脇役本

増補Web版

編集長は名悪役 江見俊太郎

 

 


 本ブログ第1回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/20190415)で紹介した、荒川区三河島の稲垣書店。「映画文献資料専門」と銘打つだけあって、店主の中山信行(信如)さんは、いろいろとマニアックな役者本(脇役本)を出してきてくれる。
 2年ほど前にお邪魔したとき、「これ、いる?」と見せてくれたのが、未知・未見の冊子『三十年のあゆみ』(東京芸能人国民健康保険組合、1981年8月)だった。び、微妙……。表紙デザインからして、病院の待合室に置いてあるものにしか見えない。


『三十年のあゆみ』(東京芸能人国民健康保険組合、1981年8月)

 冊子の内容は、東京芸能人国民健康保険組合の“三十年のあゆみ”以上でも、以下でもない。怪訝な顔をすると、「初代理事長が夢声なのよ」と中山さん。徳川夢声好きを知って、取っておいてくれたらしい。
 同冊子には、夢声の顔写真が一枚あるだけで、夢声のエッセイがあるわけでもない。「別にいらないなぁ」と心のなかで呟きつつ、パラパラめくっていると、奥付に《編集責任者 江見俊太郎》の文字が! 冊子の小史「組合はこうして生まれた」の署名には、《三十周年記念事業準備委員長 理事 江見俊太郎》とある。
 悪役で名高い江見俊太郎(えみ・しゅんたろう 1923~2003)が、こんな冊子をつくっていたとは知らなかった。 500円だったか、1,000円だったか、古書価は忘れたけれど、大喜びしたことをよく覚えている。
 江見俊太郎といえば、旧作邦画好きには新東宝映画の二枚目&色魔(当時は江見渉)、テレビ時代劇好きには『水戸黄門』(TBS)や『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)をはじめ、悪役でおなじみである。


『人間模様』(新東宝、1949年)。江見俊太郎[江見渉]と(左)と三原純(右)

 大正12(1923)年、東京都生まれ。早稲田大学専門部政経科を卒業後、学徒出陣となり、海軍航空隊少尉の特攻隊員となる。出撃の一歩手前で終戦をむかえ、今井正監督『民衆の敵』(東宝、1946年4月)で映画デビュー。新東宝を活躍の場としたのち、舞台、テレビへと仕事の場を広げた。『眠狂四郎無頼控』(日本テレビ、1957年)や『新吾十番勝負』(日本テレビ、1958~60年)に主演するなど、テレビ草創期は“二の線”で売った。
 江見俊太郎がなぜ、東京芸能人国民健康保険組合の30年史の編集責任者となったのか。その理由は、江見の晩年の肩書きと受賞歴を知れば、納得がゆく。協同組合日本俳優連合副理事長、社団法人日本芸能実演家団体協議会顧問、東京芸能人国民健康保険組合理事長、NPO東京芸能人フリー会常任理事、東京都功労者表彰(1996年)、文部大臣賞(1997年)。
 平成2(1990)年放送のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く 第1部幕末編』で江見は、薩摩藩第27代藩主・島津斉興を演じた。その役づくりについて、こう語っている。

 文化を大切にしないと、人間行き詰まっちゃうような気がするんです。芸能人って、ほんとうの意味での市民権を得てないんじゃないかな。
 あのね、芸能は一種の祈りなんですよ。つねにそこへ帰っていかなきゃいけない。それと愛情ですね。どんな作品も、自然や人間に対する愛情でつくられるべきなんだ。それさえあれば、科学も教育も経済も、まちがうはずないんです。そんな気持で斉興にも取り組みますよ。
(『翔ぶが如く NHK大河ドラマ・ストーリー』日本放送協会、1990年1月)


江見俊太郎の島津斉興(『翔ぶが如く 第1部幕末編』NHK、1990年1月)

 斉興の役づくりとしてはわかりにくいが、江見の人となりは伝わってくる。芸能人の人権について、つねに問題意識を抱く“名悪役”であった。
 そもそも、昭和27(1952)年11月に創立された東京芸能人国民健康保険組合は、ひとりの“名悪役”が病に倒れたのがきっかけだった。江見は、こうふりかえる。

 昭和26年のこと、名優山本礼三郎さんは肺病で倒れられた。
 当時、世田谷に三軒茶屋診療所という病院があり、所長の池内達郎先生(元日赤本社病院外科部長)の姉上が、俳優の故永田靖さんの奥さんであられた関係で、世田谷区在住の芸能人多数がお世話になっていた。その中には既に故人となられた山本嘉次郎監督や河野秋武さんらも居られた。
(江見俊太郎「組合はこうして生まれた」『三十年のあゆみ』)


山本礼三郎(『総会屋錦城 勝負師とその娘』大映、1959年)

 病床の山本礼三郎を見舞ったひとりの女優が、このとき声をあげた。山田五十鈴。「芸能人のための病院、療養施設を日本につくりたい」。山田の呼びかけに、笠置シヅ子、西崎緑、徳川夢声、山本嘉次郎、山田耕筰、石井漠と賛同の輪が広がっていく。
 とはいえ、ゼロから病院を建設するのは難しく、「健康保険組合なら」という話に落ち着いた。徳川夢声が理事長となり、創立発起人にはイロハ順に飯田蝶子から寿々木米若まで、錚々たる名優、名人ら72名が名を連ねる。
 当時は、今のような国民皆保険制度はなかった。そのため、同じ職業の人たちが1000人以上同意しないと、国の助成を受ける国民健康保険組合の認可は下りなかった。警察、消防署、土建業、理容業、派出看護婦の5つしか国保組合が存在しない時代、芸能人に特化した国保組合の誕生は、画期的であった。
 表紙からしてオーラのない『三十年のあゆみ』は、本体32ページ、それとは別に別刷・折り込み(4ページ)がつく。それでも、読み応えはある。たとえば、千秋実がエッセイ「創立三十周年によせて」を寄稿している。千秋と病との縁は、本ブログ第4回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/05/26/215053)で取り上げた。

 テレビ局も、利潤をあげることだけを追求せずに、芸能人を使ってもうけた金の一部は芸能人の福祉のために使ってほしいと思います。制作現場の条件を良くすることと、局の人間であれ、そのときどきの契約で働く人間であれ、番組のために働く総ての人間の健康と福祉のためにもう少し投資してもバチは当るまいと思うのです。
(千秋実「創立三十周年によせて」前掲書)

 この文章は、現在にもじゅうぶん通じる、放送業界への問題提起だろう。
 編集責任者の江見俊太郎としては、想いのこもった千秋実のエッセイだけで充分だったはずである。ところがもうひとり、東京芸能人国民健康保険組合を語るうえで最重要人物から原稿、いや“玉稿”が届いた。生みの親というべき山田五十鈴から、原稿がきたのだ。

 うっかり病気だと発表したばかりに仕事の声がかからなくなっては困ると考えて、胃のあたりを秘かに圧えながら、或いは神経痛やケガの痛みを隠しながら、さも元気そうな顔をしてお仕事を続けていらっしゃる俳優さんのなんと多いことでしょうか。
 ましてお芝居の場合は、明らかにお客様に迷惑がかかる……そう思って私自身も胃潰瘍をかくして5月の舞台を頑張り通してしまいました。 
 その結果がよくないのは当然です。
 私の胃潰瘍はその1ヶ月間で倍の大きさに拡がってしまい、よく吐血しなかったものだと医者に云われました。
(山田五十鈴「創立三十周年によせて」前掲書)

 5月の舞台とは、山田が主演する『笠森お仙』(帝国劇場)のこと。本人が明かした事情で、6月の舞台は降板せざるを得なくなった。山田がこの原稿を書いたのは(口述筆記かもしれず)、それから間もない8月のことである。
 山田の原稿は、冊子の印刷・製本に間に合わない。でも、その原稿が加わることで冊子にはハクがつく。編集責任者の江見が考えたのは、別刷り・折り込みというアイデア。冊子と同じ体裁で印刷だけして、手作業で折り込むのである。

 急遽、ご無理をお願いして原稿を頂いたので、ついに製本には間に合わず、折込みの形になってしまいました。
 お詫び申し上げます。
 千秋実さんのお話と合わせてお読み頂ければ幸いです。
(江見俊太郎「お詫び」前掲書)


『三十年のあゆみ』別刷り・折り込み

 紙媒体の世界で、別刷り・折り込みというのは、名誉なことではない。編集担当者が、進行管理できていないことの証となってしまう。原稿が締切後に届き、印刷・製本に間に合わないときは、仕方がなくボツにするケースが多い。
 そのなかで江見は、山田の原稿を大切に扱う。別刷り・折り込みにして、みずからお詫び文をつけた。名悪役は、誠意ある編集長であった。

 

夜雄と悪平 内田良平

 前回のブログ(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/06/09/203130)で、内田良平(うちだ・りょうへい 1924~1984)のことに少しふれた。若いころは松竹で、その後は日活ニューアクション、東映やくざ映画、テレビ時代劇や刑事ドラマで、冷たく、凄みのある役を得意とした。
 コミカルな、間の抜けたキャラクターもうまい。『大盗賊』(フジテレビ、1974年)で演じた、盗賊団(頭目は丹波哲郎)を追っかけまわす同心は面白かった。『西遊記』(日本テレビ、1978~79年)でやった妖怪金角は、妻の銀角(三条泰子)と迎える哀愁のあるラストが泣けた。
 大正13(1924)年、千葉県銚子市生まれ。母親が読み聞かせしてくれた童謡集がきっかけで、子どものころから童謡や詩に親しむ。昭和24(1949)年創刊の同人誌『浪曼群盗』を発表の場とし、同郷の岡田英次を頼って新劇俳優を志してからも、詩や童謡を作り続ける。虫や小動物、かよわき草花、生きとし生けるものへの細やかで、切ない愛情に満ちていた。


内田良平の詩集

 昭和59(1984)年6月15日、大阪難波の新歌舞伎座。「杉良太郎特別公演」(6~7月連続公演)に出演中の内田は、開演前に倒れ、救急車で病院に運ばれた。心筋梗塞だった。
 その夜、内田は逝った。遺体は、新歌舞伎座にほど近い和光寺(西区北堀江)に安置され、共演者が永久の別れをした。座長の杉良太郎は、沈痛な面持ちで唇を噛む。青木義朗は、肩を落とす。田口計は、崩れそうな身を必死に支える。内田が「英タン」と慕った岡田英次は、「良平」とだけ口にした。

 没後、友人たちの手で『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』(作品社、1984年11月)が編まれている。79編の内田の詩と童謡、チェーホフへのオマージュをこめた戯曲『カメレオン』とともに、杉良太郎、青木義朗、田口計、内田朝雄、夏木勲(夏八木勲)、高品格、舟木一夫、美輪明宏、田村隆一など、友人や仕事仲間による14編の追悼文がおさめられた。
 役者仲間の名文に酔いしれた。それぞれに、沁みる。内田に魅力があったんだな、と思う。そのいくつかを紹介したい(引用文はすべて『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』より)


『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』(作品社、1984年11月)

□□□

 青木義朗は、内田との出会いをふりかえる。小林正樹監督『人間の條件 第三部 望郷篇』(松竹、1959年)に、ふたりは出演することになる。青木は当時、若手の新劇俳優だった。
 北海道の果てで行われる極寒のロケーション。スタッフとキャストは、上野発の夜行列車に乗り合わせ、ロケへと旅立つ。誰が、どこに座るのか、席は決められていた。ところが、青木の隣りの席だけ、ひとつ空いている。「またか」、とスタッフは呆れている。いつも自由気ままで、周りを困らせる人らしい。それが誰なのか、青木は知らない。 

 間もなく列車は宇都宮に着いた。もうあたりはすっかり暮れて秋の夜である。しばらくすると、くたびれた鳥打帽にフダン着でサンダルをつっかけた男が小さな紙袋を一つブラ下げ、「ここあいているか」と言いながら、隣りの席に腰をおろした。相手の返事など全く無視したゆうゆうたる態度である。どう見ても長距離列車に乗るには不都合な恰好である。
 男は坐ると紙袋の中からゴソゴソとサンドイッチを取り出し、「これ、どうだ」と言いながら私のヒザの上に置いた。あっけにとられた私を尻目に、男は鳥打帽を目の下迄下げると「ホウ」と一つ溜息をついて眠り始めた。
 この人が良平さんであった。
(青木義朗「内田良平さんのこと」)

□□□

 夏木勲(夏八木勲)もまた、内田との出会いを綴った。
 五社英雄監督『牙狼之介』(東映京都、1966年)は、夏木の映画デビュー作である。共演する大先輩の内田に対して、尊敬と親しみをこめて「良平さん」と呼んだ。先輩への呼び方など、ちっとも気にしないような内田の鷹揚さに、その心は和らいだ。 
 2年ほどのち、『戦国無宿』(よみうりテレビ、1967~68年)の仕事で、ふたたび共演する。所は同じく東映の京都撮影所で、撮影の合間に語らいのときがおとずれる。京を彩る四季のうつろい、隠れた名所、印象に残った外国映画や本のはなし、旅の思い出……。仕事のこと、プライベートのことは口にしない。広がりと、語りがいと、夢のあることを、撮影所や居酒屋で語り合った。

 半年余りの京都での仕事中、「良平さん」は仕事のロケ先に絶えずノートを持ち歩き、虫達のこと、草や花のこと、風のこと、雲のこと、石ころのこと、その他あらゆる事象が「良平さん」の眼を通してノートに語られ、僕もそれをよく読ませてもらった。(中略)
 学生の様に本とノートを小脇に抱えて、「良平さん」は旨いコーヒーと音楽を求めて京都の街を歩き廻っていた。全く「良平さん」は学生だ。好奇心に満ちた率直で温かい眼差しを持ち、熱っぽくて又青っぽくて、そしてなによりも詩人だった。自由人だった。
(夏木勲「良平さん」)


『牙狼之介』(東映京都、1966年)。内田良平(左)と夏八木勲(右)

□□□

 日活映画で共演した高品格のことを、内田はこう呼んだ。「格さアァン」「班長オォ」。けだるいような、少し甘えたような調子に、高品がつられて応える。「良平さアァン」。高品は書く。《それだけで、心が安らぎ、お互いの胸に温かいものを感じていた》。
 映画全盛のころのように、ともに仕事をする機会は減った。けれども、内田が関わっていた小劇団の公演に顔を出すなど、交友は変わらなかった。昭和57(1982)年、内田が脳出血で倒れ、闘病しながら仕事を続けていることを、高品は知っている。そのふたりが、ひさしぶりに会った。東映の京都撮影所で。

 今度、また、俺の詩集が出来たから、東京へ帰ったら、直ぐ送るからね、読んでくれよなア。それからね、格さん、体だけは大事にしてくれよ、俺みたいになっちまったらお仕舞だからね……と叫ぶ様に言って、不自由な足を杖で引きずりながら、ステージの方へ歩いていった……返す言葉もなく、後姿を見ているのが辛かった。
 だが……まさか、暫くして約束の詩集『みんな笑ってる』が私の手もとに届き、その一週間後、彼は帰らぬ人となってしまった。
 あの最後の言葉に、どんな思いが込められていたのだろうか……。それを聞く事は、もう出来ない。
(高品格「リンドウや、われもこうに囲まれて」)


『内田良平詩集 みんな笑ってる』河出文庫、1984年4月)

□□□

 田口計と内田良平は、杉良太郎の公演で、ともに舞台に立つ仲である。悪役を得意とする者どうし、気があった。公演中の食事に魚が出ると、信州生まれの田口に、銚子生まれの内田が、料理方法や食べ方を教えた。
 大阪・新歌舞伎座の楽屋は、同じだった。差し入れられた花を愛で、生き急ぐかのように田口に話しかける姿を、追悼文で明かす。ひらがなをほとんど用いない「漢字カタカナ交じり文」にしたのは、テレ隠しか、深い悲しみか。

良平サンハ、ソノ間ニ、何カニ追イタテラレルヨウニ性急ニ、イロイロナ話ヲ僕ニシタノダッタ。文学ヤ詩、芝居ヤ演技ノコト、女ノコト、人生ノコトナド、ソレハ、当タルヲ幸イナギ倒ス、トイウタチノモノデ、反すのびずむ、反権力、反体制、既成ノ概念ヤ秩序ニ反逆シ、トキニハ宇宙ノ運行ソノモノニモ異ヲトナエルトイッタテイノモノデ、カナリ過激デアル筈ノ僕ヲモ、ドギマギサセタリシ、ソノ合間ニ詩ヲ書キ、推敲ヲ重ネ、漢詩ヲ読ミ、「艱難苦だ恨む繁霜の鬢、潦倒新たに停む濁酒の盃」ト杜甫ノ詩ノ一節ヲ示シ、コレガ今ノ俺サトイイナガラモ(以下略)
(田口計「『人生足別離』……か」)

□□□

 宮沢賢治の研究者でもある内田朝雄には、物書きの血が流れている。内田良平の詩を、もうひとりの内田は読んでいる。その内田のエッセイを、もうひとりの内田も読んでいる。文学者どうし、ふたりの内田はリスペクトしあう。
 内田が急逝する前の月、ふたりは名古屋の御園座で共演した。病の後遺症で、右手と右足が思うように動かない内田の肩を、内田が抱いて、楽屋へ戻った。

 あんたが「お先きに」、おれが「いいよ」、そんなことを言いあっていた或る一夕、おれに「一緒に飯くおうや」と言ってくれたが、おれは先約があったので、次の機会にということで、その後とうとう、あんたとの会食の機を失ってしまった。
 あのとき「二人の内田で詩の話がしたかった」と言っていたとあとで聞いて、おれは自分の頬を叩きたいほど口惜しかったよ。(中略)
 あんたは、おれのことを朝雄じゃない夜雄だとからかい、おれは、あんたのことを良平じゃない悪平だと他愛もない話で終始していたが、このあいだの五月、おれと詩の話がしたいと、あんたは言って、そして死んだ。
 誰でもみんな、ほんとはすれ違ってばかりいるのだね。
(内田朝雄「母と、あしたと望郷と」)


 内田良平を失った「杉良太郎特別公演」は、内田朝雄が代役をつとめた。内田が着るはずだった衣裳の袖に手を通しながら、こう呟いた。《「良平さんよ、おれの肩に乗れ、両内田でやるか」》。
 ふたりの内田で、詩の話をさせてあげたかった。

 


銚子の海岸で(『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』)