脇役本

増補Web版

芝居語り、これきり 加藤武


文学座公演『夏の盛りの蝉のように』(2014年4月)加藤武の葛飾北斎(公演パンフより)

 文学座の代表だった加藤武(かとう・たけし 1929~2015)が亡くなって、今年の夏で4年になる。映画やテレビドラマを通してはもちろん、文学座の公演、晩年にライフワークとした独演会「加藤武 語りの世界」、自身の演劇人生をたどるトークショーなどでも拝見した。
 平成27(2015)年7月19日、東京・日本橋の「お江戸日本橋亭」で、「加藤武 語りの世界」が開かれた。演目は、吉川英治作『新平家物語』より「牛若みちのく送り」、八代目市川中車の実体験をもとにした『市川中車の大島綺譚』の二席である。「大島綺譚」のまくらで語った中車ばなしが、あとにつづく怪談とは不釣り合いなほど熱っぽく、演者の加藤自身とても楽しそうだった。夏の暑い盛り、いいものを見て聴いた、との喜びを深くした。
 それから12日後の7月31日、急逝。享年86。秋には主演舞台『すててこてこてこ』(可児市文化創造センター×文学座 共同制作)での三遊亭円朝役をひかえていた。いつも元気で、声が大きく、そんなに急に亡くなるとは思わなかった。まことにあっけなく、である。
 仕事でインタビューをしたり、プライベートでお会いしたり、自著を献本したり、手紙をやりとりするようなご縁は、残念ながらなかった。ファンレターの一通も出したことはない。あこがれの人、というよりは、なんとなく近寄りがたい人。築地生まれの江戸っ子気質と豪快な語り口が、逆にそう思わせたのかもしれない。


『加藤武 語りの世界』チラシとCD、『すててこてこてこ』チラシ

 加藤が亡くなった翌年の秋、CD『物語 宮本武蔵 吉川英治原作・市川八百蔵 甦る戦前のラジオ名朗読』(ぐらもくらぶ、2016年10月)が発売された。そのライナーノーツに、市川八百蔵(のちの八代目中車)と徳川夢声のことを少し書いた。
 武蔵の語りといえば、徳川夢声が有名だが、戦前は八百蔵も好んで語った。両者の語りは、それぞれに贔屓を生む。昭和16(1941)年7月には、八百蔵の語りをSPレコード12枚におさめた豪華版『宮本武蔵』(ポリドール)が出た。それを初めて完全復刻したのが、このCDである。


八百蔵時代の八代目市川中車(『花道』昭和28年新年号)

 加藤は、八代目中車の語りを愛した。「加藤武 語りの世界」で十八番にした吉川英治の『宮本武蔵』も、そのベースには夢声と八百蔵それぞれの語り芸がある。奇しくも最後となった『市川中車の大島綺譚』については、《加藤は、戦後三原橋で催された八百蔵の語りの会にも観客として参加しており、そのひそみに倣い、今回初演致します》とチラシにある。
 その人が、八百蔵が語る武蔵のCDを喜ばないはずがない。お手紙を添えて、ぜひお送りしたかった。たとえ返事が来なくても、それで縁ができたような気になれたはず。そんな淡い願いすら、もう叶わない。縁なき語りの名手、好きな役者であった。

 令和元(2019)年7月31日、没後4年の“加藤武忌”にあわせて、市川安紀著『加藤武 芝居語り 因果と丈夫なこの身体』(筑摩書房)が刊行された。発売を心待ちにして、書店で見つけるや、すぐに買った。
 著者の市川安紀さんは、演劇誌『シアターガイド』の元編集長で、演劇雑誌や公演プログラムの執筆、編集、インタビューを手がける編集者、演劇ライターである。この“芝居語り”は、『キネマ旬報』に連載された「因果と丈夫なこの身体――加藤武 芝居語り」を加筆修正したもの。連載(2015年10月~17年4月)が始まってまもなく、加藤は世を去った。連載三回分の原稿までは、生前に目を通していたという。


市川安紀『加藤武 芝居語り 因果と丈夫なこの身体』(筑摩書房、2019年7月)

 市川さんは、《加藤さんと会うのは、いつも新宿駅近くの喫茶店だった。(略)豪快な芝居語りを毎回かぶりつきで堪能させてもらう幸せな時間だった》とあとがきに書く。トークショーではいつも、豪放磊落なおしゃべりで客席を沸かせたけれど、この本もそれに変わりがない。“芝居語り”のタイトルそのままに、加藤のおしゃべりを、喫茶店の隣の席で聴いている感覚になる。著者のいう《幸せな時間》が、わずかでも共有できる。
 ちょっとずつ読もう、と思ったのに、買ってすぐに一気読みしてしまった。出たばかりの新刊なので、ネタバレにならないていどに書いてみる。
 昭和32(1957)年10月、文学座の地方公演『鹿鳴館』(三島由紀夫作、松浦竹夫演出)に、加藤は出た。影山伯爵(中村伸郎)に利用される殺し屋・飛田天骨役で、初演(1956年)では宮口精二が演じた。そのときの思い出を、加藤が語る。

「中村伸郎さん演じる影山伯爵と天骨が茶室で密談しているところへ、影山夫人の杉村さんが入ってくるんです。驚いた天骨が〈奥方様!〉って言うんだけど、せりふも仕草も僕はやたらと大芝居で、どうやっても歌舞伎ふうになっちゃう。
 で、稽古休みにざる蕎麦食べてたら、杉村さんに怒られたんですよ。〈ちょっとタケさん、こう言っちゃ何ですけどね、あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物〉。いやぁ、ショックだった。そばが喉へ詰まっちゃって。致命的なことをズバッと言われたんだもの。(後略)」
(市川安紀『加藤武 芝居語り 因果と丈夫なこの身体』筑摩書房、2019年7月)

 《影山夫人の杉村さん》は、加藤が終生崇めた、というより、頭の上がらなかった杉村春子のこと。《あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物》。ああ、なつかしい。トークショーがあると、加藤はすぐにこれをやった。杉村春子の声色で。「あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物」。そのイントネーションがいかにも杉村春子で、客席はいつも大受け。新宿の喫茶店でも、その声色でやったんじゃないかな。そうした加藤の語り口が、本のあそこにも、ここにも、あふれている。
 『加藤武 芝居語り』を読んで、『市川左團次藝談きき書』(松竹演劇部、1969年10月)が頭に浮かんだ。三代目市川左團次の芸談を、劇作家の北條誠が聞き書きした名著である。左團次の江戸っ子らしいきっぷのよさ、調子のよさ、その語り口を損なわず、北條は一冊にまとめた。先代の左團次から加藤武へ、東京生まれの役者が語った芸談のおもしろさに、ふたたび触れた。
 舞台、映画、ラジオ、テレビ、寄席と多彩かつ長いキャリアゆえに、さまざまな俳優、映画・演劇人が登場する。三船敏郎、加東大介、藤原釜足、杉村春子、太地喜和子、文野朋子、小沢昭一、西村晃、フランキー堺、仲谷昇、黒澤明、市川崑……。生の舞台には一度も接していないのに、観てきたように生き生きと語る丸山定夫の人と芸。移動演劇「桜隊」のメンバーとして、広島で非業の死を遂げた丸山や園井恵子の思い出を語ることは、“戦争を知る世代”の使命感でもあった。
 早稲田大学の学生として出会い、のちに文学座の盟友となる北村和夫に対しては、こう心境を明かす。

「今にして思うとね、僕自身の役柄っていうのは、とっても難しいんだね。北村和夫は何て言っても、早くから主演役者の地位を得てたでしょ。芝居が素直で大らかなんだよね。それにひきかえ自分自身の反省として言うと、小器用なとこが逆に足引っ張っちゃうんだよ。それが全部災いしてたと思う。キャンバスの大きさ、小ささっていうのかな。ずいぶん後になって北村が、〈アンタもね、やっぱりちょっと大きい役やんないとね〉ってポロッと言ったことあった。モロに言いやがったね。これはズシーッと堪えた。だって自分もそう思ってたんだから」
(前掲書)

 これまでのインタビューやトークショーで味わった、スケールゆたかでユーモラスな人となりは、この“芝居語り”でも変わらない。ただ、文学座での仕事、新劇俳優のキャリアに対しては、いろいろ抱えていたんだな、と感じた。
 杉村春子の「あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物」は、笑いばなしにもなろう。盟友にしてライバルでもある北村和夫の「アンタもね、やっぱりちょっと大きい役やんないとね」は、そうとう堪えたんじゃないか、と思う。北村との日々が明かされて、芝居語りはいよいよ大詰めを迎える。


文学座公演『かもめ』(1965年9~11月)。左より北村和夫、杉村春子、青木千里、松下砂稚子、加藤武(公演パンフより)

 『加藤武 芝居語り』には、初めて見る珍しい写真がたくさん載っている。映画『黒部の太陽』(三船プロ・石原プロ、1968年)が好きな身としては、カバーと表紙の写真に感激した。間組の国木田所長代理を演じたときのスナップで、加藤本人が所蔵していたものだ。
 『黒部の太陽』で演じた昔かたぎの親方は、すばらしかった。「なせばなる! 機械がなけりゃ、ショベルで掘れ、ショベルがぶっ壊れたら爪で掘れ!」と演説をぶつシーンは、監督の熊井啓が《加藤武氏の熱演に、一同の拍手がわく》(『映画「黒部の太陽」全記録』新潮文庫、2009年2月)と書いたほどだった。
 カバーと表紙の写真だけでなく、『黒部の太陽』の思い出も“芝居語り”には少し出てくる。たとえば、間組の班長を演じた大滝秀治と宿で同じ部屋、というエピソードがある。この映画のファンとしては、そういう細かいところが興味ぶかい。

「(前略)あと裕次郎のお父さん役は、新国劇の辰巳柳太郎さん! 俺は新国劇も大好きだったから、たっぷりいろんな話を聞かせてもらいましたよ。豪快なイメージだけど、意外や酒が飲めないの。でもあっけらかんとして、実にいい人でね。辰巳さんとああして話ができたのは嬉しかったなぁ。(後略)」
(前掲書)

 そう語った辰巳柳太郎との共演シーンには、三船敏郎、石原裕次郎、玉川伊佐男、高峰三枝子、樫山文枝、川口晶もいた。ミフネでも、裕次郎でも、高峰でもなく、辰巳とのおしゃべりが嬉しかった、というのがいい。


『黒部の太陽』(三船プロ・石原プロ、1968年)。左より三船敏郎、高峰三枝子、加藤武、辰巳柳太郎

 あっという間に読み終えた芝居語り。おもしろかった。でも、読後感はさびしい。事情さえゆるせば、連載はもっと続いたはずなのに……。文学座の大先輩、龍岡晋と三津田健のこと。小言幸兵衛な専務でおなじみだった『釣りバカ日誌』(松竹、1988~2009年)のこと。馬が乗れるという理由で抜擢された『騎馬奉行』(関西テレビ、1979~80年)のこと。そうそう、小池朝雄のモノマネもうまかった。
 惜しみて余りあるけれど、芝居語りは、これきり。巻末には年譜と主な出演作が載せられ、その役者人生を俯瞰できる。没後発売されたCD『加藤武 語りの世界』(CURELLE RECORDS、2015年11月)とともに大切にしたい。偲ぶよすがとして。

わが女神 小林トシ子

 BS12(トゥエルビ)で今年の4月から、銀河テレビ小説『まんが道』(NHK総合、1986年11月~12月放送)が再放送されている。藤子不二雄Aの同名自伝漫画のドラマ化で、小学生のころに見て以来で懐かしい。
 その第12回、立山新聞社学芸部の虎口部長(蟹江敬三、好演!)の指示で、記者の満賀道雄(竹本孝之)と竹葉美子(五代眞弓)が、木下恵介の『カルメン故郷に帰る』(松竹大船、1951年)を観に行くシーンがある。「初の総天然色映画だから、仕事だよ」と言うものの、道雄と美子が想いあっていることを、虎口はちゃんと知っている。 
 スクリーンには、ストリッパーのマヤ・朱実(小林トシ子)が、浅間山麓で脱ぎ出すシーンが映し出される。「き、きれいですね」と道雄。「ええ、とっても素敵」と美子。ともに赤面しながらも、幸せそうなふたり……。



銀河テレビ小説『まんが道』第12回。竹本孝之(左)と五代眞弓(右)

 小林トシ子(こばやし・としこ 1932~2016)は、エキゾチックな美貌と雰囲気で、戦後の松竹映画でおなじみだった。木下恵介は、『破れ太鼓』(松竹京都、1949年)の長女役を探していたとき、映画・演劇人のたまり場だった喫茶店「蟻屋」(東京・新橋)で、日劇ダンシングチームの踊り子だった小林のことを知り、白羽の矢を立てる。
 木下は、映画女優としてはド素人の小林を、千田是也を介して、俳優座養成所にあずけた。それからは、木下作品になくてはならない存在となる。『破れ太鼓』を皮切りに、『善魔』『カルメン故郷に帰る』『少年期』『海の花火』『カルメン純情す』『二十四の瞳』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』…わずか6年で、これだけの木下作品に出ている。
 昭和7(1932)年、東京生まれ。「松竹の看板女優」とは呼びにくいけれど、「脇役」と書くのもしのびない。同い年に岸恵子、有馬稲子、渡辺美佐子、岩崎加根子、ひとつ年上に香川京子、ひとつ年下に草笛光子がいる。この女優たちの仕事を考えると、小林の映画での活躍はもっとあってもよかった。
 昭和31(1956)年には、草月流の勅使河原宏と結婚し、“勅使河原トシ子”となった。華道家の妻となり、3人の子どもの母親になったこともあり、1960年代に入ると映画出演の機会が少なくなる(それと前後して、夫の宏が映画の仕事にのめりこんでいくのは皮肉である)。
 そんな彼女を“女神”と敬い続けたファンがいた。広告会社の図書館につとめる後藤光明である。後藤は、『カルメン故郷に帰る』で小林の虜となった。『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』(私家版、1977年11月)は、みずから蒐集した小林の写真や関連記事をもとに、後藤が編集・デザイン・発行した、非売品のスクラップブックである。

 小林さんを評してこれ迄にも、たびたび使われている言葉だが、日本人ばなれしたその容姿、どちらかといえば甘さのない容貌は、私の瞼から離れなくなってしまった。「カルメン」でみせた、あのカラッとしたエロティシズムは他の日本の女優の持ちあわせていないものである。地味な響きをもったその声も私の耳には、いつ思い出しても心地よい響なのである。
(後藤光明「序・あこがれはいまも少年の如く」『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』)

 


『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』(私家版、1977年11月)

 A4判、170ページ。映画広告、ブロマイド、映画雑誌、月刊誌、週刊誌、新聞、初公開時のプログラム、名画座のパンフレットなど、写真と記事がところせましと並ぶ。家庭の人になってからの婦人雑誌の記事までおさめ、頭から尻尾までトシ子、トシ子、トシ子、である。
 ファンならつい書きたくなる、評伝や演技評、映画評の類いはまったくない。潔いほど資料本に徹している。惜しむらくは、書誌データがどこにも明記されていないこと。せっかく興味ぶかい記事があっても、どの媒体の、いつの発行号なのか、まったくわからない。



『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』

 1960年代に映画界(松竹)から離れた小林だが、女優をやめたわけではない。テレビドラマや新劇の舞台には、けっこう出演している。昭和40年代に入ると、グループNLTや浪曼劇場の公演に参加、中村伸郎、南美江、村松英子らと共演した。
 昭和44(1969)年10月の浪曼劇場公演『皇女フェドラ』(紀伊國屋ホール)では、主人公のフェドラを演じ、木下恵介が餞のことばを寄せた。その記事が、『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』にある。 

 彼女が家庭の人となり、良き母となり、子供達も手がかからなくなって、今やっと昔止切れた糸を現在に結んで、中断していた女優生活に再生の第一歩を踏み出した時、私は、恐らく誰より嬉しく思っていたし、今度彼女が『皇女フェドラ』で主役をすると聞いて、期待も大きく、体当たりでぶつかって行くであろう彼女を想像すると、親父のような微笑が湧いてくるのである。成功を祈る。
(木下恵介「小林トシ子讃」初出誌不明)

 あたたかい文章だな、と思う。家庭に入り、松竹を離れ、女優としてテレビや舞台に出演する小林に、木下は複雑な思いを抱いたかもしれない。それでも、女優としての新たなスタートにエールを惜しまなかった。
 あこがれの人が舞台に立つことは、後藤にとっても望外の喜びとなる。銀幕の人、家庭の人であれば、遠くから見守ることしかできない。舞台は違う。すぐ目の前に“女神”がいる。
 昭和43(1968)年12月、蝎座プロデュース公演『ラスビークの夕食』に小林は出演する。蝎座は、映画館「新宿文化」の地下にあった小さな劇場で、後藤はその一番前の席に座った。

 この時とばかり一大決心をして、終演後バラの小さな花束を差しだし、内心の胸のふるえを押えながら、恐る恐る話しかけたのである。そして、蝎座近くの「ロールスロイス」という喫茶店で、私のファンになってからのいきさつを簡単にお話した。画面やステージから受けるクールな印象とは異なり、そこには、飾り気のないとても気の良い女性だなというパーソナリティを感じ、私の女神は遠のかず、むしろ身近な女神となったのである。
(後藤光明「序・あこがれはいまも少年の如く」前掲書)

 これが縁となり、ふたりは親交を深めていく。その関係は、昭和52(1977)年11月、「第1回 小林トシ子リサイタル」(紀伊國屋ホール)として結実する。後藤が企画したこのリサイタルでは、『レトナ通りにて・ある女と男の…』が上演され、小林が主人公の「女」にふんした。
 『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』は、このリサイタルにあわせてつくられたものだった。“女神”へのプレゼント、という意味合いもある。そんな後藤の気持ちを、小林は素直に受けとめた。

 ひっこみ思案のわたくしは、今日まで女優の道を手さぐりで、おぼつかなく歩きつづけて参りました。
 妻として、母として、わたくしなりにつとめてきましたが、四十すぎた今、新しく、女の哀しみや、よろこびを、この本との出会いによって表現してみたいとねがっておりました。わたくしの映画時代からのファンの方に、この気持を、お話しいたしましたところ、その方、後藤光明氏が、企画者として、積極的に先輩、友人諸氏の御協力をおまとめ下さり、小林トシ子リサイタルを、実現するはこびとなりました。ただ、ありがたい気持で一杯でございます。(以下略)
(小林トシ子「勇気をもって、今」前掲書)

 


「第1回 小林トシ子リサイタル」、左は大月ウルフ(『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』より)

 後藤は、この『MY GODDESS TOSHIKO KOBAYASHI わが女神・小林トシ子』だけでは満足しなかった。3年後にはなんと、レコードまでこしらえた。昭和55(1980)年に出した、非売品の豪華LP2枚組『Close-up TOSHIKO KOBAYASHI』(私家版)である。
 ジャケットデザインのセンスが抜群にいい。それもそのはず、グラフィックデザイナーの佐藤晃一が、アートディレクションを手がけている。



『Close-up TOSHIKO KOBAYASHI』(私家版、1980年)

 「Close-up」と銘打つように、出演映画の名場面(『カルメン故郷に帰る』『カルメン純情す』『現代人』『野菊の如き君なりき』『風前の灯』『亡命記』『集金旅行』『遠い雲』『破れ太鼓』)をダイジェストで収録。ボーナストラックとして、小林本人とその家族、小林の友人である奈良岡朋子のインタビューをおさめた。
 小林本人のインタビューでは、『破れ太鼓』の京都での撮影エピソードがいい。初めての映画出演で心細さがあったのか、自分で理由もわからず、撮影所の結髪室でひとり泣き出す小林。そんな彼女を、そばにいた共演者の沢村貞子が慰めてくれた。

 そのときにね、忘れもしないわ、撮影が終わって、帰りにね、四条のほうへ連れていってくれて、あんみつをね、食べさせてもらったの。それはなんかね、もう、沢村さんをテレビで拝見したり、それからあの方は御本を書いたりなさっているけれど、沢村さんというと、「あ、あんみつ」と思い出すのね。
(小林トシ子インタビュー『Close-up TOSHIKO KOBAYASHI』)

 この“脇役盤”がユニークなのは、後藤光明本人の肉声が入っていること。このなかで後藤は、“女神”との出会いと魅力を語り、《気さくにはまあ、お話はしていますけども、心の底にはやっぱりそういう、ひとつの敬いというのかな、そういうものは忘れられませんね》と言った。「敬い」という言葉からは、ファンと女優との適度な距離感、古き良き“憧れびと”との月日を感じさせる。

 小林トシ子は、1980年代末までテレビドラマに出演し、その後は女優を引退。平成28(2016)年の師走に亡くなった。草月流の家元は現在、次女の勅使河原茜が継承(第四代)している。
 ひとりの女優を“女神”と敬い続けた後藤光明は今、どうされているのか。ご健在であれば、いい年のおじいちゃんになっているはずである。