脇役本

増補Web版

長崎の鐘 佐々木孝丸


『故 佐々木孝丸氏略年譜』(協同組合日本俳優連合、1987年1月)

 戦後74年、この夏も終戦がらみの映画、ドラマ、アニメ、ドキュメンタリー、特集番組がいろいろとあった。なかでも、8月10日夜にNHK Eテレの『ETV特集』で放送された『忘れられた「ひろしま」~8万8千人が演じた“あの日”~』が良かった。関川秀雄監督『ひろしま』(日教組プロ、1953年)の製作秘話を、関係者の証言を通して伝えるドキュメンタリーである。
 同16日深夜(日付は17日)には、『ひろしま』の本編がEテレで放送された。DVD化されているほか、名画座や自主上映でやったりしているが、世間的な知名度は高くない。Eテレの深夜とはいえ、地上波で放送されるとは意義深い。


『ひろしま』(日教組プロ、1953年)ポスター

 日中戦争から太平洋戦争へと突きすすむなか、新劇運動は弾圧の憂き目にあう。それが終戦後、息を吹きかえしたように復活する。そのなかで“原爆”は、俳優にしろ、劇作家にしろ、演出家にしろ、新劇人の大きなテーマとなった。
 新劇関係者が多く携わった独立プロ作品『ひろしま』も、“リベラルな発想ゆえ”とも言いきれない。とくに、移動演劇「桜隊」のメンバーが広島で被ばくし、隊長の丸山定夫ほか8名の劇団員が無念の死を遂げたことは、当時の新劇人に大きな影を落とした。
 そうした新劇人に佐々木孝丸(ささき・たかまる 1898~1986)がいる。ヤクザの親分から保守系代議士、大物財界人、右翼の黒幕まで、名悪役として知られたバイプレーヤーである。
 新東宝映画とNHKドラマで演じた清瀬一郎(東京裁判の被告側弁護人)、浅丘ルリ子と原田芳雄のメロドラマ『冬物語』(日本テレビ、1972年11月~73年4月)の僧侶、高倉健の連続ドラマ『あにき』(TBS、1977年10月~12月)でやった鳶の親方など、“大ワル”以外もうまい。映画の遺作となった『小説吉田学校』(東宝、1983年)では、斎藤隆夫代議士にふんし、ワンシーンながら戦後政界長老の貫録を示した。


『小説吉田学校』(東宝、1983年)

 佐々木孝丸は、いろんな映画とテレビに出た。テレビだけとっても、メロドラマから2時間サスペンス、時代劇、刑事ドラマ、特撮ヒーローモノまで、なんでもあり。ただそれは、戦後のこと。戦前のプロレタリア演劇全盛時代は、俳優をやりつつ、劇作家、翻訳家、演出家、劇団のプロデュースまで、新劇の世界で知らぬ者がいない“闘う演劇人”であった。
 その日々は、自伝『風雪新劇志――わが半生の記――』(現代社、1959年1月)として一冊にまとめられている。ただし戦後のことは、触れていない。“闘う演劇人”が、医学博士の永井隆を主人公にした戯曲『長崎の鐘』を手がけたことも書いていない。
 今年の春、神田神保町の古本市で雑誌『文藝讀物』(日比谷出版社)昭和24(1949)年5月号を見つけた。目次には、小尾十三、伊馬春部、玉川一郎、乾信一郎といった書き手に混じって、佐々木孝丸の名がある。特別讀物『或る原子學者の半生――永井隆博士の事――』。好きな役者の、未知・未見の記事との出会いはうれしい。


『文藝讀物』(日比谷出版社)昭和24(1949)年5月号

 長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の助教授だった永井隆の名は、よく知っている。みずから被ばくし、最愛の妻を亡くしながらも、命を賭して被ばく者の治療に没頭する姿は、小学生のときに見た木下恵介監督『この子を残して』(松竹、1983年)の印象が強い。永井を演じた加藤剛の清廉な演技は、今でも覚えている。
 永井は被ばくによる白血病で、余命3年の告知を受ける。その被ばく体験と家族との日々を綴った著書(『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』など)は当時、広く読まれた。佐々木が『或る原子學者の半生』を発表したとき、永井は世間に知られた人物であった。本作はこうして始まる(永井隆の名は仮名の“中井豊”)。

 祈りに明け、祈りに暮れる長崎の聖地浦上、キリシタン禁制のはげしい迫害に耐えながら、相継ぎ相傳えて四百年、キリストの教をひそかにまもり通してきた人々の魂のふるさと浦上……天主堂の冴えた鐘の音と共に、朝に夕べに、いたるところでミレーの名畫そのままの姿が見られた。 
 そこから谷一つ距てた丘のふもとの、廣大な建物、ここでは、千數百の學徒が、近代科學の研究と實験にいそしんでいる、長崎醫科大學である。
 原子醫學専攻の中井豊は、この大學の助教授で、物理療法科の科長である。自宅は大學と天主堂との中間にある。晝間、ラヂューム室やレントゲン室で、夢中になつて放射能と取り組んでいる中井の姿は、早朝や夕方には、しばしば、天主堂の中に見出される。彼は、すぐれた科學者であると共に、信仰篤いカトリック信徒なのだ。
(佐々木孝丸『或る原子學者の半生――永井隆博士の事――』)


『文藝讀物』昭和24(1949)年5月号

 『文藝讀物』は96ページの薄い文芸誌で、『或る原子學者の半生』のボリュームは12ページ分しかない。永井隆の半生を描くには、どうしてもダイジェスト的になってしまう。埋もれた「原爆文学」と呼べるほどではない。
 それでも、劇作家として3冊の戯曲集を出し、多くの舞台を演出した佐々木だけに、興味ぶかく読んだ。演劇的効果をねらったくだりが、そこかしこにある。

 うとうとしていると、綾野が自分の頬を父の頬にすりよせている。そして、
「お父さんのにおい、お父さんのにおい」
 そんなことを云つている。この子に、「お父さん只今!」と勢よくおなかえとびつかれてはことだ。ひぞうが極度にまで肥大して、臨月の腹のようになつている。そこえとびつかれたら、一度に破裂して即死だ。で、とびつかれないように、寝臺のへりえ、いろんなものをつみ重ねてバリケードを作る。愛情をせきとめるバリケード!……だが、この子を孤児にするのを、一日でも長くのばそうとする愛情のためのバリケードでもある。
(前掲書)

 駆け足で半生をたどっているけれど、永井に対する誠実な姿勢が感じられる。佐々木はなぜ、これを書いたのか。本作の末尾に「筆者附記」として、その経緯を明かす。

 この物語は、永井隆博士のことを書いたもので、この三月十七日から三越劇場で上演された「バラ座」の脚本をストーリー化したものです。脚本執筆にあたつては、永井博士の全諸著述を参考とし、然も博士の本質を見失わない範囲で、一篇の讀物として獨立の形をとりました。
 したがつて博士の著書の中から、そつくりそのまま頂いた所もあるし、筆者のイマヂネーションによつて、全然あらたに創作した分も少くありません。それと、永井博士を始め作中の人物が實在されて居り、非禮にわたるのをおそれて、人物名を全部、假名にしました。
 この短文に多少なり共、興味を感じられて博士の全著作を讀みたいといふ誘ひになれば筆者のよろこびこれにこしたことはありません。
(前掲書)

 薔薇座(漢字が難しいとの理由で佐々木は「バラ座」と書く)は、千秋実・佐々木踏絵(文枝)夫妻が、昭和21(1946)年5月に旗揚げした劇団である。その前後のことは、ふたりの共著『わが青春の薔薇座』(リヨン社、1989年5月)にまとめられた。
 踏絵は、佐々木孝丸の娘である。千秋と踏絵からすれば、戦前から活動する父の手腕は頼りだ。佐々木にとっても薔薇座は、大事な“演劇の場”となる。かわいい娘と娘婿が心血をそそぐ劇団で、若い俳優たちも多くいて、演劇人としてはやりがいがある。
 とはいえ、娘夫妻の劇団に関わることに遠慮もある。《僕とバラ座との間には、組織的な関係は何もない。僕とバラ座の関係といえば、この劇團に、僕の娘と婿がいるということだけだ》(佐々木孝丸「僕と薔薇座」『機関誌 薔薇座 東京哀詩號』劇団薔薇座、1947年1月)と書いた気持ちもわかる。そのうえでこう続ける。

 無論、いゝ仕事をさせたい、いい劇團にしてやりたいという気持は十分もつている。だから、關係はなくとも關心はある。いや、その點では人一倍關心をもつているということを正直にぶちまけるべきだらう。
(前掲書)


『機関誌 薔薇座 東京哀詩號』(劇団薔薇座、1947年1月)

 その薔薇座が、永井隆を主人公に芝居をつくる。その実現に奔走したのは千秋実で、永井の著作をもとにした戯曲化を、義父の佐々木に依頼した。踏絵はのちに《佐々木は喜んで引き受けた》(『わが青春の薔薇座』)と書く。“闘う演劇人”にとって、原爆への怒りもあったはずである。
 戯曲の第一稿は、長崎にいる永井本人が原稿をチェック、こと細かく赤字を加えた。それを受けて佐々木が全面的に書き直し、戯曲『長崎の鐘』(5幕11場)が完成する。
 薔薇座第8回公演『長崎の鐘』は、昭和24(1949)年3月17日から27日まで、東京・日本橋の三越劇場で上演された。主人公の永井を、千秋実が演じた。『或る原子學者の半生』は同年5月号掲載なので、上演からまもない時期だった(佐々木の劇曲『長崎の鐘――永井隆博士の諸著によりて――』は『悲劇喜劇』1949年10月号掲載)。


薔薇座第8回公演『長崎の鐘』。永井隆を演じる千秋実(左)

 同公演の反響は大きく、大阪や九州でも上演された。仮建築の浦上天主堂講堂で上演されたときは、担架で運ばれた永井本人が観劇し、薔薇座の関係者を感激させた(永井隆は2年後に死去)。公演に対する賞賛の声とは裏腹に、九州公演では、興行を仕切るヤクザにピンハネされるトラブルにも見舞われた。
 帰京後、財政的に劇団を維持できなくなった薔薇座は、第10回公演『冷凍部隊』(三越劇場、1949年8~9月)をもって解散した(菊田一夫に依頼した台本が完成しなかった、という事情も)。佐々木は、『冷凍部隊』(北條秀司作)を演出するとともに、部隊長の役で出演している。 
 翌昭和25(1950)年には、山本薩夫監督『ペン偽らず・暴力の街』(日本映画演劇労働組合・日本映画人同盟)で、暴力団の組長を演じた。女、老人、犬にいたるまで、容赦なくリンチを加える。その冷たく凄みのある演技は、今見ても色あせない。ここから、佐々木孝丸の名悪役人生(だけではないが)がスタートする。


『ペン偽らず・暴力の街』(日本映画演劇労働組合・日本映画人同盟、1950年)

 佐々木の没後、娘の踏絵(文枝)が、父の思い出を『悲劇喜劇』に寄せた。

 ギョロツク目玉で暴力団の親分や政治家などドスのきいた役が多かった。彼の子供の頃のアダ名は“馬の目”だったという。
「親父はよくスリに財布をスラれたなァ、スリの方が人を見る目があるよ、ギョロ目のくせにお人好しってチャンと見ぬいてる」とは千秋の感想。そしてまたこうもいう。
「親父は一生、仲間を裏切ったり卑劣なことをしたことのない男だったなァ」
(佐々木文枝「“闘う人”佐々木孝丸とギョロツク目玉」『悲劇喜劇』1992年6月号「特集・あの芝居、あの人(上)」)

 佐々木孝丸の自伝『風雪新劇志――わが半生の記――』に、『長崎の鐘』や『或る原子學者の半生』への言及はない。ただ『故 佐々木孝丸氏略年譜』(協同組合日本俳優連合、1987年1月)には、《昭和二四年三月 永井隆原作『長崎の鐘』脚色 於三越劇場ほか西日本巡演》と記され、原爆に向き合った仕事が刻まれた。
 冒頭に載せたポートレートは、その年譜にあったもの。数ある写真のなかでも、好きな一枚だ。“闘う人”のギョロツク目玉でありながら、凛として、いい表情である。



芝居語り、これきり 加藤武


文学座公演『夏の盛りの蝉のように』(2014年4月)加藤武の葛飾北斎(公演パンフより)

 文学座の代表だった加藤武(かとう・たけし 1929~2015)が亡くなって、今年の夏で4年になる。映画やテレビドラマを通してはもちろん、文学座の公演、晩年にライフワークとした独演会「加藤武 語りの世界」、自身の演劇人生をたどるトークショーなどでも拝見した。
 平成27(2015)年7月19日、東京・日本橋の「お江戸日本橋亭」で、「加藤武 語りの世界」が開かれた。演目は、吉川英治作『新平家物語』より「牛若みちのく送り」、八代目市川中車の実体験をもとにした『市川中車の大島綺譚』の二席である。「大島綺譚」のまくらで語った中車ばなしが、あとにつづく怪談とは不釣り合いなほど熱っぽく、演者の加藤自身とても楽しそうだった。夏の暑い盛り、いいものを見て聴いた、との喜びを深くした。
 それから12日後の7月31日、急逝。享年86。秋には主演舞台『すててこてこてこ』(可児市文化創造センター×文学座 共同制作)での三遊亭円朝役をひかえていた。いつも元気で、声が大きく、そんなに急に亡くなるとは思わなかった。まことにあっけなく、である。
 仕事でインタビューをしたり、プライベートでお会いしたり、自著を献本したり、手紙をやりとりするようなご縁は、残念ながらなかった。ファンレターの一通も出したことはない。あこがれの人、というよりは、なんとなく近寄りがたい人。築地生まれの江戸っ子気質と豪快な語り口が、逆にそう思わせたのかもしれない。


『加藤武 語りの世界』チラシとCD、『すててこてこてこ』チラシ

 加藤が亡くなった翌年の秋、CD『物語 宮本武蔵 吉川英治原作・市川八百蔵 甦る戦前のラジオ名朗読』(ぐらもくらぶ、2016年10月)が発売された。そのライナーノーツに、市川八百蔵(のちの八代目中車)と徳川夢声のことを少し書いた。
 武蔵の語りといえば、徳川夢声が有名だが、戦前は八百蔵も好んで語った。両者の語りは、それぞれに贔屓を生む。昭和16(1941)年7月には、八百蔵の語りをSPレコード12枚におさめた豪華版『宮本武蔵』(ポリドール)が出た。それを初めて完全復刻したのが、このCDである。


八百蔵時代の八代目市川中車(『花道』昭和28年新年号)

 加藤は、八代目中車の語りを愛した。「加藤武 語りの世界」で十八番にした吉川英治の『宮本武蔵』も、そのベースには夢声と八百蔵それぞれの語り芸がある。奇しくも最後となった『市川中車の大島綺譚』については、《加藤は、戦後三原橋で催された八百蔵の語りの会にも観客として参加しており、そのひそみに倣い、今回初演致します》とチラシにある。
 その人が、八百蔵が語る武蔵のCDを喜ばないはずがない。お手紙を添えて、ぜひお送りしたかった。たとえ返事が来なくても、それで縁ができたような気になれたはず。そんな淡い願いすら、もう叶わない。縁なき語りの名手、好きな役者であった。

 令和元(2019)年7月31日、没後4年の“加藤武忌”にあわせて、市川安紀著『加藤武 芝居語り 因果と丈夫なこの身体』(筑摩書房)が刊行された。発売を心待ちにして、書店で見つけるや、すぐに買った。
 著者の市川安紀さんは、演劇誌『シアターガイド』の元編集長で、演劇雑誌や公演プログラムの執筆、編集、インタビューを手がける編集者、演劇ライターである。この“芝居語り”は、『キネマ旬報』に連載された「因果と丈夫なこの身体――加藤武 芝居語り」を加筆修正したもの。連載(2015年10月~17年4月)が始まってまもなく、加藤は世を去った。連載三回分の原稿までは、生前に目を通していたという。


市川安紀『加藤武 芝居語り 因果と丈夫なこの身体』(筑摩書房、2019年7月)

 市川さんは、《加藤さんと会うのは、いつも新宿駅近くの喫茶店だった。(略)豪快な芝居語りを毎回かぶりつきで堪能させてもらう幸せな時間だった》とあとがきに書く。トークショーではいつも、豪放磊落なおしゃべりで客席を沸かせたけれど、この本もそれに変わりがない。“芝居語り”のタイトルそのままに、加藤のおしゃべりを、喫茶店の隣の席で聴いている感覚になる。著者のいう《幸せな時間》が、わずかでも共有できる。
 ちょっとずつ読もう、と思ったのに、買ってすぐに一気読みしてしまった。出たばかりの新刊なので、ネタバレにならないていどに書いてみる。
 昭和32(1957)年10月、文学座の地方公演『鹿鳴館』(三島由紀夫作、松浦竹夫演出)に、加藤は出た。影山伯爵(中村伸郎)に利用される殺し屋・飛田天骨役で、初演(1956年)では宮口精二が演じた。そのときの思い出を、加藤が語る。

「中村伸郎さん演じる影山伯爵と天骨が茶室で密談しているところへ、影山夫人の杉村さんが入ってくるんです。驚いた天骨が〈奥方様!〉って言うんだけど、せりふも仕草も僕はやたらと大芝居で、どうやっても歌舞伎ふうになっちゃう。
 で、稽古休みにざる蕎麦食べてたら、杉村さんに怒られたんですよ。〈ちょっとタケさん、こう言っちゃ何ですけどね、あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物〉。いやぁ、ショックだった。そばが喉へ詰まっちゃって。致命的なことをズバッと言われたんだもの。(後略)」
(市川安紀『加藤武 芝居語り 因果と丈夫なこの身体』筑摩書房、2019年7月)

 《影山夫人の杉村さん》は、加藤が終生崇めた、というより、頭の上がらなかった杉村春子のこと。《あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物》。ああ、なつかしい。トークショーがあると、加藤はすぐにこれをやった。杉村春子の声色で。「あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物」。そのイントネーションがいかにも杉村春子で、客席はいつも大受け。新宿の喫茶店でも、その声色でやったんじゃないかな。そうした加藤の語り口が、本のあそこにも、ここにも、あふれている。
 『加藤武 芝居語り』を読んで、『市川左團次藝談きき書』(松竹演劇部、1969年10月)が頭に浮かんだ。三代目市川左團次の芸談を、劇作家の北條誠が聞き書きした名著である。左團次の江戸っ子らしいきっぷのよさ、調子のよさ、その語り口を損なわず、北條は一冊にまとめた。先代の左團次から加藤武へ、東京生まれの役者が語った芸談のおもしろさに、ふたたび触れた。
 舞台、映画、ラジオ、テレビ、寄席と多彩かつ長いキャリアゆえに、さまざまな俳優、映画・演劇人が登場する。三船敏郎、加東大介、藤原釜足、杉村春子、太地喜和子、文野朋子、小沢昭一、西村晃、フランキー堺、仲谷昇、黒澤明、市川崑……。生の舞台には一度も接していないのに、観てきたように生き生きと語る丸山定夫の人と芸。移動演劇「桜隊」のメンバーとして、広島で非業の死を遂げた丸山や園井恵子の思い出を語ることは、“戦争を知る世代”の使命感でもあった。
 早稲田大学の学生として出会い、のちに文学座の盟友となる北村和夫に対しては、こう心境を明かす。

「今にして思うとね、僕自身の役柄っていうのは、とっても難しいんだね。北村和夫は何て言っても、早くから主演役者の地位を得てたでしょ。芝居が素直で大らかなんだよね。それにひきかえ自分自身の反省として言うと、小器用なとこが逆に足引っ張っちゃうんだよ。それが全部災いしてたと思う。キャンバスの大きさ、小ささっていうのかな。ずいぶん後になって北村が、〈アンタもね、やっぱりちょっと大きい役やんないとね〉ってポロッと言ったことあった。モロに言いやがったね。これはズシーッと堪えた。だって自分もそう思ってたんだから」
(前掲書)

 これまでのインタビューやトークショーで味わった、スケールゆたかでユーモラスな人となりは、この“芝居語り”でも変わらない。ただ、文学座での仕事、新劇俳優のキャリアに対しては、いろいろ抱えていたんだな、と感じた。
 杉村春子の「あんたの芝居はね、ぜんっぶ借り物」は、笑いばなしにもなろう。盟友にしてライバルでもある北村和夫の「アンタもね、やっぱりちょっと大きい役やんないとね」は、そうとう堪えたんじゃないか、と思う。北村との日々が明かされて、芝居語りはいよいよ大詰めを迎える。


文学座公演『かもめ』(1965年9~11月)。左より北村和夫、杉村春子、青木千里、松下砂稚子、加藤武(公演パンフより)

 『加藤武 芝居語り』には、初めて見る珍しい写真がたくさん載っている。映画『黒部の太陽』(三船プロ・石原プロ、1968年)が好きな身としては、カバーと表紙の写真に感激した。間組の国木田所長代理を演じたときのスナップで、加藤本人が所蔵していたものだ。
 『黒部の太陽』で演じた昔かたぎの親方は、すばらしかった。「なせばなる! 機械がなけりゃ、ショベルで掘れ、ショベルがぶっ壊れたら爪で掘れ!」と演説をぶつシーンは、監督の熊井啓が《加藤武氏の熱演に、一同の拍手がわく》(『映画「黒部の太陽」全記録』新潮文庫、2009年2月)と書いたほどだった。
 カバーと表紙の写真だけでなく、『黒部の太陽』の思い出も“芝居語り”には少し出てくる。たとえば、間組の班長を演じた大滝秀治と宿で同じ部屋、というエピソードがある。この映画のファンとしては、そういう細かいところが興味ぶかい。

「(前略)あと裕次郎のお父さん役は、新国劇の辰巳柳太郎さん! 俺は新国劇も大好きだったから、たっぷりいろんな話を聞かせてもらいましたよ。豪快なイメージだけど、意外や酒が飲めないの。でもあっけらかんとして、実にいい人でね。辰巳さんとああして話ができたのは嬉しかったなぁ。(後略)」
(前掲書)

 そう語った辰巳柳太郎との共演シーンには、三船敏郎、石原裕次郎、玉川伊佐男、高峰三枝子、樫山文枝、川口晶もいた。ミフネでも、裕次郎でも、高峰でもなく、辰巳とのおしゃべりが嬉しかった、というのがいい。


『黒部の太陽』(三船プロ・石原プロ、1968年)。左より三船敏郎、高峰三枝子、加藤武、辰巳柳太郎

 あっという間に読み終えた芝居語り。おもしろかった。でも、読後感はさびしい。事情さえゆるせば、連載はもっと続いたはずなのに……。文学座の大先輩、龍岡晋と三津田健のこと。小言幸兵衛な専務でおなじみだった『釣りバカ日誌』(松竹、1988~2009年)のこと。馬が乗れるという理由で抜擢された『騎馬奉行』(関西テレビ、1979~80年)のこと。そうそう、小池朝雄のモノマネもうまかった。
 惜しみて余りあるけれど、芝居語りは、これきり。巻末には年譜と主な出演作が載せられ、その役者人生を俯瞰できる。没後発売されたCD『加藤武 語りの世界』(CURELLE RECORDS、2015年11月)とともに大切にしたい。偲ぶよすがとして。