脇役本

増補Web版

呑んべえのうつわ 神山繁


東宝ミュージカル特別公演『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授(東宝、1984年8月)

 CSチャンネルの衛星劇場で最近、特集「フォーエバー・ヒデキ~西城秀樹出演作より~」をやっている。2020(令和2)年2月には、『土曜ドラマ 系列』(NHK総合、1993年5月29、6月5日放送)が再放送された。
 大手自動車会社と系列の照明部品メーカーを舞台に、熾烈な企業戦争に巻き込まれる兄弟を、三浦友和と西城秀樹がふんする。骨太な経済ドラマで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番第1楽章が物語を盛り上げる。27年前、リアルタイムで見てハマった。
 主演のふたりも良かったけれど、脇の顔ぶれが豪華だった。ふたりの父に佐藤慶、母に奈良岡朋子、三浦の妻に浅田美代子、メーカーの日和見な役員たちに川谷拓三と柳生博と鶴田忍、彼らを支配下に置く出向役員に細川俊之と近藤洋介、組合の委員長に佐藤B作、スパイの女秘書に五大路子、系列会社を操る自動車会社副社長に嵐圭史、その片腕に蟹江敬三、系列グループを束ねる長老に松村達雄……。
 そして、神山繁(こうやま・しげる/1929-2017)である。自動車業界の背後に控え、役員をメーカーに出向させる都市銀行の副頭取を演じた。腹の底を見せず、人を見下し、チクリと嫌味をにじませるタヌキっぷり。ステキだ。


『土曜ドラマ 系列』第2部「企業人の魂」(NHK総合、1993年6月5日放送)。左より佐藤慶、神山繁、蟹江敬三

 神山繁は、1929(昭和4)年、広島県呉の生まれ。海軍経理学校にいて、終戦を迎える。戦後しばらくは、悶々とした日々を過ごし、1952(昭和27)年、文学座の研究生となる。
 1963(昭和38)年の文学座分裂で退座したのちは、劇団雲、演劇集団 円に属した。舞台に、映画に、テレビに、ラジオにと、その活躍ぶりは記憶にあたらしい。旧作邦画・ドラマ好きには、好みの神山、思い出の繁が、きっとあるはずだ。
 神山が晩年、自分のエッセイ集を自費出版したことは、拙著『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)のあとがきに書いた。以下の8冊である。

『呑んべえのうつわ』(湯川書房、2004年5月20日発行)
『喰いしん坊のうつわ』(湯川書房、2006年1月18日発行)
『物と遊ぶ』(湯川書房、2008年1月16日発行)
『佇む』(創文社、2010年4月16日発行)
『異国のひとびと』(創文社、2012年1月16日発行)
『旨い物たべあるき』(創文社、2013年6月21日発行)
『続 旨い物たべあるき』(創文社、2014年6月22日発行)
『住まう』(未詳)

 『住まう』は持っていないけれど、あとの7冊はすべて、おなじ判型、函入りの上製本である。印刷、製本、デザイン、写真、レイアウト、紙にいたるまで、贅をつくしている。瀟洒にして、どれも美しい。
 神山はエッセイの名手で、その洒脱な文章は、どれも、これも、よい。どの本を紹介するか悩ましいので、記念すべき一冊目『呑んべえのうつわ』を取り上げたい。
 呑んべえ、つまり神山が蒐めた酒器の魅力と蒐集譚を、カラー写真(野中昭夫撮影)を添えて、綴っていく。片口、徳利、盃、ぐい呑み、いろいろある。文章もいいけれど、うつわにも魅せられる。

 あまり無茶呑みをしなかったおかげで、酒量こそ減りましたが、七十五才の現在迄、酒を嗜み、うつわを楽しみ、人生を楽しませてもらいました。
 愛用してきたうつわ達を披露することにしたのは、先人達が大事にしてきて、一時我が家で寓居しているにすぎないものを後の人に伝える――そんなことをぼつぼつ考えなければならない年齢にきたということと、長年にわたり楽しませてもらったことへの感謝の気持の二つの理由によるものです。
(神山繁「呑んべえのうつわ」『呑んべえのうつわ』湯川書房、2004年5月)


『呑んべえのうつわ』(湯川書房、2004年5月20日発行)

 本づくりを担った湯川書房は、限定・特装本で定評があり、いまなおファンが多い。京都市左京区嵯峨鳥居本北代町に暮らした神山は、小児科医で陶芸家の加藤静允を介して、湯川書房の湯川成一と出会う。これが、本づくりの縁となる(湯川の死去により、『佇む』からは、印刷を手がけた神戸の創文社が発行元となる)。
 『呑んべえのうつわ』は、函に和紙を、表紙に布をあしらった(加川邦章装本)。呑んべえがこよなく愛すうつわをお披露目する、まさに最高の舞台である。
 若いころから、骨董への造詣が深かった。教えを受けた人物に、青山二郎や小林秀雄、白洲正子がいる。白洲に連れられ、鎌倉・雪の下に暮らす小林を訪ねたエピソードがある。

 先生はその晩、斑唐津の盃で飲んでいらっしゃいました。
 卓の上でお酒を注いで口元へ持っていってキュっと飲む、又下へ置いて、刷毛目の徳利から注いで口元へ――その度に私の首は下から上へ、又下へと忙しく動くのでした。
 飲みっぷりもお見事でしたが、その盃は実に美しく、「ちょっと拝見させていただけませんか」と敢てそのリズムを崩しておたのみしたほどです。
 なみなみと酒を湛えて輝やいているその斑の釉薬の美しさは、今迄見たどの斑唐津にもない美しさです。しかも毎日のように酒をあびているのでしょう、トロトロの味で、何ともお酒がうまそうです。
(「斑唐津の盃」前掲書)


「斑唐津の盃」(前掲書)

 小林秀雄が亡くなったのち、この盃は、神山の手元にきた。大切なものなので、そうおいそれとは使わない。大事なとき、そっと「恩師」とつぶやいて、酒を呑む。
 神山のコレクションは、一級品ぞろいだった。かなりの目利きで、うんちくもある。蒐集品自慢に違いないけれど、読んでいて嫌な気はしない。文章がうまい。
 白洲正子とのやりとりが、おもしろい。あるとき神山は、懇意にしている老舗骨董屋の主のつぶやきを、耳にした。「法隆寺の金銅の鈴を手放してもいいかな」。その鈴は、前々から白洲が欲しがっていた逸品。「主の気が変わらぬうちに」と神山は、すぐに電話した。
 あっという間に、白洲が店に来た。主の機嫌がよかったのか、神山には、秘蔵の黄瀬戸の盃(小皿)を譲ってくれた。少し疵があって、繕いがある。完品、美品なら、神山の買える値段ではない。
 そのやりとりを、白洲は見逃さない。「それも、あたし欲しい」。神山としては譲れない。すったもんだのあげく、神山の執念に押し切られる。

 ともあれ法隆寺の鈴を手に入れた白洲さんはご満悦で、帰りに赤坂の“口悦”をご馳走して下さいました。
 さて、“口悦”で酒が出てこれからという時「ちょっと、あれ!出しなさいよ!」と宣(のたも)うたのでした。
 この黄瀬戸の小皿は平盃としても使えるので、酒を飲んでお別れにするのかなと思い、「また取り上げちゃあいけませんよ!」と断(ことわり)を入れてから食卓へ出しました。
 途端に醤油をサッと注ぎ、ワサビを入れてかきまわし、じっと見つめた後おもむろにお酒を一口ふくみ、それからやおら刺身をとり、皿の中で乱暴にかきまわしてから――「フン! これは所詮御手塩ね!あーさっぱりした。もういいわ、早くしまいなさい!」――この一言をもって、黄瀬戸争奪戦の一幕は終りを告げたのでした。
(「黄瀬戸の盃」前掲書)


「黄瀬戸の盃」(前掲書)

 赤坂の「口悦」は、有名な高級料亭である。おもしろおかしく書いているけれど、物欲というか、ユーモアというか、白洲正子すごい。
 ぼくの架蔵する『呑んべえのうつわ』は、石神井書林の目録で買った。神山から、俳優の寺田農に宛てた署名本である。2冊目の『喰いしん坊のうつわ』も、おなじ目録で買った。これも寺田農の旧蔵で、添えられたあいさつ状に、直筆でこう一文がしたためられている。

阿呆が浮かれてまた書きました
もういいよ! なんて言わないで
読んでみて下さい
           神山繁
寺田農様 


『喰いしん坊のうつわ』(湯川書房、2006年1月)と添え状

 寺田の父は、画家の寺田政明である。芝居だけでなく、美術をとおしての交遊が、ふたりにあったのだろう。
 果たして寺田は、「もういいよ!」なんて言って、読まなかったのか。ちゃんと読んだのか。みのりのみが知る。

 神山繁のコレクションは、骨董業界で有名だった。雑誌にみずから寄稿したり、専門誌で特集が組まれたこともある。
 2016(平成28)年には、白洲正子と小林秀雄の孫である白洲信哉の雑誌『目の眼』(目の眼)で特集が組まれた。題して「文人俳優・神山繁コレクション 呑んべえの酒器とうつわ」。『呑んべえのうつわ』でも取り上げられた「粉引の徳利(破偈)」と、酒器にご満悦の姿が、表紙を飾った。


『目の眼』2016年2月号

 本特集では、『呑んべえのうつわ』の文章と秘蔵のコレクションの多くが紹介されている。この号を読むと、神山の文才、呑んべえのうつわのなんたるかが、よくわかる。
 特集の最後に「戯言―ザレゴト―」として、神山の文章がある。酒に溺れ、名品に溺れた、至福のつれづれ。煩悩、所有欲、魔道、物を視る眼、物の真贋、人の真贋、魅惑的な世界、人の出逢い、物との別れ、悲しみ……。愛すべきうつわへの心を、軽妙に綴っていく。
 そのころ神山は、自身のコレクションを、心ある人たち、先輩、後輩、友人たちに、快く譲っていた。墓場まで持っていくことも、博物館に寄贈することも、よしとしなかった。『呑んべえのうつわ』にも、《先人達が大事にしてきて、一時我が家で寓居しているにすぎないものを後の人に伝える》とある。

 ただ天国か地獄か知らないが、あちらの世で、チビリ、チビリと酒でも飲みながら、後輩どもが、あれこれ狂いまくるさまを、ニヤニヤ笑って眺めていられたら、どんなにか楽しいことだろう!
 さて、あちらにはどんな酒器が用意されてあるのかな!
(神山繁「戯言―ザレゴト―」『目の眼』2016年2月号「特集 文人俳優・神山繁コレクション 呑んべえの酒器とうつわ」)


(前掲書)

 2017年1月3日、神山繁死去。享年87。
 東京の日本橋に、神山が愛した老舗の骨董品店がある。「神山繁さん愛蔵の“呑んべえのうつわ”はありませんか」。店の主に、そう訊ねる勇気はない。

 

詩と、稽古場と、 北村英三

 ここのところ“脇役盤”に手を出している。好きなバイプレーヤーが吹きこんだレコード、CDの類いである。それなりに蒐めたら、本や雑誌とは違った世界が見えてくる。そこで番外篇として、関西で活躍したバイプレーヤーのCDを紹介したい。『北村英三の世界 詩人たちの楽しい遍歴』(劇団くるみ座、発行年不詳)である。
 北村英三(きたむら・えいぞう/1922~1997)は、関西の新劇界を代表する演出家であり、俳優だった。晩年は「喜多村英三」の名で活躍した。
 このCDは、北村が心血をそそいだ「劇団くるみ座」(京都市左京区)が出した。1996(平成8)年11月7~9日、くるみ座の稽古場で上演された「詩人たちの楽しい遍歴」のライブ録音で、北村の没後、CD化された(CD発行年は不詳)。



CD『北村英三の世界 詩人たちの楽しい遍歴』(劇団くるみ座、発行年不詳)

 旧作邦画ファンには、東映京都のやくざ映画、お色気モノでおなじみだろう。その魅力を、的確に、愛情こめて書いた人に、漫画家の杉作J太郎がいる。

 『仁義なき戦い 広島死闘篇』のラスト、北大路欣也を追い詰める警察署長役や『五月みどりのかまきり夫人の告白』の化粧品会社社長、『序の舞』で再び名取裕子を佐藤慶に抱かせたおっさん役などで、いやらしくも「どしつこい」粘り気を露骨に発揮。粘り気、ドしつこさもギトギトに煮詰めれば爽快に転じるというマジックを、京都撮影所製作の映画の数々で展開した。ハートウォームな傑作『まむしの兄弟 傷害恐喝十八犯』では、殿山泰司と共に元祖まむしの兄弟役で事実上主演した。
(杉作J太郎「北村英三(喜多村英三)」『ボンクラ映画魂 完全版 燃える男優(オトコ)列伝』徳間書店、2016年2月)

 言い得て妙な人物評である。セレクトした作品からして、粒ぞろいだ。
 牧口雄二監督『五月みどりのかまきり夫人の告白』(東映京都、1975年)は、傑作だった。ヴィナス化粧品社長の北村と、副社長の名和宏が“魅”せるアホらしさといったら、もう……。


『五月みどりのかまきり夫人の告白』(東映京都、1975年)。左より、白川みどり、名和宏、北村英三

 テレビ時代劇の仕事も忘れられない。悪家老、悪徳商人、ゲスなやくざ、居酒屋のおやじ、武骨な職人、どケチな金貸し、虐げられる農民、騙される町民、利用される武士、甲斐性のない下っ端役人、なんでもござれ。
 最晩年の代表作に、『御家人斬九郎』(フジテレビ)がある。松平残九郎(渡辺謙)行きつけの居酒屋「東八」の主人、東八役だった。
 ちょっと前に、BSフジで再放送された第2シリーズ第1話「初春 火の用心」(1997年1月8日放送)を見た。「残九(ざんく)の旦那、このごろ、お屋敷に帰ってないんじゃ?」。東八が問う。「母上(岸田今日子)とちょっとな」。残九郎が言う。「ええ年して……」とあきれ顔の東八。こういうのをやらせると、北村はうまい。


『御家人斬九郎』第2シリーズ第1話「初春 火の用心」(フジテレビ、1997年1月8日放送)。渡辺謙(左)、北村英三(右)

 『御家人斬九郎』が、北村にとって、最後のテレビ時代劇となった。

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 大正11(1922)年、東京生まれ。本名は北村英蔵。
 京都大学文学部国文科在学中に、学内の「劇研」で演劇活動を始める。そこで、女優の毛利菊枝と出会う。毛利に、俳優としての素質を見抜かれたものの、それからまもなく学徒出陣となった。
 戦争が終ってまもないある日、毛利の自宅を、北村が訪ねた。「田舎の学校の先生にでもなろうと思う」と北村が言う。「俳優になる気はないのか」と毛利が問う。「観る楽しみがなくなるから」。それが返事だった。
 このエピソードは、宮口精二が雑誌『俳優館』の座談会に、ふたりを招いたとき、話題になった。


座談会「安楽椅子 毛利菊枝・北村英三・宮口精二」『俳優館』第37号(俳優館、1982年2月)

 1946(昭和21)年、毛利は「劇団くるみ座」を立ち上げる。北村は、JOBK(現・NHK大阪放送局)の番組に出ながら、くるみ座に参加する。劇団には当時、沼田曜一もいた。
 くるみ座に関わりながら、おもにラジオの世界で活躍する。長沖一のラジオドラマ『お父さんはお人好し』(NHK、1954~65年)では、花菱アチャコと浪花千栄子を相手に、藤本家の長男・米太郎(まいたろう)役で人気を博す。在阪各局のテレビドラマにも、草創期から出演した。 
 1961(昭和36)年6月、劇団創立15周年を記念にして、ソポクレス作『オイディプス王』を上演。北村は演出を手がけるとともに、オイディプス王を演じた。ギリシャ劇の上演は、当時の新劇界では画期的な企画となる。


『くるみ座創立15周年記念公演 オイディプス王』パンフレツト(劇団くるみ座、1961年6月)

 その後もくるみ座は、京都を拠点に活動を続けた。北村は毛利菊枝と二人三脚で、それを支え続ける。京都文化人や関西の新劇ファンを中心に、劇団への評価と支持は厚かった。


くるみ座の人たち。前列左から3人目に毛利菊枝、その左後に北村英三、最後列奥に栗塚旭(前掲書)

 1996年11月に上演された「詩人たちの楽しい遍歴」は、劇団創立から半世紀の節目にあたる。北村にとって記念すべき公演はライブで録音され、こうしてCDになった。
 CDには16ページの解説書がつく。表紙(上記掲載)は、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(劇団くるみ座 第54回公演、京都府立文化芸術会館、1979年)である。
 解説書には、くるみ座の舞台写真と、北村が演じた役のセリフがおさめられた。北村には、自伝やエッセイといった単著が見当たらない。この解説書が貴重な文献、いわば「脇役本」になっている。


CD『北村英三の世界 詩人たちの楽しい遍歴』解説書

 CDを編集した松村康世は、くるみ座の女優で、北村の愛弟子にあたる。松村も北村といっしょに、京都のテレビ時代劇によく出ていた。
 解説書の冒頭に、くるみ座代表(当時)の中口恵美子が、一文を寄せた。

山が好きで、スキーが好きで、芭蕉が好きで、一休が好きで、仏像が好きで、汽車の旅が好きで、お酒が好きで、そして、何よりも芝居が好きで、無欲の人でした。
心残りがあるとすれば、「マクベス」を演じる機会を逸したことでしょうか。そして、幕は下りた筈でしたが……。ふたたびのカーテンコールに、「ひっぱり出すんじゃないよ」と、舞台袖で照れていることでしょう。
(中口恵美子『北村英三の世界 詩人たちの楽しい遍歴』)

 「詩人たちの楽しい遍歴」は、どんな「北村英三の世界」だったのか。CDを聴いてみる。
 ところは、くるみ座の稽古場。ボッケリーニの『メヌエット』が流れ、拍手がわく。北村が語りだす。《みなさん今夜は静かです 薬鑵(やかん)の音がしています 僕は女を想ってる 僕には女がないのです》(中原中也『冬の夜』)。
 この公演は、三好達治の『詩を読む人のために』(岩波文庫、1991年1月/初版は1952年6月、至文堂)がきっかけだった。《詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だからであります。既に彼は詩人でありますから、独りで合点し独りで納得することを喜ぶでしょう》。北村は、三好のこの「前書き」に導かれた。
 映画やテレビ時代劇に親しんだ身には、詩を朗読する北村に、いい意味で違和感をおぼえる。その違和感は、長くは続かない。『冬の夜』を読み終え、客席にこう語りはじめた。

 わたくし実は、ただいま、あがっております。「ええ年して何あがっとんねん」と言われると、まあその通りかもしれませんけれども、ラジオで昔、これは昔のことですが、録音をしたことがあるんですけども、録音ですら、出だしはよう間違える。途中でもね……。ですから、今日のようなこの生放送というやつは、こういう舞台で何かをやるとか、人の前で何かをやるとかいう人間にとっては、まあなんと申しましょうか、わかっていただけないような緊張感という……。自分で緊張しろとか、緊張しまいとか、そんなこといっさい思わないんですが、やっぱりどんな人間でも、なんかこの、なんとか神経というのがあるんですね。それがドキドキとさせるようになります。

 ああ、北村英三の声、語り口だ。ガラの悪い河内弁ではなく、はんなりとした大阪弁が心地いい。
 三好達治に勇気づけられた北村は、ひとりで合点し、ひとりで納得して、我流に、楽しげに、詩を読む。朗読したのは、以下の通り。

冬の夜 中原中也
千曲川旅情の歌 島崎藤村
わすれなぐさ ヰルヘルム・アレント
秋 オイゲン・クロアサン
落葉 ボオル・ヴェルレエヌ
落葉松 北原白秋
夕ぐれの時はよい時 堀口大学
帰路 伊東静雄
夜の停留所 伊東静雄
朝の歌 中原中也
骨 中原中也

 関西新劇界の大ベテラン、その語り芸が堪能できる。だからといって、ただ詩を読むだけではない。あいま、あいまのおしゃべりが、また楽しい。
 「中也の『朝の歌』は二日酔いの詩(うた)」などと、自己流に解釈して、客席と共有する。詩への、語りへの、ことばへのこだわりと愛が、稽古場に響く。
「詩人たちの楽しい遍歴」の4か月後、1997(平成9)年3月7日、北村英三は亡くなった。享年74。CDを制作した松井克介が、解説書にあとがきを書いている。

くるみ座を経て、それぞれの道を歩みだした私たちにとって、厳しさと優しさを合わせ持つ父親のような存在は、青春時代の思い出であり、励みでありました。常々先生の声を残したいと思っていた所、その機会を得ることが出来ました。先生にとって、この公演が最後の舞台となってしまいました。先生のお人柄、あの独得の話し方を思い出して頂ければ幸いです。そして、研究所や劇団を巣立った多くの人たちの心にいつまでも残ることを祈るばかりです。
(松井克介「あとがき」『北村英三の世界 詩人たちの楽しい遍歴』)


劇団くるみ座 第57回公演『管理人』(京都府立文化芸術会館、1982年/『北村英三の世界 詩人たちの楽しい遍歴』)

 稽古場で録音された「詩人たちの楽しい遍歴」には、うっすらと、外を走る車の音が入っている。
 劇団くるみ座は、京都市左京区田中飛鳥井町にあった。叡山電車の元田中駅の近くである。そこから歩いて15分ほどの大学に、ぼくは通っていた。北村が、詩人たちの楽しい遍歴をたどっていたとき、2年生だった。
 くるみ座の前は、よく歩いた。でも、意識したことはなかった。北村英三は好きだったけれど、新劇俳優としては、あまりよく知らなかった。
 劇団くるみ座は、2007(平成19)年3月に解散する。その終焉を見届けた代表の中口恵美子は、2012(平成24)年1月に亡くなった。劇団の資料と歴史は、その多くが、大阪大学総合学術博物館に寄託された。叡電の元田中駅近くの稽古場は、もうない。


劇団くるみ座 第59回公演『風景』稽古風景(同公演パンフ、1984年)。北村英三(左)、松村康世(右)