脇役本

増補Web版

恩ちゃんの涙 恩田清二郎


恩田清二郎(『俳優館』第17号、1975年3月)

 隔週更新のつもりで始めた本ブログの更新が、昨秋から滞りがちに。前回の「老いの艶 伊志井寛」から、2か月ぶりにアップした。
 更新が滞ったのは、本を書いていたから。「戦後75年に合わせて、俳優と戦争をテーマに一冊書きませんか」。ちょうど1年前、前著『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)を出してくれた筑摩書房の青木真次さんから、相談を受けた。
 俳優はともかく、戦争について書くのは気が重い。でも、自分なりに“あの時代”に向き合いたい気持ちもあり、お引き受けすることにした。夏から秋、秋から冬、冬から春、かの世界的な感染症と共生しつつ、なんとか節目の夏に『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)を刊行できた。


濱田研吾『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫、2020年7月)カバーデザイン 南伸坊 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436832/

 先の大戦(日中戦争、太平洋戦争)を知る俳優が残した著書、雑誌記事などを手がかりに戦時下を読む。“脇役本”にはこだわらず、佐野周二、片岡千恵蔵、山田五十鈴、鶴田浩二といったスターも取り上げた。とはいえ、書き手の好みが出てしまうもの。新劇の、あるいは、好きなバイプレーヤーが多くなった。
 本ブログとのつながりもある。第4章「閃光の記憶」におさめた「長崎の鐘 佐々木孝丸 千秋実」は、第10回「長崎の鐘 佐々木孝丸」(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2019/08/18/212054)を大幅に加筆したもの。佐々木が作者となった特別讀物「或る原子學者の半生――永井隆博士の事――」(『文藝讀物』1949年5月号)について考察した。


『文藝讀物』(日比谷出版社)昭和24(1949)年5月号

 ほかにも、本ブログで取り上げた千秋実、江見俊太郎、加藤武、徳川夢声、夏川静江、神山繁、『脇役本 増補文庫版』に登場する宮口精二、伊藤雄之助、滝沢修、木村功、芦田伸介、田崎潤、加東大介、高橋とよ(高橋豊子)、浪花千栄子、細川俊夫、さらには信欣三、西村晃など、書き手の好みが出過ぎてしまい、いささか反省……。
 わが身も人生折り返し地点。書けるうちに、書きたいことを書く。というわけで、ぜひ“活字に”残しておきたかったのが、恩田清二郎(おんだ・せいじろう/1907~1974)のことだった。活動写真弁士から舞台俳優(新築地劇団、東宝劇団)となり、戦後はラジオ、テレビ、東宝映画のバイプレーヤーとして活躍した。『ゴジラ』(1954年)、『浮雲』(1955年)など、東宝作品への出演は枚挙にいとまがない。


恩田清二郎(成瀬巳喜男監督『驟雨』東宝、1956年)

 恩田のエピソードは、第2章「戰場にありて」に「馬面の二等兵 伊藤雄之助 恩田清二郎」と題して書いた。伊藤雄之助と恩田のふたりは、戦時中の東宝劇団で出会い、ともに旅(移動演劇)をし、語らい、友情をふかめた。


伊藤雄之助(『大根役者・初代文句いうの助』朝日書院、1968年4月)

 伊藤が、恩田について書いたエッセイがある。この文章に惹かれて、以下の一文を、タイトル扉の裏ページに印刷した。

やがて火傷がなおって、一緒に山形へ劇団疎開、冬の山形市で、秋の上の山で、春の酒田の町で……色々な芝居をやりました。苦しい中で大八車に道具を積みながら……。そして慰問に行く汽車の中で終戦の報せを聞いた時も、恩ちゃんは声をあげて号泣しました。もう一年、一年だけ早く戦争が終ってくれていたらと。
(伊藤雄之助「わが悪友伝・酒としるこの交わり」(『太陽』1968年10月号、平凡社)

 1945(昭和20)年8月15日、終戦――。恩ちゃんはなぜ、声をあげて号泣したのか。ふたりのあいだに、どんな秘話が隠されているのか。くわしくは拙著をお読みいただくとして、いまひとり、恩田清二郎という俳優を活字に記録した人がいる。宮口精二だ。
 宮口が発行した個人誌『俳優館』(1970~86年)については、第1回「借金催促の名人芸 山茶花究」(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/20190415)のほか、『脇役本 増補文庫版』や今回の本でも書いた。その第17号(1975年3月)で宮口は、前年の11月に亡くなった恩田の追悼特集を組んだ。同号の編集長コラム「東西南北」にこう触れている。

私の知る限りでは新聞にも演劇雑誌にも一行の死亡記事も出なかったらしいが、新劇運動の一翼をになっていた事は確かであり、恩ちゃんこと恩田清二郎という役者がいた事は間違いない事実である。
(宮口精二「東西南北」『俳優館』第17号、1975年3月)

 宮口が企画した追悼特集は、伊藤雄之助も文章を寄せるなど、恩田の人となり、仕事を記録した貴重な一冊となった。恩田にかぎらず、宮口はみずからの『俳優館』に好んで追悼特集(小杉義男、月形龍之介、八代目市川中車、龍岡晋など)を組んだ。その最終号(第41号、1986年4月)が「宮口精二追悼特集」になったのは、何よりのたむけだった。


宮口精二、自宅前にて(『俳優館』第41号「宮口精二追悼特集」、1986年4月)

 自分の本、雑誌が出るのは、うれしいものである。それ以上に、好きな俳優のことを、自分の手で書き、活字に残せることはうれしい。伊藤雄之助や宮口精二も、ぼくとおなじ気持ちだったんじゃないか、と思っている。

 

老いの艶 伊志井寛



 久しぶりに週刊誌を買った。『週刊現代』2020年5月2・9日号(講談社)である。
 お目当ては、「天知茂 眉間にしわを寄せて、生きてきた男」と題した特集記事。自宅のリビングで寛いでいたり、家族でチーズフォンデュを食べていたり、オフショットがいろいろ載っている。
 天知の魅力を堪能したところで、ほかのページをめくってみる。石井ふく子の連載がある。ぼくの大好きな、伊志井寛(いしい・かん/1901~1972)のことが書かれている。
 ふく子は、伊志井の娘である。血はつながっていない。芸者だった母は、ふく子が5歳のとき、伊志井と再婚した。育ての父、である。いろいろと複雑な事情があって、あとになるまで、実の父のことは知らなかった。
 TBSのプロデューサーとなったふく子は、みずから手がけるドラマに、好んで父を出した。

 平岩弓枝さんが脚本を書いてくださった『肝っ玉かあさん』(TBS、1968~72年)では松下一平役をやってもらいました。京塚昌子さんが扮した主人公・大正五三子(いさこ)の遠縁で、食事処「丸平」を営む初老の男です。
 一平は待望の娘が生まれた直後に徴兵されてしまい、終戦からしばらく後に復員をはたしたものの、自分は戦死扱いされていて、妻は実弟と結婚していました。それを知った一平は静かに姿を消し、一方で娘を陰からそっと見守り続けました。こんな男を演じさせたら、右に出る人がいませんでした。
(石井ふく子「身の丈のしあわせ 石井ふく子の『世間の渡り方』第13回「父に教わったこと」『週刊現代』2020年5月2・9日号、講談社)


『肝っ玉かあさん』第86回(第3シリーズ第6回、TBS、1971年6月10日放送)

 『肝っ玉かあさん』は、映像が残る第3シリーズが、BS12トゥエルビで再放送されたときに見た。
 一平の娘、千津(松尾嘉代、途中から上村香子に変更)は、清田家に嫁いでいる。夫の圭司(松山英太郎)、義父の保文(千秋実)、義母の八重(山岡久乃)ら家族は、悪い人たちではない。でも一平には、嫁がせた手前、清田家への遠慮がある。千津は、そんな父の気持ちとさびしさが、よくわかる。伊志井寛、絶品であった。


 伊志井寛は、1901(明治34)年、東京・神楽坂の生まれ。芸者屋で産声をあげた。松竹蒲田、帝キネと若いころは映画の世界にいて、そののち新劇の人(新劇協会)となる。
 初代喜多村緑郎の目にとまり、新派の世界に入ったのは、昭和のはじめ。戦前の新生新派から、戦後の劇団新派へと、ずっと“新派の人”であった。


小堀誠旧蔵『相続人は誰だ』台本(歌舞伎座、1955年8月)。右より、中野実、花柳章太郎、水谷八重子(初代)、水谷良重、小堀誠、市川紅梅(三代目市川翠扇)、桜緋紗子、英 太郎(初代)、花柳武始、伊志井寛、藤村秀夫、京塚昌子、近松芳枝(近松麗江)、高橋潤、瀬戸英一、森正彦、中川秀夫のサイン

  戦後の新派全盛時代、主演恪のひとりとして舞台に立つかたわら、映画、テレビ、ラジオと活躍した。広告のモデルになるほど、その顔はお茶の間に知られていた。


ギンザ松坂屋広告(『演劇界』1962年7月号、演劇出版社)

 映画では、どちらかといえば脇役のイメージがある。
 佐伯清監督『恋の蘭燈(らんたん)』(新東宝、1951年)では、息子(池部良)とともに、わけありの妻(夏川静江)を見守る、人のできた夫を好演した。テレビのホームドラマで人気を博すのは、それから10年ほど先のことだ。


左より、南條秋子、夏川静江、伊志井寛。『恋の蘭燈』(新東宝、1951年)

 映画で印象ぶかい作品のひとつに、中村登監督『結婚式・結婚式』(松竹、1963年)がある。
 子どもたちの結婚にふりまわされる父、伊志井寛のハイテンションかつコミカルな芝居は、とても面白かった。それに動じない妻、田中絹代とのやりとりも絶好調である。にぎやかな松竹ホームドラマの要を、伊志井が見事に担った。

 


『結婚式・結婚式』(松竹、1963年)広告(『映画評論』1963年8月号、映画出版社)

 『肝っ玉かあさん』『恋の蘭燈』『結婚式・結婚式』と挙げたように、伊志井寛には、古き佳きバイプレーヤーの佇まいがある。ゆえに著書も“脇役本”に加えたくある。
 1967(昭和42)年8月、限定500部の非売品として発行された『にこごり抄』(オリオン出版社)は、2冊ある著書のひとつ。もう15年くらい前に、“脇役本ともだち”の編集者から贈られ、ずっと愛蔵している。
 日本画、篆刻、俳句、酒と風流な趣味人であった。漫画家の宮尾しげをらと、『ほうずき』(ほうずき社、1934年創刊)という洒落た同人誌を出したこともある。
 『にこごり抄』も、そんな伊志井のセンスが横溢する。函には、みずから描く水墨画をあしらった。本体の表紙にずらりと並ぶ盃とコップの絵は、日本画家の山口蓬春の作で、酒好きの伊志井のアイデアであった。



伊志井寛『にこごり抄』(オリオン出版社、1967年8月)
 自叙伝、身辺雑記、俳句と、その人柄と魅力のつまった構成になっている。演劇、映画、放送、文壇、俳壇、画壇などなど、幅広い交遊関係がうかがえる。
 読売新聞に連載された「よみうり演芸館」(全20回)が、おさめられているのがうれしい。喜多村緑郎の犬好き、初代水谷八重子のおもちゃのいたずら、大矢市次郎の釣り狂い、フランキー堺の着物道楽、八代目市川中車の腹話術と漫談などなど、俳優仲間の趣味と素顔を軽妙に綴っていく。
 「桂ちゃん」こと、小林桂樹のコレクションばなしがある。

 その桂ちゃんの趣味がランプ集めだというのです。ランプとなると、蒲田時代いっしょにいた斎藤達雄さんが、その方の大先輩でしょう。
 そこでランプ・コレクションの動機をきいてみました。「別にこれっていう動機はないのですが、あのクラシックな落ち着きのある姿が気に入って目につくと手に入れていたのです。数はまだ二十四、五ですが、いまでは子どもに昔からのあかりの変遷についての教育……というと大げさですが、そんな知識の教材に役立っているようです。ですから、採光ばかりでなく、時計などでもごく古い型から今日にいたるまでの、いろいろな進み方の姿をみせて実物教育をしたいのです」というのです。いかにも子ぼうのうの桂ちゃんらしい考え方にほほえましくなりました。
(伊志井寛「よみうり演芸館 ランプ・コレクションの小林桂樹」前掲書)

 「別にこれっていう動機はないのですが」のところ。小林桂樹のあの声、語り口が、聞こえてくる(斎藤達雄もランプを集めていたのか)。
 この章でうっとり読み惚れ、読者のイマジネーションをかきててくれるのが、香川京子である。
 香川と石井ふく子は、仲がよかった。子どものころから、家によく遊びにきていた。伊志井とは仕事でも、プライベートでも、付き合いがある。香川にとっては、尊敬する大先輩であった。


左より、花柳章太郎、香川京子、伊志井寛、三代目市川翠扇、大矢市次郎。『歌行燈』(TBSラジオ、1960年1月2日放送)収録風景と思われる(大矢市次郎『日々願うこと』六藝書房、1965年2月)

 彼女はなかなかおもしろいハリ絵をつくります。山下清さんのように画面一ぱいにハリこむやり方ではなく、色紙などでもかわいい家を中心にして、それを美しい草木や樹木のみどりでいろどり、さらにシャレた線で取りまくというふうなものが多く、その空間が生きていてなかなかいい空気を感じさせます。
(「香川京子のハリ絵と縫いぐるみ」前掲書)

 ハリ絵の雅号は「香子」。美しい。きっと素敵な作品に違いない。事実、それを目にした人たちは、なかば強奪するかたちで、伊志井の家から持って帰ってしまう。そして――。

 彼女の趣味には、もうひとつ縫いぐるみのブタづくりがあります。そしてそれを自動車のマスコットにしてちょうだい、といってくれました。これがまた、まことに愛すべきできバエで、私のは小学生の男の子ブタで、肩からカバンをかけ鳥打ち帽子をかぶっているかわいいヤツです。いつもうれしそうにバック・ミラーにぶらさがって心をやわらげてくれます。娘にプレゼントしてくれたのはもちろん女の子ブタです。
(前掲書)

 香川京子みずから編んだブタの縫いぐるみ。ほ、欲しい。
 それを見た花柳章太郎も、すっかり“京子ちゃんのブタ”に惚れこんだ。さっそく香川は、花柳のためにブタをこしらえ、伊志井のもとへ届けた。花柳は大喜びで、フランスを旅行したさい、お供に連れていくほどだった。

 京子ちゃんは、私の知っている映画女優さんの中では最も家庭的なあたたかみをもっている人です。いつもつつましく手芸にいそしんでいる姿はまことに美しいものです。
(前掲書)

 そうでしょう、そうでしょう。もともと人気の高い女優だけれど、伊志井のエッセイを読んだら、みんなますますファンになるのでは、と思う。

 

 『にこごり抄』が出版される4か月前、伊志井は『東芝日曜劇場 女と味噌汁 その七』(TBS、1967年4月9日放送)に出演した。昼間は芸者、夜はライトバンで祖母ゆずりの味噌汁を供するてまり(池内淳子)の姿を描くシリーズである。
 『女と味噌汁』には毎回、てまりといい関係になる男性が登場する。人気シリーズ第7回のお相手は、銀座で会席料理店を営む料理人、加村小吉。伊志井が色気たっぷりに演じる。


伊志井寛(右)と池内淳子(左)。『東芝日曜劇場 女と味噌汁 その七』(TBS、1967年4月9日放送)

 てまりと小吉は、墓参りで出会う。小吉は妻を亡くしたばかりで、男やもめだ。ふたりは、料理のこころと器の美しさを通して、関係を深めていく。男女の恋とも、親子の情とも言い切れない時間を、大切に育んでいく。
 その関係を、周囲の人たちが邪推する。よかれと思った善意が、ふたりの仲を壊してしまう。切ない。切なすぎる。
 ある夜、てまりのライトバンを小吉が訪ねる。味噌汁を味わった小吉は、愛用の狭匙(せっかい)をてまりに託す。すりばちに残った味噌をかき落とす道具だ。周りの“おせっかい”が、ふたりの仲を裂いたことを、暗にさしている。


(前掲と同じ)

 ふたりとも、いい役者である。佳きものを見た。いずれも、いまは亡い。
 『女と味噌汁』の脚本は平岩弓枝で、石井ふく子がプロデューサーをつとめた。小吉の役は、伊志井をイメージしたものだろう。

 

 1972(昭和47)年4月29日、伊志井寛死去、享年71。冒頭に紹介した石井ふく子のエッセイに、その最期のときが記されている。


神宮外苑にて(『にこごり抄』)