄」の全4幕から成る。
 第1幕「こんな人あんな人」の「立ちまわりの影武者」では、新国劇の名脇役だった清水彰のことを書いた。痔に悩む辰巳柳太郎が、当たり役の月形半平太の立ちまわりのさい、清水に影武者を頼んだのが、見出しの由来である。
 スターや歌手の座長公演によく出た小松は、清水彰と共演している。悪役のイメージの強い人だが、ファンは多かった。母親と大学生の娘、酒場のマダム、会社社長、新聞記者、司法書士、女優、老歯科医……入れ替わり立ち替わり、楽屋の清水を訪ねてくる。小松は、差し入れや接待の相伴にあずかった。

 「何かお礼をしなければ」と、清水さんに相談を持ちかけると、「関西の演劇ファンは芝居も好きだが、役者が本当に好きなんだねえ。気持ちよく好意をいただいて、あとは立派な舞台をお見せすれば、それでいいんです」と、ヘボ将棋の清水さんは盤に駒を並べて新聞将棋の研究に余念がない。
 だが私は知っている。日ごろファンに文通を欠かさず、出番間近のどんなに忙しいときも、ファンに温かい言葉をかけてくつろがせる清水彰という役者の人柄を。
(前掲書)


『国定忠治』(日活、1954年)。辰巳柳太郎(左)と清水彰(右)

 「立ちまわりの影武者」の次にある「相つぎ他界の敵役」もいい。《役者である私自身が演技も人柄も人一倍高く買っていた、魅力的な敵役者が相ついで他界した》と前置きし、3人の名悪役、中台祥浩、山本麟一、天津敏の思い出を寄せた。
 中台祥浩は、劇団青年座の創立メンバーで、おもに日活映画に出演。東映東京の作品で活躍した山本麟一は、本ブログの第2回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/04/28/204317)で取り上げた。天津敏は、多くの東映任侠映画、やくざ映画、テレビ時代劇に出演した。
 中台、山本の秘話もさることながら、天津とのくだりが好きなので、引用する。

 ある時、三浦半島の海岸で私一人、ロケバスに置いてきぼりをくって困り果てていると、どこからともなく車を駆って現れた敏さんが、逗子の駅まで私を運んでくれたのである。おかげで私は東京のテレビ局のなま本番に滑りこみセーフで間に合ったことがあった。そのとき敏さんは役者のアルバイトに水道の工事屋をやっていたが、仕事を終えた帰り道に景色のいい海岸で一服しようと立ち寄ったところ、偶然にも私がいたということであった。
 敏さんはたしか私より一つ年上。頑丈だが長身のスマートな体つきで、苦みばしった彫りの深いマスクは、お世辞ぬきの男らしさそのものだった。
(前掲書)

 どうということのないエピソードだが、想像すると味のある光景だ。


『不良街』(東映東京、1972年)予告編

 小松方正は、大正15(1926)年、長野県松本に生まれた。本名、小松豊松。
 満鉄勤務をへて、終戦直前に海軍入り。戦後は大蔵省に勤めつつ、中央大学専門部法科を卒業。職場の演劇サークルで役者に目覚め、退職。昭和27(1952)年、新演劇研究所に入る。ここで“小松方正”となり、内田良平や杉浦直樹と出会う。
 新演劇研究所時代の小松は、そのマジメさが祟って、不器用な俳優だった。本番中に小道具のヒゲがとれる、出番を間違えてずっこける、熱演しすぎて舞台で倒れる……。
 小松の舞台稽古を見た木下順二は、こう忠告した。

「君に役者は無理だ。演劇の世界には劇作も演出部門もあるから、そちらに変わってはどうかね」
(前掲書)

 有名劇作家からの忠告で、俳優としての自信をうしなった。そんな小松を、戦前から活躍するひとりの大女優が救う。

 死刑の宣告を受けたも同然の暗い気持ちでいたら、劇団後援会の山田五十鈴さんに嘱目されていた杉浦直樹が「山田さんは、役者をやった方がいいと言われた」という。
 それじゃ懸命に一年間努力してみて、それでやっぱりダメだとわかったら役者をやめよう、一年たって、なおもやる気だったら更に一年間努力しようと心をきめた。かくて、一年また一年と過ごすうちに、いつしか役者生活三十年がたってしまった。
(前掲書)

 この話は、小松にとって忘れがたいものとなる。インタビュー本『シネマ個性派ランド』(キネマ旬報社、1981年7月)でも、《山田さんが、そういう風に言われるんなら、一年だけね、死んだつもりでやってみよう》と語っている。


キネマ旬報社編『シネマ個性派ランド』(キネマ旬報社、1981年7月)

 平成4(1992)年、東宝9月特別公演『日本美女絵巻 愛染め高尾』(東京宝塚劇場)で、小松は山田と共演する(同年11月の京都・南座公演でも共演)。落語や浪曲でおなじみの「紺屋高尾」を題材にした、榎本滋民の作である(「日本美女絵巻」は榎本作、山田主演のシリーズ)。
 新吉原の花魁・高尾太夫に山田五十鈴、三浦屋の亭主・四郎左衛門に小松方正、高尾と結ばれる紺屋(染め物屋)職人に江原真二郎、ほかに新珠三千代、二代目中村又五郎、土田早苗、三浦布美子、上村香子らが出演した。


東宝9月特別公演『日本美女絵巻 愛染め高尾』広告(『演劇界』1992年9月号)



『日本美女絵巻 愛染め高尾』公演パンフレット

 この公演は小松にとって、感無量だったと思う。「役者をやった方がいい」という山田の言葉がなければ(それを杉浦直樹が伝えなければ)、こうして同じ舞台に立つことはおそらくなかった。
 なによりもその言葉なくして、その後の小松方正は存在したかどうか。大島渚作品の仕事も、東映やくざ映画の怪演も、『白い巨塔』(フジテレビ、1978年)の野坂教授も、ドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(日本テレビ、1963年)のナレーションもなかったかもしれない。


『白い巨塔』(フジテレビ、1978年)

 小松は亡くなるまで、山田五十鈴を慕った。郷里松本で発行された聞き書き『私の半生 第11号』(松本タウン情報社、2003年3月)には、島田正吾と山田、ふたりの名前を挙げて、こう続けた。

 私の理想とする方たちだ。水が流れるように自然体で生きていかれたら、これ、最高であり、私もそのように生きていきたい。
 民草がひょうひょうと泣く初景色  方正
(『私の半生 第11号』)

 小松方正の名を聞くと、思い浮かぶ役柄と声は、ひとつやふたつではない。いい役者の証、である。