脇役本

増補Web版

愛妻家の本棚 松村達雄


『のんびり行こうよ』(浪曼、1974年5月)口絵

 マメにチェックしているわけではないのに、よく見かける俳優がいる。松村達雄(まつむら・たつお 1914~2005)は、そのひとり。亡くなって14年。もうそんなになるのか、と思う。
 BSやCSの衛星劇場でやってる『男はつらいよ』シリーズ(松竹)の常連だし、CSのTBSチャンネルをつければ、大映ドラマや『東芝日曜劇場』で顔を見る。名画座で旧作邦画を観ると、東宝系の作品や大好きな『警視庁物語』シリーズ(東映東京)に、ちょいちょい脇で出てくる。
 TBSチャンネルで最近やっていた大映ドラマ『顔で笑って』(1973年10月~74年3月)では、婿養子で恐妻家の病院長をコミカルに演じて、おもしろかった。院長の威厳は保ちつつ、家では妻(葦原邦子)や義妹(冨士真奈美)に頭が上がらない。友人の医師(フランキー堺)を訪ねては、「女房に『バカもん!』と言ってみたい」とグチをこぼす。


大映ドラマ『顔で笑って』。左より冨士真奈美、松村達雄、葦原邦子

 大正3(1914)年、横浜生まれ。法政大学在学中は、ラグビー部のエースだった。新劇俳優を志したのち出征し、復員。昭和27(1952)年に劇団「五十人劇場」を旗揚げし、新劇人としての我が道を歩んでいく。
 でも、それだけでは生活が苦しい。映画や草創期のテレビドラマに出演し、顔と名前が少しずつ知られていく。昭和40年代には、テレビのホームドラマで売れっ子となる。佐分利信や山村聰のような“重厚オヤジ”ではなく、威厳がからまわりする“色気のある”恐妻家がぴったりだった。
 そのことは、演じる本人も知っている。松村が書いた「いいと思うよ」というエッセイがある。タイトルは、松村が出たカメラのミニCM「コニカはコニカ、いいと思うよ」(小西六写真工業)にかけている。

 ホームドラマの話が舞いこんで、さてどんな役だろうと脚本を読んでみると、大がい恐妻家の旦那というのが私の役どころである。
 たまにはその旦那が学者であったとしても、金にならない研究かなんかしていて、生活能力はいたって薄弱、怠惰の見本みたいな人物で、それならそれで女房の指揮のもとにおとなしくおさまっていればいいのだが、女房以外の女性には意外と勤勉なところがあり、仕事などは後手、後手となるくせに、逢いびきともなると、約束した喫茶店では二十分も前から坐っているような旦那なのである。
 いわばどこにでも転がっている鼻下長旦那の姿なのだろうか、そんな旦那の役がしばしばくるところをみると、その姿は私にまんざら無縁なものではないのだろう。
(松村達雄「いいと思うよ」『金はなくても 芝居と女と貧乏と』未央書房、1968年5月)

 ホームドラマで顔が売れたこともあり、本を出す話が松村に舞い込む。新聞・雑誌に書いた雑文を集めた『金はなくても 芝居と女と貧乏と』(未央書房、1968年5月)が最初の本で、渥美清と岸田今日子が推薦文を寄せた。


松村達雄『金はなくても 芝居と女と貧乏と』(未央書房、1968年5月)

 装幀といい、タイトルといい、いかにも安直な俳優本で、内容は期待しなかった。ところが読んでみて、驚いた。短いエッセイばかりだが、どれも手馴れている。私小説作家が書く随筆のような洒脱さ、ユーモアとペーソスがある。
 この本に、「飯店通い」と題した3ページ足らずの一文がある。松村がレギュラー出演した『若い季節』(NHK総合テレビ、1961年4月~64年12月)の舞台裏を綴ったものだ。NHKのスタジオは当時、西新橋の内幸町にあった。『若い季節』は、日曜夜の生放送で、本番前のわずかな時間、出演者は近くの四川料理店で夕食をとる。松村は「S飯店」と書いているが、陳建民が営む「赤坂四川飯店」(旧田村町)のことだろう。

 ピリッと舌にやきつくような、それでいてえもいわれないかおりのある辛味、四川料理独特の味をすでに一同は知っているのである。さあ、きょうも食うぞと、あの特徴のあるやさしい目をちょっとつり上げて渥美ちゃんが私に呼びかける。だれ一人多忙ならざる者のない中で、特に大多忙のハナちゃん、植木ちゃんは先週は映画のロケのため食いそこなったが、ロケ隊で豚のむしたやつを思い出してかなわなかったと、すでに腕まくりして戦意じゅうぶんと見受けられる。実際にこの二人の食欲に私はあぜんとしたことだった。スーダラの源泉であろうか。
 淡路恵子さんは相も変わらぬ落ち着いた物腰で、このクラゲがおいしいのよ、この味が。私はこれだけあればいいのよ、としっとりとおっしゃる。おいしいわね、おいしいわねとニコニコの森光子さん。ある日ゲストでこられた伴淳さんがゆうゆうとハシを運ばれる姿はまさに中国の大人であった。黒柳さんも横山さんも夢中である。あの恐るべき急テンポの舌を四川料理にたいしてはどのように処するものか、くわしく観察する余裕は私にもなかったが、とにかく実によく食べ、よくしゃべるのである。
 さて会計ともなると、いつのころからか菅原謙二さんにきまってしまって、さっと勘定を払ってもらう。そのあとで回転の速い菅原さんの計算でワリカンの数字がこれもまたさっと出る。そしてこれもまたいつのころからか、女性は速度も分量もだいぶ男性からは劣るように感じられるという男性側の決議で、女性側の猛反対にもかかわらず八割ときまっていた。(中略)
 セリフなどとちりながらも本番ともなれば、あの四川独自の辛味がピリリとききめを現わして、あのように楽しく『若い季節』は放送されたのである
(「飯店通い」前掲書)

 『若い季節』は、銀座の化粧品会社が舞台で、松村の役どころは同社の専務だった。ドラマ版の映像は残されていないが、そのにぎやかな雰囲気が、このエッセイからは伝わる。このわずかな文章のなかに、これだけの人(渥美清、ハナ肇、植木等、淡路恵子、森光子、伴淳三郎、黒柳徹子、横山道代、菅原謙二)が登場し、四川料理のうまさとドラマの魅力もちゃんと書き込む。うまい。


松村達雄自画像(『金はなくても 芝居と女と貧乏と』扉)

 松村達雄のエッセイ集は、『金はなくても』と『のんびり行こうよ』(浪曼、1974年5月)がある。この2冊を読むと、洒脱な随筆をものにした秘密がわかる。大の読者家なのである。
 おさめられたエッセイには、武林無想庵、尾崎一雄、川崎長太郎、和田芳恵、辻潤といった、好きな作家、愛読書のことがよく出てくる。戦後の生活が苦しかったとき、大学の友人3人と出版業をもくろみ、文学叢書を企画したこともあった(資金のメドがたたず頓挫)。
 松村のエッセイには、そうした読書傾向がにじみ出る。「銀座と暢気眼鏡」(『金はなくても』)では、尾崎一雄の『芳兵衛物語』を引き合いにしつつ、みずからの貧乏生活と19歳年下の妻とのおのろけを綴り、“愛妻家”らしいオチをつけた。《すこぶるのん気な芳兵衛だった》。
 2冊目の『のんびり行こうよ』に、旧知の永六輔がこう序文を寄せる。

 松村サンは話をしていると役者というより文士という気がする。
 作家ではなく文士。
 世をすね、世間からも半端者に思われているという文士である。
(永六輔「序文」『のんびり行こうよ』浪曼、1974年5月)

 その『のんびり行こうよ』では、本の校正段階で松村が、担当編集者に川崎長太郎論をふっかけている。「あとがき」にその顛末を記したあと、こうつづけた。

 さて、その川崎長太郎氏のことだが、その飄々脱俗のくらし振りの、なんとうらやましいことか。
 もちろんその姿勢の仔細は、小説からしか知らないのだが、あのような情けない始末から生まれる愛嬌の根はなんだろう、無理なく自然に生きている、ということだろうか。
 こんな話をしていては、あとがきにならないのだが、役者の書いたものなど、どこか気取りや体裁ぶったところがあって、正直なところ、私は本のうしろにかくれたい。
(「あとがき」前掲書)



松村達雄『のんびり行こうよ』(浪曼、1974年5月)

 つい先日、愛書家らしいところで松村の名前を見た。自宅に送られてきた古書展の目録に、その名があった。
 目録には《松村達雄旧蔵書》と記され、33冊の旧蔵本がまとめて売りに出ていた。書き手の顔ぶれがすごい。森繁久彌、沢村貞子、高橋とよ、伊藤雄之助、金田龍之介、香川京子、葦原邦子、望月優子、仲代達矢、なべおさみ、中村梅之助、中村メイコ、永六輔、稲垣浩、平岩弓枝……。その多くが、松村宛ての献呈署名本である。
 33冊まとめて大人買い(ページ買い)して、我が書棚に松村達雄旧蔵書コーナーをこしらえる、という余裕はない。このなかから2冊“厳選”して注文した。
 ひとつが、“名脇役本”たる伊藤雄之助の『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年4月、古書価6,000円)。もう一冊が、山本薩夫監督『戦争と人間』(日活、1970年)で張作霖を演じた落合義雄の『ぐんま演劇 回り舞台――自伝に寄せて』(上毛新聞社、1965年1月、古書価1,500円)である。



伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年4月 ※画像は再版本)

 『大根役者』は、これで3冊目となる。すでに装幀違いを2冊持っているが、「松村達雄宛て献呈署名本」も欲しくなった。それはまた、期待を裏切らない逸品だった。顔も、声も、芝居も味わいぶかき名優は、ペン書きのサインにも味がある。
 署名には《一九六八・六・歌舞伎座ニテ》とあり、同年6月発行の再版を献じている。伊藤はこの月、歌舞伎座の「吉例中村錦之助公演」に出ていた。面識のある伊藤の楽屋を訪ねた松村へ、出来たばかりの再版本をプレゼントしたのかもしれない。
 大切に保存したのか、書き込みや傷みはなく、帯・カバー・売上スリップ(補充カード)、いずれも欠けていない。まごうことなき雄之助の極美本。「読みました?」と訊きたくもなるが、それでは愛書家に忌み嫌われる。やめておこう。 

長崎の鐘 佐々木孝丸


『故 佐々木孝丸氏略年譜』(協同組合日本俳優連合、1987年1月)

 戦後74年、この夏も終戦がらみの映画、ドラマ、アニメ、ドキュメンタリー、特集番組がいろいろとあった。なかでも、8月10日夜にNHK Eテレの『ETV特集』で放送された『忘れられた「ひろしま」~8万8千人が演じた“あの日”~』が良かった。関川秀雄監督『ひろしま』(日教組プロ、1953年)の製作秘話を、関係者の証言を通して伝えるドキュメンタリーである。
 同16日深夜(日付は17日)には、『ひろしま』の本編がEテレで放送された。DVD化されているほか、名画座や自主上映でやったりしているが、世間的な知名度は高くない。Eテレの深夜とはいえ、地上波で放送されるとは意義深い。


『ひろしま』(日教組プロ、1953年)ポスター

 日中戦争から太平洋戦争へと突きすすむなか、新劇運動は弾圧の憂き目にあう。それが終戦後、息を吹きかえしたように復活する。そのなかで“原爆”は、俳優にしろ、劇作家にしろ、演出家にしろ、新劇人の大きなテーマとなった。
 新劇関係者が多く携わった独立プロ作品『ひろしま』も、“リベラルな発想ゆえ”とも言いきれない。とくに、移動演劇「桜隊」のメンバーが広島で被ばくし、隊長の丸山定夫ほか8名の劇団員が無念の死を遂げたことは、当時の新劇人に大きな影を落とした。
 そうした新劇人に佐々木孝丸(ささき・たかまる 1898~1986)がいる。ヤクザの親分から保守系代議士、大物財界人、右翼の黒幕まで、名悪役として知られたバイプレーヤーである。
 新東宝映画とNHKドラマで演じた清瀬一郎(東京裁判の被告側弁護人)、浅丘ルリ子と原田芳雄のメロドラマ『冬物語』(日本テレビ、1972年11月~73年4月)の僧侶、高倉健の連続ドラマ『あにき』(TBS、1977年10月~12月)でやった鳶の親方など、“大ワル”以外もうまい。映画の遺作となった『小説吉田学校』(東宝、1983年)では、斎藤隆夫代議士にふんし、ワンシーンながら戦後政界長老の貫録を示した。


『小説吉田学校』(東宝、1983年)

 佐々木孝丸は、いろんな映画とテレビに出た。テレビだけとっても、メロドラマから2時間サスペンス、時代劇、刑事ドラマ、特撮ヒーローモノまで、なんでもあり。ただそれは、戦後のこと。戦前のプロレタリア演劇全盛時代は、俳優をやりつつ、劇作家、翻訳家、演出家、劇団のプロデュースまで、新劇の世界で知らぬ者がいない“闘う演劇人”であった。
 その日々は、自伝『風雪新劇志――わが半生の記――』(現代社、1959年1月)として一冊にまとめられている。ただし戦後のことは、触れていない。“闘う演劇人”が、医学博士の永井隆を主人公にした戯曲『長崎の鐘』を手がけたことも書いていない。
 今年の春、神田神保町の古本市で雑誌『文藝讀物』(日比谷出版社)昭和24(1949)年5月号を見つけた。目次には、小尾十三、伊馬春部、玉川一郎、乾信一郎といった書き手に混じって、佐々木孝丸の名がある。特別讀物『或る原子學者の半生――永井隆博士の事――』。好きな役者の、未知・未見の記事との出会いはうれしい。


『文藝讀物』(日比谷出版社)昭和24(1949)年5月号

 長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の助教授だった永井隆の名は、よく知っている。みずから被ばくし、最愛の妻を亡くしながらも、命を賭して被ばく者の治療に没頭する姿は、小学生のときに見た木下恵介監督『この子を残して』(松竹、1983年)の印象が強い。永井を演じた加藤剛の清廉な演技は、今でも覚えている。
 永井は被ばくによる白血病で、余命3年の告知を受ける。その被ばく体験と家族との日々を綴った著書(『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』など)は当時、広く読まれた。佐々木が『或る原子學者の半生』を発表したとき、永井は世間に知られた人物であった。本作はこうして始まる(永井隆の名は仮名の“中井豊”)。

 祈りに明け、祈りに暮れる長崎の聖地浦上、キリシタン禁制のはげしい迫害に耐えながら、相継ぎ相傳えて四百年、キリストの教をひそかにまもり通してきた人々の魂のふるさと浦上……天主堂の冴えた鐘の音と共に、朝に夕べに、いたるところでミレーの名畫そのままの姿が見られた。 
 そこから谷一つ距てた丘のふもとの、廣大な建物、ここでは、千數百の學徒が、近代科學の研究と實験にいそしんでいる、長崎醫科大學である。
 原子醫學専攻の中井豊は、この大學の助教授で、物理療法科の科長である。自宅は大學と天主堂との中間にある。晝間、ラヂューム室やレントゲン室で、夢中になつて放射能と取り組んでいる中井の姿は、早朝や夕方には、しばしば、天主堂の中に見出される。彼は、すぐれた科學者であると共に、信仰篤いカトリック信徒なのだ。
(佐々木孝丸『或る原子學者の半生――永井隆博士の事――』)


『文藝讀物』昭和24(1949)年5月号

 『文藝讀物』は96ページの薄い文芸誌で、『或る原子學者の半生』のボリュームは12ページ分しかない。永井隆の半生を描くには、どうしてもダイジェスト的になってしまう。埋もれた「原爆文学」と呼べるほどではない。
 それでも、劇作家として3冊の戯曲集を出し、多くの舞台を演出した佐々木だけに、興味ぶかく読んだ。演劇的効果をねらったくだりが、そこかしこにある。

 うとうとしていると、綾野が自分の頬を父の頬にすりよせている。そして、
「お父さんのにおい、お父さんのにおい」
 そんなことを云つている。この子に、「お父さん只今!」と勢よくおなかえとびつかれてはことだ。ひぞうが極度にまで肥大して、臨月の腹のようになつている。そこえとびつかれたら、一度に破裂して即死だ。で、とびつかれないように、寝臺のへりえ、いろんなものをつみ重ねてバリケードを作る。愛情をせきとめるバリケード!……だが、この子を孤児にするのを、一日でも長くのばそうとする愛情のためのバリケードでもある。
(前掲書)

 駆け足で半生をたどっているけれど、永井に対する誠実な姿勢が感じられる。佐々木はなぜ、これを書いたのか。本作の末尾に「筆者附記」として、その経緯を明かす。

 この物語は、永井隆博士のことを書いたもので、この三月十七日から三越劇場で上演された「バラ座」の脚本をストーリー化したものです。脚本執筆にあたつては、永井博士の全諸著述を参考とし、然も博士の本質を見失わない範囲で、一篇の讀物として獨立の形をとりました。
 したがつて博士の著書の中から、そつくりそのまま頂いた所もあるし、筆者のイマヂネーションによつて、全然あらたに創作した分も少くありません。それと、永井博士を始め作中の人物が實在されて居り、非禮にわたるのをおそれて、人物名を全部、假名にしました。
 この短文に多少なり共、興味を感じられて博士の全著作を讀みたいといふ誘ひになれば筆者のよろこびこれにこしたことはありません。
(前掲書)

 薔薇座(漢字が難しいとの理由で佐々木は「バラ座」と書く)は、千秋実・佐々木踏絵(文枝)夫妻が、昭和21(1946)年5月に旗揚げした劇団である。その前後のことは、ふたりの共著『わが青春の薔薇座』(リヨン社、1989年5月)にまとめられた。
 踏絵は、佐々木孝丸の娘である。千秋と踏絵からすれば、戦前から活動する父の手腕は頼りだ。佐々木にとっても薔薇座は、大事な“演劇の場”となる。かわいい娘と娘婿が心血をそそぐ劇団で、若い俳優たちも多くいて、演劇人としてはやりがいがある。
 とはいえ、娘夫妻の劇団に関わることに遠慮もある。《僕とバラ座との間には、組織的な関係は何もない。僕とバラ座の関係といえば、この劇團に、僕の娘と婿がいるということだけだ》(佐々木孝丸「僕と薔薇座」『機関誌 薔薇座 東京哀詩號』劇団薔薇座、1947年1月)と書いた気持ちもわかる。そのうえでこう続ける。

 無論、いゝ仕事をさせたい、いい劇團にしてやりたいという気持は十分もつている。だから、關係はなくとも關心はある。いや、その點では人一倍關心をもつているということを正直にぶちまけるべきだらう。
(前掲書)


『機関誌 薔薇座 東京哀詩號』(劇団薔薇座、1947年1月)

 その薔薇座が、永井隆を主人公に芝居をつくる。その実現に奔走したのは千秋実で、永井の著作をもとにした戯曲化を、義父の佐々木に依頼した。踏絵はのちに《佐々木は喜んで引き受けた》(『わが青春の薔薇座』)と書く。“闘う演劇人”にとって、原爆への怒りもあったはずである。
 戯曲の第一稿は、長崎にいる永井本人が原稿をチェック、こと細かく赤字を加えた。それを受けて佐々木が全面的に書き直し、戯曲『長崎の鐘』(5幕11場)が完成する。
 薔薇座第8回公演『長崎の鐘』は、昭和24(1949)年3月17日から27日まで、東京・日本橋の三越劇場で上演された。主人公の永井を、千秋実が演じた。『或る原子學者の半生』は同年5月号掲載なので、上演からまもない時期だった(佐々木の劇曲『長崎の鐘――永井隆博士の諸著によりて――』は『悲劇喜劇』1949年10月号掲載)。


薔薇座第8回公演『長崎の鐘』。永井隆を演じる千秋実(左)

 同公演の反響は大きく、大阪や九州でも上演された。仮建築の浦上天主堂講堂で上演されたときは、担架で運ばれた永井本人が観劇し、薔薇座の関係者を感激させた(永井隆は2年後に死去)。公演に対する賞賛の声とは裏腹に、九州公演では、興行を仕切るヤクザにピンハネされるトラブルにも見舞われた。
 帰京後、財政的に劇団を維持できなくなった薔薇座は、第10回公演『冷凍部隊』(三越劇場、1949年8~9月)をもって解散した(菊田一夫に依頼した台本が完成しなかった、という事情も)。佐々木は、『冷凍部隊』(北條秀司作)を演出するとともに、部隊長の役で出演している。 
 翌昭和25(1950)年には、山本薩夫監督『ペン偽らず・暴力の街』(日本映画演劇労働組合・日本映画人同盟)で、暴力団の組長を演じた。女、老人、犬にいたるまで、容赦なくリンチを加える。その冷たく凄みのある演技は、今見ても色あせない。ここから、佐々木孝丸の名悪役人生(だけではないが)がスタートする。


『ペン偽らず・暴力の街』(日本映画演劇労働組合・日本映画人同盟、1950年)

 佐々木の没後、娘の踏絵(文枝)が、父の思い出を『悲劇喜劇』に寄せた。

 ギョロツク目玉で暴力団の親分や政治家などドスのきいた役が多かった。彼の子供の頃のアダ名は“馬の目”だったという。
「親父はよくスリに財布をスラれたなァ、スリの方が人を見る目があるよ、ギョロ目のくせにお人好しってチャンと見ぬいてる」とは千秋の感想。そしてまたこうもいう。
「親父は一生、仲間を裏切ったり卑劣なことをしたことのない男だったなァ」
(佐々木文枝「“闘う人”佐々木孝丸とギョロツク目玉」『悲劇喜劇』1992年6月号「特集・あの芝居、あの人(上)」)

 佐々木孝丸の自伝『風雪新劇志――わが半生の記――』に、『長崎の鐘』や『或る原子學者の半生』への言及はない。ただ『故 佐々木孝丸氏略年譜』(協同組合日本俳優連合、1987年1月)には、《昭和二四年三月 永井隆原作『長崎の鐘』脚色 於三越劇場ほか西日本巡演》と記され、原爆に向き合った仕事が刻まれた。
 冒頭に載せたポートレートは、その年譜にあったもの。数ある写真のなかでも、好きな一枚だ。“闘う人”のギョロツク目玉でありながら、凛として、いい表情である。