脇役本

増補Web版

「私、脱ぎます」 東山千栄子


 私家版(2005年2月)、右文書院版(2005年7月)、ちくま文庫版(2018年4月)とそれぞれの『脇役本』の冒頭に、東山千栄子(ひがしやま・ちえこ 1890~1980)の文章を入れた。自叙伝『新劇女優』(学風書院、1958年2月)の「あとがき」をしめくくる、この一文である。 

今はたゞ、二十年か三十年たったある日、街の古本屋さんの棚の一隅にたゞ一冊、ほこりを浴びているこの本を若い芝居好きの方が見付けて、昔こういう女優が居たのかと、写真をパラパラと繰って居られるところなど、何となく夢のように想像するばかりでございます。


東山千栄子『新劇女優』(学風書院、1958年2月)

 いつ買った本か、おぼえていない。神田神保町にある「ファンタジー」という古本屋で、315円で買った。この文章を読んだときは、うれしかった。
 いまでも安く手に入る古本だが、いい本である。こじんまりとして、品がある。カバーには、ロシアのサンクトペテルブルクで撮影された若き日の著者をあしらい、40ページ近くある口絵には舞台姿をたっぷりとおさめる。本文の「私の自叙伝」とあわせて読むと、東山の芸と人となりがよくわかる。
 タイトルのとおり、東山千栄子は“新劇女優”だが、映画、ラジオ、テレビにもたくさん出た。舞台に間に合わなかった世代には、映画やテレビにおけるバイプレーヤーの印象がつよい。今井正監督『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』(M.I.I.プロ、1962年)で演じた“あそばせばあさん”だけでもう、好きな脇役女優のひとりに入れたくなる。


『喜劇 にっぽんお婆ぁちゃん』(M.I.I.プロ、1962年)撮影風景。後列左より今井正、杉寛、殿山泰司、菅井一郎、上田吉二郎、左ト全、中列左より岸輝子、東山千栄子、村瀬幸子、浦辺粂子、北林谷栄、前列左より五月藤江、飯田蝶子、原泉

 この『新劇女優』は、『脇役本』に加えなかった。心残りがあったから。“映画監督 山村聰”が《特筆大書しておきたい》とまで書いた東山の仕事を、見ていなかったから。その話は後述する。

 明治23(1890)年、千葉県生まれ。本名、河野せん。父は貴族院勅選議員の渡辺暢で、下総佐倉で城代家老を代々つとめた家柄だった。
 芸名の「東山」は、御殿場の東山村に別荘があったことに由来する。東山の出自とにおいを見事にあらわした、戸板康二の文章がある。

東山千栄子は、中年から築地小劇場にはいった。その前に、若妻として、夫とモスクワに住んでいた時期がある。帝政時代のロシアの上流の生活も、見聞している。(中略)新劇の風濤時代を、ひとりの華やかな女優として守り続けた。そのころ、大学生だったぼくは、銀座のキューペルあたりで、崇拝者にとり囲まれている彼女を遠くから見ながら、羨望にたえなかったものである。(『百人の舞台俳優』淡交社、1969年5月)

 貿易商の夫とモスクワで8年間暮らし、さまざまな舞台や芸術に接した。ロシア革命を機に帰国した後の悶々とした日々を、東山はこうふりかえる。《表面は一応調うた生活をしながら、過ぎて行く月日をとらえる術もなく》(『新劇女優』)。35歳という遅咲きの女優デビューを決意したのは、小山内薫の後押しがあったからである。 
 著書『新劇女優』は、口絵も、本文も、舞台の仕事が多くを占める。映画、ラジオ、テレビへの言及はほとんどない。これは東山に限ったことではなく、杉村春子、田村秋子、岸輝子、高橋豊子(高橋とよ)、毛利菊枝ら、新劇女優の自叙伝はだいたい、舞台の話が中心になってしまう。
 映画デビューは、昭和2(1927)年公開の小山内薫監督『黎明』(ミナトトーキー)。ダンディーな汐見洋と共演する姿が、『新劇女優』におさめられている。しかし、あまり印象に残らなかったのか、本文では言及されていない。


『黎明』(ミナトトーキー、1927年)。東山千栄子(左)と汐見洋(右)

 東山にとって、印象ぶかい最初の映画の仕事は、昭和12(1937)年公開の衣笠貞之助監督『大坂夏の陣』(松竹下賀茂)だった。東山は、淀君を演じた。
 淀君といえば当時、五代目中村歌右衛門の舞台が極めつけとされた。そこで「写実風の淀君でいこう」と衣笠が東山をキャスティングし、その仲介を千田是也が担った。
 大坂落城における淀君といえば、忘れてならないのが千姫で、山田五十鈴が演じた。《「あなたの淀君は五十鈴さんの千姫の引立役でしたね」》という声があったことを、東山は本書で明かす。その言葉は東山にとって、おもしろくなかったはずである。
 それでも刺激にはなったようで、『新劇女優』のなかで「映画初出演」として一項をもうけている。

これが初めで、その後は方々から招かれるようになりまして、松竹、東宝、大映等、従って、大船や京都や、さまざまな撮影所風景も今では親しいものになりました。無論いつも映画生えぬきの方が主役で、そこへ脇役として参加するのですが、舞台の主役では知らない演技の味もあります。(前掲書)

 この文章、あくまで舞台が主で、映画は副業の感覚でいた印象を受けなくもない。《舞台の主役では知らない演技の味もあります》の一文には、舞台女優としてのゆるがぬ自信が見え隠れする。
 だからといって、手抜きをしたわけではない。映画の脇役にだって、東山なりのプライドがあった。

人間の心理のさまざまの真実になり切れない心――そんな心では俳優ではありませんが――だったとしたら、それこそ索漠として、あの百度のライトをしばらくも浴びていられたものでありません。しらじらしい嘘ではあのライトの明るさだけにもすくむだろうと思われます。(前掲書)

 ここで、山村聰が《特筆大書しておきたい》エピソードにふれたい。
 山村は俳優としてだけではなく、監督としてもいくつかの秀作、佳作を残した。『蟹工船』(現代ぷろだくしょん、1953年)、『黒い潮』(日活、1954年)、『沙羅(しゃら)の花の峠』(日活、1955年)、『鹿島灘の女』(東映東京、1959年)、どれも見ごたえはじゅうぶん。監督第3作『沙羅の花の峠』に、東山は少ないシーンながら出演した。
 『沙羅の花の峠』は、三好十郎の原案をもとに、山村が脚本を手がけ、みずから監督、出演をした。舞台は秩父の山奥。ハイキングに来た若者たち(南田洋子、芦川いづみ、宍戸錠、田口計ら)は、腹痛で苦しむ村の少年と出会う。インターンの医師である俊子(南田)は盲腸と診断し、手術の必要性を訴える。ところがそこは無医村。村人たち(大森義夫ら)は、近代医学を信用しない。
 そこへあらわれたのが祈祷師のおろく婆さん。祈祷師で悪霊を退治し、少年の盲腸を治癒させよう、との目論見である。このおろく婆さんを、東山が演じる。そんなことで盲腸が治癒するはずがない。万事休すというときに、飲んだくれの獣医(山村聰)の存在が明かされる。
 山村は、おろく婆さんを演じた東山を《特筆大書しておきたい》というわけである。なにを特筆大書するのか。最晩年に出版した山村の自叙伝『迷走千里 年々歳々 今を尊く生きる』(廣済堂出版、1997年8月)より引用する。

最後に特筆大書しておきたいのは、祈祷師のお婆さんを演じて頂いた東山千栄子さんのことだ。夏の盛りのシーンだったから、双肌(もろはだ)脱いで襦袢(じゅばん)一枚の扮装でテストをしている最中に、「聰さん、これは本当は上半身、裸が本当じゃないでしょうか」と質問された。「もちろんそうですが、まさかそこまでは……」と答えると、「構いません、私、脱ぎます」と、自ら進んで裸になって下さった。婆さんの役といっても、当時、東山大先輩は、まだ六十そこそこで、その豊満な乳房の美しかったこと。恐らく、演技の最中に裸身をさらしたのは、東山さんにとっては、このときが、ただ一度ではなかったか、そのときの感激は今でも忘れられない。

 山村は自身の監督作に、ベテランを使いたがるタイプだった。『沙羅の花の峠』には東山のほかに、小笠原章二郎、武田正憲、畑中蓼坡ら、生き地引みたいな役者が登場しては、それぞれに見せ場があった。
 東山にも、見せ場はある。「もちろんそうですが」と言ったように、山村は本音では脱いでほしかったと思う。でも、言えない。その大先輩が先手を打った。「私、脱ぎます」と。
 『沙羅の花の峠』は、ラピュタ阿佐ヶ谷や東京・京橋のフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)で、だいぶ前にやった。そのときは見逃した。この作品を味わわずして、東山千栄子を『脇役本』に加えることはできない。ということで、昨年の増補文庫版の機会も逃してしまった。
 そんなとき朗報が! ラピュタ阿佐ヶ谷が開館20周年記念特集「もう一度みたいにおこたえします」(2018年11月~19年1月)として、過去の上映作のなかからリクエストを受けつけたのだ。もちろん、リクエストした。『沙羅の花の峠』を、東山千栄子のおろく婆さんを。
 2018年12月24日。クリスマスイブの客席は、大入り満席だった。山村聰を“感激”させた例のシーンは、たしかにあった。その豊満な乳房が、くらがりにチラリと映し出される。さすがは貫禄の名女優。ざんばら髪で、あけすけのないべらんめえ調で「暑い、暑い」と団扇をあおぐ、おろく婆さんの存在感、色気は見事だった。
 最後に特筆大書しておきたい。


ラピュタ阿佐ヶ谷にて(筆者撮影、2018年12月24日)


津野明朗 編画『漫画 沙羅の花の峠 医者のいない山村物語』(漫映出版社、1955年10月)