脇役本

増補Web版

青蛙の剣 伊吹聰太朗


伊吹總太朗と仲間の会 初公演『大菩薩峠』パンフレット(1987年4月)

 テレビ・ラジオプロデューサーの澤田隆治氏が亡くなった(2021年5月16日死去、享年88)。“笑ビジネス”の巨星墜つ、の感がある。
 1985(昭和60)年6月、新宿3丁目の国際会館5階に「コメディシアター」がオープンした。ストリップ劇場「新宿ミュージックホール」を改装、200ほどの客席を有する「笑いの実験劇場」で、プロデュースしたのは澤田である。そこにはかつて、洒落た喜劇で人気を博した「ムーランルージュ新宿座」があった。


「コメディシアター」広告(1987年4月)

 1987(昭和62)年4月16日から18日までの3日間、ここでユニークな公演がおこなわれた。「伊吹總太朗と仲間の会」初公演『大菩薩峠』。幾度となく舞台、映画、テレビドラマになった中里介山、不朽の名作である。
 演出と殺陣と主演の三役を兼ねたのが、新国劇出身の伊吹聰太朗(いぶき・そうたろう/1928~1998)である。公演パンフレットの表紙にあしらった大菩薩峠と机竜之介の墨絵も、伊吹みずから描いた。


『大菩薩峠』パンフレット

 聰太朗、聡太朗、總太朗、総太朗などの名をもち、テレビ時代劇が好きな人には馴染みぶかい悪役だろう。吊り上った眉と鋭い眼光、不適な笑みと野太い声、「邪剣」「魔剣」と呼ぶべき太刀さばき。女だろうと、年寄りだろうと容赦しない。
 『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(TBS、1973年9月~74年3月)では、由井正雪(成田三樹夫)の門弟・林戸右衛門を演じた。軍学者で幕府転覆をたくらむ正雪は、自分で手を汚さず、面倒な実務は林が引き受ける。火付け、人斬り、かどわかし……。
 その最終回。たくらみが露見し、腹をかき切った正雪を横目に、林は役人らを相手に大暴れ。壮絶な最期を遂げる。



『江戸を斬る 梓右近隠密帳』最終回「対決」(TBS、1974年3月25日放送)より伊吹聰太朗の林戸右衛門、右は成田三樹夫の由井正雪

 伊吹は居合の名手であり、豪快でいて美しい所作を身につけていたので、殺陣には説得力があった。黒幕や悪徳商人を演じることもあったけれど、立ち回りのない役は物足りなかった。剣術指南役、用心棒、刺客、剣客と“デキる男”に尽きる。
 新宿のコメディシアターで上演された『大菩薩峠』は、伊吹が座頭となった自主公演である。その演出を、師である島田正吾に依頼した。しかし島田は、スケジュールの都合で引き受けることができず、伊吹が演出も担った(台本もおそらく伊吹が手がけている)。


『大菩薩峠』パンフレット

 客席200余の劇場とはいえ、大作である。場割りは、予曲「大菩薩峠」に始まり、三幕九場からなる本篇があり、終曲「大菩薩峠」で幕となる。
 伊吹は、机竜之介と宿敵の島田虎之助の二役を演じた。長く在籍した新国劇では、二枚看板の辰巳柳太郎と島田正吾がそれぞれ持ち役とした。さかのぼれば新国劇の生みの親、澤田正二郎の十八番であり、一世を風靡した名作である。

さて、この度、永年の夢でございました「大菩薩峠」を上演させて頂くことになりましたが、私も新国劇に入団し役者として出発して以来三十六年になりました。しかしながら唯々年をとったのみでお恥かしい私でございますが、いろいろ多くの方々のお力添えで上演出来ます事は、此の上もない光栄であり嬉こびでございます、しかい烏滸がましい事と存じますが、私の師・島田正吾のすすめで演出おもいたしました。出来映えはどうか解りませんが、私なりに勢一ぱい努力いたした積りでございます。どうぞ御笑覧下さいませ。(原文ママ)
(伊吹總太朗「御挨拶」伊吹總太朗と仲間の会『大菩薩峠』パンフレット、1987年4月)

 伊吹には自叙伝、エッセイ集といった単著がない。全16ページのパンフレットは貴重な文献であり、その役者人生が投影されている。これは、映画『国際秘密警察 虎の牙』(東宝、1964年)やテレビ『鬼平犯科帳』を手がけた脚本家・安藤日出男の旧蔵品。見つけたときはうれしかった。安藤が新国劇で手がけた演目に、伊吹は出演している。この自主公演にも、足を運んだのだろう。
 
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 1928(昭和3)年、東京生まれ、北海道育ち。親交のあった津田類(演劇評論家)は、エッセイ「總ちゃんのこと」(前掲書)に人となりを綴っている。《どちらかというと人づきあいの下手な總ちゃん(略)ま正直で世渡りの下手な彼》。自主公演のパンフレットに掲げられた顔写真も、悪人の面構えではなく、やさしげだ(本ブログ冒頭に掲載)。
 島田正吾にあこがれ、新国劇に入団したのは1952(昭和27)年のこと。下積みからのスタートで、すぐに役がもらえるわけではない。役付きで名前が出たのは、1956(昭和31)年1月の明治座(東京)公演からである。


入団6年目のころ(『新國劇40周年記念』新国劇、1957年10月)

 殺陣が生命の新国劇にあって伊吹は、東大二朗、大山克巳とともに「新国劇剣究会」のリーダーとなり、“剣究”を怠らなかった。その成果のひとつに、1963(昭和38)年に上演された『タテ 天地(あまつち)』がある。お家芸『殺陣 田村』につづく新たな新国劇の殺陣で、長谷川伸の発案で生まれた。若手中心の座組で、シン(主役)に抜擢された伊吹の姿が、『週刊朝日』のグラビアを大きく飾っている。


『週刊朝日』1963年6月21日号

八双のかまえ。「きられ五年」といって、一人前の立ちまわりができるには十年かかる。するどい気迫が感じられる一瞬。 
(殺陣「天地」『週刊朝日』1963年6月21日号)

 1966(昭和41)年6月の明治座公演では、全演目の作・演出を手がけた劇作家の北條秀司が、新しい新国劇の殺陣を創り上げることを提案。伊吹が殺陣を手がけた『雪の夜の殺陣』(四幕)が、夜の部のラストに上演された。

 夜の部はガラリと変わった洋楽で行くことにした。これはかねがね伊吹と研究して来たベートーベンの交響曲を借りた試みだった。全員があっと歓声をあげた。洋楽マニヤの伊吹はすでに第五や第九を基本にした編曲を手製していたから、小躍りして狂喜した。
 音と光線だけの単色舞台に、リズムを持った雪だけを降らせ、小川昇さんのライトで清純感を出してもらい、一切の躍動を伊吹に任せてやった。若い座員の綜合昂奮で、それは観客の心を射た。今でもあの美感はわすれられない。
(北條秀司『演劇太平記(五)』その227「壬生野の恋狸」毎日新聞社、1990年1月)

 北條は、殺陣師としての伊吹を高く評価した。1970(昭和45)年11月の国立劇場公演『大老』では、北條が作・演出をつとめ、伊吹が殺陣を担当した。のべ6時間、130人以上の俳優が出演する大舞台で、大抜擢と書いていい。
 のちの自主公演『大菩薩峠』でも、「予曲」「終曲」と名づけた場があり、伊吹の洋楽好きがうかがえる。巧みな殺陣への創意工夫を、親交のあった津田類が明かす。

忍者の役を演じたとき、武器を持てない状態におかれながら、いざ戦闘場面となるとふところにしのばせていた武器を出し、あっという間に敵を倒した。その武器というのがカーラジオのアンテナだった。縮めてしのばせ、素早く伸ばして相手を倒し、また縮める。その手際のよさで観客には誰れひとりアンテナと気づかせない。こういう工夫と妙技は總ちゃんの独壇場だった
(津田類「總ちゃんのこと」前掲書)


新国劇『荒木又右衛門』(明治座、1964年5月)。左より伊吹聰太朗の武右衛門、宮本曠二郎の孫右衛門、宮島誠の桜井半兵衛、辰巳柳太郎の荒木又右衛門(『新国劇五十年』中林出版、1967年7月)

 殺陣師としての活躍は、新国劇だけではない。1965(昭和40)年8月の歌舞伎座「吉例三波春夫特別公演」では、昼と夜それぞれのショータイムに、伊吹が殺陣をつけた。読売新聞の合評座談会には、《新国劇の伊吹総太朗がつけた“たて(殺陣)”が、三波の舞台を引き立たせた》(8月12日付夕刊)と触れられている。
 歌手で俳優の荒木一郎も、殺陣師としての伊吹を回想する。荒木は剣の達人、塚原卜伝をテレビで演じ、伊吹が指導した(『日本剣客伝』第4話「塚原卜伝」NET、1968年6月~7月)。《伊吹(聰太朗)さんっていう殺陣師とすぐ仲良くなって、いろんな話をして「じゃあ、今度こういうのやってみない?」っていう感じで決めていきました》(荒木一郎『まわり舞台の上で 荒木一郎』文遊社、2016年10月)。
 新国劇での殺陣を記録したフィルムに、『剣』最終回「春夏秋冬」(日本テレビ、1968年2月26日放送)がある。伊吹は、東大二朗とともに殺陣を担当、「殺陣 田村」のパートでは居合を披露した。


『剣』最終回「春夏秋冬」(日本テレビ、1968年2月26日放送)より『殺陣 田村』、伊吹聰太朗の居合

 洋楽に精通した人だけあって、所作にもスマートでモダンな色彩がある。ステレオタイプな勧善懲悪時代劇では、なかなかお目にかかれない演出だ。

 昭和40年代、新国劇は斜陽期を迎える。島田と辰巳につづくスターが輩出できず、後継者として目された緒形拳も、1968(昭和43)年に退団してしまった。
 新国劇が冬の時代、伊吹は若手の座員数人を従え、赤坂のナイトクラブに出演。『殺陣 田村』を上演し、評判を呼んだ。しかし、彼もまた古巣から旅立っていく。1977(昭和52)年2月の御園座公演が、伊吹にとって最後の新国劇公演となる。劇団創立60周年、伊吹が入団してから四半世紀の節目だった。
 新国劇に別れを告げた伊吹は、新天地へ向かった。意外にもそこは、藤山寛美率いる松竹新喜劇。心機一転、芸名を「伊吹聡吾朗」にあらためた。
 新国劇の舞台やテレビ時代劇の悪役に見覚えのある人には、いまひとつイメージがつかみにくい。津田類は、その舞台に戸惑ったひとりである。

背広を着、黒の手さげかばんを抱えた、外交員などで登場、慣れぬ大阪弁をつかっている彼は、正直いって痛々しかった。舞台を見ていて、もうかんべんしてくれという気持だった。
(津田類「總ちゃんのこと」)


伊吹聡吾朗のころ(『7月松竹新喜劇 笑いと涙の傑作集!!』新橋演舞場、1978年7月)

 皮肉にも「伊吹聡吾朗」として舞台に立つ姿は、多くの映像に記録されている。
 DVD化された舞台のひとつに、1978(昭和53)年8月の新橋演舞場公演『はなの六兵衛』がある。藩主の有馬玄蕃頭(小島慶四郎)の側用人・田辺右近役で、花道の出とひっこみ、それぞれに見せ場がある。セリフも多く、決して役は小さくない。



松竹新喜劇『はなの六兵衛』(新橋演舞場、1978年8月)より伊吹聰太朗(聡吾朗)の田辺右近、右は藤山寛美の大和の百姓 六兵衛

 松竹新喜劇だからといって、笑いを見せるわけではない。側用人田辺は、悪役でなく、主君思いの実直な家来である。藤山寛美と小島慶四郎、客席を沸かせるふたりの前で、生まじめに側用人を演じる姿がおかしい。
 いっぽうで伊吹のニンではない演目も少なくない。人情劇『裏露地』で演じた宝飾商支配人・前川は、津田が書く「もうかんべんしてくれ」といえる役柄ではないか。
 なぜ、畑違いに思える劇団に移ったのか。京都南座の楽屋を訪ねた吉岡範明(演劇評論家)は、その真意を伊吹に訊ねた。

寛美の誘いあってのことだったが、喜劇を勉強して重厚な演技から軽妙な芝居をこなせる芸域のひろい役者(ひと)になるためというのが確か、その時の答えだったと覚えている。あの時、その心掛けには頭の下がる思いがした。
(吉岡範明「伊吹聰太朗」『松平健 特別公演』明治座、1998年7月)

 伊吹にとってそこは、居心地のいい場所だったのか。在籍当時の松竹新喜劇は、悪くいえば寛美の独裁体制が激しさを増すころだった。
 円満なかたちか、後味は悪かったのか、いずれにせよ伊吹は5年ほどで松竹新喜劇から去った。この前後、テレビ時代劇にはずっと出ている。
 それでも気持ちは、舞台にあったのだろう。1983(昭和58)年10月の帝国劇場(東京)特別公演『孤愁の岸』では、郷士の渡辺勘左衛門を演じ、擬斗(殺陣)も手がけた。宝暦治水工事で多大な犠牲を強いられた薩摩藩士たち、その壮烈な悲劇大作である。津田類は、《ひさしぶりに總ちゃんらしい舞台姿に接した思いだった》(「總ちゃんのこと」)とふりかえる。
 伊吹は2年後の再演にも登板し、笠松郡代の青木治郎九郎を演じた。初演にくらべて見せ場が増え、憎まれ役の公儀役人とはいえ、いい役になった。


東宝・御園座提携公演『孤愁の岸』より伊吹聰太朗の青木治郎九郎(御園座、1985年9月)

 時代劇のステージに帰ってきた伊吹は、テレビの仕事をつづけながら、八代亜紀の座長公演などに立った。
 迎えた1987(昭和62)年4月、満を持しての自主公演『大菩薩峠』が幕を開ける。島田正吾にあこがれて新国劇入りしてから、35年が経っていた。
 「伊吹總太朗と仲間の会」と銘打つだけあって、友人や仲間は協力を惜しまない。新国劇の舞台を手がけた橋場清が音楽を担当、新国劇の役者仲間だった森章二が友情出演した。『孤愁の岸』でともに仕事をした演出家の津村健二は、パンフレットにこう記した。

 長い芸歴と、劇団新国劇にあって磨いた剣の道を、この舞台で思う存分ぶちまけ、叩きつけてアバレてほしい。
 長い芸歴と云うことは決して、若くはないと云うことでもある。それは裏返せば失敗はもう許されないという厳しさおも同時に背負っていることでもある……余計なことでもあるがひと言。
 今回は主演を兼ねて演出にも取り組むという、殺陣師というスタッフ側の目も持ち合せているのであるから、鬼に金棒である。
 さあ、アバレロ!金棒を剣に代えて―。
(津村健二「アバレロ伊吹!」)

 よき理解者である津田類は、商業演劇の舞台であまり役に恵まれないことを惜しみつつ、エールを送った。

ま正直で世渡りの下手な彼のこと、素晴しい殺陣の技術と得意な雰囲気を持つ役者でありながら、それを発揮する場に恵まれない。残念で仕方がない。が、こんどはその技術と蓄積した芸をたっぷりと発揮できるだろう。伊吹總太朗の机竜之介、聞いただけでもぞくぞくする。がんばってほしい。
(津田類「總ちゃんのこと」)

 伊吹聰太朗の机竜之介、たしかにファンであればゾクゾクする趣向だろう。
 師じきじきの演出は実現しなかったものの、パンフレットには島田正吾が一文を寄せた。覚悟を決め、自主公演に踏み切った伊吹にとって、なによりのはなむけである。

永年劇団員として舞台は見て来ているし当人も出演して、大菩薩峠の演出・演技は良く心得ている事でもあり、ましてや剣で知られた伊吹君だけに其の点新しい工夫も期待出来ると僕はそう思って「いっそ、演出もやったらどうか」とすゝめて見たものだった。彼も僕の意をくんで演出・主演を決意したらしい。兎にも角にも初めての自主公演で永年の夢を果すことだし、切に其の成果を期待してやまない、健闘を祈る。
(島田正吾「大菩薩峠上演にあたって」)

 伊吹はどちらかといえば“脇の人”だった。自主公演だったからこそ、この大役を演じることができた。喜びと緊張に満ちあふれたであろう、その胸中を想う。
 わずか3日間の自主公演、出来栄えはどうだったのだろう。知るかぎりでは、劇評に大きく取り上げられたり、テレビで劇場中継されたりしていない。今となっては夢まぼろしのステージとなった。
 この自主公演から5か月後、1987(昭和62)年9月、新国劇は解散し、その歴史に幕を閉じた。それでも伊吹のキャリアと新国劇の血脈は途絶えない。
 1994(平成6)年3月、新橋演舞場の特別公演『大菩薩峠』では、島田正吾、清水彰、香川桂子、外崎恵美子、緒形拳ら、新国劇のなつかしい顔がふたたび集った。伊吹は土方歳三に扮し、島田虎之助役の島田と共演する場もあった(島田が演出を手がけた)。


新橋演舞場3月特別公演『大菩薩峠』広告(『演劇界』1994年3月号、演劇出版社)

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 1998(平成10)年7月2日、明治座の「松平健 特別公演」が初日を迎えた。
 前半の芝居パートは、『吉宗評判記 暴れん坊将軍―吉宗の恋―』(二幕)。テレビシリーズで常連のように悪役を演じた伊吹は、その舞台に立った。役どころは、水戸家乗っ取りを企む江戸家老・三浦伊賀守(川合伸旺)の右腕、佐久間徹右衛門である。まさに伊吹聰太朗にこそふさわしい。


松平健 特別公演『吉宗評判記 暴れん坊将軍―吉宗の恋―』より伊吹聰太朗の佐久間徹右衛門(明治座、1998年7月)

 後半は、がらっと世界が一変してのショータイム「'98/唄う絵草紙」となる。パンフレットの配役表に伊吹の名があり、フィナーレの『マツケンサンバ・パートⅡ』にも出ている。
 千穐楽は7月27日、それからまもない8月5日、伊吹聰太朗は名古屋の病院で亡くなった。享年69。新聞に載った訃報を、うっすら記憶している。ベテランだったけれど、ずっと若々しい印象があったので、急な悲報におどろいた。
 北海道新聞は《公演後、体調を崩して入院していた》(8月7日付朝刊)と報じている。病を押し、命を削って立った明治座の舞台。その壮絶な舞台裏を、楽屋に出前を届けていた蕎麦屋の主人がブログに明かしている(http://www5a.biglobe.ne.jp/~detectiv/soba0008.htm)。
 今年で没後23年。ありし日のさっそうたる姿は、日々再放送されるテレビ時代劇で健在だ。その遺志は息子の伊吹謙太朗が、俳優として、殺陣師として、しっかり受け継いでいる。


伊吹聰太朗出演の公演パンフレット

三人の先輩 大滝秀治


『民藝の仲間 第351号』(劇団民藝、2008年3月)

 昨年の秋から、テレビ畑を歩んできた、さるベテラン演出家・プロデューサーの聞き取り(オーラルヒストリー)をしている。その方が手がけた作品に『土曜劇場 6羽のかもめ』(フジテレビ、1974年10月-75年3月)がある。
 劇団かもめ座のたった6人しかいない座員(淡島千景、加東大介、長門裕之、夏純子、高橋英樹、栗田ひろみ)が、テレビの世界で奮闘する姿を描く。全26回で、倉本聰が原案と脚本(15話分)を手がけた。マネージャーの「弁ちゃん」こと川南弁三役を好演した加東大介は、このドラマが遺作となった。


『土曜劇場 6羽のかもめ』宣材写真。前列左より高橋英樹、淡島千景、後列左より長門裕之、夏純子、栗田ひろみ、加東大介(DVD『6羽のかもめ』フジテレビ、2009年3月)

 このドラマにセミレギュラーとして登場するのが、高橋英樹ふんする田所大介の兄・正一で、大滝秀治(おおたき・ひでじ/1925-2012)が演じる。浅草でうなぎやを営む正一は、妻(青木和子)と母(村瀬幸子)、嫁姑の板ばさみになっている苦労人だ。深刻ぶることなく、とぼけた調子で大介にグチをこぼす姿が、微笑ましくも哀しい。


高橋英樹の大介(左)と大滝秀治の正一(右)。『土曜劇場 6羽のかもめ』第2回「秋刀魚」(フジテレビ、1974年10月12日放送)より(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)

 『6羽のかもめ』が放送中だった1975(昭和50)年5月、倉本を囲んだ座談会が開かれた。倉本は《一番多く出ていただいているという座付役者としての感覚が一番強いお三人》(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)として、八千草薫、桃井かおり、大滝秀治を招いた。
 倉本が脚本を手がけたドラマと映画に、大滝は、それはそれはたくさん出ている。大のお気に入りだったことは間違いない。倉本は語る。

いかに大滝さんを書いても、たとえば大滝さんの中にありうるものを書いても、どこかで、ベースはぼくの生理になっちゃう部分があるわけですよ。だから「間」とか「短い間」とか、そういったものというのは、自分の生理がどこかに、ベースにはあるわけです。
(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、1978年7月)

 ぼく自身、子どものころから親しんだ俳優である。政界の黒幕から悪徳商人、町工場のおやじから人情刑事まで、なんでもござれ。殺虫剤、ミネラルウォーター、黒酢、賃貸住宅とコマーシャルでもおなじみだった。2000年代以降の劇団民藝の舞台も、いくつか観た。
 「大滝秀治は名優か?」と問われると正直、違和感を覚える。「名優」の称号がなんとなく似合わない、不思議なバイプレーヤーだった。
 2012(平成24)年10月2日死去、享年87。今年で9年になる。

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 大滝秀治が亡くなった翌年、『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』(集英社クリエイティブ、2013年5月)が出た。
 新聞、雑誌、劇団民藝の公演パンフレットなど、インタビューを受ける機会は多かった。でも、自叙伝やエッセイ集の類いは生前、出ていないはず。大滝の単著としては、最初で最後の一冊かもしれない。


大滝秀治 著/谷古宇正彦 写真『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』(集英社クリエイティブ、2013年5月)

俳優であったという事実を、自分で確認するために、この本を出す。
(『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』集英社クリエイティブ、2013年5月)

 冒頭に、この一文を掲げた本書に、目次はない。大滝が生前に書いた(語った)文章が、章見出しやタイトルもなく、断片的に載せられている。
 その文章の合間あいまに、演劇写真を数多く手がけ、被写体としての大滝をライフワークとした谷古宇(やこう)正彦の写真が、挿入される。つまり「写文集」というわけ。
 写真と文章の内容は、とくに一致しない。いい意味で不親切な構成が、大滝の芸と人となり、どこか捉えどころのなかった役者像を浮かび上がらせていく。行間から、あの語り口が聞こえてくる。
 大滝の娘である山下菜穂が、「あとがき」を寄せる。

 読み進んでいくと、せっかちだった父が「どう? ぼくの本いい? 面白い?」と子供のように感想を急かす声も聞こえてくるような、また父がすぐ隣にいるようにも感じられる本になっていて、とても幸せでありがたい気持ちでいっぱいです。
(山下菜穂「あとがき」前掲書)

 奥付には「協力」として、劇団民藝 制作部の菅野和子の名がある。大滝のことを知りつくしていないと、これほどセンスのいい本に仕上がらない。菅野が、編集にタッチしたのだろうか。
 巻末には23ページに及ぶ「大滝秀治年譜」がつく。《俳優であったという事実》を、読者もまた《自分で確認する》ことになる。あの映画、あのドラマ、あのコマーシャル、あの舞台。懐かしく思い出しながら読んだ。

 大滝秀治は、1925(大正14)年、新潟県吉川町(現・上越市吉川区)に生まれた。尋常小・中学校時代は東京にいて、先の戦争を挟んで、逓信省の仕事をつづけた(戦時中は静岡県磐田の第一航空総軍通信隊にいた)。
 戦争が終わって、それまで弾圧されていた新劇は、息を吹き返す。戦後まもなく上演された舞台に感化され、新劇を志した者は少なくない。大滝もそのひとりだった。
 1948(昭和23)年、民衆藝術劇場(第一次民藝)付属養成所の第一期生となり、翌年に初舞台を踏む。1950(昭和25)年の劇団民藝創立には、研究生として参加した。その旗揚げ公演『かもめ』(アントン・チェーホフ作、岡倉士朗演出)では、料理人の役で出た。同公演には、終生の友であり同志となる奈良岡朋子が、小間使いの役で出ている。


劇団民藝創立2年目の大滝秀治(『民藝の仲間 第2号』劇団民藝、1951年)

 離合集散、脱退入座のはげしい新劇の世界で、大滝はずっと劇団民藝に所属した。
 この写文集の土台には、民藝での人との出会いがある。とくに印象的に綴られているのが、劇団の創立メンバーにして、大滝にとって雲の上の存在だったふたり、宇野重吉と滝沢修である。


宇野重吉(左)と滝沢修(右)。1980(昭和55)年12月28日、劇団民藝忘年会にて(『劇団民藝の記録 1950-2000』劇団民藝、2002年7月)

 上に掲げた忘年会でのツーショットは、チャーミングな表情だけれど、これはこれ。大滝が綴った思い出には、読み手を圧倒させる厳しい教え、新劇の先人たる貫禄がある。まずは宇野重吉との日々から――

 研究生になって、しばらくしてから、宇野さんに「おまえの声は、ぶっ壊れたハモニカみたいな不協和音を出す。ドレミファソラシド全部入ってる不協和音を出すと、お客に不快感を与えるから、役者に向かないんじゃないか」って言われた。「声が悪いし、見目かたちもちょっと……。おまえ、二十三だけど、老けてるな」って。
 自分では、そういうふうに生まれたんだから、劣等感を持ったことはないんですが、そんなことがずいぶんありました。
 宇野さんは厳しかったですね。でも、こんなすばらしい師匠に出会えたから、ぼくは今日まで役者をやってこられたと思うんです。どういうわけか、声が悪いなんて言われながら、ぼくは宇野さんに、とっても使われたような気がします。
(『長生きは三百文の得』)

 大滝の存在が、広くお茶の間に知られるようになるのは1970年代のこと。倉本聰の作品をはじめ、テレビドラマの影響が大きかった。
 それまで芽が出なかったわけではない。大勢の劇団員を擁する劇団民藝にあって、大滝はそれなりに重い役を担っている。ただし、主役をこなすこともあった奈良岡朋子、芦田伸介、山内明、下元勉、鈴木瑞穂らにくらべると、一歩遅れをとった印象を受ける。
 宇野重吉は、その大滝にダメを出しつづけた。そのわりに、目をかけていたように見える。それは写文集を読むと伝わってくる。


劇団民藝公演『鋤と星』(ショーン・オケイシー作、渡辺浩子演出、1969年10月)。右より大滝秀治ピータァー・クリテロ―、宇野重吉のフラター・グッド、米倉斉加年のウィリイ、北林谷栄のミセス・ゴーガン(『劇団民藝の記録』)

 宇野は民藝の看板俳優であり、演出家である。よくも悪くも、劇団内での発言力は大きい。大滝が、その庇護のもとにいたことは否めない。もちろんそれは、本人の俳優としての実力(魅力)と、宇野に対する尊敬があればこその話である。
 その宇野が、大滝を大抜擢した。1970(昭和45)年9月から12月にかけて上演された『神と人とのあいだ(1)審判』である。「東京裁判」をモチーフにした木下順二の法廷劇で、宇野が演出をつとめた。 
 大滝は、「主席弁護人(日本人)」を演じた。東京裁判で弁護人をつとめた清瀬一郎がモデルで、大役である。彼と対峙する「主席検察官(アメリカ人)」を、滝沢修が演じる。同裁判の主席検察官、ジョセフ・キーナンがモデルで、ふたりのやりとりが芝居の“キモ”となる。


劇団民藝公演『神と人とのあいだ(1)審判』(木下順二作、宇野重吉演出、1970年)稽古風景。手前左より大滝秀治の首席弁護人、滝沢修の首席検察官、後列左より松下達夫の判事、清水将夫の裁判長、石森武雄の判事(『民藝の仲間 第129号』劇団民藝、1970年)

 稽古のさい、宇野は大滝に言った。《「あせることはない。でも、ぐずぐずしてはいられないぞ」》(『長生きは三百文の得』)。
 写文集におさめられた写真に、宇野から大滝に宛てたメモがある。《①大滝主席弁ゴ人 大変よくなりました。努力を感謝します。更にもうひと工夫!》。宇野から、まず褒められることのなかった大滝にとって、このメモは宝物となった。主席弁護人の演技は高く評価され、紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した。


(『長生きは三百文の得』)

 宇野重吉は、1988(昭和63)年1月9日に亡くなる(享年73)。『審判』のエピソードひとつとっても、宇野と大滝の師弟関係、つながりの深さがうかがえる。
 ぼくが紀伊國屋サザンシアターで観た『審判』は、2006(平成18)年4月の再演だった。大滝の首席弁護人に魅せられつつ、亡き宇野とのつながりを想った(主席検察官は鈴木智)。いい舞台を観たと思う。

 滝沢修との関係はどうだったのか。写文集には、滝沢から受けた教えについても、多く割かれている。そこには、宇野とは異なる冷徹な視点がある。


劇団民藝公演『火山灰地 第一部』(久保栄作、村山知義演出)より、左から信欣三の青木、滝沢修の雨宮、大滝秀治の滝本(『芸術劇場』NHK教育、1961年8月20日放送)

 あるとき宇野は、「芝居を続けようと自分で決めるときは、いまだ」と大滝を励ました。時を同じくして滝沢は言った。「芝居をやめようと思うのも、才能のひとつだよ」。ふたりの言葉を、大滝はこう受けとめる。《一方だけに寄りかかり、もう一方は捨てようと思う》(『長生きは三百文の得』)。
 宇野へのかぎりない尊敬と愛着を知るいっぽう、滝沢に対してはどこか溝のようなものを感じた。「新劇の神様」と敬われた先輩への畏れ、発せられた言葉への葛藤が、行間からにじみ出る。

 やっぱし、滝沢先生の役者としての存在は、ぼくとは次元がちがったんでしょうね。
 あるとき、後輩に「池を前にして、これが海だと思えますか」って言われたから、ぼくには、池が即座に海に見える、これだけがおれの特技だよと言ったんだ。
 そしたら、その後輩が、滝沢さんにそのことを伝えてね。何日か経ってから、滝沢さんがぼくに「きみ、後輩にとんでもないことを教えたね。池は池だよ」と。
 だけど、役者っていうのは、錯覚の世界で生きる商売だって気がするんだよ。だって、舞台は虚構なんだから。それが自分の人生に、自分の生きている場になるためにはどうすればいいかというところであがき、また、それを錯覚するのも悪いことではないと思うんだけども。
 きっと滝沢さんはね、舞台ではいくらカアッとなっても、冷静になる第三の自分がいなきゃいけないんだということを教えたんだと思う。冷静な自分。でなきゃ、芝居はできない。嘘の世界なんだからと言おうと思ったんじゃないかな。
(『長生きは三百文の得』)

 滝沢修の存在は、大滝の肉体と思想に影のようについてまわった。『忠臣蔵 風の巻・雲の巻』(フジテレビ、1991年12月13日)では、滝沢が幾度となく演じてきた吉良上野介を大滝がやり、滝沢は語り手にまわった。企画の能村庸一(フジテレビ)は、「君、吉良をやるの。あれはいい役だよ」と滝沢から言われた話を、大滝本人から聞いている(能村庸一『時代劇 役者昔ばなし』ちくま文庫、2016年2月)。
 2000(平成12)年6月から8月にかけて、『炎の人――ヴァン・ゴッホ小伝』(三好十郎作、内山鶉演出)が再演された。滝沢が生涯の当たり役としたゴッホを、大滝が演じた。1951(昭和26)年の初演(岡倉士朗演出)で大滝は、画家のポール・シニャックを演じた。初演からおよそ半世紀、俳優 大滝秀治にとって、滝沢に対するひとつの答えとなる。


劇団民藝公演『炎の人――ヴァン・ゴッホ小伝』(2000年)より、大滝秀治のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(『劇団民藝の記録』)

 奇しくも『炎の人』の公演中だった6月22日、滝沢がこの世を去る(享年93)。1か月後、劇団民藝の稽古場(川崎市麻生区)で、「滝沢修とお別れする会」が営まれた(7月22日)。熱心な滝沢ファンのぼくは一般参列した。
 滝沢の死を冷静に受けとめる奈良岡朋子に対して、大滝はどこか興奮ぎみだった。甲高い声で「これは事件です」とあいさつし、目に涙を浮かべて「ありがとうございました」と参列者に頭を下げる姿を覚えている。


「滝沢修とお別れする会」であいさつする大滝秀治(2000年7月23日付「スポーツ報知」)

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 本ブログを「三人の先輩」と題した。宇野重吉、滝沢修、清水将夫の三人である。清水もまた、劇団民藝の創立メンバーである。


左より宇野重吉、清水将夫、滝沢修。民芸映画社『三太と花荻先生』(1952年公開)撮影現場(『民藝の仲間 第2号』)

 宇野と滝沢は演出も手がけたけれど、清水は俳優に徹した。先述した『審判』を例にすると、演出が宇野、主席検察官が滝沢、主席弁護人が大滝、裁判長(ウィリアム・ウェッブがモデル)が清水であった。


冨田英三「続・てんじょうやじ記12」(『民藝の仲間 第129号』)

 清水の思い出は、写文集のなかでただ一か所、数行しか登場しない。そのわずかな文章が、とてもいい。

 ぼくが池尻にある低所得者用の都営アパートで暮らしていたとき、清水さんは渋谷の南平台に住んでいて、稽古が終わると必ず「おっ、帰ろう」と声をかけてくれて、車で渋谷へ寄っては「飲め、飲め」と。
 金がなくて、酒が飲みたくても飲めないときに、心の豊かさを教えてくれました。
(『長生きは三百文の得』)

  清水将夫の酒をめぐるエピソードは、本ブログの第15回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/12/29/211933)で触れた。清水は、新劇人や文化人のたまり場だった渋谷の小料理屋「とん平」の常連だった。 

 川崎市麻生区に移るまで、劇団民藝の稽古場は青山にあった。清水は、劇団の後輩を「とん平」に連れていっては、奢っていた。先のブログで紹介した『しぶや酔虎伝 とん平・35年の歩み』(牧羊社、1982年7月)では、庄司永建と下條正巳が、その思い出を書いている。
 清水が大滝に《心の豊かさ》を教えた酒場も、おそらく「とん平」だったはず。庄司と下條のエッセイを読んだとき、「やさしい先輩だな」と思った。その印象が間違っていないことを、大滝の写文集が教えてくれる。
 清水が大滝に向けた視線は、どんなものだったのか。宇野と滝沢、偉大すぎる先輩に挟まれた後輩を、あたたかく見守っていたのか。
 ふたりが共演した作品は少なくない。そのひとつにテレビ映画『女・その愛のシリーズ』の一篇「鶴八鶴次郎(前後篇)」(NET、1973年12月12日、19日放送)がある。幾度となく映像化された川口松太郎の原作を、劇団民藝がユニットで制作し、民藝の若杉光夫が監督した。
 滝沢修のほか、民藝の俳優がこぞって出演するなか、清水は太夫元(興行主)の竹野を、大滝は舞台番の佐平を演じた。この民藝版「鶴八鶴次郎」では、佐平が狂言まわしを兼ねている。



『女・その愛のシリーズ』第11回「鶴八鶴次郎」(NET、1973年12月12日放送)より、大滝秀治の佐平(左)と清水将夫の竹野(右)

 佐平役の大きさを象徴するように、タイトルバックで大滝の名は、清水と連名でクレジットされた。寄席の舞台袖で、ふたりが仲睦まじくやりとりするシーンがある。清水の胸を借りながら、芝居しているように思えた。
 この放送から2年後、清水将夫は亡くなった(1975年10月5日死去、享年67)。大滝の俳優人生を支えた、先輩のひとりだった。

 宇野重吉、滝沢修、清水将夫、大滝秀治。みなそれぞれ、劇団民藝の旗揚げに馳せ参じ、終生かわらず在籍した。「劇団」の重みが、一冊の写文集から見えてくる。「脇役本」の名著である。