脇役本

増補Web版

巨匠錦を飾る 左卜全


内田吐夢監督『大菩薩峠』(東映京都、1957年7月13日公開)。左卜全の道庵


 先月、東京都立川市で開かれた「俳優 三谷昇 役者は道化 石に木に、描き続けたピエロへの想い」(アーティスティックスタジオ LaLaLa 、2023年5月3~14日)の話は、前回のブログ「道化の石 三谷昇遺作展」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2023/05/29/222408でくわしく触れた。
 その余韻も冷めないなか、今度は埼玉県所沢市で、ユニークな“俳優展”が始まった。2023(令和5)年5月21日から28日まで、北野天神社(所沢市小手指元町)の「多目的ホール」で開かれた「所沢が生んだ名優 左卜全展」である。
 左卜全(ひだり・ぼくぜん)は、1894(明治27)年2月20日、埼玉県入間郡小手指村北野(現・所沢市北野南)で生まれた。所沢は、卜全のふるさとである。

 今回の「左卜全展」は、故人の縁者らによる「左卜全の会」が主催した。チラシには、こう書かれている。

日本映画の全盛期に名脇役として活躍した俳優 左卜全。黒沢明監督作品に数多く出演し、いぶし銀の演技を発揮した。左卜全没後52年にあたり卜全の遺品の数々を、甥の中村靖氏のご協力により一堂に展示して、卜全の生涯を回顧する左卜全展を開催することになりました。中でも美しく崇高な夫婦愛は圧巻です! ご来場を心よりお待ちしております。
(「所沢が生んだ名優 左卜全展」チラシ)


「所沢が生んだ名優 左卜全展」チラシ(左卜全の会、2023年5月)

 左卜全と妻の三ヶ島糸(旧姓・中村糸/1909~1996)は、遠縁の間柄にある。
 ふたりは1946(昭和21)年6月、卜全が結成したばかりの「空氣座」の舞台に立っていたときに結婚した。
 脇役として、映画で個性を際立たせるようになるのは、それから数年のち。1950年代に入ってからである。


右に左卜全、左に三ヶ島糸。1963(昭和38)年9月18日、フジテレビスタジオにて(三ヶ島糸著『奇人でけっこう 夫・左卜全』文化出版局、1977年11月)

 左卜全が77歳で亡くなったのは、1971(昭和46)年5月26日のこと。
 亡くなるまで付き人として夫の仕事を支えた糸は、宮口精二の個人誌『俳優館』に、ふたりで過ごした日々を寄せた。

 「バカげた伝説ばっかりだな。俺らしいのは一つも無いじゃあないか」
 奇人ナンバーワン、おとぼけ随一、只おかしな笑われ者としての伝説しか知られなかった人の、生涯の真実は、苦悩と病いの“哀れ果てなし”の一語に尽きる。
(三ヶ島糸「亡夫 左卜全のこと あわれ伝説――俺はおとぼけ君はバカ――」『俳優館』第19号、1975年10月)

 『俳優館』に不定期で連載された文章は、『奇人でけっこう 夫・左卜全』(文化出版局、1977年11月)として世に出た。『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫、2018年4月)でも取り上げた、脇役本の名著である。


左に三ヶ島糸著『奇人でけっこう 夫・左卜全』(文化出版局、1977年11月)、右に三ヶ島糸「亡夫 左卜全のこと あわれ伝説――俺はおとぼけ君はバカ――」(『俳優館』第19号、1975年10月)

 左卜全(本名・三ヶ島一郎)の異母姉にあたるのが三ヶ島よし、歌人の三ヶ島葭子(1886~1927)である。葭子のふるさとも所沢で、入間郡三ヶ島村堀之内(現・所沢市堀之内)で生まれた。
 没後52年、こうして回顧展が企画された背景には、三ヶ島家と中村家の縁に連なる人たちが、三ヶ島葭子と左卜全を大切にしてきたことがある。1996(平成8)年に亡くなるまで、卜全を愛した糸夫人の存在も大きい。
 「左卜全展」は当初、所沢の人たちに向けて企画された。でも、それだけではもったいない。そこで主催の「左卜全の会」が、Twitterで開催を告知(5月10日)した。
 このツイートが拡散し、所沢市民だけではなく、左卜全をよく知る旧作邦画ファンにも伝わった。筆者も、そのひとりである。


今井正監督『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』(M.I.I.プロダクション、1962年1月3日公開)。左より、上田吉二郎の大川(政治家じいさん)、左卜全の関(優等生じいさん)、伴淳三郎の兼井(酔っぱらいじいさん)

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 5月27日の土曜日、会期終了の前日に、「左卜全展」に出かけた。
 会場の北野天神社は、「物部天神社」「國渭地祇神社」「天満天神社」の総称で、県内でも有数の古社とされている。バスやタクシーを乗るほどではないかな、と西武池袋線の小手指駅から歩いたら、30分くらいかかった。


北野天神社(所沢市小手指元町)

 会場の「多目的ホール」は、北野天神社の境内にあった。自治会の集会所のような小さな会場である。
 「東京都○○区」と記帳したら、「Twitterで知って、都心や遠方から来てくれる方も多くて」と受け付けの方がおっしゃっていた。



「所沢が生んだ名優 左卜全展」(北野天神社「多目的ホール」)

 会場は地元の人たちで、けっこう賑わっていた。ラジカセからは、聞き覚えのある曲が流れている。
 「♪やめてけれ やめてけれ やめてけ~れ ゲバゲバ♪」。左卜全とひまわりキティーズが歌い、大ヒットした『老人と子供のポルカ』(作詞/作曲・早川博二、ポリドール、1970年2月)だ。


左卜全とひまわりキティーズ『老人と子供のポルカ』(ポリドール、1970年2月)☆

 会場のスペースは広くないぶん、人となりを偲ばせるゆかりの品が、ところせましと飾られている(展示品の撮影は可能)。
 三谷昇の遺作展もそうだったけれど、主催した皆さんの、故人への愛着がまず伝わってくる。
 棚に置かれたアルバムは、手にとって見ることができた。帝国劇場歌劇部のコーラスメンバーを皮切りに、軽演劇(ムーランルージュ新宿座、松竹演劇部、劇団たんぽぽ、空氣座)で活躍した時代から、映画・テレビで活躍した晩年まで、さまざまな表情がおさめられている。



左卜全のアルバム☆

 卜全の両親の写真、インドみやげの帽子、「左卜全」と彫られた愛蔵の木刀、小刀、十手、愛用のキセル、メモ、日記、色紙や短冊などの肉筆資料、卜全宛ての手紙とはがき、旧蔵の出演スチール、自宅の表札……とにかくまあ、いろいろとある。


左卜全の帽子(インドのみやげ)☆


表札(左卜全、三ヶ島一郎)と出演映画スチール☆


愛蔵(防御用)の木刀と刀飾り台☆


愛蔵の小刀や十手など☆

 珍しいところでは、戦後まもなく書かれた「空氣座創立記念」の寄せ書き(1946年3月3日)があった。左卜全のほかに堺駿二、小崎政房(松山宗三郎)、小澤不二夫らの署名がある。昭和の軽演劇史を知る貴重な資料といえる。


「空氣座創立記念」寄せ書き(1946年3月3日)☆


空氣座公演(東横第一劇場、1947年1月)で松尾芭蕉を演じる左卜全(中央)(『奇人でけっこう 夫・左卜全』)

 左卜全旧蔵台本は、1960(昭和35)年のものが5冊展示されていた。舞台に、映画に、テレビに、ラジオに、とおびただしい数の作品に出演しており、台本のごくごく一部である。
 糸夫人が保存した台本の多くは、所沢市に寄贈された。会場にいた「左卜全の会」の田中初枝さんによると、会の手元に残るのは展示した5冊だけとのこと。


左卜全旧蔵台本。右より、『サンウエーブ火曜劇場14 巨匠錦を飾る』(フジテレビ、1960年5月31日放送)、『夫と妻の記録』(日本教育テレビ、同3月17日放送)、『日本の年輪・風雪二十年』第24回「赤い風車」(日本テレビ、同3月12日放送)、『ラジオ劇場 動物行進』(ニッポン放送、同5月16日放送)、『新三菱ダイヤモンド劇場 直木賞シリーズ 強情いちご』(フジテレビ、同4月25日放送)☆

 台本のいたるところに、卜全本人の書き込みがある。まじめで、几帳面な性格だったことがわかる。
 いっぽうで、台本からはこんな素顔も。自分が出ないシーンは、ページごとひもで綴じてしまっている。う~ん、たしかに合理的。


『強情いちご』台本(決定稿)☆


『日本の年輪・風雪二十年』台本。出番のない部分(ページ右端)をひもで綴じている☆

 左卜全の素顔と人柄がにじむ、こんな品も飾られていた。額装された「三船敏郎の弔辞」(1971年5月29日記)である。
 左卜全と三船敏郎は、東宝映画でたびたび共演する仲だった。
《貴方は誠心誠意私たちをも導き励まして下さいました。それを心にとどめ、いまなお心のうちに生かしております》。けっして「奇人」だけではなかった卜全の素顔とともに、三船の真摯な心根が胸をうつ。


「左卜全を悼む三船敏郎の弔辞」(1971年5月29日)☆


黒澤明監督『七人の侍』(東宝、1954年4月26日公開)。右に左卜全の与平、左に三船敏郎の菊千代(『奇人でけっこう 夫・左卜全』)

 北野天神社の境内には、左卜全を偲ぶ記念碑がある。名づけて「台本塚」。卜全の没後、糸夫人が碑の下に台本を埋葬したと伝えられ、この名がついた。
 命日である5月26日には碑の前で、卜全を偲ぶ「郭公祭」が営まれている(かっこうが鳴くころに逝ったことに由来)。碑には《卜全語 糸筆》として、こう刻まれている。

常道の芸では 先がしれてる
されば 逆 遠き苦難のみちを求めん


左卜全を偲ぶ記念碑「台本塚」(北野天神社境内)

 こころゆくまで見学させていただき、北野天神社をあとにした。気持ちいっぱい、胸いっぱい、卜全いっぱい。せっかくなのでもう少し、足をのばすことにした。
 北野天神社から車で10分ほど、三ヶ島葭子が生まれた所沢市堀之内に、左卜全と三ヶ島糸のお墓(三ヶ島墓苑「日歌輪翁 左卜全の墓」)がある。
 のんびり歩いて訪ねようと思っていたら、「歩くと大変ですよ」と「左卜全の会」の田中初枝さんが、車で案内してくれた。
 少し高台の、小手指の街を見渡せるところに、お墓はある。風のとおりがよく、気持ちがいい。手ぶらで申し訳なかったけれど、お参りさせていただいた。


三ヶ島墓苑「日歌輪翁 左卜全の墓」(所沢市堀之内)


左卜全(三ヶ島一郎)墓碑銘。《お互ひは 何と恵まれた環境と そして又 実に貴い無限の生命と個性をもって現在この時、日々時々、生活しているおられることよ、君も僕も。一郎 糸/なにものにもとらわれず 左卜全》

 ふたりが眠る「三ヶ島墓苑」の入口には、立派な冠木門(かぶきもん)がある。
 結婚後、ずっと暮らした世田谷区若林の自宅から移築したもので、表札と番地表示もそのまま残されている。表札の文字は消えてしまったものの、よく見るとうっすら「卜全」と読めた。



左卜全・三ヶ島糸住居の冠木門(三ヶ島墓苑)と番地表示

 左卜全の遠縁にあたる小暮勝彦さん(左卜全の会)の本業は、大工さん。糸夫人が亡くなり、旧宅を取り壊すことになったさい、小暮さんが冠木門をばらし、遠く離れたこの地まで移築した。
 世田谷の住居跡には現在、甥の中村靖さんが建立した「名優 左卜全 住居跡」の石碑と「プレステージ レフト」という名のマンションがある。碑には、北野天神社の「台本塚」と同じ言葉が刻まれている。


左卜全、世田谷区若林の自宅前で(うしろに所沢に移築された冠木門)


「名優 左卜全 住居跡」(世田谷区若林)

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 「左卜全展」にはもうひとつ、忘れがたい展示品があった。展示された5冊の旧蔵台本のひとつ、『サンウエーブ火曜劇場14 巨匠錦を飾る』(フジテレビ)の台本である。
 『巨匠錦を飾る』は、1960(昭和35)年5月31日に放送された。45分の単発ドラマシリーズで、サンウエーブ工業株式会社(現在はLIXILグループ傘下)の一社提供だった。
 映像はうしなわれ、もはや見ることの叶わないこのドラマで、左卜全は田舎町の警察署長を演じた。自分の台詞のところは、台本に赤えんぴつでしるしをつけている。



『サンウエーブ火曜劇場14 巨匠錦を飾る』台本(決定稿)☆

 このドラマを演出したのが、フジテレビのプロデューサー兼ディレクターだった島田親一、のちの嶋田親一(1931~2022)である。新国劇文芸部、ニッポン放送勤務をへて、開局する系列のフジテレビに移籍した。1960年代から70年代にかけては、数多くのスタジオドラマを演出およびプロデュースした。
 まさか「左卜全展」の会場で、嶋田さんの仕事に出会うとは。しかもそれが、縁者の手で5冊だけ残された旧蔵台本のひとつとは……。おどろいた。


フジテレビスタジオでの嶋田親一(当時、島田親一)(1960年代)*


島田親一(嶋田親一)演出『シオノギ劇場 佐久間良子アワー 北野踊り』(フジテレビ、1965年2月12日~3月5日放送)新聞広告(「産経新聞」2月12日付)*

 2022(令和4)年7月9日、90歳で亡くなった嶋田親一さんのことは、本ブログで「嶋田親一の証言と資料に拠る」と題し、5か月連続で書いた。

  1. 「素描 佐々木孝丸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/08/25
  2. 「ブーちゃん葬送曲 市村俊幸」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/09/11
  3. 「ヒロインひとり 河内桃子」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/10/02
  4. 「花嫁の父 有島一郎」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/11/06/202318
  5. 「かもめは7羽 中条静夫」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2022/12/12

 佐々木孝丸、市村俊幸、河内桃子、有島一郎、中条静夫はいずれも、嶋田さんがともに仕事をした俳優である。
 左卜全も敬愛する大先輩であり、仕事仲間だった。嶋田さんは若いころ、卜全がムーランルージュ新宿座にいたころからのファンだった。


右に左卜全、左に嶋田親一(島田親一)。『三太物語』(フジテレビ)打ち上げパーティー(1962年)(嶋田親一著『人と会うは幸せ! わが「芸界秘録」五〇』清流出版、2008年4月)

 嶋田さんは、フジテレビ時代の台本の多くを国立国会図書館に寄贈した。嶋田家の書斎にわずかに残された台本のなかに、『巨匠錦を飾る』(決定稿)の「演出コンテ台本」があった。
 演出に関するメモ、カメラや音楽、効果の指示、台詞の変更など、台本には書き込みがびっしり。表紙を補強するために貼ったセロテープとビニールテープは、経年劣化で変色し、ボロボロになっている。



『巨匠錦を飾る』決定稿(島田親一使用「演出コンテ台本」)*

 初期の演出ドラマ『巨匠錦を飾る』は、嶋田さんにとって印象ぶかい作品となる。決定稿の「演出コンテ台本」だけではなく、スチールとタイトルのスライドも書斎に残されていた。


『巨匠錦を飾る』タイトルスライド。「匠」の文字が欠けている(1960年5月)*

 『巨匠錦を飾る』は、直木賞作家・多岐川恭のオリジナル脚本による風刺喜劇。放送当日の22時から22時45分まで、ぶっつけ本番の生放送(生ドラマ)だった。
 音楽は宇野誠一郎、決定稿のスタッフ欄には《PD島田親一》《AD藤井謙一》と記されている。藤井謙一はのちに、『三匹の侍』(フジテレビ、1963~69年放送)の演出を手がけた。
 嶋田さん旧蔵のスクラップブックのなかに、放送当日の「東京新聞」テレビ欄の記事があった。

谷川と光村、小山治子の三人は列車スリ仲間。ある日、映画界の巨匠、大賀英作の一行が大賀の出身地へロケハンに出かけるのに乗り合わせ、無賃乗車の三人組は大賀のポケットから三枚の切符をスリ取ってしまう。ところが、勢い込んでロケ地に降り立った三人は、いや応なしに巨匠一行に祭りあげられる。大賀はこの地方では偉大な存在で、彼を利用してひともうけをたくらむ市長やおエラ方が、下へもおかない歓迎ぶりで三人のスリたちをもてなすことになる……。
(「東京新聞」1960年5月31日付)


「東京新聞」1960(昭和35)年5月31日付*

 『巨匠錦を飾る』の思い出は、嶋田さんへの聞き取り(オーラル・ヒストリー)で、ときどき話題に出た。
 嶋田さんは、有島一郎主演『ありちゃんのパパ先生』(フジテレビ、1959年3月3日~60年2月23日放送)で初めて連続ドラマを演出した。『巨匠錦を飾る』は、その終了からまもないころの仕事となる。

多岐川恭さんのホンが、なにより傑作で。面白かったと自分でも思います。西村晃と岡田真澄(眞澄)と夏川かほるが主人公のスリ3人。夏川かほるは、夏川静江(静枝)の娘さんです。左ト全が、地元警察の署長でね。西村晃をかつて捕まえたことがある。でも、思い出せない。「どっかで会ったことがあるなあ、あるなあ」と(笑)。
(第4回聞き取り)

 ストーリーを補足しておく。列車内でスリをおこなった谷川九郎(西村晃)、光村守(岡田真澄)、小山治子(夏川かほる)の3人は、駅に降り立つ。
 この3人を監督の大賀英作(成瀬昌彦)一行と勘違いした、市の助役(瀬良明)や会議所の会頭(林寛)が出迎える。そこへ、署長(左卜全)もあらわれる。


島田親一演出『サンウエーブ火曜劇場14 巨匠錦を飾る』(フジテレビ、1960年5月31日放送)。左より、西村晃の谷川九郎、夏川かほるの小山治子、岡田真澄の光村守*


『巨匠錦を飾る』。手前左より、西村晃、岡田真澄、左卜全の署長、夏川かほる、林寛の会頭*

 いまは署長だけれど、かつては腕っこきの刑事で、谷川を現行犯で捕まえたことがある。そのことをすぐ思い出した谷川は、気が気でない。

助役:あ、大賀先生、警察署長でございます。
署長:やあ、大賀先生ですか。初めまして(と言いながら、ちょっと考えこむ)昔、どこかでお目にかかったことがあるような……
谷川:(恐慌を来たす)い、いや、とんでもない。私は……。
署長:いや たしかにどこかで!
助役:では、会場の方へ!!
(『巨匠錦を飾る』決定稿)


『巨匠錦を飾る』決定稿*

 左ト全と西村晃、それぞれうってつけの役どころ。このやりとりだけでもう、目に浮かぶようである。
 勘違いされた3人は、町ぐるみで大歓迎を受ける。事ここにいたっては、ごまかして、やりすごすしかない。谷川は監督の大賀英作、光村は美術監督、小山はニューフェイス女優と偽り、歓迎の宴にのぞむ。
 宴には市長(小林重四郎)以下、映画でひとやま当てようと目論む町の有力者がずらっと居ならぶ。この席に署長もいる。

署長:大賀先生、私はね、どうも昔、どこかで先生を……
谷川:いやいや、会ったことはないですよ。(ごまかして歌に合せて徳利を叩く)
署長:いや、たしかにどこかで……。
(署長、独りで何かブツブツ言っている)
(『巨匠錦を飾る』決定稿)


『巨匠錦を飾る』。手前左より、小林重四郎の市長、沢阿由美の駒子、西村晃、左卜全*


『巨匠錦を飾る』決定稿*

 このあとドラマは、谷川の過去(戦争体験)を描きつつ、地元の芸者やホンモノの大賀監督とのやりとりを交えて、後半へ。
 市長をはじめ町の有力者たちは、3人の素性に気づかない。卜全署長も、である。

ラスト、3人は列車で去っていく。スタジオに、ホームと汽車のセットを組みました。車輪もつくってね、2メートルくらい動いてくれないと絵にならない。車輪がガタっと動いて、カメラがフレームアウトして、あとは音でもって汽車が走り去る雰囲気を演出する。車輪を動かすのに苦労しました。僕、こういう仕掛けが好きだったんです、凝り性だから(笑)。車輪がガタッと動いたタイミングで、卜全署長が「あ、思い出した!」。ここでエンディングです。このラストシーンは、話題になったんじゃないかな。
(第4回聞き取り)

 かたやベテランのバイプレーヤー。かたやフジテレビの若手ディレクター。60年以上前のドラマだけれど、嶋田さんの記憶に間違いはない。
 決定稿によれば、万歳三唱の声に見送られ、3人は列車に乗り込む。このときになっても、署長は思い出せない。スリの谷川は、最後の最後までひやひやしっぱなし。


『巨匠錦を飾る』。左より、左卜全、西村晃、沢阿由美、岡田真澄、夏川かほる。なんとか思い出そうとする署長(左卜全)のそばで、「会ってない」とごまかす谷川(西村晃)*

 列車の発車間際、ようやく署長がピンとくる。《あッ、思い出した。思い出したぞ。おい!》(決定稿)。時すでに遅し。けたたましくホームに響く汽笛、動き出す列車。汽笛の爆音に耳をふさぎ、頭を抱えてしゃがみこむ署長。《……忘れた……》(決定稿)。


『巨匠錦を飾る』決定稿*

 このラストに対して、視聴者から注文がついた。《ラストの西村晃のスリと左卜全の署長の対決はユーモアがあり、あざやか、ラストはスリ万歳でアト味が悪い、悪事露見式にした方が良くはないかなど三通》(「東京新聞」1960年6月3日付)。
 決定稿にある「スケジュール」によると、5月28日に読み合わせ、29日に半立稽古と立稽古、30日に立稽古と音楽録音、本番の31日はカット割、ドライリハーサル、メーク、着付け、カメラリハーサル、本番(生放送)とつづく。45分の単発ドラマにしては、かなりタイトである。


『巨匠錦を飾る』スケジュール(決定稿より部分拡大)*

 本番が近づくなか、左卜全の署長は現場の話題をさらった。嶋田さん旧蔵のスクラップブックに、こんな記事があった。放送翌日(6月1日)の「東京タイムズ」のコラムである。

ところで、劇中にこの署長が三人組のスリを見てどこかで会ったような顔だと思い、それを思い出そうとするシーンがあったが、左がいちばん苦心したのはこの場面で何とかしてそれを思い出そうとする時の表情。威厳をもった中に深刻な顔つきをしなければならず、本番の直前まで鏡とニラメッコでいろいろな表情の研究をしていたが、それが百面相にソックリなので、横にいた夏川かほるが思わず吹き出し、本番がはじまってからも左の顔を見るとツイ吹き出したくなり、笑いをこらえるのに夏川も苦心サンタン。
(「東京タイムズ」1960年6月1日付)


「東京タイムズ」1960(昭和35)年6月1日付*

 45分のドラマ内で、左卜全の出番は、それほど多くない。わずかな出番で、なんとか印象に残そうとした。あるいは、夏川かほるが大受けするのを見て、ノッてしまったのか。若き演出家・島田親一も、そこは万事心得ていたはずである。
 放送後の新聞記事を読むと、左卜全が話題をさらった印象を受ける。とぼけた味わいで魅せただけではない、名脇役ならではのプロ根性がうかがえる。

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 俳優・左卜全と演出家・島田親一、世代をこえたふたりの仕事は、『巨匠錦を飾る』のあとも続いた。
 1961(昭和36)年3月からは、『三太物語』(フジテレビ、1961年3月2日~62年5月31日放送)が始まった(毎週木曜、19時~19時30分)。
 神奈川県の山里を舞台に、わんぱく小僧の三太、友だちの花子、担任の花荻先生らが織りなす、子ども目線のホームドラマである(青木茂、筒井敬介原作)。NHKのラジオドラマとしてヒットし、映画化もされた。


島田親一演出『三太物語』(フジテレビ、1961年3月2日~62年5月31日放送)広告(現代劇場第5回公演『娑婆に脱帽』パンフレット、1961年6月)*

 主役の三太に劇団若草の渡辺篤史、花子にジュディ・オング、花荻先生に新人の中西杏子を抜擢。その脇を、左卜全、市村俊幸、原泉、永井柳太郎、七尾伶子、市川寿美礼、天草四郎、瀬良明らベテランがかためた。
 嶋田さんは聞き取り(第4回)の席で、「気ごころの知れた、いわば“シマダ一家”ですよ。自分の好きな人たちでかためたんです」と言っていた。
 左卜全は三太の祖父、仙爺役でレギュラー出演した。嶋田さんいわく、台詞を覚えようとせず、いつもカンニングペーパーに頼っていた。ところが――

いつだったか、カンニングペーパーを貼った場所を忘れてしまった。三太の渡辺篤史は、いつも台詞を覚えている。咄嗟に出た台詞が、「三太、爺ちゃんの言いたいこと、わかるだろう」。「お使いに行け、ってことだろ」。受けるのって、なんなのって。もう天才、です。あとでスタッフに言われました。「嶋田さんは、左ト全さんだけには甘いんですね」と。あの人は別格なんです、僕にとっては。大好きでした。
(第4回聞き取り)


島田親一演出『三太物語』(フジテレビ、1961年3月2日~62年5月31日放送)。左より、原泉の婆さん、渡辺篤史の三太、左ト全の仙爺*

 左卜全は、『三太物語』のキャストがふたたび揃った『かっぱ子物語』(フジテレビ、1963年4月5日~10月25日放送)にも出演した。嶋田さんにとって、忘れられない俳優のひとりとなる。
 嶋田さんへの聞き取り(2020年9月~2021年12月)は13回におよんだ。そのたびに現役時代の資料や写真、手紙とはがき、名刺、スクラップブックを持参しては、「濱田さんに」と譲ってくれた。
 そのなかに、左卜全からの5円はがきがあった。あて名は《新宿区河田町 フジテレビ演出課 島田親一様》、消印の日付は《37.3.26》とある。『三太物語』が放送されていた時期にあたる。


島田親一宛て、左卜全はがき(1962年3月26日)*

 筆まめな人だったのか。はがきには毛筆で、《やうやう春めいて参りました 御機嫌お伺ひ申し上げます この間ハやむなくリハーサルも休ませて項きまして 誠申し訳なく存じて居ります 何せ よわい方の足を痛めました為 回復はかばかしからず》と綴られている。


島田親一宛て、左卜全はがき*

 このはがきを、嶋田さんはずっと大切に残していた。「卜全さんは、奇人だったわけではない。まじめな人なんですよ」と語っていたことを思い出す。
 早いもので来月の7月9日、嶋田親一さんの一周忌をむかえる。

 思えばこのたびの「所沢が生んだ名優 左卜全展」は、『巨匠錦を飾る』のタイトルそのものであった。
 ずっと捨てずに残していた演出ドラマの台本を、こよなく愛した左卜全も同じように残していた。それがこうして展示されたことを知れば、嶋田さんはどんなに喜んだことだろう。
 来年(2024年)は、左卜全の生誕130年にあたる。「左卜全の会」では、記念イベントを催す予定とのことである。


「所沢が生んだ名優 左卜全展」の来場者に配られたポストカード。左に左卜全、右に三ヶ島糸

(追記)
「所沢が生んだ名優 左卜全展」では、「左卜全の会」の小暮勝彦さん、田中初枝さんにいろいろとお世話になりました。ありがとうございました。


☆印は「左卜全展」展示品(筆者撮影)
*印は嶋田親一旧蔵
無印は筆者資料及び撮影
(無断転載はご遠慮ください)

道化の石 三谷昇遺作展


演劇集団 円公演『ハムレットの楽屋』パンフレット(俳優座劇場、2000年5月)。三谷昇のロジェ(ポローニアス役)

 2023(令和5)年1月15日、90歳で亡くなった三谷昇(みたに・のぼる/1932~2023)。その遺作展が、アーティスティックスタジオ LaLaLa(東京都立川市)で開かれた。
 題して「俳優 三谷昇 役者は道化 石に木に、描き続けたピエロへの想い」(2023年5月3~14日)。


遺作展「俳優 三谷昇 役者は道化 石に木に、描き続けたピエロへの想い」チラシ(アーティスティックスタジオ LaLaLa、2023年5月)

 画家を志して上京した三谷は、その夢やぶれ、文学座に入った。舞台装置などの裏方をへて、俳優になるまでの軌跡は、追悼を兼ねて2月に書いた本ブログ「道化の顔」https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/2023/02/13/215023にくわしく書いた。
 役者は道化。そう称した三谷は、キャンバスに、石に、木に、さまざまなピエロ(道化師)を描いた。
 自作のポストカードには、シェイクスピア『リア王』の登場人物で、三谷みずから演じ、こよなく愛した「道化」の台詞が添えられている。

世界は劇場
悲劇あり
喜劇あり
私は道化師
あなた…何の役。
ノボル・ミタニ


三谷昇画「道化師」ポストカード

 河原で拾った“なんでもない石ころ”に、アクリル絵の具で道化(ピエロ)を描いた「道化石(どうけいし)」は、“作家、三谷昇”の代表作である。
 三谷は公演があるたびに、道化石を手ずから描いては、キャリーバッグにつめて、劇場へ運んだ。そして、スタッフと出演者ひとりひとりに贈った。その数、あまりに多すぎて、はっきりしていない。
 演出家の山下悟が『悲劇喜劇』(早川書房)に寄せた追悼文「天国の三谷さんへ」(2023年5月号)に、三谷のエッセイ「道化師、道化石」(出典不明)が引用されている。

「ブラブラ歩く…。トボトボ…歩く。少し疲れて川辺で休憩。川辺の無数の石ころ、ぼんやり眺めます。
大中小、全て形の違った色々な石ころ。こちらに向かってボソボソ喋る石ころ。私、そっと手に取ってみる…途端に沈黙する石ころ……元の場所に返します。
え! 鏡舌に表情も顔貌もはっきりイメージされる石ころ。早速私は鞄に入れて持ち帰ります。」

 今回の遺作展では、自宅に遺されていた道化石も展示されると知り、会期終了前日の5月13日(土)に出かけた。
 会場のアーティスティックスタジオLaLaLaは、多摩都市モノレールの柴崎体育館駅のすぐ近く。古い木造家屋をいかした一軒家で、ちいさな森のなかにある。
 玄関へつづく階段には、道化石が無造作にころがって、いや、置かれていた。作者のお出迎えか。


アーティスティックスタジオLaLaLaの階段に並ぶ三谷昇作「道化石」

 入り口の案内には、こうある。《木が、石が 僕に呼びかける 連れて行って! と。皆さん、僕のピエロを連れて行って!!》。

 さっそくお邪魔すると、写真や文章で知っていた道化石が、ところせましと飾られている。棚に置かれた紙には、《石のピエロは大きさに関わりなく全て¥1000で連れて行ってください!》とある。


会場に並んだ「道化石」

 三谷昇とゆかりの深い演劇ユニット「山の羊舎」のプロデューサー・高木由紀子が、今回の遺作展のいきさつを明かす。

 この企画は、生前三谷さんの91歳の誕生日を記念して、俳優ではなく、表現者三谷昇の魅力を紹介する小さな展示会として開催しようと思っていましたが、期せずして追悼企画となってしまいました。
 ご本人は「もう、ない!」と言い張っていたピエロの石(道化石)が、今回新たに200個くらい見つかって(笑)、丸太に描いた道化木削子、ピエロの油絵、入院してから病室の患者さん達と描いていたピエロのクレヨン画など、一堂に集めて見てるとそのエネルギーの凄さに圧倒され、シャイな笑顔を思い出し、愛おしくなります。(後略)
(「俳優 三谷昇 役者は道化 石に木に、描き続けたピエロへの想い」チラシ)

 道化石は、かたちも、大きさも、色も、柄も、表情も、すべて違う。
「見た目は小さいんですが、ひとつだけでも、けっこう重いんです。わが家はマンションの5階なので、ここまで運んでくるのが大変で……」
 ギャラリーにいらした方が、そう教えてくれた。お聞きすると、三谷昇の娘さんとのこと。ごあいさつがてら、少しお話をうかがった。
「石は、地元の多摩川や巡業先、撮影現場で拾ってくるだけではないんです。海外公演があると、そこでも拾ってきました。裏には、描いた年月とサインがあります」

 展示されていたのは、道化石だけではない。油彩画、クレヨン画、旅先でのスケッチ、丸太に道化の顔を彫った「道化木削子(こけし)」、道化の面(おもて)などなど、その数ざっと400点!
 とにかくもう、会場のいたるところに道化が、ピエロがいる。


三谷昇画「ある道化師の死」(1984年5月)


三谷昇作「道化の面」

 1955(昭和30)年、文学座にいたころに描いた「ビュッフェの『クラウンの顔』」があった。機関紙『文学座通信』第40号(文学座、1962年9月)に寄せたエッセイ「道化の顔―画家と絵と演技―」に、この作品が紹介されている(詳細はブログ「道化の顔」参照)。
 三谷は亡くなるまで、この絵を手放さなかった。この一枚に、文学座で過ごした思い出がつまっている。ご家族はいまも、この作品を大切にされている。
 すぐそばで原画を見ることができて、とてもうれしかった。


三谷昇画「ビュッフェの『クラウンの顔』」(1955年)


『文学座通信』第40号(文学座、1962年9月)

 会場で異彩をはなつ作品がもうひとつ。紙芝居『いつのことだか どこのことだか』。『ごんぎつね』で知られる児童文学者・新美南吉の原作を、三谷が所属した「演劇集団 円」の演出家・小森美巳が脚色、三谷が絵を描いた。


紙芝居『いつのことだか どこのことだか』(作:新美南吉、脚色:小森美巳、作画:三谷昇)

 原っぱのそばにある大きな木、その前をたくさんの旅人が行き交う。ある日、木のそばに、まんじゅうが名物の茶店ができる。やどや、かじや、ランプ屋、さかなや、はきもの屋、ごふく屋、おもちゃ屋……。いつしか店が増え、楽しい町になっていくまでのものがたりだ。
 今回の展示にあわせて、紙芝居の絵が一冊にまとめられた。三谷の画家としての素顔を偲ばせる、愛すべき“脇役本”である。



『いつのことだか どこのことだか』(LaLaLa Publishing、2023年5月)

 何枚ものクレヨン画をおさめた、数冊のファイルも見せてもらった。病院のベットで描かれたもので、花を手にしたピエロといっしょに、くまとうさぎがバンザイする絵がある。いいなあ、これ。
「入院中でしたが、このころは元気でした。このファイルにあるクレヨン画が、父の最後の作品になりました」


三谷昇画「道化 ピエロ」

 東京の郊外でひっそりと、ほほえましく、かわいらしい作品展だった。会期が2週間たらずと短く、ちょっともったいない気もした。

 さて、道化石、である。
 今回の遺作展では、ご家族の厚意で、ひとつ1000円で“連れて帰る”ことができる。5個くらい、と思いつつ、手にすると1個でもじゅうぶん重い。
 よくばって、いくつも持ち帰るのも、あさましい。ひとつだけ、選ぶことにした。


「道化石」と「道化木削子」(左上)。写真右下、右から2つめの石を筆者がいただいた

 「さぁ、どれにする?」。数百もの道化石が、僕に呼びかける。う~ん、迷う。娘さんいわく、「ふと、石と目が合ったりするんですよ」。
 石の多くは、ひらべったいので、道化の視線はおのずと上を向く。そのなかにひとつ、斜め上を見つめている道化がいた。目と目が合ったわけではないけれど、この子を連れて帰ることにした。
 裏には《2010・11 N.Mitani》とある。即興で描きつつ、彩色はとてもていねい。これほど手のこんだものを、芝居仲間ひとりひとりに、プレゼントしていたのか。



「道化石」(2010年11月)

 わが家にやってきた道化石は、部屋の本棚に置いた。笑顔でちょこんと、かわいい子である。


*特記なきものは筆者撮影および所蔵資料(遺作展の展示品は三谷家蔵)