脇役本

増補Web版

カトレアの女 原知佐子


『カトレア』N0.30(コーセー化粧品本舗、1961年1月)

 1970年代の刑事ドラマには、「戦争と犯罪」にまつわる話がよく出てくる。当時を知る世代が視聴者に多く、リアルなものとして受け止められたのだろう。
 たとえば、『非情のライセンス』第2シリーズ27回「兇悪の炎」(NET、1975年4月3日放送)。14歳の光子(石川えり子)は、母の芳江(原知佐子)が貯めた20万円を、歌手のジョージ・川井(立花直樹)に貢いでしまう。返却を拒む川井とトラブルになり、はずみで現場でボヤが起きる。誤って川井を刺し、重傷を負わせた芳江は、そのまま姿を消す。


『非情のライセンス』第2シリーズ27回「兇悪の炎」(NET、1975年4月3日放送)、斉藤芳江役の原知佐子

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、芳江は両親を失った。光子が貢いだ20万円は、いまも見つからない両親の遺骨を探すためのもの。広島の原爆で両親を亡くし、みずからも被ばくした会田刑事(天知茂)は、光子とともに芳江の行方を追う。
 芳江は、放心状態で街を彷徨っていた。焚き火を前に、あの夜の記憶がよみがえり、両親の幻影があらわれる。

 荒川区の工事現場で、空襲の犠牲者と思われる白骨遺体が二体、発見された。一報を聞いた会田と光子が駆けつけると、そこに芳江の姿が……。
「このお骨は両親のものと思って、私が供養させてもらいます。そう、空襲で死んだ人に、肉親も他人もないんです。いいえ、みんな他人じゃないんです」
 芳江は、遺体のそばにあった遺品の水筒に水をくみ、骨にかける。
「さぞ、お水が飲みたかったでしょうね。あの時は熱のために水筒の水まで干上がったくらいだから」

 深い祈りをささげる芳江。「お母さんをお願いします」と光子。その言葉に背中を押された会田が、芳江に近づく。


左は会田刑事役の天知茂

 主人公・会田刑事の出自もあって、『非情のライセンス』には「戦争と犯罪」を描いたエピソードが少なくない。東京大空襲から30年の節目に放送された「兇悪の炎」は、そのなかでも秀でたものとなる。
 なんといっても、芳江を演じた原知佐子(はら・ちさこ/1936~2020)の名演に尽きる。いじわる、気性が荒い、上昇志向、したたか、嫉妬深い、世間知らず……。女傑、悪女、小悪魔なキャラクターだけでなく、思いつめると歯止めがきかなくなる、不幸を一身に背負った役も素晴らしかった。
 考えてみれば、芳江の役と原本人とは、それほど年が変わらない。演じた女優もまた、戦争を知る世代であった。

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 1936(昭和11)年、高知県生まれ。本名、田原佐知子。女優にあこがれ、タカラジェンヌと松竹入りを目ざしたものの挫折、京都で大学生活を送った。その在学中に新東宝の「第4期スターレット」に合格、大学をやめ、映画女優の道を歩む。新東宝、東宝をへてフリーとなり、そのあいだに劇団青俳にいた時代もある。
 女優としては、ヒロインの三番手、四番手で存在感を示す、バイプレーヤーとして知られた。田中絹代がメガホンをとった『女ばかりの夜』(東宝、1961年)、下平堯二監督『テレビッ子・マンガッ子のしつけ』(学研映画、1972年)など、主演作はある。後者は、30分ほどの教育短篇映画で、テレビとマンガにうつつをぬかす息子(梶正昭)に頭を抱える、平凡な母親を好演した。


『テレビッ子・マンガッ子のしつけ』(学研映画、1972年)。左よりタケシ役の梶正昭、圭子役の原知佐子、家庭教師・浩一役の石川博(同作解説書より)

 名画座や上映イベントのトークショーに登壇し、さばけた人柄で客席を魅了するなど、いまでも根強い人気を誇る。戦後デビューした女優には、あまり興味がないけれど、原知佐子は好きだった。本があれば欲しいな、と探したことがある。
 知るかぎりでは、原知佐子の自伝なり、エッセイなりの単著は出ていない。愛する夫、実相寺昭雄の本はたくさんあるのに……。『映画論叢』(国書刊行会)20号(2009年3月)、22号(同11月)、24号(2010年7月)に掲載された聞き書き「原知佐子の女優人生」は、その意味でも貴重な記録となった。


『映画論叢』(国書刊行会)20号(2009年3月)、22号(同11月)、24号(2010年7月)

 原知佐子にまつわる新聞、雑誌の記事は、いろいろとある。
 半年ほど前、三省堂書店池袋本店の「古本まつり」(2020年2月)で、ある雑誌を見つけた。コーセー化粧品が月刊で出していたPR誌『カトレア』である。無造作に積まれたバックナンバーをあさっていると、原知佐子がいた。


『カトレア』N0.30(コーセー化粧品本舗、1961年1月)

 その第30号、おめでたい新年号の表紙は、有馬稲子がモデルをつとめている。ところがページをめくると、主役を喰わんとばかりに原知佐子が登場する。
 題して「フォト・ミュージカル'61*あなたがレディになるための九章」。出演は東宝専属時代の原、文と撮影は『カトレア』編集室、演出を劇団四季の浅利慶太が手がけている。こういう記事との出会いはうれしい。



(前掲書)

 そもそも、どういう記事なのか。1961(昭和36)年を迎えるにあたって、レディになるための9つの心得が挙げられている。伊藤整の大ベストセラー『女性に関する十二章』(中央公論社、1954年)へのオマージュだろう。その「九章」は以下のとおり。

  1. レディたるもの、すべからくコドクたるべし
  2. レディたるもの、すべからくヒステリーであるべし
  3. レディたるもの、すべからくケチになるべし
  4. レディたるもの、すべからくナミダを流すべし
  5. レディたるもの、すべからくヤキモチをやくべし
  6. レディたるもの、すべからくウソをつくべし
  7. レディたるもの、すべからくショックを与えるべし
  8. レディたるもの、すべからくドリンクすべし
  9. レディたるもの、すべからくオシャベリであるべし

 それぞれの心得にあわせて、モデルの原が、さまざまな表情を見せる。本人の文章やコメントはなく、サイレントフィルムのようにカットだけで見せる。それがとても魅力的だ。



(前掲書)

 浅利慶太の推薦があったのか、どういう経緯で決まったのか、よくわからない。表紙モデルの有馬稲子がこれを見たとして、どう感じたのだろう。
 この翌年(1962年)、原は東宝を辞めて、フリーになった。先述した『映画論叢』の聞き書きで、こう語っている。

東宝を辞めたのは、専属契約がイヤだったってだけ。専属じゃなきゃ砧の撮影所はダメだと言うんで。縛られるのがイヤなんです。もう次の年のカレンダーを撮ってたんですが……。これが新珠三千代さんとのツーショットだったんで、彼女は撮り直しをしなきゃならない。謝りに行きました……いま思うと新珠さんと同格扱いってことは、会社は私に期待してたんですね。辞めなきゃもっとスタアでしたね。損な性格ですね。つくづく……。
(「原知佐子の女優人生②『ジャンヌ・モロ-になれ』と堀川弘通監督に言われて――新東宝時代――」『映画論叢』22号)

 『カトレア』の「フォト・ミュージカル」を見るかぎり、新珠三千代と並んでも遜色のない存在感があった。この仕事は、新年を迎える原にとって、励みになったように思う。
 手元にもう一冊、『カトレア』がある。第55号(1963年2月)で、司葉子が表紙モデルをつとめた。


『カトレア』N0.55(コーセー化粧品本舗、1963年2月)

 第30号の有馬稲子とおなじく、ここでも原は、主役を喰ってしまう野心的な企画に挑戦した。題して「雪の精(スノー・フェアリー)の消えゆく愛」。出演は原知佐子と小野勝司、撮影が中村正也、文と構成を『カトレア』編集室が手がけた。



(前掲書)

 2年前の「あなたがレディになるための九章」とはうってかわり、今回は悲劇のヒロイン、雪の精(スノー・フェアリー)である。全8ページの誌面にはそれぞれ、印象的な詩が添えられる。たとえば――

わたしは雪の精(スノー・フェアリー)
春はわたしを立ち去らせる
人であり
女であることのおわり
わたしの愛も
それが強ければ強いほど
むなしく終って行く


「ジュテーム」
それは
死……
(前掲書)

  詩も、写真も、モデルも、レイアウトも、どれもいい。化粧品のPR誌といえば、資生堂の『花椿』が思い浮かぶけれど、コーセーもこんなに素敵なPR誌を出していた。
 雪の精(スノー・フェアリー)にも、終わりがくる。極寒の雪山、カクテルドレスを身にまとった原が、男(小野勝司)の肩で戯れている。

わたしの分身たちは
やがて
とけてゆく……
わたしも白く染まって
とけてゆく……
高い空の
白い雲の上で
神々の国で
野に放たれたウサギのように
蹴り
跳ね
飛び
うぶ毛のベッドによこたわる


わたしの中の
「人」が終ったから
愛することが絶えたから
(前掲書)

 
(前掲書)

 日活映画好きや「サユリスト」が見たら、あの作品を想うかもしれない。中平康監督『泥だらけの純情』(日活、1963年)、次郎(浜田光夫)と真美(吉永小百合)の死の道行である。『カトレア』は、そのパクリかな、と思った。ところが、映画の封切りは1963(昭和38)年2月10日なので、『カトレア』(2月1日発行)のほうが早い。


中平康監督『泥だらけの純情』(日活、1963年)。次郎役の浜田光夫と樺島真美役の吉永小百合

 「雪の精(スノー・フェアリー)の消えゆく愛」のラストシーンに、こんなエピソードが残されている。掲載号の編集後記にほんの小さく、みじかい文章がある。筆名は(平)とある。

東京から車で8時間、チエンをまいて雪深い志賀高原に入った。ふりしきる雪の中で、背をむき出したカクテルドレスで長時間の撮影に堪えた原知佐子さんの役者根性は見事。またカメラマン中村正也氏の寒さを意に介さぬ一徹な仕事ぶりも見ものだった。初めて原さんを撮った正也氏いわく「いい感をもった女優さんだね」かくて傑作が生まれた次第。(平)


(前掲書・部分拡大)

 新珠三千代に詫びを入れ、フリーの道を選んだだけの気概がある。五社協定全盛のころ、「縛られるのがイヤ」とざっくばらんに言ってはいるものの、そうとうな覚悟があってのこと。一本きちんと筋のとおった人だったことがわかる。
 東宝を辞めてフリーになったことは、当時のスポーツ新聞に取り上げられた。終生変わることのなかった、さばけた人柄を感じさせるコメントがある。

この歳で主役は無理でしょうからこれからはバイプレーヤーをめざします。いってみれば北林谷栄さんの線ですね。でも、こんなオバチャンでも、使ってくれる会社があれば、女臭がプンプンするような役、それができれば本望です。
(「タレント・ショート・ショート『原知佐子、六年目に“浮気”フリーに張り切る』」1962年11月9日付『スポーツタイムズ』東京タイムズ)


『スポーツタイムズ』(東京タイムズ、1962年11月9日付)

 当時まだ26歳。女優としての覚悟のあらわれか。それからの映画、テレビでの活躍っぷり、それこそ「女臭がプンプンするような役」は、枚挙にいとまがない。

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 2020(令和2)年1月19日死去、享年84。
 映画雑誌、インターネット、SNS上には、かなりの数の追悼文、惜しむ声があふれた。
 名画座のシネマヴェーラ渋谷では、特集「折れない花 追悼・原知佐子」が企画された。今年の5月30日から6月5日まで開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期された。
 来年(2021年)には、原知佐子の新作(遺作)の公開も控えている。山本起也脚本・監督『のさりの島』(北白川派、2020年)。原は、「オレオレ詐欺」を続ける若い男(藤原季節)と同居する艶子を演じる。準主役である。
 お楽しみはこの先に、ということで心待ちにしている。


山本起也脚本・監督『のさりの島』(北白川派、2020年)。艶子役の原知佐子(同映画チラシより)
https://www.nosarinoshima.com/

 

夏の影。昼のラヂオ 宮口精二


岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』で東郷茂徳を演じた宮口精二(『日本のいちばん長い日』パンフレット、東宝事業・開発部出版、1967年8月)


 先月出した『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)に、徳川夢声の『連鎖反應 ヒロシマ・ユモレスク』(初出『オール讀物』1950年3月号、文藝春秋新社)を取り上げた。被ばく直後の広島を舞台にした、ユーモア小説である。


徳川夢声『ユーモア小説全集6 連鎖反應 ヒロシマ・ユモレスク』(東成社、1952年9月)、濱田研吾『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)

 2020(令和2)年8月6日。75年の節目を迎えた広島の街を、夢声の小説と、拙著と、被ばく前の広島の地図を手に、歩くつもりだった。ところが、疫病の猛威はとどまるところをしらず、遠く離れた街で“あの日”を想うことにした。
 せめて8月6日にちなんだ作品を、と横浜の放送ライブラリーで、一本のラジオドラマを聴いた。梶山季之作、文学座ユニット出演による『ABC劇場 放送劇 ヒロシマの霧』(朝日放送、1958年3月20日放送)である。
 原爆投下から7年後の8月6日夜、広島の街で、幽霊騒ぎが起きる。真相を追う新聞記者の深見(神山繁)に、「死の影」と名乗る男(宮口精二)が声をかけた。「あなたを、私たちの大会に招待します」。怪しむ深見に、「死の影」が静かに語り出す――。
 広島平和記念資料館に、「人影の石」と名づけられた展示品がある。爆心地から260mの紙屋町、住友銀行広島支店の入口階段を移設したもので、黒い影が焼きつく。午前8時15分、開店前に腰をかけていたであろう人間の影、と語りつがれている。


広島平和記念資料館蔵「人影の石」。出典「広島平和記念資料館」http://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=ItemView&item_id=78&lang=jpn

 深見が出会った「死の影」は、原爆の熱線で絶命したであろう「人影の石」をモデルにしている。怪談じみたストーリーながら、それを演じる宮口精二(みやぐち・せいじ/1913-1985)の語り口は、深い悲しみをたたえていた。
 深見は「死の影」に案内され、その夜の大会を目の当たりにする。原爆により成仏できない人たちが、原爆は誰の責任か、議論をたたかわせる。「エノラ・ゲイ」の機長か、米軍参謀本部の長官か、原爆を生んだ科学者か、アメリカ大統領か、戦争を推し進めた東条英機(劇中では「南条英機」)か。
 若いころ、広島に暮らした作家の梶山季之は、原爆文学に深く傾倒した。『ヒロシマの霧』は、その思索のなかで書かれた。同年3月27日には地元のラジオ中国で放送され、高い評価を得た。
 神山繁、内田稔、稲垣昭三ら、文学座の当時若手たちの語り口がいい。座のベテランである宮口精二が、その若々しき声を束ねる。その貫禄と深み。舞台に、映画に、テレビにと幅広かったけれど、ラジオドラマでもおおいに活躍した。


新日本放送(現・毎日放送)『ベーブルース物語』収録風景。左から北沢彪、戸川弓子、松本克平、新日本放送アナウンサー、恩田清二郎、宮口精二、田中明夫(1952年11月11日、東京・番町スタジオ)。(『俳優館』第17号、俳優館、1975年3月)

 『放送劇 ヒロシマの霧』。よきものを聴いた。

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 学生時代から、ずっと変わらず好きな俳優は多い。なかでも宮口精二は、我が月日とともに愛着が増し、沁みいるように輝きを増しつづける俳優のひとりだ。
 たとえば、『男はつらいよ 柴又慕情』(松竹、1972年)および『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(同、1974年)のヒロイン、高見歌子(吉永小百合)の父親にして、作家の高見修吉がいる。口ベタな男の、娘への情愛に揺れ動くこの役ひとつとってみても、この俳優の持ち味がひしと伝わってくる。


『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(松竹、1974年)。左より渥美清の車寅次郎、吉永小百合の歌子、宮口精二の高見

 “俳優 宮口精二”だけで、ここまで自分のなかに魅力が増したとも思えない。“雑誌編集長 宮口精二”の存在なくして、これほどの愛着は抱けなかった。
 文学座をやめ、東宝演劇部に入った宮口は、1970(昭和45)年9月、総合演劇雑誌『俳優館』(俳優館)を創刊した。コンセプトは「役者がつくる役者の雑誌」。タイトルは、松竹大船撮影所内の建物入口に掲げられていた扁額(横長の額)に由来する。最晩年に書いた、宮口の文章がある。

旧式な羅針盤だけが頼りの、弧風な舵輪を操って、この素人編集人の「俳優館号」は今後どういう漂流を続けるのか甚だ心もとないが、まあ、私が舞台に立てる間はこの小冊子を出し続けてゆくつもりで(以下略)
(宮口精二「『俳優館』漂流記」『総合ジャーナリズム研究』第106号、社団法人東京社、1983年10月)


宮口精二「『俳優館』漂流記」(『総合ジャーナリズム研究』第106号、社団法人東京社、1983年10月)

 素人編集人。なかば本音であり、なかば謙遜であろう。求められて書いたにしろ、ジャーナリズムの専門誌に一文を寄せたからには、こころに期するもの、既存のジャーナリズムに挑戦する気持ちが、きっとあった。宮口精二は名優であり、名編集長であった。
 みずから「編集兼発行人」となった『俳優館』は、亡くなるまでに40冊(第40号)発行された。奇しくも最終号(第41号、1986年4月)は、「宮口精二追悼特集」であった。


『俳優館』全41冊(俳優館、1970年9月~86年4月)

 『俳優館』については、このブログでたびたび取り上げたし、もとになった『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)ではページを多く割いた。『映画論叢』第13号(国書刊行会、2005年12月)には、拙稿「宮口精二と『俳優館』」を総目次つきで寄せたし、先月上梓した『俳優と戦争と活字と』にも書いた。いちばん好きな雑誌、と書いていい。
 宮口が『俳優館』を創刊したのは、1937(昭和12)年の創立から在籍した文学座を、退座したあと。ただし雑誌の構想は、文学座時代からあった。

かつては、自分の所属する劇団だけに小さく固っていた新劇人も、最近は映画、テレビ、ラジオではお互に交流しあい、呉越同舟などというも愚かで、自分の劇団の仲間より、よその劇団の方に友人が多いなどという例もある。そうした新劇団の横のつながりも考えて「新劇俳優だけの雑誌」というものを創刊して「言いたいことを洗いざらい言う場所」を造りたいというのが私の願いです。
(「宮口精二のページ 1号編集長・その11」『文学座』第32号、文学座、1962年1月)


「宮口精二のページ 1号編集長・その11」部分拡大(『文学座』第32号、文学座、1962年1月)

 『俳優館』を創刊する8年前の文章だが、誌面の骨子は出来上がっている。《永く保存しておきたいような美本》(前掲書)を体裁とし、《取敢ず大体の編集プランのようなもの》(同)として、以下を挙げた。「ゲストのページ」「俳優の観た劇評」「俳優による俳優論」「劇評を斬る」「私の秘密」「私の自叙伝」「旅行記・稽古日記」「随筆・漫談(小説、劇作)」「詩・俳句・短歌欄」「安楽椅子(座談会)」。すでにもう、自分の雑誌が頭のなかに描かれている。
 名優であり名編集長、とさきほど書いた(宮口にはアマチュア野球のアンパイアという顔もある)。さらに加えるならば、「名エッセイスト」でもある。奇をてらうことなく、身辺雑記や回想録のたぐいを好んで書いた。脇役本の愛好家としては見逃せない、昭和の名脇役である。
 1963(昭和38)年、文学座に激震が走る。1月早々、中堅・若手を中心に29名の座員が脱退、その衝撃も癒えぬなか、宮口が師と仰ぐ久保田万太郎が急逝(5月6日)する。12月には三島由紀夫の「『喜びの琴』事件」に端を発し、14名の座員が脱退した。
 創立から関わる宮口にとって、こころ乱れる日々だったはずだ。


久保田万太郎追悼、文学座公演『雨空/萩すゝき』パンフレット(毎日ホール、1963年10月)。表紙は『雨空』の幸三(宮口精二)、お末(八木昌子)

 そうしたなか、座の機関誌『文学座通信』にて、宮口の連載がスタートした。演劇随想「はる・なつ・あき・ふゆの記」。創立以来の盟友にして俳優の龍岡晋が、同誌の編集兼発行人をつとめていた。
 ひっそりと連載されたもので、のちに単行本化されることはなかった。各回の見出しと掲載号を、以下に掲げる。

◎その一 再会(第60号、1964年6月)
◎その二 女の一生(第61号、1964年7月)
◎その三 代役(第62号、1964年8月)
◎その四 あの頃のこと(第63号、1964年9月)
◎その五 座内結婚(第64号、1964年10月)
◎その六 十一月十五日(第65号、1964年11・12月)
◎除夜詣(第66号、1965年1月)
◎私の病歴(第67号、1965年2月)
◎さようなら―文学座(第68号、1965年3月)
(第66号以降は「その七」「その八」「その九」の表記なし)



宮口精二演劇随想「はる・なつ・あき・ふゆの記」掲載『文学座通信』(文学座、1964~65年)

 全9回、いずれも各話完結で、これといった話題のつながりはない。それでも、全篇をつらぬく視点、匂いのようなものはある。俳優としての軌跡、そして、戦争との関わり。
 たとえば玉音放送のこと。1945(昭和20)年8月15日は、文学座の移動演劇先である石川県釡清水村(現・白山市釡清水町)にいた。連載第4回「あの頃のこと」で、その前後のことをふりかえる。

ラヂオは異様に緊迫した放送を始めた。我々はすべてを放ったらかして、雑音のガーガー鳴る古めかしいラヂオを取囲んだ。何を云っているのかしかとは判りかねたが、どうやら日本は戦争に負けたと云ふ陛下の玉音放送である。我々はその日の公演を中止して忙しく基地に帰った。その帰りの汽車の中の異様な雰囲気は今でもありありと眼に浮ぶ。それからの数日と云うもの、バタバタと鳥のたつ様に座の連中は先を争って東京へ帰って行った。最後にたった一人残ったのが私であった。家庭の事情で何としても東京へは帰りたくなかった。昼は近くの川や沼で釣をして気がまぎれるが、夜暗くなってひとり二十燭位の電灯の下にぽつんと坐っていると、何とも心細くなってしぜんと涙がぽろぽろ頬を伝った。
(「その四 あの頃のこと」)

 玉音放送の前後には、人それぞれの風景がある。釣りで気を紛らわせつつ、心細くなる宮口は、三十路を迎えたころだった。戦前、戦後を通じて出演した、久保田万太郎の『釣堀にて』を思わせる。


三越現代劇第1回公演、久保田万太郎作・演出『釣堀にて』(三越劇場、1951年2月)。左より滝沢修の直七、宮口精二の長谷川信夫、宮内順子の小をんな

 宮口精二(本名、宮口精次)は、1913(大正2)年、本所緑町(現・墨田区緑)に生まれた。
 男ばかり6人兄弟の次男で、父親は大工であった。一家に落とす戦争の影。連載第6回に、そのことを綴っている。見出しの「十一月十五日」は、宮口の誕生日にあたる。

私はその、六人の男ばかりの兄弟の次男坊であった。長兄は父の跡をついで大工となったが、若い頃は左翼運動にも首をつっ込んだりして、ただの職人として終りたくない志をもっていたが、今次の太平洋戦争で海軍々人として応召し、小笠原近海で戦死をした。三男は夭折し、四男も陸軍歩兵として出征、日支事変で山東省に於て戦死、五男も北満で戦い、終戦とともにシベリアに抑留され、のち、無事に帰還したが、数年後、忽焉(こつえん)として病に倒れた。六男は大正十二年九月一日の関東大震災の折、母の背中に負はれたまま不慮の死をとげている。
(「その六 十一月十五日」)

 上野二中の夜間部を卒業した宮口は、保険会社につとめた。
 そのあいだに舞台俳優への夢をふくらませ、1933(昭和8)年、築地座の研究生となった。その築地座が解散し、同座の俳優が多く参加するかたちで、文学座が生まれた。1937(昭和12)年のことである。
 ところが、俳優として座の中心を担うべき友田恭助が、上海にて戦死する。せっかく船出した文学座は否応もなく、戦争と向き合わざるを得なくなる。それは、宮口も同じこと。不安な日々のなか、文学座の一員として、芝居に邁進する。
 戦時下、敗戦、戦後の混乱と復興、高度経済成長時代と、宮口は忙しく演じつづけた。舞台、映画、ラジオ、テレビ。場は異なれど、つねに文学座のひと、であった。そんな宮口にも、別れのときがおとずれる。


文学座公演、福田恆存作・演出『明智光秀』(東横ホール、1957年8月)。左より岸田今日子の桔梗、杉村春子の皐月及び妖婆、宮口精二の斎藤内蔵之助、小池朝雄の安田作兵衛、青野平義の妻木主計之頭、八代目松本幸四郎の明智光秀(『追想 青野平義』「追想 青野平義」出版事務局、1975年12月)

三十年になろうとする、新劇俳優としての私の修業、いや、修業などはおこがましい。先生方、先輩、仲間の皆さんの温い手にすがって、今日までこうして来られた私はしあわせ者であった。苦しいこともあった。人しれず泣いたこともあった。私などは新劇俳優としての資格は何もなかったのに、ただ一途にこつこつとやって来たが故に、いっぱしの役者として通って(注・原文ママ)事を思えば、これまで後輩諸君に、偉そうなことを言って来たのが、今ははづかしいようなものである。

(「さようなら―文学座」)

  本来であれば、連載はもうすこしつづくはずだった。同号の「アトリエ通信」には、《宮口精二は、健康上の理由により座員の立場から退き、今後は座友の形で協力してゆくことになりました》とある。なぜ、やめたのか。当人は多くを語らず、随想の末尾にこう一句添えた。

老いたるかマスクの中のひとり言 精二
(前掲書)


『文学座通信』第68号(文学座、1965年3月)
 俳優としての遺言のような、さびしげな別れのことば。いっぽうでそれは、“俳優 宮口精二”にとって、再出発のことばでもあった。
 1965(昭和40)年、文学座を退座した宮口は、東宝演劇部に入る。新劇から商業演劇の世界へ飛び込み、ジャンルの垣根を越えて、さまざまなスター、名優と共演した。
 編集兼発行人として『俳優館』を世に問うのは、それから間もなく。「新劇俳優だけの雑誌」は、「役者がつくる役者の雑誌」として船出する。

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 1985(昭和60)年4月12日死去。享年71。浅草のはずれ、台東区今戸2丁目の「浄土宗 瑞泉寺」境内に、宮口精二のお墓がある。
 こぢんまりとした細長の墓石には、《俳優 宮口精二》と刻まれている。《宮口精二》は自筆で、《俳優》には東山千栄子が『俳優館』のために書いた題字が使われた。墓誌にはこうある。《季刊雑誌 俳優館 を発行 演劇界の裏面史をときおこした》。
 瑞泉寺からは「とうきょうスカイツリー」が見える。宮口が生まれた本所緑町は、スカイツリーの向うがわにある。


宮口精二墓(浄土宗 瑞泉寺)撮影/筆者


浄土宗 瑞泉寺(台東区今戸2丁目)撮影/筆者